2011年3月17日木曜日

状況を打開すべく

総曲輪・西町では再開発構想が複数提案されている。2007年9月に新富山大和を核とした商業施設『総曲輪フェリオ』が開店した。旧大和跡地については、富山市立図書館、富山第一銀行本店、ガラス美術館、公文書館などが入居する複合ビルとなることが決定した。中心商店街は総曲輪通り商店街と中央通り商店街である。この二つの商店街はアーケードで連続しており、二つを合わせたアーケードの長さは1kmにもおよび北陸最大の規模になる。反面、その長さゆえ集客効率が悪く、中央通り商店街の一部分でシャッター通りを生む一因となっている。中央通り商店街の一部を商店街と住宅街に分けて商店を一箇所に集約するという構想がある。夜の歓楽街は桜木町である。表通りに面していないため夜でも分かりにくい場所にあるが、飲食店街としては県内最大である。2000年、婦中地区に大型のショッピングモール『フューチャーシティ・ファボーレ』がオープンした。また、市の環状道路である県道富山環状線(草島東線・西線)沿いの掛尾町や山室、中川原付近ではロードサイドショップの出店が相次いでみられる。

富山市は、日本海側屈指の工業都市である。戦前より続く産業として、江戸期までさかのぼる事が出来る「くすりのとやま」に代表される製薬産業や、全国屈指の製造量を誇るベアリング等の工業機械製造業がある一方、昭和後期のエレクトロニクスやロボトロニクス関連産業の隆盛により、地域内で蓄積された先進的な微細加工技術によって精密工業製品や各種微細加工素材、精密自動車部品、高機能ロボットなどの製造業が台頭している。これら工業の製造研究拠点としての発展を裏付けているものは、安価な電力供給と良質で豊富な工業用水を容易に得られる地理的条件、富山大学・富山県を中心とした産学官連携研究施設の充実、そして重要特定港湾「伏木富山港富山地区」や北陸自動車道、東海北陸自動車道等による太平洋側工業地域と環日本海側諸国への交通の利便性を兼ね備えた地域である事が挙げられる。富山県は全国で最も農耕地における稲作率が高い県である。

富山市郊外にも水田が広がり、富山市でとれる米は「八町米(はっちょうまい)」という名前でブランド化されている。呉羽地区では後述の梨園が広がっている。また、旧八尾町の黒瀬谷地区では、わずかながらブドウを生産している。水産業は、海岸部西部の四方と東部の水橋に漁港がある。また、かつては神通川にマスが遡上しており、それによってできた名産が鱒寿司である。富山市の果実生産の97%(2,702t)を占める梨は、富山市の全耕種出荷額の9%を担っている。また、県内出荷量の70%を占め、県内の梨生産の中心である。全国の出荷量に対しては0.8%を占めている。富山市では呉羽、老田が産地であり、ここで採れる梨は呉羽梨と呼ばれている。小杉・大門地区(射水市)で作られる梨も同様に、呉羽梨と呼ばれる。呉羽の農業は、もともと稲作が中心であった。しかし、呉羽の多くを占める呉羽丘陵は水の便が悪く、日照りが続くと田が干上がってしまう土地柄だったため、1920年代から梨作りがはじめられた。

現在呉羽丘陵には梨畑が広がっている。鈴木亭 - 1877年(明治10年)創業。「杢目羊羹」は県木立山杉の年輪を模した富山の伝統銘菓。皇室献上羊羹。月世界本舗 - 1897年(明治30年)創業。「銘菓 月世界」は、暁の空に浮かぶ淡い月影のイメージから名付けられた。竹林堂本舗 - 1790年(寛政2年)、富山藩より拝命した「竹林堂」。富山饅頭の代名詞。磯野屋 - 無花果を使った菓子を得意とする。2002年(平成14年)菓子博で外務大臣賞受賞。ボン・リブラン - 富山県東部に起源を持つ菓子本舗。「富也萬」「甘金丹」などで知られる。ここでは、2005年3月までの富山市に該当する事項について述べる。富山市(-2005年3月31日)は、北陸地方の西部、富山県の中部にあった市。2005年(平成17年)4月1日に、7市町村の合併によって、富山市(2005年4月1日-)の一部となった。新・富山市のうち、2005年(平成17年)3月31日までの富山市の地域が、旧・富山市と呼ばれる。

新・富山市は新設合併によって設置された自治体であり、2005年3月までに存在した富山市は、合併によって廃止されている。制度上では、新・富山市と旧・富山市は、全く別の自治体である。郡については、旧・富山市の市制施行時の区域は上新川郡に属していた。現在の富山市の市役所本庁舎は、旧・富山市の市役所本庁舎がそのまま使用されている。「暴走族」発祥の地。1972年(昭和47年)、オートバイに乗った不良集団が富山市の中心市街で起こした騒動がマスコミに取り上げられた際、初めて「暴走族」という語が使用された。地元では勘違いしている人間も多いが、不良がバイクに乗って集団で暴走するという行為が富山市で始まり、全国に広がったわけではない。新田次郎の小説「劔岳 点の記」に登場する山案内人・宇治長次郎は旧大山町の出身である。富山藩は、越中国の中央部(おおむね神通川流域)に領地を持った藩で、石高は10万石、加賀藩の支藩である。藩主は前田氏で家格は従四位下・大広間詰・外様・城主。

藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗藩の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。寛永16年(1639年)、加賀藩第2代藩主・前田利常(利長の弟)が隠居するとき、次男・利次に富山10万石、三男・利治に大聖寺7万石の分封を願い出て許され、富山藩が成立した。富山藩の当初の領地は越中国婦負郡の内6万石、新川郡黒部川西岸の内1万6800石、富山町周辺7カ村3170石、加賀国能美郡手取川南岸の内2万石の計10万石であった。1640年、利次は加賀藩領内にあった富山城を借りて越中入りし、婦負郡百塚に新たに城を築く予定であった(そのため当時、利次は百塚侍従の称号で呼ばれていた)が費用が足りず、築城が進まないまま、やがてこれを断念して富山城に引き続き居する事を決め、万治2年(1659年)に居城が自領外という不便の解消ということもあって、加賀藩領であった富山城周辺の新川郡舟橋・水橋(2万7千石)と、自領の新川郡浦山辺(1万6800石)及び飛び地であった加賀国能美郡とを交換して藩領が定まった。

そして、1661年に幕府から富山城改築の許しを得て、城と城下町の整備が本格的に進められた。富山町は越中における唯一の城下町であり、他は在郷町と呼ばれる農村地域に存在した商人の町で、あとは農村であった。新田開発により享保年間には総高は14万石を超えていたとされ、また漁業、売薬業、蚕種業、製紙業などに力を注ぎ実質的な石高は20万石以上あったとされるが、藩の財政は成立時より常に逼迫しており、上方や飛騨の豪商、また宗藩である加賀前田家から多大な借財を抱えていた。ただしこれは藩財政が放漫であったことを意味するのではなく、分藩の際に宗藩から過大な家臣団を押しつけられたこと、そして藩領が急流河川域であったためたびたび水害に見舞われ、また天保2年(1831年)の城下の大半が焼失した大火、安政5年(1858年)の大地震による大洪水などの災害と、度重なる公儀普請手伝いにより過大な出費を強いられたことに因るところが大きい。