2011年3月15日火曜日

立山連峰を仰ぐことができ

山に富んでいることから富山(とやま)と呼ばれたため。元々は藤居山という地名だったが、富山寺(ふせんじ)という寺院があったのでに次第に富山(とやま)と呼ばれていったため。富山城が築城された際に、外山から縁起よくするために富山に改名された。深山に対して外山(とやま)と呼ばれたため。富山市#昭和時代に市街化区域内は土地区画整理され、東西と南北に碁盤目状に延びる道路と、富山駅を起点とした5本の放射状道路により構成された美しい近代的な計画都市となっている。一方、古い町並みの残る八尾地区は「越中おわら風の盆」で全国的に知られ、多数の観光客が訪れる。富山市街地に相当する神通川下流域は、複合扇状地の恩恵により、大化の改新よりも前から、北陸道における農作地として存在していた。神通川西岸には、古代氏族である射水臣氏が有力氏族としており、この射水臣氏は、国造である大河音足尼を出した伝統的氏族として知られる。呉羽山にある古墳群は、この射水臣氏の血統の祖であると考えられている。

天平期においては、現在の富山市東部(上飯野から天正寺を経て西福沢の丸山に向かう一帯を基線とする)は東大寺の階墾田「大藪庄」と呼ばれていた。また、更に東部において、現在の滑川市を中心とした地域は「堀江荘」と呼ばれた。平安期に入ると、新たに伊勢神宮領弘田御厨(富山市広田地区)、長講堂領新保御厨(富山市新保)、新熊野社領立山外宮(富山市太田若しくは吉岡)などの荘園が立荘された。また、北陸道における駅として、磐瀬(富山市岩瀬)、水橋(富山市水橋)が配置されていた。そのうち水橋は、「枕草子」において「わたりは、しかすがのわたり、こりずまのわたり、水橋のわたり」として記されている。律令制度において、貴族社会を根底から支える貴族私有地制度「荘園」は拡大し、白河・鳥羽・後白河の三代院政期において、さらに増加した。当時、実質院分国であった越中国において、藤原顕隆の勧修寺一族の遠戚である宮道氏が留守役として下向していた。

白河法皇が死去すると、在地において知行国として荘園を管理する体制が現れた。堀江荘は藤原顕隆一門(勧修寺氏)が、般若野荘・宮川荘を藤原公能一門(徳大寺氏)が、高野荘を藤原実行一門(三条氏)が支配した。勧修寺氏の留守役である宮道氏は堀江荘や太田保(富山市太田)を私領支配し、その分家筋である太田氏や蜷川氏の祖となった。その他の荘園も、同様に在地の私領支配へと移っていった。源頼朝の知行である鎌倉時代になると、南部に広がる太田保が北陸道大将軍に任ぜられた幕府の御家人、北条朝時(名越)所領となった。これは、平氏の知行もなかなか受け入れず、木曾義仲に与し、源義経の逃亡路となったという、幕府にとって都合の悪い越中国の国人達を牽制したものである。その一方で堀江荘における宮道氏は荘園を安堵され、太田氏も太田保を除く開発領を安堵されており、在地の者に対する御家人への道を残している。このころ、名越朝時の被官として後の新川郡守護代家である千葉一族椎名氏が入部し、在地に土着した。

越中国守護北条朝時(名越)は、執権北条氏における有力庶流の血統であったため、北条氏嫡流の弾圧を受け続けた。そして、名越時有の代になると、六波羅探題が壊滅、在地武士の離反にあって最後は一族79人が放生津城にて割腹し、最期を遂げた。時近くして、鎌倉において、北条高時が自害、鎌倉幕府は滅亡した。南北朝時代に入り、観応の擾乱で活躍した越中守護桃井直常は、太田保布市の興国寺周辺を拠点として反幕府運動を展開した。直常は一時幕府に帰順したこともあるが、斯波氏との対立により再び越中に下向して反抗した。桃井氏は長沢(富山市長沢)などで抗戦を繰り返したが、1371年(応安4年)に砺波郡五位荘の合戦後、直常は消息不明となり、斯波氏による越中掌握が進んだ。一方、神通川と常願寺川に挟まれた地域に広く拡大した太田保は、室町幕府管領細川家領となり、太田保北部に柳町(富山市柳町)などの町が誕生する。斯波氏と細川氏は幕府内で対立関係にあり、斯波氏が越中守護として桃井氏を没落させた後も細川氏は太田保を所領し続けたため、桃井氏の残党や国人は、太田保に逃げ込み、細川氏の庇護を受けた。この頃、太田保領内に富山郷が現れる。

1377年(永和3年)、越中国人の謀反が起き、守護斯波氏と合戦になった。その破れた越中国人を管領細川頼之は太田保で保護し、そこに斯波氏が攻め込むと言う事態に至った。激怒した細川頼之は代官篠本氏を派遣し斯波氏と対峙させ、事態は一触即発の状況となった。この状況が続き、やがて京における細川追い落としの動きが強まり、細川頼之は管領を罷免され、斯波義将が管領となった(康暦の政変)。ところが、細川氏は太田保を手放さずにいたため、ついに越中国守護は斯波氏から畠山基国に譲られる。以降160年にわたり、越中国の守護は最後の畠山稙長に至るまで、畠山氏の世襲となる。戦国時代以降、婦負郡・射水郡分郡守護代であった神保長職によって太田保北端を流れる神通川の自然堤防上に富山城が築城され、城下町としての富山町が発展した。一向一揆の平定により越中国の守護となった佐々成政が入城し、柴田勝家と伴に上杉軍の魚津城を攻め落とす拠点となった。当時、佐々成政によってなされた治水事業は河川の氾濫を制えて、以降の下流域全体の発展に至った。

江戸時代に入ると、南部に土方氏の布市藩が成立した。その後布市藩は能登に移封され、加賀藩二代藩主前田利長が富山城を隠居地とした。1609年(慶長14年)に富山城が焼失したため、利長は高岡へ移った。その後、利長養嗣子となった三代藩主前田利常が隠居する際、その子前田利次に越中54万石のうち婦負郡一円の地と富山を含む新川郡の一部10万石を分封し、富山藩が成立した。この分封により、富山城下は富山町として現在の富山市中心市街区が整備され発展した。また、富山藩二代藩主前田正甫(利次の子)が製薬を推進したため、薬の製造と販売を一括して行った上にそれを顧客の自宅に配置するという特殊な業態を創造し、それを中心とした産業が発展した。中世以来三津七湊の一つとして栄えた岩瀬地区では北前船などの日本海航路の拠点として発展した。1871年(明治4年)8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県により、富山藩領は富山県となり、加賀藩領は金沢県となった。同年12月31日(旧暦11月20日)に富山県は金沢県の礪波郡・新川郡とあわせて新川県となった。

1873年(明治6年)9月6日には新川県の県庁が魚津から富山城址に移転した。1876年(明治9年)4月18日に新川県は石川県に編入されたが、1883年(明治16年)5月9日には石川県から新川県が分離され、富山県に改名された。以来、富山は富山県の県庁所在地となった。