2011年3月7日月曜日

東京グローブ座は

東京都新宿区百人町にある劇場。客席数703席。1988年4月に開場。運営はジャニーズ事務所傘下の株式会社東京・新・グローブ座による。ジャニーズ事務所所属の俳優・タレント主演のミュージカル公演を中心に、他の演劇・ミュージカルの公演も行っている。公務員宿舎「新宿西戸山住宅」を解体、西戸山再開発事業の一角「民間活力導入による国有地再開発第1号」として建設された。ロンドンのグローブ座の構造を参考に、当時の様式になぞらえた張り出し舞台を、円筒状の客席が囲むように設計されている。設計は建築家の磯崎新。1988年4月8日、開場。シェイクスピア作品の上演を運営方針として、海外の劇団を招いて公演を行ってきた。1989年1月から1996年6月まで高萩宏が制作担当支配人を務めた。2000年12月31日から2001年1月1日に跨って、大江千里のライブ「BOYS&GIRLS FOREVER」が行われ、21世紀を迎えた。松下電器(現・パナソニック)の支援により「パナソニックグローブ座」として運営してきたが、赤字が重なり一時閉鎖される。

2002年、ジャニーズ事務所に買収され、2003年3月1日に嵐初主演映画「ピカ☆☆ンチ LIFE IS HARDだからHAPPY」の独占上映を行い、再開。しかしその後半年閉鎖、改装を行う。2004年、改装披露記念公演東山紀之主演「ロミオとジュリエット」で、設備の整った劇場としてリニューアルオープンした。東京60WATTSは、日本のミュージシャングループ。 1999年ごろ、立教大学の音楽サークルで知り合った大川、杉浦、佃を中心に結成。 2004年に「外は寒いから/ふわふわ」で東芝EMIからメジャーデビュー。2005年11月にavexに移籍。自主レーベル『HIKARIMON RECORD』を立ち上げる。 2006年発売のミニアルバム『clover』からは、avexと所属事務所FIVE-Dの共同レーベル『FIVE-D PLUS』所属。 派生ユニットにVo.大川とPf.杉浦の「たけお」がある。2009年に結成10周年を迎える。東京Aリスは東京で活躍しているパンクイラストレーターである。新潟県柏崎市出身。ロンドンやニューヨークなども活動するアーチストで、日本の伝統的な文化からパンクファッションまで、幅広いモチーフをアリスの独特のタッチで融合した作品が多く、海外からの評価が高い。

週刊SPA!でグラビアの連載を持つ中森明夫が、アイドルグループ「東京アリス」を結成。同名で紛らわしい事実に、東京Aリスが、名前を使用しないよう訴えたが、訴えは却下された。現在は、アナーキーを意味する「A」の字を「ア」の部分に入れ替え、アイドル「東京アリス」と区別するよう「東京Aリス」と表記していることが多い。東京DMATとは、東京都のDisaster Medical Asistance Team略してDMATのこと。医師、看護師、救急救命士、事務官から構成され、災害や事故の際にいち早く現場に駆けつけ、救命医療を提供する医療チーム。2004年(平成16年)に全国で先駆けて東京都に設置された。2005年(平成17年)には厚生労働省が「日本DMAT」を発足させた。東京DMATは隊員養成研修等で協力しているが、「東京DMATは国に従属しない」「東京DMATは国の指導は受けない」等自主独立性を強調している。東京都の「東京DMAT」以外にも全国にDMATは存在する。

2007年(平成19年)4月現在、東京DMAT指定医療機関は17施設。登録隊員数は約500名である。東京DMATは東京消防庁と連携して活動する。東京消防庁の判断によりDMAT指定医療機関へDMAT出動が要請され、受諾した指定医療機関ではDMATを編成・待機させる。東京消防庁は医療機関へ東京DMAT連携隊を派遣し、東京DMAT隊員は連携隊の専用車両に乗車して出動する(最近は病院所有のドクターカーで出動する場合も多い)。隊員になるには、東京都福祉保健局が主催する隊員養成研修を受講し、災害現場での医療ノウハウを取得することが必要となる。隊員登録は原則として東京DMAT指定医療機関に所属する医療スタッフに限られる。隊員養成研修は「BT研修(Basic Training)」「RS研修(Registered Staff training)」に分かれている。RS研修では実際に東京消防庁の救急隊と連携し、実技中心に救急演習を実施する実践的訓練を行い、既隊員に対しても都度訓練が行なわれる。

東京直下型地震を想定した大規模訓練では荒川河川敷から多数負傷者をヘリコプターで東京都立広尾病院、東京医科大学八王子医療センター、国立病院機構災害医療センター等へ搬送した。基本的には東京都内で起こる災害や事故等を対象にしているが、東海地震等の広域災害が発生した場合には都外へ出動する。2004年(平成16年)の新潟県中越地震では新潟県へ出動している。従来からある医療救護班とは異なり、東京DMATは発災現場に赴いて救命医療を行うことを目的とし、被災者に迅速な急性期医療を提供する(瓦礫の下の医療)。但し、東京DMATは災害発生現場での医療不在の状態を解消するために編成されたものであり、安全が確保された場所で医療活動を行う。ビル倒壊等の場合、崩壊したビル内からの負傷者救出はレスキュー隊が行い、負傷者が安全が確保された現場救護所等へ搬送された後の医療活動を受け持つ。東京DMAT隊員が危険な場所に踏込んで救命活動を行うことはない。

東京IT新聞 は、株式会社Impress Touchが発行しているIT業界人に向けた隔週刊の無料新聞である。2006年8月に創刊。タブロイド版(基本16ページ)で 隔週(第2・第4)火曜日発行。企業や事務所単位での申し込みを基本とし、最大5部がオフィスに無料で届けられる。公称9113社、66000部発行。紙面内容はITをキーワードとしたニュース、コラム、インタビュー、イベント情報などを掲載。ITベンチャー企業の経営者がよく登場する。4コマ漫画も連載している。東京JAZZは、毎年夏季に行われているジャズコンサートのイベントである。主催はNHK、NHKエンタープライズ、日本経済新聞社からなる東京JAZZ実行委員会。2002年にスタートし、平年は味の素スタジアムを舞台に世界各地から一流のジャズアーティストを招待し「新しい文化の発信」「ジャズの後継者への継承とその発展」「文化のクロスオーバー」の3大テーマを掲げて、国境・世代の垣根を越えたジャズの夢の共演を展開し、ジャズのすばらしさを東京から世界に広く伝えようと企画された。

2003年からはハービー・ハンコックが総合プロデュースを担当している。2004年度はアテネ五輪のテレビ中継の関係で9月に実施され、 また会場の味の素スタジアムもJリーグ公式戦開催のため使用できないので、東京ビッグサイトで開催され、インドアイベントとなった。2005年もJリーグの試合開催の都合上東京ビッグサイトでの開催された。2006年からは東京国際フォーラムに会場を移し開催されていて、関連プレライブも国内外の大物アーティスト、実力派アーティストを揃えて注目を浴びている。数多くあるプレライブの中でも渋谷『O-EAST』が打ち出すイベントは強烈である。アジア最大級のJAZZイベントという事もあり、多くのナショナルクライアントがスポンサーに名を連ねる。東京R&Dは、東京都港区に本社を置く自動車・メカトロニクス・複合材料などの研究開発を行う企業である。正式商号は株式会社東京アールアンドデー。

2011年3月6日日曜日

かつては日本放送協会や

TBSテレビ、フジテレビジョンのテレビ局ショップが出店していたが、地下商店街エリアのリニューアルを機に、日本テレビ放送網、テレビ朝日、テレビ東京のグッズショップが加わり、NHKと民間放送在京キー局5社のショップが揃うことになった。各テレビ局に足を運ぶことなく、東京のテレビ局土産が入手可能なことから、旅行客や親子連れ、キャラクター好きの若者などで賑わっている。また、東京キャラクターストリートにはいちばんプラザというイベントスペースがあり、テレビ番組やアニメーション映画の宣伝イベントなどが開催され、キャラクターの着ぐるみが登場するイベント、関連グッズの販売などが行われることが多い。テレビ東京、TBS、テレビ朝日のショップはかつてはジェイエフエーに運営委託で営業しており、同社が2010年11月25日に倒産したため、一時閉店した。テレビ東京のショップは同年12月10日、テレビ朝日のショップは12月21日、TBSのショップは12月29日に営業再開した。東京駅一番街には、「東京キャラクターストリート」区域外にもキャラクターショップが存在する。

東京キャラクターストリートよりも南寄りにリラックマのキャラクターショップ「Rilakkuma Store」があったが、2011年7月のリニューアルに伴い、東京キャラクターストリートの中に移転している。東京土産を扱う店舗でも、ご当地チョッパーマン等のキャラクターグッズが販売されている。東京キリストの教会は、東京都渋谷区にあるキリスト教団体。一世代での日本宣教と1世紀の互いに愛し合う教会を実現するという動機のもとに教会活動をしていたが、行き過ぎた規律主義が教会内で問題を起こした。国際キリストの教会(英語)は一世代での世界宣教を目指し、2000年頃13万人近くの信徒がいた。万人祭司の思想の下、一人ひとりの信徒を「弟子 (キリスト教)(英語)」と定義し宣教と牧会などを務めた。結果、1979年の時点で30人だったのが、1999年5月で158カ国に358の教会が設立された。東京キリストの教会は1989年に主流派キリストの教会の代々木八幡キリストの教会から分離して約80人で発足、2000年頃には1000人近くの信徒数に増加した。

しかし、急激な増加に比例して指導者の信仰は成熟せず、多くの信徒が教会を去った。さらに、信徒数の増加に伴い、会衆制の上に監督制をかぶせる教会政治の制度の歪が取り返しがつかないほど、大きくなった。異教徒との結婚を厳しく禁じ、男女間の交際は信徒に限定される。信徒同士の結婚に教会として関与する。結婚前の男女の交際関係をステディー(steady) と呼ぶ。ステェディーは結婚関係に成長することが期待されている。交際が深まらず、別れる――ブレーク(break) と呼ばれた――が、これも教会の指導者が関与する。教会として独身信徒にはマンションかアパートを借りての共同生活を勧め、独身の信徒が共同生活をするケースが多かった。東京キリストの教会の至上命令は宣教であり、個々の信徒は、イエスの「弟子」であり宣教者でもある。つまり、教会全体が一つの宣教団と位置付けている。全盛期は1000名を超えていた信者数も現在は三分の一くらいに減っている。

「キリスト教年鑑2008」「キリスト教年鑑2009」では東京が300名、大阪は40名と記載されている。東京では実際の礼拝出席者は230人程度。かつての激しい宣教や厳しい礼拝への出席義務は課されることはない。賞与時期の特別献金も、現在はかつてほどの強制感はない。体制崩壊後、かなりの数の信徒が教会内の異性間で結婚し、子供をもうけている。よって、現在の教会活動は子育てに主軸がおかれている雰囲気がある。同じ教会内の異性と結婚するため、絶対数として相手を見つけることの出来ないのが現状。その傾向は地方教会においては顕著であり、地方の独身者は定期的に独身者の多い東京へ行き、出会いを求めてデートを行っている。教会外に結婚相手を求め、教会を去った信徒が多い。『異端見分けハンドブック』(プレイズ出版、1998年初版、2004年2版)で著者の尾形守は東京キリストの教会を「異端かどうか議論されてきていて警戒されている団体」とする。ナサニエル・ホーソン著『緋文字(スカーレットレター)』では17世紀中頃の米国・ボストン近郊にあるピューリタンの律法に厳格な社会生活が描かれ、姦通の罪を犯した女性がさらし者になる。

これと似た異常なことが東京キリストの教会でも起こった。「他の教派の教会の信徒を奪ったから信徒数が増加した」との批判がある。初期の頃、他の教派で洗礼を受けた人が少数だが存在して「再洗礼」の問題が生じた。しかし、受洗者に信仰がないことを確認し、洗礼を授けていた。「東京キリストの教会は他の教会を乗っ取るから、日本のキリストの教界は警戒すべき」との批判がある。戦後間もなく、ジョージ・ガーガナスが東京キリストの教会の前身である代々木八幡キリストの教会を設立。同氏は、宗教法人代々木八幡キリストの教会の代表のまま米国に帰国後、キップ・マッキーンのボストン・ムーブメントに参画。1986年に再来日し、宗教法人の代表として教会再建を目指した。この時、信徒数は20人ほどに減少しており、教会の会議室で日本語学校(青山スクールオブジャパニーズ)が授業を行い、事業収益を得ている問題が生じていた。

1988年、ミッションチームがボストン・ムーブメントに属するサンフランシスコの教会から派遣され、同年の総会で従来からいる教会員から不満が出たが、翌年、主流派キリストの教会から分離し、東京キリストの教会として再出発することになった。反発した元からいた教会員は主流派のお茶の水キリストの教会に合流した。初期の頃、合流せず、東京キリストの教会と一緒に礼拝する元からいた教会員がかなりいたが、教会内で別の礼拝を行うこともあった。その後、日本語学校とは裁判所で争い、金銭を払う形で立ち退きが決まった。過去の有給スタッフは自主的な辞任に追い込まれた。地方教会では東京の教会内での混乱が時間差で起り、現在は有志の信徒と不定期に東京から送られるスタッフによって活動が保たれている。かつての宣教や厳しい規制、ディサイプリング制度は自然消滅した。地方教会の中で一番大きい大阪の教会は2004年の有給スタッフの辞任以降、現地の有志による教会運営が続けられている。

大阪では「奉仕者団体」と呼ばれる5人ほどのグループが出来て、礼拝の進行、献金の管理を行っている。説教は信者が順番に担当し、不定期に東京から有給スタッフが来て説教を行っている。かつて60名ほどいた信徒は現在は半数ほどとなり、そのほとんどが子持ちの既婚者である。よって教会活動も子育てが主軸となっている。独身で結婚を望むものは先述の通り東京に出会いを求めてデート訪問を不定期にしている。

2011年3月5日土曜日

プロリーグ参加はあきらめず

1946年(昭和21年)8月、元プロ野球選手だけではなく大相撲の力士経験者なども参加して、将来のプロ化を目指したセミプロ組織として結成。社会人野球チームとの練習試合をこなし続けていた。だが、選手内で竹内監督に対する不信感が強まったため、竹内監督は辞任。その後、石本秀一監督を迎えて広島県広島市でチームを再建しようとしたが、茨城県結城市に本拠を移転。後に1947年(昭和22年)1年間だけ存在した日本第2のプロ野球リーグとなる「国民野球連盟」に「グリーンバーグ→結城ブレーブス」として参入した。東京カメラクラブは、写真家などの団体。正式な名称「東京カメラ倶楽部」は商標登録がなされている。代表は写真作家田村彰英[ニューヨーク近代美術館、東京国立近代美術館などに、作品が永久保存され、黒澤明監督の映画「影武者」「乱」「夢」「8月のラプソデー」など15年間スチールカメラマンを歴任。黒澤監督からの信頼も厚かった]田中長徳、ハービー山口のように日本を代表する著名なプロカメラマンの他、アーティストのアルフィー坂崎幸之助、東儀秀樹等が名を連ねている。

会員バッチとクラブ旗のデザインは、富士山と東京都庁舎・東京タワーおよびレンズの絞りなどで構成されている。なお、クラブ旗は田中が旧ソ連の専門工房に発注したという金細工の入った豪華なもので、会員バッジも香港の専門業者による非常に凝った造りである。また写真入りのプレスカードは国内のみならず海外の取材先などでも認識されており通用する。東京ガスエンジニアリングは1974年に設立されたガス体エネルギーの製造・利用・供給を中心とした業務をする東京ガスグループの企業である。東京ガスサッカー部について、以下の2つがあり、それぞれこの記事内で記載する。東京瓦斯株式会社のサッカー部として1935年に創部され、1985年に第19回関東社会人サッカー大会で優勝し、1986年より関東サッカーリーグに昇格。1990年に第14回全国地域サッカーリーグ決勝大会で優勝し、1991年に日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。調布市議会にて「プロサッカーチーム誘致に関する決議」がなされ、同市によるプロサッカーチームの誘致活動が始まった。

東京都のサッカーチームとして最上位のカテゴリーにいた東京ガスサッカー部は、同市や東京都サッカー協会から、東京ガスサッカー部を母体とするJリーグクラブを作るよう要請を受けた。東京ガスサッカー部代表としてJFLの評議員を務めていた上原英治は、この要請を好意的に受け取るも、時期尚早だとして慎重な姿勢をとった(川淵三郎の項目にも一部経緯が記されている。)。これ以後、元東京ガスサッカー部監督でサッカー部部長の鳥原光憲を中心に、Jリーグ参画に向けての足固めと強化を図っていった。『東京ガスフットボールクラブ』に改称しJリーグへの参加を表明。6月に「東京フットボールクラブ創設準備事務局」を発足させ、上原英治、鳥原光憲、村林裕、城福浩などがこれに参加した。チームはJFLで準優勝してJリーグ昇格条件である2位以内に入るも、準会員資格を有していないため、Jリーグへの昇格は見送られた。大塚から加入したDF本吉剛が、浮氣哲郎(市原へ移籍)の穴を埋め、DF藤山竜仁、大卒新人のMF浅利悟と共にベストイレブンに選出された。

その年の天皇杯では名古屋・横浜M・平塚のJリーグ勢3クラブに勝利してベスト4へ進出。準決勝(鹿島戦)では創部以来初めて国立(霞ヶ丘陸上競技場)の地を踏んだ。春には翌年からクラブ名称が『FC東京』になるとともにプロクラブ化し、新たに2部制となるJリーグ ディビジョン2(J2)へ参加する事が決定。JFL最終年となったこの1998シーズンは、MF岡島清延(引退)の穴埋めに苦しみ一時停滞するも、終盤に12連勝をする追い上げを見せ、最終節で川崎フロンターレを逆転してJFL初優勝を果たした。しかし、Jリーグ準会員ではなかったため、J1参入決定戦へは参加できなかった。10月1日(この日は都民の日とされている)に、東京瓦斯、東京電力、エーエム・ピーエムジャパン、テレビ東京、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(TSUTAYA)、日本石油、清水建設、三菱商事の8社を中核に、計161団体の出資で運営法人『東京フットボールクラブ株式会社』を設立。1999年より発足したJ2へ参戦し、東京ガスサッカー部としての歴史に終止符が打たれた。

1999年よりFC東京の名称でプロクラブ化した東京ガスフットボールクラブは、Jリーグ仕様のチームを作るべく更なる体制の強化を図ることとなった。これにより、社員選手の何名かは「社業復帰」を余儀なくされたため、彼らを中心としてサッカー部を創部し、「東京ガスサッカー部」の名称で東京都社会人サッカーリーグへ参加している。東京ガス硬式野球部は、東京都に本拠地を置き、日本野球連盟に所属する社会人野球チームである。1927年の創部であり、現在活動中のガス会社3チーム(他には東邦ガスと大阪ガス)の中で最古参。1974年から5年連続で都市対抗野球大会に出場するなど隆盛を極めた時代もあった。2009年の都市対抗野球大会では、8年ぶりに東京地区代表となり、8強まで進んだ。『東京ガールズブラボー』(とうきょうガールズブラボー)は、岡崎京子による日本の漫画作品。ファッション誌である『CUTiE』(宝島社)にて、1990年12月号から1992年12月号までの2年間連載された。1980年代前半の東京を舞台に、著者が先だって発表した『くちびるから散弾銃』の主人公3人の、パンク、テクノポップ、ニュー・ウェーブ、自販機本といったサブカルチャーに彩られた高校生時代を描いている。

サカエは両親の離婚によって、母親に連れられ北海道から憧れの東京に引っ越してきた。東京は夢見ていたほどカッコよくもなく、ババァは口うるさいけれど、なっちゃん・ミヤちゃんと出会い、サカエは東京生活を謳歌する。クラブに夜遊びに出かけたり、賞金目当てで徹夜で漫画を描いたり、バイト感覚でエロ本の編集部に行ったり、イジメの犯人を突き止めたり…。しかし東京と、そして友達との別れは突然にやってきた。東京キネマ倶楽部は東京都台東区にあるライブハウス。大正時代のダンスホールを設定された施設はコンサート、パーティーなどのイベントスペースとして利用されている。また毎月第3土曜日に無声映画の上映会が行われている。2001年からは毎年年末にEGO-WRAPPIN'によるライブ「Midnight Dejavu@東京キネマ倶楽部」が行われている。2000年からは、東天紅「鳳凰の間」に代わる常打ち会場を探していたJWP女子プロレスが使用するようになり、以後各プロレス・格闘技団体が利用するようになった。最大300名収容可能である。

東京キャラクターストリートは、東京都千代田区の東京駅八重洲口側に立地する商業施設、東京駅一番街の地下街エリアにあるキャラクターグッズ専門店街。2008年3月8日に開店した。テレビ局のキャラクターグッズショップ、『ウルトラマン』や『あらいぐまラスカル』『スヌーピー』などのキャラクターグッズ専門店、トミカやレゴの専門店など、キャラクターショップ18店(2011年4月以前は14店)とカフェ1店が、約80mの通路を挟んで軒を連ねている。

2011年3月4日金曜日

東京での開催に

大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途で病死するに至り、日本政府は1938年7月15日の閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円以上にのぼる。代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催できなかった。こうしてオリンピックの準備はひとまず中止され、組織委も大幅に縮小された。しかし、すでに工事をはじめ、竣工寸前であった東京市芝浦埋立地の自転車競技場(現存せず)と、埼玉県戸田のボートコース(戸田漕艇場)は1939年までにできあがり、使用された。自転車競技場の建設にあたっては、市内主要大学の学生3407名を中心とする帝都青年労働奉仕団が作業を担当した。また、駒沢(今日の駒沢オリンピック公園敷地)に主会場をおく案はそのまま1964年大会に生かされた。なお、中止運動の急先鋒に立っていた河野一郎は、1964年大会開催に当たって池田内閣で「オリンピック担当国務大臣(兼建設大臣)」を務めた。

これは、その前歴を知る池田勇人が「以前開催に反対した人間の言うことなら皆従うだろう」という意向で起用したともいわれる。本大会開催が決定した1936年7月31日のIOC総会についての報道で、読売新聞が見出しの文字数制限からオリンピックを略そうと考えたのが「五輪」言い換えの始まりである。発案者は当時運動部の記者であった川本信正。川本によると、五輪旗の五つの輪と宮本武蔵の『五輪書』からこの略称を思いついたという。1940年のオリンピックを争った3都市は、第二次世界大戦後にヘルシンキ→ローマ→東京の順で開催を実現している。東京オリンピックの閉会式は大会最終日の1964年10月24日土曜日に国立競技場で行われた。通常・オリンピックの閉会式は日曜日に行われるが、時差の都合で土曜日となった。場行進では誘導のトラブルから国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場した。選手の中には公式スーツではなくユニフォームで参加する者もいた。

このとき、NHKテレビで実況を担当した土門正夫は予定外の状況に戸惑い(後に『ありゃ、これは何なんだ』と入場行進で入ってきた選手を見て仰天したことをテレビ番組で語っている)、カメラに映し出される情景を随時伝えていった。予定されていたプログラムと大きく離れたことから、他の中継スタッフともども大変な放送をしてしまったという思いを抱いていたが、終了後に渋谷の放送センターに戻ると他の職員から賞賛の拍手を受けることになったという。オリンピック憲章に従い、オリンピック発祥の地ギリシャ・今回の開催国日本・次回開催国のメキシコの国旗が掲揚され、安川第五郎大会組織委員会会長の挨拶、そして、アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会会長の挨拶で、閉会の宣言をし、15日間にわたって掲揚されていた五輪旗が降ろされ、聖火が納火された。そして場内が暗くなると大会の成功を祝う花火を打ち上げ、電光掲示板には「SAYONARA(さよなら)」「MEET AGAIN IN MEXICO(メキシコでまたお会いしましょう) 1968」と表示され、蛍の光の大合唱で東京オリンピックの全日程が終了した。

東京オリンピック記念貨幣とは、1964年(昭和39年)10月10日より開催された、第18回夏季オリンピックである東京オリンピック大会を記念して、発行された銀貨であり、記念貨幣としては日本初のものである。1000円銀貨および100円銀貨の2種類が発行された。日本で初の開催となった第18回夏季オリンピック東京大会の記念貨幣の発行が、1964年2月14日、池田首相の決断により閣議決定された。当初は100円銀貨を発行する計画であったが、当時高度経済成長真っ只中にあり、通貨需要が飛躍的に伸び通常貨幣の大増産を行っている中、造幣局における100円銀貨の製造能力の関係上、直径、量目および材質は100円通常貨幣と同等のものとし、1964年度の100円貨幣発行計画分8000万枚を全て記念貨幣とし、既存の設備を流用して図案のみ変更して発行することとなった。また当時、電子部品配線用および写真感光材料など世界的な銀需要の伸びの背景による銀貨発行の制約もあった。しかし東京オリンピック組織委員会の強い要望により、より高額でサイズの大きな銀貨の発行が検討された。

当時、臨時補助貨幣として規定されていた有効な貨種は1円、5円、10円、50円、100円の5種類であったため、1000円の額面の貨幣を発行するためには特別立法が必要であった。そのような状況の中4月20日に「オリンピック東京大会記念のための千円の臨時補助貨幣の発行に関する法律」(昭和39年法律第62号)を制定するに至り1000円銀貨の発行となった。造幣局内での貨幣製造は繁忙を極めていたため、この1000円銀貨製造では円形作成までの段階の作業は民間業者に委託された。発行枚数は、1000円銀貨は各世帯に1枚、100円銀貨については国民一人当たり1枚を目安として決められたものであった。100円銀貨の図案は公募によるもので2月21日に新聞、テレビ、ラジオ、官報などで広報され、4月6日に応募作品3万0512点の中から聖火および五輪をデザインに取り入れた前島昌子の作品が1席に入選となり採用された。1000円銀貨の図案は造幣局内で作成され、日本を象徴する富士と桜をデザインしたものである。

東京カッブスは、1945年〜1946年頃、日本野球連盟に加盟を目指しながら、加盟が実現しなかったプロ野球チームである。ニックネームの「カッブス」のスペルはCubsであり、シカゴ・カブスなどと同じ意である。太平洋戦争の激化に伴い休止となっていた日本のプロ野球は、1945年(昭和20年)10月には、翌年のリーグ再開に向けて動きだしていた。この時リーグ参加が決まっていたのは、戦前最後の1944年(昭和19年)のリーグ戦に参加した6チームに、セネタース(現・北海道日本ハムファイターズ)を加えた7チームだった。そのような中、戦前(後楽園)イーグルス→黒鷲軍→大和軍(1937年 - 1943年)の運営に携わった河野安通志はイーグルスの再結成を念頭に、東京カッブス(東京野球株式会社)を設立し、プロ野球加盟を申請する。球団社長は河野、球団代表は小泉葵南(東京日日新聞〔現・毎日新聞〕などで活動したスポーツ記者)、監督は戦前に朝日軍の監督を務めた竹内愛一だった。

しかしこの加盟申請は、当時の東京巨人軍球団代表市岡忠男の強硬な反対に遭う。1943年、プロ野球自体はまだ続いていたにも拘らず河野は大和軍を自主的に解散した、ということがその理由だった。球界の中心的存在だった巨人軍の反対のため、カッブスの加盟申請は正式な審査にかけられることもなく却下されてしまう。当時日本野球連盟会長の鈴木龍二は、連盟に入れてやりたかったが、河野の取り巻きが悪かったと述べている。代わりに加盟することになったのは、ゴールドスターだった。また、この間に河野は脳出血で急死してしまう。

2011年3月3日木曜日

1992年から準備段階の

東京オペラシティビルの芸術顧問であった作曲家の武満徹の名前を冠している。シューボックス型の平面、変形ピラミッド型の天井、2層のバルコニー席、天井に採光窓を持ち、ピラミッド状の反射版がステージ上部に浮かぶ。内装はホワイトオーク。東京オリンピックは、1940年9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市で開催される予定であった夏季オリンピック。日中戦争の影響により、日本政府が開催権を返上したため開催されなかった。また代替予定地のヘルシンキでの開催も、第二次世界大戦により行われなかった。1929年に、日本学生競技連盟会長の山本忠興は来日した国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と会談し、日本でのオリンピック開催は可能か否か、という話題に花をさかせた。このエピソードが東京市当局や永田秀次郎東京市長にも伝わり、にわかにオリンピック誘致の機運が高まってきた。翌1930年にドイツで開催された世界学生陸上競技選手権から帰国した山本は、「オリンピック東京開催は俄然実現可能である」との調査報告書を市長あてに提出した。

1931年10月28日、東京市議会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択された。主会場には、東京府荏原郡駒沢町(現:東京都世田谷区)の駒沢ゴルフ場の跡地に計画の競技場群、および神宮外苑を充てるとした。永田市長は欧州駐在特命全権大使や公使、さらにはジュネーヴの国際連盟事務局次長だった杉村陽太郎に宛てて招致運動への依頼状を送り、国内においては体育関係者、東京商工会議所に協力を依頼した。またアメリカ留学経験を持つ市会議員を派遣し、ロサンゼルスで開催されるIOC総会出席者への運動を行わせた。1932年に行われた当該総会の席上、日本代表はIOC会長に対し正式招待状を提出。こうして東京は、ローマ(イタリア)、バルセロナ(スペイン)、ヘルシンキ(フィンランド)、ブダペスト(ハンガリー)、アレキサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)とともに、第12回国際オリンピック競技大会開催候補地として正式立候補したのであった。

冬季オリンピック開会式に臨む(右から)ヒトラー、アンリ・ド・バイエ=ラトゥール、ルドルフ・ヘス1940年大会の開催地を決定する1935年のIOCオスロ総会では、東京、ローマおよびヘルシンキの3市の争いとなった(開催都市は、その5年前の総会で決定するとするのが当時のルールであった)。東京開催の障害要因としては「夏季の高温多雨」、「欧米から遠く離れていることによる旅費・時間の問題(当時欧米以外において国内オリンピック委員会を持つ独立国は、アジアでは日本と中華民国、アフガニスタン程度で、植民地ながら独自の国内オリンピック委員会を持っていたイギリス領インド・アメリカ領フィリピンを加えても10にも満たず、他にも南アメリカ諸国やオセアニアなどごく少数であった)」が挙げられた。東京市は前者に関しては、例えばフランスのマルセイユに比べてもはるかに涼しいこと、後者に関しては参加希望国当たり100万円の補助を行うことを述べて反論したが、それを受けて他の2市も同様の旅費、宿泊費補助プランを公表するなど、招致合戦は白熱した。

日本は友好国であったイタリアのベニート・ムッソリーニ首相に直接交渉を行い、ローマの辞退を勝ち取ったが、総会は会期切れとなり、開催地決定投票を翌年のベルリンに延期するという異例の展開となった。オスロ総会後、東京市はさらなる招致活動費用として、85,926円を計上した。翌1936年3月、IOC委員長アンリ・ド・バイエ=ラトゥールの来日を迎え、好感触を得た。ベルリンのホテル・アドロンで同年7月29日より行われたIOC総会における7月31日の投票の際には、日本の招致委員会を代表して柔道創設者の嘉納治五郎が演説した。結果として東京36票、ヘルシンキ27票で東京開催が決定した。日本のみならずアジアで初、有色人種国家としても初のオリンピック招致成功をうけて、1936年12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、元貴族院議長でIOC委員の徳川家達公爵が委員長に就任するなど本格的な準備に着手した。

その後は東京開催準備が進行した(国際博覧会も同年開催が予定された)。東京を中心とした都市美観工事やホテル建築、国際的土産品の新製、職員への英語教育などが計画、実行され、政府からは延べ55万円に及ぶ補助金が出された。主会場には、神宮外苑に10万人規模のスタジアムを建設することを計画したものの、明治神宮外苑を管轄する内務省神社局がこれに強硬に反対したため、東京市荏原郡駒沢町の駒沢ゴルフ場の跡地にメインスタジアムを建設することとなった。また、ベルリンオリンピックで試験的に実現したテレビ中継の本格的実施をもくろみ、日本ラジオ協会と電気通信学会が、東京の各競技会場と大阪、名古屋を結ぶ中継を行うべく開発を進めることとなった。さらに日本政府は、冬季オリンピックを北海道札幌市に招致することを目指して招致活動を継続した結果、1940年に第5回冬季オリンピックとして札幌オリンピックが開催されることに決定した。1938年に入ると日中戦争の長期化が予想されるようになったために、鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫を理由に、軍部が「木材か石材を使え」などと無理な注文を出した上に、杉山元陸軍大臣が議会においてオリンピック中止を進言するなど、反対の態度を鮮明にした。

さらに河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。それまでオリンピック開催を盛り上げる一翼を担ってきた読売新聞や東京朝日新聞などでは、オリンピック関係の記事がこの年から打って変わって縮小している。さらに、軍部からの圧力を受けた近衛文麿首相は、6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中にオリンピックの中止が明記されていたことから、事実上オリンピックの開催中止が内定した。しかしカイロ総会前には、中国大陸における利権をめぐって日本と対立していたイギリスやイギリス連邦でイギリスの事実上の属国のオーストラリアだけでなく、大会開催権を争っていたフィンランドからも中止(とヘルシンキでの代替開催)を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国は開催都市変更を要望してきた。この様な状況下にあるにもかかわらず、「中国大陸での動乱が収まらなかった時は中華民国の選手の出場はどうするのか」という質問に対し、カイロ総会に至っても軍部のプレッシャーを受けて足並みが揃わなかった日本側委員は満足な回答をすることができず、外国委員を失望させた。

また、イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任してしまった。さらにド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が150通も寄せられており、ついにド・バイエ=ラトゥール伯爵から日本に対し、開催辞退の話が持ちかけられてきた。

2011年3月2日水曜日

東京アンダーグラウンドは

有楽彰展による日本の漫画作品。1998年から2005年にかけて『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)にて連載された。単行本は全14巻。2000年から2003年にかけては嶋田純子による小説版が出版された。2002年にはテレビアニメ版が放送された。現代日本の東京の地下に秘密の地下世界が存在しているという設定を背景に、地下世界から逃げてきた2人の美少女との出会いがきっかけで、地下世界の陰謀に巻き込まれることになった男子高校生の冒険を描く漫画作品。劇中のほとんどの場面は人工物に囲まれた、照明に乏しく薄暗い地下世界を舞台としている。主人公および地下世界の登場人物たちは、地水火風などといった何らかのエネルギー(属性)の力を操ることのできる能力者という設定で、主人公らはこの力を武器に戦い、戦いを経て仲間を増やしつつ、連れ去られたヒロインを取り戻すため、地下世界を支配している勢力に立ち向かっていく。著者の有楽によれば、地底世界の描写は無国籍な近未来世界のイメージを意図しており、影響を受けた作品として1982年のアメリカ映画『ブレードランナー』を挙げている。

登場人物の名前に中国風のものが多いのは、東京新宿区歌舞伎町のイメージからの着想であるという。物語の舞台に地底世界を選んだのは、当時の担当編集者と話し合いながら現実味のある作品世界を模索する中で、編集者が話題にした地下世界を舞台にしたテーブルトークRPGから着想を得たことや、街中で見かけるマンホールの下にある世界へと想像を膨らませていった結果であるとしている。東京アートは、「日本卓球リーグ実業団連盟」所属の卓球実業団チーム。男子チームは遊澤亮選手兼任監督を筆頭に、日本卓球リーグの常勝集団を形成。所属選手としては韓陽・大森隆弘・大矢英俊・高木和卓や2008年に帰化した張一博らがいる。また女子では四元奈生美も東京アート所属選手である。会社そのものは、『第3のメディア「歩く広告塔」を目指します』をキャッチコピーとし、パッケージやショッピングツールの企画提案型企業として特にファッション業界で多数の有名ブランドのペーパーパックを含み2千種以上の商品を手掛けている。

東京インターチェンジは、東京都世田谷区にある、東名高速道路起点にあるインターチェンジ。本項では隣接している首都高速3号渋谷線の用賀出入口(ようがでいりぐち)についても併記する。1968年4月25日:東名高速道路の 東京IC - 厚木IC が開通。1971年12月21日:首都高速道路の 渋谷出入口 - 東名ICが開通(首都高速接続 - 東京ICランプまでの東名高速道路本線はこの日まで未開通であったので、厳密に東名高速道路の全線開通もこの日である)東名高速・東京IC側には料金所は設置されておらず、約6km先の東京本線料金所が実質の入口料金所となる。首都高速・用賀入口側すぐのところに用賀本線料金所があり、東名高速から来た車および用賀入口から入ってきた車が通過する。東京ウォーキングマップは、2001年4月15日より2009年12月27日までTBSで放送された紀行・情報のミニ番組。制作はTBSとカノックス。関東ローカルの放送。通常の放送時間は毎週日曜朝5:15 - 5:30(毎月最終日曜は4:45 - 5:00)だが、番組編成の都合で前後にずれることがしばしばあった。

放送回数は全436回。毎回“散歩師”と呼ばれるパーソナリティが、徒歩や電車・バスなどの身近な交通機関を使い、数時間から一日程度で散策・周遊できる範囲の地域をひとつのテーマに沿って紹介する。タイトルには「東京」とあるが、実際は東京を中心に広く関東圏一円の地域を取り上げており、都会の風物ばかりではなく、ひなびた地方都市の風情や豊かな自然の情景など、バラエティに富んでいる。東京エレクトロン株式会社は、東京都港区赤坂に本社を置く、半導体製造装置およびフラットパネルディスプレイ製造装置をビジネスとする会社である。東京証券取引所一部上場。子会社の東京エレクトロンAT、東京エレクトロン九州、東京エレクトロンソフトウェア・テクノロジーズなどが開発・製造する半導体製造装置およびフラットパネルディスプレイ製造装置のシェアは、日本で第1位、世界で第3位である。2つの文化施設の命名権を取得している。なお、ハンドドライヤー(エアータオル)を製造する同名の会社(本社・東京都多摩市)も存在するが、関連は一切ない。

東京エレクトロン山梨株式会社は、山梨県を拠点とする東京エレクトロングループの企業である。東京エレクトロンの業務内容のうちSiやLCDなどのエッチング部門を独立する形で設立された。現在の拠点は山梨県韮崎市であるが、近年は段階的に宮城県宮城郡松島町へ移転させており、2010年には東北自動車道・泉ICからほど近い宮城県黒川郡大和町小野地区の「大和リサーチパーク」内に移転し、新工場が稼動するため山梨側より700人の従業員と30社の関連会社を2010年度までに移転することが決定していたが、2008年後半からの世界的不況による半導体不振の影響から当面の間延期することが発表されている。一方で韮崎市の施設の一部がシャープとの合弁会社である「東京エレクトロンPV」の拠点として使用されることが発表されている。東京エレベーターガールはTBS系列で1992年1月10日~3月20日に放送されたテレビドラマである。東京近郊のデパートを舞台に、初めて社会に出た20歳の女の子が仕事、友情、恋愛を通して成長していく姿を描いた。

ロケは多摩そごう(2000年閉店、現在の三越多摩センター店)で行われた。ただし、実際の同店にはエレベーターガールはいなかった。東京オフィス株式会社は法人向けの賃貸オフィス検索サイトを運営するコンテンツ配信会社。東京都内の港区、渋谷区、新宿区、文京区、目黒区、豊島区、中央区、千代田区、品川区、江東区、墨田区、世田谷区、中野区の主要14区のオフィスビルの空室データを無償でWEBに公開している。東京オペラシティは、東京都新宿区西新宿三丁目にある複合文化施設。当地は、元々は東京工業試験所、小田急百貨店配送センター、淀橋電話局、京王バス操車場、他であった。東京オペラシティは、1985年の国際設計競技による柳澤孝彦TAK建築・都市計画研究所設計の新国立劇場と、NTTファシリティーズ+都市計画設計研究所+柳澤孝彦TAK建築・都市計画研究所の共同設計による民間の超高層複合施設東京オペラシティビルからなる街区の名称。しばしばこのうちの民間建物部分を指す。

両者は、ガレリアと呼ぶ高さ20m・長さ200m、3層の半外部空間でつながる。空調などの設備は隣のNTT東日本本社ビルと共用の地域冷暖房プラントを持ち、山手通り下の地中で繋がっている。また、利用者の歩行者ネットワークとして山手通り横断橋でも2階レベルで繋がっている。民間部分は東京オペラシティビル株式会社と財団法人東京オペラシティ文化財団とにより管理・運営されている。

2011年3月1日火曜日

県庁周辺には

かつての下総国守護所があった亥鼻城跡を囲むように、千葉県警察本部、千葉市消防局、千葉地方検察庁・千葉区検察庁、千葉地方裁判所・千葉家庭裁判所など行政機関が集中する。一方、市街地は地場資本の奈良屋(後に専門店ビル・セントラルプラザ)・田畑(現・千葉パルコ)・扇屋(後にジャスコ傘下入り)といった百貨店が並び、ダイエーや丸井、十字屋、緑屋が進出するなど活況を呈していたが、現在では空洞化が深刻化しダイエー千葉店、セントラルプラザなどが次々に閉店し、その跡地はマンションや駐車場が造られ、また、市街地から少し逸れた中央区栄町地区は、かつては県下一の賑わいを誇っていたが、千葉空襲で焼け野原となったあと、風俗店、キャバレー、小料理屋などが集中する歓楽街と化し、国鉄千葉駅が現在の位置に移転した後は商業拠点としては完全に衰退している。現在の栄町には韓国系商店や風俗店(ソープランド・店舗型ヘルス・ホテルヘルス・風俗案内所・デリヘル)が目立つ地域もあり、日本有数のソープ街・コリアンタウンとなっているが、市は地元商店会と共に栄町の再生に取り組み始めている。

市域の殆どで広義の京成グループの会社の手による路線バスが運行されている。また、公営交通(市営バス)の運行実績はない。乗車方法は一部の均一路線を除き、基本的に後乗り前降り後払い方式。運賃は整理券を用いた区間制を採っている。市内に於いて、バス共通回数券は現在発行されていない。ただし、東洋バス・千葉シーサイドバス・九十九里鉄道を除く各社では非接触型ICカードであるPASMO・Suicaが利用できる。もともとの市外局番は「0472」だったが、政令指定都市昇格4週間後の1992年4月29日から「043」に変更され、市内局番は200番台になった。新規加入は300番台が割り当てられる(ちなみに市外局番「0434」であった佐倉市、四街道市、八街市なども同日に「043」になり、市内局番は400番台になった)。 ただし、花見川区の八千代市に接している一部の地域(柏井町・柏井・横戸町・横戸台など)は買い物等の生活基盤が八千代市であること等を理由に住民の希望(NTTの都合の説もあり)で市外局番が「047」(変更前は0474-8nで単位料金区域も八千代市扱い)となっており、同じ千葉市内でありながら「043」地域から「047」地域に電話をする際(逆も)には市外局番からかけなければならない。

「花の都・ちば」のシンボルキャラクターとして、ちはなちゃんが使用されている。パンフレットや看板などによく印画されているため、街中でも見る事ができる。千葉市内の自治体や非営利団体・企業等が運営する地域SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)あみっぴぃ(2006年開設)西千葉駅地域を中心とした西千葉コミュニケーションサイト。ちばうぇ~ぶSNS(2006年開設)千葉市を対象とした地域ソーシャルネットワーキングサイト。北千葉導水路は、利根川と江戸川を結ぶ水路(流況調整河川)である。千葉県印西市と我孫子市の境界付近において利根川と、千葉県松戸市において江戸川に接続する人工河川で、1974年に着工し2000年に全体が完成した。全長28.5kmで、そのうち地下水路は22.2kmを占める。最大導水量は約40m³/s。事業主体は国土交通省。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐(ふさ)の境界付近を起点(第一機場)とし、手賀川・手賀沼沿岸に沿って西に延びる。

手賀沼の西端の柏市戸張新田付近には第二機場があり、そこから一部の水は手賀沼に流される。水路はさらに大堀川沿いに遡り、大堀川注水施設を経て水路は南に延びる。流山市に入ると水路は坂川として流れ、松戸市の坂川放水路(第三機場)から江戸川へと注ぐ。利根川河口堰と共同運用する事により、河口堰によって貯められた水の一部を江戸川へと送水することができるため、利根川下流部の水を首都圏に送水することを可能にしている。北千葉導水路が完成するまでは、利根運河が「野田導水路」として暫定的に江戸川への送水を担っていた。また、第二機場から一部の水を手賀沼へと放水することにより、水質が悪い手賀沼の水を押し流すか希釈させることができる。そのため、手賀沼の水質向上が期待されており、改善の兆しが見られたが、手賀沼の水質汚濁そのものは依然として高水準にある。千葉県立房総のむらは、千葉県印旛郡栄町と成田市に跨る所に位置する県立の体験型博物館である。

伝統的な生活様式や生活技術を再現、展示しており、県民がそこを訪れそれらを直接体験することによって、地域の文化を新しい視点で見直し、より豊かな文化を創造する事を目的に、昭和61年、※房総風土記の丘に隣接する場所に開館した。平成16年4月、房総風土記の丘と統合。総面積約32ha の敷地内には、復元古墳「竜角寺古墳群第101号古墳」など古墳78基のほか資料館がある。また、明治32年(1899年)建造の学校建築である重要文化財「旧学習院初等科正堂」(成田市)と、安永9年(1780年)に安房郡丸山町(現・南房総市)に建てられた重要文化財「旧御子神家住宅」(成田市)、寛延4年(1751年)に富津市亀沢に建てられた県指定有形文化財「旧平野家住宅」(印旛郡栄町)の2棟の民家建築が移築公開されている。JR東日本成田線 安食駅から千葉交通バス竜角寺台車庫行き約8分(210円)「房総のむら」バス停下車、徒歩8分。ニュー東豊 栄町循環バス(安食循環左廻り)「風土記の丘資料館前」「学習院正堂前」「ドラムの里」バス停も利用可能。 ※休日、年末年始運休。

JR東日本成田線 下総松崎駅から徒歩約30分。千葉荘は、中世の下総国千葉郡(現在の千葉県千葉市中央区及びその周辺)に存在した荘園。『吾妻鏡』承元3年12月15日条に書かれた千葉氏の由来の件より、元永年間に「千葉大夫」と称された平常兼あるいはその子常重が開発領主となって開いた荘園を鳥羽院に献上して平常兼(あるいは常重)は同荘の検非違所になったと推定されている。後に鳥羽院の娘である八条院に継承され、引き続き荘官として同荘を支配した平常重は大治元年(1126年)に荘内の池田郷に亥鼻城(千葉城)を築いて上総国山辺郡の大椎館(現在の千葉市緑区大椎町)から拠点を移し、千葉氏の祖となった。建久年間に作成されたとみられる「香取社遷宮用途注進状」によれば、“千葉庄三百斛”の負担をしたことが記されており、同文書内に八十斛の負担をしたと記されている船橋御厨が200町の面積があった(『神鳳鈔』)とされているため、そこから算出しておよそ750町(約7.438km²)の面積を有していたと推定され、千葉郡のうち都川流域の池田郷(現在の千葉市中央区亥鼻・千葉寺町一帯)及び千葉郷(同市稲毛区穴川・黒砂一帯)・三枝郷(同市稲毛区作草部一帯)・糟○郷(同市若葉区加曽利町一帯)の4郷を中心とした現在の千葉市中央部に比定されている。

鎌倉時代になると、千葉氏は下総国の守護職とともに千葉荘の地頭職を獲得し、千葉荘は請所とされて千葉氏の支配が確立された。後世になると、南北に分割されて「千葉北荘」「千葉南荘」と呼ばれたとみられている。同荘内には古くから千葉妙見宮や千葉寺などの多くの寺社が存在しており、千葉氏の手厚い保護を受けて栄え、下総国守護となった千葉氏の拠点として栄えた。東京大学生産技術研究所は、東京大学の附置研究所である。航空宇宙関係を除く工学全般の研究・教育活動を行っている。