2011年3月3日木曜日

1992年から準備段階の

東京オペラシティビルの芸術顧問であった作曲家の武満徹の名前を冠している。シューボックス型の平面、変形ピラミッド型の天井、2層のバルコニー席、天井に採光窓を持ち、ピラミッド状の反射版がステージ上部に浮かぶ。内装はホワイトオーク。東京オリンピックは、1940年9月21日から10月6日まで、日本の東京府東京市で開催される予定であった夏季オリンピック。日中戦争の影響により、日本政府が開催権を返上したため開催されなかった。また代替予定地のヘルシンキでの開催も、第二次世界大戦により行われなかった。1929年に、日本学生競技連盟会長の山本忠興は来日した国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と会談し、日本でのオリンピック開催は可能か否か、という話題に花をさかせた。このエピソードが東京市当局や永田秀次郎東京市長にも伝わり、にわかにオリンピック誘致の機運が高まってきた。翌1930年にドイツで開催された世界学生陸上競技選手権から帰国した山本は、「オリンピック東京開催は俄然実現可能である」との調査報告書を市長あてに提出した。

1931年10月28日、東京市議会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択された。主会場には、東京府荏原郡駒沢町(現:東京都世田谷区)の駒沢ゴルフ場の跡地に計画の競技場群、および神宮外苑を充てるとした。永田市長は欧州駐在特命全権大使や公使、さらにはジュネーヴの国際連盟事務局次長だった杉村陽太郎に宛てて招致運動への依頼状を送り、国内においては体育関係者、東京商工会議所に協力を依頼した。またアメリカ留学経験を持つ市会議員を派遣し、ロサンゼルスで開催されるIOC総会出席者への運動を行わせた。1932年に行われた当該総会の席上、日本代表はIOC会長に対し正式招待状を提出。こうして東京は、ローマ(イタリア)、バルセロナ(スペイン)、ヘルシンキ(フィンランド)、ブダペスト(ハンガリー)、アレキサンドリア(エジプト)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ダブリン(アイルランド)、トロント(カナダ)とともに、第12回国際オリンピック競技大会開催候補地として正式立候補したのであった。

冬季オリンピック開会式に臨む(右から)ヒトラー、アンリ・ド・バイエ=ラトゥール、ルドルフ・ヘス1940年大会の開催地を決定する1935年のIOCオスロ総会では、東京、ローマおよびヘルシンキの3市の争いとなった(開催都市は、その5年前の総会で決定するとするのが当時のルールであった)。東京開催の障害要因としては「夏季の高温多雨」、「欧米から遠く離れていることによる旅費・時間の問題(当時欧米以外において国内オリンピック委員会を持つ独立国は、アジアでは日本と中華民国、アフガニスタン程度で、植民地ながら独自の国内オリンピック委員会を持っていたイギリス領インド・アメリカ領フィリピンを加えても10にも満たず、他にも南アメリカ諸国やオセアニアなどごく少数であった)」が挙げられた。東京市は前者に関しては、例えばフランスのマルセイユに比べてもはるかに涼しいこと、後者に関しては参加希望国当たり100万円の補助を行うことを述べて反論したが、それを受けて他の2市も同様の旅費、宿泊費補助プランを公表するなど、招致合戦は白熱した。

日本は友好国であったイタリアのベニート・ムッソリーニ首相に直接交渉を行い、ローマの辞退を勝ち取ったが、総会は会期切れとなり、開催地決定投票を翌年のベルリンに延期するという異例の展開となった。オスロ総会後、東京市はさらなる招致活動費用として、85,926円を計上した。翌1936年3月、IOC委員長アンリ・ド・バイエ=ラトゥールの来日を迎え、好感触を得た。ベルリンのホテル・アドロンで同年7月29日より行われたIOC総会における7月31日の投票の際には、日本の招致委員会を代表して柔道創設者の嘉納治五郎が演説した。結果として東京36票、ヘルシンキ27票で東京開催が決定した。日本のみならずアジアで初、有色人種国家としても初のオリンピック招致成功をうけて、1936年12月に文部省の斡旋で東京市、大日本体育会などを中心として「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」が成立し、元貴族院議長でIOC委員の徳川家達公爵が委員長に就任するなど本格的な準備に着手した。

その後は東京開催準備が進行した(国際博覧会も同年開催が予定された)。東京を中心とした都市美観工事やホテル建築、国際的土産品の新製、職員への英語教育などが計画、実行され、政府からは延べ55万円に及ぶ補助金が出された。主会場には、神宮外苑に10万人規模のスタジアムを建設することを計画したものの、明治神宮外苑を管轄する内務省神社局がこれに強硬に反対したため、東京市荏原郡駒沢町の駒沢ゴルフ場の跡地にメインスタジアムを建設することとなった。また、ベルリンオリンピックで試験的に実現したテレビ中継の本格的実施をもくろみ、日本ラジオ協会と電気通信学会が、東京の各競技会場と大阪、名古屋を結ぶ中継を行うべく開発を進めることとなった。さらに日本政府は、冬季オリンピックを北海道札幌市に招致することを目指して招致活動を継続した結果、1940年に第5回冬季オリンピックとして札幌オリンピックが開催されることに決定した。1938年に入ると日中戦争の長期化が予想されるようになったために、鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫を理由に、軍部が「木材か石材を使え」などと無理な注文を出した上に、杉山元陸軍大臣が議会においてオリンピック中止を進言するなど、反対の態度を鮮明にした。

さらに河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。それまでオリンピック開催を盛り上げる一翼を担ってきた読売新聞や東京朝日新聞などでは、オリンピック関係の記事がこの年から打って変わって縮小している。さらに、軍部からの圧力を受けた近衛文麿首相は、6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中にオリンピックの中止が明記されていたことから、事実上オリンピックの開催中止が内定した。しかしカイロ総会前には、中国大陸における利権をめぐって日本と対立していたイギリスやイギリス連邦でイギリスの事実上の属国のオーストラリアだけでなく、大会開催権を争っていたフィンランドからも中止(とヘルシンキでの代替開催)を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国は開催都市変更を要望してきた。この様な状況下にあるにもかかわらず、「中国大陸での動乱が収まらなかった時は中華民国の選手の出場はどうするのか」という質問に対し、カイロ総会に至っても軍部のプレッシャーを受けて足並みが揃わなかった日本側委員は満足な回答をすることができず、外国委員を失望させた。

また、イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任してしまった。さらにド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が150通も寄せられており、ついにド・バイエ=ラトゥール伯爵から日本に対し、開催辞退の話が持ちかけられてきた。