2011年9月30日金曜日

麹町区有楽町に

ドイツ・ルネサンス様式の鉄骨レンガ造2階建の東京市役所が完成する。同地は現在の千代田区丸の内三丁目に当たる。このときの建物は戦災で焼失し、戦後に新庁舎に建て替えられ、現在はさらに東京国際フォーラムに建て替えられている。1898年(明治31年)10月1日、東京・大阪両市有志同盟の請願が結実し「市制特例撤廃法」が成立、東京市に一般市制が施行され、東京府庁内に市役所が開かれた。府知事の市長兼務は廃止されて東京市長は官選となり、初代市長には松田秀雄が任命された。1926年(大正15年)からは市議の互選により市長が選出されるようになった。大正期に入ると東京市への人口流入はさらに進み、1920年(大正9年)の人口は370万人になった。また、大正年間に入る頃から大東京という表現が見られるようになった。多くの場合それは従来の東京市(15区)と隣接5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)に、しばしば北多摩郡砧村・千歳村を加えた地域を指していた。

これは現在の東京都区部(東京23区)の区域に相当する。1922年(大正11年)4月24日には旧都市計画法に基づき、東京市と上記6郡84町村が「東京都市計画区域」として定められた。1923年(大正12年)9月1日、東京市は関東大震災にみまわれ、特に下町が大打撃を受けた。この影響で1928年(昭和3年)から1932年(昭和7年)の近隣町村編入までの間、大阪市に人口規模で抜かれることになった(→都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位)。1932年(昭和7年)10月1日、近隣の5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)を編入して新たに20区を置き東京35区となった。1936年(昭和11年)10月1日、北多摩郡砧村・千歳村を世田谷区に編入し現在の東京都区部の範囲が確定した。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日に内務省主導で東京都制が施行され、地方自治体としての東京市と東京府は廃止されて東京都が設置された。それまでの東京市役所の機能は、以後は東京都庁に移された。

旧東京市35区は従来どおり議会(区会)をもつ自治体としての性格を保ちながらも東京都の直轄下の区とされ、従来東京市の吏員が任命されていた区長には官吏が任命されることとなり、東京都長官の指揮監督を通じて内務省による統制が強化された。35区は1947年(昭和22年)3月15日に東京22区に再編され、同年5月3日の地方自治法施行により同法の定める特別区となった。同年8月1日、旧練馬町ほか4村の区域が板橋区から分離して練馬区となって東京23区となり、現在に至っている。東京都章及び東京都旗は旧東京市章を継承したものである。ただし、現在では1989年(平成元年)に制定されたTの字を図案化したシンボルマークの方がよく使われる。「都民の日」に当たる10月1日は、一般市制による東京市発足の日に因んでいる。東京都知事は、日本の首都とされる東京都の首長である。東京都は第二次世界大戦中の1943年に行政の効率化を図るために東京府と東京市の統合によって設置され、現在も市町村の事務の一部を管掌している。

東京都は千代田区を管轄に含んでおり、なおかつその立場から日本の首都であるとされる。そのため地方自治体の首長の中でも注目度が高く、知事選挙の時も特に注目される。かつては、東京都制(1943年~1947年)による東京都の首長は官選の東京都長官(親任官)であり、閣議に出席することもできた。現在でもその名残があり、知事の給与は国務大臣とほぼ同額である(ただし石原慎太郎の知事就任時から10%カット中)。東京府は大阪府、京都府と同格であったが東京都はカナダの旧自治領であるトロント・ドミニオン(Toronto Dominion)に倣って制定され、地方自治法上は他の県と同格でありつつも制度の運用面において特別な扱いを講じた自治体である。首府の東京市の行政区は東京都の発足とともに東京都の行政区となるが、1947年に22区、さらに23区に再編され、同年の地方自治法の施行により特別地方公共団体である東京特別区(通称:"東京23区")となった。これにより制度上は東京という名称で一体として統治される都市は消滅し、都市としての自治権は各区へ移管・委譲されたことになる。

現在の東京都はそのような歴史的経緯から、“東京県”としての性質と自治的都市の連合体としての性質を併せ持ち、旧神奈川県域である東京都下にはユニークな市町村が多い。中でも随一の繁華街吉祥寺を擁する武蔵野市や、都市公団(旧:住宅都市整備公団)による郊外住宅街開発により成立した多摩ニュータウンの中心である多摩市、八王子市などは全国的にみても優良な自治体である。最近の東京都知事は鈴木俊一(無所属)、青島幸男(無所属)、石原慎太郎(無所属)で、1991年以降政党の推薦を受けた知事は誕生していない。東京都の自治体としての性質から、他の道府県知事に比較すると、パフォーマンス能力にも長けた人選がなされる傾向もみられる。また、公選になって以降は「東京の顔」にふさわしい人物が東京都知事に就任していると評されている。東京都は東京府と東京市が合わさって成立したため、旧東京市地域を管轄する地方自治体として公的に位置づけられる性格もあり、オリンピックの招致活動などでは東京都知事が東京の市長として扱われる。

これはロンドン(グレーター・ロンドン)と似た構造となっている。これは前述の東京都区部と同じ範囲である。東京都は、府県制時代の東京府の性格も有している。したがって、東京都は日本の47都道府県のひとつでもある。東京府の行政区域を受け継いだため、多摩地域や伊豆諸島・小笠原諸島までの広大な海域・島嶼も含まれる。府県制から都制へ移行した1943年(昭和18年)まで、東京府には東京市・八王子市・立川市の3市があったが、都制施行と共に東京市が23区へ解体されたため、東京都下の市は八王子市と立川市の2市に減った。その後、新憲法施行に伴い地方自治法が施行され、東京都三多摩地区には2市以外にも多くの市が誕生した。東京圏は、東京都区部を中心とする都市圏である。法令上は、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県及び茨城県の都県域のうち、東京都区部及びこれと社会的経済的に一体である「多極分散型国土形成促進法施行令」第6条で定める広域をいう。

ここでは様々な法令が引用されているため難解であるが、まとめると次の区域となる。一般的には、東京都心から50kmから70km程度の圏内を首都圏とみなす定義、あるいは、利根川以南の島嶼部を除く南関東1都3県(東京都・埼玉県・神奈川県・千葉県)を首都圏とみなす定義が多く見られる。近年は新幹線などの交通網の発達により首都圏の範囲は広がっているととらえて、北関東や甲信越地方、静岡県、福島県浜通り・中通りなどを含める論議もある。ただし定義によっては、市街地の連続性や交通網の発達度などの要素が見落とされていたり、科学的かつ厳密なものとは言い切れない場合もある。

2011年9月29日木曜日

東京都制とは

現在の東京都の地域に存在していた東京府と現在の東京23区(当時の東京市は35区)の地域に存在していた東京市を廃止し、新たに東京都という広域行政機関かつ基礎的地方公共団体を設置することを定めた日本の法律である。この法律は1947年の地方自治法の施行に伴い廃止された。1943年(昭和18年)7月1日に東京都制施行。東京府と東京市を廃止し、東京府の存在していた地域に東京都を設置した。東京府と東京市は廃止されたが、ともに条例等を東京都に引き継いだ。 東京都制の目的は「帝都たる東京に真の国家的性格に適応する体制を整備確立すること」、「帝都に於ける従来の府市併存の弊を解消し、帝都一般行政の、一元的にして強力な遂行を期すること」、「帝都行政の根本的刷新と高度の効率化を図ること」にあった。太平洋戦争下における、いわゆる戦時法制のひとつである。東京都制による東京都の長は、官選による東京都長官である。議決機関として東京都議会と東京都参事会を設置した。

東京都長官以下、統治機構の官制については天皇の大権に属するため法律である東京都制ではなく勅令である東京都官制(昭和18年6月18日勅令第503号、昭和18年7月1日施行)によって定められている。従前との相違点は、旧東京市の範囲に設置した区が東京都の直轄になっている点である。区の執行機関である区長は従前は市の有給吏員として東京市において選任されていたが、東京官制によって東京都長官が官吏である書記官をもって選任することに改められた。区は従前どおり法人格をもった自治体としての性格を一応は保ったが、都との関係について様々な合理化が図られ、都の強力な監督下に置かれた。多摩地域や島嶼部の市町村が基礎的地方自治体であることは従前と変わりがないが、これらに対しても都の監督が強化された。戦後、1946年9月に市制(明治44年法律第68号)・町村制(明治44年法律第69号)、府県制(明治32年法律第64号、この改正により道府県制と改称)とともに東京都制も改正された。

この改正により区の自治権が強化されて区長は区長公選制により公選とされた(ただし、1952年~1975年の間は地方自治法改正によって特別区の独立性の制限と都への従属の強化が図られたため、非公選の選任制となる)。同時に東京都長官にも公選制が導入された。1947年4月に実施された最初の東京都知事選挙はこの改正東京都制によるものであり、その時点では東京都長官を選出するものとして実施された。すなわち最初の公選都知事とされる安井誠一郎は4月に最後の東京都長官として選出・就任した後、5月3日の地方自治法施行によって東京都知事に移行したものである。東京都制は地方自治法(昭和22年法律第67号)附則第2条により、1947年5月3日の日本国憲法(昭和21年11月3日憲法)施行に伴い、同日廃止された(同条但書により、東京都制第189条乃至第191条、第198条はなお効力を有する)。また、昭和22年法律第67号附則第2条但書の効力も、昭和39年7月11日法律169号附則第2条及び昭和49年6月1日法律第71号附則第2条、平成10年5月8日法律54号附則第2条、平成11年7月16日法律第87号附則第15条により、効力を再び制限された。

現在の東京都は東京都制ではなく、地方自治法に基づいている。東京都の名称は同法第3条第1項の「地方公共団体の名称は、従来の名称による」という規定に基づくものであるが、特別区の存在を除いて、同法上は他の道府県との違いはない。東京都制下との違いは、首長である東京都知事及び特別区の区長・区議会議員が公選制になるなどである。東京都制、道府県制、市制及び町村制は、これを廃止する。但し、東京都制第189条乃至第191条及び第198条の規定は、なお、その効力を有する。地方自治法附則第2条ただし書によりなお効力を有する旧東京都制第189条から第191条まで及び第198条の規定は、改正後の地方自治法第281条第2項第一三号から第二〇号までに掲げる事務及び第281条の3第2項に規定する特別区の区長の権限に属する事務に関しては、その適用はないものとする。地方自治法附則第2条ただし書の規定によりなおその効力を有することとされる旧東京都制(昭和18年法律第89号)第191条の規定は、法律又はこれに基づく政令により市に属する事務で改正後の地方自治法第281条第2項の規定により特別区が処理することとされているもの並びに同法第281条の3第1項の規定により特別区の区長が管理し、及び執行することとされている事務に関しては、その適用はないものとする。

地方自治法附則第2条ただし書の規定によりなおその効力を有することとされる旧東京都制(昭和18年法律第89号)第191条の規定は、法律又はこれに基づく政令により市に属する事務で第1条の規定による改正後の地方自治法第281条第2項の規定により特別区が処理することとされているもの並びに同法第281条の7第1項の規定により特別区の区長が管理し、及び執行することとされている事務に関しては、その適用はないものとする。新地方自治法附則第2条ただし書の規定によりなおその効力を有することとされる旧東京都制(昭和18年法律第89号)第191条の規定は、法律又はこれに基づく政令により市が処理することとされている事務で新地方自治法第281条第2項の規定により特別区が処理することとされているものに関しては、その適用はないものとする。「東京都制」構想そのものは、明治時代より存在しており、1895年には東京府を廃止して東京15区を「東京都」として独立させて政府の支配を強化し、他の地域を多摩県として再編成させる「東京都制および多摩県設置法案」が提出されたが、帝国議会(第9議会)や東京市民の反感を買って廃案となり、野村靖内務大臣は責任を取って辞任している。

東京市は、旧東京府東部に1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)までの間に存在していた市である。市域は現在の東京都区部(東京23区)に相当する。1878年(明治11年)7月22日、東京府は府下を区と郡に分かち、府税収入の多い地域を吟味選定のうえ、郡区町村編制法第2条の定めるところに従って旧幕時代の地称を付し麹町区・神田区・浅草区以下の東京15区を設けた。同時に、市街地に隣接する旧街道宿場および農村部に荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡を置いた。1888年(明治21年)、東京市区改正条例公布。政府の機関として東京市区改正委員会(委員長・芳川顕正元東京府知事)が置かれる。1889年(明治22年)5月1日、前月施行の「市制・町村制」に基づき東京府は府下に東京市を設け旧15区の区域をもって市域となして、区部の財産管理を移掌した。東京市の市制は、同3月公布法律12号「市制中東京市京都市大阪市二特例ヲ設クルノ件」(市制特例)によって一般市とは一部異なる変則的な市制だった。

東京府知事および府書記官が市長を兼務しており、市役所も市職員も置かれなかった。その一方で従来の15区はそれぞれ単独で区会(議会)を持ち、東京市の下位の自治体とされた。

2011年9月28日水曜日

江戸時代、江戸の市域は

「朱引」と呼ばれ、その範囲は「朱引き線」によって明示されていた。明治2年2月19日(1869年)、江戸に代わった東京府は、新たな朱引を定めた。これは皇居を中心とし、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めるものであった。同年3月16日には、朱引内に50区の区画が制定され(五十番組制、五十区制)、さらに明治4年6月(1871年)にはその範囲が縮小されて44区に再編成された(朱引内四十四区制)。1878年(明治11年)、郡区町村編制法が制定され、宮城(皇居)周辺の都心部に、麹町区、神田区、日本橋区など15区が定められた。1889年(明治22年)には、この15区に市制が施行され、東京市となる。明治時代には、およそ明治通りの内側が東京市とされ、外側は南豊島郡渋谷村などの町村であった。このときの東京市は、現在の千代田区、中央区、港区、文京区、台東区の全域、および新宿区・墨田区・江東区の各一部を範囲としていた。1932年(昭和7年)、周辺82町村が編入され、面積・人口が一気に拡大した。

このとき、既存の15区に加えて、新たに20区が定められ、35区となった。現在の東京都区部の区域は、このときの35区とほぼ重なる。1943年(昭和18年)には東京都制が施行されて東京府および東京市は廃止され、35区は東京都の行政区となった。1947年(昭和22年)に地方自治法が公布されて35区は再編され、23の特別区となった。制度創設から長らく、特別区は東京都の内部的団体と位置付けられ、日本国憲法93条2項の「地方公共団体」にあたらないと解されてきた。しかし、2000年(平成12年)の地方分権改革により、特別区は「基礎的な地方公共団体」と規定され、名実ともに独立した地方公共団体となった。東京高速道路及びその高架下(西銀座デパート等)- 皇居外濠、京橋川、汐留川を埋め立てて作られたものであるが、外濠は千代田区と中央区、汐留川は中央区と港区の境界線になっており、東京高速道路及びその高架下は区界の上に存在する。こうした経緯により、その行政上の所属は未確定のままである。

中央防波堤内側埋立地、中央防波堤外側廃棄物処理場 - 江東区・大田区が帰属を主張し未確定となっている。大手町から丸の内、霞が関、汐留、六本木にかけての地域は、オフィス街として大企業の本社や中央省庁が立地し、日本の経済・行政の中心地となっている。他に品川、新宿などの副都心もオフィス街となっている。2009年6月、CBリチャード・エリス(CBRE)グループによるオフィス不動産市場調査によると、東京都心はロンドンのウエスト・エンド地区やニューヨークのミッドタウン地区を凌ぎ、世界で最もオフィス価格が高いと評価されている。百貨店や専門店、商業ビルが多数立地している商業地は、銀座・有楽町エリア、渋谷エリア、原宿・青山・表参道エリア、東京駅・日本橋エリア、新宿エリア、浅草・上野エリア、池袋エリアの7大エリアが主な所である。これらの中でも銀座は、ニューヨークの五番街、パリのシャンゼリゼ通りと共に、高級百貨店やラグジュアリーショップ、ブランド旗艦店などが立ち並ぶブランドストリートとして世界的にも知られる。

他に有名な街(繁華街)は、六本木・赤坂・麻布エリア、恵比寿・代官山エリア、秋葉原、お台場、新橋、自由が丘、神田、神保町、神楽坂、高田馬場、高円寺、蒲田、北千住、錦糸町、下北沢・三軒茶屋エリア、巣鴨、中野、赤羽、練馬、五反田なども有名な街である。近年、オフィス街に商業施設がオープンしたり、商業地にマンションやオフィス棟が建設されるなど、オフィス街、繁華街、住宅地の区別が曖昧になってきている。都心も、行政区単位で都心3区や都心5区、都心7区などを指す場合もあれば、首都高内側の都心11区を指す考えまで様々であり、街も数え上げれば膨大になる。フランスのタイヤメーカーミシュランが発行するグルメブック、『ミシュラン東京日本語版2008』が2007年11月に刊行された。アジアでは初のことである。2008年版では23区のうち8区が対象となり、三つ星レストランが8店と、パリに次いで多く、星を獲得した店の合計は世界一多い150店、星の総数は191となった。

総責任者のジャン=リュック・ナレは「東京は世界一の美食の都」と語り、ロイター通信は、「パリやニューヨークやローマは、もうどうでもいい。ミシュランによると、グルメの本場は東京なのだそうだ」と伝えた。2010年度版では、三つ星が11店、二つ星が42店、一つ星が144店となり、星の総数が史上最多の261となった。 三つ星の数でもパリの10店を抜き、世界一となっている。ミシュランガイドの総責任者のナレは、「東京は世界の美食の首都だ」と評価し、2位以下は京都、パリの順だと発言している。さらに東京はパリの4倍の飲食店があるが、質も格別と絶賛した。東京都区部の市外局番としては03が使用される。なお、市外局番03は、東京都狛江市の大部分と調布市・三鷹市の一部地域でも使用されている。しかし、東京03は隣接の神奈川県・埼玉県・千葉県では使用されていない。 東京都区部の市内局番は1960年2月7日から3桁(それ以前は2桁。詳しくは日本における市外局番の変更を参照)であったが、対象となる電話加入者の急激な増加に対応しきれなくなってきたため、1988年2月8日から新規加入者を中心として段階的に5で始まる4桁のものが使い始められた。

1991年1月1日からは、既存の3桁の市内局番の利用者についても、その前に3を加えた4桁に変更することで、全面的に4桁に切り替えられた。また、2003年ごろから4または6で始まる4桁が増えてきた。大田区羽田地区に所在する第一種空港。羽田地区一帯は、大田区の未来核として位置付けられており,空港沖合展開により区に返還される土地の利用について検討が行われている。アクセス路線として東京モノレール羽田線と京急空港線が空港内に直結している。羽田空港は2010年10月21日に4本目の滑走路と新しい国際ターミナルの供用が開始され再国際化した。これにより32年ぶりとなる台湾以外の航空会社の国際線定期便が就航した。これまで定期チャーター便扱いであった中華人民共和国、大韓民国、香港、台湾向けの路線は定期便に格上げされ、増便された。羽田空港以外の国際線は千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)が最寄となる。成田空港は、第一ターミナルビルの地下に成田空港駅、第二ターミナルには空港第2ビル駅が設置されており、JR成田線と京成本線が所属している。

そのため、アクセス路線としてはJR東日本が東京駅を発着する各路線方面から空港へ直結する列車成田エクスプレス(NEX) とエアポート成田、京成電鉄は京成スカイライナーをそれぞれ運行している。23区東部、東京湾に面する港湾。都が管理している。港則法上では「京浜港東京区」といい、「京浜港川崎区」の北部に隣接する。日本の主要な国際貿易港の一つで、横浜港と共に「スーパー中枢港湾」として国から指定されている。

2011年9月27日火曜日

5月1日に東京府内15区を

東京府から分立して市制を施行し東京市としたが市制特例により東京市長は府知事が兼ねた(府知事の市長兼務は1898年(明治31年)10月1日に廃止)。1896年(明治29年)、東京市を「都」に改めて官選都長を置く「東京都制案」、府郡部を県とする「武蔵県設置法案」ともに帝国議会不成立。1897年(明治30年)、市長を公選とする「東京市制案」、府郡部を県とする「千代田県設置法案」ともに帝国議会不成立。日本が日中戦争に突入すると戦時体制構築のため、政府は東京府地域の政治・経済の統制強化を要求するようになった。1938年(昭和13年)6月、内務省は「東京都制案要綱」を発表したが東京市35区は内務省案反対を決議した。しかし1943年(昭和18年)1月、政府が帝国議会に提出した「東京都制案」が可決され同年7月1日、東京都制によって東京府・東京市が廃止されて「東京都」が設置された。都制により東京府東京市は廃止され、旧市域は東京都35区となった。一方、東京府下で市制を施行していた東京府八王子市と東京府立川市はそれぞれ東京都八王子市と東京都立川市となった。

江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書とは、明治元年7月17日(西暦では1868年9月3日)に、明治天皇が発した詔勅である。天皇が江戸で政務を執ることを宣言し、江戸を東京と改称することを内容とする。車駕東幸の詔書、東京遷都ノ詔、東京奠都の詔とも呼ばれるが、公式な略称・呼称ではない。一般の詔書と同様、この詔書にも正式名称はない。便宜的に付された名称は、太政官の編纂による『詔勅録』では「江戸ヲ東京ト改称ノ詔」とし、内閣官報局『法令全書』は目録や索引で「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」とし、国立公文書館では件名を「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔」(一字違い)としている。また、通称の「東京奠都の詔」は、後年に至って用いられたものと思われる。1940年(昭和15年)に文部省が明治維新の歴史を詳細に記した『概観維新史』(文部省維新史料編纂会編)では、この詔を「東京奠都の詔」と称し、1872年(明治5年)に英照皇太后が東京に移るに至って事実上の東京遷都となったとした。

その翌年の本編『維新史』第五巻では「車駕東幸の詔書」と称し、この詔を奠都の旨を公表するものではないと解釈し、皇城を宮城と改称するに至って東京が事実上の皇都の地位を得たとしている。なお、太政官あるいは内閣記録局が、1885年(明治18年)頃に編纂した『太政官沿革志』(親政体制一)では、「車駕東幸、十月十三日ヲ以テ東京城ニ抵リ、本城ヲ以テ奠メテ皇居ト為シ、踰ヘテ一日先ツ親政ノ令ヲ布ク。是ヲ奠都以還親政ノ始トス。」として、10月17日の「布告」(『詔勅録』によれば「東幸親政正議直諌セシムルノ詔」)に先立つ、天皇の東京入城を「奠都」の契機としており、「奠都」の語自体は早くから用いられていた。。この詔書は、本文と副書から成る。本文は、端的に天皇が江戸で政務を執ることと、江戸を東京に改称する旨を述べている。副書は、天皇が東京で政務を執ることの意義を述べている。東京15区(とうきょう15く)とは、明治11年(1878年)から昭和7年(1932年)まで東京に存在した行政区域群のことである。

昭和7年(1932年)に東京市が周辺町村を合併して「大東京市」を構成する以前の、いわゆる旧市域に含まれる15区を指す。その内訳は、麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区である。この配置順は皇居のある麹町区を起点に、「の」の字型を描くように指定されたものであり、公式には必ずこの順番で並べられた。また近郊6郡についても、荏原郡、南豊島郡、東多摩郡(1896年に南豊島郡・東多摩郡は豊多摩郡に統合)、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡と西南から時計回りで東南に弧を描くように配された。なお、パリにおける1区から20区までの順序も、中心から時計回りの渦巻きを描く点で、東京15区の順序と同様である。明治7年(1874年)3月8日に東京に導入された大区小区制が定着せず、4年後の明治11年(1878年)11月2日に施行された郡区町村編制法によって、東京15区は初めて画定された。当初の区域は旧朱引内であり、且つ墨引き(江戸においては町奉行管轄の地)の土地であった(「明治11年(1878年)の15区」の節参照)。明治22年(1889年)4月1日の市制・町村制施行と共にその区域は変更が加えられ、拡大しつつも一部は府下6郡の各町村に合併されることとなった。

このときの区域が東京市となる。昭和7年(1932年)10月1日には周辺町村を東京市に編入していわゆる大東京市が成立し、東京市内の区は全部で35区となった。東京35区になって以降、それまでの15区を旧市域、新たな20区を新市域といって区別することもあった。1947年(昭和22年)3月15日に東京都の35区が22区に再編された際、旧市域15区のそれぞれは他の区と統合された。このため、15区の名称は現在の23区の名称には引き継がれなかった。他方、現在の千代田区(麹町税務署、神田税務署)、中央区(日本橋税務署、京橋税務署)、文京区(小石川税務署、本郷税務署)などに置かれた税務署の名称とその管轄区域は、旧15区の名残と見受けられる。東京都区部とは、東京都で23の特別区から構成される地域である。1943年(昭和18年)6月までの東京市に相当する地域で、東京23区または東京特別区とも呼ばれる。各区の事務のうち、清掃・職員採用・競馬事業は、23区で一部事務組合(特別地方公共団体)を設置し共同処理している。

東京都区部は、東京都のうち旧東京市に該当する。東京都区部の人口は、1920年(大正9年)に台東区が上野桜木、池之端をはじめ都心の高級住宅街として人口第1位の439,596人。世田谷区は39,952人。1965年(昭和40年)に約889万人(国勢調査人口)で最大となった後、郊外化で減少に転じ、特にバブル景気に伴う地価の高騰によって1990年代には800万人を割り込んだ(参照)。その後は都心回帰現象などにより、約872万人(2008年6月1日現在の推計人口)にまで再び増加し、東京都の人口の約67.7%を占めるまでに至った。東京都区部を一つの自治体と見なした場合の人口は日本で最も多く、2位の横浜市と比較しても約2.5倍もの人口規模である。なお、昼間人口では、1980年代末のバブル景気期に約1129万人で最大となり、失われた10年の間は減少していたが、その後は増加してバブル期並みとなっている(参照)。周囲が巨大なベッドタウンとなっていることもあり、昼間人口に比べ夜間人口の方がずっと少ない。

都心の区は、主に中心業務地区に利用されているため、居住地が少なく人口も少ない。また、地価が高いだけでなく、面積が狭いことも人口の少ない要因のひとつである。周辺の区ほど人口が多いが、面積最大の大田区より面積第2位の世田谷区の方が人口は多く(大田区は羽田空港の沖合展開による埋め立ての結果、世田谷区を抜き最大の区となった)、面積第4位の練馬区は人口第2位である。東京湾沿岸の区は、東京港港湾施設や広大な工場・流通地区を持つため、内陸の周辺区よりも人口密度が低いが、江東区などは超高層住宅の建設が進められており、一部そうでもない場所もある。

2011年9月26日月曜日

埼玉県は

日本の都道府県の一つで、関東地方の中央西側内陸部、東京都の北に位置する県。県庁所在地はさいたま市。旧埼玉県の設置当初、県庁が埼玉郡岩槻町(現:さいたま市岩槻区)に置かれる予定であったため、その郡名から埼玉県と名付けられた。但し、当時の岩槻には県庁として使用するのに適した建物がなかったため、県庁業務は北足立郡浦和宿(現:さいたま市浦和区)にある旧浦和県庁舎で行われた。一方、現在の埼玉県の西側3分の2に当たる地域は入間県となり、その後、群馬県と合併して熊谷県となるも僅か3年で熊谷県は解消され、旧入間県地域は旧埼玉県と合併した。その際に、埼玉県の名称のまま県庁所在地も浦和宿となったため、岩槻町が実質的な県庁として機能することはなかった。1890年(明治23年)9月25日には、勅令により正式に浦和町が県庁所在地となった。「埼玉」の地名の発祥地は「北埼玉郡埼玉(さきたま)村」(現:行田市大字埼玉)である。その名称の由来は諸説あるが、埼玉古墳群が由来とする説や、幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂」(さきみたま)から名づけられたとする説がある。

奈良時代の『万葉集』に「前玉」「佐吉多万」(さきたま)という記述があり、また、平安時代の『和名類聚抄』に「埼玉」「佐伊太末」(さいたま)という郡名がみられる。当時、既に「さいたま」と呼ばれている事が分かる。旧律令国においては、現在の埼玉県の領域は大部分が武蔵国に含まれており、東端部の江戸川沿いの一部地域が下総国に含まれていた。武蔵国には東京都、及び神奈川県の北東部も含まれることから、埼玉県は武蔵国の中部・北部にあたるといえる。埼玉県の形状は、東西約103km、南北約52kmと東西方向に長い。日本の都道府県中面積が9番目に狭いが、最も狭い都道府県である香川県の約2倍の面積を有する。また周囲は7都県と隣接し長野県の8県に次いで多い。県の東側では江戸川を境に千葉県に接し、北東側には茨城県・栃木県ともわずかに接する。北側および北西側は概ね利根川、神流川(利根川の支流)といった河川、および荒川・神流川の分水嶺を境として群馬県に接している。

南側はほぼ東西に真っ直ぐに東京都・山梨県と接している。この南境は、西部では荒川と多摩川あるいは笛吹川の分水嶺にあたるが、東部では一部が荒川となっている他は河川や分水嶺などの地形に見いだすことは難しい。埼玉県の地形は、児玉・小川・飯能を走る八王子構造線によって、その東側の平地部と西側の山岳部に分けられる。東側の平地部は古来利根川や荒川、入間川などの流域であり、低地や台地(武蔵野台地、大宮台地など)が広がるほか、一部に丘陵(比企丘陵など)もみられる。江戸時代、徳川家康により現在の古利根川の流路に近かった利根川の流路は、渡良瀬川(現在の江戸川の流路に近い)、ついで鬼怒川(毛野川)に導かれ、また現在の元荒川の流路に近かった荒川の流路は入間川に導かれ、現在の河川形態となった(利根川東遷事業)。西側の山地部は関東山地に含まれ、その中央部に秩父盆地がある。秩父盆地東側の比較的標高の低い山塊は特に外秩父山地とも呼ばれる。

西側の長野県境は日本海側との分水嶺を形成しており、その南端に位置する甲武信ヶ岳は千曲川、荒川、笛吹川(富士川の支流)の源流であるとともに、埼玉県・長野県・山梨県の県境となっている。その北には県最高峰である三宝山(2,483m)がある。また、埼玉県の諸都市の特徴のひとつに、同等の人口を持つ自治体が多数存在することが挙げられる。県全体の人口は全国で5位と高位でありながら、合併によってさいたま市が誕生するまで、50万人都市は存在しなかった(さいたま市の合併時である2001年当時浦和市約48万人、大宮市約45万人、また川口市は約46万人)。県庁は浦和市にあり、経済規模では埼玉県で最大の乗客数を誇る大宮駅を擁する大宮市が優位で、市制施行は川越市が最も早かった。一方、2001年に大宮市・浦和市・与野市の合併で100万都市である「さいたま市」が成立し(その後岩槻市を2005年に編入)、政治・経済共に中心と呼べる自治体区域が誕生した。

国などの関東地方出先機関が集まるさいたま新都心も造成されたことで、東京のベッドタウンから関東地方において独自の重要性を持つ地域になりつつある。現在こうした県東西の移動・交流の活発化、既存交通網の混雑緩和を狙った「東西交通大宮ルート」と「東西交通県南ルート」と呼ばれる2つのLRT整備計画が検討されている。「東西交通大宮ルート」は、所沢-上福岡-大宮、大宮-さいたま新都心-浦和美園、浦和美園-越谷-吉川の3区間で構成される。大宮-浦和美園区間の11.4kmについては、2015年の開業を目指して調査・検討がなされている。また、東西交通県南ルートは川口-南鳩ヶ谷-草加の8.9kmとなっている。埼玉県は、場面や分野に応じて北関東に区分される場合もあれば南関東に区分される場合もある。また、埼玉県は千葉県や東京都や神奈川県とともに「東京圏」を構成し、相互の通勤・通学等の流動が多いことなどを重視し、南関東に区分されることが多いが、衆議院議員総選挙における比例ブロックにおいては北関東に区分されている。

県域は隆起と海退によって形成された。海面は、現在よりも高く、東京都江戸川区から県域南東部を中心とした海抜の低い地域は、古東京湾の入り江が大きく入り込んでいたため、海底だったと推定される。その証拠に、川口市等に貝塚が至る所に発見されており、その影響は縄文・弥生時代まで続いたとされる。古代の国選史書である『日本書紀』にある534年(安閑天皇元年)に、「閏の十二月…(中略)…是の月に武蔵国造笠原直使主と同族小杵と国造を相争いて年経るに定めがたし」云々とあり、鴻巣市笠原地区付近に居を構えていたとされる豪族、笠原直使主と同族の小杵による武蔵国造の勢力争いが起き、朝廷の力を借りた直使主が勝利し、武蔵国造となった使主は朝廷に横渟(多摩郡または横見郡)・橘花(神奈川県橘樹郡)・多氷(多摩)・倉樔(神奈川県久良郡)の四箇所を屯倉として差し出した。と記述されていることや、6世紀に突如現れたこの地の巨大古墳郡、および後述の鉄剣などから大和朝廷の直接支配まで、長らく武蔵国における中心だったと考えられる。

本域は、律令制以前は、毛野国と呼ばれ、筑紫や吉備に比肩する大国であったとされ、大和朝廷との関係において高い地位にあり、現在の東京地域よりも繁栄していた。708年(和銅元年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(ニギアカガネ、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、日本最初の流通貨幣となる和同開珎が発行される。1978年(昭和53年)には、行田市埼玉にある さきたま風土記の丘(現:さきたま古墳公園)の稲荷山古墳の中から、金錯銘鉄剣が発掘され、のち奈良にある元興寺文化財研究所へ持って行き調べた所、表裏に金象嵌で115文字の銘文があることが分かり注目を浴びた。その文中にある「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」は『記紀』に出てくる雄略天皇であり、『宋書』倭国伝に見える倭王武である。また、冒頭の「辛亥の年」は471年である。との学説が主流である。古代史ブームの巻き起こる中で、鉄剣の解釈をめぐりさまざまな議論がある。

2011年9月25日日曜日

山梨日日新聞は、

株式会社山梨日日新聞社が発行する山梨県の県域新聞である。正式な読み方は「やまなしにちにちしんぶん」だが、「やまなしひびしんぶん」と読む人もいる。略称は山日(さんにち)、山日新聞(さんにちしんぶん)など。山梨県での購読率は公称約70%で、県内日刊紙は「山日」1紙が独占している。テレビ・ラジオ番組表は本編とは別に4頁の別冊の「山日テレビガイド」として発行している。また、甲府市の山梨県立図書館には、一時期を除いてマイクロフィルムとして所蔵されている。1872年(明治5年)7月1日、県令土肥実匡の官命で、甲府の書店温古堂の書籍商内藤伝右衛門が「峡中新聞」として創刊。当初は木版の不定期刊行で、県庁学務科員が執筆した県庁広報誌であった。大小切騒動で発行不能に至ったこともあり、有識者による新聞解話会が開かれた。翌年には県令藤村紫朗が発行権を内藤に譲り、「甲府新聞」と改称。活版となり、論説も加わる。1876年(明治9年)には「甲府日日新聞」と改称、中村敬宇(正直)門下の野口英夫を迎え、内藤から経営権を取得し、社内改革を行う。

しばしば新聞紙条例違反に問われ発行停止に陥り、野口が県庁派で山梨保守党に属していたため、民権派の「峡中新報」に押されることもあったが、しだいに政争からは遠ざかり、有志の支援により経営を維持した。第1822号で一時終刊し、1881年(明治14年)1月から現題字へ改変、大正期には『山梨毎日新聞』を引き離し発行部数第1位となった。昭和初期には中央線短縮により中央紙が伸び苦境に立たされた。1922年(大正11年)に社長に就任した野口二郎は、文化・スポーツ事業にも熱心で自らも山梨郷土学会会長も務め、昭和11年8月から昭和42年まで連載された「夏草道中」は現地でのフィールドワークを行い郷土の史跡を調査するもので、発見された文化財も多く郷土史研究に貢献した。また、大正12年には紙面に投稿文芸を選評する「サンデー文壇」(のち「学芸欄」)を設けた。県内には6紙の新聞が発行されていたが、昭和15年には新聞統制で「峡中日報」「山梨民報」などを統合し、翌昭和16年には『山梨毎日新聞』も合併。

昭和20年の甲府空襲では社屋と印刷所を焼失し、資材や人員不足もあり発行困難となったが、『毎日新聞』と協力して東京での発行を続ける。終戦後には東八代郡石和町(笛吹市)に疎開させていた輪転機を運用し、外観が残った甲府市内の松林軒デパートで自社印刷に復帰する。社長の野口は甲府市長も兼任しており公職追放を受ける。戦後には統制令も解除されて自由発行となり、一時は富士急行が大株主で天野久知事を支持する『山梨時事新聞』と部数を競うが、昭和42年の山梨県知事選で支持する田辺国男が当選すると、同年3月には富士急行から所有株式を拾得し『山時』を吸収した。以後、県内日刊紙は『山梨日日新聞』1紙が独占している。このような『山日』一社による地元新聞の独占状況には、山梨県民の多くから「山梨に地元紙が1紙だけというのは好ましくない。」と懸念する声が挙がっている。

2007年1月31日、社説の盗用が外部からの指摘で発覚した。その後の調査で盗用がさらに2001年から15件もあったことが発覚し、野口英一社長は引責辞任したが、しばらくして社長職に復帰した。毎日4ページ立て。新聞休刊日は2日分がそれぞれ分冊される。ただし分冊されない場合もあり、その場合は外側2ページ,内側2ページで分けて2日分掲載する。1ページはその日の山梨・東京の地上波とNHK BS1、BSプレミアム番組欄(独立U局は県内のほとんどのケーブルテレビでデジタル放送が再送信されているtvkのみ掲載。グループ会社・山梨放送は黄色地バックで自社番組は番組名のみ太字。なお山梨県にYBS=NNN・NNSとテレビ山梨=JNN系列があることを配慮し、日本テレビとTBSテレビの番組表は2005年春季以後ハーフサイズに変更されたが、2011年7月24日より掲載なし)。地上波の掲載順は2011年4月1日よりNHK甲府総合、NHK教育、YBS山梨放送、テレビ朝日、UTYテレビ山梨、テレビ東京、フジテレビの順。

フジテレビの右側にハーフサイズの4局の欄が載せてある(上段にはNHK BS1とBSプレミアム。下段にはtvkとNNSを掲載)。2010年7月1日から2011年3月31日まではNHK総合、NHK教育、YBS、テレ朝、UTY、フジ、テレ東の順であった。これは県内のほとんどのケーブルテレビでデジタル放送が再送信されていなかったテレ東を除いた、リモコンキーID順となっていたが、2011年4月以降、テレ東が県内ケーブルテレビ各社でデジタル放送の再送信が順次開始されたことから、2011年4月1日より上記のチャンネル順となった。テレ東の右側にハーフサイズの4局は上段には日テレとTBSテレビ、下段にはNHK BS1とNHK BS2が掲載されていた。2010年6月30日までは長らく、NHK総合、NHK教育、YBS、UTY、フジ、テレ朝、テレ東の順であった。これは県内局(開局順)→東京キー局という順であり、またキー局におけるアナログ放送のチャンネル順でもある。

2ページはラジオと衛星デジタルテレビ放送、第2テレビ面としてCATV富士五湖、静岡県内の地上波テレビ(民放のみ)の番組表。ラジオ番組表はYBSラジオのみ他の放送局よりスペースが広く取られている。また、2006年4月から地上デジタル放送の教育サブチャンネル(NHK教育)も掲載。現在ラジオ番組表については県内の放送局のみ掲載しているが、衛星デジタルテレビ放送が始まる前までは東京の放送局も掲載されていた。新聞休刊日の対応については休刊日のテレビ欄を別刷りで発行し、休刊日の前日に届けている。休刊日当日はWEB版の更新もニュース速報を除き行なわれないが、2008年1月より休刊日限定でPDF形式による電子版を公開。電子版は全面フルカラーであり、動画配信や、山梨放送のニュースキャスターによる朗読での音声ニュースへのリンクもされていた。2011年4月から休刊日の号外を廃止する代わりとして、ニュースオアシスと銘打って朝刊紙面の電子新聞配信(山梨県内利用不可)と、夕刊電子新聞の発行を開始した。

2007年1月31日の山梨日日新聞社説で、当時厚生労働大臣の柳沢伯夫の発言に関する内容について、同紙論説委員長(当時)が、神戸新聞と西日本新聞の社説から内容を盗用したことが、外部からの指摘で発覚した。盗用した社説は、2社のホームページに掲載されていた1月30日付の社説からの盗用で、同論説委員長は今回の盗用問題について、「考えが甘かった。盗用と言われても仕方ない」と話し、また「『新聞社は同志』のような意識になっていた。盗用の認識はなかった」と弁解したが、一方で「著作権の点で気になっていた」とも述べ、著作権の侵害を認識して盗用を行っていたことを認めた。山梨日日新聞によると、神戸新聞社説が、「大臣は「すぐに取り消し、言い換えた」と弁明しているが、もちろんそれで済まされる失言ではない。こともあろうに、少子化対策や子育て支援を先頭に立って推進すべき厚労相が、こうした発言をしたことにあきれる。大臣の適格性を疑われても仕方ない」と記述している部分を、山梨日日新聞の社説は「厚労相は「すぐに取り消し言い換えた」と弁明しているが、それで済む失言ではない。

厚労相は少子化対策・子育て支援の先頭に立ち推進するのが仕事だ。発言のような認識では、大臣としての適格性を疑われても仕方がない」と盗用して記載し、さらに、西日本新聞社説が、「少子化によって社会保障制度が揺らぐことを懸念しての発言だったかもしれない。だが、社会保障政策を財政面だけで考えて、子どもの数を増やすことしか念頭になかったのではないか」と記述している部分を、山梨日日新聞が「少子化が進むことによって社会保障制度が揺らぐことを懸念しての発言だったかもしれない。財政面を中心に考え、子どもの数を増やすことしか念頭になかったら寂しい」と盗用して記載した。

山梨日日新聞社幹部らは謝罪し、調査報告を掲載した。2007年2月20日にこの論説委員長を懲戒解雇処分、常務を降格処分、取締役編集局長を減給処分とし、当時社長の野口英一も引責辞任することが決定したが、山梨日日新聞の調査報告には盗用記事の紹介に留まっており、論説委員長の盗用の経緯については一切明かされていない。処分を発表した同日、この論説委員長による北朝鮮の核実験や防衛省の省昇格、地方分権などについて述べられた社説の盗用が、さらに15件もあったことを公表した。社説の盗用は2004年1月から行われていたことも発覚した。盗用に利用した報道機関は、全国紙から読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞が。地方紙からは信濃毎日新聞の計5紙の社説ばかりでなく、記事まで盗用していた。また『フォーリン・プレスセンター・ジャパン』からも盗用を行っていた。いずれもホームページからの盗用であった。今回の盗用問題は、読者である山梨県民から「県民を愚弄している」といった厳しい批判の声が挙がった。

社説を盗用された毎日新聞などからも批判された。「社説」は2007年2月21日付から休止することを発表したが、わずか数ヵ月後には「論説」という形で復活し、現在も続けられている。「論説」の実態は「社説」と全く変わらなかったほか、「論説」として再開される際の読者への説明は一切なかった。なお、引責辞任した野口英一だがしばらくして社長職に復帰している。取材用ヘリコプターは山梨県内ではなく、隣県である静岡県静岡市葵区にある静岡ヘリポートに駐機されており(静岡エアコミュータが委託を受け運航している)、ヘリ取材の必要があると、静岡市から離陸して甲府市の本社を経由してフライトする。 山梨百名山は、1997年、山梨県によって選定された県内の名山100選である。一般公募と市町村推薦であがった候補の中から、選考委員会によって、県民に親しまれている・全国的な知名度がある・歴史や民俗との関わりあるなどの基準で選ばれたとされる。

2011年9月24日土曜日

古代の律令制下においては

甲斐国山梨郡に属する。市域に関する最古の文献資料は正倉院宝物の白あしぎぬ金青袋端書の墨書で、市域にあたる「山梨郡可美里」の日下部某があしぎぬを貢進していたことが記されている。また、奈良・平安遺跡としては日下部遺跡があり、学史上においても重要視された遺跡としても知られる。中世には牧荘、小原荘、大八幡荘などの荘園が記録に残っている。平安時代後期には甲斐源氏の一族が甲府盆地の各地へ進出して勢力を拡大するが、市域を含む安田郷は甲斐源氏の一族である安田氏が本拠とし、小原(山梨市小原)には館跡がある。鎌倉時代から戦国時代にかけて甲斐国は守護である武田氏の支配下にあったとされるが、牧荘については鎌倉時代後期に他氏の支配が確認されている。室町・戦国期には武田信昌の隠棲地で菩提寺である永昌院の存在や武田信縄の館跡があり、武田氏が本拠を甲府に移転する以前の政治的中心地に属していたと考えられている。近世には甲府藩領を経て幕府直轄領となる。

また、市域には御三卿領である田安家領、清水家領が含まれ、両家領の陣屋も存在している。近世には甲州街道や青梅街道、秩父往還などの諸街道が整備され、市域では甲州街道の栗原宿を中心に交通の要衝地となる。また、近世には『甲斐名勝志』を記した萩原元克や小島蕉園、早川漫々などの文人も出現する。明治期には藤村県政における差出の磯の道路開削で青梅街道の開削や亀甲橋の架橋が行われ、市域には東山梨郡役所が設置され東山梨郡行政の中心地となる。1903年(明治36年)には中央線日下部駅(山梨市駅)が開業。また、正徳寺出身の根津嘉一郎は甲州財閥の一人として財界で影響力を持ち、地元においても根津橋の架橋を行っている。戦後には米麦栽培や養蚕を中心とする農業から果樹栽培へと転換する。昭和29年には古屋俊一郎が初代市長に就任し昭和61年まで8期連続で市長を務め、古屋市政では財政健全化や社会資本整備、市有林の設置などが行われる。

山梨市 (-2005年3月21日)は、山梨県の中部に位置する市。2006年3月22日に、東山梨郡牧丘町・三富村との新設合併により、新山梨市 (2005年3月22日-)の一部となった。現在の山梨市(新山梨市)は新設合併によって設置された自治体であり、それ以前に存在した山梨市(旧山梨市)は廃止されている。新山梨市(2005年3月22日以降)と旧山梨市(2005年3月21日まで)は同名別人の自治体であり、国勢調査などのデータは、2005年3月22日の合併前と合併後とでは、別々のものとして扱われている。旧山梨市の市役所本庁舎は新山梨市役所本庁舎として引き継がれていたが、2008年11月にセレスティカジャパン山梨サイト跡地に移転している。郡の所属については、旧山梨市の市域は、山梨郡を経て、郡区町村編制法施行後は東山梨郡に属していた。山梨大学は、山梨県甲府市武田4-4-37に本部を置く日本の国立大学である。2002年に設置された。大学の略称は梨大(なしだい)。日本で唯一のワイン専門研究所である「ワイン科学研究センター」を擁する。

環境サークル、演劇部、酒類研究会、映画・漫画研究会、現代音楽文化研究会、ピアノサークル、山梨大学管弦楽団、山梨大学吹奏楽団、山梨大学医学部交響楽団、山梨大学合唱団、フリーミュージック(軽音楽サークル)、山梨大学ギタークラブ、IFMSA-Yamanashi(国際医学生連盟山梨支部)、電子計算機研究会、飲んだくれサークル。山梨県立大学は、山梨県甲府市飯田5-11-1に本部を置く日本の公立大学である。2005年に設置された。大学の略称は県立大。 山梨県立看護大学と山梨県立女子短期大学が2005年4月に統合してできた。山梨学院大学は、山梨県甲府市酒折2-4-5に本部を置く日本の私立大学である。1962年に設置された。大学の略称は山学(やまがく)、山学大、山梨学大もしくはYGU。山梨学院大学の建学の精神(教育理念)は「本学は、徳を樹つることを理想とする。」などからなる建学理想を基に、「本学は、日本文化への深い理解と広い国際的視野をもって社会に貢献する人間の育成を目指し、豊かな教養と創造力を備えた人格の形成を図る。」となっている。

経営情報学部の専門科目「経営実践」で企画・制作した「山梨学院大学ハローキティ」の携帯ストラップ(根付け)が2006年に商品化され、数量限定でキャンパス内の「購買センター」などで販売された。また、2007年には、「山梨学院大学駅伝キューピー」も同科目の企画・制作により発売された。1946年に古屋眞一によって創立された山梨実践女子高等学院が前身。これを母体として1951年に山梨学院短期大学(栄養科〈現・食物栄養科〉設置)を開学し、1953年には法経科を増設した。1962年に短期大学法経科を4年制大学に改組し、山梨学院大学(法学部法学科設置)として開学した。陸上競技部は箱根駅伝に1987年の第63回大会以来連続出場していることで全国的によく知られ、総合優勝も現在3回(第68・70・71回大会)果たしている。また、総合タイムにおいて11時間の壁を最初に破った(第70回大会:10時間59分13秒)大学でもある(現コースとは一部異なる)。ちなみに、同駅伝には2011年現在25年連続25回目の出場を果たしている。

なお、「山梨学院大学箱根駅伝物語」(佐藤眞佐美 著・山梨ふるさと文庫1993年刊)が出版されている。山翡翠の会は毎年9月に東京都内で開催される首都圏在住のOB・OGを中心とした懇親会である。また、長野・静岡の各地区でも開催されている。梶法会は法科大学院の在学生・修了生が一体となって、同大学院出身の合格者や山梨県弁護士会所属弁護士等の協力を得て、新司法試験合格を目指す勉強会である。 山梨学院大学は2001年に英国で日本文化を紹介する「JAPAN2001」が開催された時に行なわれた「国際交流と和解の森」計画に賛同・協力した経緯から、日英グリーン同盟への参加を通じて英国や英国人への理解と共感を深めるための植樹式が催され、イングリッシュ・オークが同大学キャンパス内の21世紀広場に植樹された。また、この植樹式には英国大使館からコリン・ロバーツ政治参事官が参加した。

なお、英国の国立記念森林公園内にある和解の森には、同大学から贈られた桜の木が植樹されている。原則毎月1回程度、日曜日朝8時30分から9時にYBSラジオで放送されている「YGU山梨学院大学ラジオセミナー」は、四半世紀近く続く一般社会人向け講座で、毎回山梨学院大学の教授らが出演し、最近の社会情勢などについてそれぞれの専門分野の立場から解説する番組である。山梨学院短期大学は、山梨県甲府市酒折2-4-5に本部を置く日本の私立大学である。1951年に設置された。大学の略称は山学短大。山梨学院短期大学は1951年に設置された山梨県甲府市に所在する私立短期大学であり、系列校の山梨学院大学と同じキャンパスにある。現在は食物栄養科、保育科の2学科を擁する。通称は学短。物栄養科は、開学当初からある学科で、食文化と健康・栄養についての専門的知識を学ぶ。栄養実習先の一つに山梨学院大学附属幼稚園がある。保育科は、幼児教育・児童教育のエキスパートを養成する。

保育実習・幼稚園教育実習・小学校教育実習のほか児童館実習がある。幼稚園教育実習・小学校教育実習は、山梨学院大学附属幼稚園及び山梨学院大学附属小学校での実習も行われている。山梨学院短期大学は、2006年に財団法人短期大学基準協会の第三者評価の結果、「適格」認定を受けている。山梨学院大学と合同で実施している奨励金制度として「学生チャレンジ制度」がある。クラブ活動は短期大学独自のクラブと山梨学院大学と合同のクラブを含めると以下のものがある。学園祭は「樹徳祭」と呼ばれ、毎年10月下旬から11月上旬頃に山梨学院大学と合同で開催される。過去には漫画家の山咲トオルなども来学している。