2011年3月18日金曜日

江戸後期~幕末には

財政問題とそれに関わる権力争い(蟹江監物一件・富田兵部一件)から宗藩の介入を招き、最後の藩主となった13代利同を加賀藩から迎え、また富山詰家老の派遣を受け入れた。明治4年(1871年)7月の廃藩置県によって富山県となった。同年11月に旧加賀藩領の礪波郡と新川郡を併せて新川県となり、明治5年(1872年)9月には射水郡も編入して越中が一つの県となる。明治9年(1876年)4月に一旦石川県に合併されるが、明治16年(1883年)5月に越中4郡を再び分けて富山県を設置し、現在の富山県の領域が確定した。富山平野の一部を縦横に分かちながらも、概ね現在の富山市内を流れる大小の河川を境界に充てていた。具体的には、南端で越中国と飛騨国の国境線上を起点とした場合、神通川(笹津のやや下流地点まで) ‐ 平野部を横断(長走、下タ杉、八木山、東大久保、合田が藩領 ) ‐ 熊野川 ‐ 平野部を横断(青柳新、牧田、青柳、布目、大浦、花崎、荒屋が藩領) ‐ 常願寺川(三室荒屋から馬瀬口辺り) ‐ 清水俣用水 ‐ 鼬川 ‐ 赤江川 ‐ 神通川、と山間部から平野部を縦断し、北端にて富山湾の沿岸部を終点とするラインであった。

平野部において、嘗ては加賀藩領との境界を識別できるように、長走から合田にかけて堺松が植えられた。又、大庄には境塚が築かれた。概ね砺波・射水両郡と婦負郡との郡境が充てられた。但し、射水市の北野・山本・椎土・土代地区は藩領であった。また、射水平野においては、住吉・金草など呉羽丘陵に近い側が藩領とされた。花木は境界線上にあった。野口・二ツ屋・本郷・中沖・布目、そして富山湾に至り、打出までが藩領となった。針山新は富山藩の飛地であった。古代より続く越中国と飛騨国の国境が充てられた。但し、白木峰の南、大長谷川・久婦須川の水源地帯、すなわち楢峠以北の万波高原は、主に伐採地の境界を巡り飛騨側との紛争が頻発した。延宝2年(1674年)の裁決で、富山側の領有主張が幕府に退けられた後、藩はこの地域を論地山として別扱いにした。農村の管理・徴税の仕組みとして宗藩と同じく十村制をとっていた。藩政初期から積極的に新田開発に取り組み、惣高は元禄11年(1698年)に13万9千石弱、明治3年(1870年)には15万8千石余に達していた。

年貢米の内1万石から1万5千石が上方(大阪廻米)に、5千石程が飛騨(飛騨登米)へ領外移出された。2代藩主・正甫は製薬に興味を持ち、薬の製法を領内に広め、越中売薬の基礎を築いた。売薬業は、先立つものとして立山その他の山岳修験者による修験売薬があったが、藩が力を入れた売薬業者がやがてこれにとって代わり、元禄年間には全国に渡る行商圏が確立された。やはり他国に配置行商したものに蚕種があり八尾町がその中心であった。その他の産物としては、山間部での製紙、呉羽丘陵での茶の栽培などが挙げられる。また、現在、駅弁として知名度の高い富山名産の鱒寿司は、3代利興の頃に鮎寿司とともに作られるようになったとされる。飛騨方面との交易が盛んで、米や海産物の他、加賀藩で生産された塩(能登塩)も富山藩を通じて販売された。武士に対する教育機関として安政2年(1773)年に創設された富山藩校広徳館があった。藩校としては全国で六十二番目のものであり、宗藩の加賀藩校明倫堂(1792)に比べ二十年も早い。

これは六代藩主利與が人材育成のため、財政難の中の強い反対を押し切って設立したものであり江戸の昌平黌に範をとった。他に私塾として臨池居、岡田塾などがあった。庶民の教育機関としては寺小屋があるが、越中の寺子屋では農民の師匠が多いことに特色があった。一般的には僧侶・神官・浪人が師匠となることが多いが、越中においては真宗王国と目されるにもかかわらず僧侶の師匠は少なく、大半が有力農民や地主が務めた。また、ほとんどが男であり、女師匠は一名が知られるのみである。他地域に比べると読み書き算盤のうち算術が重視され、富山町では一般的な教本の他に、『薬名帳』・『調合薬付』といった地場産業である売薬業を考慮したものが用いられるという特徴もあった。富山湾は、北陸地方北東部に位置する湾。日本海では最大の外洋性内湾である。日本の湾のなかでも、水深の深さと魚の豊富さで知られている。また、春と冬には蜃気楼が発生することで知られる。能登半島の付け根にある大泊鼻(石川県七尾市)と生地鼻(富山県黒部市)を結んだ線よりも南側の海域を指す。

旧名は有磯海(ありそうみ)である。富山湾の地形は特徴的である。海岸沿いには浅い部分がほとんどなく、急に海底に向かって落ち込んでおり、海底地形は非常に険しい谷(「あいがめ」と呼ばれる)と尾根が多い。湾の大部分は水深300m以上にも及び、一番深い部分は1,000mを超える。海底が深く地形が複雑なため、冬の日本海北部で起こる荒波は富山湾内に入っても速度を緩めないまま海岸に押し寄せる。天候に関係なく襲ってくる、こうした波は「寄り回り波」と呼ばれ、海岸を浸食し、時には沿岸の集落に押し寄せる。2008年には、大規模な寄り回り波が富山湾沿岸を襲い、入善町などで被害を出した。深海部はまだ未知の部分が多く海洋研究開発機構などが盛んに研究している。その結果の一つとしてユーモラスな外見で知られる珍種オオグチボヤの群生地が発見された。生きた個体が採取され魚津水族館などで展示されている。

入善沖の海底には、10,000年前の森林の立ち木がそのまま残された海底林がある。また、魚津の海底には、2,000年前の森林が土砂に埋まったあと海面上昇で海面下に保存された魚津埋没林がある。海岸沿いに浅い部分がほとんどなく、急に海底に向かって落ち込む地形のため、富山湾には島や岩礁が少ない。特に東部は島がなく、湾内で島があるのは西部の高岡市や氷見市の沿岸のみである。湾内の島や岩礁で主なものは東から時計回りに以下の通り。このうち周囲100mを超える比較的大きなものは、大きい方から虻が島、唐島、男岩の3島のみである。雨晴海岸などの富山湾西部の海岸は、島や岩礁を抱く富山湾越しの立山連峰を望む景勝地となっている。水深300mより深い部分には水温1~2度ほどの冷たい日本海固有水(海洋深層水)があり、冷たい海に住む魚類が棲んでいる。また300mより浅い表層部では、暖流である対馬海流が湾内に入ってくるため、ブリなど南の温暖な海の魚類も同時に棲んでいる。

このため、富山湾には日本海に生息する魚類の半分以上があり、獲れる魚の種類が非常に多い。その他、海底谷は貝やえびなどの生物の住処であり、加えて黒部川など多くの河川が森からの栄養を海底に送り込むため、多くの魚が繁殖できる豊かな漁場になる条件がそろっており、ブリやホタルイカを捕獲する定置網漁業が古くから発達している。対馬海流が湾内に入るため沿岸は緯度の割には温暖であり、暖温帯の南方に多い常緑広葉樹林が湾岸部に多く分布している。