作業直後の速度制限が廃止されたため、新横浜・名古屋・京都の各駅に停車しながら東京-新大阪間を2時間半で結ぶことが可能となり、同年11月29日に「のぞみ301号」は後続の「のぞみ1号」に統合される形で廃止された。以後、名古屋駅と京都駅を通過する新幹線列車は存在していない。一般的にはコンサート(特に海外アーティスト)などの各種イベントツアーなどで、首都圏と京阪神の途中にある名古屋で行われない例を指すことが多い。追っかけが相当数いる日本人アーティストの場合、アーティストのツアーと一緒にファンも全国を「ツアー」するため、国内の小都市のみならず、場合によってはハワイやニューヨークで開催しても日本人ファンで会場を埋めることが可能であり、プロモーターは低いリスクで利益を獲得できる。新劇以降の芝居は明治維新から高度経済成長期までのいわゆる「六大都市」に根強いファンがいるため、名古屋公演はリスクが低い。これらの場合は名古屋を外す理由はあまりない。
しかし、能や歌舞伎といった伝統芸能に関しては、江戸時代にそれらの芸能が盛んだった大都市の上方(京都・大阪)と江戸(東京)には根強いファンがいるのに対し、江戸時代の名古屋は現在の金沢に次ぐ5番目の都市だったこともあってファン層が薄く、頻繁な公演開催にはリスクが高いため「名古屋飛ばし」が起きる。国外のアーティストが世界ツアーの途中で日本に来る場合、日本での開催が日程上3回(3日)に限定されると、距離的な均衡から、約550km間隔で東京1回・大阪1回・福岡1回とする場合があるため、名古屋が飛ばされる例がある。また、巨費を投じた大きな舞台装置を用い数万~十万人単位の集客を見込む大規模コンサートの場合も、距離的な観点から首都圏・京阪神・福岡都市圏(+札幌+仙台+新潟+広島)での開催が低リスクと見られて「名古屋飛ばし」が(場合により「横浜飛ばし」も併せて)起きる例がある。一般的には東京での公演が最も質が高く盛り上がる例が多い。
このため「名古屋飛ばし」が起きる場合、高品質を求めて東京へ向かう傾向、交通費の理由で距離的に近い京阪神へ向かう傾向の2通りがある。すなわち名古屋は地理的に大阪の方が近い(直線距離で約140km)が、人の移動の面からは「名古屋は東京と大阪の中間に位置する」と考えられている。このように、プロモーターやアーティストは損益分岐点を上回る集客が来るように公演場所や開催方法を考えるため、「三大都市圏の一つだから」といって名古屋で必ずしも公演が開かれるとは限らない。なお、首都圏や関西圏で放送されるテレビ番組のネットから、名古屋の放送局(在名テレビジョン放送局。以下在名局)が外れるケースも「名古屋飛ばし」といわれることがあるが、これは在名局もしくは該当する番組の制作会社(特に番組販売もしくは放映枠買取形式での番組の場合)の意向によるものが多く、中京圏以外の地域でも多々見られる現象(特に関西圏や福岡県etc)であり、この項でいう一般的な意味合いとは根本的に異なる。
近年では、主に深夜・UHFアニメに関して、5大キー局系列のある岡山・香川両県の民放での放送が外れて近隣の中四国地方の放送局でネットされるケースにおいて地元では「名古屋飛ばし」を模倣し「岡高飛ばし」と一部の地元アニメファンから揶揄されている。最近は名古屋でも大規模コンサートが開催されることが多く、むしろ仙台や広島で開催されないことが多い。新大阪着8:30であれば「9:00の会議に間に合う」とアピールできる。名古屋着7:40は早すぎてビジネスマンへのPR材料にはならない。またこの時点では「のぞみ」は新大阪止まりであり、名古屋から山陽・九州方面へ向かう利用者にとってもスピードアップのメリットは無かった。したがって「のぞみ301号」が名古屋を通過しても、当時の状況では利用者にさほど不便を強いるものではなかった。逆に、上り東京着8:30の「のぞみ302号」は京都・名古屋に停車している。実際には横浜アリーナが1989年に、新横浜プリンスホテルが「のぞみ」運行開始と同じ1992年に営業を開始するなど、新横浜地区の開発は駅南側を除いて相当進んでいた。
なお1964年の東海道新幹線開業の際の新幹線停車駅決定時でもいわゆる「横浜飛ばし」は名古屋と違い、さほど話題にならなかった。1990年国勢調査によれば横浜市の人口は3,220,331人、名古屋市の人口は2,154,793人。これについては、規格外ダイヤを用いて運行される「のぞみ301号」の乗車率が伸び悩む一方で、続行する「のぞみ1号」も平日の東京・名古屋間に限って乗車率が高いという状況が続いていたため、両者を統合して合理化を図りたいJR東海の意向が強く働いていたと言われている。名古屋走りとは、日本の愛知県の名古屋市及びその周辺で見受けられる、交通違反に該当したり交通マナーを守らなかったり、しまいには交通事故に発展しかねない自動車における危険な運転の通称である。交通信号の切り替わり前後に交差点へ進入する、いわゆる信号残りと呼ばれる事象において、黄信号にあってはためらいなく進入し、赤信号に変わっても状況判断によっては進入することが見られ、名古屋走りの典型例とされている。
これを「黄色まだまだ、赤勝負」と形容することもある。このように名古屋走りにおいては信号残りのぎりぎり進入が多い一方、大阪府近郊で見られる見切り発進は少ないが、岐阜県・三重県において出会い頭の事故が多い現象について、信号残り(名古屋走り)と見切り発進(大阪府近郊の走行)が錯綜する為であるとする交通工学者の意見がある。無借金経営の一形態として名古屋式経営(なごや-しき-けいえい)がある。名古屋を中心とした経済圏で見られる会社経営の方法論で、一般的に「石橋を叩いて渡る」(または「石橋を叩いても渡らない」)とも比喩されるほど、殊更に冒険を嫌う慎重な経営を指す。 また、他地域への進出にも慎重で、地元で事業を完結させる形態が過去には多く見られた。同時に他地域からの資本参加や合弁など、殊のほか「他所者」を嫌う風潮も以前には見られ、関東圏・関西圏などでは広範囲に事業を展開する企業でも名古屋を中心とした経済圏では進出が遅れるなど、地元企業同士の仲間意識が強いのも特徴として見られる。
特に借金を嫌って出来る限り自己資金で事業を行い、利益を内部留保として蓄えて次の事業資金とするなど、万一事業経営に失敗しても会社倒産や、借金の連帯保証などの経営責任が生じない経営形態が特徴として挙げられ、オーナー経営者による同族経営が多いとの特色も見られる。このため、事業の急激な拡大や、「濡れ手で粟」のような地に足のつかない収益事業には特に慎重で、身の丈(利益剰余金など自己資金)に合せた事業展開を行い、会社の存続(事業の継続)と確実な利益(収益性)を第一に考えた経営方法が、この地方では特に尊ばれている。「名古屋式経営」の良い面である堅実性を実践している企業としては、世界的に有名な「トヨタ自動車」が挙げられる。その企業規模としては世界的にも稀有な無借金経営で知られ(単独会計では社債以外の借り入れが無い。ただし連結会計では金融子会社等を含むため有利子負債は規模相応に存在する)、また一大特徴である、徹底的に無駄を排した経営方針の源泉は、古くからこの地方に伝わる上記の気質が色濃く反映されている。
なお、昭和末期から平成初期に掛けて、日本中が好況で沸いた「バブル景気」の際、この地方の企業は「浮利」を追うような経営があまり行われなかった。その後の「平成不況」で大きなダメージを負った企業が少なかったことから、「名古屋式経営」の健在ぶりを世間にアピールしている。一方で、主に他地域の経済学者から、MM定理(自己資金で事業を行うよりも、借入をしたほうが金利分が経費処理できるので、税制面で有利であること)を出すまでも無く、借金をして事業拡大する事を週刊誌等でたびたび提案されるが、経営状態の良い会社は「貸したい側の理屈」として、初めから相手にしていない。名古屋おもてなし武将隊は、「武将都市ナゴヤ」をPRするために結成された名古屋の観光PR部隊。別名「イケメン武将隊」とも呼ばれる。名古屋開府400年に合わせ名古屋市のふるさと雇用対策事業の一環として結成されたPR部隊で、全国の武将ゆかりの地に結成されている各武将隊の先駆けとなる2009年(平成21年)11月3日に名古屋城内にて結成式が行われた。
緊急雇用対策のためメンバーはハローワークで募集され、オーディションに合格した女性や外国人男性を含む10名で結成された。メンバーは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、加藤清正、前田慶次の愛知県にゆかりのある6武将と陣笠隊(足軽)に扮し、毎日交代で名古屋城で観光案内などを行うほか、週末には殺陣や寸劇、武将クイズ、甲冑ダンスなどのパフォーマンスを行っている。また、戦国武将ブームなどもあり歴女を初めとする女性ファンが多く、追っかけファンもでるなど人気を博しており、名古屋のローカル番組にレギュラー出演するほか、CM出演や写真集が出版されるなど活躍の場を広げている。2011年4月20日には『百花繚乱/祈り』でCDデビューを果たした。活動期間は、結成から2010年(平成22年)9月までの半年間の予定であったが、2012年(平成24年)3月まで延長されており、周囲の応援次第では再延長の可能性もあるとのことである。名古屋おもてなし武将隊の成功により、全国各地で同部隊を参考にしたPR部隊が展開されることになった
2011年5月22日日曜日
2011年5月21日土曜日
名古屋帯とは日本の女帯の一種。
明治以降に普及。考案した名古屋女学校(現在の名古屋女子大学)の創始者越原春子が名古屋で開発したので、このような名前となった。「名古屋帯」という名称は使わず、「なごや帯」と称する場合もある。このことからヤフーオークションのカテゴリーは「なごや帯」となっている。体に巻きつける部分(前帯)を最初から半幅帯のように折りたたんで縫い付けてあるのが特徴で、お太鼓を結び上げた状態では遠目には袋帯と区別しにくい。錦などでも仕立てられ、外出着や略礼装にも用いられる。形状から、袋帯と比べると帯結びの自由度は低い。着用時のお太鼓は、一重太鼓。喪服の様な、重なっては困る仏事に着用する黒共帯は、一重太鼓のなごや帯である。名古屋嬢とは、名古屋に生まれ育った若い女性のなかで特に「お嬢様」を指す俗称。語源は「名古屋城」と「名古屋のお嬢様」を掛けた語呂合わせ。愛知万博とともに全国的に知られるようになった。おしゃれで派手で、化粧品やブランドものが大好きな名古屋生まれ・名古屋育ちの若い女性の代名詞として使われる。
2000年頃から名古屋独特のお嬢様ファッションやヘアスタイルが注目され始め、名古屋の裕福な家庭で育ったファッションに敏感なお嬢様に対して使われるようになる。目指すところのイメージは「名古屋の箱入り娘」である。太い縦巻きのカールがついたロングのヘアスタイルが東京のファッション誌で注目され、当時としては特徴的なこれらの巻き髪を「名古屋巻き」と呼ばれるようになり、その後に全国的に定番化していった。ファッションの特徴は、日本のアパレルブランドの洋服を百貨店で購入し、海外高級ブランドのバッグやアクセサリーを合わせるスタイルが主流である。派手好きな名古屋人というイメージを強く反映している。また、落ち着いたコンサバファッションの名古屋嬢達は一見お淑やかに見えるものの、派手さよりも豪華さが際立っている。携帯するブランド物の装飾品は誰からも分かる定番商品やロゴが目立つ箇所に入っていたりと、他人が見てブランド名を容易に判別できる物を身につける傾向がある。
洋服や高級ブランド品は、自身が仕事の給金で購入するのではなく、同居している両親が百貨店の外商で購入したり、母親同伴で高級ブティックに出かけて高価なブランドものを大量に買ってもらう(名古屋買い)消費スタイルが多い。また一つの商品を母子で共有し一緒に使うこともある。「名古屋嬢」と呼ばれる若い女性はおおむね、名古屋のお嬢様学校である伝統校の椙山女学園・愛知淑徳・金城学院のローマ字の頭文字を取って「SSK」と呼ばれる、女子教育を主とする3つの学校法人の大学(ただし現在、愛知淑徳のみ大学は共学化)の在校生やその卒業生を指すものであった。SSKの同窓生は母親、祖母、曾祖母の代から卒業生という家系が少なからずあり、3代4代と続いてSSKの附属から大学までの出身者の場合がある。また名古屋は他所者を受け付けない保守的な土地柄(村社会)に加えて、他の土地に移住する者も少なく、地元の大学に進学することが多い。
特に女子は結婚するまで親元で生活し、良家の子女はSSKの中学校から大学卒業後、けいこ事をしながら見合いをし、家柄が良く安定した職業につく男性や素性の分かった地元の資産家の家に嫁ぐのが幸せであるという考えが一部ではあるが今日も根強く、卒業後も就職せず家事手伝いで過ごすのを良しとする風潮がいまだに残る古風な土地柄である。名古屋飛ばしとは、日本国内の他の大都市圏で行われているイベントの開催や鉄道の停車が愛知県名古屋市で行われないことを示す俗語である。「名古屋飛ばし」が大きな話題となった端緒は、1992年3月14日に東海旅客鉄道(JR東海)が東海道新幹線で運転を開始した「のぞみ」の1日2往復のうち、下りの一番列車(「のぞみ301号」)で新横浜駅に停車して名古屋駅を通過するダイヤが組まれたことである。この列車は京都駅も通過するとされたが、東海道新幹線の建設計画時点で同駅自体を経由しない案に対する一悶着(「鉄道と政治」の項を参照)に比べれば大した問題ではなく、観光客には使いにくい時間帯でもあったためか、京都市と京都府の側からは抗議の動きはほとんど見られなかった。
「のぞみ301号」は東京・横浜周辺のビジネス・出張利用客が早朝に出発して、大阪近辺のオフィスへの出社時刻に間に合うように設定された。しかし、当時は夜間の保線工事の後、地盤を固めるために早朝の数本の列車については減速運転をしなければならない事情を抱えていた。そのため、「のぞみ301号」を新横浜・名古屋・京都の各駅に停車させると、登場当時の「のぞみ」の売り文句であった「東京 - 新大阪間2時間半運転」が不可能となるため、苦肉の策として名古屋駅と京都駅を通過させることで対応しようとしたのである。JR東海は、名古屋駅と京都駅を利用する客には前後の列車を使用してもらうことで極力不便を与えないような配慮を講じることにしていた。翌1993年3月18日の「のぞみ」規格ダイヤ組込に合わせたダイヤ改正では、この列車に続行する「新横浜駅通過、名古屋・京都両駅停車」の「のぞみ1号」が設定された。1991年11月2日にこの方針が(前記のような事情を公表せず、通過するという話だけが知らされる形で)明らかになると、愛知県、特に名古屋市を筆頭に尾張地方の政財界は猛烈な反発を示し、中日新聞など名古屋のメディアも「名古屋飛ばし」として批判し、同紙の「中日春秋」や大学教授などのコラム・社説・読者投稿欄などでもヒステリックな反応が目立った。
(その当時の新横浜地区は、再開発がほとんど進んでいない「街はずれの田舎」という印象もあり、「三大都市の中枢である名古屋を新横浜ごときの田舎より冷遇するとは何事だ」という感情論も大きく影響した)。これが契機となり、それまではイベント業界などで使われていたと思われる「名古屋飛ばし」という語が一般化したものと考えられている。この時期には名古屋市出身の海部俊樹首相が退陣したことや、中部通商産業局(現経済産業局)長が名古屋圏の低落傾向を報告しており、鈴木礼治愛知県知事は名古屋圏の地盤沈下を懸念するとともに、地元選出の国会議員たちは将来のリニア中央新幹線での名古屋駅通過に至ることを危惧した。さらに「名古屋飛ばし」とは直接関係のない「名古屋学」講座の応募者数の増加、騒音問題を通じての「のぞみ」へのネガティブキャンペーン、政治家インタビューでも話題となった。1992年3月14日に「のぞみ301号」が運転を開始した。同列車が名古屋駅を通過する瞬間は地元メディアによって大きく報じられた。
なお名古屋・京都両駅はいずれも全列車停車を前提とした駅構造や配線となっているため70km/hの速度制限が行われ、新幹線列車としては非常に低速での通過となっていた。
2000年頃から名古屋独特のお嬢様ファッションやヘアスタイルが注目され始め、名古屋の裕福な家庭で育ったファッションに敏感なお嬢様に対して使われるようになる。目指すところのイメージは「名古屋の箱入り娘」である。太い縦巻きのカールがついたロングのヘアスタイルが東京のファッション誌で注目され、当時としては特徴的なこれらの巻き髪を「名古屋巻き」と呼ばれるようになり、その後に全国的に定番化していった。ファッションの特徴は、日本のアパレルブランドの洋服を百貨店で購入し、海外高級ブランドのバッグやアクセサリーを合わせるスタイルが主流である。派手好きな名古屋人というイメージを強く反映している。また、落ち着いたコンサバファッションの名古屋嬢達は一見お淑やかに見えるものの、派手さよりも豪華さが際立っている。携帯するブランド物の装飾品は誰からも分かる定番商品やロゴが目立つ箇所に入っていたりと、他人が見てブランド名を容易に判別できる物を身につける傾向がある。
洋服や高級ブランド品は、自身が仕事の給金で購入するのではなく、同居している両親が百貨店の外商で購入したり、母親同伴で高級ブティックに出かけて高価なブランドものを大量に買ってもらう(名古屋買い)消費スタイルが多い。また一つの商品を母子で共有し一緒に使うこともある。「名古屋嬢」と呼ばれる若い女性はおおむね、名古屋のお嬢様学校である伝統校の椙山女学園・愛知淑徳・金城学院のローマ字の頭文字を取って「SSK」と呼ばれる、女子教育を主とする3つの学校法人の大学(ただし現在、愛知淑徳のみ大学は共学化)の在校生やその卒業生を指すものであった。SSKの同窓生は母親、祖母、曾祖母の代から卒業生という家系が少なからずあり、3代4代と続いてSSKの附属から大学までの出身者の場合がある。また名古屋は他所者を受け付けない保守的な土地柄(村社会)に加えて、他の土地に移住する者も少なく、地元の大学に進学することが多い。
特に女子は結婚するまで親元で生活し、良家の子女はSSKの中学校から大学卒業後、けいこ事をしながら見合いをし、家柄が良く安定した職業につく男性や素性の分かった地元の資産家の家に嫁ぐのが幸せであるという考えが一部ではあるが今日も根強く、卒業後も就職せず家事手伝いで過ごすのを良しとする風潮がいまだに残る古風な土地柄である。名古屋飛ばしとは、日本国内の他の大都市圏で行われているイベントの開催や鉄道の停車が愛知県名古屋市で行われないことを示す俗語である。「名古屋飛ばし」が大きな話題となった端緒は、1992年3月14日に東海旅客鉄道(JR東海)が東海道新幹線で運転を開始した「のぞみ」の1日2往復のうち、下りの一番列車(「のぞみ301号」)で新横浜駅に停車して名古屋駅を通過するダイヤが組まれたことである。この列車は京都駅も通過するとされたが、東海道新幹線の建設計画時点で同駅自体を経由しない案に対する一悶着(「鉄道と政治」の項を参照)に比べれば大した問題ではなく、観光客には使いにくい時間帯でもあったためか、京都市と京都府の側からは抗議の動きはほとんど見られなかった。
「のぞみ301号」は東京・横浜周辺のビジネス・出張利用客が早朝に出発して、大阪近辺のオフィスへの出社時刻に間に合うように設定された。しかし、当時は夜間の保線工事の後、地盤を固めるために早朝の数本の列車については減速運転をしなければならない事情を抱えていた。そのため、「のぞみ301号」を新横浜・名古屋・京都の各駅に停車させると、登場当時の「のぞみ」の売り文句であった「東京 - 新大阪間2時間半運転」が不可能となるため、苦肉の策として名古屋駅と京都駅を通過させることで対応しようとしたのである。JR東海は、名古屋駅と京都駅を利用する客には前後の列車を使用してもらうことで極力不便を与えないような配慮を講じることにしていた。翌1993年3月18日の「のぞみ」規格ダイヤ組込に合わせたダイヤ改正では、この列車に続行する「新横浜駅通過、名古屋・京都両駅停車」の「のぞみ1号」が設定された。1991年11月2日にこの方針が(前記のような事情を公表せず、通過するという話だけが知らされる形で)明らかになると、愛知県、特に名古屋市を筆頭に尾張地方の政財界は猛烈な反発を示し、中日新聞など名古屋のメディアも「名古屋飛ばし」として批判し、同紙の「中日春秋」や大学教授などのコラム・社説・読者投稿欄などでもヒステリックな反応が目立った。
(その当時の新横浜地区は、再開発がほとんど進んでいない「街はずれの田舎」という印象もあり、「三大都市の中枢である名古屋を新横浜ごときの田舎より冷遇するとは何事だ」という感情論も大きく影響した)。これが契機となり、それまではイベント業界などで使われていたと思われる「名古屋飛ばし」という語が一般化したものと考えられている。この時期には名古屋市出身の海部俊樹首相が退陣したことや、中部通商産業局(現経済産業局)長が名古屋圏の低落傾向を報告しており、鈴木礼治愛知県知事は名古屋圏の地盤沈下を懸念するとともに、地元選出の国会議員たちは将来のリニア中央新幹線での名古屋駅通過に至ることを危惧した。さらに「名古屋飛ばし」とは直接関係のない「名古屋学」講座の応募者数の増加、騒音問題を通じての「のぞみ」へのネガティブキャンペーン、政治家インタビューでも話題となった。1992年3月14日に「のぞみ301号」が運転を開始した。同列車が名古屋駅を通過する瞬間は地元メディアによって大きく報じられた。
なお名古屋・京都両駅はいずれも全列車停車を前提とした駅構造や配線となっているため70km/hの速度制限が行われ、新幹線列車としては非常に低速での通過となっていた。
2011年5月20日金曜日
矢島は、智子が小田切を雇っているのだと勘ぐり憤怒。
みどりを店長とする《大黒屋18号店》を強引に屋台村とは至近距離の立地に据えると、採算を度外視して無期限の『100円ラーメン』セールを命じた。そればかりか腹心の部下である営業部長・杉浦(五代高之)を関東から名古屋に呼び寄せ、デマの流布、(屋台村の他のテナント全員を金で釣っての)陰湿ないじめ…等々、あらゆる手を使って智子の妨害にかからせた。こうした卑劣な手口にはみどりですら反発するのだが、憎悪に憑かれた矢島はまったく聞く耳を持とうとしない。智子は、“《春駒亭》一軒さえ追い出せば、これ以上、屋台村の客足を奪わない”…という密約がテナントたちと《大黒屋》の間に取り交わされていたことを知らされる。そんな中、小田切親子は(矢島からの執拗な嫌がらせを封じるために)彼女には何の挨拶もなく《ひまわり荘》から忽然と姿を消してしまった。精神的に打ちのめされ、疲れ果てた智子は《春駒亭》のこれ以上の存続を断念。みどりに「あたしの負けだよ。
でもね、それでもみどりはわたしの唯一の友だちだった」と告げ、傷心のうちに名古屋の街を離れるのだった──。智子が故郷の郡上八幡で癒されない空しさに浸されていると、不意にみどりが彼女を訪ねてくる。矢島が財界の令嬢との電撃婚約を発表したのを機に、彼とは破局。《大黒屋》を辞めてきたのだ、と明かす。久々に心を開いて語り合ううち、二人の友情も修復され、三たび名古屋でラーメン屋を開業しようと意気投合。智子はみどりとともに名古屋に戻り、《ひまわり荘》で一緒に暮らし始める。名古屋お金物語2は1997年にNHKのドラマ新銀河枠で放送されたテレビドラマ。放送期間は1997年2月10日~3月13日。1995年に放送された「名古屋お金物語」の続編である。名古屋グランパスエイトは、日本の愛知県名古屋市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。2008年から「名古屋グランパス」を呼称とする。チーム名は「グランパス(Grampus)」が英語の鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は数字の八(名古屋市の記章)の英語訳を合わせたもの。
公式にはこのチーム名は当時名古屋市長だった西尾武喜の命名としているが、「エイト」の部分はオーナーであった豊田章一郎が「トヨタ」のカタカナ字画数が「8」であることから命名したという。なお2008年シーズンより呼称に関してはチーム名から「エイト」が外され「名古屋グランパス」に変更された(日本協会登録チーム名と法人名、エンブレム、ロゴは「名古屋グランパスエイト」のまま)。これは、ファン、サポーターおよびマスコミに親しまれている呼称を採用することで、更に愛されるクラブづくりを目指してゆきたいとの理由からである。しかし、後にこの改称は親会社でメインスポンサーのトヨタ自動車からの指示でもあったことが明かされた。「Jリーグ創設の1993年から2007年までリーグ8位が5回もあったため、チーム名から『8』を外すようにと一度だけ指示した(験担ぎで)」のだという。サポーターの間では「ロッソジャロ」(イタリア語でロッソ=赤、ジャロ=黄)や「赤鯱軍団」とも呼ばれることがある。ホームタウンは愛知県名古屋市。
ホームスタジアムは名古屋市瑞穂公園陸上競技場であり、豊田スタジアムを準ホームスタジアムとしている。当初は豊田スタジアムは年4-5試合程度の開催だったが、ここ数年はリーグ戦のほぼ半数が開催されている。練習場は豊田市のトヨタスポーツセンター。スポンサーがトヨタ自動車であることからJリーグ屈指の資金力を持ち、日本人を含む各国代表クラスの有力選手を獲得することも多く、また若手を含む多くの外国人選手をJリーグの舞台に招き入れている。2010年までにチーム強化に投じられた資金総額は200億円を超えるという。なお、クラブ経営に関してトヨタ自動車およびトヨタグループは「支援(資金)は出すが、口(指示)は出さない」としている(2010年時点、唯一の例外は先述の改称命令である)。Jリーグ創設時から加盟した10チーム(オリジナル10)のひとつだが、プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、チームの母体となるトヨタ自動車は、「先行きに見通しが立ちにくい」とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に不参加を決定した。
それに対し、プロリーグ設立委員会は「名古屋にチームが無ければリーグが盛り上がらない」と説得し、県協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し、Jリーグ加盟を取り付けたという。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、同年12月のことだった。地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があったが、トヨタは「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな。」とチームに企業色を全く出さなかったために、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭される。そのため、トヨタが袖スポンサーから胸スポンサーに移動する2001年までは、胸にチームロゴを入れていた。ナビスコ杯では2004年のベスト4から3年連続グループリーグ敗退を喫しており、2007年に至ってはナビスコ杯参加チームで唯一未勝利のままで敗退している。また、オリジナル10の中で3大タイトルなしの広島を除くと名古屋のみがナビスコ杯の獲得経験がない。
天皇杯に関しては、2度の優勝経験がありながら1999年シーズン優勝以降からの成績がほとんどベスト16以下であり、ベスト8が1回しかない。2003~2007年は5年連続でベスト16で敗退し、準々決勝進出を逃している。ただし、ストイコビッチが監督に就任した2008年は、浦和など強豪と同じグループでありながら最高の成績で予選を通過し、2004年以来のベスト4に入った。翌2009年は初出場のACLで日本勢最高成績となる4強、天皇杯でも10年振りの決勝進出を果たしており、ストイコビッチ政権下ではカップ戦での弱さは払拭されつつある。しかし、出場機会の乏しい若手中心で挑んだ2010年のナビスコ杯は1勝もできずに敗退している。試合中継を民放で放送する際、スポンサーとなるトヨタグループ9社を紹介する共通CMを放送する。Jリーグ黎明期に沖縄県で開催されていた地元放送局・沖縄テレビ主催によるおきぎんカップ(名古屋と沖縄県のサッカークラブとのプレシーズンマッチ)の試合放映は、東海テレビと中京テレビの両局が隔年交代で放送していた(試合中継は沖縄テレビ制作のを放送)。
名古屋オーシャンズは、大洋薬品フットサルクラブ株式会社が運営する、愛知県名古屋市に拠点を置くプロフットサルチーム。旧名称は「大洋薬品/BANFF」。フットサルの全国リーグ「日本フットサルリーグ」に参加している。日本初のプロフットサルチームとして、2006年4月に発足した。スポンサーは大洋薬品工業とバンフスポーツ。監督はジョゼ・アジウ・アマランテ。ユニフォームサプライヤーは2009-2010シーズンよりアシックスと契約。チームカラーは赤。メインスタジアムは名古屋市港区の大洋薬品オーシャンアリーナ。チーム名は前述のオーシャンアリーナが名古屋港の近くにあることから、「世界のフットサルシーンという大海原へ飛び出す」という願いを込めて命名された。
でもね、それでもみどりはわたしの唯一の友だちだった」と告げ、傷心のうちに名古屋の街を離れるのだった──。智子が故郷の郡上八幡で癒されない空しさに浸されていると、不意にみどりが彼女を訪ねてくる。矢島が財界の令嬢との電撃婚約を発表したのを機に、彼とは破局。《大黒屋》を辞めてきたのだ、と明かす。久々に心を開いて語り合ううち、二人の友情も修復され、三たび名古屋でラーメン屋を開業しようと意気投合。智子はみどりとともに名古屋に戻り、《ひまわり荘》で一緒に暮らし始める。名古屋お金物語2は1997年にNHKのドラマ新銀河枠で放送されたテレビドラマ。放送期間は1997年2月10日~3月13日。1995年に放送された「名古屋お金物語」の続編である。名古屋グランパスエイトは、日本の愛知県名古屋市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。2008年から「名古屋グランパス」を呼称とする。チーム名は「グランパス(Grampus)」が英語の鯱(名古屋城の金鯱)、「エイト」は数字の八(名古屋市の記章)の英語訳を合わせたもの。
公式にはこのチーム名は当時名古屋市長だった西尾武喜の命名としているが、「エイト」の部分はオーナーであった豊田章一郎が「トヨタ」のカタカナ字画数が「8」であることから命名したという。なお2008年シーズンより呼称に関してはチーム名から「エイト」が外され「名古屋グランパス」に変更された(日本協会登録チーム名と法人名、エンブレム、ロゴは「名古屋グランパスエイト」のまま)。これは、ファン、サポーターおよびマスコミに親しまれている呼称を採用することで、更に愛されるクラブづくりを目指してゆきたいとの理由からである。しかし、後にこの改称は親会社でメインスポンサーのトヨタ自動車からの指示でもあったことが明かされた。「Jリーグ創設の1993年から2007年までリーグ8位が5回もあったため、チーム名から『8』を外すようにと一度だけ指示した(験担ぎで)」のだという。サポーターの間では「ロッソジャロ」(イタリア語でロッソ=赤、ジャロ=黄)や「赤鯱軍団」とも呼ばれることがある。ホームタウンは愛知県名古屋市。
ホームスタジアムは名古屋市瑞穂公園陸上競技場であり、豊田スタジアムを準ホームスタジアムとしている。当初は豊田スタジアムは年4-5試合程度の開催だったが、ここ数年はリーグ戦のほぼ半数が開催されている。練習場は豊田市のトヨタスポーツセンター。スポンサーがトヨタ自動車であることからJリーグ屈指の資金力を持ち、日本人を含む各国代表クラスの有力選手を獲得することも多く、また若手を含む多くの外国人選手をJリーグの舞台に招き入れている。2010年までにチーム強化に投じられた資金総額は200億円を超えるという。なお、クラブ経営に関してトヨタ自動車およびトヨタグループは「支援(資金)は出すが、口(指示)は出さない」としている(2010年時点、唯一の例外は先述の改称命令である)。Jリーグ創設時から加盟した10チーム(オリジナル10)のひとつだが、プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、チームの母体となるトヨタ自動車は、「先行きに見通しが立ちにくい」とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に不参加を決定した。
それに対し、プロリーグ設立委員会は「名古屋にチームが無ければリーグが盛り上がらない」と説得し、県協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し、Jリーグ加盟を取り付けたという。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、同年12月のことだった。地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があったが、トヨタは「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな。」とチームに企業色を全く出さなかったために、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭される。そのため、トヨタが袖スポンサーから胸スポンサーに移動する2001年までは、胸にチームロゴを入れていた。ナビスコ杯では2004年のベスト4から3年連続グループリーグ敗退を喫しており、2007年に至ってはナビスコ杯参加チームで唯一未勝利のままで敗退している。また、オリジナル10の中で3大タイトルなしの広島を除くと名古屋のみがナビスコ杯の獲得経験がない。
天皇杯に関しては、2度の優勝経験がありながら1999年シーズン優勝以降からの成績がほとんどベスト16以下であり、ベスト8が1回しかない。2003~2007年は5年連続でベスト16で敗退し、準々決勝進出を逃している。ただし、ストイコビッチが監督に就任した2008年は、浦和など強豪と同じグループでありながら最高の成績で予選を通過し、2004年以来のベスト4に入った。翌2009年は初出場のACLで日本勢最高成績となる4強、天皇杯でも10年振りの決勝進出を果たしており、ストイコビッチ政権下ではカップ戦での弱さは払拭されつつある。しかし、出場機会の乏しい若手中心で挑んだ2010年のナビスコ杯は1勝もできずに敗退している。試合中継を民放で放送する際、スポンサーとなるトヨタグループ9社を紹介する共通CMを放送する。Jリーグ黎明期に沖縄県で開催されていた地元放送局・沖縄テレビ主催によるおきぎんカップ(名古屋と沖縄県のサッカークラブとのプレシーズンマッチ)の試合放映は、東海テレビと中京テレビの両局が隔年交代で放送していた(試合中継は沖縄テレビ制作のを放送)。
名古屋オーシャンズは、大洋薬品フットサルクラブ株式会社が運営する、愛知県名古屋市に拠点を置くプロフットサルチーム。旧名称は「大洋薬品/BANFF」。フットサルの全国リーグ「日本フットサルリーグ」に参加している。日本初のプロフットサルチームとして、2006年4月に発足した。スポンサーは大洋薬品工業とバンフスポーツ。監督はジョゼ・アジウ・アマランテ。ユニフォームサプライヤーは2009-2010シーズンよりアシックスと契約。チームカラーは赤。メインスタジアムは名古屋市港区の大洋薬品オーシャンアリーナ。チーム名は前述のオーシャンアリーナが名古屋港の近くにあることから、「世界のフットサルシーンという大海原へ飛び出す」という願いを込めて命名された。
2011年5月19日木曜日
名古屋から関東への出店が相次いだこと
愛・地球博の開幕や好景気で名古屋に活気が出てきたことなどが、総称の「名古屋めし」が全国的に知られるようになった原因である。名物、八丁味噌に代表されるようにいずれも味付けが濃い傾向がある。2005年ころからナゴヤドームで球場独自の弁当として「球弁」が取り入れられた。この「球弁」にも名古屋めしの食材を取り入れたものが多く、ドームでの野球観戦での食事にも愛されている。また、名古屋駅の駅弁にも名古屋めしの食材を取り入れたものが数多くある。2005年の愛知万博の開催などで名古屋に対する関心が高まり、また名古屋嬢にも代表される様なファッション文化の周知により文化浸透の土壌が形成され、全国各地に名古屋めしのフランチャイズが開店していった。現在、名古屋めしを給する店のうち、世界の山ちゃん、矢場とん、山本屋総本家、コメダ珈琲店などが関東などへ進出している。名古屋コーチンとは、愛知県特産である鶏の肉用品種である。 後に「名古屋種」と改名されたが、現在も「名古屋コーチン」のままで流通している。
名古屋コーチンとは愛知県農業総合試験場で改良された品種で、愛知県畜産総合センター種鶏場から供給された種鶏から生産された鶏のことである。その飼育は愛知県周辺を中心に日本全国で飼育されるようになっている。卵をよく産み、肉もおいしいことから「卵肉兼用種」に分類されている。現代では高級食材となり値段が高い。元・尾張藩藩士であった海部壮平・正秀兄弟の手によって、明治初期に、旧・東春日井郡池林村池之内(現在の愛知県小牧市池之内)で、誕生した。中国産の「バフコーチン」(九斤)という名前の鶏と、元々現在の名古屋市辺りで飼育されていた地鶏を交配させて作られた品種で、日本家禽協会によって、初の「国産実用鶏」として、1905年(明治38年)に認定された。その後1919年(大正8年)に、褐色レグホーン等の洋鶏の遺伝子を導入して改良(育種)された品種が再固定されて、「名古屋種」と名付けられたが、現在も「名古屋コーチン」のままで流通している。
かつては非常に強い就巣性があり、巣篭もりすると採卵効率がかなり低下したが、最近は改良が進み就巣性はある程度弱くなった。今後は遺伝子マーカーによる選別法の確立により就巣性は効率的に除去される見通しである。2007年9月29日の日本家禽学会において、DNA分析の結果、市販の名古屋コーチン生肉や加工品のうち、約2割が偽物であることが明らかになった。これを受けて、一部の販売店では、店頭から名古屋コーチンを撤去するなど、名古屋コーチンブランドが低下した。2009年5月には、名古屋コーチンブランドを守ることを目的とした名古屋コーチン協会が設立された。名古屋嫁入り物語は、1989年~1998年まで10作が放送された。名古屋の結婚式を題材にした植木等主演の東海テレビ・泉放送制作が制作した2時間放送のスペシャルドラマである。植木等、山田昌が生粋の名古屋人夫婦を演じた。当初は単発ドラマとして放送されたが、視聴率が良かった事から新作が作られ続ける事になり、後に舞台化もされた。
特に名古屋方面での人気は高く、関東で20%前後の視聴率に対し、毎回30%前後の高視聴率だった。基本的なストーリーは「娘が連れて来た結婚相手に父親が反対するが、最後には結婚を許し名古屋流の結婚式を行う」と言うもの。名古屋をはじめとする中京地区では娘の結婚に父母が世話をやき、「娘三人いれば家が傾く」といわれるくらいの費用を使う。また、他の土地とは違う独特の風習などもあり、そうした光景をコミカルに描き出した。ゲストとしてきんさんぎんさんが出演した事がある。また、その際植木が2人に会いに行き、2人から「スーダラ節知ってますよ」と言われた。2007年3月27日に主演の植木が死去したため、制作した東海テレビでは31日15:30から急遽追悼企画として過去の作品の再放送を実施した(東海3県のみのローカル)。 名古屋お金物語は1995年にNHKのドラマ新銀河枠で放送されたテレビドラマ。全20回。放送期間は1995年6月12日~7月13日。1997年に続編の「名古屋お金物語2※」が放送される。
現在はNHKアーカイブス(外部リンクの項:参照)の公開作品に登録され、NHK各放送局他の番組公開ライブラリー施設にてオンライン視聴できる作品となっている。岐阜・郡上八幡から名古屋に出てきたOL、森谷智子(荻野目洋子)は気楽な一人暮らし。あげくにフィアンセだと信じていた恋人に結婚準備金を丸ごと騙し盗られ、さらには自分のクレジットカードまでも無断で盗用されて、三百万円余の借金を一夜にして背負い込まされてしまう。詐欺に遭ったと気づいたときには、すでに勤務先を“円満に”寿退社。住んでいたマンションも解約してしまっていた。大家から“予定通り”立ち退くよう迫られ、かろうじて古い木造アパート《ひまわり荘》に転がり込んだものの、明日からの生活手段が無い……。実は彼の父・小田切こそ、《大黒屋》の秘伝の味を編み出した調理人その人だった。かつて《大黒屋》発祥の店に雇われて先代の娘と結婚しながら、二代目・政哉の全国チェーン展開戦略に猛反発して店を飛び出し、ほどなく最愛の妻(=政哉の妹)を狭心症で亡くす…
という哀しい過去を背負っていた。小田切が名古屋に戻っていることを知った矢島は、智子に“妹を殺された”積年の憎しみを告白すると「これ以上、奴とは関わらない方がいい」と警告する。その一方、屋台の客の入りはひところの活況を失い、次第に経営は苦しくなっていた。そればかりか、思い出のたくさん詰まった屋台そのものすら、営業中のアクシデントで焼失させてしまう。残酷すぎる現実。それでも智子は、昼間ガソリンスタンドでアルバイトしながら、夜はラーメン作り研究に没頭し続けた。小田切の機転の利いたアドバイスもあり、着実に麺職人の腕は磨かれていった。そんな智子の真面目さと情熱を見守ってきた楠田は、彼女に開業資金を個人的に融資。勤務するクレジット会社が副業で運営する屋台村への《春駒亭》出店を、遠巻きながらも“支援”するのだった。
名古屋コーチンとは愛知県農業総合試験場で改良された品種で、愛知県畜産総合センター種鶏場から供給された種鶏から生産された鶏のことである。その飼育は愛知県周辺を中心に日本全国で飼育されるようになっている。卵をよく産み、肉もおいしいことから「卵肉兼用種」に分類されている。現代では高級食材となり値段が高い。元・尾張藩藩士であった海部壮平・正秀兄弟の手によって、明治初期に、旧・東春日井郡池林村池之内(現在の愛知県小牧市池之内)で、誕生した。中国産の「バフコーチン」(九斤)という名前の鶏と、元々現在の名古屋市辺りで飼育されていた地鶏を交配させて作られた品種で、日本家禽協会によって、初の「国産実用鶏」として、1905年(明治38年)に認定された。その後1919年(大正8年)に、褐色レグホーン等の洋鶏の遺伝子を導入して改良(育種)された品種が再固定されて、「名古屋種」と名付けられたが、現在も「名古屋コーチン」のままで流通している。
かつては非常に強い就巣性があり、巣篭もりすると採卵効率がかなり低下したが、最近は改良が進み就巣性はある程度弱くなった。今後は遺伝子マーカーによる選別法の確立により就巣性は効率的に除去される見通しである。2007年9月29日の日本家禽学会において、DNA分析の結果、市販の名古屋コーチン生肉や加工品のうち、約2割が偽物であることが明らかになった。これを受けて、一部の販売店では、店頭から名古屋コーチンを撤去するなど、名古屋コーチンブランドが低下した。2009年5月には、名古屋コーチンブランドを守ることを目的とした名古屋コーチン協会が設立された。名古屋嫁入り物語は、1989年~1998年まで10作が放送された。名古屋の結婚式を題材にした植木等主演の東海テレビ・泉放送制作が制作した2時間放送のスペシャルドラマである。植木等、山田昌が生粋の名古屋人夫婦を演じた。当初は単発ドラマとして放送されたが、視聴率が良かった事から新作が作られ続ける事になり、後に舞台化もされた。
特に名古屋方面での人気は高く、関東で20%前後の視聴率に対し、毎回30%前後の高視聴率だった。基本的なストーリーは「娘が連れて来た結婚相手に父親が反対するが、最後には結婚を許し名古屋流の結婚式を行う」と言うもの。名古屋をはじめとする中京地区では娘の結婚に父母が世話をやき、「娘三人いれば家が傾く」といわれるくらいの費用を使う。また、他の土地とは違う独特の風習などもあり、そうした光景をコミカルに描き出した。ゲストとしてきんさんぎんさんが出演した事がある。また、その際植木が2人に会いに行き、2人から「スーダラ節知ってますよ」と言われた。2007年3月27日に主演の植木が死去したため、制作した東海テレビでは31日15:30から急遽追悼企画として過去の作品の再放送を実施した(東海3県のみのローカル)。 名古屋お金物語は1995年にNHKのドラマ新銀河枠で放送されたテレビドラマ。全20回。放送期間は1995年6月12日~7月13日。1997年に続編の「名古屋お金物語2※」が放送される。
現在はNHKアーカイブス(外部リンクの項:参照)の公開作品に登録され、NHK各放送局他の番組公開ライブラリー施設にてオンライン視聴できる作品となっている。岐阜・郡上八幡から名古屋に出てきたOL、森谷智子(荻野目洋子)は気楽な一人暮らし。あげくにフィアンセだと信じていた恋人に結婚準備金を丸ごと騙し盗られ、さらには自分のクレジットカードまでも無断で盗用されて、三百万円余の借金を一夜にして背負い込まされてしまう。詐欺に遭ったと気づいたときには、すでに勤務先を“円満に”寿退社。住んでいたマンションも解約してしまっていた。大家から“予定通り”立ち退くよう迫られ、かろうじて古い木造アパート《ひまわり荘》に転がり込んだものの、明日からの生活手段が無い……。実は彼の父・小田切こそ、《大黒屋》の秘伝の味を編み出した調理人その人だった。かつて《大黒屋》発祥の店に雇われて先代の娘と結婚しながら、二代目・政哉の全国チェーン展開戦略に猛反発して店を飛び出し、ほどなく最愛の妻(=政哉の妹)を狭心症で亡くす…
という哀しい過去を背負っていた。小田切が名古屋に戻っていることを知った矢島は、智子に“妹を殺された”積年の憎しみを告白すると「これ以上、奴とは関わらない方がいい」と警告する。その一方、屋台の客の入りはひところの活況を失い、次第に経営は苦しくなっていた。そればかりか、思い出のたくさん詰まった屋台そのものすら、営業中のアクシデントで焼失させてしまう。残酷すぎる現実。それでも智子は、昼間ガソリンスタンドでアルバイトしながら、夜はラーメン作り研究に没頭し続けた。小田切の機転の利いたアドバイスもあり、着実に麺職人の腕は磨かれていった。そんな智子の真面目さと情熱を見守ってきた楠田は、彼女に開業資金を個人的に融資。勤務するクレジット会社が副業で運営する屋台村への《春駒亭》出店を、遠巻きながらも“支援”するのだった。
2011年5月18日水曜日
航空法51条および51条の2により
地上60メートル以上の塔や煙突は赤白塗装(昼間障害標識)が義務付けられているがテレビ塔は同51条の制定(1960年航空法改正時に追加された)前に完成されたという理由、名古屋テレビ塔株式会社初代社長の神野金之助の抵抗、最上部に航空障害灯を設置したことで切り抜けている。そのため完成当初から銀色塗装となっている。テレビ塔は約7年おきに塗装の塗り替えを行っている。塗り替え費用は1回につき2億円で、下塗り2回・上塗り2回の計4回行う。上塗りの際には5トンの塗料が使われている。名古屋テレビ塔は2011年7月24日でアナログ放送の電波塔としての役割を終えた。地デジ化によるアナログ放送の停波後は(2011年までの)年間3億円の収入のうち、約3割に当たるテレビ局のアンテナ設置料などの収入1億円が入らなくなることや現在の名古屋テレビ塔株式会社社長である大澤が就任した2003年には、名古屋テレビ塔株式会社は倒産寸前だったことを明かしている経緯があることから厳しい運営状況に陥ることが予想されている。
さらなる収入確保のためにアナログ放送機器スペースを撤去することで生じるスペースを飲食や物販を販売する店へと転換するリニューアル計画を2011年夏の着工、2013年の完了を目標に策定している。しかしながら事業費の35億円のうち、耐震改修費の15億円を「民間での資金調達では限界」という理由で出資者である愛知県と名古屋市に対して公的支援を求めた。名古屋市は「税金(公的支援)投入は市民の理解が必要」として回答せず、6月16日の会社役員会の際は基本計画の延長及び規模の見直しを求めた。この計画が承認されない場合「行政・市民の支えがなければ存続は難しく、解体もあり得る」と名古屋テレビ塔株式会社常務の若山宏常が発言している。しかし出資者である名古屋市の代表(株主)である名古屋市長の河村たかしは2011年6月の定例議会で存続することを明言し、「市長としてテレビ塔を取り壊すつもりはない。久屋大通公園を含め、名古屋のシンボルとして大いに盛り上げていきたい」と発言している。
ただし公的資金の投入に対しては否定的で、民間の買い上げを望んでいる。また「テレビ塔を学生にプレゼントし、周辺の道路を閉鎖して毎週学園祭を行えばいい」とも発言している。なおテレビ塔の次回の塗り替えが2012年の予定になっているものの、アナログ放送終了後の収入が不明瞭な点と存廃問題で、行われるか否か不明。名古屋テレビ放送は開局当初から中区の名古屋市営地下鉄名城線東別院駅前にある局舎に移るまで、テレビ塔の一室を借りて放送していた。後に開局した東海テレビ放送(THK)が中部日本放送(CBC)の送信所で研修を受けたという逸話がある。また日本初の集約電波塔という側面があるため、NHK・CBC・THK3局の仲は良好だったという。この際に生まれた共有精神が、名古屋の地上波のテレビ局・ラジオ局の合同番組やイベントに生かされているという側面も持っているとされる。名古屋ルーセントタワーは、愛知県名古屋市西区にある牛島市街地再開発組合(名古屋鉄道、中部電力、トヨタ自動車、住友生命保険、大成建設、ほか個人1名)のオフィスビル兼商業施設である。
東面は全面ガラスの緩やかなカーブを描いており、通常全方位から見られることを意識して作られる高層ビルとしては非対称形という特徴を持つ。名古屋駅周辺の線路側にはこのビルの特徴であるカーブ面が見えにくいため、列車の乗客にとっては一般的なガラスウォールの方形高層ビルに見える。また、地下道「ルーセントアベニュー」によって、地下鉄東山線名古屋駅から徒歩約5分で結ばれている。線路側には窓がほとんどないが、これは日の照る線路側からの日光をさえぎり、空調の効き目を良くするためである。名古屋モーターショーとは、東京モーターショーなどとともに行われる日本国内5大モーターショーのひとつである。日本国内では東京モーターショーに次ぐ、2番目に歴史があるモーターショーとなっている。1979年の第1回開催より、東京モーターショーと同じく2年に1度、開催されている。1979年11月に中部経済新聞社と東海ラジオ放送の共催により、吹上ホールにて前身の『ナゴヤモーターフェスティバル』が開催された(来場者数は74500人)。
第2回開催の1981年からは、開催場所を現在の名古屋市国際展示場に移した(来場者数は111900人)。1991年の第3回開催より、名称を現在の『名古屋モーターショー』に変更した。近年では輸入車メーカーにおいては、その年の東京モーターショーでは出展が間に合わず名古屋で初披露される車種が多く、2009年開催の第16回開催では東京モーターショーでは出展を見合わせた一部の欧米輸入車メーカーが出展し、ジャガー・XJ、シボレー・カマロ、ポルシェ・パナメーラなどがジャパンプレミアとなった。名古屋めしとは、愛知県名古屋市を中心とする中京圏が発祥の、もしくは中京圏で発展した食事の総称である。名古屋めしは、名古屋から進出した地方の食文化を指す。ゼットンが東京へ進出し名古屋の地元料理を提供しはじめた頃、グルメ情報誌の記者がイタリア料理のイタめしをまねてなごめしという呼称でゼットンの料理を紹介しようとした。これに対しゼットンの代表取締役社長をしていた稲本健一がもっとストレートに名古屋めしと呼ぶことを提案し、採用されたのが言葉の始まりである。
ゼットンに続いて矢場とんや世界の山ちゃんなどの名古屋の企業が東京へ進出して名古屋名物を提供し始めた時にも使われ、名古屋めしという表現は東京を中心に広まっていった。地元の名古屋で使われるようになったのはその後である。多くは、名古屋市周辺が発祥の名物とされる食べ物であるが、他の地域発祥であっても名古屋地区において独特の発展を遂げた物も含む。特に、メディアで話題となってからは、発祥の地を名乗る店舗が急増しているのが現状で、真相は闇の中といった状況となっている。名古屋は独特な食文化を持っていると言われている。元々のメニューにアレンジを利かせたアイデア料理が特徴で、その中でも、味噌カツやひつまぶし、天むすといった名古屋の名物が雑誌などで特集されるようになった。天むす(三重県津市の天ぷら定食店「千寿」。名古屋市の天むすびの「多香野」 等が元祖を名乗っている)味噌カツ(味噌カツ発祥に関しては1965年発祥とする津市のカトレアと、1947年創業の味噌カツ専門店、矢場とんが挙げられる)ひつまぶし(熱田区の「あつた蓬莱軒」や、中区の「いば昇」)(大阪・三重津市が発祥との説もある。)
さらなる収入確保のためにアナログ放送機器スペースを撤去することで生じるスペースを飲食や物販を販売する店へと転換するリニューアル計画を2011年夏の着工、2013年の完了を目標に策定している。しかしながら事業費の35億円のうち、耐震改修費の15億円を「民間での資金調達では限界」という理由で出資者である愛知県と名古屋市に対して公的支援を求めた。名古屋市は「税金(公的支援)投入は市民の理解が必要」として回答せず、6月16日の会社役員会の際は基本計画の延長及び規模の見直しを求めた。この計画が承認されない場合「行政・市民の支えがなければ存続は難しく、解体もあり得る」と名古屋テレビ塔株式会社常務の若山宏常が発言している。しかし出資者である名古屋市の代表(株主)である名古屋市長の河村たかしは2011年6月の定例議会で存続することを明言し、「市長としてテレビ塔を取り壊すつもりはない。久屋大通公園を含め、名古屋のシンボルとして大いに盛り上げていきたい」と発言している。
ただし公的資金の投入に対しては否定的で、民間の買い上げを望んでいる。また「テレビ塔を学生にプレゼントし、周辺の道路を閉鎖して毎週学園祭を行えばいい」とも発言している。なおテレビ塔の次回の塗り替えが2012年の予定になっているものの、アナログ放送終了後の収入が不明瞭な点と存廃問題で、行われるか否か不明。名古屋テレビ放送は開局当初から中区の名古屋市営地下鉄名城線東別院駅前にある局舎に移るまで、テレビ塔の一室を借りて放送していた。後に開局した東海テレビ放送(THK)が中部日本放送(CBC)の送信所で研修を受けたという逸話がある。また日本初の集約電波塔という側面があるため、NHK・CBC・THK3局の仲は良好だったという。この際に生まれた共有精神が、名古屋の地上波のテレビ局・ラジオ局の合同番組やイベントに生かされているという側面も持っているとされる。名古屋ルーセントタワーは、愛知県名古屋市西区にある牛島市街地再開発組合(名古屋鉄道、中部電力、トヨタ自動車、住友生命保険、大成建設、ほか個人1名)のオフィスビル兼商業施設である。
東面は全面ガラスの緩やかなカーブを描いており、通常全方位から見られることを意識して作られる高層ビルとしては非対称形という特徴を持つ。名古屋駅周辺の線路側にはこのビルの特徴であるカーブ面が見えにくいため、列車の乗客にとっては一般的なガラスウォールの方形高層ビルに見える。また、地下道「ルーセントアベニュー」によって、地下鉄東山線名古屋駅から徒歩約5分で結ばれている。線路側には窓がほとんどないが、これは日の照る線路側からの日光をさえぎり、空調の効き目を良くするためである。名古屋モーターショーとは、東京モーターショーなどとともに行われる日本国内5大モーターショーのひとつである。日本国内では東京モーターショーに次ぐ、2番目に歴史があるモーターショーとなっている。1979年の第1回開催より、東京モーターショーと同じく2年に1度、開催されている。1979年11月に中部経済新聞社と東海ラジオ放送の共催により、吹上ホールにて前身の『ナゴヤモーターフェスティバル』が開催された(来場者数は74500人)。
第2回開催の1981年からは、開催場所を現在の名古屋市国際展示場に移した(来場者数は111900人)。1991年の第3回開催より、名称を現在の『名古屋モーターショー』に変更した。近年では輸入車メーカーにおいては、その年の東京モーターショーでは出展が間に合わず名古屋で初披露される車種が多く、2009年開催の第16回開催では東京モーターショーでは出展を見合わせた一部の欧米輸入車メーカーが出展し、ジャガー・XJ、シボレー・カマロ、ポルシェ・パナメーラなどがジャパンプレミアとなった。名古屋めしとは、愛知県名古屋市を中心とする中京圏が発祥の、もしくは中京圏で発展した食事の総称である。名古屋めしは、名古屋から進出した地方の食文化を指す。ゼットンが東京へ進出し名古屋の地元料理を提供しはじめた頃、グルメ情報誌の記者がイタリア料理のイタめしをまねてなごめしという呼称でゼットンの料理を紹介しようとした。これに対しゼットンの代表取締役社長をしていた稲本健一がもっとストレートに名古屋めしと呼ぶことを提案し、採用されたのが言葉の始まりである。
ゼットンに続いて矢場とんや世界の山ちゃんなどの名古屋の企業が東京へ進出して名古屋名物を提供し始めた時にも使われ、名古屋めしという表現は東京を中心に広まっていった。地元の名古屋で使われるようになったのはその後である。多くは、名古屋市周辺が発祥の名物とされる食べ物であるが、他の地域発祥であっても名古屋地区において独特の発展を遂げた物も含む。特に、メディアで話題となってからは、発祥の地を名乗る店舗が急増しているのが現状で、真相は闇の中といった状況となっている。名古屋は独特な食文化を持っていると言われている。元々のメニューにアレンジを利かせたアイデア料理が特徴で、その中でも、味噌カツやひつまぶし、天むすといった名古屋の名物が雑誌などで特集されるようになった。天むす(三重県津市の天ぷら定食店「千寿」。名古屋市の天むすびの「多香野」 等が元祖を名乗っている)味噌カツ(味噌カツ発祥に関しては1965年発祥とする津市のカトレアと、1947年創業の味噌カツ専門店、矢場とんが挙げられる)ひつまぶし(熱田区の「あつた蓬莱軒」や、中区の「いば昇」)(大阪・三重津市が発祥との説もある。)
2011年5月17日火曜日
名古屋市民会館は
名古屋市の副都心の1つである金山にあるホールおよび会議室等による複合施設。金山駅に隣接してある。中京大学が市から命名権を取得し、2007年(平成19年)7月1日から愛称が「中京大学文化市民会館」になった。同市の人口が200万人に達したことを記念して、「芸術文化の振興及び市民福祉の向上を図るため」に建設された。名古屋市金山体育館の機能を熱田区の名古屋市体育館に移転した後、その跡地に建設された。2つのホールを主な施設としている。1972年(昭和47年)10月1日の開館以来、東海地方を代表するホールとして、内外のオーケストラ演奏会やポピュラー音楽、歌謡曲などのコンサートのほか、演劇、舞踊、講演会、式典などに利用されている。音響家が選ぶ優良ホール100選に選ばれている。市は、「名古屋市民会館」という名称を名古屋市民会館条例に基く正式名称と見なし、愛称の方の命名権(ネーミングライツ)を売却することにした。同会館の呼称は、契約期間中、愛称を優先して使用することが推奨される。
2007年(平成19年)4月16日、名古屋市ネーミングライツ選定委員会が、中京大学などを運営する学校法人梅村学園に同会館の愛称の命名権を売却することを承認し、5月上旬に市と同法人との間で正式契約が取り交わされた。契約期間は5年間。売却額は、税別で1年につき5000万円。この契約金には、1年につき大ホール5日分、中ホール5日分の利用料金も含まれている。2007年(平成19年)7月1日から、契約に基いて同会館は「中京大学文化市民会館」(正式略称:中京大学会館)になった。また、大ホールが「オーロラホール」、中ホールが「プルニエホール」になった。「プルニエ」(フランス語:prunier プリュニエ)は、プルーン(西洋スモモ)の木のことであるが、梅村学園や市長は梅のことであるとしている。命名権契約により、愛称である「中京大学文化市民会館」を一般施設名としているが、名称決定以降、各方面から批判の声が挙がっている。名称には名古屋市の関連施設だと思わせる文字が入っておらず、中京大学の関連施設と受け取られ兼ねない。
特に名古屋地区の大学・専門学校の入卒式典や文化祭など高等学校の行事に使われることが多かったために、愛知大学を始め今年度卒業式以降の利用を見合わせる動きが出ている。名古屋市瑞穂公園ラグビー場は、愛知県名古屋市瑞穂区にある球技場。通称は瑞穂球技場。名古屋市内では最も古い球技場で現在のスタンドは1990年に改修工事を受け、この時に電光掲示板などが整備された。全国地区対抗大学ラグビー大会の会場として使用されているのを始め、地元のアマチュア公式戦のほか1994年にわかしゃち国体のラグビー競技が開催されるなど、愛知県を代表する施設として使用されてきた。1993年、当時ホームスタジアムの一つとして使用した名古屋グランパスエイトがJリーグ公式戦(対横浜マリノス戦)の最中に大雨のためピッチ全面が田んぼのように冠水する事態となった。そのためJリーグからの注意勧告を受けて同年の秋に芝の張替え工事が施された。
この年、世界ユースU-17選手権大会(現・FIFA ユースU-17ワールドカップ)を開催している。名古屋競輪場は愛知県名古屋市中村区にある競輪場。施設所有および主催は名古屋競輪組合(愛知県と名古屋市による一部事務組合)。実施は日本自転車競技会中日本地区本部。名古屋競輪場は1949年に開設された。当初は中日球場にて組立バンクによる競輪開催(西宮競輪と同じ手法)する構想があったものの、名古屋市財政局からの強い要望があり、最終的には別個に新規で競輪場を建設することになり、現在地の中村公園北側に造成された。記念競輪 (GIII) は「金鯱賞争奪戦」として行われるのが恒例となっており、近年まで10月に開催されていたが、最近は3月に時期が移動されている。またS級シリーズとして現役時代は日本選手権競輪・オールスター競輪を制し、世界選手権にも出場したことがある高橋健二を称え、『高橋健二杯・メダリストカップ』が開催されている。
過去にはオールスター競輪が4回開催されており、直近では2005年に第48回オールスター競輪を13年ぶりに開催した。また2011年3月に第64回日本選手権競輪が、名古屋競輪場では61年ぶりに開催された。今後は2012年4月27日から30日まで共同通信社杯競輪が行われる予定である。名古屋テレビ塔は愛知県名古屋市中区栄の久屋大通公園に立つ、日本で最初に完成した集約電波塔。名古屋テレビ塔株式会社(Nagoya TV Tower Corporation)が保有・運営している。1953年9月19日着工。現在建っている土地は、当時の名古屋市助役であった田淵寿郎によって復興のシンボルになるという理由で有償貸与されている。昼夜を通して工事が行われただけでなく建設許可の際、「塔の直下に地下鉄を通す」ことを条件に建設されたため4本の脚部は深さ6mまでしか埋め込まれておらず、将来の地下鉄工事に備えるためにだるま式構造と呼ばれる4本の脚を鉄筋コンクリートのアーチで結合して固め重心を下げる工事も行われている。
1954年6月19日竣工、翌日には開業・電波の発射を開始した。高さ180m。設計者は内藤多仲。名駅地区を中心に超高層ビルが乱立する中でも、名古屋市中心部のシンボルとして親しまれている。テレビ塔の建設費は愛知県と名古屋市が当時の金額でそれぞれ2000万円を、名古屋鉄道などの名古屋の財界が4000万円を出資している。さらにNHKが放送機材として4000万相当の鉄塔を現物で出資し、その方針に倣い中部日本放送も同額で鉄塔を購入している。そのため鉄塔にある展望台(90m)より上はNHK、それより下はCBCの持ち分になっている。2011年7月24日までNHK名古屋放送局(総合・教育)、中部日本放送(CBC)、東海テレビ放送(THK)、名古屋テレビ放送 (NBN)のVHF4局がここから地上波アナログテレビの電波を送信していた。名古屋市内の繁華街ということなどもあり、一部放送局の中にはお天気カメラを設置しているところもある。高さは180m、総重量3300トン。
地上90mにスカイデッキ、100mに金網で囲まれたスカイバルコニーがあり名古屋市街や御嶽山などの眺望が楽しめる(展望階は有料)。3階にはレストランの他、娯楽コーナーや土産を売るショップもある。夜間にはライトアップが毎日、日没30分前-26時に行われておりライトアップの中でもセントラルパークからのレーザー光は特に目立つ。なお、地上デジタルテレビジョン放送はNHK、民放5局ともに瀬戸市幡中町に新たに建設した瀬戸デジタルタワーを電波塔として利用している。その理由は既存の名古屋テレビ塔及び東山タワー(中京テレビ放送(CTV)本社敷地内にあるUHF・FM鉄塔)が築50年及び30年以上経過しており、これらにデジタルテレビ用の送信アンテナを設置するには強度不足と判断されたためで名古屋テレビ塔は2011年7月24日をもって電波塔としての役目を終えた(東京タワーと違い、ラジオ局や業務無線のアンテナは設置されていない)。
2007年(平成19年)4月16日、名古屋市ネーミングライツ選定委員会が、中京大学などを運営する学校法人梅村学園に同会館の愛称の命名権を売却することを承認し、5月上旬に市と同法人との間で正式契約が取り交わされた。契約期間は5年間。売却額は、税別で1年につき5000万円。この契約金には、1年につき大ホール5日分、中ホール5日分の利用料金も含まれている。2007年(平成19年)7月1日から、契約に基いて同会館は「中京大学文化市民会館」(正式略称:中京大学会館)になった。また、大ホールが「オーロラホール」、中ホールが「プルニエホール」になった。「プルニエ」(フランス語:prunier プリュニエ)は、プルーン(西洋スモモ)の木のことであるが、梅村学園や市長は梅のことであるとしている。命名権契約により、愛称である「中京大学文化市民会館」を一般施設名としているが、名称決定以降、各方面から批判の声が挙がっている。名称には名古屋市の関連施設だと思わせる文字が入っておらず、中京大学の関連施設と受け取られ兼ねない。
特に名古屋地区の大学・専門学校の入卒式典や文化祭など高等学校の行事に使われることが多かったために、愛知大学を始め今年度卒業式以降の利用を見合わせる動きが出ている。名古屋市瑞穂公園ラグビー場は、愛知県名古屋市瑞穂区にある球技場。通称は瑞穂球技場。名古屋市内では最も古い球技場で現在のスタンドは1990年に改修工事を受け、この時に電光掲示板などが整備された。全国地区対抗大学ラグビー大会の会場として使用されているのを始め、地元のアマチュア公式戦のほか1994年にわかしゃち国体のラグビー競技が開催されるなど、愛知県を代表する施設として使用されてきた。1993年、当時ホームスタジアムの一つとして使用した名古屋グランパスエイトがJリーグ公式戦(対横浜マリノス戦)の最中に大雨のためピッチ全面が田んぼのように冠水する事態となった。そのためJリーグからの注意勧告を受けて同年の秋に芝の張替え工事が施された。
この年、世界ユースU-17選手権大会(現・FIFA ユースU-17ワールドカップ)を開催している。名古屋競輪場は愛知県名古屋市中村区にある競輪場。施設所有および主催は名古屋競輪組合(愛知県と名古屋市による一部事務組合)。実施は日本自転車競技会中日本地区本部。名古屋競輪場は1949年に開設された。当初は中日球場にて組立バンクによる競輪開催(西宮競輪と同じ手法)する構想があったものの、名古屋市財政局からの強い要望があり、最終的には別個に新規で競輪場を建設することになり、現在地の中村公園北側に造成された。記念競輪 (GIII) は「金鯱賞争奪戦」として行われるのが恒例となっており、近年まで10月に開催されていたが、最近は3月に時期が移動されている。またS級シリーズとして現役時代は日本選手権競輪・オールスター競輪を制し、世界選手権にも出場したことがある高橋健二を称え、『高橋健二杯・メダリストカップ』が開催されている。
過去にはオールスター競輪が4回開催されており、直近では2005年に第48回オールスター競輪を13年ぶりに開催した。また2011年3月に第64回日本選手権競輪が、名古屋競輪場では61年ぶりに開催された。今後は2012年4月27日から30日まで共同通信社杯競輪が行われる予定である。名古屋テレビ塔は愛知県名古屋市中区栄の久屋大通公園に立つ、日本で最初に完成した集約電波塔。名古屋テレビ塔株式会社(Nagoya TV Tower Corporation)が保有・運営している。1953年9月19日着工。現在建っている土地は、当時の名古屋市助役であった田淵寿郎によって復興のシンボルになるという理由で有償貸与されている。昼夜を通して工事が行われただけでなく建設許可の際、「塔の直下に地下鉄を通す」ことを条件に建設されたため4本の脚部は深さ6mまでしか埋め込まれておらず、将来の地下鉄工事に備えるためにだるま式構造と呼ばれる4本の脚を鉄筋コンクリートのアーチで結合して固め重心を下げる工事も行われている。
1954年6月19日竣工、翌日には開業・電波の発射を開始した。高さ180m。設計者は内藤多仲。名駅地区を中心に超高層ビルが乱立する中でも、名古屋市中心部のシンボルとして親しまれている。テレビ塔の建設費は愛知県と名古屋市が当時の金額でそれぞれ2000万円を、名古屋鉄道などの名古屋の財界が4000万円を出資している。さらにNHKが放送機材として4000万相当の鉄塔を現物で出資し、その方針に倣い中部日本放送も同額で鉄塔を購入している。そのため鉄塔にある展望台(90m)より上はNHK、それより下はCBCの持ち分になっている。2011年7月24日までNHK名古屋放送局(総合・教育)、中部日本放送(CBC)、東海テレビ放送(THK)、名古屋テレビ放送 (NBN)のVHF4局がここから地上波アナログテレビの電波を送信していた。名古屋市内の繁華街ということなどもあり、一部放送局の中にはお天気カメラを設置しているところもある。高さは180m、総重量3300トン。
地上90mにスカイデッキ、100mに金網で囲まれたスカイバルコニーがあり名古屋市街や御嶽山などの眺望が楽しめる(展望階は有料)。3階にはレストランの他、娯楽コーナーや土産を売るショップもある。夜間にはライトアップが毎日、日没30分前-26時に行われておりライトアップの中でもセントラルパークからのレーザー光は特に目立つ。なお、地上デジタルテレビジョン放送はNHK、民放5局ともに瀬戸市幡中町に新たに建設した瀬戸デジタルタワーを電波塔として利用している。その理由は既存の名古屋テレビ塔及び東山タワー(中京テレビ放送(CTV)本社敷地内にあるUHF・FM鉄塔)が築50年及び30年以上経過しており、これらにデジタルテレビ用の送信アンテナを設置するには強度不足と判断されたためで名古屋テレビ塔は2011年7月24日をもって電波塔としての役目を終えた(東京タワーと違い、ラジオ局や業務無線のアンテナは設置されていない)。
2011年5月16日月曜日
名古屋市の中心から北へおよそ15kmの濃尾平野北東部に
位置しており、行政区分上では西春日井郡豊山町、小牧市、春日井市、名古屋市(北区)の3市1町にまたがっている。当空港は、航空自衛隊小牧基地に隣接しており、滑走路を共有しているが、防衛省設置管理の共用飛行場ではない。管制業務は、飛行場管制業務と着陸誘導管制業務を航空自衛隊小牧管制隊が実施しており、進入管制業務とターミナル管制業務については、中部空港にある国土交通省大阪航空局中部空港事務所が広域管制によって実施している。2011年7月現在、旅客定期便はフジドリームエアラインズによる1社4路線のみであるが、名古屋市中心部から当空港までは中部空港より近いため、利用者は多い。ビジネスジェットの運航などゼネラル・アビエーションに力を入れており、ビジネス機専用ターミナルが国内線ターミナル内に設置されている。トヨタ自動車のような地元企業、N688TTなどを中心にビジネスの拠点として多くのビジネスジェットに利用されているほか、F1の日本グランプリが鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)で開催される時にはドライバーの中継地になっている。
また、毎年ビジネスフォーラムが開催される。1934年7月に名古屋港埋立地10号地に名古屋国際仮飛行場として開港、1940年に名古屋飛行場となる。同時期に同じく11号地の埋め立てが許可され、1941年に名古屋国際飛行場が開港。拡張のため一時閉鎖(1944年)するが、終戦後は放置される。現在は東邦ガス空見環境センターになっている。中部空港開港以降、設置管理を国土交通省から愛知県へ移管、設置区分も「第二種(A)空港」から「その他公共用飛行場」に変更され、「名古屋飛行場(県営名古屋空港)」となった。旧名古屋空港のIATA空港コードであったNGOはセントレアへ移管され、ICAO 4レターコードも旧名古屋空港のRJNNからRJNAへ変更された(セントレアがRJNNになったわけではなくRJGGである)。また、前述のように一部管制業務を国土交通省航空局から航空自衛隊小牧管制隊に移管した。なお、定期便や国内・海外飛来機等の旅客は全て従来の国内線旅客ターミナルビルにて取り扱い、税関・出入国審査・検疫は1つの部屋にまとまった小規模なものとなり、新たにフィンガーコンコースを新設した。
日本航空グループのジェイエアが広島西飛行場から本社・ベースを移転し、ジェイエアの拠点飛行場となった。2011年3月までにジェイエアが当空港から全面撤退することに伴い、大阪国際空港(通称:伊丹空港)近隣ビルに移転した。一方、静岡県の地域航空会社であるフジドリームエアラインズが県営名古屋空港への定期便の就航に意欲的な姿勢を見せており、日本航空の一部路線引き継ぎも視野に入れて愛知県と交渉中であることが発表され、この交渉の結果、福岡空港便の引き継ぎが決定した。さらに、2011年3月27日にはジェイエアが熊本空港便を廃止したが、同日からフジドリームエアラインズが路線を引き継いだ。これにより、ジェイエア撤退後の当空港において、定期便が一つも無い空港になることは回避できた。日本航空は、不採算路線の一つであり2010年5月をもって運休した中部国際空港 - いわて花巻空港便を、当空港発着に移管・変更して復活させ、2011年上半期中の就航を検討していることが明らかになった。
なお、「県営名古屋空港発着であれば黒字化は可能である」というのは、あくまでも日本航空が出した独自試算である。同社は座席数が150から半分以下である50席の小型ジェット機に縮小することも合わせて検討している。2010年10月30日をもって廃止した中部国際空港 - 青森空港便も同様に検討されていたが、やはり愛知県航空対策課や地元経済界は定期便を中部国際空港に一元化させたいことから反発しており、当空港周辺自治体において花巻 - 名古屋便復活に対する話し合いが行われた際も、当空港発着にするか中部国際空港発着にするかという点において「定期便を中部国際空港に一元化するという約束に反する」として議論が加熱し、日本航空への批判も出た。そして日本航空は、2011年3月の航空ダイヤ改正においても、愛知県からの同意を得られなかったことを理由に、花巻 - 名古屋線は引き続き運休することにした。結果的に上記の2路線はフジドリームエアラインズが引き継ぐ形でいわて花巻線が2011年5月21日に就航したほか、青森線も同年7月に就航した。
以前の国際線旅客ターミナルビルは、わずか6年しか使用されず、「中部空港の開港が予定されていたのに何故わざわざ建設したのか」という批判があった。しかし、旧国際線旅客ターミナルの処理能力が限界に達していたのも事実であり、ボーディングブリッジは旧国際線ターミナルのものをそのまま使用するなど、最低限の投資で建設された。中部空港への移管時に閉館し、周辺敷地と共に空港から切り離された。その後、空港国際線ターミナルビルを活用し、名古屋空港ビルディングが設置主体、ユニー株式会社が開発主体となってショッピングセンターエアポートウォーク名古屋が2008年10月にオープンした。なお、名古屋空港内には名古屋空港内郵便局も併設されていたが、2005年2月16日をもって廃局となった。国内線ターミナル内の「名古屋空港航空宇宙館」は2004年10月31日に閉館となり、そこにあった航空機の一部(MU-2など)は、2005年4月1日に豊山町の神明公園内に愛知県が建設した「航空館boon」に、引き続き展示されている。
名古屋国際会議場は、愛知県名古屋市熱田区熱田西町の白鳥公園内にある大規模多目的ホールである。1989年に名古屋市制100周年を記念して開催された世界デザイン博覧会で建設・設置された白鳥センチュリープラザを再利用して1990年(平成2年)に設置された。設計としては、施設が設置されている白鳥公園にちなみ、地上からは白鳥が水に浮いている姿、空中からは、白鳥が翼を広げている姿がイメージされている。客席数3,000席を備えるセンチュリーホールのほかイベントホール、国際会議場、3つレストランを備える国際都市名古屋の中核施設である。中庭にはレオナルド・ダ・ヴィンチの幻の作品であるスフォルツァ騎馬像がある。2005年(平成17年)には全日本吹奏楽コンクールの中学・高校の部が立正佼成会の関連施設の改修工事に伴い、27年間使用してきた普門館で開催できなくなったため、その代替施設としてセンチュリーホールが利用された。2010年(平成22年)10月11日より第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)が開催され、「名古屋議定書」「愛知ターゲット」が合意された。
名古屋港ポートビルは、愛知県名古屋市港区にある高層ビルである。1984年(昭和59年)7月に開館した高さ63mの高層ビルで名古屋港のランドマークとされ、ビルの外観は海に浮かぶ白い帆船をイメージしたものである。また、ビルの3階・4階には名古屋海洋博物館が7階には地上53mの展望室があり観光施設となっている。
また、毎年ビジネスフォーラムが開催される。1934年7月に名古屋港埋立地10号地に名古屋国際仮飛行場として開港、1940年に名古屋飛行場となる。同時期に同じく11号地の埋め立てが許可され、1941年に名古屋国際飛行場が開港。拡張のため一時閉鎖(1944年)するが、終戦後は放置される。現在は東邦ガス空見環境センターになっている。中部空港開港以降、設置管理を国土交通省から愛知県へ移管、設置区分も「第二種(A)空港」から「その他公共用飛行場」に変更され、「名古屋飛行場(県営名古屋空港)」となった。旧名古屋空港のIATA空港コードであったNGOはセントレアへ移管され、ICAO 4レターコードも旧名古屋空港のRJNNからRJNAへ変更された(セントレアがRJNNになったわけではなくRJGGである)。また、前述のように一部管制業務を国土交通省航空局から航空自衛隊小牧管制隊に移管した。なお、定期便や国内・海外飛来機等の旅客は全て従来の国内線旅客ターミナルビルにて取り扱い、税関・出入国審査・検疫は1つの部屋にまとまった小規模なものとなり、新たにフィンガーコンコースを新設した。
日本航空グループのジェイエアが広島西飛行場から本社・ベースを移転し、ジェイエアの拠点飛行場となった。2011年3月までにジェイエアが当空港から全面撤退することに伴い、大阪国際空港(通称:伊丹空港)近隣ビルに移転した。一方、静岡県の地域航空会社であるフジドリームエアラインズが県営名古屋空港への定期便の就航に意欲的な姿勢を見せており、日本航空の一部路線引き継ぎも視野に入れて愛知県と交渉中であることが発表され、この交渉の結果、福岡空港便の引き継ぎが決定した。さらに、2011年3月27日にはジェイエアが熊本空港便を廃止したが、同日からフジドリームエアラインズが路線を引き継いだ。これにより、ジェイエア撤退後の当空港において、定期便が一つも無い空港になることは回避できた。日本航空は、不採算路線の一つであり2010年5月をもって運休した中部国際空港 - いわて花巻空港便を、当空港発着に移管・変更して復活させ、2011年上半期中の就航を検討していることが明らかになった。
なお、「県営名古屋空港発着であれば黒字化は可能である」というのは、あくまでも日本航空が出した独自試算である。同社は座席数が150から半分以下である50席の小型ジェット機に縮小することも合わせて検討している。2010年10月30日をもって廃止した中部国際空港 - 青森空港便も同様に検討されていたが、やはり愛知県航空対策課や地元経済界は定期便を中部国際空港に一元化させたいことから反発しており、当空港周辺自治体において花巻 - 名古屋便復活に対する話し合いが行われた際も、当空港発着にするか中部国際空港発着にするかという点において「定期便を中部国際空港に一元化するという約束に反する」として議論が加熱し、日本航空への批判も出た。そして日本航空は、2011年3月の航空ダイヤ改正においても、愛知県からの同意を得られなかったことを理由に、花巻 - 名古屋線は引き続き運休することにした。結果的に上記の2路線はフジドリームエアラインズが引き継ぐ形でいわて花巻線が2011年5月21日に就航したほか、青森線も同年7月に就航した。
以前の国際線旅客ターミナルビルは、わずか6年しか使用されず、「中部空港の開港が予定されていたのに何故わざわざ建設したのか」という批判があった。しかし、旧国際線旅客ターミナルの処理能力が限界に達していたのも事実であり、ボーディングブリッジは旧国際線ターミナルのものをそのまま使用するなど、最低限の投資で建設された。中部空港への移管時に閉館し、周辺敷地と共に空港から切り離された。その後、空港国際線ターミナルビルを活用し、名古屋空港ビルディングが設置主体、ユニー株式会社が開発主体となってショッピングセンターエアポートウォーク名古屋が2008年10月にオープンした。なお、名古屋空港内には名古屋空港内郵便局も併設されていたが、2005年2月16日をもって廃局となった。国内線ターミナル内の「名古屋空港航空宇宙館」は2004年10月31日に閉館となり、そこにあった航空機の一部(MU-2など)は、2005年4月1日に豊山町の神明公園内に愛知県が建設した「航空館boon」に、引き続き展示されている。
名古屋国際会議場は、愛知県名古屋市熱田区熱田西町の白鳥公園内にある大規模多目的ホールである。1989年に名古屋市制100周年を記念して開催された世界デザイン博覧会で建設・設置された白鳥センチュリープラザを再利用して1990年(平成2年)に設置された。設計としては、施設が設置されている白鳥公園にちなみ、地上からは白鳥が水に浮いている姿、空中からは、白鳥が翼を広げている姿がイメージされている。客席数3,000席を備えるセンチュリーホールのほかイベントホール、国際会議場、3つレストランを備える国際都市名古屋の中核施設である。中庭にはレオナルド・ダ・ヴィンチの幻の作品であるスフォルツァ騎馬像がある。2005年(平成17年)には全日本吹奏楽コンクールの中学・高校の部が立正佼成会の関連施設の改修工事に伴い、27年間使用してきた普門館で開催できなくなったため、その代替施設としてセンチュリーホールが利用された。2010年(平成22年)10月11日より第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)が開催され、「名古屋議定書」「愛知ターゲット」が合意された。
名古屋港ポートビルは、愛知県名古屋市港区にある高層ビルである。1984年(昭和59年)7月に開館した高さ63mの高層ビルで名古屋港のランドマークとされ、ビルの外観は海に浮かぶ白い帆船をイメージしたものである。また、ビルの3階・4階には名古屋海洋博物館が7階には地上53mの展望室があり観光施設となっている。
2011年5月15日日曜日
manaca導入に伴い
2011年2月10日にゆとりーとカードの発売が終了した。発行済みのゆとりーとカードは2012年2月29日まで引き続き利用が可能である。払い戻しについては2011年2月11日以降から当分の間、大曽根駅または名古屋ガイドウェイバス本社にて無手数料で行われる。身体障害者手帳、療育手帳、愛護手帳を提示した場合は運賃が半額になる。その場合はカードまたは現金での支払いとなる。また、2011年2月11日のICカードmanaca導入に伴い、高架区間と名古屋市営地下鉄・バスとの乗継割引制度および連絡定期券が新設された。ガイドウェイバスの運行は開業以来、名古屋市交通局のほか名鉄バス、ジェイアール東海バスが行っていたが、2008年(平成20年)8月27日にジェイアール東海バスが一般路線バス事業から全面撤退したい意向であることが明らかになった(詳細はジェイアール東海バス一般路線の項を参照)。同社は名古屋ガイドウェイバスに出資しているだけでなく、車両の管理等も受託していた。同社は、2009年(平成21年)9月30日をもって一般路線バス事業から撤退した。
名鉄バス、ジェイアール東海バスが名古屋ガイドウェイバスから撤退。10月1日より名古屋市交通局が大曽根 - 高蔵寺の路線を単独運行する。瀬戸みずの坂線は9月30日をもって廃止。小幡緑地 - 高蔵寺間の平面区間の運賃が200円均一となる。また、ユリカを使用し平面区間と名古屋市営バスを乗り継いだ場合の割引適用が開始される。また、敬老パス・福祉特別乗車券の通用範囲が全線に拡大される。さらに、名古屋市交通局発行のバス全線定期券・特得60バス定期・バス・地下鉄全線定期券・バス・地下鉄全線一日乗車券・バス全線一日乗車券・ドニチエコきっぷが平面区間において使用可能となる(ただしこれらの乗車券は高架区間では使用できない。高架区間分は別に運賃を支払う必要がある)。小幡緑地 - 高蔵寺間の平面区間は事実上名古屋市営バスと同じ扱いとなる(ただしトランパス加入はなされなかったため、トランパスで使用できるのは引き続きユリカのみ)。これにより、大曽根 - 高蔵寺間の運賃は現行より200円安い420円となる。
名鉄一般バスカードは10月1日より使用できなくなるほか、現在適用されている平面区間と名鉄バスとの乗り継ぎ割引も同時に廃止される。名古屋市では、総務省のガイドラインに基づき、経営が著しく悪化している外郭団体の改革プラン(仮称)を作成することになった。名古屋ガイドウェイバスもこの対象となった。2009年7月より外部の有識者会議を開き、経営改革策(名古屋市交通局との統合)の検討を進めていくことになっている。また、車両が製造から11年を迎え、老朽化等の対策のため2010年度(平成22年度)より新車両の設計が開始されている。特殊な車両のため設計費用が高額になることから、費用は名古屋市が負担する。2012年度(平成24年度)より順次導入される予定。また、車両の価格も高額となることから、名古屋市が車両を保有することも検討し、資金援助を行う予定。名古屋貨物ターミナル駅は、名古屋市中川区掛入町三丁目にある日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物駅である。
営業キロ上は名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線(あおなみ線)荒子駅 - 南荒子駅間の駅であるが、線路等の施設は小本駅 - 中島駅間に広がる。駅の北端は西名古屋港線小本駅 - 荒子駅間に位置し、本線から3本の着発線が分岐している。着発線の南端にコンテナホームがある。3面のコンテナホーム、5本のコンテナ荷役線、その他数本の留置線を有する。日本で数少ない高架駅の貨物駅で、高架下は倉庫として利用されている。あおなみ線中島駅直近の高架上に3階建ての駅舎があり、駅舎内に営業窓口のJR貨物名古屋営業支店が入っている。トラックプールがホームの北端のさらに北側(南荒子駅付近)と、ホーム南端の2箇所にある。南端のものは国道1号と直結している。着発線や荷役線の一部は電化されているが、大半の側線は非電化である。そのため、構内の入換作業用に名古屋臨海鉄道のディーゼル機関車が常駐している。トラックによる集配が名古屋市内全域・愛知県尾北地方・三重県北勢地方を主体に行われている。
郵便事業名古屋神宮支店(旧・名古屋郵便集中局)への郵便物は当駅より運ばれる。名古屋市場駅は、愛知県名古屋市熱田区川並町にあった日本国有鉄道(国鉄)の駅。東海道本線貨物支線(通称名古屋港線・白鳥線)の終着駅であった。地上駅で、名古屋市中央卸売市場本場の中にプラットホームが設置されていた。ホームは鮮魚卸売場と塩干・青果卸売場の2か所に分かれていたが、荷役線や待避線は一体となっていた。当駅では主に卸売市場を発着する水産物や青果物などを取扱っていたが、日本冷蔵専用線を発着する貨物も取扱っていた。日本冷蔵の倉庫は市場の西側にあったため、白鳥駅から分岐していた専用線と、八幡信号場方面からのホームへの線路が平面交差していた。1966年(昭和41年)時点では1日6本の貨物列車が稲沢駅で継走された全国からの貨車を牽引して到着していたが、トラックの普及や高速道路網の整備などのため取扱量が減少し、1978年(昭和53年)に廃止された。
全国に数か所あった市場駅の中でも一足早く廃止されている。廃止後、市場の改修が行われたため、ホームなどは残っていない。また当時あった日本冷蔵の倉庫も既に取り壊されているが、ニチレイ・ロジスティクス東海(ニチレイグループ)の本社はまだ当地に置かれている。名古屋飛行場は、愛知県にある飛行場である。名古屋飛行場は航空法上の正式名称であり[1]、空港施設の通称は県営名古屋空港(けんえいなごやくうこう、英語名:Prefectural Nagoya Airport)である。所在地から小牧空港(こまきくうこう)とも呼ばれる。かつては国内線・国際線共に数多く発着していたが、中部国際空港(愛称:セントレア)開港と同時に大部分の路線が同空港に移転したほか、当空港は第二種空港から飛行場に指定変更され、正式名称もそれまでの「名古屋空港」から「名古屋飛行場」となり現在に至る。時刻表上では「名古屋」と表記されるが、中部空港発着便も同じく「名古屋」と表記することが多く、2空港の混同を避けるために中部空港発着便は「名古屋(中部)」とし、当空港発着便は「名古屋(小牧)」と明確に区別する場合がある。
名鉄バス、ジェイアール東海バスが名古屋ガイドウェイバスから撤退。10月1日より名古屋市交通局が大曽根 - 高蔵寺の路線を単独運行する。瀬戸みずの坂線は9月30日をもって廃止。小幡緑地 - 高蔵寺間の平面区間の運賃が200円均一となる。また、ユリカを使用し平面区間と名古屋市営バスを乗り継いだ場合の割引適用が開始される。また、敬老パス・福祉特別乗車券の通用範囲が全線に拡大される。さらに、名古屋市交通局発行のバス全線定期券・特得60バス定期・バス・地下鉄全線定期券・バス・地下鉄全線一日乗車券・バス全線一日乗車券・ドニチエコきっぷが平面区間において使用可能となる(ただしこれらの乗車券は高架区間では使用できない。高架区間分は別に運賃を支払う必要がある)。小幡緑地 - 高蔵寺間の平面区間は事実上名古屋市営バスと同じ扱いとなる(ただしトランパス加入はなされなかったため、トランパスで使用できるのは引き続きユリカのみ)。これにより、大曽根 - 高蔵寺間の運賃は現行より200円安い420円となる。
名鉄一般バスカードは10月1日より使用できなくなるほか、現在適用されている平面区間と名鉄バスとの乗り継ぎ割引も同時に廃止される。名古屋市では、総務省のガイドラインに基づき、経営が著しく悪化している外郭団体の改革プラン(仮称)を作成することになった。名古屋ガイドウェイバスもこの対象となった。2009年7月より外部の有識者会議を開き、経営改革策(名古屋市交通局との統合)の検討を進めていくことになっている。また、車両が製造から11年を迎え、老朽化等の対策のため2010年度(平成22年度)より新車両の設計が開始されている。特殊な車両のため設計費用が高額になることから、費用は名古屋市が負担する。2012年度(平成24年度)より順次導入される予定。また、車両の価格も高額となることから、名古屋市が車両を保有することも検討し、資金援助を行う予定。名古屋貨物ターミナル駅は、名古屋市中川区掛入町三丁目にある日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物駅である。
営業キロ上は名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線(あおなみ線)荒子駅 - 南荒子駅間の駅であるが、線路等の施設は小本駅 - 中島駅間に広がる。駅の北端は西名古屋港線小本駅 - 荒子駅間に位置し、本線から3本の着発線が分岐している。着発線の南端にコンテナホームがある。3面のコンテナホーム、5本のコンテナ荷役線、その他数本の留置線を有する。日本で数少ない高架駅の貨物駅で、高架下は倉庫として利用されている。あおなみ線中島駅直近の高架上に3階建ての駅舎があり、駅舎内に営業窓口のJR貨物名古屋営業支店が入っている。トラックプールがホームの北端のさらに北側(南荒子駅付近)と、ホーム南端の2箇所にある。南端のものは国道1号と直結している。着発線や荷役線の一部は電化されているが、大半の側線は非電化である。そのため、構内の入換作業用に名古屋臨海鉄道のディーゼル機関車が常駐している。トラックによる集配が名古屋市内全域・愛知県尾北地方・三重県北勢地方を主体に行われている。
郵便事業名古屋神宮支店(旧・名古屋郵便集中局)への郵便物は当駅より運ばれる。名古屋市場駅は、愛知県名古屋市熱田区川並町にあった日本国有鉄道(国鉄)の駅。東海道本線貨物支線(通称名古屋港線・白鳥線)の終着駅であった。地上駅で、名古屋市中央卸売市場本場の中にプラットホームが設置されていた。ホームは鮮魚卸売場と塩干・青果卸売場の2か所に分かれていたが、荷役線や待避線は一体となっていた。当駅では主に卸売市場を発着する水産物や青果物などを取扱っていたが、日本冷蔵専用線を発着する貨物も取扱っていた。日本冷蔵の倉庫は市場の西側にあったため、白鳥駅から分岐していた専用線と、八幡信号場方面からのホームへの線路が平面交差していた。1966年(昭和41年)時点では1日6本の貨物列車が稲沢駅で継走された全国からの貨車を牽引して到着していたが、トラックの普及や高速道路網の整備などのため取扱量が減少し、1978年(昭和53年)に廃止された。
全国に数か所あった市場駅の中でも一足早く廃止されている。廃止後、市場の改修が行われたため、ホームなどは残っていない。また当時あった日本冷蔵の倉庫も既に取り壊されているが、ニチレイ・ロジスティクス東海(ニチレイグループ)の本社はまだ当地に置かれている。名古屋飛行場は、愛知県にある飛行場である。名古屋飛行場は航空法上の正式名称であり[1]、空港施設の通称は県営名古屋空港(けんえいなごやくうこう、英語名:Prefectural Nagoya Airport)である。所在地から小牧空港(こまきくうこう)とも呼ばれる。かつては国内線・国際線共に数多く発着していたが、中部国際空港(愛称:セントレア)開港と同時に大部分の路線が同空港に移転したほか、当空港は第二種空港から飛行場に指定変更され、正式名称もそれまでの「名古屋空港」から「名古屋飛行場」となり現在に至る。時刻表上では「名古屋」と表記されるが、中部空港発着便も同じく「名古屋」と表記することが多く、2空港の混同を避けるために中部空港発着便は「名古屋(中部)」とし、当空港発着便は「名古屋(小牧)」と明確に区別する場合がある。
2011年5月14日土曜日
上述の一般用改札口のほかに団体改札口が設置されている。
JR名古屋駅広小路口の改札を出た通路を進んだ突き当たりにあり、当駅の正面改札口から各ホームを結ぶ通路に出られるようになっている。使用しないときは、シャッターで閉鎖されている。駅構内および1階改札口にあるコンビニニエンスストア「K PLAT」では、買い物の決済手段として、PiTaPaとiDが利用可能である。名古屋地区でPiTaPaが使用できる数少ない店舗である。都心の主要駅としては南海難波駅・京急横浜駅などと並び、2010年現在も反転フラップ式案内表示機(ソラリー)が使用されていたが、2011年7月に液晶ディスプレイに更新された。名古屋ガイドウェイバス株式会社は、愛知県名古屋市北東部の東区・守山区でガイドウェイバスの運営などを行っている名古屋市・名古屋鉄道・ジェイアール東海バスなどが出資する第三セクター会社。第三セクター鉄道の一つにも数えられる。本社は名古屋市守山区竜泉寺二丁目301番地(区画整理により2003年11月10日、守山区大字吉根字松洞3360番地1より地名変更)。
ガイドウェイバスとは、ガイドレールを備えた専用軌道に対し、これを案内輪でトレースしてステアリング操作が不要な半自動運転を実現しつつ、一般道路においても普通のバスとして走行可能な新交通システムである。交通渋滞の激しい都市部を従来の道路の影響を受けない高架式などの専用軌道を走行し、郊外では一般道路を通常の路線バスとして運行する。名古屋ガイドウェイバスが車両(バス)を保有し、専用軌道区間の施設と運行の管理を行っている。専用軌道区間としてガイドウェイバス志段味線(大曽根 - 小幡緑地間 6.5km)を保有している。同線には「ゆとりーとライン」の愛称がつけられている。一般道路を走行する平面区間の運行管理、および運転業務は、名古屋市交通局大森営業所が行っている。また、車両の整備と専用軌道区間での運転も同局が行う。専用軌道区間を運転するには大型第二種免許に加え、鉄道の動力車操縦者運転免許(前例が無いため無軌条電車運転免許に分類)を取得することになる。名古屋市交通局に運行委託が一本化された後に導入されたデジタルタコグラフ装置、ドライブレコーダー装置、卓上型電波時計などについては、差異はない。
なお、平面区間におけるバスロケーションシステムの移動局(無線機)がすべての車両に搭載されているが、これの免許人はすべて名鉄バス株式会社となっている。つまり、バスロケーションシステムは名鉄バスのバスロケーションシステムに便乗する形で運用されている。また、名鉄バスが使用していたG-50番台の車両には従来から同社春日井営業所との音声通信用無線機およびアンテナが搭載されていた。名古屋市交通局に運行委託が一本化された後、無線機およびアンテナは順次撤去された。一方、名古屋ガイドウェイバスでは上島(西)バス停、竜泉寺バス停、モードインターチェンジ周辺、各駅の先端・末端部、駅間にバスロケーションシステムの地上子を設置し、平面区間、高架区間におけるバスの位置確認を行っている。G-12号車およびG-14号車のナンバープレートは導入当初は他車と連番となっていたが、名鉄バスやジェイアール東海バスに代車として貸し出す度に「尾張小牧ナンバー」に付け替えの手続きを行っているため、貸出と返却を繰り返すたびにナンバープレートが変更された。
その結果、連番ではなくなっている。なお、開業からしばらくの間は名古屋ナンバーのまま貸し出して運用していた。当初の計画では営業車両25台のうち3台を、名古屋市から補助金を受けてリフト車とする計画であった。2000年12月22日、障害者団体が「リフト車の台数が少なく、車いすで利用できるバスの導入推進をうたう交通バリアフリー法の趣旨に反する事業計画であり、不当な公金の支出にあたる」として、名古屋市に対し補助金支給をやめるよう求める住民監査請求を行った。同住民監査請求を受け、名古屋ガイドウェイバスは名古屋市からの補助を受けて購入する3台に加え、独自にリフト車を4台購入することを決定。2001年2月19日 名古屋市監査委員は、名古屋ガイドウェイバスのバス購入時期は同法の定める適用期間外であることに加え、同社がリフト車4台を追加購入したことを評価し「交通弱者への配慮を著しく欠いた不当な事業とはいえない」として、同住民監査請求を棄却した。
しかし、今後増車する際は同法の適用がされるため、監査委員は「バリアフリーの実現を求めるよう、名古屋ガイドウェイバスを指導する」旨を名古屋市に意見提出した。ゆとりーとライン開業に先立って、当時の建設省を中心とした「ガイドウェイバス共同実験研究会」が製作した試作車両。普段は名古屋ガイドウェイバス本社1階のバス車庫(整備場)に留置されている。ボディには「THE GUIDEWAY-BUS 1000」と書かれているほか、後部の窓に「FUSO」の文字が入っている。外見や室内は、名古屋市営バスの基幹バスと非常によく似ている。 2001年、車両後部に融雪剤散布装置を設置し、以降、融雪車として運用している。 車番は書かれていないが、無線でのコールサインは「ガイドウェイ1」である。 運送の用に供さないためか、ナンバープレートをつけていない。そのため、専用区間のみの走行しかできず、小幡緑地以遠の一般道路は走行できない。 なお、2001年1月27日の中日新聞夕刊の記事に掲載された写真を見る限り、この試作車両のトランスミッションは営業車両とは異なりMTである。
名古屋ガイドウェイバス、名古屋市交通局にて販売している。 2011年2月10日まで、名古屋ガイドウェイバスで発行される定期券は紙製、名古屋市交通局で発行される定期券は市バス、地下鉄同様の磁気ストライプカードであったが、いずれも2011年2月11日より、原則manaca定期券としての発行に変更された。特別割引通学定期券で、名古屋ガイドウェイバス(大曽根駅および本社)にて販売している。専用軌道区間(大曽根 - 小幡緑地間)の全駅で通用。 当初は国土交通省の「広域的な公共交通利用転換に関する実証実験」に際して2004年9月から2006年3月までの有期で発売していた定期券だが、好評のため、実証実験終了後も販売が継続されている。 平面区間をまたぐ利用客については、小幡緑地以東の通学定期券の料金を追加で支払うことによって、1枚の定期券として発売をしている。 この定期券についても、2011年2月11日より原則manaca定期券としての発行に変更された。manaca定期券導入に伴って、従来より発売額が割高になってしまう区間(高架区間 - 竜泉寺口・竜泉寺、白沢渓谷 - 平面区間)については、引き続き紙定期券の発売が継続される。
名古屋ガイドウェイバスの窓口でのみ購入可能で、従来同様「市バス全線」シールが貼付られるため、ゆとりーとラインの定期券区間のほか、市バス全線(ゆとりーとライン平面区間を含む)に乗車可能である。大曽根駅、名古屋ガイドウェイバス本社、名古屋市交通局大曽根サービスセンター、同局栄サービスセンター、沿線の取り扱い店にて販売されている。
ガイドウェイバスとは、ガイドレールを備えた専用軌道に対し、これを案内輪でトレースしてステアリング操作が不要な半自動運転を実現しつつ、一般道路においても普通のバスとして走行可能な新交通システムである。交通渋滞の激しい都市部を従来の道路の影響を受けない高架式などの専用軌道を走行し、郊外では一般道路を通常の路線バスとして運行する。名古屋ガイドウェイバスが車両(バス)を保有し、専用軌道区間の施設と運行の管理を行っている。専用軌道区間としてガイドウェイバス志段味線(大曽根 - 小幡緑地間 6.5km)を保有している。同線には「ゆとりーとライン」の愛称がつけられている。一般道路を走行する平面区間の運行管理、および運転業務は、名古屋市交通局大森営業所が行っている。また、車両の整備と専用軌道区間での運転も同局が行う。専用軌道区間を運転するには大型第二種免許に加え、鉄道の動力車操縦者運転免許(前例が無いため無軌条電車運転免許に分類)を取得することになる。名古屋市交通局に運行委託が一本化された後に導入されたデジタルタコグラフ装置、ドライブレコーダー装置、卓上型電波時計などについては、差異はない。
なお、平面区間におけるバスロケーションシステムの移動局(無線機)がすべての車両に搭載されているが、これの免許人はすべて名鉄バス株式会社となっている。つまり、バスロケーションシステムは名鉄バスのバスロケーションシステムに便乗する形で運用されている。また、名鉄バスが使用していたG-50番台の車両には従来から同社春日井営業所との音声通信用無線機およびアンテナが搭載されていた。名古屋市交通局に運行委託が一本化された後、無線機およびアンテナは順次撤去された。一方、名古屋ガイドウェイバスでは上島(西)バス停、竜泉寺バス停、モードインターチェンジ周辺、各駅の先端・末端部、駅間にバスロケーションシステムの地上子を設置し、平面区間、高架区間におけるバスの位置確認を行っている。G-12号車およびG-14号車のナンバープレートは導入当初は他車と連番となっていたが、名鉄バスやジェイアール東海バスに代車として貸し出す度に「尾張小牧ナンバー」に付け替えの手続きを行っているため、貸出と返却を繰り返すたびにナンバープレートが変更された。
その結果、連番ではなくなっている。なお、開業からしばらくの間は名古屋ナンバーのまま貸し出して運用していた。当初の計画では営業車両25台のうち3台を、名古屋市から補助金を受けてリフト車とする計画であった。2000年12月22日、障害者団体が「リフト車の台数が少なく、車いすで利用できるバスの導入推進をうたう交通バリアフリー法の趣旨に反する事業計画であり、不当な公金の支出にあたる」として、名古屋市に対し補助金支給をやめるよう求める住民監査請求を行った。同住民監査請求を受け、名古屋ガイドウェイバスは名古屋市からの補助を受けて購入する3台に加え、独自にリフト車を4台購入することを決定。2001年2月19日 名古屋市監査委員は、名古屋ガイドウェイバスのバス購入時期は同法の定める適用期間外であることに加え、同社がリフト車4台を追加購入したことを評価し「交通弱者への配慮を著しく欠いた不当な事業とはいえない」として、同住民監査請求を棄却した。
しかし、今後増車する際は同法の適用がされるため、監査委員は「バリアフリーの実現を求めるよう、名古屋ガイドウェイバスを指導する」旨を名古屋市に意見提出した。ゆとりーとライン開業に先立って、当時の建設省を中心とした「ガイドウェイバス共同実験研究会」が製作した試作車両。普段は名古屋ガイドウェイバス本社1階のバス車庫(整備場)に留置されている。ボディには「THE GUIDEWAY-BUS 1000」と書かれているほか、後部の窓に「FUSO」の文字が入っている。外見や室内は、名古屋市営バスの基幹バスと非常によく似ている。 2001年、車両後部に融雪剤散布装置を設置し、以降、融雪車として運用している。 車番は書かれていないが、無線でのコールサインは「ガイドウェイ1」である。 運送の用に供さないためか、ナンバープレートをつけていない。そのため、専用区間のみの走行しかできず、小幡緑地以遠の一般道路は走行できない。 なお、2001年1月27日の中日新聞夕刊の記事に掲載された写真を見る限り、この試作車両のトランスミッションは営業車両とは異なりMTである。
名古屋ガイドウェイバス、名古屋市交通局にて販売している。 2011年2月10日まで、名古屋ガイドウェイバスで発行される定期券は紙製、名古屋市交通局で発行される定期券は市バス、地下鉄同様の磁気ストライプカードであったが、いずれも2011年2月11日より、原則manaca定期券としての発行に変更された。特別割引通学定期券で、名古屋ガイドウェイバス(大曽根駅および本社)にて販売している。専用軌道区間(大曽根 - 小幡緑地間)の全駅で通用。 当初は国土交通省の「広域的な公共交通利用転換に関する実証実験」に際して2004年9月から2006年3月までの有期で発売していた定期券だが、好評のため、実証実験終了後も販売が継続されている。 平面区間をまたぐ利用客については、小幡緑地以東の通学定期券の料金を追加で支払うことによって、1枚の定期券として発売をしている。 この定期券についても、2011年2月11日より原則manaca定期券としての発行に変更された。manaca定期券導入に伴って、従来より発売額が割高になってしまう区間(高架区間 - 竜泉寺口・竜泉寺、白沢渓谷 - 平面区間)については、引き続き紙定期券の発売が継続される。
名古屋ガイドウェイバスの窓口でのみ購入可能で、従来同様「市バス全線」シールが貼付られるため、ゆとりーとラインの定期券区間のほか、市バス全線(ゆとりーとライン平面区間を含む)に乗車可能である。大曽根駅、名古屋ガイドウェイバス本社、名古屋市交通局大曽根サービスセンター、同局栄サービスセンター、沿線の取り扱い店にて販売されている。
2011年5月13日金曜日
ジェイアール名古屋タカシマヤは
愛知県名古屋市中村区のJR名古屋駅前に所在する百貨店。中部百貨店協会加盟。東海旅客鉄道(JR東海)と髙島屋の合弁企業「株式会社ジェイアール東海髙島屋(ジェイアールとうかいタカシマヤ)」が運営する。 JR名古屋駅と接続するJRセントラルタワーズの核店舗である。店舗面積は55,429m2。2000年3月15日開店。名古屋における大手の百貨店として、松坂屋、丸栄、名鉄百貨店、名古屋三越とともに「4M1T」とよばれている。2011年3月の売上高は、それまで首位を独走していた松坂屋名古屋店を抜き、名古屋地域で初の首位を獲得した。イオン名古屋みなとベイシティは、愛知県名古屋市港区品川町にあるイオンリテール株式会社が管理運営をしているショッピングセンターである。通称は「ベイシティ」、公式ホームページの店舗案内リンクでは「イオン名古屋みなと店」、店舗ポータルページでは「イオン名古屋みなとベイシティ」となっている。名古屋市内のイオンリテール運営のSCとしては、緑区のイオン大高ショッピングセンター、東区のイオンナゴヤドーム前ショッピングセンター、熱田区のイオン熱田ショッピングセンターに匹敵する市内最大級のショッピングモールである。
オープン前は港区内のショッピングモールにおいてはアピタ港店(テナント数約80)が最大規模だったが、それを大きく上回る規模である。品川白煉瓦株式会社が品川町に運営する品川ロイヤルゴルフとして運用していた土地をイオン株式会社が借用し、大林組の施工によって1999年11月20日に品川白煉瓦を建築物オーナー、イオン株式会社の同有店事務局(現在のベイシティ事務局)をデベロッパーとしてグランドオープンした。敷地面積約7万4,000m2、店舗面積約6万m2の巨大ショッピングモールである。建物は4階建て店舗3階層のGMS棟(イオン名古屋みなと店)と日本では珍しい屋根の代わりにテントを張った4階建てのエンクローズドモール(ベイシティ専門店街)で構成されている。駐車場の容量は3,000台でGMS棟の4階、屋上駐車場・5階層の立体駐車場・平面駐車場の3ヶ所となっている。ベイシティ専門店街は中央入口付近の「スプリングコート」、更にその奥の「ワールドコート」、東入口前の「フォールコート」、ワールドコートとフォールコートの間に位置する「サマーコート」、オープンエリアではない「インモール」と5つのエリアに区別されており、ワールドコートとサマーコートでは、大規模なイベントや催事が行われる。
4階は「スカイパークレストラン街」と呼ばれ、21店舗のレストランがある。その為、イオン名古屋みなと店(GMS棟)の1階にあるフードコートは狭く設定されている。また、道路を挟んで東側にはみなと花の湯とTOHOシネマズ名古屋ベイシティがあり、専門店街2階から連絡橋が設置されている。品川白煉瓦株式会社(現・品川リフラクトリーズ株式会社)が品川町に運営する品川ロイヤルゴルフとして運用していた土地をイオン株式会社が借用し、大林組の施工によって1999年11月20日に品川白煉瓦を建築物オーナー、イオン株式会社の同有店事務局(現在のベイシティ事務局)をデベロッパーとしてグランドオープンした。敷地面積約7万4,000m2、店舗面積約6万m2の巨大ショッピングモールである。建物は4階建て店舗3階層のGMS棟(イオン名古屋みなと店)と日本では珍しい屋根の代わりにテントを張った4階建てのエンクローズドモール(ベイシティ専門店街)で構成されている。駐車場の容量は3,000台でGMS棟の4階、屋上駐車場・5階層の立体駐車場・平面駐車場の3ヶ所となっている。
ベイシティ専門店街は中央入口付近の「スプリングコート」、更にその奥の「ワールドコート」、東入口前の「フォールコート」、ワールドコートとフォールコートの間に位置する「サマーコート」、オープンエリアではない「インモール」と5つのエリアに区別されており、ワールドコートとサマーコートでは、大規模なイベントや催事が行われる。4階は「スカイパークレストラン街」と呼ばれ、21店舗のレストランがある。その為、イオン名古屋みなと店(GMS棟)の1階にあるフードコートは狭く設定されている。また、道路を挟んで東側にはみなと花の湯とTOHOシネマズ名古屋ベイシティがあり、専門店街2階から連絡橋が設置されている。2009年はイオン名古屋みなとベイシティが開店10周年という事もあり、地元のイベント会社tRiniTi(トリニティ)の主催でマンスリーイベントが行われ毎月末土曜日にカモカモライブ(アーティストのライブステージ)新栄i-com(地元コミュニティエフエムの番組)のサテライト生放送を行い、番組内でリアルタイムで専門店街のセール情報などを随時発信し集客を伸ばしている。
イベントは2009年3月-2010年1月で一旦終了したが、カモカモライブ2(アーティストライブ)、新栄i-com・しんさかえあいこむ(MID-FM生放送)を2010年3月より再スタートし2011年3月からはカモカモライブ3・カモカモSTREAM(インターネット配信番組)とリニューアルしてイベントを継続している。過去の出演者の中にはface to ace等の名前もあり、ベイシティで行われるイベントの中で象徴的なイベントとなっている。近鉄名古屋駅は、愛知県名古屋市中村区名駅一丁目にある、近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線の駅である。正式には名古屋線の終着駅であるが、列車運行上は当駅が起点となっている。近鉄の前身となる大軌グループの東方進出の区切りとなった駅でもあった。歴史も参照。東海旅客鉄道(JR東海)・名古屋市営地下鉄・あおなみ線の名古屋駅や、名古屋鉄道(名鉄)の名鉄名古屋駅と隣接している。2 - 4番線は乗車側と反対側を降車ホームとしているが、朝ラッシュ時は両側をすぐに開き乗車側からも降車できるようにしている。
ただし、1番のりばのホーム長さが4両分であるため、2番線の5両編成は乗車側(3番のりば側)のみ開閉する。名古屋線の普通列車は最大で3両であるため、1番のりばのホーム端1両分は電車が停車しない。
オープン前は港区内のショッピングモールにおいてはアピタ港店(テナント数約80)が最大規模だったが、それを大きく上回る規模である。品川白煉瓦株式会社が品川町に運営する品川ロイヤルゴルフとして運用していた土地をイオン株式会社が借用し、大林組の施工によって1999年11月20日に品川白煉瓦を建築物オーナー、イオン株式会社の同有店事務局(現在のベイシティ事務局)をデベロッパーとしてグランドオープンした。敷地面積約7万4,000m2、店舗面積約6万m2の巨大ショッピングモールである。建物は4階建て店舗3階層のGMS棟(イオン名古屋みなと店)と日本では珍しい屋根の代わりにテントを張った4階建てのエンクローズドモール(ベイシティ専門店街)で構成されている。駐車場の容量は3,000台でGMS棟の4階、屋上駐車場・5階層の立体駐車場・平面駐車場の3ヶ所となっている。ベイシティ専門店街は中央入口付近の「スプリングコート」、更にその奥の「ワールドコート」、東入口前の「フォールコート」、ワールドコートとフォールコートの間に位置する「サマーコート」、オープンエリアではない「インモール」と5つのエリアに区別されており、ワールドコートとサマーコートでは、大規模なイベントや催事が行われる。
4階は「スカイパークレストラン街」と呼ばれ、21店舗のレストランがある。その為、イオン名古屋みなと店(GMS棟)の1階にあるフードコートは狭く設定されている。また、道路を挟んで東側にはみなと花の湯とTOHOシネマズ名古屋ベイシティがあり、専門店街2階から連絡橋が設置されている。品川白煉瓦株式会社(現・品川リフラクトリーズ株式会社)が品川町に運営する品川ロイヤルゴルフとして運用していた土地をイオン株式会社が借用し、大林組の施工によって1999年11月20日に品川白煉瓦を建築物オーナー、イオン株式会社の同有店事務局(現在のベイシティ事務局)をデベロッパーとしてグランドオープンした。敷地面積約7万4,000m2、店舗面積約6万m2の巨大ショッピングモールである。建物は4階建て店舗3階層のGMS棟(イオン名古屋みなと店)と日本では珍しい屋根の代わりにテントを張った4階建てのエンクローズドモール(ベイシティ専門店街)で構成されている。駐車場の容量は3,000台でGMS棟の4階、屋上駐車場・5階層の立体駐車場・平面駐車場の3ヶ所となっている。
ベイシティ専門店街は中央入口付近の「スプリングコート」、更にその奥の「ワールドコート」、東入口前の「フォールコート」、ワールドコートとフォールコートの間に位置する「サマーコート」、オープンエリアではない「インモール」と5つのエリアに区別されており、ワールドコートとサマーコートでは、大規模なイベントや催事が行われる。4階は「スカイパークレストラン街」と呼ばれ、21店舗のレストランがある。その為、イオン名古屋みなと店(GMS棟)の1階にあるフードコートは狭く設定されている。また、道路を挟んで東側にはみなと花の湯とTOHOシネマズ名古屋ベイシティがあり、専門店街2階から連絡橋が設置されている。2009年はイオン名古屋みなとベイシティが開店10周年という事もあり、地元のイベント会社tRiniTi(トリニティ)の主催でマンスリーイベントが行われ毎月末土曜日にカモカモライブ(アーティストのライブステージ)新栄i-com(地元コミュニティエフエムの番組)のサテライト生放送を行い、番組内でリアルタイムで専門店街のセール情報などを随時発信し集客を伸ばしている。
イベントは2009年3月-2010年1月で一旦終了したが、カモカモライブ2(アーティストライブ)、新栄i-com・しんさかえあいこむ(MID-FM生放送)を2010年3月より再スタートし2011年3月からはカモカモライブ3・カモカモSTREAM(インターネット配信番組)とリニューアルしてイベントを継続している。過去の出演者の中にはface to ace等の名前もあり、ベイシティで行われるイベントの中で象徴的なイベントとなっている。近鉄名古屋駅は、愛知県名古屋市中村区名駅一丁目にある、近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線の駅である。正式には名古屋線の終着駅であるが、列車運行上は当駅が起点となっている。近鉄の前身となる大軌グループの東方進出の区切りとなった駅でもあった。歴史も参照。東海旅客鉄道(JR東海)・名古屋市営地下鉄・あおなみ線の名古屋駅や、名古屋鉄道(名鉄)の名鉄名古屋駅と隣接している。2 - 4番線は乗車側と反対側を降車ホームとしているが、朝ラッシュ時は両側をすぐに開き乗車側からも降車できるようにしている。
ただし、1番のりばのホーム長さが4両分であるため、2番線の5両編成は乗車側(3番のりば側)のみ開閉する。名古屋線の普通列車は最大で3両であるため、1番のりばのホーム端1両分は電車が停車しない。
2011年5月12日木曜日
基本的にほとんどの路線は
乗車時に料金を支払う「前乗り後ろ降り」の料金前払いシステムを採用しているが、基幹2系統やゆとりーとライン志段味線では「後ろ乗り前降り」の料金後払いシステムを採用している。ユリカは名古屋市交通局が発行していたプリペイドカードの名称。バス・地下鉄共通で利用できるタイプ、平日10時から16時までと土曜休日のみ使用できるバス専用、地下鉄専用のタイプがある。それぞれに大人用と小児用(障害者などの特割運賃にも利用可能)がある。そのうち、大人用のバス・地下鉄共通タイプのみが「トランパス」として利用可能である。トランパスは、名古屋市営バス・名古屋市営地下鉄・名古屋鉄道(対応路線のみ)・名鉄バス(長距離高速バス等を除く)・あおなみ線・愛知高速交通(リニモ)で共通利用できる。また、共通ユリカで市バスと市バス、市バスと地下鉄、市バスとあおなみ線、地下鉄とあおなみ線は、90分以内の乗り換えの場合、80円(小児は40円)引きである。
1990年9月25日の夜、当時鳴尾営業所所属の男性運転士が乗務中、北頭交差点にある歩道橋から飛び降り自殺を図り瀕死の状態で道路上に倒れている女性を見つけ、乗客を乗せて運行中であるにもかかわらず、この女性が他の車にひかれないよう、女性の前にバスを停車させた。近くには消防署(南消防署大江出張所。救急隊配置なし)があり、このとき周囲にいた人が救急車を要請していたものの、サイレンが聞こえず到着まで時間が掛かると運転士が判断し、乗客と協力しながら女性をバスに乗せ、本来の運行経路から外れて近くの病院に搬送した。転落した女性は頭の怪我で済み命に別状は無かった。この運転士は運行規程に違反することを顧みず、躊躇なく迅速な人命救助を行ったことが評価され、名古屋市からシチズン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。名古屋市役所は、地方公共団体である名古屋市の執行機関としての事務を行う施設(役所)である。名古屋市役所は、本庁舎、東庁舎、西庁舎から成り、右写真の本庁舎の裏手に東庁舎、大津通をはさんで向かいに西庁舎が建てられている。
本庁舎は昭和天皇即位の記念事業として建設されたもので、公募によって選ばれた平林金吾の設計を基にした、頂部に城郭風の屋根を乗せた帝冠様式の意匠が特徴的である。また、本庁舎は登録有形文化財となっているほか、テレビドラマや映画などでロケ地として使用されることもある。名古屋汎太平洋平和博覧会は、1937年(昭和12年)の3月15日~5月31日まで名古屋市南区熱田前新田(現・港区港明)で行われた博覧会である。鉄道省は貨物線だった名古屋港線に最寄りの臨時駅として名古屋博覧会前駅を設置し、シャトル列車を名古屋駅との間で運行した。会期の途中からは当時最新鋭のキハ43000形気動車も運用に加わっている。また、名古屋市電は博覧会に合わせて野立築地口線日比野~築地口間を3月に開業させている。この区間は名古屋市道江川線上に当たり、東西に分かれた会場の間を通過する形であった。このほか、この博覧会を期して周辺の鉄道事業者が製造した車両に以下のものがある。
名古屋まつりは、毎年10月上旬の土日に名古屋市内で開催される祭り。1955年(昭和30年)に名古屋商工まつりとして第1回が開催された。当時としては全国では珍しい商業まつりであった。第1回から名古屋市電を利用した花電車が運行され、地下鉄の開通に伴い路面電車が廃止された1973年(昭和48年)まで続いた。また、1966年(昭和41年)の第12回には花バスが初めて登場し、2005年(平成17年)まで毎回運行されていた。祭り最大の見せ場である郷土英傑行列では、それぞれ愛知県出身者の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らに扮した名士らが名古屋駅から名古屋城までパレードを行う。三英傑は一般より公募され、このうち信長については馬に跨る事ができる者が条件となっている。また随伴する三姫(濃姫・ねね(以前は淀君)・千姫)は名古屋市内の各デパートの女子店員から選ばれることになっている。 また、三英傑を経験した者の集まり英傑会が組織されている。なお、2005年は愛・地球博開催のため、5月に開催時期を変更した。
また、祭り最終日の日曜日は名古屋城など名古屋市が管理している有料施設が無料開放される。なお、戦前まで行われていた名古屋東照宮の例祭(東照宮祭)は一般に「名古屋祭」と呼ばれており、現在の名古屋まつりで行われる山車揃いはその流れを組んだものである。名古屋港水族館は、愛知県名古屋市港区の名古屋港ガーデンふ頭にある水族館である。また、運営元である財団法人名古屋みなと振興財団の事務局も兼ねている。館内ではイルカをはじめ、シロイルカ、ペンギン、ウミガメなどが飼育・繁殖・研究されている。1995年、日本で初めて屋内の人工産卵場で産まれたアカウミガメの人工孵化に成功。2003年より米国海洋大気圏局(NOAA)と共同で、成長過程のアカウミガメの子ガメを放流、人工衛星追跡システムにより北太平洋における回遊ルートを調査・研究している。ジェンツーペンギン、ヒゲペンギン、アデリーペンギンの繁殖に成功(ヒゲペンギン、アデリーペンギンについては日本初)。
名古屋工場は、愛知県名古屋市中川区長良町1-1に所在する東海旅客鉄道(JR東海)の車両工場で、同社東海鉄道事業本部の管轄下にある。工場構内には日本貨物鉄道(JR貨物)名古屋車両所が併設されている。当工場は近鉄名古屋線黄金駅 - 烏森駅間、関西本線名古屋駅 - 八田駅間、あおなみ線ささしまライブ駅 - 小本駅間の線路の南側に沿って位置しており、北東には名古屋車両区がある。同社の在来線12線区・愛知環状鉄道を走る車両の全般検査、要部検査などを担当し、電車を主体として気動車、客車などの検査・修繕を行っている。また、当工場には日本貨物鉄道(JR貨物)名古屋車両所が併設されている。1940年(昭和15年)に気動車の修繕技術を活かして省営自動車(→国鉄バス)の修繕を開始した。1943年(昭和18年)には年20両から年80両までに修繕実績を大幅に高め、自動車職場を創設するまで至った。終戦後の1950年(昭和25年)に作業量の減少と自動車修繕の集中専門化の方針により、省営自動車の修繕業務は終了した。
名古屋臨海高速鉄道1000形、愛知環状鉄道2000系、東海交通事業キハ11形の重要部検査・全般検査を受託している。
1990年9月25日の夜、当時鳴尾営業所所属の男性運転士が乗務中、北頭交差点にある歩道橋から飛び降り自殺を図り瀕死の状態で道路上に倒れている女性を見つけ、乗客を乗せて運行中であるにもかかわらず、この女性が他の車にひかれないよう、女性の前にバスを停車させた。近くには消防署(南消防署大江出張所。救急隊配置なし)があり、このとき周囲にいた人が救急車を要請していたものの、サイレンが聞こえず到着まで時間が掛かると運転士が判断し、乗客と協力しながら女性をバスに乗せ、本来の運行経路から外れて近くの病院に搬送した。転落した女性は頭の怪我で済み命に別状は無かった。この運転士は運行規程に違反することを顧みず、躊躇なく迅速な人命救助を行ったことが評価され、名古屋市からシチズン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。名古屋市役所は、地方公共団体である名古屋市の執行機関としての事務を行う施設(役所)である。名古屋市役所は、本庁舎、東庁舎、西庁舎から成り、右写真の本庁舎の裏手に東庁舎、大津通をはさんで向かいに西庁舎が建てられている。
本庁舎は昭和天皇即位の記念事業として建設されたもので、公募によって選ばれた平林金吾の設計を基にした、頂部に城郭風の屋根を乗せた帝冠様式の意匠が特徴的である。また、本庁舎は登録有形文化財となっているほか、テレビドラマや映画などでロケ地として使用されることもある。名古屋汎太平洋平和博覧会は、1937年(昭和12年)の3月15日~5月31日まで名古屋市南区熱田前新田(現・港区港明)で行われた博覧会である。鉄道省は貨物線だった名古屋港線に最寄りの臨時駅として名古屋博覧会前駅を設置し、シャトル列車を名古屋駅との間で運行した。会期の途中からは当時最新鋭のキハ43000形気動車も運用に加わっている。また、名古屋市電は博覧会に合わせて野立築地口線日比野~築地口間を3月に開業させている。この区間は名古屋市道江川線上に当たり、東西に分かれた会場の間を通過する形であった。このほか、この博覧会を期して周辺の鉄道事業者が製造した車両に以下のものがある。
名古屋まつりは、毎年10月上旬の土日に名古屋市内で開催される祭り。1955年(昭和30年)に名古屋商工まつりとして第1回が開催された。当時としては全国では珍しい商業まつりであった。第1回から名古屋市電を利用した花電車が運行され、地下鉄の開通に伴い路面電車が廃止された1973年(昭和48年)まで続いた。また、1966年(昭和41年)の第12回には花バスが初めて登場し、2005年(平成17年)まで毎回運行されていた。祭り最大の見せ場である郷土英傑行列では、それぞれ愛知県出身者の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らに扮した名士らが名古屋駅から名古屋城までパレードを行う。三英傑は一般より公募され、このうち信長については馬に跨る事ができる者が条件となっている。また随伴する三姫(濃姫・ねね(以前は淀君)・千姫)は名古屋市内の各デパートの女子店員から選ばれることになっている。 また、三英傑を経験した者の集まり英傑会が組織されている。なお、2005年は愛・地球博開催のため、5月に開催時期を変更した。
また、祭り最終日の日曜日は名古屋城など名古屋市が管理している有料施設が無料開放される。なお、戦前まで行われていた名古屋東照宮の例祭(東照宮祭)は一般に「名古屋祭」と呼ばれており、現在の名古屋まつりで行われる山車揃いはその流れを組んだものである。名古屋港水族館は、愛知県名古屋市港区の名古屋港ガーデンふ頭にある水族館である。また、運営元である財団法人名古屋みなと振興財団の事務局も兼ねている。館内ではイルカをはじめ、シロイルカ、ペンギン、ウミガメなどが飼育・繁殖・研究されている。1995年、日本で初めて屋内の人工産卵場で産まれたアカウミガメの人工孵化に成功。2003年より米国海洋大気圏局(NOAA)と共同で、成長過程のアカウミガメの子ガメを放流、人工衛星追跡システムにより北太平洋における回遊ルートを調査・研究している。ジェンツーペンギン、ヒゲペンギン、アデリーペンギンの繁殖に成功(ヒゲペンギン、アデリーペンギンについては日本初)。
名古屋工場は、愛知県名古屋市中川区長良町1-1に所在する東海旅客鉄道(JR東海)の車両工場で、同社東海鉄道事業本部の管轄下にある。工場構内には日本貨物鉄道(JR貨物)名古屋車両所が併設されている。当工場は近鉄名古屋線黄金駅 - 烏森駅間、関西本線名古屋駅 - 八田駅間、あおなみ線ささしまライブ駅 - 小本駅間の線路の南側に沿って位置しており、北東には名古屋車両区がある。同社の在来線12線区・愛知環状鉄道を走る車両の全般検査、要部検査などを担当し、電車を主体として気動車、客車などの検査・修繕を行っている。また、当工場には日本貨物鉄道(JR貨物)名古屋車両所が併設されている。1940年(昭和15年)に気動車の修繕技術を活かして省営自動車(→国鉄バス)の修繕を開始した。1943年(昭和18年)には年20両から年80両までに修繕実績を大幅に高め、自動車職場を創設するまで至った。終戦後の1950年(昭和25年)に作業量の減少と自動車修繕の集中専門化の方針により、省営自動車の修繕業務は終了した。
名古屋臨海高速鉄道1000形、愛知環状鉄道2000系、東海交通事業キハ11形の重要部検査・全般検査を受託している。
2011年5月11日水曜日
また開業時からしばらく夏季に限り
旅客営業を行っていたこともあったが、名古屋電気鉄道(後の名古屋市電)が併走していたため廃止になった。名古屋市営バスは、名古屋市が運行する公営バスである。名古屋市交通局内にバスを担当する「自動車部」がある。単に市バスと略されている。名古屋市全域を運行するほか、隣接する豊山町、大治町、清須市、尾張旭市、日進市、豊明市、大府市、長久手町、春日井市の一部地域を営業エリアとしている。総営業キロ数は734.9km、系統数は161系統、保有車両数は約1012両(いずれも2011年4月現在)。2007年4月より、大森営業所を名鉄バス株式会社に2009年4月から浄心営業所を三重交通株式会社に管理委託しており、コスト削減を進めている。日本初の中央車線をバスレーンとして走行する基幹バス(新出来町線)や、専用軌道と一般道を走行する、名古屋ガイドウェイバスの運行受託、 名古屋市内の人気観光スポットを周遊するなごや観光ルートバス、愛称「メーグル」の運行受託など、多種多様な運行をしている。
栄758系統は1998年5月6日運行開始。名古屋駅と栄中心部を循環する路線で一般系統よりも停留所設置間隔が短くなっているのが特徴である。主に、都心循環バス専用である小型・中型ノンステップ車が用いられているが、検査などの都合により一般系統の車両を用いて運行されることがある。なごや城系統は、なごや観光ルートバスの先駆けともいえる観光系統だったが、那古野営業所の閉所に伴う路線再編の一環で廃止されることとなった。車体は栄758系統と異なり黄色を基調としていた。現在は中型ノンステップバスが導入され、1998年式、1999年式の小型バスは廃車され、中型ノンステップバスで運行されている。座席などはすべて一般バスのシートと変わらず、1999年式まで採用されていた灰色と赤色の座席は無くなっている。以前はラッシュ時は満員だったが、現在は以前より混雑は緩和されている。1980年2月15日運行開始。都心部から郊外へ直接結ぶために設置された系統であり、現在は中区の栄から途中名古屋高速道路を経由し緑区の森の里団地までを結ぶ1系統のみ運行している。
高速1系統は市バスの全系統で最も運行距離が長い。名古屋高速3号大高線区間を利用する場合は通常料金に加えて10円が必要である。ユリカでの支払いも可能である。運賃箱の設定は210円であり、地上区間のみの乗車の場合には運転士にその旨を告げると設定を変更する。一般系統の車両を兼用で用いていたが、1998年に専用車両 (F-522 - F-524) が導入され、2005年には高速走行に対応したノンステップバスも投入(ETC車上装置も搭載)。2010年には、全便ノンステップ化のためABS搭載の専用車が導入された (NH-264 - NH-271) 。前方・前扉右横に基幹用プレートが装備されている(常時変更可能)。専用車両の座席にはシートベルトが装備されているが、通常の車両同様つり革や握り棒があり、立席乗車も可能である(名古屋高速は名前に高速が付いているが、法定速度制限が60キロ以内なので立席が可能)。2007年7月21日運行開始。名古屋市市民経済局観光推進室が企画運営し名古屋市交通局が運行受託している。
愛称は「メーグル」で金の鯱をイメージさせるゴールドを主体とした専用車両(日野自動車 HR、浄心営業所所属)を導入し、その車内は天井に窓枠を設け、視界を向上し観光車両として工夫されている。当初の予想以上の利用客があったことを受け、浄心営業所に所属する一般大型ノンステップバスに「メーグル」のPRラッピングを施し、専用車に加えその車も運用に入っている。また、ごくまれに特にラッピングも施さない通常の一般市バス車両が運用に入ることもある。土・日・祝日は20 - 30分に1本運行(名古屋駅午前9時30分から11時30分までは20分毎発、以降は30分毎発・1日18本)。平日30分から1時間に1本運行(名古屋駅午前9時30~17時00分まで1日13本)。月曜日は運休となる。(ただし祝日は運行し直後の平日が運休となる)日本メーカー4社とも導入されている。導入数は2012年現在、いすゞ自動車が最多で日野自動車、三菱ふそうトラック・バス、日産ディーゼル(現在のUDトラックス)の順となる。
車体組立部門を持たない日産ディーゼル車の場合、富士重工業のボディが標準だったが同社のバス車体組立撤退後は西日本車体工業のボディが架装されている。また、いすゞのシャーシに富士重工業のボディという組み合わせも2011年度末までは少数だが存在した。三菱ふそう・エアロスターの車体は三菱自動車バス製造(現在の三菱ふそうバス製造)に一本化される前は三菱自動車工業名古屋制作所大江工場が架装を担当していた。かつては大型バスの場合車体前部に折り戸の入り口、中央に引き戸の出口、さらに最後部に折り戸の出口、という独特の3枚扉車がほとんどであった(基幹2号系統は例外で中央が4枚折り戸の入り口)が、1999年式の車両より基幹2号系統と同じ2か所の出入り口に改められた。その後2001年式の車両よりすべてノンステップ車に移行したため、現在3枚扉車は大型バス4台のみ(名古屋22のナンバープレートのみ存在している。排ガス規制をクリアするCNG車)になっている。
なお、かつては営業所ごとに納入するメーカーが決まっていたが、営業所の再編、ノンステップバスや小型バスはメーカーが限られる等の理由により営業所ごとのメーカーは一定でない。2005年頃からは毎年約百数十両という大量増備を行い、車両の取替えのペースを上げている。2010年度までにノンステップバスの比率を92%、アイドリングストップ車(CNG圧縮天然ガス車を除く)の比率を100%にする目標を掲げている。この大幅取り換えには、排ガス規制の強化の対象となる8大都市圏に名古屋市が含まれるため、規制に適合しない車両の使用年限が12年に限られることも影響している。なお、同バスで役目を終えた車両は全国の地方事業者に譲渡されているほか、一部はミャンマーなど海外にも輸出されている。なお、2011年度(2012年3月末までに廃車)までに排ガス規制に適合しないすべての車両の入れ替えが終了する予定となっており、排ガス規制に適合している2000年度(2001年3月末までに導入)以降のノンステップバスは、車両使用年数を現在の12年から18年に延長し、車両購入費を抑えることで経営再建につなげることにことになっている。
このため、次回の新型車両置き換えについては、2018年度(2019年3月末までに導入)まで行われない予定である。名古屋市営バスにおける乗車料金は以下のとおりとなる。
栄758系統は1998年5月6日運行開始。名古屋駅と栄中心部を循環する路線で一般系統よりも停留所設置間隔が短くなっているのが特徴である。主に、都心循環バス専用である小型・中型ノンステップ車が用いられているが、検査などの都合により一般系統の車両を用いて運行されることがある。なごや城系統は、なごや観光ルートバスの先駆けともいえる観光系統だったが、那古野営業所の閉所に伴う路線再編の一環で廃止されることとなった。車体は栄758系統と異なり黄色を基調としていた。現在は中型ノンステップバスが導入され、1998年式、1999年式の小型バスは廃車され、中型ノンステップバスで運行されている。座席などはすべて一般バスのシートと変わらず、1999年式まで採用されていた灰色と赤色の座席は無くなっている。以前はラッシュ時は満員だったが、現在は以前より混雑は緩和されている。1980年2月15日運行開始。都心部から郊外へ直接結ぶために設置された系統であり、現在は中区の栄から途中名古屋高速道路を経由し緑区の森の里団地までを結ぶ1系統のみ運行している。
高速1系統は市バスの全系統で最も運行距離が長い。名古屋高速3号大高線区間を利用する場合は通常料金に加えて10円が必要である。ユリカでの支払いも可能である。運賃箱の設定は210円であり、地上区間のみの乗車の場合には運転士にその旨を告げると設定を変更する。一般系統の車両を兼用で用いていたが、1998年に専用車両 (F-522 - F-524) が導入され、2005年には高速走行に対応したノンステップバスも投入(ETC車上装置も搭載)。2010年には、全便ノンステップ化のためABS搭載の専用車が導入された (NH-264 - NH-271) 。前方・前扉右横に基幹用プレートが装備されている(常時変更可能)。専用車両の座席にはシートベルトが装備されているが、通常の車両同様つり革や握り棒があり、立席乗車も可能である(名古屋高速は名前に高速が付いているが、法定速度制限が60キロ以内なので立席が可能)。2007年7月21日運行開始。名古屋市市民経済局観光推進室が企画運営し名古屋市交通局が運行受託している。
愛称は「メーグル」で金の鯱をイメージさせるゴールドを主体とした専用車両(日野自動車 HR、浄心営業所所属)を導入し、その車内は天井に窓枠を設け、視界を向上し観光車両として工夫されている。当初の予想以上の利用客があったことを受け、浄心営業所に所属する一般大型ノンステップバスに「メーグル」のPRラッピングを施し、専用車に加えその車も運用に入っている。また、ごくまれに特にラッピングも施さない通常の一般市バス車両が運用に入ることもある。土・日・祝日は20 - 30分に1本運行(名古屋駅午前9時30分から11時30分までは20分毎発、以降は30分毎発・1日18本)。平日30分から1時間に1本運行(名古屋駅午前9時30~17時00分まで1日13本)。月曜日は運休となる。(ただし祝日は運行し直後の平日が運休となる)日本メーカー4社とも導入されている。導入数は2012年現在、いすゞ自動車が最多で日野自動車、三菱ふそうトラック・バス、日産ディーゼル(現在のUDトラックス)の順となる。
車体組立部門を持たない日産ディーゼル車の場合、富士重工業のボディが標準だったが同社のバス車体組立撤退後は西日本車体工業のボディが架装されている。また、いすゞのシャーシに富士重工業のボディという組み合わせも2011年度末までは少数だが存在した。三菱ふそう・エアロスターの車体は三菱自動車バス製造(現在の三菱ふそうバス製造)に一本化される前は三菱自動車工業名古屋制作所大江工場が架装を担当していた。かつては大型バスの場合車体前部に折り戸の入り口、中央に引き戸の出口、さらに最後部に折り戸の出口、という独特の3枚扉車がほとんどであった(基幹2号系統は例外で中央が4枚折り戸の入り口)が、1999年式の車両より基幹2号系統と同じ2か所の出入り口に改められた。その後2001年式の車両よりすべてノンステップ車に移行したため、現在3枚扉車は大型バス4台のみ(名古屋22のナンバープレートのみ存在している。排ガス規制をクリアするCNG車)になっている。
なお、かつては営業所ごとに納入するメーカーが決まっていたが、営業所の再編、ノンステップバスや小型バスはメーカーが限られる等の理由により営業所ごとのメーカーは一定でない。2005年頃からは毎年約百数十両という大量増備を行い、車両の取替えのペースを上げている。2010年度までにノンステップバスの比率を92%、アイドリングストップ車(CNG圧縮天然ガス車を除く)の比率を100%にする目標を掲げている。この大幅取り換えには、排ガス規制の強化の対象となる8大都市圏に名古屋市が含まれるため、規制に適合しない車両の使用年限が12年に限られることも影響している。なお、同バスで役目を終えた車両は全国の地方事業者に譲渡されているほか、一部はミャンマーなど海外にも輸出されている。なお、2011年度(2012年3月末までに廃車)までに排ガス規制に適合しないすべての車両の入れ替えが終了する予定となっており、排ガス規制に適合している2000年度(2001年3月末までに導入)以降のノンステップバスは、車両使用年数を現在の12年から18年に延長し、車両購入費を抑えることで経営再建につなげることにことになっている。
このため、次回の新型車両置き換えについては、2018年度(2019年3月末までに導入)まで行われない予定である。名古屋市営バスにおける乗車料金は以下のとおりとなる。
2011年5月10日火曜日
以前そのエリアの壁面に
複数のモニタTVで構成された広告・情報パネルがありJR東海から「メディア1(ワン)」と命名されていたことや、メディア1が設置される以前には待ち合わせスポットとして有名な壁画があり永く「壁画前」として親しまれたことから、今でも1970年代以降生まれ世代には「メディアワン」、1960年代以前生まれ世代には「壁画前」が名称として"通り"が良い。なおその「壁画」は地下鉄桜通線工事に伴うものとして復旧を前提に「一時的に」解体されたが、JR東海が復旧の約束を反故にしたため名古屋市港区の倉庫で今も眠っている。作者は失意のうちに没した。壁画の作者は岡本太郎と間違われることがあるが、それは名古屋市中区栄のオリエンタル中村百貨店(現・三越名古屋栄店)の外壁に岡本太郎作の壁画が存在したことと、名古屋駅太閤通口に繋がる地下街エスカのシンボルゾーン「幻想の広場」の構成を岡本太郎が行なったことによる誤謬である。また「メディア1」に関しては、JR東海が2005年万博(「愛・地球博」)と中部国際空港連携事業に関連して推し進めている「名古屋駅エレベーター等整備計画図」に「撤去」と明記されており、復活の目はない。
現在その場所は巨大な広告スペースになっている。名鉄ヤング館前にあるナナちゃん人形付近も名古屋駅での有名な待ち合わせスポットの一つ。中高生の利用が多い。ナナちゃんはかつてセブン館と呼ばれていたヤング館のマスコットとして設置された、スイス製のマネキンである。さまざまなパブリシティに使われており、水着や浴衣はもちろんのこと、優勝時の中日ドラゴンズユニフォーム等いろいろな衣装をまとう。ナナちゃん人形が待ち合わせスポットして定着する以前はJR名古屋駅1階の東口、西口の2箇所にあった円筒状の柱(通称「金の柱」、「銀の柱」)が主な待ち合わせ場所として使われていた。厳密には通常の柱の上部に金、銀の装飾を施したものであった。どちらかといえば東口出口に近い位置にあった「銀の柱」の方が有名であったが、広く知られる前に待ち合わせ場所として使われなくなったため、地元人でも知らない人が多い。現在は、どちらの柱も駅ビル改装に伴い撤去されている。名古屋港線は、日本貨物鉄道(JR貨物)が保有する山王信号場 - 名古屋港駅間の東海道本線貨物支線の通称である。
東港(貨物)線とも呼ばれる。名古屋港周辺に建設された貨物支線のうち、最も古い歴史を持つのがこの路線である。1911年に名古屋駅を起点として、名古屋港で船との提携による貨物輸送を行うために建設された。後には、名古屋市場駅(名古屋市中央卸売市場への輸送)への貨物支線や堀川口駅までの延伸もなされ、昭和半ばまで貨物輸送で賑わいを見せることになった。しかしJRの前身である日本国有鉄道(国鉄)での貨物輸送の衰退に伴い、山王信号場 - 名古屋港駅間以外の区間はすべて廃止され、名古屋港駅そのものの設備も縮小し、現在では週に3往復レールを輸送するための列車が走るだけの路線となっている。当路線での旅客輸送は、開業から2か月間だけ実施された後は散発的に行われた。1937年の名古屋汎太平洋平和博覧会に際して臨時駅の名古屋博覧会前駅を設置し、名古屋駅との間にシャトル列車を運行した(会期の途中からは、当時最新鋭のキハ43000形気動車も使用)。
太平洋戦争中の1942年に定期の旅客輸送が再開されたが、戦争末期の1944年いっぱいで再び廃止された。昭和30年代には貨物列車の後部に旅客車を増結し、混合列車として沿線にある中日スタヂアム(→ナゴヤ球場)への観客輸送を行った事があり、東海旅客鉄道(JR東海)が発足した1987年から1994年の間にも、同社が第二種鉄道事業者免許を収得してナゴヤ球場近くにナゴヤ球場正門前駅と呼ばれる臨時駅を建設し、同線に観客輸送のための臨時列車を設定した事がある(詳細は、正門前駅の記事を参照)。また、名古屋港 - 堀川口間には海を跨ぐため、跳開式の可動橋が存在した。名古屋港跳上橋と言われ、設計は山本卯太郎である。これは1980年の路線廃止後も橋桁を上げた状態で固定されながら保存されており、1999年には登録有形文化財建造物に登録された。名古屋港駅は、愛知県名古屋市港区熱田前新田中川東町にある日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物駅である。東海道本線貨物支線の終点。
当駅は、車扱貨物の取扱駅である。地上駅で、現在は着発線2本と、ほとんど使用されていない側線が残っているだけである。着発線の西側に隣接して東海旅客鉄道(JR東海)名古屋資材センターがあり、ここからレールが発送されている。このレールを輸送するために、稲沢駅との間に不定期の専用貨物列車が運行されている。現在駅構内は北側のみ残り、線路は名古屋市道金城埠頭線の跨線橋の下で途切れているが、かつては跨線橋の南側、更には今の名古屋港ガーデン埠頭の敷地やその東側まで広がっていた。跡地の一部は名古屋港シートレインランド、シートレインランド駐車場、アルカンシェル名古屋ウェディングビレッジ、名古屋港管理組合の月極駐車場、名古屋高速4号東海線(建設中)もしくはそれに平行する市道に再利用されている。1907年に名古屋港が開港場の指定を受け、貨物を鉄道輸送するために港に最初に開設された貨物駅である。開業以来港における車扱貨物輸送の拠点の一つとなっていたが、コンテナの登場により車扱貨物輸送は衰退し、当駅の役割も小さくなっていった。
現在は名古屋貨物ターミナル駅に駅業務のほとんどを移譲している。かつて駅構内は現在のガーデンふ頭一帯に広がり、東陽倉庫や現在「名古屋港水族館」や「名古屋港イタリア村」となっている場所にあった倉庫群へ専用線や構内側線が続き、船舶との提携輸送を行っていた。また駅北側にある東邦理化港工場や東邦ガス港明工場(1998年閉鎖)への専用線もあり、貨物輸送を行っていた。2000年頃までは日産化学工業の荷役線があり、化学薬品輸送タンク車が乗り入れ、タンクローリーを横付けしての荷役作業が行われていた。化学薬品はタンクローリーで駅の中川運河を挟んで対岸にある同社名古屋工場へ輸送されていた。到着する化学薬品は、速星駅発送の希硝酸、神岡鉱山前駅発送の濃硫酸などであった。名古屋港線で野球観戦者輸送用の旅客列車が運行されていた1987年から1994年の間は、車両留置場となっていた。
現在その場所は巨大な広告スペースになっている。名鉄ヤング館前にあるナナちゃん人形付近も名古屋駅での有名な待ち合わせスポットの一つ。中高生の利用が多い。ナナちゃんはかつてセブン館と呼ばれていたヤング館のマスコットとして設置された、スイス製のマネキンである。さまざまなパブリシティに使われており、水着や浴衣はもちろんのこと、優勝時の中日ドラゴンズユニフォーム等いろいろな衣装をまとう。ナナちゃん人形が待ち合わせスポットして定着する以前はJR名古屋駅1階の東口、西口の2箇所にあった円筒状の柱(通称「金の柱」、「銀の柱」)が主な待ち合わせ場所として使われていた。厳密には通常の柱の上部に金、銀の装飾を施したものであった。どちらかといえば東口出口に近い位置にあった「銀の柱」の方が有名であったが、広く知られる前に待ち合わせ場所として使われなくなったため、地元人でも知らない人が多い。現在は、どちらの柱も駅ビル改装に伴い撤去されている。名古屋港線は、日本貨物鉄道(JR貨物)が保有する山王信号場 - 名古屋港駅間の東海道本線貨物支線の通称である。
東港(貨物)線とも呼ばれる。名古屋港周辺に建設された貨物支線のうち、最も古い歴史を持つのがこの路線である。1911年に名古屋駅を起点として、名古屋港で船との提携による貨物輸送を行うために建設された。後には、名古屋市場駅(名古屋市中央卸売市場への輸送)への貨物支線や堀川口駅までの延伸もなされ、昭和半ばまで貨物輸送で賑わいを見せることになった。しかしJRの前身である日本国有鉄道(国鉄)での貨物輸送の衰退に伴い、山王信号場 - 名古屋港駅間以外の区間はすべて廃止され、名古屋港駅そのものの設備も縮小し、現在では週に3往復レールを輸送するための列車が走るだけの路線となっている。当路線での旅客輸送は、開業から2か月間だけ実施された後は散発的に行われた。1937年の名古屋汎太平洋平和博覧会に際して臨時駅の名古屋博覧会前駅を設置し、名古屋駅との間にシャトル列車を運行した(会期の途中からは、当時最新鋭のキハ43000形気動車も使用)。
太平洋戦争中の1942年に定期の旅客輸送が再開されたが、戦争末期の1944年いっぱいで再び廃止された。昭和30年代には貨物列車の後部に旅客車を増結し、混合列車として沿線にある中日スタヂアム(→ナゴヤ球場)への観客輸送を行った事があり、東海旅客鉄道(JR東海)が発足した1987年から1994年の間にも、同社が第二種鉄道事業者免許を収得してナゴヤ球場近くにナゴヤ球場正門前駅と呼ばれる臨時駅を建設し、同線に観客輸送のための臨時列車を設定した事がある(詳細は、正門前駅の記事を参照)。また、名古屋港 - 堀川口間には海を跨ぐため、跳開式の可動橋が存在した。名古屋港跳上橋と言われ、設計は山本卯太郎である。これは1980年の路線廃止後も橋桁を上げた状態で固定されながら保存されており、1999年には登録有形文化財建造物に登録された。名古屋港駅は、愛知県名古屋市港区熱田前新田中川東町にある日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物駅である。東海道本線貨物支線の終点。
当駅は、車扱貨物の取扱駅である。地上駅で、現在は着発線2本と、ほとんど使用されていない側線が残っているだけである。着発線の西側に隣接して東海旅客鉄道(JR東海)名古屋資材センターがあり、ここからレールが発送されている。このレールを輸送するために、稲沢駅との間に不定期の専用貨物列車が運行されている。現在駅構内は北側のみ残り、線路は名古屋市道金城埠頭線の跨線橋の下で途切れているが、かつては跨線橋の南側、更には今の名古屋港ガーデン埠頭の敷地やその東側まで広がっていた。跡地の一部は名古屋港シートレインランド、シートレインランド駐車場、アルカンシェル名古屋ウェディングビレッジ、名古屋港管理組合の月極駐車場、名古屋高速4号東海線(建設中)もしくはそれに平行する市道に再利用されている。1907年に名古屋港が開港場の指定を受け、貨物を鉄道輸送するために港に最初に開設された貨物駅である。開業以来港における車扱貨物輸送の拠点の一つとなっていたが、コンテナの登場により車扱貨物輸送は衰退し、当駅の役割も小さくなっていった。
現在は名古屋貨物ターミナル駅に駅業務のほとんどを移譲している。かつて駅構内は現在のガーデンふ頭一帯に広がり、東陽倉庫や現在「名古屋港水族館」や「名古屋港イタリア村」となっている場所にあった倉庫群へ専用線や構内側線が続き、船舶との提携輸送を行っていた。また駅北側にある東邦理化港工場や東邦ガス港明工場(1998年閉鎖)への専用線もあり、貨物輸送を行っていた。2000年頃までは日産化学工業の荷役線があり、化学薬品輸送タンク車が乗り入れ、タンクローリーを横付けしての荷役作業が行われていた。化学薬品はタンクローリーで駅の中川運河を挟んで対岸にある同社名古屋工場へ輸送されていた。到着する化学薬品は、速星駅発送の希硝酸、神岡鉱山前駅発送の濃硫酸などであった。名古屋港線で野球観戦者輸送用の旅客列車が運行されていた1987年から1994年の間は、車両留置場となっていた。
2011年5月9日月曜日
その他三菱地所は
2009年12月、自社が保有する大名古屋ビルヂングを地上38階・高さ190mの超高層ビルに建替える方針を発表した。2011年夏現在、同ビルに入居していた三菱UFJモルガン・スタンレー証券など、主要テナントの建替えに向けた移転が本格化している。仮に前述のすべての計画が実現した場合、桜通口周辺には既存のJRセントラルタワーズ・ミッドランドスクエア・名古屋ルーセントタワー・モード学園スパイラルタワーズと合わせて、同規模の超高層ビルが10棟前後立ち並ぶことになる。桜通口の大規模再開発に併せて、家電量販店のヨドバシカメラが名古屋ターミナルビル跡に完成予定の名古屋駅新ビル(仮称)に、ヤマダ電機が名鉄百貨店ヤング館跡に出店することも相次いで発表されており、エイデン(名古屋駅東側)やビックカメラ(太閤通口)・ソフマップ(太閤通口)との大規模な家電競争が起こる可能性がある。2010年12月10日付の建設通信新聞中部版によれば、名古屋市住宅都市局はささしまライブ地区の再開発に合わせ、名鉄レジャックや名鉄百貨店が立地する笹島交差点から下広井町交差点にかけ、歩行者用地下通路(延長は300メートル程度、幅員は6メートルを想定)の建設を計画しているとしている。
これは名古屋駅前からささしまライブ地区にかけての歩行者動線の増強を目的としたものであり、地下通路案・デッキ案・歩道拡幅案の3案から決定された。これに先がけ、2011年度に笹島交差点と下広井町交差点の横断歩道などの拡幅を進め、その後地下通路の整備(行政主体)と笹島交差点西側の南北横断用施設の整備(民間主体)を段階的に進めていく予定である。なお、南北横断用施設は名鉄レジャックと旧名鉄百貨店ヤング館の敷地を結ぶものと見られる。なおこの計画内容は、2011年6月1日付の読売新聞においても報道され、笹島交差点-下広井町交差点間の地下通路の着工時期を2013年度、完成時期を2016年度とすることも明らかになった。総工費は数十億円で、通路の両端にはテナントを入れて地下街とする予定である。また同紙によると、名鉄・近鉄両社は百貨店の地下通路(約300メートル)を再整備する方針も打ち出しているとのことである。同じく2011年6月1日付の読売新聞では、2010年に日本通運やNTTなど5社と地元住民らで構成される「名駅南地区まちづくり研究会」が発足したと伝えている。
同研究会は開発業者に計画策定を委託しており、2011年度中にも基本計画をまとめる予定である。研究会の参加企業からは、「一等地の駅前には手が出ない地元企業などを受け入れる」「都市型マンションと入居者向けの商業・医療施設を造る」「大学や国際交流拠点を持つささしま地区と連動した文化・芸術・商業・研究施設の建設」などが提案されている。当初、東京と京都を結ぶ鉄道幹線ルートは、海側を走る列車は敵の艦砲射撃の標的になると予想され、海運が発達していることなどから海側の東海道ルートは回避され、山側の中山道経由で建設されることになったが、中山道ルートの建設は困難と判断され、東京 - 名古屋間は東海道に並行して鉄道を敷設することになった。開業当初は置かれた地から「笹島停車場」とも呼ばれた。当時は、相対式ホーム2面2線と駅舎があるだけの小さな駅であった。なお、駅が開業した後の名古屋の人の動きは早く、開業した年の10月には駅前に旅館が競い合って建設を始めていた。
1892年(明治25年)には駅を現在の笹島交差点付近から現在地へ北へ200mほど移転させた。その後、1899年(明治32年)には関西鉄道(関西本線を建設)、1900年(明治33年)には中央西線(現在の中央本線)が乗り入れ、巨大ターミナルになった。また、1889年(明治22年)には日本の鉄道総延長1,000マイル (1,609km) 達成記念、1906年(明治39年)には5,000マイル (8,046km) 達成記念の祝賀行事がそれぞれ名古屋で開かれた。1937年(昭和12年)には高架化工事が竣工し、駅舎が地上5階(一部6階)・地下1階の鉄筋コンクリート製の堂々たる建物に改められた。この駅舎は、セントラルタワーズの建設工事が始まる1993年(平成5年)10月まで使用された。2005年の内閣府の調査では、名古屋駅は放置自転車が3194台と、全国最多だった。そのため、名古屋市は有料駐輪スペースを増加させるなどの、対策を行っている。2008年5月1日から、それまで無料であった名古屋駅周辺の自転車駐輪場がいっせいに有料化された。将来は中央リニア新幹線の名古屋駅が出来る。
JR東海は、将来の関西圏への伸延まで大多数の乗客が行う既存新幹線との相互乗り換えに配慮し名古屋駅新幹線ホーム直下の大深度に新駅を建設した場合に乗り換えに掛かる移動時間が3分から9分であると試算報告し、既存の名古屋駅を拡張する計画である。名古屋駅の略称である名駅は、名古屋市中村区、西区の町名ともなっており、名古屋地方で名駅と言えば、名古屋駅周辺の地域を指すことも多い。名古屋市中村区と西区に置かれている。中村区名駅は1丁目から5丁目まであり、西区は1丁目から3丁目までとなっている。なお中村区と西区とで同じ町名の地は隣接しており、一方の区の続きのようになっている。ちなみに、名古屋駅の住所は中村区名駅1丁目と西区名駅1丁目に跨って存在している(ただし、駅ビル(セントラルタワーズ)など駅建築施設の大半は中村区側に存在しており、西区が住所になる部分は駅構内のホーム下り側(岐阜方面)半分のみである)。名駅周辺は、栄と並ぶ名古屋市の繁華街である。
広義の「名駅」地域には、椿町・太閤・則武・丸の内などその周辺界隈も含まれる。地元では名駅とは普通、駅の東側(桜通り口側)のみを指し、西側(太閤口側)は「駅西」「駅裏」などと呼ばれることが多い(ただし桜通口側には目立つほどの性風俗店群は存在しないため、いわゆる性風俗雑誌に載っている「名駅」はもっぱら太閤口側のことを指す)。このほかに中村区には「名駅」を冠する住所として名駅南が1丁目から5丁目まで存在する。桜通口側(東側)の待ち合わせスポット。タワーズ1階中央コンコースのエスカレーター前に立つ時計とその周辺エリアのこと。かつて旧駅ビル時代は大時計と発着列車案内(反転フラップ式案内表示機)や名古屋城模型があったが、今は細長い金色の時計が立っている。その両側(南北)はJR名古屋高島屋の出入り口になっており、東側にもJR高島屋の2Fやタワーズ上層階エレベーターへつながるエスカレーターがあることから、「高島屋エスカレーター前」とも呼ばれる。一時期、受付スタッフを置くブースが存在した。
エスカレーター裏側には座り込む若者が目立つ。 太閤通口側(西側)の待ち合わせスポット。JR名古屋駅の2つの新幹線改札口の間に置かれたモニュメント風のセイコー社製の銀色の時計を中心とした広場を指す。
これは名古屋駅前からささしまライブ地区にかけての歩行者動線の増強を目的としたものであり、地下通路案・デッキ案・歩道拡幅案の3案から決定された。これに先がけ、2011年度に笹島交差点と下広井町交差点の横断歩道などの拡幅を進め、その後地下通路の整備(行政主体)と笹島交差点西側の南北横断用施設の整備(民間主体)を段階的に進めていく予定である。なお、南北横断用施設は名鉄レジャックと旧名鉄百貨店ヤング館の敷地を結ぶものと見られる。なおこの計画内容は、2011年6月1日付の読売新聞においても報道され、笹島交差点-下広井町交差点間の地下通路の着工時期を2013年度、完成時期を2016年度とすることも明らかになった。総工費は数十億円で、通路の両端にはテナントを入れて地下街とする予定である。また同紙によると、名鉄・近鉄両社は百貨店の地下通路(約300メートル)を再整備する方針も打ち出しているとのことである。同じく2011年6月1日付の読売新聞では、2010年に日本通運やNTTなど5社と地元住民らで構成される「名駅南地区まちづくり研究会」が発足したと伝えている。
同研究会は開発業者に計画策定を委託しており、2011年度中にも基本計画をまとめる予定である。研究会の参加企業からは、「一等地の駅前には手が出ない地元企業などを受け入れる」「都市型マンションと入居者向けの商業・医療施設を造る」「大学や国際交流拠点を持つささしま地区と連動した文化・芸術・商業・研究施設の建設」などが提案されている。当初、東京と京都を結ぶ鉄道幹線ルートは、海側を走る列車は敵の艦砲射撃の標的になると予想され、海運が発達していることなどから海側の東海道ルートは回避され、山側の中山道経由で建設されることになったが、中山道ルートの建設は困難と判断され、東京 - 名古屋間は東海道に並行して鉄道を敷設することになった。開業当初は置かれた地から「笹島停車場」とも呼ばれた。当時は、相対式ホーム2面2線と駅舎があるだけの小さな駅であった。なお、駅が開業した後の名古屋の人の動きは早く、開業した年の10月には駅前に旅館が競い合って建設を始めていた。
1892年(明治25年)には駅を現在の笹島交差点付近から現在地へ北へ200mほど移転させた。その後、1899年(明治32年)には関西鉄道(関西本線を建設)、1900年(明治33年)には中央西線(現在の中央本線)が乗り入れ、巨大ターミナルになった。また、1889年(明治22年)には日本の鉄道総延長1,000マイル (1,609km) 達成記念、1906年(明治39年)には5,000マイル (8,046km) 達成記念の祝賀行事がそれぞれ名古屋で開かれた。1937年(昭和12年)には高架化工事が竣工し、駅舎が地上5階(一部6階)・地下1階の鉄筋コンクリート製の堂々たる建物に改められた。この駅舎は、セントラルタワーズの建設工事が始まる1993年(平成5年)10月まで使用された。2005年の内閣府の調査では、名古屋駅は放置自転車が3194台と、全国最多だった。そのため、名古屋市は有料駐輪スペースを増加させるなどの、対策を行っている。2008年5月1日から、それまで無料であった名古屋駅周辺の自転車駐輪場がいっせいに有料化された。将来は中央リニア新幹線の名古屋駅が出来る。
JR東海は、将来の関西圏への伸延まで大多数の乗客が行う既存新幹線との相互乗り換えに配慮し名古屋駅新幹線ホーム直下の大深度に新駅を建設した場合に乗り換えに掛かる移動時間が3分から9分であると試算報告し、既存の名古屋駅を拡張する計画である。名古屋駅の略称である名駅は、名古屋市中村区、西区の町名ともなっており、名古屋地方で名駅と言えば、名古屋駅周辺の地域を指すことも多い。名古屋市中村区と西区に置かれている。中村区名駅は1丁目から5丁目まであり、西区は1丁目から3丁目までとなっている。なお中村区と西区とで同じ町名の地は隣接しており、一方の区の続きのようになっている。ちなみに、名古屋駅の住所は中村区名駅1丁目と西区名駅1丁目に跨って存在している(ただし、駅ビル(セントラルタワーズ)など駅建築施設の大半は中村区側に存在しており、西区が住所になる部分は駅構内のホーム下り側(岐阜方面)半分のみである)。名駅周辺は、栄と並ぶ名古屋市の繁華街である。
広義の「名駅」地域には、椿町・太閤・則武・丸の内などその周辺界隈も含まれる。地元では名駅とは普通、駅の東側(桜通り口側)のみを指し、西側(太閤口側)は「駅西」「駅裏」などと呼ばれることが多い(ただし桜通口側には目立つほどの性風俗店群は存在しないため、いわゆる性風俗雑誌に載っている「名駅」はもっぱら太閤口側のことを指す)。このほかに中村区には「名駅」を冠する住所として名駅南が1丁目から5丁目まで存在する。桜通口側(東側)の待ち合わせスポット。タワーズ1階中央コンコースのエスカレーター前に立つ時計とその周辺エリアのこと。かつて旧駅ビル時代は大時計と発着列車案内(反転フラップ式案内表示機)や名古屋城模型があったが、今は細長い金色の時計が立っている。その両側(南北)はJR名古屋高島屋の出入り口になっており、東側にもJR高島屋の2Fやタワーズ上層階エレベーターへつながるエスカレーターがあることから、「高島屋エスカレーター前」とも呼ばれる。一時期、受付スタッフを置くブースが存在した。
エスカレーター裏側には座り込む若者が目立つ。 太閤通口側(西側)の待ち合わせスポット。JR名古屋駅の2つの新幹線改札口の間に置かれたモニュメント風のセイコー社製の銀色の時計を中心とした広場を指す。
2011年5月8日日曜日
名古屋市営地下鉄では
最も多い利用客であり、東山線のみで利用客は11万人を超えている。東山線は当駅と伏見駅の間が最も混雑率が高い区間となっており(桜通線は隣の国際センター駅と丸の内駅間がそれにあたる)、桜通線が開業するまでは混雑率が250%に至ったこともあった。1999年(平成11年)に完成したJR東海名古屋駅の駅ビル「JRセントラルタワーズ」は54階建てで、245mの高さを誇り、完成からの数年間は「世界一背の高い駅ビル」としてギネスブックに登録されていた。また、現在に至るまで、名古屋のランドマークとして人気スポットになっている。当駅は、複数の業者が激しい競争を繰り広げている駅弁激戦区である。また、リニューアルも激しく、新製品で登場しても半年後には消滅する例も珍しくない。かつては幕の内や寿司弁当が人気であったが、近年は「みそかつ」「名古屋コーチン」「ひつまぶし」など名古屋独自の食文化をストレートに弁当化したものが人気である。旧来から名古屋の玄関口で都心の一つであり、各種バスと地下鉄・近鉄・名鉄やJR間の乗り換え客などで人通りが多く商業施設も多い。
高島屋・三省堂書店・東急ハンズなどを商業テナントの核とするJRセントラルタワーズの完成(2000年)は、駅前再開発の大成功を収めた。これが呼び水となり2006年には旧豊田ビル・毎日ビルの跡地にトヨタ自動車・毎日新聞社・東和不動産の共同ビル「豊田・毎日ビルディング (ミッドランドスクエア)」が建設され、2007年にはトヨタ自動車・中部電力・名古屋鉄道などを中心とした牛島市街地再開発組合により、名駅地区の北側に位置する変電所及びバス車庫の跡地に市内でオフィス面積の最も大きい名古屋ルーセントタワーが建設された。 また、名鉄百貨店などに近接する旧三井ビルディング南館・東館跡地には、専門学校を主体とする超高層ビルモード学園スパイラルタワーズが完成(2008年)するなど若者の街としても更なる発展を遂げた。さらに2009年には名古屋市交通局旧那古野営業所跡地においてオフィスビルと分譲マンションの複合再開発が行われ名駅地区では初となる東京建物と丸紅による超高層マンション・ブリリアタワー名古屋グランスイートが完成した。
未曾有の不景気真っ只中の完成であったが、最上階の一部を除いてほぼ売約済みとなるなど注目を集めた。2008年3月、東和不動産を中心に三菱地所・三井不動産・郵便局会社・名鉄・近畿日本鉄道など多数の企業で構成される「名古屋駅地区街づくり協議会」が設立された。これは名古屋駅の拠点性を生かし、名古屋駅前の将来性について幅広い観点から検討するもので検討の対象となる地域は名古屋駅の東側が中心となっている。2006年公示地価の商業地上昇率では桜通口を含む「名古屋市中村区名駅」が1・2位他トップ10の内6つ(他4つ中2つは中区栄)を占め、栄地区に圧倒的な差をつけた。桜通口や広小路口周辺にある主な大型商業施設はジェイアール名古屋高島屋や東急ハンズ名古屋店などが入るJRセントラルタワーズを筆頭に、近鉄パッセ (K'ntetsu Pass'e)・名鉄百貨店本店(本館・メンズ館(旧MELSA)・ヤング館(旧SEVEN))・ミッドランドスクエア商業棟・名鉄レジャックなどがある。
また市バスターミナルの他、日本最古の多層型で市内最大のバスターミナル「名鉄バスセンター」などもある。 地下には広大な地下街が延々と広がり、サンロードやメイチカ・テルミナ・ユニモール・ミヤコ地下街と複雑に形成されている。太閤通口側には地下街「エスカ」がある。駅北西には大手予備校・学習塾が多数進出し学生街や若者街として発展している。2000年以降、ビックカメラやソフマップの進出、丸の内地区からの大洋薬品本社の移転新築などによりさらに活気が出てきている。付近にはアニメイト・メロンブックス・らしんばんなどのアニメショップや同人ショップが林立しオタク街としての一面も持つ。ここで東海ラジオの番組『松原・坂口の土曜はど?よ!?』のコーナー中継が行われていた時期があった。また、名古屋地区を発着する会員制ツアーバスやジェイアール東海バスのバスターミナルの発着光景を見ることができる。駅前広場は各種テレビ番組の名古屋駅前でのロケで桜通口以上によく使用されている。
桜通口や広小路口側に比べると開発が大幅に遅れていることから、ビックカメラや予備校街から少し入ると昔ながらの商店が数多く残っており、気軽に名古屋の下町が体験できる。花街として栄えた中村大門やアジアシネマ中心の映画館シネマスコーレなども徒歩圏内である。2011年現在、名古屋駅の東側一帯では新たな再開発計画が進行している。まずJR東海や日本郵政グループが主体となり、松坂屋名古屋駅店(2010年8月閉店)やホテルアソシア名古屋ターミナルなどが入る名古屋ターミナルビルを地上46階・高さ220mの超高層ビルに、名古屋中央郵便局名古屋駅前分室を地上41階・高さ200mの超高層ビルにそれぞれ建て替える方針を発表している[10]。両者のビルを合わせた述べ床面積は約45万平方メートルとなり、JRセントラルタワーズ(約41万平方メートル)を上回る規模となる。また名古屋鉄道は2008年9月、本社ビルの建替えを検討することを明らかにし翌年6月26日に行われた株主総会で名古屋駅前の再開発について名鉄百貨店や名鉄グランドホテルの方向性など、本社建替えも含め今後3年間(2009 - 2011年度の中期経営計画内)で検討することを表明した。
その後2010年12月6日の中日新聞の取材に対し、山本社長は名鉄レジャック一帯も含めた再開発になるとの見通しを示し、工事箇所を複数のブロックに分けた上で段階的に整備していくと答えた。さらに2011年2月3日に行われた記者会見において、自社ビルの建て替えを含めた名古屋駅前地区再開発について2012年にも構想をまとめる考えを示し、他社線との乗り換えの利便性を高めるため近鉄やJR東海、名古屋市などと協議を開始することを発表した。また、ささしまライブ地区の再開発との連携も視野に入れるとしている。さらに日刊工業新聞が2009年1月に報じたところによると、東和不動産は第二豊田ビル(東館・西館)の建替えについて2009年度から計画に着手し、地上20階か地上40階建て以上の超高層ビルに建替える方針を示した。当初、同ビルの完成時期を2019 - 2020年ごろを目処としていたが、2011年8月2日に東和不動産が発表したところでは、2013年度の着工、完成時期を2016年とする計画に改められている。
同時に、規模を地上25階・地下4階・高さ115mとすることも発表され、地上5階までを商業施設、地上6階~17階をオフィス、地上18階~25階をホテルとするフロア構成の全容も明らかになった。また、現ビルの東館・西館に挟まれた市道は、建替えに伴い西館敷地内の西端に付け替えられ、新たな市道沿いには公開空地や緑地帯・駐輪場が設けられる予定である。
高島屋・三省堂書店・東急ハンズなどを商業テナントの核とするJRセントラルタワーズの完成(2000年)は、駅前再開発の大成功を収めた。これが呼び水となり2006年には旧豊田ビル・毎日ビルの跡地にトヨタ自動車・毎日新聞社・東和不動産の共同ビル「豊田・毎日ビルディング (ミッドランドスクエア)」が建設され、2007年にはトヨタ自動車・中部電力・名古屋鉄道などを中心とした牛島市街地再開発組合により、名駅地区の北側に位置する変電所及びバス車庫の跡地に市内でオフィス面積の最も大きい名古屋ルーセントタワーが建設された。 また、名鉄百貨店などに近接する旧三井ビルディング南館・東館跡地には、専門学校を主体とする超高層ビルモード学園スパイラルタワーズが完成(2008年)するなど若者の街としても更なる発展を遂げた。さらに2009年には名古屋市交通局旧那古野営業所跡地においてオフィスビルと分譲マンションの複合再開発が行われ名駅地区では初となる東京建物と丸紅による超高層マンション・ブリリアタワー名古屋グランスイートが完成した。
未曾有の不景気真っ只中の完成であったが、最上階の一部を除いてほぼ売約済みとなるなど注目を集めた。2008年3月、東和不動産を中心に三菱地所・三井不動産・郵便局会社・名鉄・近畿日本鉄道など多数の企業で構成される「名古屋駅地区街づくり協議会」が設立された。これは名古屋駅の拠点性を生かし、名古屋駅前の将来性について幅広い観点から検討するもので検討の対象となる地域は名古屋駅の東側が中心となっている。2006年公示地価の商業地上昇率では桜通口を含む「名古屋市中村区名駅」が1・2位他トップ10の内6つ(他4つ中2つは中区栄)を占め、栄地区に圧倒的な差をつけた。桜通口や広小路口周辺にある主な大型商業施設はジェイアール名古屋高島屋や東急ハンズ名古屋店などが入るJRセントラルタワーズを筆頭に、近鉄パッセ (K'ntetsu Pass'e)・名鉄百貨店本店(本館・メンズ館(旧MELSA)・ヤング館(旧SEVEN))・ミッドランドスクエア商業棟・名鉄レジャックなどがある。
また市バスターミナルの他、日本最古の多層型で市内最大のバスターミナル「名鉄バスセンター」などもある。 地下には広大な地下街が延々と広がり、サンロードやメイチカ・テルミナ・ユニモール・ミヤコ地下街と複雑に形成されている。太閤通口側には地下街「エスカ」がある。駅北西には大手予備校・学習塾が多数進出し学生街や若者街として発展している。2000年以降、ビックカメラやソフマップの進出、丸の内地区からの大洋薬品本社の移転新築などによりさらに活気が出てきている。付近にはアニメイト・メロンブックス・らしんばんなどのアニメショップや同人ショップが林立しオタク街としての一面も持つ。ここで東海ラジオの番組『松原・坂口の土曜はど?よ!?』のコーナー中継が行われていた時期があった。また、名古屋地区を発着する会員制ツアーバスやジェイアール東海バスのバスターミナルの発着光景を見ることができる。駅前広場は各種テレビ番組の名古屋駅前でのロケで桜通口以上によく使用されている。
桜通口や広小路口側に比べると開発が大幅に遅れていることから、ビックカメラや予備校街から少し入ると昔ながらの商店が数多く残っており、気軽に名古屋の下町が体験できる。花街として栄えた中村大門やアジアシネマ中心の映画館シネマスコーレなども徒歩圏内である。2011年現在、名古屋駅の東側一帯では新たな再開発計画が進行している。まずJR東海や日本郵政グループが主体となり、松坂屋名古屋駅店(2010年8月閉店)やホテルアソシア名古屋ターミナルなどが入る名古屋ターミナルビルを地上46階・高さ220mの超高層ビルに、名古屋中央郵便局名古屋駅前分室を地上41階・高さ200mの超高層ビルにそれぞれ建て替える方針を発表している[10]。両者のビルを合わせた述べ床面積は約45万平方メートルとなり、JRセントラルタワーズ(約41万平方メートル)を上回る規模となる。また名古屋鉄道は2008年9月、本社ビルの建替えを検討することを明らかにし翌年6月26日に行われた株主総会で名古屋駅前の再開発について名鉄百貨店や名鉄グランドホテルの方向性など、本社建替えも含め今後3年間(2009 - 2011年度の中期経営計画内)で検討することを表明した。
その後2010年12月6日の中日新聞の取材に対し、山本社長は名鉄レジャック一帯も含めた再開発になるとの見通しを示し、工事箇所を複数のブロックに分けた上で段階的に整備していくと答えた。さらに2011年2月3日に行われた記者会見において、自社ビルの建て替えを含めた名古屋駅前地区再開発について2012年にも構想をまとめる考えを示し、他社線との乗り換えの利便性を高めるため近鉄やJR東海、名古屋市などと協議を開始することを発表した。また、ささしまライブ地区の再開発との連携も視野に入れるとしている。さらに日刊工業新聞が2009年1月に報じたところによると、東和不動産は第二豊田ビル(東館・西館)の建替えについて2009年度から計画に着手し、地上20階か地上40階建て以上の超高層ビルに建替える方針を示した。当初、同ビルの完成時期を2019 - 2020年ごろを目処としていたが、2011年8月2日に東和不動産が発表したところでは、2013年度の着工、完成時期を2016年とする計画に改められている。
同時に、規模を地上25階・地下4階・高さ115mとすることも発表され、地上5階までを商業施設、地上6階~17階をオフィス、地上18階~25階をホテルとするフロア構成の全容も明らかになった。また、現ビルの東館・西館に挟まれた市道は、建替えに伴い西館敷地内の西端に付け替えられ、新たな市道沿いには公開空地や緑地帯・駐輪場が設けられる予定である。
2011年5月7日土曜日
尾張藩第2代藩主・徳川光友より
織田信秀の居城・古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて建立された。尾張の6つの寺が、この地に布教の拠点を置くことを本山に願い出たが、当初は他の寺から猛反対を受けた。文化2年(1805年)、五代惣兵衛が本堂を再建した。惣兵衛はこのためだけに真宗へ改宗し、さらに本山である東本願寺に多額の寄進をしたことにより、使用する材木の調達を一手に請負うことに成功。文政6年(1823年)、新たな本堂が竣工した。この年、本山の御影堂と阿弥陀堂が焼失。緊急の措置として、別院(当時の呼称は「名古屋御坊」)の古御堂が東本願寺の本堂とされた。明治期には、愛知県庁や愛知県議会の機能が同地に設置された。明治7年(1874年)5月1日から6月10日にかけて開催された、「名古屋博覧会」の会場としても使用された。同博覧会では名古屋城の金鯱や地元の名産が展示され、好評につき、当初5月31日までの予定であった会期は10日延長された。昭和20年(1945年)3月12日、名古屋大空襲の被害を受け、本堂をはじめ、ほとんどの施設が焼失した。
現在の本堂は、戦後再建されたものである。名古屋駅は、愛知県名古屋市中村区名駅にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・名古屋臨海高速鉄道・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の駅である。中部地方最大の都市・名古屋市の中心駅であり、JRは東海道新幹線の全列車が停車、在来線は当駅を中心に各方面へ特急列車が発着し、中部地方の広範囲輸送の一端を担っている。また都市間輸送でも、各路線に周辺都市に向けた快速列車が頻繁に運行されている。市内各所を結ぶあおなみ線、名古屋市営地下鉄も乗り入れており、近接する近鉄名古屋駅、名鉄名古屋駅と合わせ中部地方最大のターミナル駅である。第2回中部の駅百選に選定されている。略称の名駅(めいえき)は地名となっている。再開発によって1999年に竣工した駅ビル「JRセントラルタワーズ」は世界一売り場面積の広い駅ビルとしてギネス・ワールド・レコーズに申請(2010年現在)されており、新たな名古屋のランドマークとなり、利便性を生かして多大な集客力を誇っている。
このビルを発端として駅周辺は数多くの再開発が進められ、複数の超高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並みとなっている。現在、名古屋ターミナルビルや名古屋中央郵便局名古屋駅前分室でも再開発計画が進行中である。JR東海の駅は、東海道新幹線と、在来線の東海道本線・中央本線・関西本線が乗り入れている。このうち在来線における当駅の所属線は東海道本線である。中央本線は当駅が終点であり、関西本線は当駅が起点となっている。このほか、東海道本線経由で武豊線に直通する列車や、高山本線・北陸本線・紀勢本線方面へ直通する特急列車も当駅を発着している。また当駅は特定都区市内制度における「名古屋市内」エリアの中心駅に設定されている。西名古屋港線は当駅が起点であるが、2004年に旅客化される前はJR東海が第一種鉄道事業者免許を持つ東海道本線支線であった。なおJR貨物は旅客化前から現在に至るまで同線の第二種鉄道事業者免許を持つ。
また名古屋駅は、以下の私鉄2社の駅と近接しており、乗り換えが可能となっている。在来線・新幹線ともに高架ホームとなっている。新幹線は構内西側の2面4線の島式ホームを使用する。外側の14・17番線が本線、内側の15・16番線が副本線であり、内側から大阪方の名古屋車両所へ繋がる支線が分岐している。全列車が停車するため、東京駅などと同様に防音壁が無く、安全柵が設置されている。「のぞみ」や「ひかり」の大半は14・17番線に停車する。なお、一部列車は相互発着で入線・出発させている。在来線は6面12線の島式ホームを使用する。9番線はホームのない中線である。なお、東海道線は2・6番線、中央線は7・8番線、関西線は11・12番線が本線となっている。また、あおなみ線のホームが13番線と東海道新幹線のホームの間に並ぶ。JRセントラルタワーズ建設前は、現在の1・2番線ホームはなく、その代わりに0・1番線ホームがあった。現在は駐車場の入り口になり、1番線からその姿がうかがえる。
また、JRセントラルタワーズ建設によりステンドグラスの時計も撤去された。駅長・駅員配置駅(直営駅)である。管理駅として、尾頭橋駅・枇杷島駅の2駅を管理している。JRの特定都区市内制度における「名古屋市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となる。また在来線において、JR東海のTOICA、JR東日本のSuica、JR西日本のICOCAが利用できる。あおなみ線の名古屋駅はJR在来線の最も西側、稲沢線の本線上に置かれている。島式ホーム1面2線を有する高架駅で、可動式ホーム柵が設置されている。またJRとの連絡改札口も設けられている。改札口はJR太閤通南口付近のみに設置され、名鉄、近鉄や駅東側へはJR構内を通り抜ける必要がある。終日駅員が配置され、隣のささしまライブ駅を巡回駅として管理している。トランパスカードの裏面の印字は「西名」である。桜通線のホームはJR名古屋駅中央コンコースの真下に東西に延びている。1面2線の島式ホームで、有効長は8両分ある。
但し停車する列車は全て5両編成であるため、他の駅と同様に電車が停車しない部分は柵で遮断されている。また停車する部分に関しても安全のため可動式ホーム柵が設置されている。JRやあおなみ線との乗り換えは比較的容易。太閤通口からも利用しやすい。ESCAとも直通している。桜通線の駅には平成23年度のホームドア設置以降順次「駅アクセントカラー」が設定されており、当駅のアクセントカラーはセピアである。東山線のホームは駅東側の名駅地下街(メイチカ)の真下を南北に延びる1面2線の島式ホームである。亀島寄りに片渡り線がある。乗客を円滑にさばくために12両分の有効長を持ち、南側半分を藤が丘方面行きホーム(6両分)、北側半分を高畑方面行きホーム(6両分)としている。停車しない部分は柵や壁で遮断されている。近鉄名古屋駅や名鉄名古屋駅とは平行しており乗り換えが楽だが、JR・あおなみ線との乗り換えは桜通口の外の入り口を通行する必要があるため桜通線より時間がかかる。
また、太閤通口側からは利用できない。改札口は桜通線側と東山線側に3ヶ所ずつある。地下鉄の駅名サインがある出入口は桜通線側に3ヶ所、東山線側に10ヶ所あるが、地下街につながっているため実際はこれよりかなり多い。桜通線と東山線との乗り換えは連絡通路を経由することで可能だが、今池駅より距離が長く時間がかかる。またこの連絡通路にはエレベーターがないため、車椅子の利用で両線を乗り換える場合は一度エレベーターで地上まで上がってからJRのコンコースを通り、改めて別のエレベーターで下りる形になる。
現在の本堂は、戦後再建されたものである。名古屋駅は、愛知県名古屋市中村区名駅にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)・名古屋臨海高速鉄道・名古屋市交通局(名古屋市営地下鉄)の駅である。中部地方最大の都市・名古屋市の中心駅であり、JRは東海道新幹線の全列車が停車、在来線は当駅を中心に各方面へ特急列車が発着し、中部地方の広範囲輸送の一端を担っている。また都市間輸送でも、各路線に周辺都市に向けた快速列車が頻繁に運行されている。市内各所を結ぶあおなみ線、名古屋市営地下鉄も乗り入れており、近接する近鉄名古屋駅、名鉄名古屋駅と合わせ中部地方最大のターミナル駅である。第2回中部の駅百選に選定されている。略称の名駅(めいえき)は地名となっている。再開発によって1999年に竣工した駅ビル「JRセントラルタワーズ」は世界一売り場面積の広い駅ビルとしてギネス・ワールド・レコーズに申請(2010年現在)されており、新たな名古屋のランドマークとなり、利便性を生かして多大な集客力を誇っている。
このビルを発端として駅周辺は数多くの再開発が進められ、複数の超高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並みとなっている。現在、名古屋ターミナルビルや名古屋中央郵便局名古屋駅前分室でも再開発計画が進行中である。JR東海の駅は、東海道新幹線と、在来線の東海道本線・中央本線・関西本線が乗り入れている。このうち在来線における当駅の所属線は東海道本線である。中央本線は当駅が終点であり、関西本線は当駅が起点となっている。このほか、東海道本線経由で武豊線に直通する列車や、高山本線・北陸本線・紀勢本線方面へ直通する特急列車も当駅を発着している。また当駅は特定都区市内制度における「名古屋市内」エリアの中心駅に設定されている。西名古屋港線は当駅が起点であるが、2004年に旅客化される前はJR東海が第一種鉄道事業者免許を持つ東海道本線支線であった。なおJR貨物は旅客化前から現在に至るまで同線の第二種鉄道事業者免許を持つ。
また名古屋駅は、以下の私鉄2社の駅と近接しており、乗り換えが可能となっている。在来線・新幹線ともに高架ホームとなっている。新幹線は構内西側の2面4線の島式ホームを使用する。外側の14・17番線が本線、内側の15・16番線が副本線であり、内側から大阪方の名古屋車両所へ繋がる支線が分岐している。全列車が停車するため、東京駅などと同様に防音壁が無く、安全柵が設置されている。「のぞみ」や「ひかり」の大半は14・17番線に停車する。なお、一部列車は相互発着で入線・出発させている。在来線は6面12線の島式ホームを使用する。9番線はホームのない中線である。なお、東海道線は2・6番線、中央線は7・8番線、関西線は11・12番線が本線となっている。また、あおなみ線のホームが13番線と東海道新幹線のホームの間に並ぶ。JRセントラルタワーズ建設前は、現在の1・2番線ホームはなく、その代わりに0・1番線ホームがあった。現在は駐車場の入り口になり、1番線からその姿がうかがえる。
また、JRセントラルタワーズ建設によりステンドグラスの時計も撤去された。駅長・駅員配置駅(直営駅)である。管理駅として、尾頭橋駅・枇杷島駅の2駅を管理している。JRの特定都区市内制度における「名古屋市内」の駅であり、運賃計算の中心駅となる。また在来線において、JR東海のTOICA、JR東日本のSuica、JR西日本のICOCAが利用できる。あおなみ線の名古屋駅はJR在来線の最も西側、稲沢線の本線上に置かれている。島式ホーム1面2線を有する高架駅で、可動式ホーム柵が設置されている。またJRとの連絡改札口も設けられている。改札口はJR太閤通南口付近のみに設置され、名鉄、近鉄や駅東側へはJR構内を通り抜ける必要がある。終日駅員が配置され、隣のささしまライブ駅を巡回駅として管理している。トランパスカードの裏面の印字は「西名」である。桜通線のホームはJR名古屋駅中央コンコースの真下に東西に延びている。1面2線の島式ホームで、有効長は8両分ある。
但し停車する列車は全て5両編成であるため、他の駅と同様に電車が停車しない部分は柵で遮断されている。また停車する部分に関しても安全のため可動式ホーム柵が設置されている。JRやあおなみ線との乗り換えは比較的容易。太閤通口からも利用しやすい。ESCAとも直通している。桜通線の駅には平成23年度のホームドア設置以降順次「駅アクセントカラー」が設定されており、当駅のアクセントカラーはセピアである。東山線のホームは駅東側の名駅地下街(メイチカ)の真下を南北に延びる1面2線の島式ホームである。亀島寄りに片渡り線がある。乗客を円滑にさばくために12両分の有効長を持ち、南側半分を藤が丘方面行きホーム(6両分)、北側半分を高畑方面行きホーム(6両分)としている。停車しない部分は柵や壁で遮断されている。近鉄名古屋駅や名鉄名古屋駅とは平行しており乗り換えが楽だが、JR・あおなみ線との乗り換えは桜通口の外の入り口を通行する必要があるため桜通線より時間がかかる。
また、太閤通口側からは利用できない。改札口は桜通線側と東山線側に3ヶ所ずつある。地下鉄の駅名サインがある出入口は桜通線側に3ヶ所、東山線側に10ヶ所あるが、地下街につながっているため実際はこれよりかなり多い。桜通線と東山線との乗り換えは連絡通路を経由することで可能だが、今池駅より距離が長く時間がかかる。またこの連絡通路にはエレベーターがないため、車椅子の利用で両線を乗り換える場合は一度エレベーターで地上まで上がってからJRのコンコースを通り、改めて別のエレベーターで下りる形になる。
2011年5月6日金曜日
西丸の建築物は
すべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみは1910年(明治43年)に旧江戸城蓮池門を移築して正門と改称したが、焼夷弾で焼失し、戦後再建された。現在の正門がこれである。なお、現在の西丸には名古屋城管理事務所と天然記念物カヤの木がある。御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、当初は郭の外側すべてに多聞櫓を建造する計画であったが、途中で計画が変更され、櫓以外の郭周囲は土塀を巡らせただけで、元和偃武により工事が中断し、そのまま江戸時代を過ごした。また御深井丸には、「乃木倉庫」と呼ばれる明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫が現在でも残っている。名古屋市内に現存する最古の煉瓦造といわれる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。乃木希典が名古屋鎮台に在任中に建てられたので、いつしかこの名が付いたといわれる。1997年(平成9年)に国の登録有形文化財に登録された。その他に御深井丸の東には、天守再建工事の際に取り除かれた天守の礎石が置かれている。
空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。三の丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地にあった。郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。門は5つあり、西に巾下御門(埋門)、南面西側に御園御門(みそのごもん)、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二の丸横に清水御門である。それぞれに桝形を持っていた。ただし、門付近は石垣だったが、そのほかは土居となっていた。三の丸内の建造物はすべて取り壊されているが、春日井市上条町の泰岳寺と一宮市の妙興寺に清水御門を移築したものが残っている。名古屋東照宮、三の丸天王社は三の丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、天王社は那古野神社となっている。明治以降は官庁街として発展した。また三の丸外の名古屋城外堀の一部は、明治後期から昭和後期にかけて、名鉄瀬戸線の線路敷として利用された。現在、三の丸には愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎などが建てられ、愛知県行政の中枢的な地域になっている。
1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品された。金鯱が大天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月である。徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失した。 残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還された。
名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在の金鯱は復元されたもので、復興天守建造の時、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により製造された。一対に使用された金の重量は88kgである。金鯱の鱗の盗難事件は何度も発生している。江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。明治以降では3回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。3回目の事件のときは下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。スタンプメーカーのシヤチハタもこれを由来にする。1936年から1940年まで存在したプロ野球球団に名古屋金鯱軍があり、現在ではJリーグクラブに名古屋グランパスエイトがある。また名古屋大学のアメリカンフットボール部のニックネームも「グランパス」を名乗る。名古屋市交通局のマスコットキャラクター「ハッチー」も金鯱をモデルにしている。
1986年?2000年には名古屋港の遊覧船でも金鯱をかたどった船が使われており、「金鯱」(きんこ)と呼ばれていた。「金鯱」は2種類存在した。中京競馬場では金鯱賞が開催される。名古屋城三の丸を囲む外堀の底には、明治末期から昭和後期にかけて電車が走っており、お堀(濠)電車とも呼ばれた。大曽根と瀬戸との間を結んでいた瀬戸電気鉄道が、名古屋城西側の堀川の水運を利用した瀬戸物輸送の便と名古屋市内への乗り入れを図り、1911年(明治44年)5月23日に土居下 - 大曽根間、10月1日に堀川 - 土居下間を開業させた。土居下駅は三の丸北東部の外堀にかかった位置にあり、そこから外堀の中を通って南下し、南東隅部で右折して西進し、南西隅部の堀川駅まで複線線路が敷かれていた。城の堀の中に線路を敷く例は、東京の中央本線四ツ谷駅付近などでも見られるが、ここでは堀の原形を保ったまま線路が敷かれているのが特徴である。堀の原形を保ったことから、堀の角部で半径60メートルの急曲線(通称、サンチャインカーブ)があったり、本町駅構内の複線分の幅員がない部分に、日本鉄道史を見渡しても採用例の極端に少ない単複線(ガントレット、狭窄軌道)という構造を用いたりしていた。
瀬戸電気鉄道は、1939年(昭和14年)に名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となったが、戦後、瀬戸線の栄地区への乗り入れが決定し、工事が着工された1976年(昭和51年)2月15日をもって堀川 - 土居下間が休廃止された。現在、ごく一部を除いて鉄道施設は全て撤去されており、地表からはほとんど確認できないが、わずかにガントレットポイント跡をまたぐ本町橋の煉瓦アーチ、旧大津町駅駅舎跡へ降りる階段(立入禁止)などを観察することができる。毎年、7月末から8月初めにかけて行われる夏祭りである。城内で、薪能や楽市・楽座などが催される。1984年(昭和59年)から毎年東海ラジオで公開生放送されていた時期もあったが、現在は同局で放送されている番組の公開収録が行われている。また東海ラジオでは同じく夏のビッグイベントだった全国選抜名古屋大花火が2005年から中止になってからは、宵祭りが夏の同局におけるビッグイベントとなっている。2005年(平成17年)は新世紀・名古屋城博と愛・地球博開催のため中止。
なお、2004年までは財団法人2005年日本国際博覧会協会が連携協力として参加していた時期がある。2006年(平成18年)からは名古屋城宵まつりとして開催される。真宗大谷派名古屋別院(しんしゅうおおたにはなごやべついん)は、愛知県名古屋市中区にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。開基は、東本願寺第十六代法主 一如。通称は、「東別院」、「東御坊」、「名古屋東別院」、「東本願寺名古屋別院」。
空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。三の丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地にあった。郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。門は5つあり、西に巾下御門(埋門)、南面西側に御園御門(みそのごもん)、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二の丸横に清水御門である。それぞれに桝形を持っていた。ただし、門付近は石垣だったが、そのほかは土居となっていた。三の丸内の建造物はすべて取り壊されているが、春日井市上条町の泰岳寺と一宮市の妙興寺に清水御門を移築したものが残っている。名古屋東照宮、三の丸天王社は三の丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、天王社は那古野神社となっている。明治以降は官庁街として発展した。また三の丸外の名古屋城外堀の一部は、明治後期から昭和後期にかけて、名鉄瀬戸線の線路敷として利用された。現在、三の丸には愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎などが建てられ、愛知県行政の中枢的な地域になっている。
1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品された。金鯱が大天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月である。徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失した。 残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還された。
名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在の金鯱は復元されたもので、復興天守建造の時、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により製造された。一対に使用された金の重量は88kgである。金鯱の鱗の盗難事件は何度も発生している。江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。明治以降では3回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。3回目の事件のときは下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。スタンプメーカーのシヤチハタもこれを由来にする。1936年から1940年まで存在したプロ野球球団に名古屋金鯱軍があり、現在ではJリーグクラブに名古屋グランパスエイトがある。また名古屋大学のアメリカンフットボール部のニックネームも「グランパス」を名乗る。名古屋市交通局のマスコットキャラクター「ハッチー」も金鯱をモデルにしている。
1986年?2000年には名古屋港の遊覧船でも金鯱をかたどった船が使われており、「金鯱」(きんこ)と呼ばれていた。「金鯱」は2種類存在した。中京競馬場では金鯱賞が開催される。名古屋城三の丸を囲む外堀の底には、明治末期から昭和後期にかけて電車が走っており、お堀(濠)電車とも呼ばれた。大曽根と瀬戸との間を結んでいた瀬戸電気鉄道が、名古屋城西側の堀川の水運を利用した瀬戸物輸送の便と名古屋市内への乗り入れを図り、1911年(明治44年)5月23日に土居下 - 大曽根間、10月1日に堀川 - 土居下間を開業させた。土居下駅は三の丸北東部の外堀にかかった位置にあり、そこから外堀の中を通って南下し、南東隅部で右折して西進し、南西隅部の堀川駅まで複線線路が敷かれていた。城の堀の中に線路を敷く例は、東京の中央本線四ツ谷駅付近などでも見られるが、ここでは堀の原形を保ったまま線路が敷かれているのが特徴である。堀の原形を保ったことから、堀の角部で半径60メートルの急曲線(通称、サンチャインカーブ)があったり、本町駅構内の複線分の幅員がない部分に、日本鉄道史を見渡しても採用例の極端に少ない単複線(ガントレット、狭窄軌道)という構造を用いたりしていた。
瀬戸電気鉄道は、1939年(昭和14年)に名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となったが、戦後、瀬戸線の栄地区への乗り入れが決定し、工事が着工された1976年(昭和51年)2月15日をもって堀川 - 土居下間が休廃止された。現在、ごく一部を除いて鉄道施設は全て撤去されており、地表からはほとんど確認できないが、わずかにガントレットポイント跡をまたぐ本町橋の煉瓦アーチ、旧大津町駅駅舎跡へ降りる階段(立入禁止)などを観察することができる。毎年、7月末から8月初めにかけて行われる夏祭りである。城内で、薪能や楽市・楽座などが催される。1984年(昭和59年)から毎年東海ラジオで公開生放送されていた時期もあったが、現在は同局で放送されている番組の公開収録が行われている。また東海ラジオでは同じく夏のビッグイベントだった全国選抜名古屋大花火が2005年から中止になってからは、宵祭りが夏の同局におけるビッグイベントとなっている。2005年(平成17年)は新世紀・名古屋城博と愛・地球博開催のため中止。
なお、2004年までは財団法人2005年日本国際博覧会協会が連携協力として参加していた時期がある。2006年(平成18年)からは名古屋城宵まつりとして開催される。真宗大谷派名古屋別院(しんしゅうおおたにはなごやべついん)は、愛知県名古屋市中区にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院。真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。開基は、東本願寺第十六代法主 一如。通称は、「東別院」、「東御坊」、「名古屋東別院」、「東本願寺名古屋別院」。
2011年5月5日木曜日
明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は
新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定。このとき、天守は本丸御殿とともに保存された。1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。離宮時代の名残、本丸隅櫓に残された菊花紋瓦保存された本丸は、1891年(明治24年)に、濃尾大地震により、本丸の西南隅櫓や多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。1893年(明治26年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城を市民に一般公開し、また建造物や障壁画は国宝(旧国宝)に指定された。
1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして警察に発覚し1月28日に逮捕された。太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失した。戦後、三の丸を除く城址は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が保存された。また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三の丸を含めて比較的よく残されている。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、実現の道のりは遠く、バブル崩壊などの資金難で一時は中止の危機に瀕したこともあった。市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が1994年(平成6年)5月14日に設立され、2002年(平成14年)から再建基金の寄付を募った。2007年(平成19年)に、文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、2008年(平成20年)に再建工事が着工された。2010年(平成22年)における第一期工事のうちの玄関部分の復元が計画されている。またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められる予定である。2022年(平成34年)の完成を目指して総工費150億円が投じられて復元される。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(44番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。2009年(平成21年)名古屋市の河村たかし市長は8月10日の定例記者会見で、名古屋城天守閣を現在のコンクリート造から木造に建て直すことを本格的に検討すると発表した。
計画を考えるプロジェクトチームを8月24日に発足させ、2010年度予算案に調査費を盛り込む考え。名古屋城の城地は、濃尾平野に連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置する。この場所は、北に濃尾平野を一望のもとに監視できる軍事的な要地にあたる。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送とともに、名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御された。
南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。ただし、外郭の一部である木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。 多聞櫓は長屋状の櫓で、奥行は5メートル強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。
多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での現存例はない。1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元とし、起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日のこととなった。再建大天守は5層7階、内部にはエレベータが設置されている。外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二の丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。
馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。また、二の丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。西丸は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三の丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。
1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売ろうとして警察に発覚し1月28日に逮捕された。太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失した。戦後、三の丸を除く城址は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が保存された。また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三の丸を含めて比較的よく残されている。天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。
天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、実現の道のりは遠く、バブル崩壊などの資金難で一時は中止の危機に瀕したこともあった。市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が1994年(平成6年)5月14日に設立され、2002年(平成14年)から再建基金の寄付を募った。2007年(平成19年)に、文化庁より本丸御殿の復元工事が許可され、2008年(平成20年)に再建工事が着工された。2010年(平成22年)における第一期工事のうちの玄関部分の復元が計画されている。またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められる予定である。2022年(平成34年)の完成を目指して総工費150億円が投じられて復元される。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(44番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。2009年(平成21年)名古屋市の河村たかし市長は8月10日の定例記者会見で、名古屋城天守閣を現在のコンクリート造から木造に建て直すことを本格的に検討すると発表した。
計画を考えるプロジェクトチームを8月24日に発足させ、2010年度予算案に調査費を盛り込む考え。名古屋城の城地は、濃尾平野に連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置する。この場所は、北に濃尾平野を一望のもとに監視できる軍事的な要地にあたる。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、その崖下は低湿地となっており、天然の防御ラインを形成した。また、伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送とともに、名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。西と北は水堀(現存)および低湿地によって防御された。
南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。ただし、外郭の一部である木曾川には御囲堤という堤防が造られることで、西の防備は整備されている。隅櫓はすべて2層3階建てで、その規模は他城の天守におよぶ。また、外観意匠もそれぞれ相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。 多聞櫓は長屋状の櫓で、奥行は5メートル強あり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。
多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊されたため名古屋城での現存例はない。1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて間組により天守の再建が開始された。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮し、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる外観復元とし、起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日のこととなった。再建大天守は5層7階、内部にはエレベータが設置されている。外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓とも意匠が異なる。現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二の丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。
馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。また、二の丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。西丸は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三の丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。
2011年5月4日水曜日
スーパー中枢港湾である伊勢湾の港のひとつとして指定された。
1997年、開港90周年を記念して日本丸と海王丸が同時に寄港。この2船は、さらに2001年の名古屋港管理組合創立50周年、および2007年の開港100周年を記念して寄港。2011年にも2船同時の寄港を果たしている。また、2007年、開港100周年を迎えて11月3日より11日まで開港祭ウィークが開かれ、11月24日には青雲丸と大成丸が同時寄港した。旧2号地三埠頭、かつての物流の中心。付近は1992年完成の名古屋港水族館など娯楽・商業施設が揃った観光地ともなっており、地元ではこの界隈を指して名古屋港(名港)と呼ぶ場合もある。ガーデン埠頭は、鯱の外観の遊覧船「金鯱」で知られるようになった名古屋港遊覧船の乗り場もある。その他、ガーデン埠頭の1号岸壁から4号岸壁は、日本丸・海王丸を初めとするイベント誘致船や飛鳥II・ぱしふぃっくびいなすなどの大型旅客船が停泊する。1985年からは南極観測船・ふじが永久係留されている。2009年1月7日にふじの係留設備に損傷が見つかり同船の一般公開を休止したが、24日に復旧し公開を再開した。
海の日(ハッピーマンデーが施行されてからは、それに準ずる前今後週の土曜日または日曜日)に行われる「海の日名古屋みなと祭」、クリスマスの時期に行われる「スターライト・レビュー」もある。1946年に第1回が開催された「名古屋みなと祭り花火大会」もここが会場である。1989年の世界デザイン博覧会、2007年の名古屋港開港100周年記念祭には中心地となってイベントを開催している。また2005年の新世紀・名古屋城世紀博の開催中には愛知万博の開会式典で展示された金鯱(の雌1体)をガーデン埠頭内の臨海緑園で一般公開を行なっている。1990年完成。周辺が現在の物流の中心地であり、ふ頭中心部には名古屋市国際展示場(ポートメッセなごや)がある。2011年3月14日にJR東海の運営するリニア・鉄道館がオープンした。船止めのボラードを擬人化し、今後の名古屋港の発展と安全を願う明るくほのぼのとした笑顔を表現している。名前「ポー」はポート(港)を意味し、「タン」は語呂がよく、親しみやすさを表現している。
名古屋港が誰からも愛され、さらに発展することを願って命名された。2006年11月15日に名古屋市港区で特別住民票登録をし、マスコットキャラクターとしては初の名古屋市民となった。「美しいさんご礁に囲まれた名もない南の不思議の島」が出身地。生年月日は1907年11月10日。10年に一度1歳ずつ年を取るという設定で、2007年11月10日の開港100周年記念日で10歳となった。住所は名古屋市港区入船一丁目8番21号。2011年名古屋市長選挙は、2011年1月23日に告示され、2月6日に執行された、愛知県名古屋市の市長選挙である。県都・名古屋市では、市長を務めていた河村たかしが、公約に掲げていた「市民税の恒久減税」を議会に阻まれたとして議会解散のリコール運動に出た一方で、自らも市民の信を問うとして職を辞したことに伴う選挙で、第17回統一地方選挙の前哨戦としても注目を集めた。河村がこの選挙に立候補すると表明していたこともあり、前職1人と新人3人が挑む構図となった。
投票率を上げるため、名古屋市選挙管理委員会は倉科カナと吉田秀彦を投票啓発ポスターのモデルに起用した。倉科が筆を持つ構図で、ポスター上部に毛筆のタッチで投票日を書いて目立たせている。名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
海の日(ハッピーマンデーが施行されてからは、それに準ずる前今後週の土曜日または日曜日)に行われる「海の日名古屋みなと祭」、クリスマスの時期に行われる「スターライト・レビュー」もある。1946年に第1回が開催された「名古屋みなと祭り花火大会」もここが会場である。1989年の世界デザイン博覧会、2007年の名古屋港開港100周年記念祭には中心地となってイベントを開催している。また2005年の新世紀・名古屋城世紀博の開催中には愛知万博の開会式典で展示された金鯱(の雌1体)をガーデン埠頭内の臨海緑園で一般公開を行なっている。1990年完成。周辺が現在の物流の中心地であり、ふ頭中心部には名古屋市国際展示場(ポートメッセなごや)がある。2011年3月14日にJR東海の運営するリニア・鉄道館がオープンした。船止めのボラードを擬人化し、今後の名古屋港の発展と安全を願う明るくほのぼのとした笑顔を表現している。名前「ポー」はポート(港)を意味し、「タン」は語呂がよく、親しみやすさを表現している。
名古屋港が誰からも愛され、さらに発展することを願って命名された。2006年11月15日に名古屋市港区で特別住民票登録をし、マスコットキャラクターとしては初の名古屋市民となった。「美しいさんご礁に囲まれた名もない南の不思議の島」が出身地。生年月日は1907年11月10日。10年に一度1歳ずつ年を取るという設定で、2007年11月10日の開港100周年記念日で10歳となった。住所は名古屋市港区入船一丁目8番21号。2011年名古屋市長選挙は、2011年1月23日に告示され、2月6日に執行された、愛知県名古屋市の市長選挙である。県都・名古屋市では、市長を務めていた河村たかしが、公約に掲げていた「市民税の恒久減税」を議会に阻まれたとして議会解散のリコール運動に出た一方で、自らも市民の信を問うとして職を辞したことに伴う選挙で、第17回統一地方選挙の前哨戦としても注目を集めた。河村がこの選挙に立候補すると表明していたこともあり、前職1人と新人3人が挑む構図となった。
投票率を上げるため、名古屋市選挙管理委員会は倉科カナと吉田秀彦を投票啓発ポスターのモデルに起用した。倉科が筆を持つ構図で、ポスター上部に毛筆のタッチで投票日を書いて目立たせている。名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
2011年5月3日火曜日
代表的なターミナル駅としては
名古屋駅・名鉄名古屋駅・近鉄名古屋駅・栄駅・金山駅がある。市内の鉄道利用については、市内主要地域の大部分をカバーする地下鉄が圧倒的である。その他の鉄道3社は名古屋駅等市内中心部主要駅と郊外都市との連絡が中心で、市内相互輸送については名鉄本線名古屋~神宮前、JR中央線名古屋~大曽根を除き、首都圏に比べ日常的な利用はさほど多いとはいえない。また、自動車通勤の抑制を期待して整備された西名古屋港線(あおなみ線)だが、運営する第三セクター名古屋臨海高速鉄道の当初の利用予測を大きく下回っており、苦しい経営が続いている。
バス利用についても市バスが路線密度の高さから最も多くの利用者を集めているが、自家用車の攻勢や地下鉄との路線重複等もあり、大部分の路線が赤字である。このため名古屋市交通局は、ここ数年バス路線の再編成を短いサイクルで行っており、利用者数の少ない路線の廃止、本数削減などの措置が実施されている。名鉄バス、三重交通バスについては、一部地域での運営にとどまっているが、基幹バスや星ヶ丘駅発着路線など、利用率の高いものもある。
代表的なバスターミナルとして名古屋駅地区の名鉄バスセンター・名古屋バスターミナル、栄地区のオアシス21バスターミナルがあり、多くの中長距離路線バスが乗り入れている。この他地下鉄の主要駅を中心にバスターミナルが設置され、周辺区において地下鉄へのフィーダー輸送の役目を果たしている。バスの乗車方法は、市バスが前乗り後降り先払いであるのに対し、名鉄バス・三重交通バスは後乗り前降り後払い方式である。
(市バスでも、名鉄と共同運行する基幹2系統やゆとりーとラインでは後乗り前降り後払いの方式を採っている。)運賃は、市バスがゆとりーとラインの高架区間を除き均一制。名鉄バス・三重交通バス並びにゆとりーとラインは整理券による区間制である。(ただし、市バスの高速1系統の名古屋高速道路通過区間は10円加算、名鉄バスと三重交通バスの市バス競合区間は市バスと同額の均一制である。)
名古屋飛行場(県営名古屋空港)は、旧陸軍名古屋基地跡に自衛隊の基地と共用の空港としてオープンし、2005年2月17日の中部国際空港(常滑市)開港まで名古屋の空の玄関として機能していたが、中部国際空港に主たる機能を移転したあとは県営空港となり、現在ではフジドリームエアラインズが国内四箇所(青森・花巻・福岡・熊本)に就航するのみとなっている。名古屋市の北郊の豊山町・小牧市・名古屋市北区にまたがる場所にある。
鉄道のアクセスがなく、バスと高速道路に頼る。なお、中部国際空港は名鉄名古屋駅と名鉄常滑線・空港線直通特急ミュースカイにより最速28分で結ばれている。名古屋港は宮の渡しで有名だった熱田港が周辺海域の干拓の進展や、浅い水深で近代港湾としての機能を果せないとの観点から、熱田前新田の沖合いを埋立・浚渫して築港された近代港湾である。第二次大戦時に三菱重工業名古屋航空機製作所が港の東側一帯に広大な敷地を構えて発達し、戦後はこの跡地への他工場進出や、地元資本と富士製鐵の合弁の東海製鐵(新日本製鐵(新日鉄)名古屋製鐵所の前身)が進出するなどして発展し、現在は貿易額日本一を誇るまでになった。
伊勢湾に面しており、西から弥富市、飛島村、名古屋市港区、東海市、知多市と五つの市町村にまたがる。周辺施設名には「名港」(めいこう)と略して冠する場合が多い。東名高速道路の名古屋インターチェンジは名古屋市名東区にあり、市中心部(栄付近)からは名古屋高速と名古屋第二環状自動車道を利用すれば15分程度、一般道(県道名古屋長久手線など)では渋滞の無い状態で30分?45分程度となっている。
1969年-1991年、名古屋市主催のミス・コンテスト「ミス名古屋コンテスト」は23回開催された。受賞者は毎年、姉妹都市のロサンゼルス、シドニーに親善大使として訪問した。才色兼備の未婚女性から代表者を選ぶコンテストであり、1次審査は書類選考、2次審査は面接オーディション、最終の3次審査は公開審査により英語によるスピーチなども行われ語学力も試された。名古屋港は、愛知県名古屋市、東海市、知多市、弥富市、海部郡飛島村にまたがる港湾である。
地元では名港の略称でも呼ばれる。日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつ。日本の主要な貿易港の一つであり、平成20年度までのデータによれば、その貿易額と貨物取扱量は日本最大を維持し続けている。 第二次産業の集積した中部経済圏の窓口として、輸出入における黒字率が極めて高いのが特徴であり、日本の全港湾の貿易黒字の約6割を名古屋港単港で担っている。港湾法上の国際戦略港湾、港則法上の特定港、また四日市港と共に政令上の指定港湾(旧スーパー中枢港湾)に指定されている。
2010年現在、横浜港に次ぐ日本最大級の貿易港である。ただし、神戸港や横浜港、東京港などがそれぞれ単独の行政区域内で構成されるのに対し、名古屋港は複数の市に跨る。愛知県内にトヨタ自動車などの輸出企業を多く擁し、自動車関連の輸出が半数以上を占める貿易港である。輸出入総額、外貿貨物取扱量ともに日本最高クラス(2009年)、外貿コンテナ取扱個数国内第3位。港湾管理者は愛知県、名古屋市が設立する特別地方公共団体(一部事務組合)の名古屋港管理組合。管理組合管理者は愛知県知事と名古屋市長が2年交代で就く。
2011年4月現在の管理者は名古屋市長。2011年4月現在の専任副管理者は、国土交通省OB。他の2名の副管理者は愛知県副知事と名古屋市副市長。1896年に工事が始まり、愛知県技師奥田助七郎らが建設に尽力。1907年10月に熱田港が名古屋港に名称変更、翌月に開港した。1946年に国際港、1951年に特定重要港湾に指定された。1959年に伊勢湾台風の直撃により大きな被害を受けた。
バス利用についても市バスが路線密度の高さから最も多くの利用者を集めているが、自家用車の攻勢や地下鉄との路線重複等もあり、大部分の路線が赤字である。このため名古屋市交通局は、ここ数年バス路線の再編成を短いサイクルで行っており、利用者数の少ない路線の廃止、本数削減などの措置が実施されている。名鉄バス、三重交通バスについては、一部地域での運営にとどまっているが、基幹バスや星ヶ丘駅発着路線など、利用率の高いものもある。
代表的なバスターミナルとして名古屋駅地区の名鉄バスセンター・名古屋バスターミナル、栄地区のオアシス21バスターミナルがあり、多くの中長距離路線バスが乗り入れている。この他地下鉄の主要駅を中心にバスターミナルが設置され、周辺区において地下鉄へのフィーダー輸送の役目を果たしている。バスの乗車方法は、市バスが前乗り後降り先払いであるのに対し、名鉄バス・三重交通バスは後乗り前降り後払い方式である。
(市バスでも、名鉄と共同運行する基幹2系統やゆとりーとラインでは後乗り前降り後払いの方式を採っている。)運賃は、市バスがゆとりーとラインの高架区間を除き均一制。名鉄バス・三重交通バス並びにゆとりーとラインは整理券による区間制である。(ただし、市バスの高速1系統の名古屋高速道路通過区間は10円加算、名鉄バスと三重交通バスの市バス競合区間は市バスと同額の均一制である。)
名古屋飛行場(県営名古屋空港)は、旧陸軍名古屋基地跡に自衛隊の基地と共用の空港としてオープンし、2005年2月17日の中部国際空港(常滑市)開港まで名古屋の空の玄関として機能していたが、中部国際空港に主たる機能を移転したあとは県営空港となり、現在ではフジドリームエアラインズが国内四箇所(青森・花巻・福岡・熊本)に就航するのみとなっている。名古屋市の北郊の豊山町・小牧市・名古屋市北区にまたがる場所にある。
鉄道のアクセスがなく、バスと高速道路に頼る。なお、中部国際空港は名鉄名古屋駅と名鉄常滑線・空港線直通特急ミュースカイにより最速28分で結ばれている。名古屋港は宮の渡しで有名だった熱田港が周辺海域の干拓の進展や、浅い水深で近代港湾としての機能を果せないとの観点から、熱田前新田の沖合いを埋立・浚渫して築港された近代港湾である。第二次大戦時に三菱重工業名古屋航空機製作所が港の東側一帯に広大な敷地を構えて発達し、戦後はこの跡地への他工場進出や、地元資本と富士製鐵の合弁の東海製鐵(新日本製鐵(新日鉄)名古屋製鐵所の前身)が進出するなどして発展し、現在は貿易額日本一を誇るまでになった。
伊勢湾に面しており、西から弥富市、飛島村、名古屋市港区、東海市、知多市と五つの市町村にまたがる。周辺施設名には「名港」(めいこう)と略して冠する場合が多い。東名高速道路の名古屋インターチェンジは名古屋市名東区にあり、市中心部(栄付近)からは名古屋高速と名古屋第二環状自動車道を利用すれば15分程度、一般道(県道名古屋長久手線など)では渋滞の無い状態で30分?45分程度となっている。
1969年-1991年、名古屋市主催のミス・コンテスト「ミス名古屋コンテスト」は23回開催された。受賞者は毎年、姉妹都市のロサンゼルス、シドニーに親善大使として訪問した。才色兼備の未婚女性から代表者を選ぶコンテストであり、1次審査は書類選考、2次審査は面接オーディション、最終の3次審査は公開審査により英語によるスピーチなども行われ語学力も試された。名古屋港は、愛知県名古屋市、東海市、知多市、弥富市、海部郡飛島村にまたがる港湾である。
地元では名港の略称でも呼ばれる。日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつ。日本の主要な貿易港の一つであり、平成20年度までのデータによれば、その貿易額と貨物取扱量は日本最大を維持し続けている。 第二次産業の集積した中部経済圏の窓口として、輸出入における黒字率が極めて高いのが特徴であり、日本の全港湾の貿易黒字の約6割を名古屋港単港で担っている。港湾法上の国際戦略港湾、港則法上の特定港、また四日市港と共に政令上の指定港湾(旧スーパー中枢港湾)に指定されている。
2010年現在、横浜港に次ぐ日本最大級の貿易港である。ただし、神戸港や横浜港、東京港などがそれぞれ単独の行政区域内で構成されるのに対し、名古屋港は複数の市に跨る。愛知県内にトヨタ自動車などの輸出企業を多く擁し、自動車関連の輸出が半数以上を占める貿易港である。輸出入総額、外貿貨物取扱量ともに日本最高クラス(2009年)、外貿コンテナ取扱個数国内第3位。港湾管理者は愛知県、名古屋市が設立する特別地方公共団体(一部事務組合)の名古屋港管理組合。管理組合管理者は愛知県知事と名古屋市長が2年交代で就く。
2011年4月現在の管理者は名古屋市長。2011年4月現在の専任副管理者は、国土交通省OB。他の2名の副管理者は愛知県副知事と名古屋市副市長。1896年に工事が始まり、愛知県技師奥田助七郎らが建設に尽力。1907年10月に熱田港が名古屋港に名称変更、翌月に開港した。1946年に国際港、1951年に特定重要港湾に指定された。1959年に伊勢湾台風の直撃により大きな被害を受けた。
2011年5月2日月曜日
名古屋市は
愛知県西部の政令指定都市で、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。横浜市・大阪市に次ぐ全国第3位の人口を有し、東京と京都の間に位置することから、中京とも呼ばれ、三大都市圏の一つである中京圏(名古屋圏)の中枢都市となっている。また、政令指定都市に指定されている。中部地方の政治・経済・文化の中枢である。名駅と栄が、広域集客可能な繁華街となっており、市の中心部となる栄と名駅一帯は地下街が発達している。それに伴い、地下鉄網も充実している。なお、地元住民は名古屋駅の事を名駅と呼び、これは名古屋駅周辺の行政地名(中村区・西区名駅一?五丁目、中村区名駅南一?五丁目)にもなっている。市章は、現在の名古屋市を拠点に尾張を統治した親藩、徳川御三家筆頭格の尾張徳川家の合印に由来する「八」である。愛知県の南西部、濃尾平野に広がる。県内では、豊田市・新城市・岡崎市に次いで4番目に広い面積を有する市である。
市全体を概観すると、市西南部の港区は海抜0mの臨海工業地帯で日本屈指の国際貿易港である名古屋港を有し、港区の西部は市最大の穀倉地帯が広がる。市の南部の南区は港区同様に工業地帯が広がるが、北部の駆上は隣接する瑞穂区の新瑞橋駅の恩恵を受け商業が発達している。市の北部の北区、北西部の西区・南西部の中川区は住宅地が広がる。市の北東部の守山区・千種区、東部の名東区・天白区、南東部の緑区は海抜50m - 100mの丘陵住宅街で、千種区の東山公園・平和公園、守山区の小幡緑地、名東区の猪高緑地オアシスの森・牧野ヶ池緑地、緑区の大高緑地などの森林を残した大規模な緑地公園も点在する。市の中核を担う中区・東区・中村区・熱田区・昭和区・瑞穂区は海抜10mから15mの平野で、市役所・愛知県庁を有する中区の丸の内・錦・栄・大須・金山、東区の東桜・泉・白壁、中村区の名駅、熱田区の神宮、昭和区・天白区の八事、千種区の今池、星ヶ丘は名古屋市内でも特に商業が発達している地区で、集客力のある商業施設やオフィスビルが連なる。
自然環境では市内に1571の昆虫が生息し、これは県下の26%にあたる。市内東部ではリス、タヌキ、イエコウモリ、コウベモグラ、ノウサギ、キツネの生息が確認されている。野鳥類では現在約240種が生息している。名古屋市の姉妹友好提携都市は5国の5都市と結ばれており、様々な分野での交流が年間を通して両都市間で活発に行われている。また各都市からの記念品が名古屋市中区の名古屋市公館地下1階にある国際交流展示室や久屋大通公園で一般公開されている。姉妹都市は近年提携したトリノ市を含め、オリンピック開催都市と結ばれているのが特徴である。また、1986年10月24日、名古屋市の野外教育施設が設置されている中津川市と稲武町(現・豊田市)の3市町で、文化・教育・体育・経済・人物等の交流を通じ、友好親善と相互理解を深めることを目的とした、「ふれあい協定」を締結。協定に基づく交流事業として、現在も様々なイベントが催されている。
名古屋市はトヨタを初めとする自動車の町、企業城下町として有名であるが、大量の交通は卓越した道路網が支えている。碁盤の目のように片側3~5車線の道路が走っており、余裕ある道路設計により名古屋高速道路を中心部に通すことも容易であった。100メートル道路と呼ばれる幅員100メートルの広い道路(久屋大通・若宮大通)は名古屋の自慢にもなっている。なお、一本の道路幅が100メートルなのではなく、上り車線と下り車線および車線間にある20メートルほどの中央分離帯を加えて100メートルと呼んでいる。途中の中央分離帯は公園のようになっており安全に休むことができるので、歩行者は100メートルを一気に渡り切る必要もプレッシャーもない。日本一とも言われる広い道路網は、原点は広小路で見られるような江戸時代にあった「万治の大火」後の防火帯としての役割にあるが、後に来る車社会を見越し戦災復興都市計画に基づいて更に整備されたものである。
この都市計画は大変大胆なもので、焦土化した市街地に幅員の広い道路を何本も東西南北に通し、市内各所にあった墓地をすべて1ヶ所に集約するというものであった。この計画は、当時の交通事情などを考えればあまりに突飛なもので批判の声も大きかった。戦後日本の急速な経済成長により、大胆な都市計画は見事に結実した。この計画の責任者は田淵寿郎技監で、その功績により1966年「名誉市民」の称号が贈られている。市内の中心部には環状に名古屋高速が走り、名古屋第二環状自動車道が環状に市域を取り巻く。市東郊外の名東区に東名高速道路の名古屋インターチェンジを持ち、南部の名古屋港エリアには近年伊勢湾岸自動車道が建設された。その他、郊外にも名神高速道路・中央自動車道・東海北陸自動車道・知多半島道路などが接続しており、一般道を含め道路インフラの整備が大変進んだ地域とも言える。有料高速道路以外にも名四国道、西知多産業道路、名岐バイパスのような複数の高規格バイパスが存在する。
名古屋市(中川区)の中部運輸局愛知運輸支局から交付されるナンバープレートには、「名古屋」の地名が表示される。これを俗に、「名古屋ナンバー」という。1965年3月1日に「愛(知)ナンバー」から「三河ナンバー」が分離されるのを機に変更された。さらに1979年8月6日には「尾張小牧ナンバー」が分離された。2007年1月現在、「名古屋ナンバー」が交付されている地域は、名古屋市、大府市、東海市、知多市、半田市、常滑市、知多郡、津島市、愛西市、弥富市、海部郡、豊明市、日進市、愛知郡である。ちなみに「名古屋ナンバー」の登録台数は全国で1番多い。鉄道の名古屋駅は名古屋の旧城下町の西の笹島と呼ばれていた湿地を埋め立てた場所に位置し、現在では名古屋市の都心のひとつとなっている。JR東海の名古屋駅の他に名鉄名古屋駅、近鉄名古屋駅、地下鉄・あおなみ線の名古屋駅があるが、それらをまとめて「名古屋駅」、あるいは略されて「名駅」(めいえき)(めーえき)と呼ぶことがある。
名駅という呼称は、周辺の正式な地名に採用されている。地下鉄と市バスを経営する名古屋市交通局を中心に、鉄道はJR東海、名古屋鉄道、近畿日本鉄道の主要3社が乗り入れている。バス路線は市バスの他、名鉄グループの名鉄バス、近鉄グループの三重交通などが周辺区を中心に路線を運営している。
市全体を概観すると、市西南部の港区は海抜0mの臨海工業地帯で日本屈指の国際貿易港である名古屋港を有し、港区の西部は市最大の穀倉地帯が広がる。市の南部の南区は港区同様に工業地帯が広がるが、北部の駆上は隣接する瑞穂区の新瑞橋駅の恩恵を受け商業が発達している。市の北部の北区、北西部の西区・南西部の中川区は住宅地が広がる。市の北東部の守山区・千種区、東部の名東区・天白区、南東部の緑区は海抜50m - 100mの丘陵住宅街で、千種区の東山公園・平和公園、守山区の小幡緑地、名東区の猪高緑地オアシスの森・牧野ヶ池緑地、緑区の大高緑地などの森林を残した大規模な緑地公園も点在する。市の中核を担う中区・東区・中村区・熱田区・昭和区・瑞穂区は海抜10mから15mの平野で、市役所・愛知県庁を有する中区の丸の内・錦・栄・大須・金山、東区の東桜・泉・白壁、中村区の名駅、熱田区の神宮、昭和区・天白区の八事、千種区の今池、星ヶ丘は名古屋市内でも特に商業が発達している地区で、集客力のある商業施設やオフィスビルが連なる。
自然環境では市内に1571の昆虫が生息し、これは県下の26%にあたる。市内東部ではリス、タヌキ、イエコウモリ、コウベモグラ、ノウサギ、キツネの生息が確認されている。野鳥類では現在約240種が生息している。名古屋市の姉妹友好提携都市は5国の5都市と結ばれており、様々な分野での交流が年間を通して両都市間で活発に行われている。また各都市からの記念品が名古屋市中区の名古屋市公館地下1階にある国際交流展示室や久屋大通公園で一般公開されている。姉妹都市は近年提携したトリノ市を含め、オリンピック開催都市と結ばれているのが特徴である。また、1986年10月24日、名古屋市の野外教育施設が設置されている中津川市と稲武町(現・豊田市)の3市町で、文化・教育・体育・経済・人物等の交流を通じ、友好親善と相互理解を深めることを目的とした、「ふれあい協定」を締結。協定に基づく交流事業として、現在も様々なイベントが催されている。
名古屋市はトヨタを初めとする自動車の町、企業城下町として有名であるが、大量の交通は卓越した道路網が支えている。碁盤の目のように片側3~5車線の道路が走っており、余裕ある道路設計により名古屋高速道路を中心部に通すことも容易であった。100メートル道路と呼ばれる幅員100メートルの広い道路(久屋大通・若宮大通)は名古屋の自慢にもなっている。なお、一本の道路幅が100メートルなのではなく、上り車線と下り車線および車線間にある20メートルほどの中央分離帯を加えて100メートルと呼んでいる。途中の中央分離帯は公園のようになっており安全に休むことができるので、歩行者は100メートルを一気に渡り切る必要もプレッシャーもない。日本一とも言われる広い道路網は、原点は広小路で見られるような江戸時代にあった「万治の大火」後の防火帯としての役割にあるが、後に来る車社会を見越し戦災復興都市計画に基づいて更に整備されたものである。
この都市計画は大変大胆なもので、焦土化した市街地に幅員の広い道路を何本も東西南北に通し、市内各所にあった墓地をすべて1ヶ所に集約するというものであった。この計画は、当時の交通事情などを考えればあまりに突飛なもので批判の声も大きかった。戦後日本の急速な経済成長により、大胆な都市計画は見事に結実した。この計画の責任者は田淵寿郎技監で、その功績により1966年「名誉市民」の称号が贈られている。市内の中心部には環状に名古屋高速が走り、名古屋第二環状自動車道が環状に市域を取り巻く。市東郊外の名東区に東名高速道路の名古屋インターチェンジを持ち、南部の名古屋港エリアには近年伊勢湾岸自動車道が建設された。その他、郊外にも名神高速道路・中央自動車道・東海北陸自動車道・知多半島道路などが接続しており、一般道を含め道路インフラの整備が大変進んだ地域とも言える。有料高速道路以外にも名四国道、西知多産業道路、名岐バイパスのような複数の高規格バイパスが存在する。
名古屋市(中川区)の中部運輸局愛知運輸支局から交付されるナンバープレートには、「名古屋」の地名が表示される。これを俗に、「名古屋ナンバー」という。1965年3月1日に「愛(知)ナンバー」から「三河ナンバー」が分離されるのを機に変更された。さらに1979年8月6日には「尾張小牧ナンバー」が分離された。2007年1月現在、「名古屋ナンバー」が交付されている地域は、名古屋市、大府市、東海市、知多市、半田市、常滑市、知多郡、津島市、愛西市、弥富市、海部郡、豊明市、日進市、愛知郡である。ちなみに「名古屋ナンバー」の登録台数は全国で1番多い。鉄道の名古屋駅は名古屋の旧城下町の西の笹島と呼ばれていた湿地を埋め立てた場所に位置し、現在では名古屋市の都心のひとつとなっている。JR東海の名古屋駅の他に名鉄名古屋駅、近鉄名古屋駅、地下鉄・あおなみ線の名古屋駅があるが、それらをまとめて「名古屋駅」、あるいは略されて「名駅」(めいえき)(めーえき)と呼ぶことがある。
名駅という呼称は、周辺の正式な地名に採用されている。地下鉄と市バスを経営する名古屋市交通局を中心に、鉄道はJR東海、名古屋鉄道、近畿日本鉄道の主要3社が乗り入れている。バス路線は市バスの他、名鉄グループの名鉄バス、近鉄グループの三重交通などが周辺区を中心に路線を運営している。
2011年5月1日日曜日
08滋賀プロ元年へをスローガンに掲げ
滋賀県を本拠とするプロバスケットボール球団設立を目指し、「滋賀bj会」が発足する。6月29日にbjリーグに加盟申請を行う。7月からチーム名を一般公募し、8月10日に「滋賀レイクスターズ」と発表する。8月8日に運営法人を設立。9月6日 2008-09シーズンからのbjリーグ参戦が決定する。11月21日、マスコットキャラクターの“アイディア”を公募開始。漫画家の長田悠幸作の「マグニー」を採用する。2008年4月、チームロゴと日本代表アシスタントコーチも務めたロバート・ピアスの初代ヘッドコーチ就任及び、滋賀県立体育館等をホームアリーナとすることを発表する。5月18日、レイクスチアリーダーズのオーディションを開催。5月26日にドラフト会議で4人の選手と、他チームの選手を3人指名する。7月7日、選手の入団発表を行う。滋賀県立体育館で行われた開幕カードの大阪エヴェッサ戦、続く高松ファイブアローズ戦で全敗し、開幕4連敗を喫する。11月1日に九州共立大学で行われたライジング福岡戦で初勝利を挙げる。
そこから一進一退が続き、ライジング福岡とプレイオフ圏内の4位を争うが、最後は最下位の大分ヒートデビルズ戦に負け越し、福岡との直接対決に連勝できず、最終節の沖縄戦の初戦を落とした段階で5位が確定する。福岡とは4勝4敗の五分、東カンファレンスの新潟と富山に連勝し他の4チームとも1勝1敗。沖縄、大阪、高松の上位に4勝20敗と大きく負け越したこと、最下位でシーズン8勝の大分に5勝を献上したことが響いた。株式会社滋賀銀行は、滋賀県大津市に本店を置く地方銀行。滋賀県内に本店を置く金融機関では最大規模。融資は滋賀県内シェア4割を占める。隣の京都府京都市内にも店舗を構え、京都銀行などと競合している。大阪府内にも大阪市、高槻市、枚方市に店舗があるが、高槻市の支店は滋賀県長浜市にある店舗「高月支店」との区別から「阪急高槻支店」として営業している。(枚方市にある唯一の支店も「枚方支店」でなく、所在町名および最寄駅の京阪牧野駅から「牧野支店」となっている。)
滋賀県製薬株式会社は滋賀県甲賀市にある製薬メーカー。大手医薬品企業向け製品の受託生産も行なっている。現在でも滋賀県内各地で風邪薬「スパーク」のホーロー看板が散見される(看板の会社名表記は旧字体・旧社名表記の滋賀縣製薬)。かつては「♪風邪にスパークお早めに」と言うジングルが歌われたテレビコマーシャルも流れていた。KBS滋賀は、株式会社京都放送(KBS京都)の中波放送の支局である滋賀放送局の呼称である。1960年5月25日滋賀県彦根市西今町に開局。現在は演奏所を彦根駅付近の大東町、送信所を琵琶湖湖岸付近にNHK第1放送大津放送局と共同で運営。大津市の京都新聞社滋賀本社内にニューススタジオ、彦根市や長浜市にサテライトスタジオも所在する。本社京都親局からの番組と、独自のローカル番組、及び京都放送局からの番組のCMの差し替え(滋賀局ローカルCM)、京都親局がネットしないNRNの番組(主に滋賀県代表が出場する高等学校野球実況中継)、その他特別番組で編成。
2006年4月からは"滋賀発京阪神へ"というコンセプトで新番組をスタート、滋賀局発で京都放送局、福知山局、舞鶴局へネットする初の帯番組「松井桂三のさんさんわいど」を放送していたが、2007年3月末に僅か1年で終了し、滋賀局にとってはローカルの帯番組放送に戻った(京都親局、福知山局、舞鶴局の後継番組は京都親局のスタジオからの生番組)。しかし、滋賀県庁所在地である大津市など西南部では、京都府久世郡久御山町の親局(1143kHz、20kw)から距離的に近く、出力も大きい為、京都親局を受信するリスナーが多い。また、京都親局、滋賀局との区別を意識していない、あるいは滋賀局の所在を知らないリスナーも多い。舞鶴局と同じ周波数・1215KHzを使っていることから、差し替え放送が実施されている場合、場所によって混信を起こすこともあったりする。 ベリカードを京都親局とは別に発行している。(カードは季節毎の滋賀県内の名所と滋賀局のラジオカーがデザインされたもの)番組表は日本新聞協会加盟で滋賀県において宅配を実施している新聞社各社のうち中日新聞、中日スポーツ、京都新聞各紙滋賀版のみ(京都新聞は京都版にも解説欄に滋賀差し替え分だけ紹介)に掲載されている。
滋賀局も番組表「りすん」を希望者に渡している。なお2005年に創刊した県域紙・みんなの滋賀新聞では、滋賀局ではなく京都親局の番組表を掲載していたが、同年9月をもって廃刊(無期限休刊)となった。2009年4月の改編で、長年続いた滋賀放送局ローカルの番組『さんさんわいど滋賀wish』が終了し、独自差し替えの番組が一旦終了した。同年3月30日からは、京都親局と共同制作の午後ワイド番組『音楽わいど ラジオ・ビュー』を開始した(月・水曜日は滋賀放送局制作)。演奏所のあるビルには京都新聞社や中日新聞社広告部門も同居している。
そこから一進一退が続き、ライジング福岡とプレイオフ圏内の4位を争うが、最後は最下位の大分ヒートデビルズ戦に負け越し、福岡との直接対決に連勝できず、最終節の沖縄戦の初戦を落とした段階で5位が確定する。福岡とは4勝4敗の五分、東カンファレンスの新潟と富山に連勝し他の4チームとも1勝1敗。沖縄、大阪、高松の上位に4勝20敗と大きく負け越したこと、最下位でシーズン8勝の大分に5勝を献上したことが響いた。株式会社滋賀銀行は、滋賀県大津市に本店を置く地方銀行。滋賀県内に本店を置く金融機関では最大規模。融資は滋賀県内シェア4割を占める。隣の京都府京都市内にも店舗を構え、京都銀行などと競合している。大阪府内にも大阪市、高槻市、枚方市に店舗があるが、高槻市の支店は滋賀県長浜市にある店舗「高月支店」との区別から「阪急高槻支店」として営業している。(枚方市にある唯一の支店も「枚方支店」でなく、所在町名および最寄駅の京阪牧野駅から「牧野支店」となっている。)
滋賀県製薬株式会社は滋賀県甲賀市にある製薬メーカー。大手医薬品企業向け製品の受託生産も行なっている。現在でも滋賀県内各地で風邪薬「スパーク」のホーロー看板が散見される(看板の会社名表記は旧字体・旧社名表記の滋賀縣製薬)。かつては「♪風邪にスパークお早めに」と言うジングルが歌われたテレビコマーシャルも流れていた。KBS滋賀は、株式会社京都放送(KBS京都)の中波放送の支局である滋賀放送局の呼称である。1960年5月25日滋賀県彦根市西今町に開局。現在は演奏所を彦根駅付近の大東町、送信所を琵琶湖湖岸付近にNHK第1放送大津放送局と共同で運営。大津市の京都新聞社滋賀本社内にニューススタジオ、彦根市や長浜市にサテライトスタジオも所在する。本社京都親局からの番組と、独自のローカル番組、及び京都放送局からの番組のCMの差し替え(滋賀局ローカルCM)、京都親局がネットしないNRNの番組(主に滋賀県代表が出場する高等学校野球実況中継)、その他特別番組で編成。
2006年4月からは"滋賀発京阪神へ"というコンセプトで新番組をスタート、滋賀局発で京都放送局、福知山局、舞鶴局へネットする初の帯番組「松井桂三のさんさんわいど」を放送していたが、2007年3月末に僅か1年で終了し、滋賀局にとってはローカルの帯番組放送に戻った(京都親局、福知山局、舞鶴局の後継番組は京都親局のスタジオからの生番組)。しかし、滋賀県庁所在地である大津市など西南部では、京都府久世郡久御山町の親局(1143kHz、20kw)から距離的に近く、出力も大きい為、京都親局を受信するリスナーが多い。また、京都親局、滋賀局との区別を意識していない、あるいは滋賀局の所在を知らないリスナーも多い。舞鶴局と同じ周波数・1215KHzを使っていることから、差し替え放送が実施されている場合、場所によって混信を起こすこともあったりする。 ベリカードを京都親局とは別に発行している。(カードは季節毎の滋賀県内の名所と滋賀局のラジオカーがデザインされたもの)番組表は日本新聞協会加盟で滋賀県において宅配を実施している新聞社各社のうち中日新聞、中日スポーツ、京都新聞各紙滋賀版のみ(京都新聞は京都版にも解説欄に滋賀差し替え分だけ紹介)に掲載されている。
滋賀局も番組表「りすん」を希望者に渡している。なお2005年に創刊した県域紙・みんなの滋賀新聞では、滋賀局ではなく京都親局の番組表を掲載していたが、同年9月をもって廃刊(無期限休刊)となった。2009年4月の改編で、長年続いた滋賀放送局ローカルの番組『さんさんわいど滋賀wish』が終了し、独自差し替えの番組が一旦終了した。同年3月30日からは、京都親局と共同制作の午後ワイド番組『音楽わいど ラジオ・ビュー』を開始した(月・水曜日は滋賀放送局制作)。演奏所のあるビルには京都新聞社や中日新聞社広告部門も同居している。
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