2011年1月31日月曜日

浜松城の紹介

浜松城は静岡県浜松市中区にある城。野面積みの石垣で有名。「出世城」という別名がある。
▼歴史
浜松城は、前身は曳馬城と呼ばれる。築城者については諸説あるが、瀬名姫の先祖である今川貞相が初めて築城したという。
▼家康時代
元亀元年(1570年)に家康は、武田信玄の侵攻に備える為、本拠地を岡崎城から浜松城へ移した。岡崎城は嫡男・信康に譲られた。当初は、天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際、天竜川の存在そのものが「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。曳馬という名称は「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いため、かつて「浜松荘」と呼ばれる荘園であったことから、城名・地名ともども「浜松」と改めた。挑発された家康は浜松城から打って出たが、当時、戦国時代最強ともいわれた武田軍の巧妙な反撃に遭って大敗北を喫している。張・改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わった[1]が、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松城から駿府城に本拠を移した。家康の在城期間は、17年になる。
▼ 家康以後
浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の昭和の模擬天守閣が再建された。1959年には浜松市の史跡として指定された。
▼出世城
「出世城」という呼び名に関しては、一般的には数々の浜松城主が幕府の重役に出世した例が多く、このことから出世城とも呼ばれたとされる。幕府は事件を起こした正甫を左遷し、忠邦を浜松へ移した。浜松は水野忠精に代わって井上正甫の長男・正春が治めることになった。
▼交通
JR浜松駅より徒歩約20分
JR浜松駅より遠鉄バスで浜松市役所前下車。乗車約10分 + 徒歩約5分
■■浜松駅■■
浜松駅は、静岡県浜松市中区砂山町にある東海旅客鉄道の駅である。東海道新幹線は西側から浜松工場への引き上げ線が分岐している。上下ホームとも、両端に各車系ごとの停車位置表示がある。東海道本線は西側の電留線から上り本線を介し、浜松運輸区や西浜松駅への引き上げ線が分岐する。新幹線在来線乗り換えコンコースの在来線側に設置されており、駅ビル「メイワン」を経てアクトシティ浜松の連絡通路へつながっている。
▼ 機関車交換駅時代
1949年5月20日に東海道本線静岡~浜松間の電化が完成すると、浜松駅は電化区間の境界となり、東京方面の電気機関車と名古屋方面の蒸気機関車との交換が行われるようになった。機関車交換に伴う停車時間の増加は、浜松駅に以下のような「名物」を生むことになった。1953年7月21日に浜松~名古屋間の電化が完成すると機関車交換駅の役割は終わりを告げた。ただし、「ハモニカ娘」はその後も駅の名物として1969年まで営業を続け、乗客に親しまれた。
▼東京-浜松間の普通列車
国鉄時代は東京-浜松間の普通列車が1日に何本か設定されていたが、JR化後しばらくして消滅した。2005年12月に夜行便の「ドリーム静岡・浜松号」、2006年12月に渋谷マークシティ・新宿高速バスターミナル行きの「渋谷・新宿ライナー浜松号」も加わった。
■■浜松宿■■
浜松宿(はままつじゅく) は旧東海道の宿場で、東海道五十三次の江戸から数えて29番目、京から数えて25番目にあたる。
現在の静岡県浜松市の中心部にあたり、浜松城の城下町として天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされる、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場であった。
■■浜松まつり■■
浜松まつりは、静岡県浜松市で毎年ゴールデンウィーク期間中の5月3日から5月5日までの3日間に端午の節句にちなんで開催される凧揚げ合戦と、同時に市内各地で行われる恒例行事の総称。
▼起源・歴史
これまでその起源は、室町時代の永禄年間に、引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守の長男・義廣公の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義廣公の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であることがわかっている。
現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村(現浜松市有玉台)在住の国学者・高林方朗(みちあきら)の日記で、寛政元年(1789年)4月に初凧を購入したという記述が確認されている。
江戸時代の中期には、端午の節句に祝凧を贈って揚げるという風習は浜松だけでなく遠州地方全域で行われており、嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では、糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた。
浜松の城下町では初凧に糸切合戦の要素が加わりそれが人々を熱狂させ今日まで続くに至る。 明治7年頃、浜松の職人町に消防組が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。
戦後の再開頃から行政が主導するようになると、浜松市の観光イベントとして急激に拡大路線へ転換した。昭和45年に自主的な管理組織であった連合青年団統監部が解散させられると、浜松市・観光協会・商工会議所・自治会連合会からなる浜松まつり本部が新たに組織され、観光路線にさらに拍車がかかることになった。
激な肥大化により参加町の3分の2以上が途中参加という現実は、浜松の凧そのもののありようを大きく変化させるに至っている。

2011年1月30日日曜日

2011年1月29日土曜日

浜松バスの紹介

浜松バス株式会社(はままつバス)は、静岡県西部地方を拠点とするバス会社の一つで、貸切バス・路線バスおよび、これらに付随する関連事業を営んでいる。2007年3月28日 - 浜松市浜北地区(現浜北区)で路線バスの運行を開始。1951年の道路運送法制定以降、新規事業者が路線バス事業に参入するのは静岡県では初。

▼所在地
浜松市浜北区内野2423-1
当地にはかつて浜松観光自動車(遠州鉄道の観光バス専業子会社)の浜北営業所が所在していた。その後、中・小型バス部門の子会社「ニュー浜松観光バス」に一時分社していたが、2005年に再統合され浜松観光バス(浜松観光自動車から商号変更)浜北営業所となっていた。

■■■浜松市自主運行バス■■■
浜松市自主運行バス(はままつしじしゅうんこうバス)は、静岡県浜松市が運営する、いわゆる自治体バスである。1986年11月まで地方公営企業として営業していたバス(浜松市交通部。通称・浜松市営バス)とは異なり、廃止された既存の乗合バス路線の代替手段(廃止代替バス)として運営されている。現在の路線は、2005年7月の合併で浜松市に編入された各市町村が運営していた自主運行バスを浜松市が引き継いだものである。運行業務は一部を除き、既存のバス会社(遠鉄バス・秋葉バスサービス)に委託されている。なお、他に浜松市が運行に関与するバスとして「浜松市循環まちバス」(中区)・「浜北コミュニティバス」(浜北区)があるが、運行の趣旨が異なるため当記事では扱わない。別途、当該記事を参照のこと。

■■■浜松市循環まちバス■■■
浜松市循環まちバス(はままつしじゅんかんまちバス)は、静岡県浜松市中区の中心部を環状運行するコミュニティバス路線をいう。愛称は「く・る・る」。浜松市の「オムニバスタウン」構想の一環として登場したもので、中心街の移動円滑化と活性化を主な目的としている。

▼概要
浜松駅北地区を走る東ループ(反時計回り)と西ループ(時計回り)、同南地区を走る南ループの3路線があり、遠州鉄道(遠鉄バス)が全ての業務を受託している。そのためETカードやナイスパスが利用できるほか、浜松駅発着の遠鉄バス定期券を持っている場合は無料で乗車できる。10時から19時までの間ほぼ15分(南ループは30分)間隔で運行、運賃は大人(中学生以上)100円、子供(小学生)50円、小学生以下は保護者同伴にて2名まで無料となっている。また大人200円、子供100円の一日乗車券も販売している。一部経由地が異なるため逆戻りができない箇所がある。浜松まつりなど、中心街で催し物が開催される場合は迂回運転や運休となる場合もある。

▼沿革
2001年10月14日 - 12月24日
都市循環「浜松まちなかループ」として実証実験を実施。この時は時計回りのルートしか存在していなかった。
2002年4月1日
東・西ループ、正式運行開始。
2006年9月18日 - 10月15日
南ループ、実証実験として運行。浜松駅6番乗り場発10:00 - 18:30までの30分間隔で運行された。(10月1日より7番乗り場に変更)
期間中は遠鉄バス所有の小型路線車を使用した。
2007年4月1日
南ループ、正式運行開始。

▼路線
東ループ
浜松駅バスターミナル12番乗り場 - 文化芸大 - 遠州病院 - 県総合庁舎北 - 市役所前* - 中央図書館 - 浜松駅
西ループ
浜松駅14番乗り場 -肴町 - 市役所前* - 県総合庁舎 - 遠州病院東 - 文化芸大 - 浜松駅
南ループ
浜松駅7番乗り場 - 駅南大通り - ハローワーク北 - 海老塚郵便局前 - 福祉交流センター - 中央柳通り - 浜松駅

■■■浜松環状線■■■
静岡県道65号浜松環状線(しずおかけんどう65ごうはままつかんじょうせん)は、静岡県浜松市内を通る道路(県道)である。国道1号浜松バイパスと一体となり、浜松市内を一周する環状道路を形成している。浜松ICより浜松西IC経由で、起点に向かって(反時計周りに)環状線を行くと浜名湖の東側を南方へ進むことになり、国道1号と合流する。

▼概要
陸上距離 : 28.0km
起点:静岡県浜松市西区坪井町(国道1号浜名バイパス交点)
終点:静岡県浜松市東区安新町(国道152号交点・北島交差点)
浜松市天竜区以外の全ての浜松市の行政区を通過し、浜松市内の高速インター・放射状に伸びる主要幹線道路を結ぶ上、ほぼ全線にわたり片側2車線が確保されており、浜松市街地の交通量を減らす上で大きな役割を果たしている。
浜松市浜北区を通過しているが、通過してるのはほんの数十メートルに過ぎない。
浜松市東区笠井~浜松市東区有玉北町(国道152号との交点)の区間のみ未改良(片側1車線)である。遠州鉄道との踏切もあり、朝夕はこの付近が渋滞する。
遠州鉄道との交差部分は高架化工事予定で、現在浜松市などが中心となって浜松環状線踏切除却整備促進事業として土地買収などが進行している。また、この区間は現在4車線化工事中。
三方原町交差点~赤松坂交差点の区間は国道257号(バイパス)と重複する。
伊佐地町から内野入口にかけての信号交差点ではすべてLED式(浜松環状線側のみでそれに交差してる側の信号機はLED化されてない。伊佐地町から東名高速道路浜松西インターチェンジ前迄は小糸工業製が殆どだが、それより北側は信号電材製の薄型信号機や、他メーカーのLED信号機が多い。但し浜松西インターチェンジ前、三方原町、内野入口の交差点では両側ともLED式に変更されている)に変更されている。尚、浜松西インターチェンジ前の信号機には右折分離式信号が加わっている。

▼主な接続路線
国道1号浜名バイパス(坪井IC)
国道1号(坪井町交差点)
静岡県道316号舞阪竜洋線
静岡県道62号浜松雄踏線(南九領橋交差点)
静岡県道325号宇布見浜松線(大久保南交差点)
静岡県道48号館山寺鹿谷線 (伊佐地町交差点)
静岡県道364号湖東和合線
東名高速道路(浜松西IC)
静岡県道261号磐田細江線(葵町交差点)
静岡県道319号村櫛三方原線(葵町交差点)
国道257号(三方原町交差点-赤松坂交差点で重複)
静岡県道318号横尾根洗線
国道152号(内野入口交差点)
静岡県道296号熊小松天竜川停車場線(西ヶ崎交差点)
静岡県道374号浜松袋井線
静岡県道45号天竜浜松線
東名高速道路(浜松IC)
静岡県道261号磐田細江線
静岡県道314号中野市野線(柏木橋交差点)
国道1号浜松バイパス・国道152号(北島IC)

2011年1月28日金曜日

浜松基地の紹介

航空自衛隊浜松基地は、静岡県浜松市西区西山町無番地にある航空自衛隊の基地。浜松飛行場を中心としている。

▼歴史
1925年(大正14年) - 陸軍飛行第7連隊新設
1933年(昭和8年) - 浜松陸軍飛行学校設立
1945年(昭和20年) - 米空軍不時着飛行場として使用
1952年(昭和27年) - 保安隊航空学校設立
1954年(昭和29年) - 航空自衛隊操縦学校、整備学校、通信学校設立
1955年(昭和30年) - 臨時教材整備隊設立,航空団設立
1957年(昭和32年) - 浜松管制分遣隊、浜松気象分遣隊設立
1958年(昭和33年) - 南・北基地が分立し、北基地に第1航空団、浜松管制隊、浜松気象隊が移駐
1960年(昭和35年) - ブルーインパルス編成(北基地)
1962年(昭和37年) - 術科教育本部設立(南基地)
1965年(昭和40年) - 飛行教育集団司令部、宇都宮から移駐(北基地)
1969年(昭和44年) - 教導高射隊設立(南基地)
1971年(昭和46年) - 浜松救難隊設立(南基地)
1976年(昭和51年) - 中部航空音楽隊設立(南基地)
1981年(昭和56年) - ブルーインパルス、松島基地へ移動
1982年(昭和57年) - 航空祭中にブルーインパルスが墜落事故
1985年(昭和60年) - 第6移動警戒隊設立(南基地)
1988年(昭和63年) - T-33AからT-4への機種更新開始
1989年(平成元年) - 南・北基地統合「浜松基地」となる
1998年(平成10年) - 高射教導隊発足。早期警戒管制機(E-767)実用試験隊発足
1999年(平成11年) - 警戒航空隊、第601飛行隊第2飛行班及び早期警戒管制部隊を発足、司令部を三沢基地から移動。航空自衛隊浜松広報館開館。
2000年(平成12年) - 警戒航空隊、早期警戒管制機(E-767)の正式運用を開始。
2004年(平成16年) - 第6移動警戒隊を廃止、解散。
10月3日に開催された航空祭に、「航空自衛隊創設50周年」を記念してアメリカ空軍曲技飛行チーム『サンダーバーズ』が飛来。
2005年(平成17年) - 警戒航空隊、空中警戒管制隊から飛行警戒管制隊へと改編する。
2008年(平成20年)5月:ペトリオットミサイル(PAC-3)の配備を開始

▼浜松広報館
航空自衛隊浜松広報館は、1999年4月に開館した航空自衛隊の広報施設である。愛称は「エアパーク」。航空自衛隊の任務の紹介、使用された各種航空機や現用・過去の各種装備品の展示、全天周シアターなどがある。

▼交通アクセス
浜松駅からの直通バスは1日1便しかなく、多くは自家用車か観光バス(無料駐車場)、あるいは路線バス泉高丘線「泉4丁目」バス停で下車し徒歩10分(約700m)で来場する。

▼航空祭
毎年秋に航空祭を実施しており、「エアフェスタ浜松○○○○」(○には西暦の年号が入る)と称している。ブルーインパルスの展示飛行の他に、航空自衛隊で使用している航空機や米軍から借用した機体などの展示、ブルーインパルスの地上職員による「ジュニア」の演技、各種航空機の展示飛行などのイベントが催される。入場無料。
1982年11月14日の航空祭では「T-2ブルーインパルス」が「下向き空中開花」演技中4番機が墜落、パイロット1名が殉職、周辺住民12名の負傷者を出す事故を起こした。以後浜松基地の航空祭では「宙返り飛行系演技」と「背面飛行系演技」が全面禁止され、「浜松スペシャル」と題した「水平飛行系演技」のみとされた。「T-4ブルーインパルス」に機種改編後も「浜松スペシャル」が続けられていたが、1999年11月14日の航空祭より「宙返り飛行系演技」と「背面飛行系演技」が解禁され、18年ぶりに第一区分の展示飛行を実施した。
夏には「浜松基地納涼祭」(浜松基地 納涼の夕べ)を毎年実施する。当日は南基地の一部を開放し、盆踊り等により地域住民との交流を図っている。入場・参加無料。

▼浜松TACAN
浜松TACANとは、航空自衛隊浜松基地管轄の航空保安無線施設である。基地周辺には、国土交通省管轄の浜松V/Dがある。

■■■浜松・東三河フェニックス■■■
浜松・東三河フェニックスは、2008年より日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)に所属するプロバスケットボールチームである。
浜松市と東三河地区のダブルホームタウン制を採用している。ただし、bjリーグでの慣例から、略称は自治体名の「浜松」となる。旧チーム名は「オーエスジーフェニックス東三河」。bj転籍に伴い浜松市と豊橋市を含む愛知県東三河地区とのダブルフランチャイズとなるため、チーム名は「浜松・東三河フェニックス」に変更となる。ホームアリーナは豊橋市総合体育館のみから静岡県浜松市の浜松アリーナと浜北総合体育館、愛知県東三河の豊橋市総合体育館、豊川市総合体育館に増加する。チーム運営会社は株式会社フェニックスコミュニケーションズとなり、オーエスジー本社は出資企業のひとつとしてチーム運営を継続する他、浜松・東三河地区の企業の出資も仰ぐ。シーズン終了後、オーエスジーフェニックス東三河に所属していた選手は全員移籍選手リストに提示され、川村卓也、朝山正悟といった日本代表級選手がJBLの他チームに移籍し、大口真洋、太田敦也、岡田慎吾、堀田剛司といった選手が浜松・東三河フェニックスに残留した。bjリーグ開幕に先立ち、10月に浜松アリーナでの東京アパッチ戦と、ロシアの強豪でユーロリーグ出場歴のあるMBCディナモ・モスクワとのプレシーズンを敢行した。

▼2種類のアリーナ
浜松・東三河フェニックスは、2種類のコートを使い分けており、浜松地区で開催される場合は浜松フェニックスと書かれたコートを、東三河地区で開催される場合は、東三河フェニックスと書かれたコート使い分けている。なお、旭川で開催された時は東三河フェニックスと書かれたコートを使用した。また、アリーナMCも、浜松地区では高橋正純が担当し東三河地区は加藤昌志が担当している。

■■■浜松商業高校■■■
静岡県立浜松商業高等学校は静岡県浜松市中区にある公立の商業高等学校である。
▼沿革
1899年4月12日 - 乙種程度をもって浜松市元城町齢松寺境内に開設
1901年4月 - 組織を変更して甲・乙両種商業科を設置
1911年9月7日 - 浜松市立商業学校と改称認可
1922年4月1日 - 県立に移管、静岡県立浜松商業学校と改称
1929年4月1日 - 静岡県立浜松第二商業学校(夜学)を併設
1944年3月31日 - 静岡県立浜松第二工業学校に転換、機械科・金属工業科・電気通信科を設置
1946年3月22日 - 静岡県立浜松第二工業学校廃止、静岡県立浜松商業学校に復帰
1947年4月1日 - 新制中学校を併設
1948年4月1日 - 静岡県立浜松商業高等学校と改称、商業科の全日制・定時制課程を設置
1968年4月1日 - 全日制課程に貿易科設置
1971年4月1日 - 全日制課程に経理科と事務管理科を設置
1973年4月1日 - 事務管理科を情報処理科に変更
1978年4月5日 - 硬式野球部が第50回選抜高等学校野球大会で優勝
1990年4月1日 - 貿易科を国際経済科に変更
1994年4月1日 - 全日制課程学科改編(経理科・会計科・情報処理科・国際経済科)
1998年4月1日 - 会計科を廃止
2006年4月1日 - 定時制生徒募集停止

2011年1月27日木曜日

浜松工業高校の紹介

静岡県立浜松工業高等学校は、静岡県浜松市北区にある県立の工業高等学校。三方原台地の広大な敷地に、校舎とグラウンド、充実した実習設備を備える工場棟を持ち、産業の街浜松を支える工業技術者を育成している学校である。校訓は「質実勤勉」である。創立当初は「質実剛健」であったが、1930年に昭和天皇が視察に訪れた際、校長・山本又六(浜松市名誉市民)が「本校の教育方針は、質実にして勤勉を好むの美風を馴致する事に努めております」と述べたところ、天皇が「それは良い」と頷いたことから「質実勤勉」となった。

▼交通
バス
浜松駅バスターミナル13番乗り場より「50 市役所 山の手 医大」線、「56 市役所 萩丘住宅 テクノ 都田」線、「57 市役所 中央署 医科大学」線のいずれかに乗車し、「浜工高前」バス停で下車、徒歩1分
浜北方面より - 「100 医科大学 聖隷三方原」線に乗車し、「浜工高前」バス停で下車、徒歩2分

東名高速 浜松IC より約20分
東名高速 浜松西IC より約10分

■■■浜松西高校■■■
静岡県立浜松西高等学校・中等部は、静岡県浜松市中区にある静岡県立の中高一貫校。略称は中等部については西高中等部、浜松市内では西中(にしちゅう)とも言う。これは浜松市内に西中学校というものはなく、西部中学校しかないので、通常、西高等学校中等部を指す。ただし、西部中学の略称は西中(せいちゅう)であり、紙面上で略称を使用すると非常に紛らわしい。高等学校については浜西、浜松市内では西高でも通じる。ただし浜北西高の地区の人には浜北西高と間違えられる可能性はある。

▼概要
1924年創立の旧制浜松二中の流れを汲む伝統校。初代校長には英語学者の枩田与惣之助が就任。「知・仁・勇」を校訓に掲げ、英国の名門パブリックスクールであるイートン校を手本に「ヤングジェントルマン」の育成を目指した。静岡県西遠地区では浜松北に次ぐ進学校として認知されている。

▼沿革
1924年4月4日 - 静岡県立浜松第二中学校として開校する。
1948年4月1日 - 新学制により、静岡県立浜松第二高等学校となる。
1949年4月1日 - 校名変更により、静岡県立浜松西高等学校となる。
1986年4月1日 - 理数科を設置。
2002年4月1日 - 中等部を設置。
2005年3月31日 - 理数科を閉科。

▼交通
浜松駅バスターミナル 5番ポールより「入野 宇布見 山崎」行き、「イオン志都呂 舞阪駅」行きに乗車。「西高入口」で下車。

■■■浜松北高校■■■
静岡県立浜松北高等学校は静岡県浜松市中区にある県立の高等学校である。1894年創立。旧制浜松第一中学以来の伝統を持つ進学校とされ、東京大学・京都大学へ計30名程度、国公立大学へ計130名程度、早稲田大学・慶應義塾大学へ計120名程度の合格者を毎年輩出している。静岡県内では、静岡県立静岡高等学校と並ぶトップ校である。「自主独立、自主自律」を大切にしている。制服は男子は詰襟学生服、女子は紺ジャケット、スカート、ベスト。略称は「北高」(浜松地区)、「浜北」や「浜松北高」(浜松地区以外)。

▼沿革
1894年 - 静岡県尋常中学校浜松分校として創立。
1901年 - 静岡県立浜松中学校となる。
1924年 - 静岡県立浜松第一中学校と改称する。
1948年 - 静岡県立浜松第一高等学校となる。通信制課程および夜間定時制課程を併置。
1949年 - 静岡県立浜松北高等学校と改称する。
1961年 - 通信制課程を静岡県立静岡城北高等学校に統合。
1991年 - 国際科を設置。

▼交通
遠鉄バス - 浜松駅バスターミナル 1番・15番・16番ポールから乗車し、「浜松北高」バス停で降車。

■■■浜松球場■■■
浜松市営球場は、静岡県浜松市中区上島の四ツ池公園内にある野球場。施設は浜松市が所有し、浜松市体育協会が指定管理者として運営管理を行っている。浜松市は公称30,000人収容としているが、実際の収容可能数(特に外野スタンド)はそれを大幅に下回っており、一説には20,000~25,000人程度といわれる。

▼歴史
1948年、浜松市営球場として開場。両翼91.5m、中堅106m。高校野球、社会人野球などアマチュア公式戦の他、プロ野球公式戦も開催されたが、施設の老朽化に伴い全面改築されることとなり、改築工事は1979年に完工、同年6月に現球場が開場した。プロ野球では中日ドラゴンズ(準本拠地だがナゴヤドームが本来のフランチャイズ)がオープン戦と公式戦を各1~2試合、浜松で主催している。

▼主なエピソード
中日にかつて所属していたアロンゾ・パウエルは、この浜松市営球場との相性が悪かった。パウエルは浜松で2度の災難にあったためか、「もう浜松へは行きたくないよ」が口癖となった。

■■■浜松シティマラソン■■■
浜松シティマラソンは、静岡県浜松市で行われるマラソン大会。 第1回は2005年2月12日に開催された。大会名には「浜松シティマラソン2005」と最後に開催年をつける。浜松市四ツ池公園陸上競技場発着、航空自衛隊浜松基地周辺コースがある。

■■■アクトシティ浜松■■■
アクトシティ浜松は、JR浜松駅北東の浜松市中区板屋町および同区中央三丁目にあり、市有施設と民有施設によって構成される複合施設群である。現在静岡県でもっとも高い高層ビルである。外観は音楽の町浜松を意識してハーモニカをモチーフにしている。旧国鉄浜松駅周辺の連続立体交差化事業による貨物駅機能(現・西浜松駅)の同市中区森田町への移転に伴って市が森田町の土地の代わり(換地)として取得した駅跡地と、後に国鉄清算事業団から市が約400億円で取得した土地をあわせて一体開発した。アクトシティ浜松AゾーンからDゾーンの4つに分かれている。
浜松市と第一生命保険(以下、第一生命)、三菱地所が事業主体となり、1991年に建設を開始、1994年10月7日に落成した(Dゾーンのみ1995年4月落成)。Bゾーンの土地は超高層ビルの建設を含む開発整備の実施を条件として、複数の共同企業体による建築設計競技を経て、市から第一生命と三菱地所に約567億円で売却されたものである。

2011年1月26日水曜日

アクトシティ浜松のゾーンについて

Aゾーン
クラシック専門のホールとして音質設計がされており、音が空から降り注いでくるように聞こえる。浜松出身の鈴木重子など、ここでのコンサートを行う音楽家も多い。
Bゾーン
ホテルオークラ直営のオークラアクトシティホテル浜松をはじめ、多くの企業や店舗が入居する、浜松市のランドマークである。周辺の再開発によって高層ビルの建設が進む2007年現在においても、もっとも高いD'グラフォート浜松 D's Tower(分譲マンション、地上34階建116m)の約2倍の高さをもち、10km以上離れた浜北区内からもはっきりと確認できるなど、ランドマークとしての機能を失っていない。屋上に防災用のヘリポートを備えるほか、浜松市消防局の火災監視用カメラ、テレビ局のお天気カメラ、ラジオ用のマイクロ波中継設備、コミュニティ放送局「FM Haro!(浜松エフエム放送)」のラジオ送信設備などが設置されている。
Cゾーン(展示イベントホール)
展示会などのイベント用に設計された大規模なホールである。広さは3,500m²(35m×99m)であり、間仕切りを設置することにより以下の3区画に分割可能。
Dゾーン(浜松市楽器博物館、研修交流センター)
浜松市楽器博物館は、1995年4月に開館した全国で唯一の公立の楽器博物館で、東洋最大の楽器博物館でもある。アジア・アフリカの楽器の展示の他、明治時代の初め、日本の学校教育に取り入れられた音楽や浜松の楽器産業の歴史、日本の雅楽などの楽器の展示にここならではの特徴が見られ、「楽器の町・浜松」らしい博物館になっている。2006年3月21日に、リニューアルオープンした。近所にある、浜松科学館との間で協力関係にあり、楽器博物館の入場者は、科学館で割引。同じく、科学館の入場者は、楽器博物館で割引などの特典がある。

▼周辺再開発との関係
しかし完成時にはすでにバブルは崩壊していたため、当初計画していたアクトシティを呼び水とする周辺再開発は停滞。具体的な動きを見せるのは2000年以降である。文化政策面では市や県の主催する多くの文化事業に使用され、浜松国際ピアノコンクールや静岡国際オペラコンクールなどの国際コンクールの会場となるなど成功を収めている。民有部のアクトタワーの稼動率の低さが懸念されてきたが、多くの商店やオフィスが駅の北西側に偏っており、アクトシティを含む駅東側は浜松科学館など文化ゾーンとして整備されているため、商業施設としては客を呼び込みにくい状況にある。2007年現在、周辺(中央地区)の再開発が進行中で都心への高層マンション建設が盛んであり、駅南の砂山地区の再開発も準備段階に入るなど、都心への人口回帰の兆しがみられるため、今後の稼働率向上が期待されている。オフィス部に関しては浜松市の政令市移行以降、入居率が上昇しており入居率は95%超と建設以来最高の入居率を記録している。

▼運営
市有施設と民有施設の複合体であることから第三セクター方式による運営であると思われがちであるが、市有施設の運営は財団法人浜松市文化振興財団に、民有施設の運営はオリックス傘下のアクトシティ・インベストメント有限会社に分離されている。市有部は黒字運営を達成しており、文化事業の実施によって市からの補助金を受給しているものの、税金からの損失の補填はない。2005年4月1日には、それまで市有部分の管理運営をしていた財団法人アクトシティ浜松運営財団を、アクトシティ以外の文化施設の管理運営をしていた財団法人浜松市文化協会と統合し、浜松市文化振興財団に再編した。

▼新浜松駅
新浜松駅は、静岡県浜松市中区鍛冶町にある遠州鉄道鉄道線の駅である。東海旅客鉄道の浜松駅と相互乗換が可能。

▼歴史
1927年9月1日 旭町駅として、国鉄(現JR)浜松駅の北東にあたる浜松市旭町に開業。「遠電ビル」と称し、鉄筋コンクリート建ての近代的な建物として完成した。遠州電気鉄道(当時)の本社も入居し、遠州鉄道に改組した後も仮駅舎移転まで使用された。
1953年8月1日 新浜松駅に改称。
1981年2月4日 仮駅舎に移転、営業キロが0.1km短縮。
1985年12月1日 高架化に伴い、浜松駅の北西に移転。旧駅の跡地はのちに浜松名鉄ホテルなどへ再開発された。
1987年12月1日 改札口 - ホーム間のエスカレーター使用開始。
1988年9月14日 遠鉄百貨店オープン。同時に当駅との連絡通路も供用開始。
2004年4月1日 駅舎改装、バリアフリー化工事が竣工。1階 - 改札口のエスカレーターとエレベーター(2基)使用開始。高架下に商業施設「UP-ON」が開業。

▼浜松市動物園
浜松市動物園は、静岡県浜松市西区にある市営動物園。浜松市フラワーパークの北隣で、両者を合わせて舘山寺総合公園を形成する。隣接する浜松市フラワーパークとは園内で繋がっており、「共通券」を購入することで両園を自由に巡ることができる。 霊長類の展示は、国内の動物園としては最大級で、ニシローランドゴリラやスマトラオランウータン・ゴールデンライオンタマリンなどがいる。

▼沿革
1950年(昭和25年)11月1日 「浜松子ども博覧会」が現在の浜松城公園(中区)で開かれ、閉会後の跡地に浜松市動物園が開園。
1982年(昭和57年)4月 アドベンチャーワールド(和歌山県)からニシローランドゴリラのオス・メス各1頭が来園。
1983年(昭和58年)4月2日 西区にある浜松市フラワーパークの北隣の現在地に移転開園。
2004年(平成16年)3月10日 ユニバーサルデザインに基づいた整備工事を完了。
2008年(平成20年)4月4日 ニシローランドゴリラのメスのダイコ(推定31歳)が病死。肺腫瘍と推定される。

▼浜松市フルーツパーク
浜松市フルーツパークは、静岡県浜松市北区都田町4263-1に位置する面積約43万m²の植物園である。通称ははままつフルーツパーク。姉妹園の浜松市フラワーパークとともに財団法人浜松市フラワー・フルーツパーク公社が運営する。第二東名高速道路の浜松浜北SAと、西側エリア(イチゴ園周辺)が接続されることが決まっており、第二東名供用後は、浜松浜北SAから直接利用できるようになる予定。

トロピカルドーム
浜松まつりの大凧をイメージした五角形の温室で、熱帯果樹80種・330本が植栽されている。熱帯果樹温室が続き棟となっており、バナナ、パパイヤ、マンゴーなどが観察できる。

リンゴ並木
長野県飯田市から贈られたリンゴの苗木を浜松市内中学生のボランティアとともに育成している。

2011年1月25日火曜日

浜松城記

浜松城記は、浜松城の起源と歴代の城主、および静岡県浜松市で行われる大凧揚げ行事、「浜松まつり」の起源を記した書物。ただし内容としては誤りが多く、現在では偽書であると見られている(以下本文では「城記」と略す)。


▼「浜松城記」の登場
城記」の初出は1926年、遠州地方の郷土研究誌「土のいろ」第2号に、鈴木肇という人物が掲載した「浜松凧揚起源考」である。「城記」の体裁は、酒井近江守真邑という人物が、元文4 (1739) 年に「徳川御秘書の内」として記したものとなっている。なお、奥付には「酒井近江守真邑」の花押が記されていることになっている。


「起源考」に引く「城記」は、浜松城の歴代の城主の在城期間(江戸時代は藩主としての在任期間)を記したものとなっており、その間に凧揚げに関する記述がされているだけの箇条書きの文書で、分量も活字に直してA4用紙1~2ページ程度である。浜松まつりの凧揚げに関する記述としては、飯尾豊前守(飯尾連龍 ?~1565)の長子義廣の誕生を祝い、入野村の住人佐橋甚五郎が義廣の名前を大書した大凧を揚げたことが起源であると記されている。また、堀尾帯刀・太田摂津守など、凧揚げを奨励したり凧揚げの風習を他所へ広めた城主の記述も見られる。


ちなみに「浜松城記」は、鈴木本人以外だれも見たことがなく、子孫もその所在を知らない。

▼「城記」の定着
「城記」が「土のいろ」に掲載されたころとほぼ同じく1926年「浜松市史 全」が刊行(成稿は1924年12月)され、ここにも「城記」が掲載された。恐らくほぼ同時期に鈴木から「城記」の文章を資料として提供されたものと考えられる。さらに1971年、当時の浜松市教育委員会が新たに「浜松市史」を編纂するに当たり、浜松市でもっとも大きな行事である浜松まつりを取り上げる際、「信憑するような文献に乏しいが」としながらも起源として「城記」を紹介、観光ガイドもこの記述を引用したことから、「浜松城記」は広く市民に知られるようになった。

なぜ「城記」の記述が採用されるに至ったかは現在では不明であるが、おそらく浜松まつりの起源を記した文章で最も古い時代のことが記されているのが、この「城記」だったからであろうと思われる。しかし、「市史」採用の際に適切な史料批判が行われたかという点についてははなはだ疑わしい。「起源考」において「筆者所蔵の浜松城記」と明記されているにもかかわらず、鈴木およびその子孫への資料確認も行われておらず、「城記」は孫引きの状態のまま「浜松市史」に掲載されており、検証はほとんど行われなかったものと思われる。

▼「城記」の検証
「土のいろ」の編集長だった飯尾哲爾は、昭和40年代に「遠州地方における凧揚げの歴史の再検討をしなければいけない」と述べ、「浜松城記」をはじめとする凧揚げに関する資料の再検討・集成を目指していたが、程なく他界。その間に山崎源一ら「飯尾豊前守説話」支持派の郷土史家や観光パンフレットの喧伝などにより、検証すらされていないはずの「浜松城記」が一人歩きをすることになる。


1986年から1987年にかけて、浜松の郷土史家、米田一夫・神谷昌志らが相次いで「城記」を疑問視した文章を発表する。まず、米田は浜松史跡調査顕彰会の会誌「遠江」第9号に「真説 佐橋甚五郎」を掲載、「城記」に疑問を投げかけた。また神谷も自著「はままつ歴史発見」の中で「城記」を批判。しかしこの当時は大きな話題とはならなかった。


この問題が大きく取りざたされたのは1998年以降である。浜松市中央図書館非常勤職員(当時)小楠和正が「城記」に対する疑義を新聞に掲載、同年、静岡大学教授小和田哲男に検証を依頼して「偽書の公算大」との回答を得た。さらに小楠は2001年に自らの調査結果を「検証・浜松凧揚げの起源と歴史」として刊行、話題となった。


神谷、米田、小楠らが指摘する主な問題点としては、次の点が挙げられる。


年号の矛盾(元亀6年・延宝15年などそれ以前に改元されたはずの年号がある)。 城主の在城・在任期間や浜松前後の任地の間違い(太田摂津守は実際には父の備中守資宗が三河西尾藩から浜松に国替えしており、国替えの順序が逆に記載されているなど4箇所)。小楠は浜松関連の古文書を調査した結果、浜松宿の脇本陣の古記録を幕末に集成した「糀屋文書」に同様の誤記が見られることから、「城記」は「糀屋文書」を使って仕立て上げられたものであろうと推測している。


▼浜松市の対応および浜松まつりとの関連について
浜松まつりを統括する「浜松まつり構成4団体」のうち、浜松市・および浜松観光コンベンションビューローでは、これら「城記」否定派の指摘に対して「『城記』にはロマンがあり、否定されるほどのものではない」と反論してきたが、小和田の検証の後より、起源の説明には「城記」の説明を「確かなことは分からない」と表記するようになり、現存する最古の資料として、国学者高林方朗の日記を挙げるようになった。しかし依然として「飯尾豊前守説話」が偽伝であることについては言及されないまま現在に至っており、「城記」による「起源」を信じている市民もいまだに多い。

なお、「城記」は浜松まつりの起源・根拠文書として信じられてきた経緯はあるが、この文書が登場した時期には「浜松まつり」という名称そのものがまだなかった時期で、また一般的に浜松城記が観光パンフレットなどに引用されるようになったのも戦後の話であり、浜松まつりの権威付けのためにでっち上げられた文書と言うわけではない(「浜松まつり」という表現の初出は昭和25年)。「濱松凧揚起源考」には飯尾豊前守を「飯尾学兄の先祖なりと思考す」と書かれていることから、「起源考」の筆者である鈴木肇は「土のいろ」編集長の飯尾哲爾に事寄せて「起源考」を発表したようである。上掲の通り、昭和40年代にはすでに「城記」が信頼に値する史料ではないことが考えられていたにもかかわらず、「城記」の疑問点が一般に知られなかったことに関して、昭和40年代以降の浜松まつりの変容(昭和42年の会場の移転・昭和49年以降の規模の拡大)との関連性も指摘されている。


■■■浜松町■■■
浜松町(はままつちょう)は東京都港区の地名。現在の住居表示では一丁目と二丁目がある。当地域の人口は、1,039人(2008年4月1日現在、住民基本台帳による。港区調べ)。


▼概要
港区北東部に位置し、JR山手線・JR京浜東北線・東京モノレール羽田線の浜松町駅、都営地下鉄浅草線・都営地下鉄大江戸線の大門駅がある。町域の大部分は浜松町駅・大門駅を中心としたビジネス街・商業地であり、ビル街の中にわずかに住宅が混在している。


▼歴史
慶長年間、芝増上寺の代官である奥住久右衛門が名主を務め、当地域が久右衛門町と呼ばれるようになる。
元禄9年(1696年)、遠州浜松出身の権兵衛が名主となり、町名が久右衛門町から芝浜松町に変更される。
明治元年(1868年)、東京府の成立にともない、当地域は東京府の所属となる。
明治5年(1872年)、周辺の武家地を併合し、町域を拡大する。
明治11年(1878年)、芝区の成立にともない、当地域は東京府芝区芝浜松町となる。
明治22年(1889年)、東京市の成立にともない、当地域は東京市芝区芝浜松町となる。
明治44年(1911年)、町名より「芝」の冠称が省かれ、芝区浜松町となる。
昭和7年(1932年)、周辺の神明町・芝新網町・湊町などを編入し、町域を拡大する。
昭和11年(1936年)、浜松町一丁目・二丁目の一部が海岸通一丁目となる。
昭和22年(1947年)、芝区が麻布区・赤坂区と合併して新たに港区が成立する。それにともない町名に再び「芝」の冠称がつき、東京都港区芝浜松町となる。
昭和47年(1972年)1月1日、住居表示の実施に伴い、芝浜松町は現在の浜松町・芝大門の一部となる。