富山県の中央部に富山湾に面して広がる沖積平野である。東を飛騨山脈、南を飛騨高地、西を宝達丘陵に区切られる。飛騨山脈、飛騨高地からの急流によって形成された平野で、谷口部では複数の河川による複合扇状地が見られる。用水が発達しており、流水客土などによる土地改良によって扇状地部分も含めて水田になっている。また、臨海部は工業地域となっている。富山平野は、中央部にある呉羽丘陵で大きく2つの平野に分けられ、東側を呉東平野、西側を呉西平野という。さらに、東側のうち、神通川、常願寺川の流域を狭義の富山平野、黒部川、片貝川、早月川の流域を新川平野という。西側は、庄川、小矢部川によって形成された平野で、中流域を砺波平野、下流域を射水平野という。砺波平野は散居村で有名である。富山城は、富山県富山市丸の内にあった城である。「浮城(うきしろ)」「安住城(あずみじょう)」ともいわれた。富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる越中中央の要衝であり、富山城は16世紀中ごろ越中東部への進出を図る神保長職により築かれたとされる。
また、滝廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城の一つといわれている。現在、城跡は「富山城址公園」となっている。室町時代の越中守護は三管領の畠山氏であったが越中には来任せず、東部を椎名氏、西部を神保氏を守護代として治めさせていた。富山城は天文12年(1543年)頃に越中東部の新川郡への進出をもくろむ神保長職(じんぼう ながもと)が、椎名氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされる。しかし最近の発掘調査により室町時代前期の遺構が発見され、創建時期はさらにさかのぼると考えられている。また、神保氏時代の富山城は今の場所ではなく、約1キロメートル南方の小高い所にあったとする説もあったが、この発掘結果によってほぼ現在の位置にあったことが明らかとなった。なお、天文年間(16世紀中期)の名称を「安住の館(あずみのやかた)」とする研究者もいる。富山は越中国の中央で、飛騨と北陸道がまじわる交通のかなめにあり、松倉城主椎名氏、越後上杉氏、一向一揆などの勢力による争いが繰り返された。
慶長年間以前に成立の『富山之記』には、神保氏時代の富山城と城下の発展の様子がくわしく書かれている。越中を窺う上杉氏に対抗するため神保氏は織田方につき、富山城は織田信長によって越中国に封じられた佐々成政によって改修され越中支配の拠点となった。天正9年(1581年)織田信長の重臣佐々成政が越中の領主となり富山城に入城した。成政は富山城の大規模な改修を行った。神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれた。 本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。この際に、秀吉は本陣を富山城西方4kmの白鳥城まで進めたものの富山城には入らず帰還したとするのが従来の定説であるが、天正13年閏8月1日に富山城に入城していたとする説が新たに提起されている。
越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。寛永16年(1639年)、加賀藩2代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩ができた。翌寛永17年(1640年)、利次はそのころ加賀藩領内にあった富山城を仮城として借り越中に入った。当初、居城として婦負郡百塚に新たに城を築くつもりであったが、藩の財政がそれを許さなかったため、万治2年(1659年)に加賀藩との領地交換により富山城周辺の土地を自領とし富山城を居城とした。万治4年(1661年)、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復し、また城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。昭和29年(1954年)富山城跡の敷地一帯で富山産業博覧会が開催され、鉄筋コンクリート構造による模擬天守が建てられ、通称「富山城」と呼ばれることになった。
この模擬天守は同年11月より富山市郷土博物館として運営が始まった。平成19年(2007年)、千歳御殿の門が、明治時代に移築された豪農の赤祖父家から城址公園内(本丸東側)に再び移築された。これは10代藩主利保の隠居所として東出丸に隣接して建てられたものである。平成20年(2008年)、移築された千歳御門の横に、市が整備していた石垣が完成した。1953年(昭和28年)以来の石垣作りであった。平成20年(2008年)から平成21年(2009年)行われた埋蔵文化財調査において、富山市民プラザ脇で三の丸大手門の石垣が見つかり、古絵図上に示されていた富山城の正門である大手門の位置や遺構の存在が初めて確認された。本丸石垣の特徴との類似から、富山藩初期(1660年頃)の築造と推定されている。これは、市内電車の環状化工事に先立って行われたものである。平成26年完成の予定で公園の再整備工事が行われており、その一環として、佐藤記念美術館から千歳御門にかけての本丸東側の堀の一部復元が計画されている。
埋め立てによって失われた搦手門の枡形(外桝形)も再現される予定である。博覧会から半世紀が過ぎての整備で戦後復興期のイメージを変えつつある。富山城の縄張りは藩政期を通して大きな変化は見られなかったが、嘉永2年(1849年)に10代藩主利保の隠居所として千歳御殿が東出丸の外側(東側)に建てられた。名称こそ「御殿」であるが、その形状は周囲に水濠を設けた独立郭であった。江戸時代後期には東西約680メートル、南北約610メートルの縄張りがあったが現在城址公園として残っているのは、本丸と西の丸(間の水濠は埋め立て)、それらの南面の水堀および二の丸の一部のみ(東西約295メートル、南北約240メートル)で、面積では約6分の1である。本来の富山城は石垣は主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっている。総欅造り。1849年、千歳御殿の正門として建てられた富山城唯一の現存建築遺構。創建当初のものではなく安政2年(1855年)の大火で焼失後の再築との説もある。
門形式は三間薬医門(さんげんやくいもん)といわれる格式の高い城門建築で現存する同形式の門は東大の赤門(旧 加賀屋敷御守殿門)だけである。 「平成の石垣」 千歳御門脇(南側)の2008年に完成した石垣。幅11メートル、高さ7メートル、奥行き12メートルで、富山城の石垣に使用された早月川の御影石を用いている。