2011年3月16日水曜日

1889年4月1日の市制施行の後

臨海部を中心として機械工業や化学工業による工業化が進んでいた。1899年(明治32年)に北陸本線が開通し、江戸時代から続く日本海航路の拠点である岩瀬港や、甲信越地方・東海地方とを結ぶ交通の要衝として発展していた。岩瀬港周辺では廻船問屋が栄華を極め、特に大きな廻船問屋は馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家の五つの問屋であった。なかでも馬場家はその八代目の妻である馬場はるが旧制富山高等学校の設立に尽力し、現在の金額で総額160億円もの寄付を行い、富山市初の名誉市民となっている。また、売薬業においても江戸時代から着々と積み重ね、大きく成長した薬問屋が隆盛していた。中でも荻原氏、中田氏、金岡氏、密田氏、松井氏などが特に大きな富山市在地の問屋として知られていた。彼等の中から、北陸銀行初代頭取である中田清兵衛や、北陸電力の前身となる富山電灯の創業者である金岡又左衞門が生まれている。昭和3年に、県施工の「富山都市計画事業」(運河・街路・土地区画整理事業の3本柱)が採用された。

富山駅の北側と神通川河口の東岩瀬港とを直結する富岩運河により工業地帯を形成、116万立方メートルの運河開削土砂を得て、約117ヘクタールの旧河道(神通廃川地)を埋立て、新市街地を造ろうという一挙両得の計画であった。昭和11年には神通廃川地の埋立地で、日満産業大博覧会が開かれ、この時期に、富山県庁や富山電気ビルデイングなどの近代建築が建ち並び、富山市の都心部となるに到った。現在、屋形舟や桜並木で市民の愛着を得ている松川や、宮本輝の小説『蛍川』や同名映画で有名ないたち川は、神通川の旧河道の痕跡である。この開削埋め立て計画は或る都市計画エンジニアの人生についてにあるとおり、富山県の都市計画富山地方委員会技師、赤司貫一によるもので、白井芳樹(元富山県土木部長)が著した「都市 富山の礎を築く」~ 河川・橋梁・都市計画にかけた土木技術者の足跡 ~2009年技報堂出版や「昭和初期の富山都市圏における土木事業と三人の土木技師」(都市計画 55(4), 94, 2006年8月25日号)などに詳しく記されている。

なお、都市計画地方委員会は、道府県ごとに設置され、赤司貫一は内務省から送りこまれた都市計画担当の技師である。赤司は十年間富山に勤め、立案から事業の概成まで、一貫してたずさわった。第二次世界大戦の末期、1945年(昭和20年)8月2日の富山大空襲によって、死者2,275人を出し、市街地の99.5%が焼失する被害を受け、城下町としての入り組んだ町並みや面影は破壊された。1950年(昭和25年)、戦後の焼け野原になった富山市において都市計画が策定された。富山駅を中心とした放射状道路と碁盤目の直交した道路によって構成された近代都市計画が推し進められた。戦前から存在した港湾設備や重化学工業や機械工業の復興が行われ、高岡市、新湊市(現:射水市)などの臨海部を占める地区と一体となった工業地帯を形成した。更に工業の発展とともに需要の高まりを見せた電力供給のため、河口域には大規模な火力発電所が整備された。そうして富山市は高度経済成長期を駈け抜けた。

1955年頃-1970年代、イタイイタイ病が発生。これは、四大公害病の一つで、岐阜県の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)による鉱山の製錬に伴う未処理廃水が神通川に流入、下流域である熊野、神明(旧富山市)、婦中(旧婦中町)で発症する人が現れた。2005年(平成17年)4月1日:富山市が発足した。2007年(平成19年)2月8日:富山市の中心市街地活性化基本計画が第1号として認定される。436ヘクタールが対象で、病院や介護施設、商店を中心部に集約し、高齢者らが次世代型路面電車などを核に、車に頼らず暮らせる環境づくりを進める計画。バス路線の支援事業やJR高山本線の増便事業、富山ライトレールなどの公共交通機関支援事業を実行している。2007年(平成19年)3月25日 午前9時42分ごろの、能登半島地震の地震で市内では新桜町・婦中町笹倉地区で震度5弱、石坂 八尾町福島・今泉・上二杉・花崎・山田湯・楡原地区で震度4を観測した。郊外型、拡散型のまちづくりが進んだ結果、富山市は車での移動には便利であるが、車がないと大変不便な街になった。

このように、人口・都市機能が市域全般に広がった状態では、道路の整備やごみの収集などの公共サービスのコストが増加する傾向がある。さらに、人口が減少し、三位一体の改革で国からの交付金や補助金が減少すると、社会の維持が難しくなる。そこで、富山駅を中心に放射状に伸びる鉄軌道や幹線バス路線の各駅を拠点にまちの整備が進められている。このようにすることで、車がなくても便利で、さらに公共サービスのコストを抑えることができるとしている。そのため、次のような施策が行われている。まちなか居住推進事業 - まちなかでの住宅取得費用や賃貸住宅の家賃への補助を行い、都市地区への人口回帰を促す。2006年(平成18年)、中心市街地の人口は増加に転じた。富山ライトレールの開業 - 利用者の減少が深刻な問題となっていた富山港線を一部路面電車化して本数を増やし、またバスの周回時刻に合わせるなどして利便性を向上させた。富山地方鉄道市内軌道に環状線を新設することで、LRTの新型車両により富山駅周辺と中心商店街とを結んでいる。

高山本線(活性化)社会実験 - 運行本数を増やすとともに、各駅でフィーダーバスの運行や無料駐車場を設置することで、利用者の増加を図る試み。中心市街地活性化基本計画 - 人口減少・少子高齢社会に対応した、多様な都市機能がコンパクトに集積したまちを実現するために策定する。国の1号認定が下り、補助金を受けられることになった。現在、20年後の都市の将来像を描くために、都市マスタープランを策定中で、市民の声を集めている。2007年度の当初予算規模は、約3,677億(+99億,+2.7%)である。合併して新富山市となった2005年度の当初予算(約4,410億)に比べると、約△16.6%となっている。 水道事業や病院事業などの企業会計で、520億の増加が著しい。2006年度決算(平成19年9月30日時点)は、約△63億(昨年比約△24億)で、赤字である。経済においても、富山市は富山県の中心地である。富山経済は、廃藩置県後の明治期の富山県においてその基を築いた。代表的なものには、北陸最大にして地方銀行全国第二の規模を誇る北陸銀行や、全国と比較して最も安価な水準の電力を供給する北陸電力の本店が富山市に所在し、富山県の経済活動の基盤を形成している。

また、富山県の経済を側面から支えている「富山大学」は、富山市民や団体の寄付行為によって生まれた旧制富山高等学校や富山薬学専門学校の流れを汲んでいる。中心商業地は総曲輪・西町界隈である。しかしバブル期以後、富山駅周辺でマリエとやまや富山ステーションフロントCiCなど商業ビルの建設が相次ぎ、本来の中心部である総曲輪・西町との客の食い合いが生じている。さらに後述する郊外型SC等の進出による打撃も大きく、年々総曲輪・西町の中心地としてのステータスは相対的に低下する傾向にある。総曲輪・西町では2006年3月に大手百貨店の西武富山店が撤退し、なおも求心力低下が危惧されているのに対し、駅周辺は新幹線開通を控え富山駅の高架化・区画整理が予定されていることから今後も発展すると考えられる。