2011年4月30日土曜日

滋賀県では突出して盛んなスポーツはなく

2008年にバスケットボールbjリーグの滋賀レイクスターズが設立されるまでは滋賀県に本拠地を置くプロスポーツチームは存在しなかった。高校野球でも近畿勢で唯一優勝経験がない(高校野球#滋賀県の甲子園制覇参照)。一方で近年サッカーのレベルが向上しており、2005年に滋賀県立野洲高等学校が全国高等学校サッカー選手権大会で優勝を果たしている。滋賀県本拠地のサッカークラブとして、日本フットボールリーグ(JFL)に、強豪SAGAWA SHIGA FC(本拠:守山市)と、Jリーグ参入を目指すMIOびわこ草津(本拠:草津市)が存在する。他に、栗東市には日本中央競馬会の栗東トレーニングセンターが所在する。滋賀県ではびわ湖環境ビジネスメッセや滋賀ビジネスパートナーといった経済イベントが開催されている。滋賀郡は、近江国・滋賀県にあった郡。消滅直前となる2006年3月19日の時点で、以下の1町のみで構成されていた。2006年3月20日に志賀町が大津市に編入したため消滅した。

滋賀の地名の由来については諸説があり、「石の多いところ」を意味する「シカ(石処)」に由来するという説や、砂州または低湿地を意味する「スカ(砂処)」に由来するという説がある。他地域の「シガ」という地名も石の多いところを指していることが多いことから、滋賀は「石の多いところ」を意味する「シカ(石処)」に由来するという説が有力と考えられている。砂州または低湿地を意味する「スカ(砂処)」に由来するという説は、琵琶湖沿岸の低湿地を指しているとされるが、滋賀県以外の全国各地の「シガ」の地名で「スカ」から転じたと考えられるものはなく、滋賀だけが特別な例となるために考えがたいという意見もある。明治維新により幕府領・旗本領に大津県が設置された後、廃藩置県によって各藩は県に移行し、1871年11月22日、大津県(滋賀郡・蒲生郡以南)と長浜県(高島郡・神崎郡以北)に統合された。翌1872年、1月19日、大津県が滋賀県に、2月27日に長浜県が犬上県にそれぞれ改称され、9月28日に両県が合併し、近江国と領域を同じくする滋賀県が改めて成立した。

本庁舎は大津に置かれたが、西に偏在しているため、近江国最大の城下町である彦根も候補に上がった。1891年と1936年の2度、大津から彦根への本庁舎移転運動が起こったことがある。なお1876年8月21日から1881年2月7日までの4年半には、現在の福井県嶺南地方を編入し、滋賀県が若狭湾に面していた時期もあった。以下の13市3郡6町がある。(町はすべて「ちょう」と読む)江戸時代には江南(現在の湖南)・江西(現在の湖西)・江東(現在の湖東・湖北)に3区分されていたが、明治時代以降、琵琶湖を中心に湖南・湖東・湖北・湖西に4区分するのが一般的となった。この4区分以外に区分される場合もあり、例えば滋賀県では7地域に細分化している。各々に属する自治体は以下の通り。なお郡は、1878年の浅井郡の東西分割と1897年の西浅井郡の伊香郡編入以外は、大宝律令以来の郡名・区画が昭和の大合併期までほぼ踏襲されていた。京阪に近い交通の要衝であり、平野部も多いため古くから開発が進んだ。

京阪とのつながりが強く、現在は通勤圏として「滋賀府民」の多い地域となっている。甲賀は忍者と製薬、信楽焼の里として有名。滋賀県庁とは、地方公共団体である滋賀県の執行機関としての事務を行う役所である。面積の6分の1が琵琶湖で占められている滋賀県では琵琶湖との共生を目指した環境政策を推進しており、県庁部局に「琵琶湖環境部」を設置して環境保全政策に取り組んでいる。行財政改革の一環で2009年3月31日付けで各地域に設置されていた地域振興局(出先機関)を廃止し、各分野の事務所を主要地域に設置している。滋賀県立びわ湖フローティングスクールは、滋賀県在住の小学5年生などを対象にした学習船「うみのこ」を運営する県の機関。事業主体は滋賀県教育委員会。滋賀県内の全ての小学5年生が学習船「うみのこ」(湖の子)に乗船・航海し、宿泊をともなう教育を実施している。郷土への理解や対人・協調関係を養う「ふれあい体験学習」のほか、琵琶湖を教育の場所としていることから、同湖の環境を主なテーマとした「びわ湖環境学習」を行っている。

なお、複数の学校が同時に乗船・航海し、他校の児童と混合したグループ分けを行った上で体験学習を行う。このほか、「琵琶湖・淀川流域小学生交流航海」として、他府県の小学生を含めた航海を行うこともある。運営はびわ湖フローティングスクールのスタッフのほか、「湖の子」サポーターや食育「湖の子」守り隊など、市民ボランティアが組織され支援を行っている。船内の旅客施設は、主たる利用者である小学5年生を基準としたサイズで設置されている。各室定員20名の宿泊室(大部屋)、学習室、食堂(定員110名)、会議室、見学室など船内設備のほか、カッターボートを搭載。また、バリアフリー設備として車椅子用の搭乗リフターやエレベーターが設置されている。運航は琵琶湖汽船が受託している。当船は就航25年を経過したことから船舶の代替が検討され、基金が設けられているほか、ふるさと納税を活用した寄付のための条例を設けている。滋賀レイクスターズは、滋賀県を本拠地として2008年より日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)に加盟しているプロバスケットボールチームである。

運営母体は株式会社滋賀レイクスターズ。滋賀県に本拠地を置いた初めてのプロスポーツチームであり、同県では現在なお唯一のプロスポーツチームである。チームスローガンはShoot for the starsで、コンセプトは「勝利のために、湖国の星を目指し、そしてブースターのためにシュート!」である。チームカラーは琵琶湖を象徴する青(レイクス・ブルー)で、マスコットキャラクターも漫画家の長田悠幸が応募した作品で、ビワコオオナマズがモチーフの「マグニー」である。背番号は2008年8月8日生まれで、最大マグニチュード88のエネルギーを持つことから88。試合会場に現れるほか、滋賀県内の保育園、幼稚園を訪問したりもしている。アリーナDJはガンバ大阪と兼任している仙石幸一で、日程が重なった場合はガンバ大阪を優先する。この場合、西田育弘が担当する。チアダンスチームはレイクスチアリーダーズ。結成以降、地元テレビ局のバックアップ等もあって、経営収入および入場者数は安定して増加しており、リーグ加入3年目で球団経営が初の黒字化の見通しとなった。2010-2011年シーズン終了現在、協賛企業が286社とリーグ1の規模を誇る。

2011年4月29日金曜日

滋賀県は

琵琶湖を擁する日本国近畿地方北東部の内陸県。本庁舎は大津市に所在する。令制国の近江国(江州)と完全に一致する。県名は大津が属していた郡名「滋賀郡」から採用された。「滋賀」自体の語源については滋賀郡を参照。「滋賀」の発音は、共通語では「し」にアクセントを置く頭高型アクセントであるが、地元では「が」にアクセントを置く尾高型アクセントである(「滋賀県」とする場合は共通語も地元方言も同じアクセント)。「近江」が「近つ淡海」に由来し、現在も滋賀県が「湖国」と呼ばれるように、琵琶湖は県のシンボルである。産業用水、近隣府県約1,400万人の飲用水の源、観光資源としてその存在は大きく、地域性も琵琶湖を挟んで異なる(後述「#地域」参照)。琵琶湖があるために内陸県で唯一漁港を持ち、その数も20港と、海に面する5府県より多い。水運交易が盛んだった中世や近世には若狭湾と京・大坂をつなぐ中継地として、大津や堅田など内水系の重要港湾が数多く発展した。東海道・東山道(中山道)・北陸道が合流する陸上交通の要衝でもあり、「近江を制する者は天下を制す」として度々戦乱の舞台となった。

交通利便のよさは人材の流出をもたらし、戦前まで滋賀県は流入人口よりも流出人口の方が多かった。中世から近代にかけては多くの出身者が近江商人として全国各地に進出し、「琵琶湖の鮎は外に出て大きくなる」という諺まで生まれた。太平洋戦争後、高速道路の整備やトラック流通の興隆に伴って交通利便のよさが再認識され、流通拠点や工場が相次いで進出、近年はJR西日本のアーバンネットワーク拡大に伴って京阪神のベッドタウンとしても注目されるようになり、首都圏以外の地方では数少ない人口増加県へと転じた。ただし開発が進むのは京阪神に近い南部であり、以前からあった北部との経済格差が広がる事態となっている。滋賀県は近畿地方に分類され、文化的・経済的に京都・大阪との結びつきが強いが、中部地方との交流も盛んである。近畿圏整備法で定める「近畿圏」と中部圏開発整備法で定める「中部圏」の両方に含まれ、滋賀県知事は近畿ブロック知事会と中部圏知事会議の両方に出席している(福井県と三重県も同様)。

また福井県・岐阜県・三重県とともに「日本まんなか共和国」を設立し、知事サミットや文化交流事業などを行っている。愛知万博で中部8県とともに「中部千年共生村」を共同出展した。北部は近畿・中京・北陸の交点であり、工場や物流センターの設置計画も進むなど、中部圏の一角としての発展も期待されている。滋賀県はその地理的特性から、奈良・京・大坂への物資や人材の供給源および中継地、あるいは畿内と東国・北国とを結ぶ要衝として発展し、日本の中央史に大きく関わっている。白洲正子は随筆『近江山河抄』のなかで「近江は日本の楽屋裏」と述べている。国造が分立した時代には、滋賀県はヤマト王権の領土に入っていた。飛鳥時代には近江大津宮、奈良時代には紫香楽宮や保良宮が置かれた。壬申の乱や藤原仲麻呂の乱といった戦乱の舞台となることも度々あった。平安中期より佐々木氏が近江に起こった。佐々木氏は源頼朝が関東地方で勃興するとこれに積極的に加わり、近江一国の守護職を得た。

以降、六角氏や京極氏に分かれながら、佐々木一族は戦国時代に至るまで近江国を支配した。南北朝期にはばさら大名で有名な佐々木道誉(高氏)が出て京極家の勢威を伸ばした。明治維新により幕府領・旗本領に大津県が設置された後、廃藩置県によって各藩は県に移行し、1871年11月22日、大津県(滋賀郡・蒲生郡以南)と長浜県(高島郡・神崎郡以北)に統合された。翌1872年、1月19日、大津県が滋賀県に、2月27日に長浜県が犬上県にそれぞれ改称され、9月28日に両県が合併し、近江国と領域を同じくする滋賀県が改めて成立した。本庁舎は大津に置かれたが、西に偏在しているため、近江国最大の城下町である彦根も候補に上がった。1891年と1936年の2度、大津から彦根への本庁舎移転運動が起こったことがある。なお1876年8月21日から1881年2月7日までの4年半には、現在の福井県嶺南地方を編入し、滋賀県が若狭湾に面していた時期もあった。以下の13市3郡6町がある。(町はすべて「ちょう」と読む)

江戸時代には江南(現在の湖南)・江西(現在の湖西)・江東(現在の湖東・湖北)に3区分されていたが、明治時代以降、琵琶湖を中心に湖南・湖東・湖北・湖西に4区分するのが一般的となった。この4区分以外に区分される場合もあり、例えば滋賀県では7地域に細分化している。各々に属する自治体は以下の通り。なお郡は、1878年の浅井郡の東西分割と1897年の西浅井郡の伊香郡編入以外は、大宝律令以来の郡名・区画が昭和の大合併期までほぼ踏襲されていた。京阪に近い交通の要衝であり(大津市中心部と京都市中心部は10kmほどの距離で、JR西日本大津駅-京都駅間は所要9分である)、平野部も多いため古くから開発が進んだ。京阪とのつながりが強く、現在は通勤圏として「滋賀府民」の多い地域となっている。甲賀は忍者と製薬、信楽焼の里として有名。京都・大阪の文化圏に属し、滋賀県で話される方言(近江弁)も京言葉との共通点が多い。岐阜県関ケ原から滋賀県にかけては東西文化の境界線をなす(アホかタワケか、雑煮が丸餅か角餅か、など)。

湖北地方などは北陸や東海の文化との緩衝地帯でもあり、例えば中京地方のブロック紙である中日新聞は滋賀県でも配達されており、特に米原市では6割強のシェアを占める。県民性としては、『角川日本地名大辞典』では「温和で、一徹ではなく、計数に明るく利害に敏感で、蓄財に長じている。文にたけるが武はそれほどでもない。」「地味で着実、おとなしく粘り強く努力する。」としている。社寺(浄土真宗が多い)を中心とする伝統的な地縁社会であることから、保守的・閉鎖的であるとの指摘もある。祖父江孝男は、滋賀県の県民性イメージは近江商人に関するステレオタイプから生み出された部分が大きいとしている。滋賀県では1件の世界文化遺産、55件の国宝、806件の重要文化財が指定されており、国宝の指定件数は京都府・東京都・奈良県・大阪府に次ぐ5位、重要文化財の指定件数は東京都・京都府・奈良県に次ぐ4位である(2009年7月1日時点)。多くの大学が集まる京阪神に隣接するため、かつては大学の少ない県であった。

しかし県が活発に大学を誘致した結果、2009年時点で10大学3短期大学が立地している。小学校では京都府とともにランリック(ランリュック)がよく普及している。また児童の交通安全のための飛び出し坊やの設置が多く、飛び出し坊や愛好家のみうらじゅんからも注目されている。滋賀県独自の教育事業として、小学校5年生などを対象に琵琶湖上で行われる滋賀県立びわ湖フローティングスクールがある。

2011年4月28日木曜日

福井の球団創設時の運営法人であった

「スポーツコミュニティ福井」(以下「コミュニティ社」)の設立時の資本金は当初8000万円が目標だったものの、実際にはBCリーグ6球団最少額の5670万円にとどまった。またスポンサー収入も他5球団が平均5000 - 6000万円を確保しているのに対し、福井の初年度のスポンサー収入額は4020万円と著しく少額で、さらに2009年は2910万円にまで落ち込んだ。他球団では大口スポンサーを確保するなどして収支の安定化を図ったり、地元財界や自治体から金銭面や運営面で協力を得るなどといった経営努力が図られているが、福井にはそうした動きが少なく、球団の県民への浸透度の低さ、企業・行政のスポーツ文化に対する意識の未熟さなどが指摘されていた。その結果、福井が抱える2009年5月末時点の累積赤字は約5300万円にまで及び、資金繰りもままならなくなるなどし、一時は「今季の継続も困難」(元コミュニティ社社長・清水昌勝)となる状況にまで追い込まれた。このため同年6月23日、コミュニティ社は地元紙である福井新聞社に対して支援の要請を行うことを発表した。

福井新聞はニュースを伝えた記事の中で「球団発足以来、報道や協賛協力などチームへの応援を重ねてきた。シーズン途中での破たんは避けなければならず、各界各層の協力も得てこれまで以上の支援の在り方を検討したい」と記した。そして7月2日に行われた臨時株主総会と取締役会において、前球団社長の清水をはじめとする旧経営陣3名が責任を取って退任(但し、3名とも引き続き参与として経営には継続して参加する)。代わって新たな経営陣が選任され、球団社長に福井新聞社専務の吉田真士、球団代表兼専務に同社前事業局長の新谷隆美(同社より出向)、取締役に同社社長の吉田哲也、BCリーグ代表の村山哲二ら4名の計6名が就任。このうち福井新聞社からは5名が占め、同社が中心となって経営再建に乗り出すこととなった。球団社長に就任した吉田は経営継承にあたって「福井の将来を考えたことが一番の理由。あくまでも『県民球団』であり、決して福井新聞社だけで支えられるものではない。

県民にこれまで以上の関心を持ってもらいたい」と訴え、今後の経営体制について「さまざまな課題を整理した上で、経費抑制や新たなスポンサー探しなどこれから効果的な策を具体的に検討し、収支の均衡を図れるようにしていきたい」と述べた。またBCリーグからも職員が派遣され、球団運営のノウハウを伝えるなど球団とリーグとの連携を密にし、経営改善が図られることになった。しかし、同年12月末の段階で約8000万円の累積赤字を計上するなど、経営危機を完全に払拭するまでには至らず、スポンサーからは財務体質の改善を求められるなど、球団の存続を危ぶむ声もあった。このため2010年2月10日、コミュニティ社は福井新聞社本社で記者会見を行い、経営基盤の強化や健全な運営を目的に、新会社に事業を譲渡する方針を明らかにした。

吉田は席上、新会社は福井新聞社の全額出資によって設立し、選手・コーチとの契約や後援会、スポンサー企業との関係をそのまま継承した上でコミュニティ社を解散し、新会社の経営を安定化させた上で県内から広く他の出資者を募っていく方針を示した上で「不健全な経営状態では銀行からの借り入れや増資も受けられず、球団の存続もままならない」と、あくまでも球団存続のための事業譲渡である旨を説明し、理解を求めた。そして2月25日に福井市で行われたコミュニティ社の株主総会で、球団運営を新会社「福井県民球団」に全面譲渡し、コミュニティ社を解散する方針が全会一致で承認され、新社長には福井新聞社常務の伊東博之が、コミュニティ社の清算人には前社長の吉田がそれぞれ就任。また取締役には引き続き福井新聞社の吉田哲也社長、BCリーグの村山代表が就任した。県民球団社は福井新聞社が300万円を出資し、今後県内を中心に幅広く出資者を募ることになった。

伊東は新会社の商号について「県民に最も分かりやすく、まさに球団が目指すところ」と説明し「選手強化はもちろん、県民により身近に親しんでもらえるチームづくりを行いたい。できるだけ早い段階で、経営の黒字化を目指したい」と運営方針を強調。観客動員も前年約38,000人(1試合平均1,050人)から40,000人超(同1,200人)まで引き上げる目標も示された。私設応援団「福井牙闘会(がとうかい)」のリード(笛、太鼓、トランペット)により、メガホンと声を使っての応援が主となる。ナイターでの主催試合の場合は21時以降の応援は鳴り物の使用を禁止し、太鼓、トランペット、メガホンの代わりに手拍子に変更となる。(ビジターの場合も基本的には21時を原則として鳴り物を禁止とするが、小松末広野球場のように球場側独自の応援ルールがある場合はそれに従う)主催試合の場合7回裏攻撃前に球団イメージソングであるナナ・イロの「YELL(エール)」に乗せて黄色いジェット風船を飛ばす。

(2008年後期リーグ戦より)チャンステーマは3種類あり、一つはJITTERIN'JINN(Whiteberry)の『夏祭り』を使用したチャンステーマ (東京ヤクルトスワローズの応援団チャンステーマでも夏祭りが以前より使われており、その応援を流用している)もう一つは2010年より使用されている「全開福井」(社会人野球の本田技研工業の共通応援歌「全開HONDA」の流用)。さらに、2011年より新チャンステーマとして、福井市民の歌「わたしのまちときめきのまち」のサビ部分を流用したものが使用されている。選手別応援歌が作られているのは一部の選手のみだったが、2010年より野手全員に応援歌が作られた。この応援歌はほとんどが過去に埼玉西武ライオンズで使っていた曲の流用である。(エレファンツ応援団内にも旧ライオンズ応援団員が何人か在籍している)最終回の攻撃には「LOVESONG探して」(ファミコン版ドラゴンクエストIIのふっかつのじゅもん入力画面が原曲)の替え歌を合唱する。

 これは千葉ロッテマリーンズの応援「俺たちの誇り」を流用したものである。得点時、勝利時には「イッチョライ節」が演奏される。

2011年4月27日水曜日

1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌によって

「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」のから「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。(改名の経緯に関しては諸説有り。)明治中期に松平康荘により、城内に農業試験場(松平農試場)が設立、運営された。現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。石垣の一部崩壊に関して、これら施設の重量のせいではないか、と議論されたことがある。本丸御殿の一部は(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築されている。また、天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったという説がある。この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがあり、過去に調査がなされた。福井市足羽5丁目の足羽山麓にある高照山瑞源寺(臨済宗妙心寺派)は、第5代、第7代藩主昌親(吉品)とその母親の高照院の墓所である。

 寺伝に従い平成3年に調査された結果、この寺の本堂と書院が福井城本丸御殿の移築遺構であることが判明した。幕末の万延元年(1860年)「御本丸の御小座敷を以って本堂を再建する」と寺伝にある通り、後世に増改築されてはいるが、『福井城本丸御殿の図』(松平文庫蔵)にみられる天保2年(1831年)に14代斉承が造営した御小座敷(おこざしき)と呼ばれる建物と一致した。 また併設されている書院は、同年同時に作られた、斉承の正妻浅姫(11代将軍家斉の娘)のための御殿「大奥御座之間」であることも建材の墨書などから確認された。1910年(明治43年)8月に福井城址にあった農業試験場(松平農試場)で撲殺されたイヌ科動物が日本最後のニホンオオカミであった」との論文が発表された。だが、この個体は標本が現存していない(福井空襲により焼失。写真のみ現存。)ため、最後の例と認定するには学術的には不確実である。福井弁は、福井県嶺北で話される日本語の方言で、北陸方言の一種である。

同じ福井県内の嶺南地方(敦賀市と旧若狭国)で話される方言(嶺南方言)は福井弁とは大きく異なり、近畿方言に分類される。福井弁には北陸方言特有の間投イントネーションがある。例としては「〜のお」、「〜ざあ」、「〜わあ」、「〜しい」などである。単音節の単語を発音する時は、「目え」「手え」のように、長く伸ばす。これは北陸や関西およびその周辺で見られる特徴である。また、「が」は鼻濁音になることが多い。古い日本語の発音であるシェ・ジェが老年層の福井弁では現在も残っている。「先生」を「しぇんしぇえ」、「千円札」を「しぇんえんさつ」、「全部」を「じぇんぶ」、「全然」を「じぇんじぇん」など。ただし、「臭い→くせ」「遅い→おせ」など、「〜さい・〜ざい」「〜そい・〜ぞい」が変化した「せ」「ぜ」は「しぇ」「じぇ」とは発音されない。奥越では、1円を「いっちぇん」、50円を「ごっじぇん」、100円を「ひゃっけん」と発音することもある。福井市・旧武生市などの嶺北地方中心部は、アクセントで語の区別を行わない無アクセント地帯である(範囲は、さらに広く坂井市・あわら市を含むとも言われる)。

無アクセントは、「箸・橋・端」などの同音異義語を全て同じ高低で発音するもので、北陸地方のなかでは異質なアクセントである。無アクセント地帯を取り囲むようにして、旧三国町などには「三国式アクセント」と呼ばれるアクセントがある。三国式アクセントは、音の下がり目の有無だけを区別するアクセントであり、拍数に関わらずアクセントの型(パターン)が2種類ある二型アクセントである。二拍名詞でいうと、「風」「肩」「雨」などの一・四・五類は下がり目を持ち、助詞なしでは「かぜ」、助詞付きでは「かぜが」(または「かぜが」)になる。また、「川」「花」などの二・三類は下がり目がなく、助詞なしでは「かわ」(または「かわ」)、助詞付きでは「かわが」(または「かわが」「かわが」)になる。ただし、三国式アクセントは型の区別が曖昧で、発音が安定せず揺れのあるアクセントである。福井市内でも三国式アクセントが報告されているが、一方で、福井市・三国町ともに被調査者全員が無アクセントと判定されたこともある。

また旧今庄町付近には、また別体系のアクセントがある。二拍名詞でいうと一・二・三類(風・川・花など)が頭高型(かぜが)、四・五類(肩・雨など)が平板型(あめが)というアクセントである。大野市・勝山市には明瞭な垂井式アクセントが分布し、大野市東部の旧和泉村地区は東京式アクセントである。若者の間では、福井弁よりも共通語を使う傾向が強まっている。加藤和夫らの調査によると、「のくてー(=あほ)」や「だんね(=大丈夫)」や「むだかる(=絡まる)」など、関西弁や共通語で言い換えができる言葉は世代が低くなるにつれて使用が減っており、石川県や富山県よりも共通語化が進んでいるという。一方、しつけで多用される「おちょきん」や、共通語で言い換えられない「かぜねつ」などは根強く使われている。加藤は、福井弁の平板なアクセントは他県の出身者から「訛っている」と指摘されやすく、そのことが方言コンプレックスにつながり、共通語化の一因になっていると分析している。

福井ミラクルエレファンツは、プロ野球独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグに所属する福井県のプロ野球チーム。2008年加盟。球団名の由来、地図で見た福井県の形は象の横顔に似ていること、日本で初めて象が渡来したのが福井県であることなどから、「象」(エレファント)を採用。また、「奇跡」を呼び込むチームとなることを願い、「ミラクル」を冠した。福井県内の野球愛好者を通じて藤田平に監督の選考、紹介を依頼したところ「野球界の底辺を広げるベースボール・チャレンジ・リーグのような活動は、本来我々プロ野球OBが行なうべきもので、大いに協力したい」と自らが監督就任を快諾した。チームカラーは黄色(山吹色)、サブカラーは濃紺。福井大学美術教育サブコース西畑敏秀教育地域科学部准教授の協力を得て、ロゴマーク・マスコットキャラクターなどのデザインが決定された。本拠地について。ベースボール・チャレンジ・リーグでは地域密着を目指し、特に本拠地を定めていないが、主にホーム主催球場は福井フェニックススタジアム、福井県営球場、敦賀市総合運動公園野球場、三国運動公園野球場、美浜町民野球場などを使用する。

福井は球団創設以来、スポンサー収入が予測を大幅に下回った上、チームの成績不振もあって入場料収入やファンクラブの会員数も伸び悩むなどし、2009年春になって経営が逼迫する事態に陥った。BCリーグの加盟球団で経営難が公式に表面化したのは初めてのことである。

2011年4月26日火曜日

福井エフエム放送株式会社は

福井県を主な放送対象地域とする民間放送ラジオ局である。通称はFM福井。JFN系列。とりわけ福井新聞・福井テレビとの関係が強い。開局当初は、福井テレビから社員が出向で派遣されていた。『FM福井ニュース』で福井新聞ニュースを配信する回数は11:55と17:55の1日2回。また、FM福井ホームページでは福井新聞ニュースのオンデマンド配信を実施している。『FM福井ニュース』では、福井新聞のほかに読売新聞・朝日新聞・中日新聞のニュースを配信している。また、土曜・日曜は『JFNニュース』のみを放送している。北陸地方で一番早く開局した民間のFMラジオ放送局であり、平日の自社制作番組の比率が高い。特に、金曜日においては、12時間近くも自社制作番組が連続して放送されている。2009年4月の番組改編で日中の自社制作番組が増えたが、『OH! HAPPY MORNING』(2009年4月から2011年3月までは非ネット)などのJFNC制作番組が打ち切りになったり、非ネットの番組(『デイリーフライヤー』など)があるなど独自編成色も強い。

石川県・滋賀県・京都府の一部でも受信可能。FM福井ではポッドキャスト配信の実施を早くから導入するだけでなく、様々なサイトを展開するなどのインターネットを積極的に活用している。2010年4月からはTwitterも始めている。CMにおいては、ACジャパンのCMが『FM福井ニュース』でスポンサーが付かない場合フィラーとして多く放送されている。また、様々なアーティストが「いい音楽に出会える場所、それがFM福井」とナレーションするCMも放送される(最近では西野カナ、AKB48の高橋みなみ、KAT-TUNの亀梨和也などのバージョンが放送されている)。日曜日に放送されている『福井市政ガイド』では、ダ・カーポが歌う「わたしのまち ときめきのまち」がBGMとして流れている。福井県立歴史博物館は、福井県福井市大宮にある博物館。1984年(昭和59年)に福井県立博物館として開館。当初は総合博物館として自然、歴史、民俗、産業に関する展示などを行なっていたが、自然分野に関する展示は2000年(平成12年)に開館した福井県立恐竜博物館に移管している。

2002年4月から休館して展示内容の全てを入れ替え、2003年(平成15年)3月12日に改めて開館した。『ふくいのモノとモノづくり』をテーマにした「歴史ゾーン」や「トピックゾーン」による展示のほか、博物館の収蔵庫をイメージした展示を行ない資料の整理や調査などの様子を見ることが出来る「オープン収蔵庫」や、映像資料などが見られる情報ライブラリーを備える。福井県立恐竜博物館は、福井県勝山市村岡町にある恐竜を主たるテーマとした自然史博物館である。展示内容の量・質共に極めて高く、日本における恐竜博物館の代表といっても過言ではない。かつて勝山市にある中生代の地層から恐竜の全身骨格が発掘されたことがきっかけとなり、この地に恐竜博物館を建設しようという気運が高まった。限られた予算の地方都市にあって、「恐竜」専門の博物館が必要なのかどうかと県議会では激論がかわされたすえ、当地に博物館がつくられることが決定された。2000年夏に長尾山総合公園内で開催された恐竜エキスポふくい2000のメイン会場として、同年7月に開館した。

敷地面積は約30,000m²で日本最大級。建築設計は黒川紀章。広大な無柱空間には、所狭しと恐竜骨格や化石・標本、ジオラマ、復元模型などが展示されており、恐竜をはじめとする古生物の世界を堪能することができる。人々を魅了する壮大な建築様式や、化石発掘調査の多大なる成果ゆえんに、世界でも数少ない恐竜博物館を代表してカナダにあるロイヤル・ティレル古生物学博物館、中国にある自貢恐竜博物館と並んで、世界三大恐竜博物館と称される。現在でも毎年化石の発掘作業とクリーニング作業が継続して行われている。また、恐竜出前授業など学校教育活動をしており、教育に対しても非常に熱心な博物館といえる。2000年11月23日にはカナダのロイヤル・ティレル古生物学博物館と、2004年3月12日には中華人民共和国の浙江自然博物館と、2010年3月17日にはアメリカ合衆国のカーネギー自然史博物館と姉妹館提携を結んだ。2007年4月26日、同県勝山市長尾山総合公園内の「どきどき恐竜発掘ランド」に運び込まれていた発掘体験用の岩石の中から恐竜の皮膚の痕の化石が発見された。

これは日本国内では初めてのことで、世界でも30例ほどしか知られてない。同年10月、同園の園長から県立恐竜博物館に、化石のようなものが見つかったと連絡があり、同博物館が調査していた。この化石は約1億2千万年前(白亜紀)の手取層群と呼ばれる地層から採取されたもので、幅約23cm、長さ約24cm、厚さ約7cmの細粒砂岩の表面の6割ほどに、細かな多角形や円形などが多数集まった模様がみられる。湿った地面に恐竜が触れた際についた痕が型となって固まり、化石となって残ったと考えられている。エドモントサウルスやパラサウロロフスなど、ハドロサウルス科の植物食恐竜の皮膚に類似しているが、特定はされていない。福井城は、福井県福井市に一部が現存する城である。形式は平城。本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされる。江戸時代には福井藩主越前松平家の居城、城下町として栄える。織田信長配下の軍勢によって朝倉氏が滅亡した後、明智光秀が北ノ庄城に入城し戦後処理にあたったと記録されるが、当時この地に城が存在したかは判然としない。

存在したとしても、簡易な前線基地か砦程度の物であったと推定されている。後、柴田氏が天正3年(1575年)に築城した「柴田氏北ノ庄城」と、後、その跡地に結城氏によって慶長6年(1601年)に築城または改築を受けた「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とがあるため、北ノ庄城は大きく2期に分けられている。現在見られる福井城の遺構は第2期のものである。柴田氏北ノ庄城と結城氏北ノ庄城との関係について、柴田氏のものを結城氏が改築したもの、柴田氏のものの跡に結城氏によってまったく別の城として築かれたものという解釈がある。現状では前者の調査がほとんど進んでいないため不明である。そのため前者と後者を区別しないこともある。1600年に家康の次男である結城秀康が68万石で北ノ庄に入封されると、翌1601年より天下普請による築城を開始する。1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する。

完成した城は2km四方に及んだ。5重の水堀が囲む本丸には4重5階の天守が建てられていたが1669年に焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。幕府から再建の許可が下りなかったとの説あり。

2011年4月25日月曜日

公共事業の抜本的見直しに関する三党合意による公共事業の見直し

福井空港拡張整備計画は地元住民の意見が醸成されていないとの理由で唯一「保留」扱いとされた。翌2001年には全国的な公共事業の見直しの気運もあり、当時の福井県知事栗田幸雄が福井空港拡張整備計画の凍結を表明。事実上、ジェット化の構想は白紙となった。2003年6月27日、県議会で福井県知事の西川一誠が福井空港拡張整備計画の断念を表明。「北陸新幹線・小松空港重視」に政策を転換し、現滑走路の利用を軸に有効活用を模索することになった。2006年9月30日、国土交通省大阪航空局福井空港出張所と気象庁東京航空地方気象台福井空港出張所が閉鎖。同年10月、空港管制業務が中部国際空港からの遠隔管制 (RAG) に移行した。英『インデペンデント』紙が2009年6月18日に発表した「世界で最もおかしい空港名」(World's funniest airport names) の「最も野蛮な名前」(The rudest) 部門で、福井空港は第1位に選ばれている。その理由としては、2008年に大リーグに移籍した福留孝介の名前が「FUCK YOU DO ME」と聞こえるとして論議が巻き起こったのと同様に、英語圏の人々にとって「Fukui」という単語も際どい発音であると見られている。

なお、「Fukui」に近い発音のものでは「Fak Fak空港」(インドネシア)も選ばれている。福井鉄道株式会社は、福井県でバス、鉄道などを運営している企業である。商号は福井鉄道株式会社としているが、総売上の75.1%を自動車運送事業が占め、鉄軌道事業の割合は16.7%に過ぎない。鉄軌道事業は1963年以降赤字が続き、バス事業や不動産事業などの利益で補填してきたが、支えきれなくなってきている。2006年度決算で累積損失約22億円、借入金約30億7000万円。2007年8月には、このままでは鉄軌道部門の存続が難しいとして、沿線各自治体に支援を要請した。福井県や親会社の名古屋鉄道(名鉄)、福井銀行など取引金融機関の支援協議が難航するなどの紆余曲折を経て、2008年12月29日、名鉄が増資(1株を10億円で引き受け)した上で、増資された1株を含む保有全株を地元自治体の出資する第三セクターや地元支援団体へ1株1円で全面譲渡し、経営から撤退した。これを受け、沿線3市は「法定協議会」を設置し、県および支援団体の支援により存続させることが決まった。

2008年11月25日には、臨時株主総会で、福井銀行出身者(元福井鉄道顧問)が新社長に選任された。2009年2月24日に国土交通省に申請していた「鉄道事業再構築実施計画」が地域公共交通活性化法に基づき全国初の認定を受け、10年間で10億の国庫補助が設備更新に充てられるほか、固定資産税の優遇措置を受けられることとなった。一般路線バス、高速路線バスおよび貸切バス事業を運営。福鉄バス及び福鉄観光の通称も用いられている。一般路線は越前市、鯖江市など福井県嶺北南部、および敦賀市など同嶺南東部を中心に運行しているが、鉄道事業の福武線と並行して福井市中心部へ乗り入れているほか、大飯郡おおい町にも路線がある。また、当該地域の一部自治体よりコミュニティバスの運行を受託している。鉄軌道事業では、福武電気鉄道により開業した越前武生 - 福井市内間の福武線のほか、鯖浦電気鉄道により開業した水落 - 織田間の鯖浦線(せいほせん)や、武岡軽便鉄道(後に武岡鉄道、南越鉄道と改称し福武電気鉄道に合併)により開業した社武生 - 粟田部 - 戸ノ口間の南越線の2路線を擁していたが、1973年に鯖浦線が廃止された後、1981年に南越線が廃止されて以降は福武線だけを営業路線としている。

福井港は、福井県北部の坂井市、九頭竜川河口部に位置する港湾。福井県が管理する地方港湾である。港則法上の特定港に指定されている。三国港地区と本港地区からなる。もともと九頭竜川河口の三国港がこの地区の中心港であった。後に日本海側の三里浜砂丘に大型港湾を整備し、あわせて福井港と称するようになった。2009年には、大型港湾地区を本港地区と称している。本港地区では年間180万トン程度の貨物を扱う。古くから三津七湊の1つでもあって日本を回航する北前船、及び福井城下はじめ九頭竜川水系の水運拠点として繁栄した三国港(みくにこう)(別名:三国湊(みくにみなと)、坂井港)がその前身。港内には越前がにとアマエビの水揚げで有名な魚市場(坂井市三国町宿)がある。旧来の港である九頭竜川右岸地区は、食品流通業界や市場向かいにあるえちぜん鉄道三国芦原線の終着駅名として旧称の三国港を用いており、一般的にも工業地区と区別する意味を含め三国港と呼ばれている。福井港の本港を中心とする地域には、テクノポートふくいという大規模な工業団地が建設されている。

福井新聞は、福井県で発行している県域新聞。株式会社福井新聞社が発行する朝刊専売紙である。発行部数は210,096部で、普及率は78%と高率。創刊。1940年から1942年にかけて戦時報道統制により、県下すべての新聞が統廃合され「福井新聞」一紙体制となる。福井市大和田町(福井放送の斜向かい)に新社屋を完成させた。福井市春山の旧社屋を「福井新聞 さくら通りビル」としてリニューアルオープン。福井CSKなどが入居。当時社長であった吉田耿介が急逝。後任に実弟の吉田哲也が社長就任。はじめに嶺南版を印刷し、嶺北版に差し替えた後に再び印刷を行う。ちなみに、その際に他の紙面についても事件事故の発生や進展で差し替えられることがある。NHKの地上波テレビ、ラジオはNHK福井放送局の番組編成。NHK BSの再編により2011年4月1日から番組表の構成が変わっている。福井文化テレビジョンは福井県を放送対象地域とする民放テレビ第3局として開局準備を進めていた放送局(放送会社)である。

福井県への民放テレビ局第3局用の周波数が割り当てられた際に、12件の申請があったが、1998年11月までにすべての免許申請が取り下げられ、1999年1月18日付にて、第3局用の周波数の割り当てそのものが取り消された。なお、送信所は福井市足羽山、周波数は(アナログ)UHF23chを予定していた(この周波数は現在、石川県の北陸朝日放送親局デジタル放送用として割り当てられている)。開局断念の理由として、ネットワークサービス福井(現・福井ケーブルテレビ、1988年10月開始)、嶺南ケーブルネットワーク(1989年11月開始)など、福井県内に相次いでケーブルテレビ局が開局したことや、(福井県に単独の系列局を持っていなかった)TBS・テレビ朝日両局が経費の関係上、系列局開局を拒否したことなどが挙げられている。特に当時のTBSの社長磯崎洋三が、福井県内の新局設置を断念すると明言していた。なお、福井県内のケーブルテレビ局では、TBS系列が嶺北で北陸放送(福井市に支局あり。

ただし、南越前町は除く)、嶺南で毎日放送(南越前町を含む)、大野市東部(旧・和泉村)でCBCテレビが放送(再送信)されている。また、テレビ朝日系列も嶺北では北陸朝日放送、嶺南ではABCテレビ、大野市東部(旧・和泉村)では名古屋テレビ放送(メ~テレ)が放送(再送信)されている。また、中日新聞福井版のテレビ欄などにも、系列局がないTBS系列のCBCや毎日新聞福井版のテレビ欄にもMBSの広告も現在も掲載され、現在に至っている。なお、福井県におけるJNNのニュース取材担当は、現在は嶺北が北陸放送、嶺南が毎日放送が担っている。

2011年4月24日日曜日

北北西-南南東方向の左横ズレで

従来から把握されていた断層の活動ではなく、200m以上の厚い堆積層に埋もれて地表に現れていない活断層が活動した。当時、地表には断続的に福井県坂井郡芦原町北部から、金津町、坂井町、丸岡町、松岡町を通り福井市南東部付近まで続く総延長約25kmの地割れが生じ、のちに福井地震断層と命名された。後年の調査により福井平野東縁断層帯の西部の活動が関与している事が判明している。上下方向の移動量は、1000年で0.1-0.2m程度と推定されているが、活動間隔は不明である。発生当時戦後最多となる死者を出し、大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)などと並ぶ、日本の災害史上最悪クラスの震災となった。2011年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ戦後3番目の規模の震災である。死者のほとんどが、当時あわせて人口20万余りにすぎなかった福井市・坂井郡(現坂井市)に集中しており、その被害率(死者は人口の1%超)は甚大なものであった。

福井平野では、全壊率が60%を超えるなど被害は甚大だった。九頭竜川の堆積物により福井平野の地盤が弱いことと、福井市中心部では人口が密集しており、戦後復興期、建物はバラックが多く、不安定な構造だったためにかなりの建物が倒壊している。震源地直近の丸岡城(丸岡町)も倒壊した。大和百貨店福井店も1階が潰れて全壊する被害を受け、福井地震の象徴として有名になったが、一方で隣接していた福井銀行は全く被害を受けなかった。地中の基礎となる鉄骨の差が、両者の被害に対照的な違いを生んだとも言える。福井銀行は地下10mまで90cm間隔で500本の杭をびっしりと打ってあった。頭取が元技術者であり強固に建てさせていたという。発生時刻が16時過ぎで、夕食の支度をしている家庭が多かったため、福井市中心部では、24件の火災が発生した。地震のため、道路が通行不能となったり、水道が破損したことにより、消火に時間を要したため被害が拡大した。

農業地区でもほぼ全ての家屋が倒壊したものの、住民が屋外で農作業をしていたためか死者は少なかった。この地震による混乱に対処するため、福井市で戦後初の公安条例である「災害時公安維持に関する条例」が制定された。福井地震を契機に、気象庁は震度階級に「震度7(激震)」を新たに設定した。地震から50周年となる1998年6月26日、27日、28日の3日間にわたり、福井市で市主催の世界震災都市会議が開かれ、福井地震の教訓を元に各都市が防災について話し合った。建築基準法に地域別の設計震度を導入。1945年の福井大空襲、1948年の福井地震、九頭竜川堤防決壊と、短い期間に3度も福井市は壊滅的な被害を受けてその度に復興を遂げてきた。このことから、福井市は「不死鳥の町」を合言葉にしている。『福井青春物語』は、森川陽一郎監督による日本映画。2005年5月1日映画祭公開、同年10月22日ロードショー公開。2007年11月14日に著作権フリー宣言された。ご当地映画。

全キャスト、全スタッフ、全ロケ地が福井県内という福井尽くしの青春映画。登場人物の全員がコテコテの福井弁を話す為、共通語の字幕が付いている。福井を代表する食べ物のいくつかが登場するが、女子高生が水ようかんを食べながら町を歩いているシーンなど、明らかに大げさな表現もある。福井に住む津田寛治は映画監督を夢見て、友人の小野寺昭憲、穴田行央と共に、自主製作映画を撮っていた。 ある日、津田に転機が訪れる。同じ福井出身で有名俳優の山本ヒロシが津田の映画に出演してくれることが決まったのだ。友人は皆協力的で、は音楽を、服屋オーナーの辻本は衣装を提供すると言ってくれている。しかし津田は、なかなか脚本が書けない。やがて福井で本当にいい映画が撮れるのかという疑問を抱き始める。そんなとき、津田は祖父に怪しげな呪文をかけられ、タイムスリップする。──高校時代、人生の分岐点が訪れる。彼女だった和歌子は女優になるために上京したが、津田は悩んだ挙句、小野寺と穴田と共に福井に残って映画を続けることを決めていた。

タイムスリップによって人生の分岐点を目の当たりにした津田は、人生をやり直したいという願望から、和歌子と共に上京する道を選ぶ。 上京から数年が経ったが、津田の映画は成功していなかった。山本ヒロシを主演にした映画の企画書を持って山本の事務所を訪れたが、山本に会うことはできなかった。 その頃、福井に残っていた小野寺と穴田の映画に、山本が出演することが決まっていた。津田は福井に帰り、自分の企画を小野寺たちに提案するが、かつての親友たちとは確執が生まれていた。──ここで津田は目が覚めた。祖父に呪文をかけられた時に眠っていて、タイムスリップは夢の中の出来事だった。すぐに津田は脚本を書き始めた。 台詞を福井弁にして完成した脚本を見た山本ヒロシは驚いた。ある日の夜、福井駅前。津田の映画の撮影現場に、山本の姿があり、多くのエキストラが集まっていた。有名俳優の演技に熱狂する人々。歓声はいつまでも続いた。常備消防の広域化を目的に、福井市、足羽郡美山町及び丹生郡越廼村・清水町の1市2町1村で、一部事務組合の福井地区消防組合を設立。

福井市消防本部は組合消防本部に移行。南消防署を新設、従来の消防署を中消防署に改称。中消防署併設であった消防本部を同署隣接地に移転。東消防署を新設。臨海消防署を新設し、現在の4消防署体制となる。東消防署隣接地に福井市総合防災センター完成、消防本部を同所に移転。美山町・越廼村・清水町の福井市編入に伴い、福井地区消防組合を編入前日限りで解散し、福井市は直轄する消防組織として福井市消防局を設置。管轄区域は旧組合の区域と同一であり、市は内部組織及び資産をそのまま継承した。福井空港は、福井県坂井市春江町江留中に位置する地方管理空港である。定期便の発着はないが、自家用プロペラ機、グライダーなどの発着が行われている。年間着陸回数は5,000回程度。福井県警察のヘリコプター「くずりゅう」、県の防災ヘリ「Blue Arrow」の基地にもなっている。1964年に工事が開始され、1966年開港した。全日本空輸がフォッカー F27を投入(1972年4月1日からはYS-11)し、東京国際空港(羽田)線を1日1~2便就航させた。

しかし、1973年に近隣の小松空港がジェット化された影響で乗客数が減少。滑走路が短く機体を大型化できない福井空港の発着便は採算が悪化し、1974年12月1日からは名古屋乗継となり、1976年3月限りで定期航路が廃止された。これに対し、1985年、福井県が滑走路の延長を2,000 mに拡張する計画を決定。調査が行われるものの、地元住民からの強硬な反対運動に遭う。1986年の第5次空港整備5箇年計画に福井空港が組み入れられ、滑走路延長へ向けた動きもあったが、依然住民の反対は根強く、具体的な取り組みができないまま計画は事実上放置された。一方で小松空港へは空港連絡バスの整備が行われ、アクセス改善が進んだ。