大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途で病死するに至り、日本政府は1938年7月15日の閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円以上にのぼる。代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催できなかった。こうしてオリンピックの準備はひとまず中止され、組織委も大幅に縮小された。しかし、すでに工事をはじめ、竣工寸前であった東京市芝浦埋立地の自転車競技場(現存せず)と、埼玉県戸田のボートコース(戸田漕艇場)は1939年までにできあがり、使用された。自転車競技場の建設にあたっては、市内主要大学の学生3407名を中心とする帝都青年労働奉仕団が作業を担当した。また、駒沢(今日の駒沢オリンピック公園敷地)に主会場をおく案はそのまま1964年大会に生かされた。なお、中止運動の急先鋒に立っていた河野一郎は、1964年大会開催に当たって池田内閣で「オリンピック担当国務大臣(兼建設大臣)」を務めた。
これは、その前歴を知る池田勇人が「以前開催に反対した人間の言うことなら皆従うだろう」という意向で起用したともいわれる。本大会開催が決定した1936年7月31日のIOC総会についての報道で、読売新聞が見出しの文字数制限からオリンピックを略そうと考えたのが「五輪」言い換えの始まりである。発案者は当時運動部の記者であった川本信正。川本によると、五輪旗の五つの輪と宮本武蔵の『五輪書』からこの略称を思いついたという。1940年のオリンピックを争った3都市は、第二次世界大戦後にヘルシンキ→ローマ→東京の順で開催を実現している。東京オリンピックの閉会式は大会最終日の1964年10月24日土曜日に国立競技場で行われた。通常・オリンピックの閉会式は日曜日に行われるが、時差の都合で土曜日となった。場行進では誘導のトラブルから国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場した。選手の中には公式スーツではなくユニフォームで参加する者もいた。
このとき、NHKテレビで実況を担当した土門正夫は予定外の状況に戸惑い(後に『ありゃ、これは何なんだ』と入場行進で入ってきた選手を見て仰天したことをテレビ番組で語っている)、カメラに映し出される情景を随時伝えていった。予定されていたプログラムと大きく離れたことから、他の中継スタッフともども大変な放送をしてしまったという思いを抱いていたが、終了後に渋谷の放送センターに戻ると他の職員から賞賛の拍手を受けることになったという。オリンピック憲章に従い、オリンピック発祥の地ギリシャ・今回の開催国日本・次回開催国のメキシコの国旗が掲揚され、安川第五郎大会組織委員会会長の挨拶、そして、アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会会長の挨拶で、閉会の宣言をし、15日間にわたって掲揚されていた五輪旗が降ろされ、聖火が納火された。そして場内が暗くなると大会の成功を祝う花火を打ち上げ、電光掲示板には「SAYONARA(さよなら)」「MEET AGAIN IN MEXICO(メキシコでまたお会いしましょう) 1968」と表示され、蛍の光の大合唱で東京オリンピックの全日程が終了した。
東京オリンピック記念貨幣とは、1964年(昭和39年)10月10日より開催された、第18回夏季オリンピックである東京オリンピック大会を記念して、発行された銀貨であり、記念貨幣としては日本初のものである。1000円銀貨および100円銀貨の2種類が発行された。日本で初の開催となった第18回夏季オリンピック東京大会の記念貨幣の発行が、1964年2月14日、池田首相の決断により閣議決定された。当初は100円銀貨を発行する計画であったが、当時高度経済成長真っ只中にあり、通貨需要が飛躍的に伸び通常貨幣の大増産を行っている中、造幣局における100円銀貨の製造能力の関係上、直径、量目および材質は100円通常貨幣と同等のものとし、1964年度の100円貨幣発行計画分8000万枚を全て記念貨幣とし、既存の設備を流用して図案のみ変更して発行することとなった。また当時、電子部品配線用および写真感光材料など世界的な銀需要の伸びの背景による銀貨発行の制約もあった。しかし東京オリンピック組織委員会の強い要望により、より高額でサイズの大きな銀貨の発行が検討された。
当時、臨時補助貨幣として規定されていた有効な貨種は1円、5円、10円、50円、100円の5種類であったため、1000円の額面の貨幣を発行するためには特別立法が必要であった。そのような状況の中4月20日に「オリンピック東京大会記念のための千円の臨時補助貨幣の発行に関する法律」(昭和39年法律第62号)を制定するに至り1000円銀貨の発行となった。造幣局内での貨幣製造は繁忙を極めていたため、この1000円銀貨製造では円形作成までの段階の作業は民間業者に委託された。発行枚数は、1000円銀貨は各世帯に1枚、100円銀貨については国民一人当たり1枚を目安として決められたものであった。100円銀貨の図案は公募によるもので2月21日に新聞、テレビ、ラジオ、官報などで広報され、4月6日に応募作品3万0512点の中から聖火および五輪をデザインに取り入れた前島昌子の作品が1席に入選となり採用された。1000円銀貨の図案は造幣局内で作成され、日本を象徴する富士と桜をデザインしたものである。
東京カッブスは、1945年〜1946年頃、日本野球連盟に加盟を目指しながら、加盟が実現しなかったプロ野球チームである。ニックネームの「カッブス」のスペルはCubsであり、シカゴ・カブスなどと同じ意である。太平洋戦争の激化に伴い休止となっていた日本のプロ野球は、1945年(昭和20年)10月には、翌年のリーグ再開に向けて動きだしていた。この時リーグ参加が決まっていたのは、戦前最後の1944年(昭和19年)のリーグ戦に参加した6チームに、セネタース(現・北海道日本ハムファイターズ)を加えた7チームだった。そのような中、戦前(後楽園)イーグルス→黒鷲軍→大和軍(1937年 - 1943年)の運営に携わった河野安通志はイーグルスの再結成を念頭に、東京カッブス(東京野球株式会社)を設立し、プロ野球加盟を申請する。球団社長は河野、球団代表は小泉葵南(東京日日新聞〔現・毎日新聞〕などで活動したスポーツ記者)、監督は戦前に朝日軍の監督を務めた竹内愛一だった。
しかしこの加盟申請は、当時の東京巨人軍球団代表市岡忠男の強硬な反対に遭う。1943年、プロ野球自体はまだ続いていたにも拘らず河野は大和軍を自主的に解散した、ということがその理由だった。球界の中心的存在だった巨人軍の反対のため、カッブスの加盟申請は正式な審査にかけられることもなく却下されてしまう。当時日本野球連盟会長の鈴木龍二は、連盟に入れてやりたかったが、河野の取り巻きが悪かったと述べている。代わりに加盟することになったのは、ゴールドスターだった。また、この間に河野は脳出血で急死してしまう。