2011年3月1日火曜日

県庁周辺には

かつての下総国守護所があった亥鼻城跡を囲むように、千葉県警察本部、千葉市消防局、千葉地方検察庁・千葉区検察庁、千葉地方裁判所・千葉家庭裁判所など行政機関が集中する。一方、市街地は地場資本の奈良屋(後に専門店ビル・セントラルプラザ)・田畑(現・千葉パルコ)・扇屋(後にジャスコ傘下入り)といった百貨店が並び、ダイエーや丸井、十字屋、緑屋が進出するなど活況を呈していたが、現在では空洞化が深刻化しダイエー千葉店、セントラルプラザなどが次々に閉店し、その跡地はマンションや駐車場が造られ、また、市街地から少し逸れた中央区栄町地区は、かつては県下一の賑わいを誇っていたが、千葉空襲で焼け野原となったあと、風俗店、キャバレー、小料理屋などが集中する歓楽街と化し、国鉄千葉駅が現在の位置に移転した後は商業拠点としては完全に衰退している。現在の栄町には韓国系商店や風俗店(ソープランド・店舗型ヘルス・ホテルヘルス・風俗案内所・デリヘル)が目立つ地域もあり、日本有数のソープ街・コリアンタウンとなっているが、市は地元商店会と共に栄町の再生に取り組み始めている。

市域の殆どで広義の京成グループの会社の手による路線バスが運行されている。また、公営交通(市営バス)の運行実績はない。乗車方法は一部の均一路線を除き、基本的に後乗り前降り後払い方式。運賃は整理券を用いた区間制を採っている。市内に於いて、バス共通回数券は現在発行されていない。ただし、東洋バス・千葉シーサイドバス・九十九里鉄道を除く各社では非接触型ICカードであるPASMO・Suicaが利用できる。もともとの市外局番は「0472」だったが、政令指定都市昇格4週間後の1992年4月29日から「043」に変更され、市内局番は200番台になった。新規加入は300番台が割り当てられる(ちなみに市外局番「0434」であった佐倉市、四街道市、八街市なども同日に「043」になり、市内局番は400番台になった)。 ただし、花見川区の八千代市に接している一部の地域(柏井町・柏井・横戸町・横戸台など)は買い物等の生活基盤が八千代市であること等を理由に住民の希望(NTTの都合の説もあり)で市外局番が「047」(変更前は0474-8nで単位料金区域も八千代市扱い)となっており、同じ千葉市内でありながら「043」地域から「047」地域に電話をする際(逆も)には市外局番からかけなければならない。

「花の都・ちば」のシンボルキャラクターとして、ちはなちゃんが使用されている。パンフレットや看板などによく印画されているため、街中でも見る事ができる。千葉市内の自治体や非営利団体・企業等が運営する地域SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)あみっぴぃ(2006年開設)西千葉駅地域を中心とした西千葉コミュニケーションサイト。ちばうぇ~ぶSNS(2006年開設)千葉市を対象とした地域ソーシャルネットワーキングサイト。北千葉導水路は、利根川と江戸川を結ぶ水路(流況調整河川)である。千葉県印西市と我孫子市の境界付近において利根川と、千葉県松戸市において江戸川に接続する人工河川で、1974年に着工し2000年に全体が完成した。全長28.5kmで、そのうち地下水路は22.2kmを占める。最大導水量は約40m³/s。事業主体は国土交通省。水路は印西市木下(きおろし)と我孫子市布佐(ふさ)の境界付近を起点(第一機場)とし、手賀川・手賀沼沿岸に沿って西に延びる。

手賀沼の西端の柏市戸張新田付近には第二機場があり、そこから一部の水は手賀沼に流される。水路はさらに大堀川沿いに遡り、大堀川注水施設を経て水路は南に延びる。流山市に入ると水路は坂川として流れ、松戸市の坂川放水路(第三機場)から江戸川へと注ぐ。利根川河口堰と共同運用する事により、河口堰によって貯められた水の一部を江戸川へと送水することができるため、利根川下流部の水を首都圏に送水することを可能にしている。北千葉導水路が完成するまでは、利根運河が「野田導水路」として暫定的に江戸川への送水を担っていた。また、第二機場から一部の水を手賀沼へと放水することにより、水質が悪い手賀沼の水を押し流すか希釈させることができる。そのため、手賀沼の水質向上が期待されており、改善の兆しが見られたが、手賀沼の水質汚濁そのものは依然として高水準にある。千葉県立房総のむらは、千葉県印旛郡栄町と成田市に跨る所に位置する県立の体験型博物館である。

伝統的な生活様式や生活技術を再現、展示しており、県民がそこを訪れそれらを直接体験することによって、地域の文化を新しい視点で見直し、より豊かな文化を創造する事を目的に、昭和61年、※房総風土記の丘に隣接する場所に開館した。平成16年4月、房総風土記の丘と統合。総面積約32ha の敷地内には、復元古墳「竜角寺古墳群第101号古墳」など古墳78基のほか資料館がある。また、明治32年(1899年)建造の学校建築である重要文化財「旧学習院初等科正堂」(成田市)と、安永9年(1780年)に安房郡丸山町(現・南房総市)に建てられた重要文化財「旧御子神家住宅」(成田市)、寛延4年(1751年)に富津市亀沢に建てられた県指定有形文化財「旧平野家住宅」(印旛郡栄町)の2棟の民家建築が移築公開されている。JR東日本成田線 安食駅から千葉交通バス竜角寺台車庫行き約8分(210円)「房総のむら」バス停下車、徒歩8分。ニュー東豊 栄町循環バス(安食循環左廻り)「風土記の丘資料館前」「学習院正堂前」「ドラムの里」バス停も利用可能。 ※休日、年末年始運休。

JR東日本成田線 下総松崎駅から徒歩約30分。千葉荘は、中世の下総国千葉郡(現在の千葉県千葉市中央区及びその周辺)に存在した荘園。『吾妻鏡』承元3年12月15日条に書かれた千葉氏の由来の件より、元永年間に「千葉大夫」と称された平常兼あるいはその子常重が開発領主となって開いた荘園を鳥羽院に献上して平常兼(あるいは常重)は同荘の検非違所になったと推定されている。後に鳥羽院の娘である八条院に継承され、引き続き荘官として同荘を支配した平常重は大治元年(1126年)に荘内の池田郷に亥鼻城(千葉城)を築いて上総国山辺郡の大椎館(現在の千葉市緑区大椎町)から拠点を移し、千葉氏の祖となった。建久年間に作成されたとみられる「香取社遷宮用途注進状」によれば、“千葉庄三百斛”の負担をしたことが記されており、同文書内に八十斛の負担をしたと記されている船橋御厨が200町の面積があった(『神鳳鈔』)とされているため、そこから算出しておよそ750町(約7.438km²)の面積を有していたと推定され、千葉郡のうち都川流域の池田郷(現在の千葉市中央区亥鼻・千葉寺町一帯)及び千葉郷(同市稲毛区穴川・黒砂一帯)・三枝郷(同市稲毛区作草部一帯)・糟○郷(同市若葉区加曽利町一帯)の4郷を中心とした現在の千葉市中央部に比定されている。

鎌倉時代になると、千葉氏は下総国の守護職とともに千葉荘の地頭職を獲得し、千葉荘は請所とされて千葉氏の支配が確立された。後世になると、南北に分割されて「千葉北荘」「千葉南荘」と呼ばれたとみられている。同荘内には古くから千葉妙見宮や千葉寺などの多くの寺社が存在しており、千葉氏の手厚い保護を受けて栄え、下総国守護となった千葉氏の拠点として栄えた。東京大学生産技術研究所は、東京大学の附置研究所である。航空宇宙関係を除く工学全般の研究・教育活動を行っている。