2011年3月31日木曜日

岐阜県は

日本の中部地方に位置する県。日本の中央部に位置する内陸県。県庁所在地は岐阜市。ほぼ旧美濃国と旧飛騨国とで構成されているが、境界整備により、一部に旧越前国、旧信濃国、旧尾張国、旧伊勢国も含まれている。内陸県のひとつで、その地形は変化に富んでいる。北部の飛騨地方の大部分は、標高3,000m級の飛騨山脈をはじめとする山岳地帯で、平地は高山盆地などわずかしかない。一方、南部の美濃地方は、愛知県の伊勢湾沿岸から続く濃尾平野が広がり、低地面積が広い。特に南西部の木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)合流域とその支流域には、水郷地帯が広がり、海抜0メートル以下の場所も。この地域には水害から身を守るための輪中と呼ばれる堤防で囲まれた構造あるいはその集落があり、このような岐阜県の地形の特徴を表して、飛山濃水という言葉で表される。岐阜県の河川は6つの水系からなっている。飛騨地方北部は日本海へと注ぐ神通川水系および庄川水系流域。飛騨地方南部は太平洋に注ぐ木曽川水系流域。美濃地方の河川は大部分が太平洋へと流れている。

西濃・岐阜・中濃地方と東濃地方北部は木曽川水系流域。東濃地方南部は、庄内川水系および矢作川水系流域。旧越前国の郡上市白鳥町石徹白地区は日本海へと流れる九頭竜川水系流域となっている。各県との県境は、ほとんどが山地山脈。ただし、愛知県尾張地方との県境の大部分および三重県との県境の一部は、木曽川、長良川、揖斐川などの河川が県境となっている。飛騨地方の大部分と美濃地方の一部は日本海側気候、美濃地方の大部分は太平洋側気候、飛騨地方・美濃地方の各一部は中央高地式気候となっている。県内全域で内陸性気候をあわせ持ち、一部地域は豪雪地帯・特別豪雪地帯でたびたび大雪に見舞われる。冬は乾燥した晴天の日が多く、岐阜県西部では、伊吹おろしという乾燥した冷たい風が吹く。このため体感温度が北日本並みに一気に低下する日もある。強い冬型の気圧配置になると雪雲が、流入し岐阜県西部で局地的な大雪に見舞われることがある。美濃地方は低い山に囲まれているということもあって、夏は暑く冬は寒いうえ、気温の日較差も大きい。

特に東濃の多治見市では、その年の国内最高気温を記録することもある(2007年8月16日、埼玉県熊谷市と並び国内の過去最高気温となる40.9度を記録した)。夏期には内陸性の気候に加え、ヒートアイランド現象、さらに西風が吹いた際には、関西地方の熱風が伊吹山系によりフェーン現象を起こしてさらに気温が上昇するため、高温を記録することが多く、「岐阜が日本で一番暑苦しい」と言う人も多い。飛騨地方は標高も高いこともあり、気温は美濃地方と比べると低いが、高山盆地では夏期に猛暑日を記録することもある。冬期は内陸山間部では気温が低く、特に高山市荘川町六厩(むまや)は、亜寒帯湿潤気候で本州では寒い地域のひとつとも言われており、1981年2月28日には-25.4度を記録するなどマイナス20度以下まで下がる日も多い。「岐阜」の名は織田信長の命名によるとされる。『信長公記』(太田牛一)によると、織田信長が美濃国を攻略した際に、稲葉山の城下の井口を岐阜と改めたと書かれている。

江戸時代中期の尾張藩の記録の『安土創業録』(名古屋市蓬左文庫蔵書、旧蓬左文庫所蔵・尾張徳川家蔵書)、『濃陽志略』(別名・濃州志略、国立公文書館所蔵)にも信長命名とあり、『岐阜志略』(長瀬寛二、明治18年)が『安土創業録』の記述を引用して信長が初めて岐阜と命名したとしている。ただし、岐阜市案内(岐阜市教育会編、大正4年)では、「一説には、古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き、明応永正の頃より旧記に岐阜と見えたれば、信長の命名にあらず」と記載している(ただし、一説および旧記の出典は掲載がなく不明)。「岐阜市史」などによると、『仁岫録』(仁岫宗寿、成立年代不明、原題・当寺創建仁岫大和録、南泉寺(岐阜県山県郡大乗村)蔵、撮影・複本作成1921年、東大史料編纂所)、『梅花無尽蔵』(万里周九による東陽英朝の語録、東大史料編纂所・国立公文書館など所蔵、寶永6年刊・駒澤大学図書館)などに岐阜、岐阜陽、岐陽という語句が書かれている。これらの地名の中から、「岐山」(殷が周の王朝へと移り変わる時に鳳凰が舞い降りた山とされ、周の文王はこの山で立ち上がり、八百年の太平の基を築いた)の「岐」と、「曲阜」(学問の祖、孔子の生誕の地)の「阜」を合わせ持つ「岐阜」を選定し、政秀寺の僧侶であった沢彦宗恩が織田信長の命により、太平と学問の地であれとの意味を込めて正式に命名したといった説があり、この二説が通説とされている。

四世紀の中頃には、ヤマト政権の勢力下に入っていた。岐阜県は、令制国の美濃国(18郡・131郡)と飛騨国(3郡・13郷)の二国で構成されている(和名類聚抄)。美濃は「御野」(大宝2年:702の正倉院文書)、飛騨は「裴陀」(養老令)と書かれた。ヒダの国名の表記法が「飛騨」に定着したのは八世紀の前半である。美濃と飛騨国は、東山道に属し、畿内からの本線は近江・美濃を通り、信濃上野へと向かうから美濃から飛騨へは東山道の支線であった。この東山道は古くから利用された。ヤマトタケルの征服伝説にも登場する。美濃国は、日本のほぼ中心として、昔から歴史上で重要な合戦が多く起こっている。古くは大海人皇子がこの国を拠点に挙兵した壬申の乱(672年)があり、関ケ原町の藤古川付近で激戦が行われた。8世紀には、美濃国府が垂井町府中に置かれた。国分寺は大垣市青野町に設けられた。県南部を中心に、日系ブラジル人やフィリピン人などの外国人が数多く暮らしている。近年では在日中国人も増えている。

特に美濃加茂市では人口の1割は外国人で、工場などで労働者として働いているケースが多い。1990年の入国管理法改正以降、急速に増えていった。彼らの最大の問題は子どもの教育で、日本語が理解できないなどのために不就学になる場合もある。ブラジル学校は県内に数校あるが、大半が無認可である。2008年の世界的経済危機を受けブラジル人が母国へ帰国するケースが少なからずあり、岐阜県は彼らの旅行費用について支援している。岐阜市では戦後、軍服や古着を売る繊維問屋街ができ、さらに布を仕入れて服を作って売るアパレル産業が盛んになり、全国的な産地となった。2000年代中頃以降は東京や名古屋に押されて問屋街は苦戦しており、ファッションの産地としての生き残りを図るには岐阜の個性ある特徴を打ち出すのが課題となっている。

2011年3月30日水曜日

72系は、富山向きのクモハ73形と

岩瀬浜向きのクハ79形の2両編成を運行の基本としていた。したがって当時は現状とは逆に、編成の富山方にパンタグラフが搭載されていた。末期は5編成計10両が配置されており、朝夕は2編成を連結した4連が2本組成され、おおむね30分間隔で運行されていた。なお、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正で最大運用車両数が4連2本から4連・2連各1本に減り、72系2両が廃車されている。配置車のうち1編成は予備車であり、連結を外されて城川原駅の2本の側線に留置されていた。なお予備車としては昭和50年代半ば頃まで、両運転台のクモハ40形が配置されており、富山方と岩瀬浜方の両方向の先頭車として使用されていた。その後に導入された457系・471系・475系は、基本ユニットを構成する3連での運用になった。しかし朝ラッシュ時に使用される2編成のうちの1本は、以前と同等の輸送力を確保するため、富山方にクハ455形が並ぶ変則的な4連となっていた。この運用は後に近郊形である413系の3連に置きかえられたが、最終的にはこのような限定運用はなくなった。そしてJRとしての運営末期にあたる2005年秋からは、記念イベントとして475系の2編成が交直流急行色に塗装され、当線限定で運用されていた。

なお、これ以前にも475系導入後、いわゆる北陸色への塗り替えが進むまでの間も、交直流急行色で運行されていた。また、それ以前の72系は、かつての京浜東北線などと同様、全体がスカイブルー(青22号)に塗られていたが、例外的に茶色(ぶどう色2号)の車両が使用されることもあった。475系の導入に際しては、富山駅と富山口駅との間にあった北陸本線との渡り線にデッドセクションが設置された。また城川原駅の車両基地が廃止されたが、朝夕の2編成での運行に備えて一時的に車両を留置するため、富山駅構内に1本の電留線が整備された。この電留線は、奥田駅につながっていた貨物支線の敷地を利用しており、当線が発着していた当時の6番線の北東に位置していた。JR移管後については、1987年(昭和62年)5月に富山口駅が移転している。これは当時、富山口駅の西側を通っていた県道の地下道化工事に伴うもので、駅周辺の線路が南側に付け替えられ、北陸本線と隣接するようになった。

この地下道(東田地方地下道)の完成によって、県道は当線のほか北陸本線と富山地方鉄道本線の計5本の線路の下を通過するようになり、開かずの踏切が解消された。その後、富山駅の当線専用ホームが南西側に移転しており、単式の6番線から島式の6、7番線に切り替わっている。新しいホームは二編成を収容できるため、それまでの単式ホームのほか、その北東側の電留線も不要になり、これらの敷地は駐車場などに転用された。なお6、7番線はその後、西ホーム(当時の3番線西端の切欠きホーム)が3番線に改称されたことに伴い、7、8番線となった。富山市中心部や沿線の工場等への通勤・通学路線の役目を担ってきたが、閑散時間帯の合理化のため、2001年(平成13年)からレールバス(キハ120形)を導入して高山本線と共通運用にし、朝と夕方の列車を電車で、昼間と夜の列車をレールバスで運行していた。JR末期にあたる2005年(平成17年)7月時点では、富山 - 岩瀬浜間は朝夕をのぞいておおむね1時間間隔の運転であったが2時間ほど運転間隔が開く時間帯もあった。

全20往復(土休日は18本)のうち、475系は朝と夜のみの運用で、日中を中心に10往復がキハ120形の単行での運転となっていた。なお、廃線直前の2006年(平成18年)2月11日からは同線運用の交直流急行色に塗装変更された475系2編成の先頭車の前面に「ありがとう富山港線」と表記されたヘッドマークを掲出し、同年2月25日から最終日の28日までは終日全列車475系で運転された。このヘッドマークは、富山市出身の書家である森大衛が揮ごうしている。国土交通省公式サイト内の「国土情報ウェブマッピングシステム」では、昭和50年度(1975年度)に富山市などを撮影した空中写真(縮尺1/8000)が公開されており、また国土地理院公式サイト内の「国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧システム」では、1946年(昭和21年)7月に米軍が撮影した空中写真(縮尺1/10000)及び2000年に国土地理院が撮影した空中写真(縮尺1/30000)が公開されている。縮尺や解像度による違いはあるが、貨物線を含む当時の線形の概要を把握できる。

2003年(平成15年)にJR西日本が富山港線と吉備線について路面電車 (LRT) 化を検討していると発表した。駅の増設・列車の増発・既存の軌道線との直通運転などにより利便性を高めるというものである。富山港線については、富山市を中心とする第三セクター会社が経営主体となって引き継ぐことが決定し、2004年(平成16年)4月21日に富山ライトレール株式会社が設立された。計画では、富山駅北 - 下奥井駅間の一部(富山駅北 - 奥田中学校前踏切間)に併用軌道を新設し、既存のルートは廃止する(富山口駅は廃止、新ルートに新駅を設置)こととされ、また、駅間600mを目安とし4か所の新駅を設置することとされた。2014年度に予定される北陸新幹線の富山乗り入れに合わせて2006年(平成18年)に富山駅北 - 岩瀬浜駅間をLRT化し、富山駅付近の高架化が完成した後に富山地方鉄道富山市内軌道線と接続し直通運転を行う予定となっている。直流600Vの富山地方鉄道富山市内軌道線への将来的な乗り入れも視野に入れ、き電設備・架線電圧が直流1500Vから600Vに降圧された。

そのため従来の変電所は使用できず、城川原駅と奥田中学校前駅に変電所が新設された。また、市内軌道線に合わせて車両がLRVに切り替わることから、従来のホームは転用できず、新たに低床ホームが設置された。なおJR西日本時代までに使用されていた駅舎は、休憩所として利用されることが決まっていた東岩瀬駅と、建物が比較的新しい競輪場前駅をのぞいて開業までに解体され、旧ホームについても東岩瀬駅の一部区間をのぞいて開業までに解体された。

2011年3月29日火曜日

新設された併用軌道区間の名称は

富山市都市計画審議会で「富山ライトレール線」とすることが決められた。なお廃止区間のうち富山駅から富山口駅までは、高架化工事期間中の仮線用地に転用された。この区間の経路について下り方向で順に挙げると、起点の富山駅北駅は、JR富山駅北口に隣接しており2面2線構造である。駅を出ると直ちに富山駅北口交差点を横切って、その先で1線に合流してから市道富山駅北線の路肩を北に進み、牛島町交差点に達する。ここで右に曲がって市道綾田北代線に移り、以降は道路の中央を東に進み、インテック本社前駅、牛島新町西交差点、牛島新町交差点、いたち川に架かる八田橋、永楽町交差点を通過する。その後2線に分岐して北向きに曲がりながら市道の東行き車線を横断して、旧線との合流点である奥田中学校前駅に到達する。なお八田橋については、強度の面で従来の橋桁を流用できなかったため、橋桁の中央部分を一旦撤去した後、新たに軌道専用の下路プレートガーダー橋を架設している。軌道の施工に際しては、インファンド (INFUNDO) と呼ばれる技術が導入されている。

これは2列の溝が形成されたコンクリート板を路面に埋設して、この溝の中に樹脂などを介して溝付レールを固定するもので、騒音や振動が従来よりも抑制されている。また積雪対策として、軌道の両側に沿って撒水式の消雪装置が設置されている。富山駅北口交差点と牛島町交差点は、その手前に列車を検知するセンサーが設置されており、交通信号が切り替わる際、専用の信号機で列車だけを通過させる方式になっている。しかし列車が止まることなく通過できる優先信号が設置されている交差点はない。そのため信号待ちが発生することや、右折車が軌道をふさぐことがあり、若干の遅れが出ることがある。特に朝ラッシュ時の10分間隔ダイヤを維持するには、インテック本社前駅での停車を含めて、各列車がこの区間を5分以内に走り抜ける必要があるが、現実には難しく、富山駅北駅周辺のダイヤは乱れやすい。なお列車を検知するセンサーとしては、トロリーコンタクターのほか、左右レールの内側に接するように埋め込む方式の物も使用されており、いずれも場合も、列車の進行方向を検知するため複数個を並べて設置している箇所が多い。

市道綾田北代線は、軌道の敷設によって、当初の4車線から2車線(交差点付近は右折車線を含む3車線)に削減された。そのため一部区間を拡幅する計画があり、併せて八田橋の東側から奥田中学校前駅までの軌道を複線化する予定で、これに備えた分岐器が当初から設置されている。この複線化にあわせて、永楽町交差点付近に新駅を設置する計画が公表されている。なお現状では、永楽町交差点付近での渋滞が激しくなったほか、この周辺で、自動車との接触事故が開業初年度に6件発生するなどの問題が出ている。この対策として2008年3月、ドライバーなどに列車の接近を知らせるため、八田橋の東側と永楽町交差点に計4台の電光掲示板が設置された。列車がトロリーコンタクターで区画された範囲内にあるとき、「電車接近中」と「軌道横断注意」が交互表示される。富山駅北口交差点から牛島町交差点までの区間は、市道富山駅北線の西側の路肩に軌道が設置されており、縁石によって車道と区画されている。

そのため中に自動車が入り込むことはなく、軌道の中央に芝生が敷かれている。また富山駅北駅構内はバラスト軌道に溝付レールという構造になっており、開業当初は枕木が見えていたが、2006年(平成18年)夏頃、全体に芝生が敷き詰められた。両端の駅と一部の交差点には、進行を黄色の矢印で、停止を赤色の×印で示す軌道用の信号機が設置されている。両端駅にある出発信号機には、軌道区間における先行列車(表示:S)または対向列車(表示:T)の存在と、その列車本数(表示:1または2)を知らせる表示装置が併設されている。また富山駅北駅には場内信号機も設置されており、進行の現示と合わせて到着番線が表示される。この区間の施工に際しては海外技術が導入されており、例えば分岐器や、レールボックス(列車検知センサーを軌道内に埋め込むための箱)や、地上と列車との情報伝達装置(両端駅の軌道中央にループコイル状のアンテナが設置されており、車両運転席の左側には操作パネルが埋め込まれている)は、ドイツにある HANNING&KAHL 社の製品が使用されている。

なお同社が公開している情報誌で当線が紹介されている。この区間の最高速度は、法令に従い40km/hとされるが、曲線などによる速度制限が点在しており、また信号による停止のほか、安全確保のため徐行する場合もあり、30km/h程度で頭打ちとなることが多い。なお奥田中学校前駅以北では、駅間距離が長い区間を中心に最高60km/hで運行されている。元々は富岩鉄道が開業した路線で、その後富山電気鉄道を経て富山地方鉄道富岩線となり、私鉄の戦時買収により国鉄富山港線となった。このような経緯から富山駅で接続する北陸本線が交流電化であるのに対し直流電化となっており、七尾線が1991年(平成3年)に直流電化されるまで、長らく北陸地方の国鉄・JR線では唯一のものとなっていた。また、富山港線は国鉄に買収された私鉄路線の中では最後に600Vから1500Vに昇圧された路線でもあった。富岩鉄道時代の1934年(昭和9年)10月時点では、朝に増発され、深夜に1時間間隔となるほかは、ほぼ終日30分間隔の運行であった。

国鉄時代は1967年(昭和42年)の昇圧まで南武・鶴見臨港・宇部・伊那などの買収国電、昇圧後は17m省形を経て72系などの直流用電車で運行され、1985年3月14日国鉄ダイヤ改正からは457系・471系・475系などの交直流電車で運行されていた。JR線時代までを通してすべて線内折り返しの普通列車であった。ちなみに、72系については、富山港線での運用が国鉄の旅客営業列車としての最後の72系の運用となった。

2011年3月28日月曜日

2010年3月14日からは

富山地方鉄道富山市内軌道線に導入されたIC乗車カード「Ecomyca(えこまいか)」とも相互利用を開始した。定期券やオリジナルグッズなどの販売窓口は、JR富山駅北口駅舎内と城川原駅の本社内にあり、プリペイド券の販売機も設置されている。また岩瀬浜駅近くの岩瀬カナル会館にも販売機が設置されている。チャージについては、この3箇所に入金機が設置されているほか、車内の運賃箱でも可能である。なおプリペイド券については、2007年(平成19年)9月の用途拡大に伴い、沿線以外でも購入やチャージができるようになった。ポートラム後方入口に設置されているパスカセンサー乗降については、後寄りの車両のドアから乗車して、前寄りの車両の運転席横のドアから降車する「後乗り前降り」である。降車時に運賃の支払いや定期券の確認を行う。降車用ドアの運転席側には、運賃箱と一体になったICカードリーダーが設置されているほか、このドアの客室側にもICカードリーダーが設置されており、2列での降車も可能である。

なお、途中駅で降車する場合、事前に降車ボタンを押すのが原則だが、押されなかった場合でも各駅に一旦は停車する。しかし、乗降がないと判断されると直ちに発車することがある。また、整理券を発行していないため、降車用ドアからの乗車も日常的に行われている。「前降り」方式となっているため、朝ラッシュ時に降車客が集中する駅で停車時間が長くなり、ダイヤの乱れや踏切遮断時間が延びるという問題が発生していた。そのため2006年(平成18年)7月10日から、朝ラッシュ時限定で4駅に係員を配置して、定期券利用者に限り、後寄りの乗車用ドアからも降車できるように改善された。その間、降車用ドアの客室側に設置されていたICカードリーダーを乗車用ドアに移設する作業が行われた。そして移設作業の完了した7月31日から、passca利用者は朝ラッシュ時に限り、全駅で乗車用ドアからも降車できるようになった。

その際は乗務員などの目が届かない中で運賃を支払う「信用乗車」となる。なお、一旦撤去された降車用ドアの客室側のICカードリーダーは、9月中に再整備された。運賃以外の収入を確保するため、開業当初から各種のオリジナルグッズが販売されており、チョロQ、最中、ネクタイなどのラインアップがある。詳細については公式サイトに掲載されている。2007年(平成19年)9月22日、23日、24日の3日間は、富山市総曲輪(そうがわ)地区の再開発ビル「総曲輪フェリオ」の開業にあわせて、当線や接続するフィーダーバスなどが無料運行となった。3日間で35900人の利用があり、23日には開業初日を上回る12820人の利用があった。なお、この間の費用は富山市が負担した。起点の富山駅北駅は、島式ホームに降車用の単式ホームを組み合わせた2面2線構造で、終点の岩瀬浜駅は1面1線である。他の中間駅は相対式の2面構造で、西側(または北側)が下り用の1番線、東側(または南側)が上り用の2番線になっている。

したがって中間駅では、上下列車とも進行方向に対して左側のドアで乗降を行う。なお交換設備のない中間駅は、インテック本社前駅と競輪場前駅を除いて、ホームが踏切を中心とした千鳥配置になっており、踏切の遮断時間を抑制している。また駅周辺の踏切は、列車が駅に停止することを前提に作動開始時期が設定されている。そのため回送列車(岩瀬浜→城川原がある)は、踏切の手前で停止または減速する場合がある。低床ホームは各駅ともデザインが統一されており、上屋やイスやスロープのほか、スピーカーが組み込まれたLED式の案内表示器が設置されている。さらに一部の駅には、監視カメラも設置されている。ホームの背面は、全面的にガラスで覆われており、この面が支柱を境に3区画に分割されており、中央の区画には駅名標や時刻表や周辺の地図などが掲示されている。また端寄りの1区画は「個性化スペース」として、各駅にまつわる風景などがフィルム貼付によって描かれている。

そして残りの区画は一部駅を除き「広告スペース」になっており、グッズ販売と並ぶ会社の貴重な副収入源となっている。なお「広告スペース」については、2006年(平成18年)秋以降、下奥井駅から岩瀬浜駅の間の各駅で、鳥居形のものが新たに設置された。東岩瀬駅にはJR時代まで使用されていた駅舎と一部ホームが残されており、改修工事を終えた2007年(平成19年)2月から、待合室等として利用されている。また競輪場前駅もJR時代の駅舎が残っている。駐輪場は、奥田中学校前駅以北の全駅で移管開業に合わせて新設された。公衆トイレは、移管開業に合わせて蓮町駅と岩瀬浜駅に新設されたほか、城川原駅の本社待合室と東岩瀬駅の駅舎内にも設置されている。途中の交換可能駅については、安全側線は一切設置されていないが、上下列車の同時進入ができるよう警戒信号が可能な四灯式の場内信号機が設置されており、列車の接近にあわせて警戒現示となるが、対向列車がない場合や到着済みの場合、進行現示となることがある。

対する出発信号機は二灯式である。ただし奥田中学校前駅は、併用軌道区間との境界にあたるため、変則的な信号配置となっている。また城川原駅には入出庫用の信号機も設置されているほか、両端駅にも場内・出発信号機が設置されている。分岐器については、富山駅北駅と城川原駅を除き、転轍操作が不要なスプリング式が使用されている。いずれも氷雪による動作不良を防止するため、散水や加熱による融雪装置が設置されているほか、付帯する曲線区間にはガードレールが設置されている。自動列車保安装置については、ATS-SW形(地上子の銘板表記による)が使用されており、第一種鉄道事業区間に限り地上子が設置されている。出発信号機の直下には即時停止の地上子が設置されており、また交換駅入り口側の分岐器手前には速度照査のため二個一組の地上子が設置されている。さらに終点の岩瀬浜駅にも、車止めの手前で停止できるよう複数の地上子が設置されている。北陸新幹線の建設にあわせて実施される富山駅周辺の連続立体交差事業計画が具体化する段階で、富山港線の取り扱いについても検討されたが、費用対効果や用地などの面で高架駅への乗り入れは見送りとなった。

そのため、旧富山港線が市道綾田北代線を横断していた中学校踏切までの区間を廃止した上、その代替となる延長約1.1kmの併用軌道を市道上に建設して富山駅までのルートを確保すると共に、既存区間も路面電車仕様に改良することになった。この計画の妥当性を検討するため、2003年(平成15年)に「富山港線路面電車化検討委員会」が組織され、路面電車化のほか、現状を維持しながら高架化、全線を廃止してバスで代替、の3案について様々な試算が行われた。その結果、路面電車化した場合、2006年(平成18年)から30年間で累積される社会的総便益が最も大きくなるとの報告が出された。

2011年3月27日日曜日

移管開業の直前には

1日当たりの利用者の目標を、JR時代の2002年度の実績(定期券などの売上からの換算)に相当する3400人としていた。しかしJRとしての運営終了日から約5ヶ月前の2005年(平成17年)秋に行われた利用者の実数調査では、10月2日(日)に1045人、10月6日(木)に2266人という結果が公表され、さらに工事期間中に運行されていた代替バスについては、2006年(平成18年)3月1日から28日の期間で1日当たりの利用者が、平日1776人、土休日744人という結果が公表されていた。そのため、ライトレール化による利便性向上に懐疑的な向きからは前途は厳しいという見方がなされたこともあった。しかし、開業初日に12750人の利用があり、その後も開業ブーム、開業関連イベントの開催、高齢者層を中心とした新たな需要の開拓、運賃の割引という要因もあって順調な利用が続き、開業から195日目にあたる11月9日の正午頃に乗車人数が100万人に達した。これを記念して、翌日から12月末まで、各車両の前面に100万人記念ヘッドマークが貼られていた。

そして、2007年(平成19年)3月31日までの開業初年度については、337日の営業で約165万人の利用があり、1日当たりでは4901人の利用となり、当初の目標を大きく上回った。このように順調な滑り出しとなったため、同年4月29日から5月6日までの間、様々な開業1周年記念イベントが開催され、車両にも記念ステッカーが貼られていた。開業2年目の2007年度は1日当たり4480人の利用(平日4723人、休日3988人)となり、開業効果および運賃半額割引(曜日・時間帯限定)を行っていた前年に比べるとわずかながら減少したが、目標の4000人は上回っており堅調な推移を見せている。2008年(平成20年)11月1日に乗車人数500万人を達成し、同年11月6日にポートラム500万人達成記念セレモニーが富山駅北駅1番線降車口前で行われた。沿線にある龍谷富山高校、県立富山聴覚総合支援学校、県立富山北部高校などへの通学利用のほか、沿線から富山駅に向かう通学利用も多い。また富山駅周辺の官庁や企業には、駐車場が確保できない所も多く、通勤にも利用されている。

そのほか週末の夕刻には、富山駅周辺の飲食店に向かう利用も多少はあり、さらに積雪時には、道路の混雑が激しく自転車などの利用も困難になるため、一時的に利用者が増える。JR時代は観光やマリンレジャーでの利用は少なかったが、末期は記念乗車や撮影でにぎわった。移管開業の際には、運転本数の大幅増加や話題性によって観光での利用増加が期待されており、終点に近い富山市岩瀬地区では観光客誘致に向けた環境整備が進められた。沿線にある富山競輪場は、広大な無料駐車場があり、しかも各地から無料送迎バスも運行されているが、ライトレール開業に合わせて富山港線の利用者と収入の増加を図るために富山駅北口とを結ぶ無料送迎バスが廃止され、代わりに競輪開催日に運賃が無料になる専用ICカードを富山競輪が運賃を負担して発行している。移管開業の前には、当路線とほぼ並行する2ルートの路線バスが運行されていたが、移管開業の際、鉄道とバスとの関係を競合から協働に転換を図ることになり、両路線バスが廃止され、その末端区間の輸送を確保するため、蓮町駅および岩瀬浜駅を起点とするフィーダーバスの運行が開始された。

フィーダーバスについては、乗り換えの際の抵抗感を極力減らすため、両駅にはホームに隣接する専用のバス停が設置されたほか、passca使用時限定だが、乗り継ぎ割引制度も導入されている。ただし従来の路線バスは、富山市中心市街地を経由して富山赤十字病院にいたる利便性があったため、複数回の乗り換えと運賃負担の増加を伴う廃止には反対が出た。なお岩瀬浜駅にはフィーダーバスのほか、土休日限定で射水市コミュニティバスが乗り入れており、万葉線との乗り継ぎも実現している。富山県は、2007年(平成19年)3月末時点で1世帯当たりの自家用乗用車の保有数が全国第2位というように車社会化が進んでおり、また商業エリアも郊外の主要幹線沿いのショッピングセンターやロードサイド店舗が主力になっており、公共交通機関にとっては厳しい環境にある。しかし富山市は、今後の人口減少や高齢化社会などに対応するため、鉄軌道をはじめとする「公共交通を利用したコンパクトなまちづくり」の実現に向けて様々な取り組みを進めており、当路線もその一翼を担うものと期待されている。

運賃は均一制で大人が200円、小人(小学生)が100円である。したがってJR時代に営業キロが6km以下だった区間では値上げになった。ただし後述する「passca(パスカ)」で乗車する場合は2割引の大人160円、小人80円となる。また65歳以上の富山市民を対象として「シルバーパスカ」を販売しており、これを使用した場合には日中に限り運賃が100円になる。なお開業から2007年(平成19年)3月31日までの約11か月間は、平日の日中と土休日は半額に割引されていた。定期券およびプリペイド券(回数券に相当)は、「passca(パスカ)」という愛称が付けられたICカードが使用されている。当初は当線だけで利用可能だったが、2007年(平成19年)9月21日より、接続するフィーダーバス、富山市中心市街地を循環するまいどはやバス、富山市内の駐車場1か所でも使用できるようになった。これに伴い、利用対象ごとに独自の料金体系を設定できるよう、取り扱い規則が変更された。ポートラム前方出口にある運賃箱とパスカのタッチセンサーなお「passca(パスカ)」は、ソニーのFelica技術を採用しておりサイバネティクス協議会規格にも準拠している。

プリペイド券は2000円で販売されており、そのうちデポジット(預かり金)として500円を差し引いた1500円分の利用ができる。またチャージ(積み増し)は、上限が20000円である。プリペイド券は開業当初、購入時のデポジットを差し引いた1500円やチャージの際の支払金額に対して1割を上乗せした額が入金され、乗車時の割引はなかった。その後2007年4月1日からは、休日などの運賃半額割引が終了したため、この上乗せが2割にアップした。しかし2007年9月21日からは上乗せがなくなり、代わりに運賃が割引されるようになった。そのほか富山競輪場利用者向けに「競輪専用ライトレール利用ICカード」が発行されているほか、開業記念プリペイド券が限定1500枚作成された。

2011年3月26日土曜日

富山空港は

富山県富山市秋ヶ島にある第三種空港。富山市中心部の南約7キロメートルに位置する。また、日本で唯一河川敷に作られた空港で、滑走路やエプロンなどは神通川右岸の河川敷にある。ターミナルビルは河川外にあり、堤防をまたいで建設されたボーディング・ブリッジの長さは日本一である。河川敷という立地ゆえ、滑走路南北端にある橋梁のために滑走路の延長や計器着陸装置の完全設置が困難であり(滑走路の中心を示すローカライザーのみ)、冬場の大雪や春先の濃霧による欠航が多発したり、敷地の余裕が無く滑走路の両端まで誘導路が作れない(平行誘導路がなく、離陸機は滑走路末端でUターンしてから離陸していく)という物理的制約が厳しい。発着便数は地元協定で1日あたり15便が上限となっている。このため、移転して海上などへの新空港建設が検討されたこともあったが、費用面の問題もあり、また北陸新幹線金沢駅延伸後に東京国際空港線の便数維持が難しいとの判断も働き、現空港を活用する方針となった。

立地に関して言えば、富山市街地や富山IC、国道41号から近くアクセスの利便性が高いため、富山県民のみならず、近隣の新潟県上越地方、岐阜県飛騨地方などからも利用しやすい空港である。富山ライトレール株式会社は、富山県富山市で富山港線を西日本旅客鉄道(JR西日本)から引き継ぎ、次世代型路面電車(ライトレール)化した上で運営している第三セクター方式の鉄道事業者。本社所在地は富山県富山市城川原三丁目3番45号(城川原駅に隣接)。富山国際会議場で設立発起人会(インテック・富山市・富山商工会議所・富山第一銀行・富山地方鉄道・日本海ガス・北陸銀行・北陸電力)が開催される。創立総会が開かれる。富山市都市計画審議会が、併用軌道を敷設する綾田北代線と富山駅北線の都市計画を変更し、同区間の都市計画上の名称を富山ライトレール線とすることを決定。国土交通省より第一種鉄道事業の許可及び軌道事業の特許。4月29日 開業。グッドデザイン賞金賞(建築・環境デザイン部門)受賞。

フィーダーバスの運行主体が、富山市から富山ライトレールに移管。軌道区間の都市計画上の名称は「富山ライトレール線」だが、軌道法や鉄道事業法に基づく手続きでは軌道区間、鉄道事業区間ともに「富山港線」の名称がそのまま使われている。富山駅北駅から奥田中学校前駅の直前までは、道路上に新設された併用軌道を走る軌道区間で、奥田中学校前駅から岩瀬浜駅までが在来の専用軌道を走る鉄道事業区間となる。JRの富山駅高架化後は、既存の富山地方鉄道富山市内軌道線と相互に乗り入れる構想がある。なお、富山港線は元はJR西日本、さらに前はその前身である日本国有鉄道の路線で、国有化前は富山地方鉄道が富岩線として保有していた。また、併用軌道区間内のレールはドイツから輸入された。新潟トランシスで製造された2車体連節低床式路面電車で、開業に合わせて7編成が導入された。一般公募で決まった「ポートラム」という愛称が付けられている。これは「港」(=port)と「路面電車」(=tram)を組み合わせた造語である。

外装は立山の新雪をイメージした白色を基調としている。また、フロントガラスの下縁部と乗降口の周囲には、編成ごとに異なるアクセントカラー(虹にちなんだ7色:赤、橙、黄、黄緑、緑、青、紫)が施されている。マスコットキャラクターとして、富山県立富山北部高等学校情報デザイン科の生徒によりデザインされた、ネコと電車をモチーフとする「とれねこ」がある。編成数と同じ「7匹」がおり、編成に対応してそれぞれ特徴と性格が設定されている。富山港線の蓮町駅・岩瀬浜駅に接続するフィーダーバス2路線を運行している。2006年4月の富山港線の移管開業に合わせて、富山市が試験的に運行を開始した。2007年4月から本格運行となり、運行主体が富山ライトレールに移管された。なお、実際の運行は一貫して、富山地方鉄道に委託されている。2006年度は、開業が4月であったために固定資産税が発生しなかったことなどから、268万円の当期純利益を計上した。2007年度は運賃を本来の水準に引き上げたことなどから、418万円の当期純利益を計上した。損益計算書にはフィーダーバスの収支が加えられたが、運行費用は全て富山市からの補助金で賄われるので、実態には変化がない。

2008年度は614万円の当期純利益を計上した。公設民営ではあるが上下分離ではないため、一般に公開されている損益計算書では各事業の営業費用が全てひとくくりにされている。富山港線は、富山県富山市の富山駅北駅から岩瀬浜駅までを結ぶ富山ライトレールの軌道・鉄道路線である。2006年(平成18年)2月28日まで西日本旅客鉄道(JR西日本)が運営していた鉄道路線(地方交通線)を第三セクター会社の富山ライトレールに移管し路面電車 (LRT) 化した路線で、同年4月29日から富山ライトレールによる営業を開始した。なお、この記事では、富山ライトレールが発行するIC乗車カード「passca(パスカ)」についても併せて述べる。JR西日本運営時と比較して富山ライトレール移管直後に列車運行本数が大幅に増加し、利便性が向上した。富山ライトレール移管後は、平日朝ラッシュ時は10分間隔、昼間から夜20時台前半までは15分間隔、夜20時台後半から深夜は30分間隔となる。休日は朝から20時前半まで15分間隔、夜20時台後半から深夜が30分間隔となる。

本数もさることながら、移管前は終電時刻が夜21時台と非常に早く深夜時間帯に運転される列車が皆無であったが、移管後は富山駅北発23時15分、岩瀬浜発22時42分へと大幅に繰り下げられた。平日朝に富山駅北発越中中島行きが2本ある。1時間で1サイクルの運行となっているため、平日朝ラッシュ時は6編成、深夜は2編成、その他の時間帯は2から4編成が使用される。なお沿線で祭りや花火大会などの大規模なイベントがある場合、夜20時台から深夜時間帯にかけて臨時列車を運行して利用者の便宜を図っている。さらに大晦日から元日にかけてや、競輪場前駅近くにある岩瀬諏訪神社での春季例大祭の開催日には、午前0時を過ぎた深夜時間帯まで臨時列車が運行されている。JR線時代は各駅ともに朝夕は利用客が多く、1駅1本あたり40人程度が乗降していたが、昼間は利用客は少なかった。

2011年3月25日金曜日

富山新聞は

富山県の地方新聞で朝刊専売紙である。1923年創刊。石川県金沢市で発行する北國新聞の系列新聞。販売部数は41,635部で、富山県内でのシェアは11.06%で3位。金沢市の北國新聞社で紙面を製作・印刷している。紙面は一部を除いて、北國新聞と共有している。また論調は北國新聞と同様に石川県民を指向した記事や社説が多く、保守的とされている。夕刊は1952年から発行したが、1968年に発行を終了している。CMキャラクターも北國新聞と同様、女優の田中美里を起用している(「ほっこく」の部分を「とやま」に吹き替えただけのバージョン)。キャッチコピーも北國新聞と同様「ふるさと不足に読んで効く」。「富山新聞社」は北國新聞社の富山本社の愛称であり、独立した会社ではない。そのため、北國新聞社発行の書籍広告が富山新聞に掲載される場合、「北國新聞社」の部分を「富山新聞金沢本社」に差し替えている。藤子不二雄の自伝マンガ『まんが道』で登場する「立山新聞」(藤子不二雄A=安孫子素雄がモデルとされる満賀道雄(まが みちお)が働いていた)は実際に安孫子が働いていたことのある富山新聞がモデルとされている。

その時の経営者が藤子A=安孫子の叔父だった。この当時のエピソードに前日のラジオ番組表を誤って当日版と発表してしまい、読者から「今朝の番組表は一体なんだ!」「二度と立山新聞は取らん」と激怒されるシーンが取り上げられた。別の県で製作・印刷されている県紙は他に大阪府の大阪日日新聞(日本海新聞グループ。鳥取県の新日本海新聞社で印刷)、福井県の日刊県民福井(中日新聞グループ。石川県の中日新聞北陸本社で印刷)がある。かつては北日本新聞も石川県で「北陸新聞」の題号で発行していたが、北陸新聞は中日新聞に経営権を譲渡し、現在の「北陸中日新聞」となった。富山テレビ放送株式会社は、富山県を放送対象地域とする放送局である。通称は富山テレビ、略称はBBT。コールサインはJOTH-DTV。FNN系列のテレビ局である。開局当時の略称は基幹局のチャンネル番号(34ch)を用いたT34であった。現在の略称は"Best Being Toyama television"から来ている(さらにその後、Best Being からBest Broadcastに変更)。

東海テレビ放送が21.0%、中日新聞社が19.92%の株式を保有、北陸中日新聞および朝日新聞と協力関係にある。また、北日本新聞との共催行事も多いほか、富山新聞(北國新聞)とも天気予報の番組スポンサーとなる等友好関係にある。サービスエリアは、富山県内全域と新潟県および石川県の各一部。とくに、FNS系列局の人気長寿音楽番組である『ミュージックフェア21』がスポンサーの関係上で放送できない新潟県と石川県の各一部地域においては、この富山テレビ放送が受信できていれば、新潟県、石川県の各一部地域でも『ミュージックフェア21』を視聴できる模様。なお、北信越地方で唯一、富山県を塩野義製薬が推薦している理由としては、薬の名所として名高い地域であることで、製薬会社としての立場上必要と考えているためと思われるが真相は不明である。なお、同局でも1981年10月-1983年10月にネットを再開するまでの約2年間は放送されていなかった。局キャラクターはビーちゃん(BBT星B国B県T市出身の1994年1月1日生まれという設定)。

キャッチコピーはメがBBT LOOK(2011年1月から)。かつて、富山テレビ(当時はT34)の社屋横に、大きな電波塔があったが、現社屋増改築で6階の屋上に電波塔が設置されたため、役割を終えて取り壊された。開局からCI導入までは「T34(後に当時の後述するマークに変更) 富山テレビ」という赤いネオンサインが縦に取り付けられていた。「富山テレビ」のロゴはCI導入時のロゴ(つまりは現行のもの)で3代目。初代は開局時から用いられた物で、2代目は現行のロゴより若干太めにデザインされている。県内に設置されている中継局の表札に用いられている「富山テレビ」のロゴの大半は2代目の物である。CI導入まで、赤い円:有磯の海に映える太陽(情熱)、白:霊峰立山の白雪(中立)、緑色の扇形:越路をいろどる緑野(平和)、を表わしたマークが存在した。2008年8月1日よりデジタル放送において、局ロゴのウォーターマーク表示を開始。当初はかなり大きかったため、8月11日正午からは縮小された。

1970年頃から1990年頃にかけては静止画スライドで番組案内や道徳啓発(主に交通安全、タバコの吸殻による火災予防、自然を大切に等)をCMの空き時間(フィラー)に流していた。『めざましどようび』が7:00からの飛び乗りである。『めざましどようび』の飛び乗りはBBTの他に東海テレビのみでその他の系列局は全てフルネット。ちなみに、6:00 - 7:00には『石川遼スペシャル RESPECT ?ゴルフを愛する人々へ?』とフジテレビ日曜朝9時台前半枠のアニメの時差ネット、天気予報を放送している。富山県の視聴者からは『めざましどようび』のフルネット化を望む声もある。反面、2011年4月より『めざましどようびメガ』をネットしている(『めざましどようび』は飛び乗りながら『めざましどようびメガ』をネットする異例な編成となった)。月曜19時台のローカルセールス枠は1999年4月以降、自社制作番組『BBTスペシャル』を放送している。2010年2月以降は『BBTスペシャル』とフジテレビ制作『ネプリーグ』の同時ネット放送を並行して行う変則型の編成となっている。

『ONE PIECE』のネットを2006年9月に一旦打ち切った後、2011年3月まで再開されなかった。 富山エフエム放送株式会社は、富山県を主な放送対象地域とするラジオ局である。愛称はFMとやま。JFN系列。2005年の開局20周年記念イベントとして、4月1日から3日にかけて「レインボーEXPO」というイベントを開催した。富山市民プラザをメイン会場として、FMとやまの歴史を展示・紹介するコーナーや歴代の人気番組試聴コーナーなどが設けられた。2010年4月1日、開局25周年特別番組として「NEXT25 -1985~2010~2035-」が午前09:00~10:50に放送された。この番組は、FMとやまが開局した1985年と2010年の出来事を振り返りながら、25年後の未来(2035年)を考えるというものだった。2010年4月1日から、開局25周年を記念して従来の正時に流れるJFN共通ジングルが使われず、当局オリジナルの正時のジングルが使われるようになった。正時のジングルが変わることは初めてであった。FMとやまの制作番組でも番組の冒頭にこのジングルが使われるようになった。2011年1月に廃止され、JFN共通ジングルが再び使われるようになった。

隣県のエフエム石川の開局が遅かったこともあり、開局から数年は石川県内のリスナーも多かった。エフエム石川の編成上ネットしていない番組や同局で流れない楽曲を聴くために現在も石川からのリスナーは少なからず存在する。また、かつて日曜9時に放送されていた『ミュージック10』はエフエム石川の開局以前から放送され、放送開始時より石川県のスポンサーで構成されていた。FMとやまの本社はチューリップテレビの放送センターが隣接している(チューリップテレビのホームページでは同局の案内図でFMとやまに隣接していることを表記している)。ニュース配信は、主に富山新聞と北陸中日新聞が担当している(開局から2009年3月31日までは隔月担当)。1985年4月1日の北國新聞朝刊にはFMとやま開局の記事を掲載し、番組表では『富山新聞ニュース』を掲載していた(なお、現在の北國新聞ではFMとやまの番組表は掲載していない)。また、経済ニュースは日本経済新聞が協力している(詳細は『FMとやまニュース』を参照)。 番組表は福井県の中日新聞・日刊県民福井(資本関係にある中日新聞社の発行紙)、朝日新聞・毎日新聞・日本経済新聞・産経新聞(日本経済新聞を除きいずれも福井県版)でも掲載されている。なお、北日本新聞社も資本参画しているが、同新聞からのニュース提供は行われていない。

2011年3月24日木曜日

軌道区間の都市計画上の名称は

「富山ライトレール線」だが、軌道法や鉄道事業法に基づく手続きでは軌道区間、鉄道事業区間ともに「富山港線」の名称がそのまま使われている。富山駅北駅から奥田中学校前駅の直前までは、道路上に新設された併用軌道を走る軌道区間で、奥田中学校前駅から岩瀬浜駅までが在来の専用軌道を走る鉄道事業区間となる。JRの富山駅高架化後は、既存の富山地方鉄道富山市内軌道線と相互に乗り入れる構想がある。なお、富山港線は元はJR西日本、さらに前はその前身である日本国有鉄道の路線で、国有化前は富山地方鉄道が富岩線として保有していた。また、併用軌道区間内のレールはドイツから輸入された。新潟トランシスで製造された2車体連節低床式路面電車で、開業に合わせて7編成が導入された。一般公募で決まった「ポートラム」という愛称が付けられている。これは「港」(=port)と「路面電車」(=tram)を組み合わせた造語である。外装は立山の新雪をイメージした白色を基調としている。

また、フロントガラスの下縁部と乗降口の周囲には、編成ごとに異なるアクセントカラー(虹にちなんだ7色:赤、橙、黄、黄緑、緑、青、紫)が施されている。マスコットキャラクターとして、富山県立富山北部高等学校情報デザイン科の生徒によりデザインされた、ネコと電車をモチーフとする「とれねこ」がある。編成数と同じ「7匹」がおり、編成に対応してそれぞれ特徴と性格が設定されている。富山港線の蓮町駅・岩瀬浜駅に接続するフィーダーバス2路線を運行している。2006年4月の富山港線の移管開業に合わせて、富山市が試験的に運行を開始した。2007年4月から本格運行となり、運行主体が富山ライトレールに移管された。なお、実際の運行は一貫して、富山地方鉄道に委託されている。2006年度は、開業が4月であったために固定資産税が発生しなかったことなどから、268万円の当期純利益を計上した。2007年度は運賃を本来の水準に引き上げたことなどから、418万円の当期純利益を計上した。損益計算書にはフィーダーバスの収支が加えられたが、運行費用は全て富山市からの補助金で賄われるので、実態には変化がない。

2008年度は614万円の当期純利益を計上した。公設民営ではあるが上下分離ではないため、一般に公開されている損益計算書では各事業の営業費用が全てひとくくりにされている。富山の売薬とは、古くから富山県にある医薬品配置販売業の通称である。薬種商の始まりは室町時代とされる。中原康富の『康富記』(1455年)の1453年5月2日(6月17日)の条に「諸薬商買の千駄櫃申し間事談合とするなり。薬売るもの施薬院相計る所なり。」と書いてある。また、『御府文書』には1460年に京都の四府賀興丁座の中に薬品類を商いする商人がいたことが記されている。富山で薬種商が始まったのは16世紀中ごろ、越中に薬商種の唐人の座ができたことである。17世紀初期から中ごろにかけて丸剤や散剤を製薬する専業店が現れる。開業当時は薬種販売のみを行い、それから製薬業に移ったと思われる。1639年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代・江戸幕府の委託事業などで財政難に苦しめられていた。

そこで富山藩は加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために売薬商法を武器に起死回生を図ろうとした。17世紀終期、富山藩第2代藩主・前田正甫が薬に興味を持ち合薬の研究をし富山では最も有名な合薬富山反魂丹(はんごんたん)が開発された。これが富山売薬の創業とされる。しかし、このころの反魂丹の中心地は和泉国(現在の大阪府)であった。しかし、1690年に江戸城で腹痛になった三春藩主の秋田輝季に正甫が反魂丹を服用させたところ腹痛が驚異的に回復した江戸城腹痛事件という逸話がある。このことに驚いた諸国の大名が富山売薬の行商を懇請したことで富山の売薬は有名になった。さらに富山城下の製薬店や薬種業者の自主的な商売を踏まえて産業奨励のために売薬を採り上げた。このことが越中売薬発生の大きな契機となった。18世紀になると売薬は藩の一大事業になり反魂丹商売人に対する各種の心得が示され、この商売道徳が現在まで富山売薬を発展させてきた一因である。

藩の援助と取締りのもと越中売薬は種類を広げながら次第に販路を拡大していった。明治になって漢方医学の廃止とともに富山売薬が苦境に立たされるが、配置家庭薬業界は結束して生き残りを図ろうとした。1886年には輸出売薬を開始した。明治の末期から大正にかけて輸出売薬は大きく伸び、中国・アメリカ・インドなど数多くの国と交流があった。大正の初めにはピークに達し、日貨排斥運動が活発だった中国市場の8割強が輸出売薬に占められた。20世紀に入ると売薬に関する制度や法律が次々と整備された。1914年には売薬の調整・販売が出来るものの資格・責任を定めた「売薬法」が施行され、1943年に品質向上確保のため医薬品製造はすべて許可制とする「薬事法」となった。さらに1960年には薬事法が改正され、医薬品配置販売業が法文化された。先用後利は「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の基本理念である。創業の江戸時代の元禄期から現在まで脈々と受け継がれている。

始まりは富山藩2代藩主の正甫の訓示「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ。」と伝えられている。創業当時、新たな売薬販売の市場に加わる富山売薬は他の売薬と同一視されないような販売戦略をしなければならなかった。当時は200年にわたる戦国の騒乱も終わり江戸幕府や全国の諸藩は救国済民に努め、特に領民の健康保持に力を入れていた。しかし疫病は多発し、医薬品は不十分だった。医薬品販売も室町時代から続く売薬はあったものの店売りは少なく、薬を取り扱う商人の多くは誇大な効能を触れ回る大道商人が多かった。またこの時代、地方の一般庶民の日常生活では貨幣の流通が十分ではなかった。貨幣の蓄積が少ない庶民にとって医薬品は家庭に常備することはできず、病気のたびに商業人から買わざるを得なかった。こうした背景の中で医薬品を前もって預けて必要な時に使ってもらい、代金は後日支払ってもらう先用後利のシステムは画期的で時代の要請にも合っていた。

配置販売は富山売薬の営業形態となっている。消費者の家庭に予め医薬品を預けておき半年ごとに巡回訪問を行って使用した分の代金を受け取り、さらに新しい品物を預けるシステムである。薬事法では医薬品の小売を店頭販売と規定し消費者が転売することを禁じているため、「決まった消費者のもとで配置という形の陳列販売をしている」と解釈されている。また預ける医薬品や配置員も許可制で代金は使用された後に受け取ることになっており、他の小売販売のように現金販売はできない。

2011年3月23日水曜日

富山市内には

市内中心部西側の富山大学隣接地に県営富山野球場(1950年完成、現在も存続)があり、高校野球や社会人野球など各種アマチュア公式戦をはじめ、プロ野球公式戦も開催された。特に読売ジャイアンツの創始者で「プロ野球の父」とも言われる正力松太郎が同県出身である縁もあって、巨人が年間1カード、石川県立野球場との2連戦形式で北陸シリーズを開催するなど、プロ各球団が公式戦を開催してきた。しかし老朽化し、敷地が狭隘であるため大規模な増改築やナイター設備の追加設置が望めないことから、県内ではプロ野球を開催できる本格的な野球場の建設を求める声がかねてから上がっていた。そこで市が市制100周年の記念事業のひとつに「市民球場の建設」を掲げて事業着手し、1992年7月1日に北陸地方では初の全面人工芝の野球場として完成。3万人を収容できるスタンドを有し、両翼99.1m、中堅122m、ナイター設備、磁気反転式スコアボード等の設備を持つ。愛称「アルペンスタジアム」は公募により決められ、建設時の仮称であった「富山市民球場」と組み合わせて正式名称として命名された。

収容人数3万人クラスの野球場は日本海側初。開場以来社会人野球、高校野球など各種アマチュア野球公式戦に幅広く使用されている。またプロ野球公式戦も同年から開催されるようになった。1995年10月7日にはファーム日本選手権(読売ジャイアンツ対近鉄バファローズ)、翌1996年7月23日にはオールスターゲーム第3戦が開催された。また、2007年からベースボール・チャレンジ・リーグの富山サンダーバーズがホームゲームの大半を行っている(本拠地ではない。同リーグの方針により、所属6球団は特定の本拠地球場を定めず、本拠とする県内を巡回してホームゲームを開催している)。内野スタンドからは、晴れた日には立山連峰を望むことができる風光明媚なスタジアムである。内野スタンドの外周が回廊状になっている姿は、明治神宮野球場などによく似ている。スタンドは大きく分けて、鉄骨鉄筋コンクリート造のメインスタンド(内野)と、土盛りの外野スタンドの2つの構造物から成っている。このうち内野スタンドは変則的な造りになっており、一・三塁側両サイドの搬入口を境目に、ポール側の部分が外野スタンドの盛り土の部分に掛かっている。

このため、この内野両サイドのポール側部分のスタンド下は回廊状にはなっていない。完成当時は「日本海側で随一の設備を誇る野球場」と言われていたが、開場から15年を超えて経年劣化や老朽化が進行し、設備の陳腐化も深刻になりつつある。フィールドにはメンテナンス軽減を目的に砂入り人工芝を採用したが、既に老朽化しメンテナンスが余り行き届いていないため、利用者の評判は芳しくない(プレーした選手からは「ボールが他の人工芝の球場より跳ねる」という指摘もある)。またバックスクリーン部全体が前方(フィールド側)にせり出しているため死角が生じ、外野スタンドの一部の観客がスコアボードを見づらくなっている他、ネット裏の記者室・貴賓室などの壁面が白いため、夜間の試合時にこれら室内の照明を点灯した場合、投手や内野手からボールが見えづらくなる恐れがあるなど、設計上の問題点も多い。なお、この間に一部改修が行われており、2006年6月には内野部分のみ人工芝の張り替えを行った。

2010年4月、全面をロングパイル人工芝に張り替え、同時にフェンスの緩衝材も新調した。なお5月1日には?落としとして、ベースボール・チャレンジ・リーグの富山サンダーバーズと石川ミリオンスターズの公式戦が行われた。プロ野球公式戦は毎年行われているが、上述のような設計上の問題点や設備の経年劣化もあり、開催数が伸び悩んでいる。セントラル・リーグの公式戦は開場以来、中日ドラゴンズと広島東洋カープの主催により年間1~2カード開催されているものの(中日は毎年開催、広島は隔年開催)、パシフィック・リーグ公式戦は2005年7月27日の千葉ロッテマリーンズ対西武ライオンズ戦を最後に開催が途絶えている。ただし、ここ数年は日本生命交流戦での中日主管の対パ・リーグ勢の試合が割り振られていた(2010年の日本ハム戦は降雨中止→6月16日にナゴヤドームで代替開催された)。2011年は久しぶりのセ・リーグ同士の対戦となるヤクルト戦が予定されたが、前日の金沢を含め2日間連続の雨天中止(富山にいたっては2年連続で中止。

これに伴う北陸での代替カードは現在のところなし)となった。また前述の通り富山県は正力松太郎の出身地であることから、かねてから県民の間では巨人主催公式戦の開催を待望する声が上がっているものの、開場翌年の1993年に1試合開催されたのを最後に、なかなか実現しなかった。しかし2008年、15年ぶりに巨人の北陸シリーズが復活。8月7日に開催された対横浜ベイスターズ戦にはほぼ満員の約2万2000人の観客が詰め掛けた。その後も巨人主催の公式試合が開催されている。2009年10月3日には14年ぶりにプロ野球・ファーム日本選手権が開催され、中日が巨人を下している。アルペンスタジアムは富山市北東側の郊外の、住宅と田畑が混在する地域にある。JRの最寄駅である東富山駅や、富山駅など市内中心部からスタジアム近くまで直行する定期バスの本数は少なく、駐車場も収容台数が少ないなど、交通の便はあまり良くない。尚、プロ野球公式戦等が開催される場合には富山駅から臨時の直通バスが運行される。

一方、富山県内の政財界関係者の一部には、北陸本線の富山~東富山間(富山貨物駅付近)から分岐し、アルペンスタジアム方面に直通する支線の新設を求める動きもある。富山駅正面口4番のりばより富山地方鉄道バス「直行・運転教育センター」「西町経由 運転教育センター・済生会病院」行で「運転教育センター」下車後徒歩約5分。もしくは同バス「荒町・水橋経由 中滑川・滑川駅前」「荒町経由 水橋東部団地」行で「針原小学校前」下車後徒歩約15分。プロ野球等開催時には富山駅正面口より臨時バスあり。富山駅地鉄ビル前のりばより富山地方鉄道バス。「県リハビリセンター」行で「下飯野」下車後徒歩約10分。本数こそ少ないが、JR最寄駅の東富山駅と球場付近を結ぶ唯一のバス路線である。東富山駅から徒歩約25分、またはタクシー約10分。北陸自動車道・富山ICから国道41号経由で約20分。

国道8号(富山高岡バイパス)金泉寺交差点から約5分。富山ライトレール株式会社は、富山県富山市で富山港線を西日本旅客鉄道(JR西日本)から引き継ぎ、次世代型路面電車(ライトレール)化した上で運営している第三セクター方式の鉄道事業者。本社所在地は富山県富山市城川原三丁目3番45号(城川原駅に隣接)。

2011年3月22日火曜日

駅高架化と同時に行われる駅周辺の整備工事によって

南北連絡道路を建設、富山ライトレールと現在の富山地方鉄道富山市内軌道線を連結し、直通運転する計画である。また、先述の渡り線を活用し、北陸本線などの在来線と富山地方鉄道で再び相互乗り入れする案もある。旧制富山高等学校は、1923年(大正12年)10月富山県に設立された公立(富山県立)の旧制高等学校(のち官立に移管)。改正高等学校令に基づき富山県により7年制の公立旧制高校として設立され、修業年限4年の尋常科、および文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された。第二次世界大戦中、官立校に移管されると同時に尋常科は募集停止となり廃止された。自宅通学者以外の学生のための寄宿舎として「青冥寮」(せいめいりょう / 1926年築)が設置された。在学生の多くは地元の富山県出身者で占められ大学進学を経て卒業後には県内に定着するものが多かった。富山大学文理学部の前身校となった。1923年(大正12年)、当時の皇太子(昭和天皇)結婚の記念行事として、同地の廻船問屋の妻である馬場はるが高等学校設立事業費として、当時としては破格の100万円(現在の100億を超える金額)という寄付を申し出、これを基金として富山高校が設立された。

馬場はさらに教官の海外留学基金などのため合計34万円を追加寄附し、またラフカディオ・ハーンの蔵書コレクションを寄贈した(この「ヘルン文庫」は富山大学に継承されている)。以上のような事情から富山高校跡地(馬場記念公園)には馬場はるの像が建立されている。開校当初、校地に予定されていた富山県上新川郡大広田村蓮町(現・富山市蓮町)では校舎が完成していなかったため、東岩瀬町立尋常小学校の校舎の一部を借りて仮校舎とした。1925年(大正14年)3月新校舎完成により仮校舎から移転し、以後蓮町校地は米軍の空襲による被災からも免れ、廃校まで存続した。新制移行後、旧富山高校地は富山大学文理学部キャンパスとしてしばらく使用されたが、1962年(昭和37年)3月、五福キャンパスへの統合移転にともなって廃止され、現在は「馬場記念公園」となり大木の並木などが往時を偲ばせている。富山大空襲は、1945年8月1日から8月2日にかけてアメリカ軍が富山県富山市に対して行った空襲。

当時の市街地の99.5%を焼失し、広島、長崎への原子爆弾投下を除く地方都市への空襲としては最も被害が大きかった。1945年5月24日、伏木港(高岡市)を封鎖するためにB-29爆撃機70機が6回にわたって機雷を300個投下した。6月5日、機雷解体作業中に爆発し、死者20人あまりを出した。6月16日にも機雷投下があり、1個が新湊町(当時高岡市、後の新湊市、現射水市)に落ちて死者26人、負傷者29人を出した。7月16日にも新湊で空襲があり、死者約20人を出す。その後、富山市北部が空襲に遭い、7月20日には岩瀬地区、7月24日には大広田地区、7月27日には豊田地区に爆弾投下を行った。被害は岩瀬地区が死傷者87人、大広田地区は若干名、豊田地区は56人である。7月20日には模擬原爆(パンプキン爆弾)が富山市に3発投下された。また、7月26日にも富山市豊田本町に投下されているが、投下した機体は8月9日に長崎市に原爆を投下したボックスカーであったとされる。8月1日、日本全国の都市にアメリカ軍による空襲予告のビラが投下され、そのビラには「富山」の文字もあった。

富山大空襲と同じ夜、同じくビラに書かれた八王子市、水戸市でも空襲があった。8月1日の午後10時ごろ、米軍機が富山上空に現れてそのまま過ぎ去った(この米軍機は長岡空襲に参加したとされる)。人々が安心して就寝した直後の8月2日午前0時ごろ空襲警報が発令され、その後B-29爆撃機174機が来襲した。先頭機が照明弾を投下し、続いて五福地区や桜谷地区の周辺部から焼夷弾を投下して火の輪で市街地を囲み逃げ場をなくした。その後、中心部に焼夷弾や小型爆弾を2時間にわたって投下した。これにより不二越工場、堀川地区、新庄地区などの一部を除いた1377haが焼失した。焼け残った建物 富山県庁、NHK富山放送局、富山大和、海電ビル(現在の富山電気ビルデイング)、興銀ビル、立山醤油味噌、神通中学校(現在の富山中部高校)など。北陸銀行、北日本新聞社などは焼失している。しかし、北日本新聞社は戦時中に印刷所を立山町に疎開させていたため、新聞の発行は続けられた。

人的被害が大きかった一因に、誤認により空襲警報が一旦解除されたこと、憲兵隊や警防団が神通川にかかる連隊橋(現在の富山大橋)などを封鎖し、避難してくる市民を追い返して消火に当たるよう命じたことがあげられる。富山空港は、富山県富山市秋ヶ島にある第三種空港。富山市中心部の南約7キロメートルに位置する。また、日本で唯一河川敷に作られた空港で、滑走路やエプロンなどは神通川右岸の河川敷にある。ターミナルビルは河川外にあり、堤防をまたいで建設されたボーディング・ブリッジの長さは日本一である。河川敷という立地ゆえ、滑走路南北端にある橋梁のために滑走路の延長や計器着陸装置の完全設置が困難であり(滑走路の中心を示すローカライザーのみ)、冬場の大雪や春先の濃霧による欠航が多発したり、敷地の余裕が無く滑走路の両端まで誘導路が作れない(平行誘導路がなく、離陸機は滑走路末端でUターンしてから離陸していく)という物理的制約が厳しい。発着便数は地元協定で1日あたり15便が上限となっている。

このため、移転して海上などへの新空港建設が検討されたこともあったが、費用面の問題もあり、また北陸新幹線金沢駅延伸後に東京国際空港線の便数維持が難しいとの判断も働き、現空港を活用する方針となった。 立地に関して言えば、富山市街地や富山IC、国道41号から近くアクセスの利便性が高いため、富山県民のみならず、近隣の新潟県上越地方、岐阜県飛騨地方などからも利用しやすい空港である。富山市ファミリーパークは、富山県富山市古沢にある動物園である。1984年(昭和59年)開園。日本動物園水族館協会に所属している。敷地内に遊園地もあるが、開園30周年の2014年(平成26年)を目途に遊園地を廃止し、自然体験ができる施設を再整備することになっている。富山市民球場アルペンスタジアムは、富山県富山市にある野球場。施設は富山市が所有し、富山市体育協会が指定管理者として運営管理を行っている。なお、愛称を含めた上記の名称が施設の正式名称となっている。

2011年3月21日月曜日

富山駅は

富山県富山市明輪町にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅である。近接する富山地方鉄道の電鉄富山駅・富山駅前駅(とやまえきまええき)、富山ライトレール富山港線の富山駅北駅についても記述する。島式ホーム2面4線、単式ホーム1面1線、切欠ホーム1線の計3面6線を有する地上駅。直営駅であり、北陸本線の石動駅 - 越中宮崎駅間各駅、高山本線の猪谷駅 - 西富山駅間各駅、城端線・氷見線内の各駅の管理と、該当区間の運営を行う富山地域鉄道部が構内に置かれており、当駅は該当区間の事実上の管理駅となっている。京都・大阪方面へ行く特急「サンダーバード」、名古屋方面へ行く特急「しらさぎ」(北陸線経由)、「ひだ」の始発・終着駅となる。このほか、越後湯沢駅で上越新幹線と接続し東京まで最短で結ぶ特急「はくたか」、新潟方面へ行く特急「北越」が全て停車する。富山港線廃止前は4面8線を有した。富山港線は7・8番のりばが使われていたが、同線が廃止された2006年3月1日より使用が中止され、ホームは解体された。

3番のりばは2番・4番のりばホームの高山方を切り欠いて設置されている。かつては西3番のりばと呼ばれ、その後西ホームと改称、さらに3番のりばとなった。その際、旧来の3番のりば以降は一つずつ繰り上がった。以前、各のりばは地下道(全のりばを連絡)と跨線橋(全のりばおよび北口を連絡)によって結ばれていた。1番のりばの中央部に正面改札、跨線橋の北の突き当たりに北口改札、跨線橋の南の突き当たりに改札業務のみのとやま駅特選館(駅ビル)改札があった。富山港線が廃止された2006年3月1日から北口の仮駅舎供用前の2007年3月17日までは、地下道は全のりばおよび北口を連絡、跨線橋は全のりばを連絡していた。富山港線廃止前の2006年2月28日までは、地下道は全のりばおよび北口を連絡、跨線橋は1 - 6番のりばを連絡していた。北口は、北陸新幹線の開業に伴う連続立体交差事業の工事のため、2007年3月18日より仮駅舎を利用している。今までの北口駅舎の西隣にある。3階建てでミニコンビニもある。

北口からホームへは地下道が連絡していたが、仮駅舎の供用開始により跨線橋が連絡することになった。2008年10月20日、北陸本線下り線および上り線の一部の線路切替が実施され、4 - 6番のりばが仮設ホームに移転されるとともに、地下道は廃止された。地下道の廃止により、各ホーム間の通路は跨線橋のみとなった為、特に朝の通勤時間帯には跨線橋が混雑するようになり、問題となっている。電鉄富山駅はJR富山駅の正面口前広場に面している。乗り換えには一旦駅舎の外に出る必要があり、当駅の列車とJRの相互の乗換えには3~5分要する。駅名は富山地方鉄道の前身にあたる富山電気鉄道時代の駅名をそのまま引き継いでいる。頭端式ホーム3面4線の地上駅で、改札口はJR富山駅側の1つだけである。2007年8月20日現在、終日駅員が配置されている。駅舎の上は駅ビル「エスタ」になっている。

なお、JR富山駅1番のりばから富山地方鉄道本線への渡り線(交直変換のデッドセクション付き)があり、JRからの特急の直通列車(「スーパー雷鳥立山」・「サンダーバード宇奈月」などの列車名で、いずれも臨時列車扱いで付属編成が対象)が入線したほか、かつては475系電車を使った急行「立山」や名鉄車両のディーゼル特急「北アルプス」も入線したことがある。しかし、現在この渡り線を利用した列車は設定されておらず、測定用車両がJRより不定期で入線する程度である。かつては、国鉄北陸本線側のホーム壁面からJR富山駅1番のりば東富山駅寄りへの連絡通路が存在し、国鉄・JRからの乗り入れ列車に乗車する際はこの通路を使い富山駅1番乗り場を利用した。現在この通路は閉鎖されている。鉄富山駅の駅ビルは「ESTA(エスタ)」という名称である。地上部にはロッテリアなどの飲食店や富山地鉄ホテルなどが、地下にはスーパーマーケット『アルビス』が入居している。1987年(昭和62年)12月5日にオープンした。

富山駅前駅は、JR富山駅正面口前の富山県道22号富山停車場線上にある富山地方鉄道富山市内軌道線の停留場。相対式ホーム2面2線の地上駅である。駅の施設はホームだけで待合室や上屋はない。この駅を境に地鉄ビル前方面(上り)が本線、新富町方面(下り)が支線となっている。運行系統も当駅を境に異なる2つの系統が存在する。南富山駅前駅からの電車の一部は当駅で折り返すため、交換ポイントがあり、その関係上富山市内軌道線の他の駅よりもホームが長い。それを利用して南富山駅前方面のホームは終日、大学前方面のホームは朝ラッシュ時、降車用と乗車用で停車位置を分けている。JR富山駅と電鉄富山駅からの乗り換えは比較的容易だが、富山駅北駅からの乗り換えは富山駅北口から地下通路を通る必要があり、200mほど歩くことになる。北陸新幹線開業に伴う連続立体化工事完成時には富山市内軌道線と富山ライトレール富山港線が直結される計画がある。富山駅北駅は、JR富山駅北口の正面に位置する。

頭端式ホームの地上駅で、東側にある単式ホームと中央にある島式ホームとで構成された2面2線である。そのため、上り列車の到着直後に下り列車を発車させることができる。単式ホームは降車専用で番線の表記はなく、島式ホームは東側が1番線で西側が2番線である。2番線は平日朝ラッシュ時のみ使われる。駅正面口とのアクセスは地下通路を利用するが、この出入り口は当駅に隣接している。南口は、第二次世界大戦後、富山の表玄関として発展してきた。北口は、長い間「駅裏」と呼ばれていたが、近年の再開発により、新しい富山の玄関として整備された。正面口にバスターミナルがあり、富山地方鉄道(地鉄バス)が周辺各地への路線バスを運行させている。また、富山空港へ直通するバスがある。ただし、北口を経由するバス路線もある。2014年度に北陸新幹線が延伸開業する予定で、東京 - 富山間を最短2時間10分程度で結ぶ予定である。北陸新幹線関連工事に合わせ、富山駅周辺1.8km連続立体交差化事業が行われる。

JR在来線を一旦北側に移設し、高架化する工事が2005年10月6日に開始された。合わせて、富山地方鉄道の電鉄富山駅を含む1.0kmも高架化する。なお、新幹線ホームは2面4線が在来線ホームの南側(駅正面側)に建設され、在来線ホームが2面5線(うち1線は切欠ホーム)、電鉄富山駅ホームが2面2線となる予定である。また、現在富山駅構内と富山地方鉄道線を結んでいる渡り線は高架化後も新たに敷設され、存続の方向で検討されている。

2011年3月20日日曜日

富山平野は

富山県の中央部に富山湾に面して広がる沖積平野である。東を飛騨山脈、南を飛騨高地、西を宝達丘陵に区切られる。飛騨山脈、飛騨高地からの急流によって形成された平野で、谷口部では複数の河川による複合扇状地が見られる。用水が発達しており、流水客土などによる土地改良によって扇状地部分も含めて水田になっている。また、臨海部は工業地域となっている。富山平野は、中央部にある呉羽丘陵で大きく2つの平野に分けられ、東側を呉東平野、西側を呉西平野という。さらに、東側のうち、神通川、常願寺川の流域を狭義の富山平野、黒部川、片貝川、早月川の流域を新川平野という。西側は、庄川、小矢部川によって形成された平野で、中流域を砺波平野、下流域を射水平野という。砺波平野は散居村で有名である。富山城は、富山県富山市丸の内にあった城である。「浮城(うきしろ)」「安住城(あずみじょう)」ともいわれた。富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中中央の要衝であり、富山城は16世紀中ごろ越中東部への進出を図る神保長職により築かれたとされる。

また、滝廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城の一つといわれている。現在、城跡は「富山城址公園」となっている。室町時代の越中守護は三管領の畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏、西部を神保氏を守護代として治めさせていた。富山城は天文12年(1543年)頃に越中東部の新川郡への進出をもくろむ神保長職(じんぼう ながもと)が、椎名氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされる。しかし最近の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、創建時期はさらにさかのぼると考えられている。また、神保氏時代の富山城は今の場所ではなく、約1キロメートル南方の小高い所にあったとする説もあったが、この発掘結果によってほぼ現在の位置にあったことが明らかとなった。なお、天文年間(16世紀中期)の名称を「安住の館(あずみのやかた)」とする研究者もいる。富山は越中国の中央で、飛騨と北陸道がまじわる交通のかなめにあり、松倉城主椎名氏、越後上杉氏、一向一揆などの勢力による争いが繰り返された。

慶長年間以前に成立の『富山之記』には、神保氏時代の富山城と城下の発展の様子がくわしく書かれている。越中を窺う上杉氏に対抗するため神保氏は織田方につき、富山城は織田信長によって越中国に封じられた佐々成政によって改修され越中支配の拠点となった。天正9年(1581年)織田信長の重臣佐々成政が越中の領主となり富山城に入城した。成政は富山城の大規模な改修を行った。神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれた。 本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。この際に、秀吉は本陣を富山城西方4kmの白鳥城まで進めたものの富山城には入らず帰還したとするのが従来の定説であるが、天正13年閏8月1日に富山城に入城していたとする説が新たに提起されている。

越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。寛永16年(1639年)、加賀藩2代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩ができた。翌寛永17年(1640年)、利次はそのころ加賀藩領内にあった富山城を仮城として借り越中に入った。当初、居城として婦負郡百塚に新たに城を築くつもりであったが、藩の財政がそれを許さなかったため、万治2年(1659年)に加賀藩との領地交換により富山城周辺の土地を自領とし富山城を居城とした。万治4年(1661年)、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。昭和29年(1954年)富山城跡の敷地一帯で富山産業博覧会が開催され、鉄筋コンクリート構造による模擬天守が建てられ、通称「富山城」と呼ばれることになった。

この模擬天守は同年11月より富山市郷土博物館として運営が始まった。平成19年(2007年)、千歳御殿の門が、明治時代に移築された豪農の赤祖父家から城址公園内(本丸東側)に再び移築された。これは10代藩主利保の隠居所として東出丸に隣接して建てられたものである。平成20年(2008年)、移築された千歳御門の横に、市が整備していた石垣が完成した。1953年(昭和28年)以来の石垣作りであった。平成20年(2008年)から平成21年(2009年)行われた埋蔵文化財調査において、富山市民プラザ脇で三の丸大手門の石垣が見つかり、古絵図上に示されていた富山城の正門である大手門の位置や遺構の存在が初めて確認された。本丸石垣の特徴との類似から、富山藩初期(1660年頃)の築造と推定されている。これは、市内電車の環状化工事に先立って行われたものである。平成26年完成の予定で公園の再整備工事が行われており、その一環として、佐藤記念美術館から千歳御門にかけての本丸東側の堀の一部復元が計画されている。

埋め立てによって失われた搦手門の枡形(外桝形)も再現される予定である。博覧会から半世紀が過ぎての整備で戦後復興期のイメージを変えつつある。富山城の縄張りは藩政期を通して大きな変化は見られなかったが、嘉永2年(1849年)に10代藩主利保の隠居所として千歳御殿が東出丸の外側(東側)に建てられた。名称こそ「御殿」であるが、その形状は周囲に水濠を設けた独立郭であった。江戸時代後期には東西約680メートル、南北約610メートルの縄張りがあったが現在城址公園として残っているのは、本丸と西の丸(間の水濠は埋め立て)、それらの南面の水堀および二の丸の一部のみ(東西約295メートル、南北約240メートル)で、面積では約6分の1である。本来の富山城は石垣は主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっている。総欅造り。1849年、千歳御殿の正門として建てられた富山城唯一の現存建築遺構。創建当初のものではなく安政2年(1855年)の大火で焼失後の再築との説もある。

門形式は三間薬医門(さんげんやくいもん)といわれる格式の高い城門建築で現存する同形式の門は東大の赤門(旧 加賀屋敷御守殿門)だけである。 「平成の石垣」 千歳御門脇(南側)の2008年に完成した石垣。幅11メートル、高さ7メートル、奥行き12メートルで、富山城の石垣に使用された早月川の御影石を用いている。

2011年3月19日土曜日

海運業では

特定重要港湾伏木富山港があり、企業向けの海洋深層水の取水なども行われている。漁業も盛ん。黒部川や神通川などの水とダムの発電により、富山湾岸では戦前から紙、繊維、化学など多くの工場が発達した。特に電力を求めてアルミ精錬工業が立地し全国一のシェアを誇るほか、アルミを使う関連産業が集まる。現在でも北陸電力の電気料金は全国で最も安い。水深の深い富山湾では、北前船などの時代から港湾が栄えており、今でも伏木富山港は日本海側を代表する港湾として木材や中古車などの交易が行われている。富山県域の富山湾では人工的な利用が進んでおり、天然海岸は0.1%以下しか残っていない。これは、海岸線を持つ都道府県の中では2番目に少ない比率である。また、そもそも富山県の海岸線は直線的であるため、海岸線を持つ都道府県の中で海岸線が3番目に短い。豊富な海産物が観光に利用されている。富山県ではその中でもブリとホタルイカとシロエビの3種を県の魚として公式にPRしている。

常願寺川河口から滑川市をはさんで魚津港にかけての沿岸一帯がホタルイカの群遊海面として指定されているほか、魚津港そばには魚津埋没林があり、それぞれ特別天然記念物に指定されており、魚津市には魚津埋没林博物館という博物館がある。近隣には魚津水族館とミラージュランドという遊園地もある。一帯は蜃気楼の展望地としても知られるが、タイミングが不定期なので一般的な観光資源とはなりえていない。射水市の海王丸パークには帆船海王丸が公開されている。伏木富山港は、富山湾沿岸にある伏木港(高岡市)、富山港(富山市)、富山新港(射水市)の総称。正式には伏木港を伏木富山港 伏木地区、富山港を伏木富山港 富山地区、富山新港を伏木富山港 新湊地区と呼ぶ。港湾管理者は富山県。港湾法上の特定重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。富山県の主要な港湾で、富山県を含む北陸工業地域、ひいては中華人民共和国、大韓民国、ロシアなど、環日本海圏の交易拠点として重要な役割を担っている。

伏木富山港のヘドロにはダイオキシン類が含まれており、その面積は41haで、環境基準を超過する汚染底質量は286千m3であり、底質汚染のダイオキシン類濃度は160 - 10,000 pg-TEQ/gと国土交通省が発表している。富山弁は、富山県で話されている日本語の方言である。北陸方言の一種。旧国名の越中から越中方言(えっちゅうほうげん)などとも呼ばれる。北には日本海があり、東には天然の要害である親不知や飛騨山脈が交通を遮っており、富山弁は西日本方言の東限にあたる方言である。富山県は大きく分けて三地域に分けられ、富山県の中央を走る呉羽丘陵を境に、東を「呉東(ごとう)」と呼び、西を「呉西(ごせい)」と呼ぶ。また、呉西の南部にある、急峻な庄川の上流域を「五箇山(ごかやま)」と呼ぶ。これにより、富山弁も「呉東方言」、「呉西方言」、「五箇山方言」の三区画に分けられる。さらにこの区画を、「呉東東部」(下新川郡・魚津市・黒部市)、「呉東西部」(滑川市・中新川郡・富山市)、「呉西北部」(氷見市)、「呉西南部」(新湊市・射水市・高岡市・小矢部市・砺波市・南砺市)、「五箇山」(南砺市五箇山地域)に分ける場合もある。

またこれらとは別に、富山弁全体を「新川方言」(魚津市・滑川市・黒部市などの旧新川3郡)、「中部方言」(富山市・高岡市など)、「氷見方言」、「五箇山方言」に四分する見方もある。いずれにしろ、五箇山は他地域とかなり異なる方言を持っている。県内全般に西日本方言の特徴を有するが、呉東方言には東日本方言の特徴がいくらかある。一方で音韻体系では、富山弁には東北方言と共通する要素もある。断定の助動詞には「や」と「じゃ」を広く用いるが、主に呉東で「だ」や「でぁ」も用いる。県内の方言差は比較的小さいが、呉西は、呉東の新川郡の大部分と共に加賀藩の直轄領だった期間が長かったこともあり、方言も風習も石川県と似通ったところが多く見受けられる。また、かつて越中に属したこともある石川県能登の方言は、金沢弁の「〜まっし」と富山弁の「ちゃ」(後述)のどちらも使うなど、富山弁と共通する面がある。尊敬語表現には、呉西では近畿方言と同じく「〜はる」や「〜はった」を多用する。

高岡市周辺では丹波弁や播州弁などと同じように「〜てや」や「〜たった」を多用する。新川地域や砺波地方・射水市では「〜しゃる」や「〜しゃった」や「〜しゃい」も多用される。「行こう」を意味する表現には、呉東では「いかんまいけ」、呉西では「いこまいけ」を使う。また軽い命令には「いかれ」「しられ」「こられ」のように「られる」の命令形「られ」を使う。「いかんまいけ・いこまいけ」や「いかれ」に相当する石川県加賀の方言は「行きまっし」であるが、「〜まっし」の場合、富山弁よりも強制的な言い方となり、「○○しな」の意味の方が近い。富山県のアクセントは垂井式アクセントである。音の下がり目のみを区別する体系であり、京阪式アクセントのような語頭が高いか低いかを区別する体系ではない。下がり目の直前の拍をアクセント核という。二拍名詞のアクセントは、県内ほぼ全域にわたって共通し、周辺地域のアクセントとの境界も県境に一致するとみられるが、五箇山の一部で県内主流のものとはやや異なったアクセントが用いられる。

県内の主流アクセントでは、二拍名詞のうち、第1類(顔・風など)と第4類(糸・稲など)は平板型に発音される。また、第2類(音・紙など)と第3類(池・足など)、第5類(雨・春など)は、二拍目の母音が広母音(a、e、o)なのか狭母音(i、u)なのかによって変化が起きる。第2・3・5類のうち、二拍目の母音が広母音のもの(音・池・雨など)は尾高型であり、二拍目が高く、後に続く助詞が低く発音される。二拍目の母音が狭母音のもの(紙・足・春など)は頭高型であり、一拍目が高く二拍目は低くなる。このような母音の広狭による型の分裂は隣の石川県にもみられるほか、北奥羽方言や出雲方言にもある。また、動詞と形容詞の言い切りの形では、全ての語が、二拍語は頭高型、三拍以上の語は中高型で、後ろから二拍目にアクセント核がある。

2011年3月18日金曜日

江戸後期~幕末には

財政問題とそれに関わる権力争い(蟹江監物一件・富田兵部一件)から宗藩の介入を招き、最後の藩主となった13代利同を加賀藩から迎え、また富山詰家老の派遣を受け入れた。明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって富山県となった。同年11月に旧加賀藩領の礪波郡と新川郡を併せて新川県となり、明治5年(1872年)9月には射水郡も編入して越中が一つの県となる。明治9年(1876年)4月に一旦石川県に合併されるが、明治16年(1883年)5月に越中4郡を再び分けて富山県を設置し、現在の富山県の領域が確定した。富山平野の一部を縦横に分かちながらも、概ね現在の富山市内を流れる大小の河川を境界に充てていた。具体的には、南端で越中国と飛騨国の国境線上を起点とした場合、神通川(笹津のやや下流地点まで) ‐ 平野部を横断(長走、下タ杉、八木山、東大久保、合田が藩領 ) ‐ 熊野川 ‐ 平野部を横断(青柳新、牧田、青柳、布目、大浦、花崎、荒屋が藩領) ‐ 常願寺川(三室荒屋から馬瀬口辺り) ‐ 清水俣用水 ‐ 鼬川 ‐ 赤江川 ‐ 神通川、と山間部から平野部を縦断し、北端にて富山湾の沿岸部を終点とするラインであった。

平野部において、嘗ては加賀藩領との境界を識別できるように、長走から合田にかけて堺松が植えられた。又、大庄には境塚が築かれた。概ね砺波・射水両郡と婦負郡との郡境が充てられた。但し、射水市の北野・山本・椎土・土代地区は藩領であった。また、射水平野においては、住吉・金草など呉羽丘陵に近い側が藩領とされた。花木は境界線上にあった。野口・二ツ屋・本郷・中沖・布目、そして富山湾に至り、打出までが藩領となった。針山新は富山藩の飛地であった。古代より続く越中国と飛騨国の国境が充てられた。但し、白木峰の南、大長谷川・久婦須川の水源地帯、すなわち楢峠以北の万波高原は、主に伐採地の境界を巡り飛騨側との紛争が頻発した。延宝2年(1674年)の裁決で、富山側の領有主張が幕府に退けられた後、藩はこの地域を論地山として別扱いにした。農村の管理・徴税の仕組みとして宗藩と同じく十村制をとっていた。藩政初期から積極的に新田開発に取り組み、惣高は元禄11年(1698年)に13万9千石弱、明治3年(1870年)には15万8千石余に達していた。

年貢米の内1万石から1万5千石が上方(大阪廻米)に、5千石程が飛騨(飛騨登米)へ領外移出された。2代藩主・正甫は製薬に興味を持ち、薬の製法を領内に広め、越中売薬の基礎を築いた。売薬業は、先立つものとして立山その他の山岳修験者による修験売薬があったが、藩が力を入れた売薬業者がやがてこれにとって代わり、元禄年間には全国に渡る行商圏が確立された。やはり他国に配置行商したものに蚕種があり八尾町がその中心であった。その他の産物としては、山間部での製紙、呉羽丘陵での茶の栽培などが挙げられる。また、現在、駅弁として知名度の高い富山名産の鱒寿司は、3代利興の頃に鮎寿司とともに作られるようになったとされる。飛騨方面との交易が盛んで、米や海産物の他、加賀藩で生産された塩(能登塩)も富山藩を通じて販売された。武士に対する教育機関として安政2年(1773)年に創設された富山藩校広徳館があった。藩校としては全国で六十二番目のものであり、宗藩の加賀藩校明倫堂(1792)に比べ二十年も早い。

これは六代藩主利與が人材育成のため、財政難の中の強い反対を押し切って設立したものであり江戸の昌平黌に範をとった。他に私塾として臨池居、岡田塾などがあった。庶民の教育機関としては寺小屋があるが、越中の寺子屋では農民の師匠が多いことに特色があった。一般的には僧侶・神官・浪人が師匠となることが多いが、越中においては真宗王国と目されるにもかかわらず僧侶の師匠は少なく、大半が有力農民や地主が務めた。また、ほとんどが男であり、女師匠は一名が知られるのみである。他地域に比べると読み書き算盤のうち算術が重視され、富山町では一般的な教本の他に、『薬名帳』・『調合薬付』といった地場産業である売薬業を考慮したものが用いられるという特徴もあった。富山湾は、北陸地方北東部に位置する湾。日本海では最大の外洋性内湾である。日本の湾のなかでも、水深の深さと魚の豊富さで知られている。また、春と冬には蜃気楼が発生することで知られる。能登半島の付け根にある大泊鼻(石川県七尾市)と生地鼻(富山県黒部市)を結んだ線よりも南側の海域を指す。

旧名は有磯海(ありそうみ)である。富山湾の地形は特徴的である。海岸沿いには浅い部分がほとんどなく、急に海底に向かって落ち込んでおり、海底地形は非常に険しい谷(「あいがめ」と呼ばれる)と尾根が多い。湾の大部分は水深300m以上にも及び、一番深い部分は1,000mを超える。海底が深く地形が複雑なため、冬の日本海北部で起こる荒波は富山湾内に入っても速度を緩めないまま海岸に押し寄せる。天候に関係なく襲ってくる、こうした波は「寄り回り波」と呼ばれ、海岸を浸食し、時には沿岸の集落に押し寄せる。2008年には、大規模な寄り回り波が富山湾沿岸を襲い、入善町などで被害を出した。深海部はまだ未知の部分が多く海洋研究開発機構などが盛んに研究している。その結果の一つとしてユーモラスな外見で知られる珍種オオグチボヤの群生地が発見された。生きた個体が採取され魚津水族館などで展示されている。

入善沖の海底には、10,000年前の森林の立ち木がそのまま残された海底林がある。また、魚津の海底には、2,000年前の森林が土砂に埋まったあと海面上昇で海面下に保存された魚津埋没林がある。海岸沿いに浅い部分がほとんどなく、急に海底に向かって落ち込む地形のため、富山湾には島や岩礁が少ない。特に東部は島がなく、湾内で島があるのは西部の高岡市や氷見市の沿岸のみである。湾内の島や岩礁で主なものは東から時計回りに以下の通り。このうち周囲100mを超える比較的大きなものは、大きい方から虻が島、唐島、男岩の3島のみである。雨晴海岸などの富山湾西部の海岸は、島や岩礁を抱く富山湾越しの立山連峰を望む景勝地となっている。水深300mより深い部分には水温1~2度ほどの冷たい日本海固有水(海洋深層水)があり、冷たい海に住む魚類が棲んでいる。また300mより浅い表層部では、暖流である対馬海流が湾内に入ってくるため、ブリなど南の温暖な海の魚類も同時に棲んでいる。

このため、富山湾には日本海に生息する魚類の半分以上があり、獲れる魚の種類が非常に多い。その他、海底谷は貝やえびなどの生物の住処であり、加えて黒部川など多くの河川が森からの栄養を海底に送り込むため、多くの魚が繁殖できる豊かな漁場になる条件がそろっており、ブリやホタルイカを捕獲する定置網漁業が古くから発達している。対馬海流が湾内に入るため沿岸は緯度の割には温暖であり、暖温帯の南方に多い常緑広葉樹林が湾岸部に多く分布している。

2011年3月17日木曜日

状況を打開すべく

総曲輪・西町では再開発構想が複数提案されている。2007年9月に新富山大和を核とした商業施設『総曲輪フェリオ』が開店した。旧大和跡地については、富山市立図書館、富山第一銀行本店、ガラス美術館、公文書館などが入居する複合ビルとなることが決定した。中心商店街は総曲輪通り商店街と中央通り商店街である。この二つの商店街はアーケードで連続しており、二つを合わせたアーケードの長さは1kmにもおよび北陸最大の規模になる。反面、その長さゆえ集客効率が悪く、中央通り商店街の一部分でシャッター通りを生む一因となっている。中央通り商店街の一部を商店街と住宅街に分けて商店を一箇所に集約するという構想がある。夜の歓楽街は桜木町である。表通りに面していないため夜でも分かりにくい場所にあるが、飲食店街としては県内最大である。2000年、婦中地区に大型のショッピングモール『フューチャーシティ・ファボーレ』がオープンした。また、市の環状道路である県道富山環状線(草島東線・西線)沿いの掛尾町や山室、中川原付近ではロードサイドショップの出店が相次いでみられる。

富山市は、日本海側屈指の工業都市である。戦前より続く産業として、江戸期までさかのぼる事が出来る「くすりのとやま」に代表される製薬産業や、全国屈指の製造量を誇るベアリング等の工業機械製造業がある一方、昭和後期のエレクトロニクスやロボトロニクス関連産業の隆盛により、地域内で蓄積された先進的な微細加工技術によって精密工業製品や各種微細加工素材、精密自動車部品、高機能ロボットなどの製造業が台頭している。これら工業の製造研究拠点としての発展を裏付けているものは、安価な電力供給と良質で豊富な工業用水を容易に得られる地理的条件、富山大学・富山県を中心とした産学官連携研究施設の充実、そして重要特定港湾「伏木富山港富山地区」や北陸自動車道、東海北陸自動車道等による太平洋側工業地域と環日本海側諸国への交通の利便性を兼ね備えた地域である事が挙げられる。富山県は全国で最も農耕地における稲作率が高い県である。

富山市郊外にも水田が広がり、富山市でとれる米は「八町米(はっちょうまい)」という名前でブランド化されている。呉羽地区では後述の梨園が広がっている。また、旧八尾町の黒瀬谷地区では、わずかながらブドウを生産している。水産業は、海岸部西部の四方と東部の水橋に漁港がある。また、かつては神通川にマスが遡上しており、それによってできた名産が鱒寿司である。富山市の果実生産の97%(2,702t)を占める梨は、富山市の全耕種出荷額の9%を担っている。また、県内出荷量の70%を占め、県内の梨生産の中心である。全国の出荷量に対しては0.8%を占めている。富山市では呉羽、老田が産地であり、ここで採れる梨は呉羽梨と呼ばれている。小杉・大門地区(射水市)で作られる梨も同様に、呉羽梨と呼ばれる。呉羽の農業は、もともと稲作が中心であった。しかし、呉羽の多くを占める呉羽丘陵は水の便が悪く、日照りが続くと田が干上がってしまう土地柄だったため、1920年代から梨作りがはじめられた。

現在呉羽丘陵には梨畑が広がっている。鈴木亭 - 1877年(明治10年)創業。「杢目羊羹」は県木立山杉の年輪を模した富山の伝統銘菓。皇室献上羊羹。月世界本舗 - 1897年(明治30年)創業。「銘菓 月世界」は、暁の空に浮かぶ淡い月影のイメージから名付けられた。竹林堂本舗 - 1790年(寛政2年)、富山藩より拝命した「竹林堂」。富山饅頭の代名詞。磯野屋 - 無花果を使った菓子を得意とする。2002年(平成14年)菓子博で外務大臣賞受賞。ボン・リブラン - 富山県東部に起源を持つ菓子本舗。「富也萬」「甘金丹」などで知られる。ここでは、2005年3月までの富山市に該当する事項について述べる。富山市(-2005年3月31日)は、北陸地方の西部、富山県の中部にあった市。2005年(平成17年)4月1日に、7市町村の合併によって、富山市(2005年4月1日-)の一部となった。新・富山市のうち、2005年(平成17年)3月31日までの富山市の地域が、旧・富山市と呼ばれる。

新・富山市は新設合併によって設置された自治体であり、2005年3月までに存在した富山市は、合併によって廃止されている。制度上では、新・富山市と旧・富山市は、全く別の自治体である。郡については、旧・富山市の市制施行時の区域は上新川郡に属していた。現在の富山市の市役所本庁舎は、旧・富山市の市役所本庁舎がそのまま使用されている。「暴走族」発祥の地。1972年(昭和47年)、オートバイに乗った不良集団が富山市の中心市街で起こした騒動がマスコミに取り上げられた際、初めて「暴走族」という語が使用された。地元では勘違いしている人間も多いが、不良がバイクに乗って集団で暴走するという行為が富山市で始まり、全国に広がったわけではない。新田次郎の小説「劔岳 点の記」に登場する山案内人・宇治長次郎は旧大山町の出身である。富山藩は、越中国の中央部(おおむね神通川流域)に領地を持った藩で、石高は10万石、加賀藩の支藩である。藩主は前田氏で家格は従四位下・大広間詰・外様・城主。

藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗藩の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。寛永16年(1639年)、加賀藩第2代藩主・前田利常(利長の弟)が隠居するとき、次男・利次に富山10万石、三男・利治に大聖寺7万石の分封を願い出て許され、富山藩が成立した。富山藩の当初の領地は越中国婦負郡の内6万石、新川郡黒部川西岸の内1万6800石、富山町周辺7カ村3170石、加賀国能美郡手取川南岸の内2万石の計10万石であった。1640年、利次は加賀藩領内にあった富山城を借りて越中入りし、婦負郡百塚に新たに城を築く予定であった(そのため当時、利次は百塚侍従の称号で呼ばれていた)が費用が足りず、築城が進まないまま、やがてこれを断念して富山城に引き続き居する事を決め、万治2年(1659年)に居城が自領外という不便の解消ということもあって、加賀藩領であった富山城周辺の新川郡舟橋・水橋(2万7千石)と、自領の新川郡浦山辺(1万6800石)及び飛び地であった加賀国能美郡とを交換して藩領が定まった。

そして、1661年に幕府から富山城改築の許しを得て、城と城下町の整備が本格的に進められた。富山町は越中における唯一の城下町であり、他は在郷町と呼ばれる農村地域に存在した商人の町で、あとは農村であった。新田開発により享保年間には総高は14万石を超えていたとされ、また漁業、売薬業、蚕種業、製紙業などに力を注ぎ実質的な石高は20万石以上あったとされるが、藩の財政は成立時より常に逼迫しており、上方や飛騨の豪商、また宗藩である加賀前田家から多大な借財を抱えていた。ただしこれは藩財政が放漫であったことを意味するのではなく、分藩の際に宗藩から過大な家臣団を押しつけられたこと、そして藩領が急流河川域であったためたびたび水害に見舞われ、また天保2年(1831年)の城下の大半が焼失した大火、安政5年(1858年)の大地震による大洪水などの災害と、度重なる公儀普請手伝いにより過大な出費を強いられたことに因るところが大きい。

2011年3月16日水曜日

1889年4月1日の市制施行の後

臨海部を中心として機械工業や化学工業による工業化が進んでいた。1899年(明治32年)に北陸本線が開通し、江戸時代から続く日本海航路の拠点である岩瀬港や、甲信越地方・東海地方とを結ぶ交通の要衝として発展していた。岩瀬港周辺では廻船問屋が栄華を極め、特に大きな廻船問屋は馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家の五つの問屋であった。なかでも馬場家はその八代目の妻である馬場はるが旧制富山高等学校の設立に尽力し、現在の金額で総額160億円もの寄付を行い、富山市初の名誉市民となっている。また、売薬業においても江戸時代から着々と積み重ね、大きく成長した薬問屋が隆盛していた。中でも荻原氏、中田氏、金岡氏、密田氏、松井氏などが特に大きな富山市在地の問屋として知られていた。彼等の中から、北陸銀行初代頭取である中田清兵衛や、北陸電力の前身となる富山電灯の創業者である金岡又左衞門が生まれている。昭和3年に、県施工の「富山都市計画事業」(運河・街路・土地区画整理事業の3本柱)が採用された。

富山駅の北側と神通川河口の東岩瀬港とを直結する富岩運河により工業地帯を形成、116万立方メートルの運河開削土砂を得て、約117ヘクタールの旧河道(神通廃川地)を埋立て、新市街地を造ろうという一挙両得の計画であった。昭和11年には神通廃川地の埋立地で、日満産業大博覧会が開かれ、この時期に、富山県庁や富山電気ビルデイングなどの近代建築が建ち並び、富山市の都心部となるに到った。現在、屋形舟や桜並木で市民の愛着を得ている松川や、宮本輝の小説『蛍川』や同名映画で有名ないたち川は、神通川の旧河道の痕跡である。この開削埋め立て計画は或る都市計画エンジニアの人生についてにあるとおり、富山県の都市計画富山地方委員会技師、赤司貫一によるもので、白井芳樹(元富山県土木部長)が著した「都市 富山の礎を築く」~ 河川・橋梁・都市計画にかけた土木技術者の足跡 ~2009年技報堂出版や「昭和初期の富山都市圏における土木事業と三人の土木技師」(都市計画 55(4), 94, 2006年8月25日号)などに詳しく記されている。

なお、都市計画地方委員会は、道府県ごとに設置され、赤司貫一は内務省から送りこまれた都市計画担当の技師である。赤司は十年間富山に勤め、立案から事業の概成まで、一貫してたずさわった。第二次世界大戦の末期、1945年(昭和20年)8月2日の富山大空襲によって、死者2,275人を出し、市街地の99.5%が焼失する被害を受け、城下町としての入り組んだ町並みや面影は破壊された。1950年(昭和25年)、戦後の焼け野原になった富山市において都市計画が策定された。富山駅を中心とした放射状道路と碁盤目の直交した道路によって構成された近代都市計画が推し進められた。戦前から存在した港湾設備や重化学工業や機械工業の復興が行われ、高岡市、新湊市(現:射水市)などの臨海部を占める地区と一体となった工業地帯を形成した。更に工業の発展とともに需要の高まりを見せた電力供給のため、河口域には大規模な火力発電所が整備された。そうして富山市は高度経済成長期を駈け抜けた。

1955年頃-1970年代、イタイイタイ病が発生。これは、四大公害病の一つで、岐阜県の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)による鉱山の製錬に伴う未処理廃水が神通川に流入、下流域である熊野、神明(旧富山市)、婦中(旧婦中町)で発症する人が現れた。2005年(平成17年)4月1日:富山市が発足した。2007年(平成19年)2月8日:富山市の中心市街地活性化基本計画が第1号として認定される。436ヘクタールが対象で、病院や介護施設、商店を中心部に集約し、高齢者らが次世代型路面電車などを核に、車に頼らず暮らせる環境づくりを進める計画。バス路線の支援事業やJR高山本線の増便事業、富山ライトレールなどの公共交通機関支援事業を実行している。2007年(平成19年)3月25日 午前9時42分ごろの、能登半島地震の地震で市内では新桜町・婦中町笹倉地区で震度5弱、石坂 八尾町福島・今泉・上二杉・花崎・山田湯・楡原地区で震度4を観測した。郊外型、拡散型のまちづくりが進んだ結果、富山市は車での移動には便利であるが、車がないと大変不便な街になった。

このように、人口・都市機能が市域全般に広がった状態では、道路の整備やごみの収集などの公共サービスのコストが増加する傾向がある。さらに、人口が減少し、三位一体の改革で国からの交付金や補助金が減少すると、社会の維持が難しくなる。そこで、富山駅を中心に放射状に伸びる鉄軌道や幹線バス路線の各駅を拠点にまちの整備が進められている。このようにすることで、車がなくても便利で、さらに公共サービスのコストを抑えることができるとしている。そのため、次のような施策が行われている。まちなか居住推進事業 - まちなかでの住宅取得費用や賃貸住宅の家賃への補助を行い、都市地区への人口回帰を促す。2006年(平成18年)、中心市街地の人口は増加に転じた。富山ライトレールの開業 - 利用者の減少が深刻な問題となっていた富山港線を一部路面電車化して本数を増やし、またバスの周回時刻に合わせるなどして利便性を向上させた。富山地方鉄道市内軌道に環状線を新設することで、LRTの新型車両により富山駅周辺と中心商店街とを結んでいる。

高山本線(活性化)社会実験 - 運行本数を増やすとともに、各駅でフィーダーバスの運行や無料駐車場を設置することで、利用者の増加を図る試み。中心市街地活性化基本計画 - 人口減少・少子高齢社会に対応した、多様な都市機能がコンパクトに集積したまちを実現するために策定する。国の1号認定が下り、補助金を受けられることになった。現在、20年後の都市の将来像を描くために、都市マスタープランを策定中で、市民の声を集めている。2007年度の当初予算規模は、約3,677億(+99億,+2.7%)である。合併して新富山市となった2005年度の当初予算(約4,410億)に比べると、約△16.6%となっている。 水道事業や病院事業などの企業会計で、520億の増加が著しい。2006年度決算(平成19年9月30日時点)は、約△63億(昨年比約△24億)で、赤字である。経済においても、富山市は富山県の中心地である。富山経済は、廃藩置県後の明治期の富山県においてその基を築いた。代表的なものには、北陸最大にして地方銀行全国第二の規模を誇る北陸銀行や、全国と比較して最も安価な水準の電力を供給する北陸電力の本店が富山市に所在し、富山県の経済活動の基盤を形成している。

また、富山県の経済を側面から支えている「富山大学」は、富山市民や団体の寄付行為によって生まれた旧制富山高等学校や富山薬学専門学校の流れを汲んでいる。中心商業地は総曲輪・西町界隈である。しかしバブル期以後、富山駅周辺でマリエとやまや富山ステーションフロントCiCなど商業ビルの建設が相次ぎ、本来の中心部である総曲輪・西町との客の食い合いが生じている。さらに後述する郊外型SC等の進出による打撃も大きく、年々総曲輪・西町の中心地としてのステータスは相対的に低下する傾向にある。総曲輪・西町では2006年3月に大手百貨店の西武富山店が撤退し、なおも求心力低下が危惧されているのに対し、駅周辺は新幹線開通を控え富山駅の高架化・区画整理が予定されていることから今後も発展すると考えられる。

2011年3月15日火曜日

立山連峰を仰ぐことができ

山に富んでいることから富山(とやま)と呼ばれたため。元々は藤居山という地名だったが、富山寺(ふせんじ)という寺院があったのでに次第に富山(とやま)と呼ばれていったため。富山城が築城された際に、外山から縁起よくするために富山に改名された。深山に対して外山(とやま)と呼ばれたため。富山市#昭和時代に市街化区域内は土地区画整理され、東西と南北に碁盤目状に延びる道路と、富山駅を起点とした5本の放射状道路により構成された美しい近代的な計画都市となっている。一方、古い町並みの残る八尾地区は「越中おわら風の盆」で全国的に知られ、多数の観光客が訪れる。富山市街地に相当する神通川下流域は、複合扇状地の恩恵により、大化の改新よりも前から、北陸道における農作地として存在していた。神通川西岸には、古代氏族である射水臣氏が有力氏族としており、この射水臣氏は、国造である大河音足尼を出した伝統的氏族として知られる。呉羽山にある古墳群は、この射水臣氏の血統の祖であると考えられている。

天平期においては、現在の富山市東部(上飯野から天正寺を経て西福沢の丸山に向かう一帯を基線とする)は東大寺の階墾田「大藪庄」と呼ばれていた。また、更に東部において、現在の滑川市を中心とした地域は「堀江荘」と呼ばれた。平安期に入ると、新たに伊勢神宮領弘田御厨(富山市広田地区)、長講堂領新保御厨(富山市新保)、新熊野社領立山外宮(富山市太田若しくは吉岡)などの荘園が立荘された。また、北陸道における駅として、磐瀬(富山市岩瀬)、水橋(富山市水橋)が配置されていた。そのうち水橋は、「枕草子」において「わたりは、しかすがのわたり、こりずまのわたり、水橋のわたり」として記されている。律令制度において、貴族社会を根底から支える貴族私有地制度「荘園」は拡大し、白河・鳥羽・後白河の三代院政期において、さらに増加した。当時、実質院分国であった越中国において、藤原顕隆の勧修寺一族の遠戚である宮道氏が留守役として下向していた。

白河法皇が死去すると、在地において知行国として荘園を管理する体制が現れた。堀江荘は藤原顕隆一門(勧修寺氏)が、般若野荘・宮川荘を藤原公能一門(徳大寺氏)が、高野荘を藤原実行一門(三条氏)が支配した。勧修寺氏の留守役である宮道氏は堀江荘や太田保(富山市太田)を私領支配し、その分家筋である太田氏や蜷川氏の祖となった。その他の荘園も、同様に在地の私領支配へと移っていった。源頼朝の知行である鎌倉時代になると、南部に広がる太田保が北陸道大将軍に任ぜられた幕府の御家人、北条朝時(名越)所領となった。これは、平氏の知行もなかなか受け入れず、木曾義仲に与し、源義経の逃亡路となったという、幕府にとって都合の悪い越中国の国人達を牽制したものである。その一方で堀江荘における宮道氏は荘園を安堵され、太田氏も太田保を除く開発領を安堵されており、在地の者に対する御家人への道を残している。このころ、名越朝時の被官として後の新川郡守護代家である千葉一族椎名氏が入部し、在地に土着した。

越中国守護北条朝時(名越)は、執権北条氏における有力庶流の血統であったため、北条氏嫡流の弾圧を受け続けた。そして、名越時有の代になると、六波羅探題が壊滅、在地武士の離反にあって最後は一族79人が放生津城にて割腹し、最期を遂げた。時近くして、鎌倉において、北条高時が自害、鎌倉幕府は滅亡した。南北朝時代に入り、観応の擾乱で活躍した越中守護桃井直常は、太田保布市の興国寺周辺を拠点として反幕府運動を展開した。直常は一時幕府に帰順したこともあるが、斯波氏との対立により再び越中に下向して反抗した。桃井氏は長沢(富山市長沢)などで抗戦を繰り返したが、1371年(応安4年)に砺波郡五位荘の合戦後、直常は消息不明となり、斯波氏による越中掌握が進んだ。一方、神通川と常願寺川に挟まれた地域に広く拡大した太田保は、室町幕府管領細川家領となり、太田保北部に柳町(富山市柳町)などの町が誕生する。斯波氏と細川氏は幕府内で対立関係にあり、斯波氏が越中守護として桃井氏を没落させた後も細川氏は太田保を所領し続けたため、桃井氏の残党や国人は、太田保に逃げ込み、細川氏の庇護を受けた。この頃、太田保領内に富山郷が現れる。

1377年(永和3年)、越中国人の謀反が起き、守護斯波氏と合戦になった。その破れた越中国人を管領細川頼之は太田保で保護し、そこに斯波氏が攻め込むと言う事態に至った。激怒した細川頼之は代官篠本氏を派遣し斯波氏と対峙させ、事態は一触即発の状況となった。この状況が続き、やがて京における細川追い落としの動きが強まり、細川頼之は管領を罷免され、斯波義将が管領となった(康暦の政変)。ところが、細川氏は太田保を手放さずにいたため、ついに越中国守護は斯波氏から畠山基国に譲られる。以降160年にわたり、越中国の守護は最後の畠山稙長に至るまで、畠山氏の世襲となる。戦国時代以降、婦負郡・射水郡分郡守護代であった神保長職によって太田保北端を流れる神通川の自然堤防上に富山城が築城され、城下町としての富山町が発展した。一向一揆の平定により越中国の守護となった佐々成政が入城し、柴田勝家と伴に上杉軍の魚津城を攻め落とす拠点となった。当時、佐々成政によってなされた治水事業は河川の氾濫を制えて、以降の下流域全体の発展に至った。

江戸時代に入ると、南部に土方氏の布市藩が成立した。その後布市藩は能登に移封され、加賀藩二代藩主前田利長が富山城を隠居地とした。1609年(慶長14年)に富山城が焼失したため、利長は高岡へ移った。その後、利長養嗣子となった三代藩主前田利常が隠居する際、その子前田利次に越中54万石のうち婦負郡一円の地と富山を含む新川郡の一部10万石を分封し、富山藩が成立した。この分封により、富山城下は富山町として現在の富山市中心市街区が整備され発展した。また、富山藩二代藩主前田正甫(利次の子)が製薬を推進したため、薬の製造と販売を一括して行った上にそれを顧客の自宅に配置するという特殊な業態を創造し、それを中心とした産業が発展した。中世以来三津七湊の一つとして栄えた岩瀬地区では北前船などの日本海航路の拠点として発展した。1871年(明治4年)8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県により、富山藩領は富山県となり、加賀藩領は金沢県となった。同年12月31日(旧暦11月20日)に富山県は金沢県の礪波郡・新川郡とあわせて新川県となった。

1873年(明治6年)9月6日には新川県の県庁が魚津から富山城址に移転した。1876年(明治9年)4月18日に新川県は石川県に編入されたが、1883年(明治16年)5月9日には石川県から新川県が分離され、富山県に改名された。以来、富山は富山県の県庁所在地となった。

2011年3月14日月曜日

立山連峰の豊富な水資源と水力発電を利用して

産業が発達している。特に電気料金は北陸電力が日本で最も安い電気料金を実現しており、多量の電気を必要とするアルミ精錬とその関連産業が栄えてきた。臨海部を中心として石油精製、重化学工業、各種電気製造が発達している。特定重要港湾伏木富山港では大量の原料の輸入と製品の輸出が行われている。「越中の薬売り」の伝統から医薬品の製造・販売が盛んである。製薬業は景気後退や高齢化の進行に強い。ジェネリックブームの恩恵もあり、平成不況の中にあって高い安定性を誇る。県外への輸出は伝統的に富山の売薬やブリ街道が有名である。古くから北前船で知られる日本海側貿易の中継拠点であったが、現代ではさらに環日本海貿易の拠点として発達し、中古車などの取引拠点となっている。県内商業としては伝統的には総曲輪周辺の中心市街地が栄えていた。近年では車社会化が進行し、幹線道路沿いの郊外店が主流となっている。それにともない大型店舗化が進行している。

富山市と高岡市の商圏は県内のみならず岐阜の北部や新潟県上越地方をも収めるが、隣県の金沢市の商圏と競合関係にある。伝統的に富山平野の中央部にある呉羽丘陵を境に東を呉東、西を呉西と呼んでいた。現在では市町村界によって区切った県東部・県西部という名称も使われている。おおむね呉東・呉西に一致するが、富山市呉羽地区は呉西でありながら県東部に属する。また、富山市婦負地区(旧婦負郡)は、かつて気象庁の地方区分では県西部(西部婦負)に属していたが、行政区分との統一を図るため2006年3月1日より同市他地区と同じ県東部(東部南)へ管轄変更となった。さらに、県東部を富山地区・新川地区、県西部を高岡地区・砺波地区に細分することがある。北日本新聞(1884年創刊の中越新聞より始まる。富山県を代表する言論機関)読売新聞北陸支社(実質的創業者正力松太郎が当県出身)富山新聞(石川県の地方紙である北國新聞が富山県版として発行しているもの)読売新聞以外の全国紙や北陸中日新聞も県内に取材拠点、販売網を有す。

富山県は全国紙の発行本社が東京本社・大阪本社とそれぞれ別になっている。読売新聞の北陸支社は東京本社の管轄で、当県と石川県向けに発行しているが、紙面の内容の大半は東京本社の内容をそのまま掲載している(福井県は大阪本社管轄)なお、読売新聞は2011年3月から富山市の北日本新聞社の工場『創造の森 越中座』に委託しての印刷になっている。朝日新聞は、創刊当初から1989年8月まで大阪本社版が販売されていたが、1989年9月から2011年3月末まで輸送上の問題から東京本社版が販売されていた。しかし、2011年4月から富山・石川両県の同紙を中日新聞社の金沢工場で委託印刷されることに伴い21年半ぶりに大阪本社版に戻した。毎日新聞、産経新聞、日本経済新聞は元から大阪本社版が販売されている。なお、産経の県域版は掲載されていない。スポーツ新聞は、スポーツニッポン、サンケイスポーツは大阪本社版、日刊スポーツは名古屋本社版(日刊スポーツ新聞西日本管轄)が販売されている。

スポーツ報知は東京本社発行版が販売(富山市で現地印刷)されているが、公営競技など一部の記事は大阪本社で製作されたものを掲載している。他に中日スポーツ(中日新聞北陸本社で発行)も販売されている。なお、富山県にはテレビ朝日系列の放送局がないため、区域外再送信で北陸朝日放送(5ch)を視聴できるケーブルテレビ局が多い。また、同系列の取材拠点として富山市にテレビ朝日富山支局が、高岡市に北陸朝日放送富山支局が設置されている。高岡市、砺波市、小矢部市など県西部では北陸朝日放送など石川県の放送局(魚津市でも受信が可能)、朝日町など県東部では新潟テレビ21(5ch)など新潟県の放送局を、南砺市の五箇山地域と富山市の旧細入村地域(いずれも県境付近のごく限られた地域)ではメ~テレ(6ch)など中京広域圏の放送局と岐阜県の独立UHF局の岐阜放送(ぎふチャン。8ch)を受信している世帯がある。

また、北日本放送(KNB)においてテレビ朝日の平日朝のワイドショー(『モーニングショー』→『スーパーモーニング』)が同時ネット(単発ではFIFAワールドカップ(日本代表戦)やマラソンも)されてきたが、KNBが2011年春の『スーパーモーニング』の終了を機に本来の系列番組で日本テレビ制作『爽快情報バラエティー スッキリ!!』のネットに変更したことに伴い、KNB及び富山の民放局からはテレビ朝日系番組の同時ネット番組は全廃され、富山県に所在する民放局3局でのテレビ朝日系番組の放送は全て時差ネットで放送されることとなった。富山湾に設けられた湾港群。古くより沿岸貿易路の中継拠点であった。現代では環日本海貿易の中経路として、そして北陸工業地帯と世界をアクセスする。 富山湾は黒潮親潮の潮境が生み出す豊穣な漁場であるため、漁港としても重要である。富山市は、北陸地方の富山県の中央部から南東部にかけて位置する市である。富山県の県庁所在地であり、国から中核市の指定を受けている。

また、環境モデル都市として認定されている。富山県の県庁所在地で、同県の中央部に位置する。2005年(平成17年)4月1日、(旧)富山市、上新川郡大沢野町、大山町、婦負郡八尾町、婦中町、山田村、細入村の7市町村による新設合併によって現在の(新)富山市が発足した。合併により、全国の都道府県庁所在地の中では2番目に広い総面積を持つようになった。また、富山県の29.24%の面積を占め、一つの市町村が県に占める面積の割合としては全国一である。広い総面積に対し、可住地面積比率は38.2%で、市域の約6割が林野地となっている。また、市街化区域面積比率は5.8%であり、環境モデル都市の選定を受けてコンパクトシティを目指した都市計画を進めている。合併により、「越中富山の薬売り」で知られる富山藩の城下町として栄えた地域、浄土真宗の古刹聞名寺(八尾)の門前町として発展した地域、立山信仰の登山者たちの宿場町として人々が行きかった地域など、多様な地域が包含された。

地形も変化に富み、水深約3,000mの富山深海長谷から標高2,986mの水晶岳までさまざまな動植物が生息し、ホタルイカや雷鳥などが観光資源化されている。国際会議観光都市にも選定されている。方言は富山弁と呼ばれる。富山県の中部に位置していて、県の面積の3分の1を占める。西部になだらかな呉羽丘陵が横たわるほかは、神通川、常願寺川などの川によって形成された沖積平野の富山平野が広がる。このため、南東部を見渡すと雄大な北アルプス立山連峰を一望できる。北部に目をやると、豊富な魚介類の宝庫である富山湾が広がっている。トヤマの地名は、室町幕府直臣の吉見詮頼が、応永5年5月3日に「越中国外山郷地頭職」を観勝寺に寄せた寄進状が初見である。外山郷は、越中守護所放生津(現・射水市)があった射水郡の東端である御服山(呉羽山)の東麓(射水郡からみて外側)に位置する。この地形から、外山の字が当てられたとする説がある。「富山」字は戦国時代に初見されるが、江戸時代は「富山」「外山」の両方が使用されている。この他には以下のような説がある。

2011年3月13日日曜日

富山県は

日本海に面する日本の北陸地方の県の一つ。令制国の越中国に相当する。県庁所在地は富山市。富山県は、四方を海と山脈で区切られた越中国と領域を同じくする。東の新潟県との県境は難所親不知として知られる。西部は倶利伽羅峠を挟んで石川県と接しており、戦国末期には両国の前田利長と佐々成政が争った。その後羽柴秀吉により、越中は前田利長に与えられ、江戸時代の越中は加賀藩とその支藩である富山藩に統治されていた。廃藩置県では一時的に新川県が成立するも、歴史的経緯と人口過小とみなされ、石川県に併合されてしまう。しかし石川県議会では越中の水害復旧が放置されるなど越中軽視の姿勢が目立ったことから(予算の98%を石川県側が握っていた)、分県運動が起こり、全越中が分離独立する形で富山県が成立した。南には飛騨山脈(日本アルプス)が控え、山間部には「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界文化遺産に登録されている五箇山、立山信仰などの山岳信仰で有名な立山連峰、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートなどがあり、日本唯一の氷河が発見されている。

隣接する岐阜県飛騨地方は山々にさえぎられる形で、太平洋側との交通の便が悪く、富山県との結びつきが強い。北は富山湾(日本海)に面している。特定重要港湾の伏木富山港は北陸工業地帯や環日本海貿易の拠点として発達した伏木港、富山港、富山新港の総称である。また魚津、滑川、氷見などでは豊富な海産物が水揚げされる。うち魚津から滑川にかけてはホタルイカの群遊海面、蜃気楼の見える海岸で有名である。加賀藩の支配を脱した明治から産業の発展が続き、北陸工業地帯を形成。YKKや三協立山アルミなど発祥の地として知られる。北陸銀行や北陸電力などの本拠地でもあり北陸経済の中心と言っても過言ではない。2009年現在、「近世高岡の文化遺産群」と「立山・黒部 ~防災大国日本のモデル -信仰・砂防・発電- ~」を世界文化遺産に登録することを目指している。もし登録が実現すれば、1つの県に3つの世界文化遺産を保有する県となる。また、立山連峰や黒部峡谷などを世界自然遺産に登録することを目指す動きもあり、立山・黒部地域はいわゆる世界複合遺産としての登録を目指す可能性もある。

方言としては富山弁があり、地域によって呉東方言、呉西方言、魚津弁などに分かれる。富山弁は北陸方言に属し、特に能登弁と類似性がある。「新鮮」を意味する「きときと」をはじめ、『広辞苑』に収められている言葉もある。前述の「きときと」と表現される魚介類に加え、名水百選、平成の名水百選にそれぞれ県内から4か所が選ばれるなど、名水の産地として知名度が高い。貯蓄率は高く、「越中の一つ残し」と言われるほどである。自分の家を持って一人前という風潮があり持ち家率は全国最高である。さらに家の大きさ(延べ床面積)も全国一大きい。子弟の教育にも熱心な傾向があり全国学力調査など教育関係の統計で、上位に位置することが多い。大家族傾向があるため、世帯収入が全国最高水準である。逆に生活保護家庭の割合は極端に低く、全国最低である。乳幼児を祖父母等に預けることが比較的容易なこともあって共働き率が全国最高水準である。石川の「嫁は越中から貰え」という格言は、富山の女性は働き者とされるところからきている。

この勤倹克己を地で行くような県民性は、安田善次郎のような経済的成功者を多く生み出してきた。海産物を好む食文化を持っており魚介類の消費額が全国一大きい。特にコンブ、ブリ、イカの消費額が群を抜いて大きい。北陸地方は一向一揆で知られる浄土真宗が盛んで、越中の価値観にも強い影響を与えてきた。たとえば堕胎・間引きを忌んだことから、江戸時代から人口増加率が特に高く、全国に移住者を出していた。北海道開拓においても、富山県出身者が有意に多く、北方領土からの引揚者も北海道に次ぎ2番目に多い。また、県内全域から見られる立山連峰は、山岳信仰の舞台になっていた。富山県では旧石器時代の遺跡は140以上も確認されている。それらの大半は3万年前までの後期旧石器時代のものである。そして、約2万2000年前ごろまでの前半期には東日本に分布する立つ野ヶ原型ナイフ形石器と呼ばれる石器群が、後半期には国府型ナイフ形石器と呼ばれる瀬戸内系石器群が出土している。

本県では、東西の石器文化の影響を受けたことがわかる。また、これらの石器の材料は本県の西部の頁岩系石材とともに、瀬戸内系安山岩であり、当時の人々の広範囲な活動や交流が認められる。縄文時代 氷見市の大境洞窟で新石器時代の遺物発見。大和時代 五畿七道のうち北陸道の一つとして存在する。北陸地方は、越国(高志国)であったが、645年 大化の改新の後、越前(こしのみちのくち)、越中(こしのみちのなか)、越後(こしのみちのしり)に三分割され、大宝二(702)年越中国となり、ほぼ今の富山県域と一致し、時により加減はあったが砺波(となみ)・射水(いみつ)・婦負(ねひ)・新川(にひかわ)の四群から構成された。701年 越中国の国司である佐伯有若の子、佐伯有頼によって立山が開山し、雄山神社が開かれる。特筆すべき資源として豊富な水資源とそれを利用した水力発電がある。 そのため越中は古来より米所であった。富山県は明治から昭和にかけてこの電力を生かして第一次産業から第二次産業、つまり日本海側屈指の工業地域(北陸工業地域)へと産業転換を果たした。

ただ第三次産業への転換は首都圏一極集中の流れから、遅れがちである。そのため情報処理業はインテックなど企業向けが中心である。一方で地方としては珍しいアニメスタジオ(ピーエーワークス)がある。農地は減少傾向にあるが、耕作地における水田率は全国1位 (95.9%)。砺波地区においては明治時代から続くチューリップの栽培が盛んであり、異彩を放っている。北部に占める富山湾の恩恵により、漁業も盛んであったが、近年定置網漁を除く、その他の漁業は衰退の傾向にある。しかし、国民のグルメ指向と輸送時間の短縮化により、従来は移送が不可能であったシロエビなど、今まで売れなかった商品が注目されている。農業:米、砺波のチューリップ、福光の干し柿、入善のジャンボ西瓜。豊かな漁場である富山湾を有し発達している。他県に無い特色としては伝統的なブリ定置網漁、日本唯一の群泳海域を持つホタルイカ漁、保存技術の発達で可能になったシロエビ漁など。山の大半が国立公園のため、あまり盛んではない。

2011年3月12日土曜日

この当時、放送用ビデオテープは

非常に高価なものであったが、この開会式の模様はビデオテープにカラーで録画され、NHKアーカイブスにはその映像が現存している。また、テレビの中継を担当したNHKの北出清五郎アナウンサーは冒頭で、「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます。」 の名言があった。なお、市川崑監督の記録映画で開会式の場面に流れる音声は、ラジオの鈴木文弥アナウンサーのものである。開会式前日の東京は台風の影響で雨天であり、また前日に気象庁が発表した開会式当日の天気予報は「晴れ時々曇り」だった。しかし実際に開会式当日になると東京の空からは雲がほとんどなくなり快晴となった。開会式当日が荒天の場合については「(1)よほどの荒天でない限りは開会式を決行する」「(2)荒天で開会式を挙行出来ない場合は中止とし、延期はしない」「(3)開会式が中止となった場合、チケットは後日払い戻しをする」「(4)中止するかどうかは当日の朝7時に決定する」と決まっていた。

開会式当日、国立競技場のゲートではチケットを持たない者の入場を防ぐためのチェックが極めて厳しく実施されたが、膝の上に乗せられる程度の乳幼児に限っては大人1名に対して乳幼児1名までチケットが無くても入場を認めた。入場時のゲートでは入場者に対して場内を汚さない為にゴミ袋や吸殻入れを無料で配布された。開会式会場の国立競技場に隣接する神宮外苑も開会式当日は一般に開放され、こちらには約4万人もの人々がつめかけた。(神宮外苑会場についてもチケット制で、チケットの無い者は神宮外苑へは入れなかった)膨大な観客を集中させないために「御茶ノ水駅方面から電車で来る人達は信濃町駅で下車」「新宿駅方面から来る人達は千駄ヶ谷駅で下車」を実施させて混雑を分散化させた。東京オリンピック号は、東京都西多摩郡日の出町が運営するコミュニティバスである。日の出町が通学アクセスや生活アクセスの目的として、2008年6月10日に運行を開始した町内循環バスである。但し、このバスは町民以外は基本的には乗れない。

なお、同路線は、2001年6月に町内循環超低床型100円バス「ひのでユートピア号」として運行開始され、2008年6月9日まで西東京バスに委託されて運行していた。そのバスの廃止に伴い代替措置として運行を開始した。「ひのでユートピア号」は、町民以外も乗車できた。東京オリンピック男子バスケットボール日本代表は、東京オリンピックバスケットボール競技に出場したバスケットボール男子日本代表である。日本はメルボルン・ローマにつづく3大会連続出場を自国開催で迎えた。そのため、五輪過去最高位の10位を目標として東京教育大学の吉井四郎を監督に就任させ、前2大会に出場した斎藤博をマネージャーとして、実業団・学生のトップ選手を集めた。決勝トーナメントには進めなかったものの、初戦となるカナダ戦で2大会ぶり勝利を挙げ、オリンピック日本代表最多となる予選リーグ3勝をマーク。9-12位決定トーナメントに回り、フィンランドを退けるが、オーストラリアに敗れ、最高位タイの10位で終えた。当大会に出場した代表選手のうち、増田貴史(現姓・木内)は現在、日本バスケットボール協会の専務理事、諸山文彦は常務理事を務めている。

東京オートサロンとは、チューニングカーの祭典とも呼ばれるモーターショーである。1983年に「エキサイティングカーショー」の名称で開催された。1987年の第5回開催時に東京オートサロンに改名し、2012年(1月13日~15日予定)で30回目の開催となる。スタート当時は「チューンドカーの市民権を勝ち取る」というコンセプトから始まったため、ノーマル車や新車の展示が少なかった。ただし、新車発表を「東京モーターショー」では無く当イベントで発表した車も存在する。BCNR33型スカイラインGT-R(1995年)やBNR34型スカイラインGT-R(1999年)や、カスタムされる事も前提としていたbBや三菱・デリカD:5もこれに該当する。またBNR34スカイラインGT-Rの最終仕様、Nurもここでプロトタイプが公開されていた。近年は、オートサロンに対して当初は懐疑的であった国内の主要自動車メーカーも市場調査を兼ねて自らカスタマイズカーやコンセプトカーを出品・公開してマーケットの拡大に乗り出している。音楽面では、avexの全面バックアップにより、オリジナルCDのリリース等の他、所属アーティストによるライブも開催される。

特にm.o.v.eは、2004年から毎年参加しており、頭文字Dの主題歌等を演奏している。年始という特異な時期に行う理由は「違法行為の祭りとされていたため、会場が完全に空いている時期しか使わせてくれなかった」ためである。チューニングの規制緩和が図られた現在は合法行為であるものの、伝統的にこの時期に行われている。また、幕張メッセ駐車場には観覧客のドレスアップカー、チューニングカーなどが集まり、街道レーサーと呼ばれる車や旧車檜が多数集結し、毎年入り口で検問が行われていた。2011年は21時~翌朝6時まで駐車場を閉鎖したが、このため湾岸習志野インターチェンジから駐車場入り口まで渋滞が発生した。主催は東京オートサロン事務局(TASA)であるが、事務局は後援の三栄書房内にある。『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』は、森田童子の最初で最後のライブ・アルバム。1978年11月01日にポリドールより発売された。東京都文京区にあるカトリック関口教会の東京カテドラル聖マリア大聖堂にて録音。

1980年にポリドールからワーナー・パイオニア(現ワーナー・ミュージック・ジャパン)に移籍した際、ジャケットをモノクロ化及び一部を変更し、写真譜、語録などの特典付でレコードがワーナー・パイオニアから再発売された。1988年にCD化された。ジャケット及びブックレットは80年再発LP盤が基盤になっている。1993年にドラマ『高校教師』がヒットした際、CDがワーナー・ミュージック・ジャパンから再発売された。ジャケットはカラーになり、ブックレットもリニューアルされた。『東京カワイイ★TV』(とうきょうカワイイティーヴィー)は、NHK総合テレビジョンで放送されている女性を対象にした情報番組。字幕放送実施。2007年11月12日深夜『NHK番組たまご』“貴女に贈る3部作”のひとつとして放送され、2008年4月3日(2日深夜)より深夜番組放送枠『EYES』でレギュラー放送開始となった。この番組は、10代の後半(いわゆる「ティーンズ」世代)から20代の前半の女性を対象に制作されている。

主に東京の渋谷で流行しているファッションやアクセサリーなど毎週1つの話題に着目し、テーマに沿って番組を進行する。ロケーション取材が多く、スタッフによる街頭インタビューやアンケートもよく行われる。番組では出演者以外のタレントやファッションモデルに「○○ちゃん」という敬称を使用している(通常、敬称は省略される)。番組テーマ曲はマドンナの「Hung Up」。沢村の「エロキャラクター(エロ男爵)」ぶりはこの番組でも出ることがあり、BENIからもツッコミが入ることもある。『MUSIC JAPAN』にゲスト出演した時には沢村を「エロ親父」「沢村のセクハラ発言・行動に耐えて進行している」などと発言していた。日本の「カワイイ」系ファッションは世界でも注目を集めており、『番組たまご』で放送される以前に、『NHKスペシャル』で取り上げられたことがある。その時の反響が、この番組を生み出すベースとなった。番組の性格上、東京のショップやファッションブランドを取り上げることが多いが、ショップ名やブランド名が番組内で直接説明されることはない。

例えばSHIBUYA 109は「東京渋谷でもっとも人気のあるファッションビル」などと表現されるほか、東京ガールズコレクションの特集を行った際もブランド名を表示せず「ブランド1」などと表現されていた。ただし、公式サイトではロケ先のショップ名やブランド名などの詳細が掲載されている。

2011年3月11日金曜日

東京にて新たなアイドル誕生の流れを作る

アイドルとメディアの新たな関係性を創造する、日本最大級のアイドル見本市を目指すをコンセプトにライブのみならず、トークショー、試写会、握手会などのイベントを同時多発的に開催しイベントの様子をUstreamを利用したネット配信や9月にCS番組として放送する。また屋外にも会場を設け、チケットを持たないファンでも参加できる握手会なども開催。記者発表会参加メンバー:アイドリング!!!(遠藤舞、森田涼花、大川藍)、さくら学院(飯田來麗、堀内まり菜、杉崎寧々)、東京女子流(山邊未夢、新井ひとみ)、バニラビーンズ(レナ、リサ)、腐男塾(流原蓮次、紫集院曜介、武器屋桃太郎)、ももいろクローバー(早見あかり、百田夏菜子、玉井詩織)、YGA(谷侑加子、林沙奈恵、櫻井里佳)。東京アニメセンターRADIOwは、東京アニメセンターで放送されていたラジオ番組である。東京・秋葉原の東京アニメセンター内のサテライトスタジオで毎週火曜日17時から公開録音が行われていた。公開録音の内容はアニメセンター公式サイト内で配信されていた。

2009年3月までは、「東京アニメセンターRADIO」という番組タイトルで放送されていた。2011年1月10日のアニメセンター一時休館に伴い、2010年12月28日が最終公開録音日となる。『東京アリス』は、チャイドルブームの仕掛け人であり、また上戸彩を発掘した中森明夫による、史上初ペーパームービーのタイトル。主演した3人の女優(岡明子・小松愛子・斉藤泉)も東京アリスという名前で活動している。パンクイラストレーター「東京Aリス」とは無関係である。東京イエローページは、TBSほかで1989年10月3日 - 1990年9月26日に放送されていたバラエティ番組(深夜番組)である。竹中直人を中心とした出演者によるコントコーナー、ゲストを迎えてのトークコーナー、ゲストの歌、アイドル7人で構成された「Page7(ページセブン)」の歌のコーナーなどで構成されていた。Page7やゲストに当時の女性アイドルたちが多数出演していたため、当時のアイドルファンが注目した番組でもあった(ゲストには時々、鶴久政治、吉田栄作、幕末塾、聖飢魔II、忍者などの男性が入ることもあった)。

その後のバラエティ番組に小さな変革をもたらす。作家に加藤芳一、岩松了が参加。当番組のスタンスは後に、オリジナルビデオ『普通の人々』、テレビ朝日『竹中直人の恋のバカンス』などへと発展していく。2006年に、CS放送のTBSチャンネルで再放送されていたが、諸般の事情により、忍者の出演した第45回目の放送分のみ封印されてしまい、再放送されなかった。東京ウタカルタは、元・女性お笑い芸人(ピン芸人)。出身地は三重県亀山市。血液型B型。芸人時代の通称は『カルタ』、『カルタちゃん』。元々は出口友美という名前でアイドル歌手をやっていた。その後「クレイジーキャッツのようなコメディバンドがやりたくて」ということで、ワタナベエンターテインメント付属のお笑いスクールに入学したことが芸能界に入ったきっかけだったが、バンドをやろうにもメンバーが集まらなかったため、結局ピン芸人になったという。2006年にお笑い芸人としてデビュー、芸人時代はワタナベエンターテインメントに所属。ライブやテレビで活動していた。

その後芸人活動を辞め、アコーディオニストとなり、THE CHERRY COKE$に『TOMOMI』として加入。アコーディオンで弾くメロディーは、物憂げな感じのものなど、マイナーコードによるものが主だった。ベレー帽に羽織、着物が基本的な衣装、スタイル。部屋で引きこもったり、精神状態が極限状態まで追い詰められると面白いネタが浮かんで来ていたと言う。自分の名前、東京ウタカルタの「ル」やネタの「ね~む~れ~な~い」の「れ」など(ら行)をいう時、巻き舌で発音していた。ネタ中にはまばたきをあまりしないということも特徴的だった。東京エンカウントは、アニメ専門チャンネル「アニメシアターX(AT-X)」で放送されているゲーム番組である。2010年5月2日放送開始。お互い仲が良く、ゲーマーとして知られる声優の杉田智和と中村悠一がMCを務めるAT-Xの自主制作番組である。マンションの一室のような部屋を舞台に、MCの二人が会話をしながらコンピューターゲームをプレイしていく番組。ゲーム業界でも注目されているらしい。

取り上げられるゲームは、80年代から90年代にかけて発売されたゲームが多い。あまりメジャーでないタイトル(特にネオジオのソフト)が多く、中村曰く「時代の主流になったハードが少ない」。番組タイトルの題字は、杉田・中村の両人によって書かれたものを使用している。杉田が出演しているネットラジオ『スパロボOGネットラジオ うますぎWAVE』で中村との仲の良さを他出演者にからかわれた際、唐突に当番組について触れ「(東京エンカウントは)ガチホモハウスって呼ばれている。男しかいないから」と返している。東京オペラシティアートギャラリーは東京都新宿区初台にある東京オペラシティの中にある、近代美術や現代美術を中心とした美術館である。 財団法人東京オペラシティ文化財団が運営管理している。1999年に開館した。年約4回ほどのペースで主に現代美術の企画展を開催している。寺田小太郎の寄贈作品を中心とした東京オペラシティコレクションも収蔵、公開している。

収蔵作品は難波田龍起、難波田史男、相笠昌義、李禹煥の絵画、版画など。また、若手作家を紹介する展覧会シリーズ「project N」を企画展と同時に開催している。1964年の東京オリンピックにおけるサッカー競技は、10月11日に開幕した。10月23日に決勝戦が行われ、金メダルを獲得したのはハンガリーであった。前回大会である1960年のローマオリンピックから出場国を2つ減らして行われた。東京大会でも東側諸国の活躍が目立ち、金銀銅全てのメダルを東欧諸国が独占した。当初は16ヵ国が参加する予定だったが、イタリアはメンバーの中にプロ選手がおり、アマチュア資格の有無が問題となり棄権、北朝鮮は同国の陸上競技と水泳競技選手が非承認の競技大会に出場していたことにより資格停止となったため選手団全体がオリンピックから引き上げたそれに伴い参加国が14ヶ国となったため、グループステージは4ヶ国によるグループ2つと、3ヶ国によるグループ2つの変則的な方式で行われた。

各グループにおいて、上位2ヶ国が決勝トーナメントに進出する方式であった。試合は、東京の国立霞ヶ丘陸上競技場、駒沢陸上競技場、秩父宮ラグビー場、横浜市の三ツ沢蹴球場、大宮市(当時)の大宮蹴球場で開催された。決勝戦は東京オリンピックのメインスタジアムである国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた。また、関西のファンにも世界レベルの試合を見せたいと願う関西サッカー協会の尽力で、IOCとFIFAの了解を得て東京オリンピックでの正式競技としてではないものの、大阪市の長居および京都市の西京極において準々決勝敗退4チームによる順位決定戦(通称:大阪トーナメント)が開催された。東京オリンピックの開会式は大会初日の10月10日土曜日に国立霞ヶ丘陸上競技場で行われた。開会式前日に台風が接近したが、当日は秋晴れに見舞われた。開会式は昭和天皇・香淳皇后を始めとする皇族が臨席し、内閣総理大臣:池田勇人など日本国政府要人や国際オリンピック委員会幹部が出席して行われた。この開会式の模様は日本ではNHKをはじめとするテレビ・ラジオ全局で生中継された。特に海外でもシンコム3号を利用して全世界に衛星生中継され、アメリカではNBC、イギリスではBBCで放送された。

2011年3月10日木曜日

東京地下鉄と都営地下鉄の駅には

2004年4月1日から駅ナンバリングが導入され、各駅に路線を示すアルファベットと駅番号を示す2桁の数字が割り振られている(東京地下鉄銀座線の渋谷駅には「G-01」)。また、それ以前から路線別にラインカラーが割り振られており、利用者の利便性を図っている。東京の地下鉄の各路線は、東京都心部(23区内)各地点を縦横無尽に結んでいる。2社・局の路線・駅数の合計は、世界各都市の地下鉄路線で4番目に路線数・駅数が多い。その数は、東京地下鉄9路線179駅と都営地下鉄4路線106駅の総計13路線285駅である。なお、皇居の地下は通っていない。これは、戦前からの皇居(宮城)に対する意識に加えて、仮に皇居の下に路線を建設しても駅が設置できず、さらに東京都心は皇居を囲むようにオフィス街や官庁街が広がっており、それらを経由して路線を敷設した方が多くの利用者が見込めるからである。それゆえ、永田町や霞が関付近、大手町付近などは路線が集積し、その位置関係が非常に複雑化している。

また、東京の地下鉄は、前述の通り私鉄(一部は国鉄)との相互乗り入れが前提となっている事から、銀座線・丸ノ内線(共に集電方式が第三軌条式)・大江戸線(リニアモーター式)を除き、JR線・各私鉄線と相互乗り入れを実施している。東京の地下鉄路線網の変遷(ただしJR・私鉄などの開業・廃止は描写しておらず、2008年のものである)なお、民営化した東京地下鉄の株主は国と都であり、都は都営地下鉄を運営する事業者であると同時に、もう一方の地下鉄事業者の株主でもある。東京駅の地下を走行する郵便貨物専用列車の地下鉄が開業。しかし、旅客用の地下鉄ではないため、これを一般に見なさない事例もある。日本初となる地下鉄、銀座線の浅草 - 上野間(2.2km)が開業。当時は東京地下鉄道株式会社による運営。東京高速鉄道株式会社が青山六丁目(現:表参道) - 虎ノ門間の地下鉄を開業。陸上交通事業調整法が公布。東京高速鉄道株式会社が虎ノ門 - 新橋間を開業。すでに開業した東京地下鉄道株式会社との相互乗り入れを実施。

東京地下鉄道株式会社と東京高速鉄道株式会社が統合。この年の7月4日に、それまでの地下鉄路線が帝都高速度交通営団による運営となる。戦後初の開業となる、丸ノ内線の池袋 - 御茶ノ水間が開業。この年の8月、都市交通審議会において、東京都交通局の地下鉄建設参入や地下鉄と郊外路線の相互乗り入れが決定する。東京都交通局初の地下鉄路線となる、1号線(現・浅草線)の押上 - 浅草橋間が開業。同時に国内初の郊外私鉄との相互直通運転開始。1号線の延長部として京浜急行電鉄の品川 - 泉岳寺間が開業。1号線との相互乗り入れ開始。丸ノ内線、日比谷線、千代田線で、霞ヶ関駅を中心に都内各地で地下鉄サリン事件が発生。12人が死亡、5,510人が重軽傷を負い、当該路線では終日運転を停止した。帝都高速度交通営団が民営化・株式会社化され、東京地下鉄株式会社が発足する。東京地下鉄民営化後初の開業となる副都心線が開業。東京の地下鉄で使用される車両は自社所有及び直通運転を行う鉄道会社所有のもので、外観も独特なものが多い。

地下鉄路線のほとんどはトンネル内径が狭く非常時に列車側部に脱出する事ができないため、列車の先頭部と最後部の双方に非常時脱出用貫通扉の設置が義務付けられた地下鉄等旅客車が導入・運行されている。2つの事業者が存在することから、割引運賃の設定や共通フリーきっぷの発売など様々な連携や提携が実施されている。また、東京都側から両者の一元化が提起されることがあるものの、都側の債務の問題などもあり東京地下鉄や国側が難色を示している。他方、2010年から2011年にかけて実施された協議では、一元化については先送りとされたものの、乗継割引額の引き上げや両者間の連絡駅の拡充などの実施について合意した。この他にも東日本旅客鉄道総武快速線・横須賀線(錦糸町 - 品川間)、京葉線(東京 - 潮見間)、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス、東京急行電鉄田園都市線(11号線の一部・渋谷 - 二子玉川間)、京王電鉄京王新線(10号線の一部)、西武鉄道西武有楽町線(8号線の一部)などが地下を走る路線ではあるが、総距離に対する地下区間の距離との関係などから、一般的に「地下鉄」とはあまり認識されていない。

『東京の空』(とうきょうのそら)は、エレファントカシマシの7枚目のアルバム。前作からちょうど1年ぶりにリリースされた。ジャケット写真の撮影はハービー山口。撮影地は東京都港区芝公園(東京タワー)、新宿区西新宿(東京都庁)。今作をもってエピックレコードジャパンとの契約が終了。エピックからリリースされた最後のオリジナル作品となる。『東京は夜の7時』は、矢野顕子の2枚目のライブアルバム、通算5枚目のアルバム。1979年4月25日発売。発売元は日本フォノグラム。CDは1988年に徳間ジャパンから、2011年にミディから発売。1979年の中野サンプラザ、渋谷公会堂でのライブ録音。すでにイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成していた高橋幸宏、細野晴臣、坂本龍一が参加しているが、YMOとしてはクレジットされていないうえ、曲目の重なりもない。一方、1979年は矢野自身が渡辺香津美(本アルバムには不参加)のKYLYN BAND、坂本龍一のカクトウギ・セッションに参加していた時期であり、これらの活動と曲目が重なるところが多い。

アルバムジャケットの写真は、矢野の実子である矢野風太のものである。彼は「カタルン・カララン」の作詞者としてもクレジットされている。東京ばな奈は、東京の土産菓子。株式会社グレープストーンが製造、販売している。「東京バナナ」「東京ばなな」は誤りである。東京ばな奈「見ぃつけたっ」は1991年に発売され、老若男女誰にでも喜ばれる味ということでバナナが採用された。スポンジ生地は一旦焼いてから蒸すことでソフトな食感を出し、クリームにはバナナを裏ごしにしたバナナピューレを使い、自然なバナナの風味を生かしている。年間売上は約40億円。東京みどり農業協同組合は、東京都昭島市に本店を置く農業協同組合。1992年(平成4年)4月1日 - 国立市、昭島市、立川市、武蔵村山市、東大和市の5市のJAが合併して「東京みどり」が誕生した。ブンブン大放送はニッポン放送でかつて放送されていたラジオ番組のタイトル。このタイトルで放送していた番組は、以下の2番組。明石家さんまのラジオが来たゾ!東京めぐりブンブン大放送 - 1983年5月から1988年3月まで放送。

渡辺正行の東京めぐりブンブン大放送 - 1988年4月から1990年3月まで放送。TOKYO IDOL FESTIVALは、2010年より開催されている日本のアイドルイベントである。略称はTIF。女性アイドルグループを中心に50組以上の女性アイドルが参加する。参加アイドルの数では日本最大規模のアイドルイベントである。東京アイドルフェスティバルはフジロック・フェスティバルを意識している。「アイドルシーンが盛り上がっていること」「さまざまなアイドルが独自性を持ち、互いを補完し合う『アイドル多様性時代』へ向かっていること」を世間に広めたい。ビジネスとしてフジテレビが儲けることが目的ではないので、主催をフジテレビではなくTOKYO IDOL FESTIVAL 実行委員会とした。イベントの資金は全部イベント本編で使い切るつもり。という趣旨を語っている。 2011年はフジのスタジオが使えたこともあり、2日通しで8000円と前年の半額程度にまで入場料金が抑えられた。一部の営利目的のイベントではなく、様々なアイドルを知って楽しむ為の合同祭典となっている。 スポンサーも現状特に無く、開催の広告やCMもほとんどうっていない。

2011年3月9日水曜日

東京しごとセンターは

東京都千代田区飯田橋にある東京都民の雇用・就業を支援するための施設である。2004年7月設立。運営は「東京しごと財団」が東京都から委託を受けておこなっている。2007年8月に国分寺駅南口に分室「東京しごとセンター多摩」がオープンした。設立から2005年度までは、ミドルコーナーの業務はライトマネジメントジャパン(現ライトジャパン)と日本マンパワーに委託されていた。しかし2006年2月、日本マンパワーの契約職員が本センター利用者向けの求人に応募していたことが明らかになり、東京しごと財団は情報の私的利用を問題視し、同社への業務委託を2005年度限りで打ち切った。そのため2006年度より同社に代わって、パソナキャリアアセット(現パソナキャリア)に委託された。さらに2009年3月、ライトジャパンが2007年10月頃から、求人の年齢や性別について採用側の意向を示す暗号マークを使い、求人票を区別していたことが判明した。東京都は「雇用対策法や男女雇用機会均等法に抵触するおそれがある」とし、同社に暗号マーク使用をやめさせた。

その後、2009年7月をもってライトジャパンへの委託を打ち切った。現在はパソナ1社のみに委託されている。2007年度に新設された「東京しごとセンター多摩」では、全年齢に対して、日本マンパワーがカウンセリング業務、セミナー業務を行っている。『東京にもあったんだ/無敵のキミ』は、福山雅治の22枚目のシングル。2007年4月11日発売。制作はユニバーサルJ、発売・販売元はユニバーサルミュージック。アルバム『5年モノ』から僅か4ヶ月でリリースされた(福山のリリース間隔としては短い部類に入る)。初動は10万枚に届かず、累計も前作『milk tea/美しき花』の初動を下回っている。ジャケットのイラストは、リリー・フランキーによる“東京タワー”のイラスト。初回限定盤(10万枚限定生産)と通常盤、2バージョンでの発売で、初回盤には「東京にもあったんだ」のミュージッククリップを収録したDVDとミニフォトブックが付属する。2009年に中村あゆみがアルバム『VOICEⅡ』にてカヴァーしている。

東京のバスガールは、1957年(昭和32)10月に、日本コロムビアから発売された流行歌のシングル盤。作詞・丘灯至夫、作曲上原げんと、歌唱は初代コロムビア・ローズである。この「バスガール」のモデルは、路線バスの車掌ではなく、はとバスのガイド嬢とされていて、2010年7月に発行された祥伝社新書「はとバス」60年に、歌詞がフルコーラス紹介されており、また、2010年8月21日に放送されたNHK思い出のメロディーでも、舞台にはとバスのバスガイドOGが3人登場し、彼女たちの現役の頃の写真をバックに、、コロムビア・ローズがこの歌を歌唱していた。しかし、昨日のお客がきょうも乗ってきたり、酔っぱらいが乗ってきたり、都心のターミナル駅から郊外の住宅地に向かう、路線バスを連想させる部分もある。この時代には、まだ路線バスには必ず女性の車掌が乗車しており、切符を切ったり、体が不自由になったお年寄りの乗り降りを助けるなど、乗客の世話に当たっていた。バスがワンマン化されるのは1961年頃からである。

唄は3節からなり、夢と希望を持ってバスガールになった若い女性が、見初めた若者に恋人がいてがっかりしたり、酔っぱらいに怒鳴られたりしてなかなか思い通りにいかないものの、一所懸命「明るく」走ろうとする、けなげで純情な姿を描いており、初代コロムビア・ローズの代表曲になっている。はとバスの東京都内定期観光バスでは、島倉千代子の「東京だョおっ母さん」とともに、ガイドが乗客に披露する歌にもなっている。『東京の人さようなら』は1956年6月28日に公開された日本映画。製作、配給は東宝。モノクロ、スタンダード。上映時間は61分。東京の再開発の一覧では、東京都での完成済み、建設中、または計画中の再開発事業・再開発地区、再開発ビルや複合商業施設などの一例を一覧で記述する。東京駅周辺の再開発地区(「東京ステーションシティ」,八重洲「東京ステーションルネッサンス」,丸の内オアゾ) : 東京駅日本橋口、八重洲側に超高層ツインタワーの建設や、丸の内側の駅舎を復原する予定である。

市街地再開発事業ではなく、特定街区制度、特例容積率適用区域制度による容積移転、総合設計制度等を組み合わせて事業を行っている。JR東日本などが主体となって当駅周辺の再開発事業が行われている。東京中央郵便局#再開発計画の概要 - 高層ビルに建て替え。秋葉原クロスフィールド 秋葉原地区土地区画整理事業,首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線秋葉原駅:旧東京中央卸売市場神田市場が大田市場へ移転したことによる市場跡地および都有地の開発。関連して秋葉原駅の貨物駅跡も土地区画整理事業を行い、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線秋葉原駅が地下に開設。東京ミッドタウン 防衛庁跡地(赤坂九丁目地区開発事業、都市再生緊急整備地域指定): 再開発地区計画(現在の再開発等促進区に相当)によるが、市街地再開発事業ではない。六本木ヒルズ(六本木六丁目地区第一種市街地再開発事業): テレビ朝日や周辺の敷地の再開発を行った。テレビ朝日が設備更新の時期を迎えていたこと、周辺道路が狭く緊急自動車の通行にも支障があったことなどから長期間をかけて合意形成を行い、組合施行で実施。

東京アメリカンクラブ#再開発プロジェクト:1975年に建設された麻布台のクラブハウスの老朽化に伴い、クラブハウスの建て替やその付帯施設の建設を含む再開発プロジェクトが進められている。東京の地下鉄は、東京都及びその近郊を走る地下鉄路線、及びその路線を走行する電車のことである。日本国内における地下鉄の定義付けには諸説あるため、「東京の地下鉄」についてもその定義付けはいくつかに分かれる。東京地下鉄(東京メトロ)と東京都交通局(都営地下鉄)の路線。定義1に、ある程度の距離の地下区間を有する鉄道路線や、後述の計画により計画番号を与えられ、定義1の路線に直通する路線を加える(具体的には、東急田園都市線の旧新玉川線区間〈渋谷 - 二子玉川間〉、京王新線、西武有楽町線、京急本線の泉岳寺 - 品川間など。)。 東京都特別区内の鉄道路線のうち、すべての地下区間(東京臨海高速鉄道りんかい線、京成本線の京成上野 - 日暮里間、総武快速線・横須賀線や京葉線など。)。

一般的な観点では、定義1もしくは2が「東京の地下鉄」である。ここでは、定義1に従い、東京地下鉄・都営地下鉄の2事業者を「東京の地下鉄」として解説していく。当初、東京の地下鉄の事業者は東京地下鉄道及び東京高速鉄道の路線を引き継いだ帝都高速度交通営団(営団地下鉄)のみであった。東京都は、大都市公共交通公営主義の観点から営団の解体・併合を求めており、また地下鉄建設の計画を持っていた。また、沿線人口が増え、都心乗り入れを図る各私鉄会社は、太平洋戦争後に国鉄山手線内側に至る地下路線(既存自社路線の延伸として)の免許を相次いで申請した。仮に私鉄各社に免許申請を認めて各社がそれぞれ独自に地下鉄を建設すると、首都・東京の都市計画に影響を来たす事、営団のみでは多額の費用が掛かる地下鉄建設に対応できない事などから、運輸省による行政指導が入り、最終的には運輸大臣の諮問機関である都市交通審議会で東京都交通局も地下鉄建設・経営に参入、各私鉄は独自に都心乗り入れするのではなく、同局並びに営団と相互乗り入れする事に決定された。計画路線には1号線より順番に番号が与えられ、営団地下鉄・東京都交通局と、一部は相互乗り入れ先である私鉄により、路線が建設されていった。

2011年3月8日火曜日

量産車・競技用車両・関連部品などの

研究開発・設計・試作や、カドウェルなどのレーシングカーの開発、スポーツ用品の開発など幅広い活動を行っている。1998年には、長野オリンピックのスピードスケート・男子500mで、清水宏保が同社製のスケート靴を使用し金メダルを獲得した。また、スポーツカーVEMACの輸入・販売も行っている。なお同社のレース部門の子会社であったR&D SPORTは、2008年3月末に資本関係を解消して独立しており、現在は全く関係はない。「東京Sugar Town」は、堀ちえみの11枚目のシングル。1984年7月18日にポニーキャニオンよりリリースされた。東京U家族とは、若手ヒップホップアーティスト20人からなるグループ。すでに解散している。RADICAL FREAKSのMCUがアルファら若手ヒップホップアーティストを集めて結成したグループ。メンバーは20人いたらしいが、アルバムには「東京U家族 are MCU、アルファ、スタスタボウズ、MCB、FLASH RHYMER、がっぺじゅんぺい、ピノ、すぎちゃんぐ、なおひろんぐ」とクレジットされている。

「とにかくバカなことをやるために、結婚したメンバーは脱退」という不文律があり、そこからリーダーのMCUが結婚したら解散、ということになっていたらしい。実際にMCUが結婚したため解散した。東京YMCA国際ホテル専門学校は、ホテル業界に関する業務知識を取得できる専修学校。6ヶ月間に渡るホテル実習のほか、通学にはスーツの登校を旨としている。「東京」はやしきたかじんの20枚目のシングル。全日本有線放送大賞「読売テレビ最優秀賞」「特別賞」受賞曲で、やしきたかじん最大のヒット曲。ピアノソロから始まったテンポが高い楽曲に仕上がっている。タイトルは「東京」であるが、歌詞が関西弁であることが特徴。テレビ東京『やりすぎコージー』で、ザ・プラン9のなだぎ武がたかじんのモノマネでこの曲を歌うことが話題になった。大阪府民はカラオケでこの唄を歌って盛り上がることが「秘密のケンミンSHOW」(2010年6月17日放送分)で紹介された。たかじんのコンサートではサビの「東京」の部分を公演会場の地名に変える(「大阪」「京都」「神戸」など。コンサート以外でも全日本有線放送大賞では受賞会場が大阪だったことから歌詞も「大阪」と変えていた)。

しかし、三重県の津市は、曲に当てはめにくいため困ったという(結局、津市のコンサートでは「津」ではなく「三重県」と歌うことに)。以降、作詞・作曲・編曲は個人別に移行する。デーモン小暮のラジ王・・・「クイズ・百十の王」というコーナー(オリコンチャートで第110位の曲を予想し当てるコーナーで、ゆえに「もうすぐ110位」と称して101位~120位か105位~115位も合わせて紹介されていた)で、あるとき、「東京」が何週にも亘ってもうすぐ110位の所でランクインが続いていたため、閣下は「来ないかなあ? 来い!」などとたかじんの曲にラブコールを送っていたことがあった。そしてついに、「東京」は最終回で本当に110位にランクインされた。「超特急列車、東京 - 大阪間3時間への可能性」(ちょうとっきゅうれっしゃ、とうきょう - おおさかかんさんじかんへのかのうせい)とは、1957年(昭和32年)5月30日に銀座山葉ホールで開かれた鉄道技術研究所創立50周年記念講演会の統一テーマである。「新幹線構想」を初めて世に問うたもので、国鉄鉄道技術研究所がそれまで積み重ねてきた基礎研究を鉄道輸送の高速化に用いれば、「東京 - 大阪間3時間」も可能であるという講演内容であった。

この講演は、東海道線増強計画における広軌別線論への追い風となった。この講演で発表された基礎研究は、やがて東海道新幹線として結実する。同年4月、熱海来宮に集まった研究者たちはディスカッションを重ねるうちに、東京 - 大阪間を3時間で結ぶことも技術的に可能であると確信し、これを「鉄道輸送の高速度化研究」としてまとめて公開講演を銀座で行う準備を急いだ。講演はすぐ翌月である。また「鉄道輸送の高速度化研究」という演題では一般の人にはわかりにくいため、演題を一般の人も興味をもつように「東京 - 大阪間3時間への可能性」として国電の車内広告で広報した。技研は5月25日にこの新幹線構想を発表し、朝日新聞社は26日の朝刊で講演会の予告と内容要旨を報じて、5月28日にも"「超特急列車」講演会"(主催:鉄道技術研究所、後援:朝日新聞社)として社告を出している。当時、国鉄で営業運転されている列車の最高速度はつばめとはとの95km/hで、それを大幅に上回る高速運転が可能という広告は多くの人々の心をとらえ、当日は雨空にもかかわらず 500人定員の銀座山葉ホールがたちまち満席になり、その後に詰めかけた聴講希望者を断るのに苦労したと伝えられる。

講演では、まず篠原が広軌(標準軌)で新路線を作れば「東京 - 大阪間3時間」も楽に到達可能である、それを作るかどうかは国民の皆さん次第であると結論づけ、続いて、車両、軌道、安全、信号、各分野ごとに技術的な裏付けが語られた。この日に打ち出された新幹線構想は大きな反響を呼んだ。当日に講演を聞けなかった十河信二国鉄総裁は、自分も含めた国鉄幹部の前でもう一度講演を行うよう要請した。新聞各紙も好意的に報道し、東海道線増強における広軌別線案への一般の関心は一気に高まり、広軌別線による東海道新幹線建設が必要であるという日本国有鉄道幹線調査会の答申につながっていった。東京 - 新潟線とは、東京都豊島区と新潟県新潟市中央区を結ぶ高速バス路線である。全便予約座席指定制のため、乗車には原則として予約が必要である。当路線は1985年10月2日に関越自動車道の前橋インターチェンジ - 湯沢インターチェンジ間が開通したことによって全線が開通したのに伴い、同年12月10日に西武バスと新潟交通、越後交通の3社共同によって運行を開始した。

しかし当時、東京都心と新潟県中越地方・下越地方を結ぶ交通手段としては、既に上越新幹線の上野駅 - 新潟駅間が開業しており、路線開設にあたって新潟側の2社が、東京側の事業者各社に対し共同運行の要請を行ったものの「新幹線よりも所要時間が倍以上掛かる高速バスの利用は伸びないのではないか」と需要に疑問を示すなど交渉は一時難航。最終的に共同運行先として西武バスが名乗りを上げた。しかし、運賃設定が新幹線に比べて低価格であることなどが奏功して利用者の確保に成功し、のちの全国的な長距離高速バスブームの発端となるなど、当路線は現在に至るまで高い利用率を維持し続けている。開設当初は1日2往復と本数が少なかったが、その後段階的に増便し、2006年春より昼行便は1時間ヘッドでの運行を行っている。『東京★ざんすっ』は、2001年公開の日本映画。東京の乗り物をテーマして、著名人の7人の監督が制作したオムニバス映画。 つんくが制作総指揮。東京の乗り物をテーマして、7人の著名人監督(松尾貴史、野沢直子、ケリー・チャン、山岸伸、日比野克彦、陣内孝則、飯田かずなが作った7本の短篇によるオムニバス形式の映画。 フジテレビ系深夜番組『つんくタウン』で、プロジェクト『つんくタウンPLUS』つんくタウンFILMSの第5弾として、製作・公開された作品。 同様のプロジェクトでお金を題材にした『マネーざんす』も製作された。

2011年3月7日月曜日

東京グローブ座は

東京都新宿区百人町にある劇場。客席数703席。1988年4月に開場。運営はジャニーズ事務所傘下の株式会社東京・新・グローブ座による。ジャニーズ事務所所属の俳優・タレント主演のミュージカル公演を中心に、他の演劇・ミュージカルの公演も行っている。公務員宿舎「新宿西戸山住宅」を解体、西戸山再開発事業の一角「民間活力導入による国有地再開発第1号」として建設された。ロンドンのグローブ座の構造を参考に、当時の様式になぞらえた張り出し舞台を、円筒状の客席が囲むように設計されている。設計は建築家の磯崎新。1988年4月8日、開場。シェイクスピア作品の上演を運営方針として、海外の劇団を招いて公演を行ってきた。1989年1月から1996年6月まで高萩宏が制作担当支配人を務めた。2000年12月31日から2001年1月1日に跨って、大江千里のライブ「BOYS&GIRLS FOREVER」が行われ、21世紀を迎えた。松下電器(現・パナソニック)の支援により「パナソニックグローブ座」として運営してきたが、赤字が重なり一時閉鎖される。

2002年、ジャニーズ事務所に買収され、2003年3月1日に嵐初主演映画「ピカ☆☆ンチ LIFE IS HARDだからHAPPY」の独占上映を行い、再開。しかしその後半年閉鎖、改装を行う。2004年、改装披露記念公演東山紀之主演「ロミオとジュリエット」で、設備の整った劇場としてリニューアルオープンした。東京60WATTSは、日本のミュージシャングループ。 1999年ごろ、立教大学の音楽サークルで知り合った大川、杉浦、佃を中心に結成。 2004年に「外は寒いから/ふわふわ」で東芝EMIからメジャーデビュー。2005年11月にavexに移籍。自主レーベル『HIKARIMON RECORD』を立ち上げる。 2006年発売のミニアルバム『clover』からは、avexと所属事務所FIVE-Dの共同レーベル『FIVE-D PLUS』所属。 派生ユニットにVo.大川とPf.杉浦の「たけお」がある。2009年に結成10周年を迎える。東京Aリスは東京で活躍しているパンクイラストレーターである。新潟県柏崎市出身。ロンドンやニューヨークなども活動するアーチストで、日本の伝統的な文化からパンクファッションまで、幅広いモチーフをアリスの独特のタッチで融合した作品が多く、海外からの評価が高い。

週刊SPA!でグラビアの連載を持つ中森明夫が、アイドルグループ「東京アリス」を結成。同名で紛らわしい事実に、東京Aリスが、名前を使用しないよう訴えたが、訴えは却下された。現在は、アナーキーを意味する「A」の字を「ア」の部分に入れ替え、アイドル「東京アリス」と区別するよう「東京Aリス」と表記していることが多い。東京DMATとは、東京都のDisaster Medical Asistance Team略してDMATのこと。医師、看護師、救急救命士、事務官から構成され、災害や事故の際にいち早く現場に駆けつけ、救命医療を提供する医療チーム。2004年(平成16年)に全国で先駆けて東京都に設置された。2005年(平成17年)には厚生労働省が「日本DMAT」を発足させた。東京DMATは隊員養成研修等で協力しているが、「東京DMATは国に従属しない」「東京DMATは国の指導は受けない」等自主独立性を強調している。東京都の「東京DMAT」以外にも全国にDMATは存在する。

2007年(平成19年)4月現在、東京DMAT指定医療機関は17施設。登録隊員数は約500名である。東京DMATは東京消防庁と連携して活動する。東京消防庁の判断によりDMAT指定医療機関へDMAT出動が要請され、受諾した指定医療機関ではDMATを編成・待機させる。東京消防庁は医療機関へ東京DMAT連携隊を派遣し、東京DMAT隊員は連携隊の専用車両に乗車して出動する(最近は病院所有のドクターカーで出動する場合も多い)。隊員になるには、東京都福祉保健局が主催する隊員養成研修を受講し、災害現場での医療ノウハウを取得することが必要となる。隊員登録は原則として東京DMAT指定医療機関に所属する医療スタッフに限られる。隊員養成研修は「BT研修(Basic Training)」「RS研修(Registered Staff training)」に分かれている。RS研修では実際に東京消防庁の救急隊と連携し、実技中心に救急演習を実施する実践的訓練を行い、既隊員に対しても都度訓練が行なわれる。

東京直下型地震を想定した大規模訓練では荒川河川敷から多数負傷者をヘリコプターで東京都立広尾病院、東京医科大学八王子医療センター、国立病院機構災害医療センター等へ搬送した。基本的には東京都内で起こる災害や事故等を対象にしているが、東海地震等の広域災害が発生した場合には都外へ出動する。2004年(平成16年)の新潟県中越地震では新潟県へ出動している。従来からある医療救護班とは異なり、東京DMATは発災現場に赴いて救命医療を行うことを目的とし、被災者に迅速な急性期医療を提供する(瓦礫の下の医療)。但し、東京DMATは災害発生現場での医療不在の状態を解消するために編成されたものであり、安全が確保された場所で医療活動を行う。ビル倒壊等の場合、崩壊したビル内からの負傷者救出はレスキュー隊が行い、負傷者が安全が確保された現場救護所等へ搬送された後の医療活動を受け持つ。東京DMAT隊員が危険な場所に踏込んで救命活動を行うことはない。

東京IT新聞 は、株式会社Impress Touchが発行しているIT業界人に向けた隔週刊の無料新聞である。2006年8月に創刊。タブロイド版(基本16ページ)で 隔週(第2・第4)火曜日発行。企業や事務所単位での申し込みを基本とし、最大5部がオフィスに無料で届けられる。公称9113社、66000部発行。紙面内容はITをキーワードとしたニュース、コラム、インタビュー、イベント情報などを掲載。ITベンチャー企業の経営者がよく登場する。4コマ漫画も連載している。東京JAZZは、毎年夏季に行われているジャズコンサートのイベントである。主催はNHK、NHKエンタープライズ、日本経済新聞社からなる東京JAZZ実行委員会。2002年にスタートし、平年は味の素スタジアムを舞台に世界各地から一流のジャズアーティストを招待し「新しい文化の発信」「ジャズの後継者への継承とその発展」「文化のクロスオーバー」の3大テーマを掲げて、国境・世代の垣根を越えたジャズの夢の共演を展開し、ジャズのすばらしさを東京から世界に広く伝えようと企画された。

2003年からはハービー・ハンコックが総合プロデュースを担当している。2004年度はアテネ五輪のテレビ中継の関係で9月に実施され、 また会場の味の素スタジアムもJリーグ公式戦開催のため使用できないので、東京ビッグサイトで開催され、インドアイベントとなった。2005年もJリーグの試合開催の都合上東京ビッグサイトでの開催された。2006年からは東京国際フォーラムに会場を移し開催されていて、関連プレライブも国内外の大物アーティスト、実力派アーティストを揃えて注目を浴びている。数多くあるプレライブの中でも渋谷『O-EAST』が打ち出すイベントは強烈である。アジア最大級のJAZZイベントという事もあり、多くのナショナルクライアントがスポンサーに名を連ねる。東京R&Dは、東京都港区に本社を置く自動車・メカトロニクス・複合材料などの研究開発を行う企業である。正式商号は株式会社東京アールアンドデー。

2011年3月6日日曜日

かつては日本放送協会や

TBSテレビ、フジテレビジョンのテレビ局ショップが出店していたが、地下商店街エリアのリニューアルを機に、日本テレビ放送網、テレビ朝日、テレビ東京のグッズショップが加わり、NHKと民間放送在京キー局5社のショップが揃うことになった。各テレビ局に足を運ぶことなく、東京のテレビ局土産が入手可能なことから、旅行客や親子連れ、キャラクター好きの若者などで賑わっている。また、東京キャラクターストリートにはいちばんプラザというイベントスペースがあり、テレビ番組やアニメーション映画の宣伝イベントなどが開催され、キャラクターの着ぐるみが登場するイベント、関連グッズの販売などが行われることが多い。テレビ東京、TBS、テレビ朝日のショップはかつてはジェイエフエーに運営委託で営業しており、同社が2010年11月25日に倒産したため、一時閉店した。テレビ東京のショップは同年12月10日、テレビ朝日のショップは12月21日、TBSのショップは12月29日に営業再開した。東京駅一番街には、「東京キャラクターストリート」区域外にもキャラクターショップが存在する。

東京キャラクターストリートよりも南寄りにリラックマのキャラクターショップ「Rilakkuma Store」があったが、2011年7月のリニューアルに伴い、東京キャラクターストリートの中に移転している。東京土産を扱う店舗でも、ご当地チョッパーマン等のキャラクターグッズが販売されている。東京キリストの教会は、東京都渋谷区にあるキリスト教団体。一世代での日本宣教と1世紀の互いに愛し合う教会を実現するという動機のもとに教会活動をしていたが、行き過ぎた規律主義が教会内で問題を起こした。国際キリストの教会(英語)は一世代での世界宣教を目指し、2000年頃13万人近くの信徒がいた。万人祭司の思想の下、一人ひとりの信徒を「弟子 (キリスト教)(英語)」と定義し宣教と牧会などを務めた。結果、1979年の時点で30人だったのが、1999年5月で158カ国に358の教会が設立された。東京キリストの教会は1989年に主流派キリストの教会の代々木八幡キリストの教会から分離して約80人で発足、2000年頃には1000人近くの信徒数に増加した。

しかし、急激な増加に比例して指導者の信仰は成熟せず、多くの信徒が教会を去った。さらに、信徒数の増加に伴い、会衆制の上に監督制をかぶせる教会政治の制度の歪が取り返しがつかないほど、大きくなった。異教徒との結婚を厳しく禁じ、男女間の交際は信徒に限定される。信徒同士の結婚に教会として関与する。結婚前の男女の交際関係をステディー(steady) と呼ぶ。ステェディーは結婚関係に成長することが期待されている。交際が深まらず、別れる――ブレーク(break) と呼ばれた――が、これも教会の指導者が関与する。教会として独身信徒にはマンションかアパートを借りての共同生活を勧め、独身の信徒が共同生活をするケースが多かった。東京キリストの教会の至上命令は宣教であり、個々の信徒は、イエスの「弟子」であり宣教者でもある。つまり、教会全体が一つの宣教団と位置付けている。全盛期は1000名を超えていた信者数も現在は三分の一くらいに減っている。

「キリスト教年鑑2008」「キリスト教年鑑2009」では東京が300名、大阪は40名と記載されている。東京では実際の礼拝出席者は230人程度。かつての激しい宣教や厳しい礼拝への出席義務は課されることはない。賞与時期の特別献金も、現在はかつてほどの強制感はない。体制崩壊後、かなりの数の信徒が教会内の異性間で結婚し、子供をもうけている。よって、現在の教会活動は子育てに主軸がおかれている雰囲気がある。同じ教会内の異性と結婚するため、絶対数として相手を見つけることの出来ないのが現状。その傾向は地方教会においては顕著であり、地方の独身者は定期的に独身者の多い東京へ行き、出会いを求めてデートを行っている。教会外に結婚相手を求め、教会を去った信徒が多い。『異端見分けハンドブック』(プレイズ出版、1998年初版、2004年2版)で著者の尾形守は東京キリストの教会を「異端かどうか議論されてきていて警戒されている団体」とする。ナサニエル・ホーソン著『緋文字(スカーレットレター)』では17世紀中頃の米国・ボストン近郊にあるピューリタンの律法に厳格な社会生活が描かれ、姦通の罪を犯した女性がさらし者になる。

これと似た異常なことが東京キリストの教会でも起こった。「他の教派の教会の信徒を奪ったから信徒数が増加した」との批判がある。初期の頃、他の教派で洗礼を受けた人が少数だが存在して「再洗礼」の問題が生じた。しかし、受洗者に信仰がないことを確認し、洗礼を授けていた。「東京キリストの教会は他の教会を乗っ取るから、日本のキリストの教界は警戒すべき」との批判がある。戦後間もなく、ジョージ・ガーガナスが東京キリストの教会の前身である代々木八幡キリストの教会を設立。同氏は、宗教法人代々木八幡キリストの教会の代表のまま米国に帰国後、キップ・マッキーンのボストン・ムーブメントに参画。1986年に再来日し、宗教法人の代表として教会再建を目指した。この時、信徒数は20人ほどに減少しており、教会の会議室で日本語学校(青山スクールオブジャパニーズ)が授業を行い、事業収益を得ている問題が生じていた。

1988年、ミッションチームがボストン・ムーブメントに属するサンフランシスコの教会から派遣され、同年の総会で従来からいる教会員から不満が出たが、翌年、主流派キリストの教会から分離し、東京キリストの教会として再出発することになった。反発した元からいた教会員は主流派のお茶の水キリストの教会に合流した。初期の頃、合流せず、東京キリストの教会と一緒に礼拝する元からいた教会員がかなりいたが、教会内で別の礼拝を行うこともあった。その後、日本語学校とは裁判所で争い、金銭を払う形で立ち退きが決まった。過去の有給スタッフは自主的な辞任に追い込まれた。地方教会では東京の教会内での混乱が時間差で起り、現在は有志の信徒と不定期に東京から送られるスタッフによって活動が保たれている。かつての宣教や厳しい規制、ディサイプリング制度は自然消滅した。地方教会の中で一番大きい大阪の教会は2004年の有給スタッフの辞任以降、現地の有志による教会運営が続けられている。

大阪では「奉仕者団体」と呼ばれる5人ほどのグループが出来て、礼拝の進行、献金の管理を行っている。説教は信者が順番に担当し、不定期に東京から有給スタッフが来て説教を行っている。かつて60名ほどいた信徒は現在は半数ほどとなり、そのほとんどが子持ちの既婚者である。よって教会活動も子育てが主軸となっている。独身で結婚を望むものは先述の通り東京に出会いを求めてデート訪問を不定期にしている。

2011年3月5日土曜日

プロリーグ参加はあきらめず

1946年(昭和21年)8月、元プロ野球選手だけではなく大相撲の力士経験者なども参加して、将来のプロ化を目指したセミプロ組織として結成。社会人野球チームとの練習試合をこなし続けていた。だが、選手内で竹内監督に対する不信感が強まったため、竹内監督は辞任。その後、石本秀一監督を迎えて広島県広島市でチームを再建しようとしたが、茨城県結城市に本拠を移転。後に1947年(昭和22年)1年間だけ存在した日本第2のプロ野球リーグとなる「国民野球連盟」に「グリーンバーグ→結城ブレーブス」として参入した。東京カメラクラブは、写真家などの団体。正式な名称「東京カメラ倶楽部」は商標登録がなされている。代表は写真作家田村彰英[ニューヨーク近代美術館、東京国立近代美術館などに、作品が永久保存され、黒澤明監督の映画「影武者」「乱」「夢」「8月のラプソデー」など15年間スチールカメラマンを歴任。黒澤監督からの信頼も厚かった]田中長徳、ハービー山口のように日本を代表する著名なプロカメラマンの他、アーティストのアルフィー坂崎幸之助、東儀秀樹等が名を連ねている。

会員バッチとクラブ旗のデザインは、富士山と東京都庁舎・東京タワーおよびレンズの絞りなどで構成されている。なお、クラブ旗は田中が旧ソ連の専門工房に発注したという金細工の入った豪華なもので、会員バッジも香港の専門業者による非常に凝った造りである。また写真入りのプレスカードは国内のみならず海外の取材先などでも認識されており通用する。東京ガスエンジニアリングは1974年に設立されたガス体エネルギーの製造・利用・供給を中心とした業務をする東京ガスグループの企業である。東京ガスサッカー部について、以下の2つがあり、それぞれこの記事内で記載する。東京瓦斯株式会社のサッカー部として1935年に創部され、1985年に第19回関東社会人サッカー大会で優勝し、1986年より関東サッカーリーグに昇格。1990年に第14回全国地域サッカーリーグ決勝大会で優勝し、1991年に日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格。調布市議会にて「プロサッカーチーム誘致に関する決議」がなされ、同市によるプロサッカーチームの誘致活動が始まった。

東京都のサッカーチームとして最上位のカテゴリーにいた東京ガスサッカー部は、同市や東京都サッカー協会から、東京ガスサッカー部を母体とするJリーグクラブを作るよう要請を受けた。東京ガスサッカー部代表としてJFLの評議員を務めていた上原英治は、この要請を好意的に受け取るも、時期尚早だとして慎重な姿勢をとった(川淵三郎の項目にも一部経緯が記されている。)。これ以後、元東京ガスサッカー部監督でサッカー部部長の鳥原光憲を中心に、Jリーグ参画に向けての足固めと強化を図っていった。『東京ガスフットボールクラブ』に改称しJリーグへの参加を表明。6月に「東京フットボールクラブ創設準備事務局」を発足させ、上原英治、鳥原光憲、村林裕、城福浩などがこれに参加した。チームはJFLで準優勝してJリーグ昇格条件である2位以内に入るも、準会員資格を有していないため、Jリーグへの昇格は見送られた。大塚から加入したDF本吉剛が、浮氣哲郎(市原へ移籍)の穴を埋め、DF藤山竜仁、大卒新人のMF浅利悟と共にベストイレブンに選出された。

その年の天皇杯では名古屋・横浜M・平塚のJリーグ勢3クラブに勝利してベスト4へ進出。準決勝(鹿島戦)では創部以来初めて国立(霞ヶ丘陸上競技場)の地を踏んだ。春には翌年からクラブ名称が『FC東京』になるとともにプロクラブ化し、新たに2部制となるJリーグ ディビジョン2(J2)へ参加する事が決定。JFL最終年となったこの1998シーズンは、MF岡島清延(引退)の穴埋めに苦しみ一時停滞するも、終盤に12連勝をする追い上げを見せ、最終節で川崎フロンターレを逆転してJFL初優勝を果たした。しかし、Jリーグ準会員ではなかったため、J1参入決定戦へは参加できなかった。10月1日(この日は都民の日とされている)に、東京瓦斯、東京電力、エーエム・ピーエムジャパン、テレビ東京、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(TSUTAYA)、日本石油、清水建設、三菱商事の8社を中核に、計161団体の出資で運営法人『東京フットボールクラブ株式会社』を設立。1999年より発足したJ2へ参戦し、東京ガスサッカー部としての歴史に終止符が打たれた。

1999年よりFC東京の名称でプロクラブ化した東京ガスフットボールクラブは、Jリーグ仕様のチームを作るべく更なる体制の強化を図ることとなった。これにより、社員選手の何名かは「社業復帰」を余儀なくされたため、彼らを中心としてサッカー部を創部し、「東京ガスサッカー部」の名称で東京都社会人サッカーリーグへ参加している。東京ガス硬式野球部は、東京都に本拠地を置き、日本野球連盟に所属する社会人野球チームである。1927年の創部であり、現在活動中のガス会社3チーム(他には東邦ガスと大阪ガス)の中で最古参。1974年から5年連続で都市対抗野球大会に出場するなど隆盛を極めた時代もあった。2009年の都市対抗野球大会では、8年ぶりに東京地区代表となり、8強まで進んだ。『東京ガールズブラボー』(とうきょうガールズブラボー)は、岡崎京子による日本の漫画作品。ファッション誌である『CUTiE』(宝島社)にて、1990年12月号から1992年12月号までの2年間連載された。1980年代前半の東京を舞台に、著者が先だって発表した『くちびるから散弾銃』の主人公3人の、パンク、テクノポップ、ニュー・ウェーブ、自販機本といったサブカルチャーに彩られた高校生時代を描いている。

サカエは両親の離婚によって、母親に連れられ北海道から憧れの東京に引っ越してきた。東京は夢見ていたほどカッコよくもなく、ババァは口うるさいけれど、なっちゃん・ミヤちゃんと出会い、サカエは東京生活を謳歌する。クラブに夜遊びに出かけたり、賞金目当てで徹夜で漫画を描いたり、バイト感覚でエロ本の編集部に行ったり、イジメの犯人を突き止めたり…。しかし東京と、そして友達との別れは突然にやってきた。東京キネマ倶楽部は東京都台東区にあるライブハウス。大正時代のダンスホールを設定された施設はコンサート、パーティーなどのイベントスペースとして利用されている。また毎月第3土曜日に無声映画の上映会が行われている。2001年からは毎年年末にEGO-WRAPPIN'によるライブ「Midnight Dejavu@東京キネマ倶楽部」が行われている。2000年からは、東天紅「鳳凰の間」に代わる常打ち会場を探していたJWP女子プロレスが使用するようになり、以後各プロレス・格闘技団体が利用するようになった。最大300名収容可能である。

東京キャラクターストリートは、東京都千代田区の東京駅八重洲口側に立地する商業施設、東京駅一番街の地下街エリアにあるキャラクターグッズ専門店街。2008年3月8日に開店した。テレビ局のキャラクターグッズショップ、『ウルトラマン』や『あらいぐまラスカル』『スヌーピー』などのキャラクターグッズ専門店、トミカやレゴの専門店など、キャラクターショップ18店(2011年4月以前は14店)とカフェ1店が、約80mの通路を挟んで軒を連ねている。

2011年3月4日金曜日

東京での開催に

大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途で病死するに至り、日本政府は1938年7月15日の閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円以上にのぼる。代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催できなかった。こうしてオリンピックの準備はひとまず中止され、組織委も大幅に縮小された。しかし、すでに工事をはじめ、竣工寸前であった東京市芝浦埋立地の自転車競技場(現存せず)と、埼玉県戸田のボートコース(戸田漕艇場)は1939年までにできあがり、使用された。自転車競技場の建設にあたっては、市内主要大学の学生3407名を中心とする帝都青年労働奉仕団が作業を担当した。また、駒沢(今日の駒沢オリンピック公園敷地)に主会場をおく案はそのまま1964年大会に生かされた。なお、中止運動の急先鋒に立っていた河野一郎は、1964年大会開催に当たって池田内閣で「オリンピック担当国務大臣(兼建設大臣)」を務めた。

これは、その前歴を知る池田勇人が「以前開催に反対した人間の言うことなら皆従うだろう」という意向で起用したともいわれる。本大会開催が決定した1936年7月31日のIOC総会についての報道で、読売新聞が見出しの文字数制限からオリンピックを略そうと考えたのが「五輪」言い換えの始まりである。発案者は当時運動部の記者であった川本信正。川本によると、五輪旗の五つの輪と宮本武蔵の『五輪書』からこの略称を思いついたという。1940年のオリンピックを争った3都市は、第二次世界大戦後にヘルシンキ→ローマ→東京の順で開催を実現している。東京オリンピックの閉会式は大会最終日の1964年10月24日土曜日に国立競技場で行われた。通常・オリンピックの閉会式は日曜日に行われるが、時差の都合で土曜日となった。場行進では誘導のトラブルから国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場した。選手の中には公式スーツではなくユニフォームで参加する者もいた。

このとき、NHKテレビで実況を担当した土門正夫は予定外の状況に戸惑い(後に『ありゃ、これは何なんだ』と入場行進で入ってきた選手を見て仰天したことをテレビ番組で語っている)、カメラに映し出される情景を随時伝えていった。予定されていたプログラムと大きく離れたことから、他の中継スタッフともども大変な放送をしてしまったという思いを抱いていたが、終了後に渋谷の放送センターに戻ると他の職員から賞賛の拍手を受けることになったという。オリンピック憲章に従い、オリンピック発祥の地ギリシャ・今回の開催国日本・次回開催国のメキシコの国旗が掲揚され、安川第五郎大会組織委員会会長の挨拶、そして、アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会会長の挨拶で、閉会の宣言をし、15日間にわたって掲揚されていた五輪旗が降ろされ、聖火が納火された。そして場内が暗くなると大会の成功を祝う花火を打ち上げ、電光掲示板には「SAYONARA(さよなら)」「MEET AGAIN IN MEXICO(メキシコでまたお会いしましょう) 1968」と表示され、蛍の光の大合唱で東京オリンピックの全日程が終了した。

東京オリンピック記念貨幣とは、1964年(昭和39年)10月10日より開催された、第18回夏季オリンピックである東京オリンピック大会を記念して、発行された銀貨であり、記念貨幣としては日本初のものである。1000円銀貨および100円銀貨の2種類が発行された。日本で初の開催となった第18回夏季オリンピック東京大会の記念貨幣の発行が、1964年2月14日、池田首相の決断により閣議決定された。当初は100円銀貨を発行する計画であったが、当時高度経済成長真っ只中にあり、通貨需要が飛躍的に伸び通常貨幣の大増産を行っている中、造幣局における100円銀貨の製造能力の関係上、直径、量目および材質は100円通常貨幣と同等のものとし、1964年度の100円貨幣発行計画分8000万枚を全て記念貨幣とし、既存の設備を流用して図案のみ変更して発行することとなった。また当時、電子部品配線用および写真感光材料など世界的な銀需要の伸びの背景による銀貨発行の制約もあった。しかし東京オリンピック組織委員会の強い要望により、より高額でサイズの大きな銀貨の発行が検討された。

当時、臨時補助貨幣として規定されていた有効な貨種は1円、5円、10円、50円、100円の5種類であったため、1000円の額面の貨幣を発行するためには特別立法が必要であった。そのような状況の中4月20日に「オリンピック東京大会記念のための千円の臨時補助貨幣の発行に関する法律」(昭和39年法律第62号)を制定するに至り1000円銀貨の発行となった。造幣局内での貨幣製造は繁忙を極めていたため、この1000円銀貨製造では円形作成までの段階の作業は民間業者に委託された。発行枚数は、1000円銀貨は各世帯に1枚、100円銀貨については国民一人当たり1枚を目安として決められたものであった。100円銀貨の図案は公募によるもので2月21日に新聞、テレビ、ラジオ、官報などで広報され、4月6日に応募作品3万0512点の中から聖火および五輪をデザインに取り入れた前島昌子の作品が1席に入選となり採用された。1000円銀貨の図案は造幣局内で作成され、日本を象徴する富士と桜をデザインしたものである。

東京カッブスは、1945年〜1946年頃、日本野球連盟に加盟を目指しながら、加盟が実現しなかったプロ野球チームである。ニックネームの「カッブス」のスペルはCubsであり、シカゴ・カブスなどと同じ意である。太平洋戦争の激化に伴い休止となっていた日本のプロ野球は、1945年(昭和20年)10月には、翌年のリーグ再開に向けて動きだしていた。この時リーグ参加が決まっていたのは、戦前最後の1944年(昭和19年)のリーグ戦に参加した6チームに、セネタース(現・北海道日本ハムファイターズ)を加えた7チームだった。そのような中、戦前(後楽園)イーグルス→黒鷲軍→大和軍(1937年 - 1943年)の運営に携わった河野安通志はイーグルスの再結成を念頭に、東京カッブス(東京野球株式会社)を設立し、プロ野球加盟を申請する。球団社長は河野、球団代表は小泉葵南(東京日日新聞〔現・毎日新聞〕などで活動したスポーツ記者)、監督は戦前に朝日軍の監督を務めた竹内愛一だった。

しかしこの加盟申請は、当時の東京巨人軍球団代表市岡忠男の強硬な反対に遭う。1943年、プロ野球自体はまだ続いていたにも拘らず河野は大和軍を自主的に解散した、ということがその理由だった。球界の中心的存在だった巨人軍の反対のため、カッブスの加盟申請は正式な審査にかけられることもなく却下されてしまう。当時日本野球連盟会長の鈴木龍二は、連盟に入れてやりたかったが、河野の取り巻きが悪かったと述べている。代わりに加盟することになったのは、ゴールドスターだった。また、この間に河野は脳出血で急死してしまう。

2011年3月3日木曜日

1992年から準備段階の

東京オペラシティビルの芸術顧問であった作曲家の武満徹の名前を冠している。シューボックス型の平面、変形ピラミッド型の天井、2層のバルコニー席、天井に採光窓を持ち、ピラミッド状の反射版がステージ上部に浮かぶ。内装はホワイトオーク。東京オリンピックは、1940年9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市で開催される予定であった夏季オリンピック。日中戦争の影響により、日本政府が開催権を返上したため開催されなかった。また代替予定地のヘルシンキでの開催も、第二次世界大戦により行われなかった。1929年に、日本学生競技連盟会長の山本忠興は来日した国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と会談し、日本でのオリンピック開催は可能か否か、という話題に花をさかせた。このエピソードが東京市当局や永田秀次郎東京市長にも伝わり、にわかにオリンピック誘致の機運が高まってきた。翌1930年にドイツで開催された世界学生陸上競技選手権から帰国した山本は、「オリンピック東京開催は俄然実現可能である」との調査報告書を市長あてに提出した。

1931年10月28日、東京市議会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択された。主会場には、東京府荏原郡駒沢町(現:東京都世田谷区)の駒沢ゴルフ場の跡地に計画の競技場群、および神宮外苑を充てるとした。永田市長は欧州駐在特命全権大使や公使、さらにはジュネーヴの国際連盟事務局次長だった杉村陽太郎に宛てて招致運動への依頼状を送り、国内においては体育関係者、東京商工会議所に協力を依頼した。またアメリカ留学経験を持つ市会議員を派遣し、ロサンゼルスで開催されるIOC総会出席者への運動を行わせた。1932年に行われた当該総会の席上、日本代表はIOC会長に対し正式招待状を提出。こうして東京は、ローマ(イタリア)、バルセロナ(スペイン)、ヘルシンキ(フィンランド)、ブダペスト(ハンガリー)、アレキサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)とともに、第12回国際オリンピック競技大会開催候補地として正式立候補したのであった。

冬季オリンピック開会式に臨む(右から)ヒトラー、アンリ・ド・バイエ=ラトゥール、ルドルフ・ヘス1940年大会の開催地を決定する1935年のIOCオスロ総会では、東京、ローマおよびヘルシンキの3市の争いとなった(開催都市は、その5年前の総会で決定するとするのが当時のルールであった)。東京開催の障害要因としては「夏季の高温多雨」、「欧米から遠く離れていることによる旅費・時間の問題(当時欧米以外において国内オリンピック委員会を持つ独立国は、アジアでは日本と中華民国、アフガニスタン程度で、植民地ながら独自の国内オリンピック委員会を持っていたイギリス領インド・アメリカ領フィリピンを加えても10にも満たず、他にも南アメリカ諸国やオセアニアなどごく少数であった)」が挙げられた。東京市は前者に関しては、例えばフランスのマルセイユに比べてもはるかに涼しいこと、後者に関しては参加希望国当たり100万円の補助を行うことを述べて反論したが、それを受けて他の2市も同様の旅費、宿泊費補助プランを公表するなど、招致合戦は白熱した。

日本は友好国であったイタリアのベニート・ムッソリーニ首相に直接交渉を行い、ローマの辞退を勝ち取ったが、総会は会期切れとなり、開催地決定投票を翌年のベルリンに延期するという異例の展開となった。オスロ総会後、東京市はさらなる招致活動費用として、85,926円を計上した。翌1936年3月、IOC委員長アンリ・ド・バイエ=ラトゥールの来日を迎え、好感触を得た。ベルリンのホテル・アドロンで同年7月29日より行われたIOC総会における7月31日の投票の際には、日本の招致委員会を代表して柔道創設者の嘉納治五郎が演説した。結果として東京36票、ヘルシンキ27票で東京開催が決定した。日本のみならずアジアで初、有色人種国家としても初のオリンピック招致成功をうけて、1936年12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、元貴族院議長でIOC委員の徳川家達公爵が委員長に就任するなど本格的な準備に着手した。

その後は東京開催準備が進行した(国際博覧会も同年開催が予定された)。東京を中心とした都市美観工事やホテル建築、国際的土産品の新製、職員への英語教育などが計画、実行され、政府からは延べ55万円に及ぶ補助金が出された。主会場には、神宮外苑に10万人規模のスタジアムを建設することを計画したものの、明治神宮外苑を管轄する内務省神社局がこれに強硬に反対したため、東京市荏原郡駒沢町の駒沢ゴルフ場の跡地にメインスタジアムを建設することとなった。また、ベルリンオリンピックで試験的に実現したテレビ中継の本格的実施をもくろみ、日本ラジオ協会と電気通信学会が、東京の各競技会場と大阪、名古屋を結ぶ中継を行うべく開発を進めることとなった。さらに日本政府は、冬季オリンピックを北海道札幌市に招致することを目指して招致活動を継続した結果、1940年に第5回冬季オリンピックとして札幌オリンピックが開催されることに決定した。1938年に入ると日中戦争の長期化が予想されるようになったために、鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫を理由に、軍部が「木材か石材を使え」などと無理な注文を出した上に、杉山元陸軍大臣が議会においてオリンピック中止を進言するなど、反対の態度を鮮明にした。

さらに河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。それまでオリンピック開催を盛り上げる一翼を担ってきた読売新聞や東京朝日新聞などでは、オリンピック関係の記事がこの年から打って変わって縮小している。さらに、軍部からの圧力を受けた近衛文麿首相は、6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中にオリンピックの中止が明記されていたことから、事実上オリンピックの開催中止が内定した。しかしカイロ総会前には、中国大陸における利権をめぐって日本と対立していたイギリスやイギリス連邦でイギリスの事実上の属国のオーストラリアだけでなく、大会開催権を争っていたフィンランドからも中止(とヘルシンキでの代替開催)を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国は開催都市変更を要望してきた。この様な状況下にあるにもかかわらず、「中国大陸での動乱が収まらなかった時は中華民国の選手の出場はどうするのか」という質問に対し、カイロ総会に至っても軍部のプレッシャーを受けて足並みが揃わなかった日本側委員は満足な回答をすることができず、外国委員を失望させた。

また、イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任してしまった。さらにド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が150通も寄せられており、ついにド・バイエ=ラトゥール伯爵から日本に対し、開催辞退の話が持ちかけられてきた。

2011年3月2日水曜日

東京アンダーグラウンドは

有楽彰展による日本の漫画作品。1998年から2005年にかけて『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)にて連載された。単行本は全14巻。2000年から2003年にかけては嶋田純子による小説版が出版された。2002年にはテレビアニメ版が放送された。現代日本の東京の地下に秘密の地下世界が存在しているという設定を背景に、地下世界から逃げてきた2人の美少女との出会いがきっかけで、地下世界の陰謀に巻き込まれることになった男子高校生の冒険を描く漫画作品。劇中のほとんどの場面は人工物に囲まれた、照明に乏しく薄暗い地下世界を舞台としている。主人公および地下世界の登場人物たちは、地水火風などといった何らかのエネルギー(属性)の力を操ることのできる能力者という設定で、主人公らはこの力を武器に戦い、戦いを経て仲間を増やしつつ、連れ去られたヒロインを取り戻すため、地下世界を支配している勢力に立ち向かっていく。著者の有楽によれば、地底世界の描写は無国籍な近未来世界のイメージを意図しており、影響を受けた作品として1982年のアメリカ映画『ブレードランナー』を挙げている。

登場人物の名前に中国風のものが多いのは、東京新宿区歌舞伎町のイメージからの着想であるという。物語の舞台に地底世界を選んだのは、当時の担当編集者と話し合いながら現実味のある作品世界を模索する中で、編集者が話題にした地下世界を舞台にしたテーブルトークRPGから着想を得たことや、街中で見かけるマンホールの下にある世界へと想像を膨らませていった結果であるとしている。東京アートは、「日本卓球リーグ実業団連盟」所属の卓球実業団チーム。男子チームは遊澤亮選手兼任監督を筆頭に、日本卓球リーグの常勝集団を形成。所属選手としては韓陽・大森隆弘・大矢英俊・高木和卓や2008年に帰化した張一博らがいる。また女子では四元奈生美も東京アート所属選手である。会社そのものは、『第3のメディア「歩く広告塔」を目指します』をキャッチコピーとし、パッケージやショッピングツールの企画提案型企業として特にファッション業界で多数の有名ブランドのペーパーパックを含み2千種以上の商品を手掛けている。

東京インターチェンジは、東京都世田谷区にある、東名高速道路起点にあるインターチェンジ。本項では隣接している首都高速3号渋谷線の用賀出入口(ようがでいりぐち)についても併記する。1968年4月25日:東名高速道路の 東京IC - 厚木IC が開通。1971年12月21日:首都高速道路の 渋谷出入口 - 東名ICが開通(首都高速接続 - 東京ICランプまでの東名高速道路本線はこの日まで未開通であったので、厳密に東名高速道路の全線開通もこの日である)東名高速・東京IC側には料金所は設置されておらず、約6km先の東京本線料金所が実質の入口料金所となる。首都高速・用賀入口側すぐのところに用賀本線料金所があり、東名高速から来た車および用賀入口から入ってきた車が通過する。東京ウォーキングマップは、2001年4月15日より2009年12月27日までTBSで放送された紀行・情報のミニ番組。制作はTBSとカノックス。関東ローカルの放送。通常の放送時間は毎週日曜朝5:15 - 5:30(毎月最終日曜は4:45 - 5:00)だが、番組編成の都合で前後にずれることがしばしばあった。

放送回数は全436回。毎回“散歩師”と呼ばれるパーソナリティが、徒歩や電車・バスなどの身近な交通機関を使い、数時間から一日程度で散策・周遊できる範囲の地域をひとつのテーマに沿って紹介する。タイトルには「東京」とあるが、実際は東京を中心に広く関東圏一円の地域を取り上げており、都会の風物ばかりではなく、ひなびた地方都市の風情や豊かな自然の情景など、バラエティに富んでいる。東京エレクトロン株式会社は、東京都港区赤坂に本社を置く、半導体製造装置およびフラットパネルディスプレイ製造装置をビジネスとする会社である。東京証券取引所一部上場。子会社の東京エレクトロンAT、東京エレクトロン九州、東京エレクトロンソフトウェア・テクノロジーズなどが開発・製造する半導体製造装置およびフラットパネルディスプレイ製造装置のシェアは、日本で第1位、世界で第3位である。2つの文化施設の命名権を取得している。なお、ハンドドライヤー(エアータオル)を製造する同名の会社(本社・東京都多摩市)も存在するが、関連は一切ない。

東京エレクトロン山梨株式会社は、山梨県を拠点とする東京エレクトロングループの企業である。東京エレクトロンの業務内容のうちSiやLCDなどのエッチング部門を独立する形で設立された。現在の拠点は山梨県韮崎市であるが、近年は段階的に宮城県宮城郡松島町へ移転させており、2010年には東北自動車道・泉ICからほど近い宮城県黒川郡大和町小野地区の「大和リサーチパーク」内に移転し、新工場が稼動するため山梨側より700人の従業員と30社の関連会社を2010年度までに移転することが決定していたが、2008年後半からの世界的不況による半導体不振の影響から当面の間延期することが発表されている。一方で韮崎市の施設の一部がシャープとの合弁会社である「東京エレクトロンPV」の拠点として使用されることが発表されている。東京エレベーターガールはTBS系列で1992年1月10日~3月20日に放送されたテレビドラマである。東京近郊のデパートを舞台に、初めて社会に出た20歳の女の子が仕事、友情、恋愛を通して成長していく姿を描いた。

ロケは多摩そごう(2000年閉店、現在の三越多摩センター店)で行われた。ただし、実際の同店にはエレベーターガールはいなかった。東京オフィス株式会社は法人向けの賃貸オフィス検索サイトを運営するコンテンツ配信会社。東京都内の港区、渋谷区、新宿区、文京区、目黒区、豊島区、中央区、千代田区、品川区、江東区、墨田区、世田谷区、中野区の主要14区のオフィスビルの空室データを無償でWEBに公開している。東京オペラシティは、東京都新宿区西新宿三丁目にある複合文化施設。当地は、元々は東京工業試験所、小田急百貨店配送センター、淀橋電話局、京王バス操車場、他であった。東京オペラシティは、1985年の国際設計競技による柳澤孝彦TAK建築・都市計画研究所設計の新国立劇場と、NTTファシリティーズ+都市計画設計研究所+柳澤孝彦TAK建築・都市計画研究所の共同設計による民間の超高層複合施設東京オペラシティビルからなる街区の名称。しばしばこのうちの民間建物部分を指す。

両者は、ガレリアと呼ぶ高さ20m・長さ200m、3層の半外部空間でつながる。空調などの設備は隣のNTT東日本本社ビルと共用の地域冷暖房プラントを持ち、山手通り下の地中で繋がっている。また、利用者の歩行者ネットワークとして山手通り横断橋でも2階レベルで繋がっている。民間部分は東京オペラシティビル株式会社と財団法人東京オペラシティ文化財団とにより管理・運営されている。

2011年3月1日火曜日

県庁周辺には

かつての下総国守護所があった亥鼻城跡を囲むように、千葉県警察本部、千葉市消防局、千葉地方検察庁・千葉区検察庁、千葉地方裁判所・千葉家庭裁判所など行政機関が集中する。一方、市街地は地場資本の奈良屋(後に専門店ビル・セントラルプラザ)・田畑(現・千葉パルコ)・扇屋(後にジャスコ傘下入り)といった百貨店が並び、ダイエーや丸井、十字屋、緑屋が進出するなど活況を呈していたが、現在では空洞化が深刻化しダイエー千葉店、セントラルプラザなどが次々に閉店し、その跡地はマンションや駐車場が造られ、また、市街地から少し逸れた中央区栄町地区は、かつては県下一の賑わいを誇っていたが、千葉空襲で焼け野原となったあと、風俗店、キャバレー、小料理屋などが集中する歓楽街と化し、国鉄千葉駅が現在の位置に移転した後は商業拠点としては完全に衰退している。現在の栄町には韓国系商店や風俗店(ソープランド・店舗型ヘルス・ホテルヘルス・風俗案内所・デリヘル)が目立つ地域もあり、日本有数のソープ街・コリアンタウンとなっているが、市は地元商店会と共に栄町の再生に取り組み始めている。

市域の殆どで広義の京成グループの会社の手による路線バスが運行されている。また、公営交通(市営バス)の運行実績はない。乗車方法は一部の均一路線を除き、基本的に後乗り前降り後払い方式。運賃は整理券を用いた区間制を採っている。市内に於いて、バス共通回数券は現在発行されていない。ただし、東洋バス・千葉シーサイドバス・九十九里鉄道を除く各社では非接触型ICカードであるPASMO・Suicaが利用できる。もともとの市外局番は「0472」だったが、政令指定都市昇格4週間後の1992年4月29日から「043」に変更され、市内局番は200番台になった。新規加入は300番台が割り当てられる(ちなみに市外局番「0434」であった佐倉市、四街道市、八街市なども同日に「043」になり、市内局番は400番台になった)。 ただし、花見川区の八千代市に接している一部の地域(柏井町・柏井・横戸町・横戸台など)は買い物等の生活基盤が八千代市であること等を理由に住民の希望(NTTの都合の説もあり)で市外局番が「047」(変更前は0474-8nで単位料金区域も八千代市扱い)となっており、同じ千葉市内でありながら「043」地域から「047」地域に電話をする際(逆も)には市外局番からかけなければならない。

「花の都・ちば」のシンボルキャラクターとして、ちはなちゃんが使用されている。パンフレットや看板などによく印画されているため、街中でも見る事ができる。千葉市内の自治体や非営利団体・企業等が運営する地域SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)あみっぴぃ(2006年開設)西千葉駅地域を中心とした西千葉コミュニケーションサイト。ちばうぇ~ぶSNS(2006年開設)千葉市を対象とした地域ソーシャルネットワーキングサイト。北千葉導水路は、利根川と江戸川を結ぶ水路(流況調整河川)である。千葉県印西市と我孫子市の境界付近において利根川と、千葉県松戸市において江戸川に接続する人工河川で、1974年に着工し2000年に全体が完成した。全長28.5kmで、そのうち地下水路は22.2kmを占める。最大導水量は約40m³/s。事業主体は国土交通省。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐(ふさ)の境界付近を起点(第一機場)とし、手賀川・手賀沼沿岸に沿って西に延びる。

手賀沼の西端の柏市戸張新田付近には第二機場があり、そこから一部の水は手賀沼に流される。水路はさらに大堀川沿いに遡り、大堀川注水施設を経て水路は南に延びる。流山市に入ると水路は坂川として流れ、松戸市の坂川放水路(第三機場)から江戸川へと注ぐ。利根川河口堰と共同運用する事により、河口堰によって貯められた水の一部を江戸川へと送水することができるため、利根川下流部の水を首都圏に送水することを可能にしている。北千葉導水路が完成するまでは、利根運河が「野田導水路」として暫定的に江戸川への送水を担っていた。また、第二機場から一部の水を手賀沼へと放水することにより、水質が悪い手賀沼の水を押し流すか希釈させることができる。そのため、手賀沼の水質向上が期待されており、改善の兆しが見られたが、手賀沼の水質汚濁そのものは依然として高水準にある。千葉県立房総のむらは、千葉県印旛郡栄町と成田市に跨る所に位置する県立の体験型博物館である。

伝統的な生活様式や生活技術を再現、展示しており、県民がそこを訪れそれらを直接体験することによって、地域の文化を新しい視点で見直し、より豊かな文化を創造する事を目的に、昭和61年、※房総風土記の丘に隣接する場所に開館した。平成16年4月、房総風土記の丘と統合。総面積約32ha の敷地内には、復元古墳「竜角寺古墳群第101号古墳」など古墳78基のほか資料館がある。また、明治32年(1899年)建造の学校建築である重要文化財「旧学習院初等科正堂」(成田市)と、安永9年(1780年)に安房郡丸山町(現・南房総市)に建てられた重要文化財「旧御子神家住宅」(成田市)、寛延4年(1751年)に富津市亀沢に建てられた県指定有形文化財「旧平野家住宅」(印旛郡栄町)の2棟の民家建築が移築公開されている。JR東日本成田線 安食駅から千葉交通バス竜角寺台車庫行き約8分(210円)「房総のむら」バス停下車、徒歩8分。ニュー東豊 栄町循環バス(安食循環左廻り)「風土記の丘資料館前」「学習院正堂前」「ドラムの里」バス停も利用可能。 ※休日、年末年始運休。

JR東日本成田線 下総松崎駅から徒歩約30分。千葉荘は、中世の下総国千葉郡(現在の千葉県千葉市中央区及びその周辺)に存在した荘園。『吾妻鏡』承元3年12月15日条に書かれた千葉氏の由来の件より、元永年間に「千葉大夫」と称された平常兼あるいはその子常重が開発領主となって開いた荘園を鳥羽院に献上して平常兼(あるいは常重)は同荘の検非違所になったと推定されている。後に鳥羽院の娘である八条院に継承され、引き続き荘官として同荘を支配した平常重は大治元年(1126年)に荘内の池田郷に亥鼻城(千葉城)を築いて上総国山辺郡の大椎館(現在の千葉市緑区大椎町)から拠点を移し、千葉氏の祖となった。建久年間に作成されたとみられる「香取社遷宮用途注進状」によれば、“千葉庄三百斛”の負担をしたことが記されており、同文書内に八十斛の負担をしたと記されている船橋御厨が200町の面積があった(『神鳳鈔』)とされているため、そこから算出しておよそ750町(約7.438km²)の面積を有していたと推定され、千葉郡のうち都川流域の池田郷(現在の千葉市中央区亥鼻・千葉寺町一帯)及び千葉郷(同市稲毛区穴川・黒砂一帯)・三枝郷(同市稲毛区作草部一帯)・糟○郷(同市若葉区加曽利町一帯)の4郷を中心とした現在の千葉市中央部に比定されている。

鎌倉時代になると、千葉氏は下総国の守護職とともに千葉荘の地頭職を獲得し、千葉荘は請所とされて千葉氏の支配が確立された。後世になると、南北に分割されて「千葉北荘」「千葉南荘」と呼ばれたとみられている。同荘内には古くから千葉妙見宮や千葉寺などの多くの寺社が存在しており、千葉氏の手厚い保護を受けて栄え、下総国守護となった千葉氏の拠点として栄えた。東京大学生産技術研究所は、東京大学の附置研究所である。航空宇宙関係を除く工学全般の研究・教育活動を行っている。