1997年、開港90周年を記念して日本丸と海王丸が同時に寄港。この2船は、さらに2001年の名古屋港管理組合創立50周年、および2007年の開港100周年を記念して寄港。2011年にも2船同時の寄港を果たしている。また、2007年、開港100周年を迎えて11月3日より11日まで開港祭ウィークが開かれ、11月24日には青雲丸と大成丸が同時寄港した。旧2号地三埠頭、かつての物流の中心。付近は1992年完成の名古屋港水族館など娯楽・商業施設が揃った観光地ともなっており、地元ではこの界隈を指して名古屋港(名港)と呼ぶ場合もある。ガーデン埠頭は、鯱の外観の遊覧船「金鯱」で知られるようになった名古屋港遊覧船の乗り場もある。その他、ガーデン埠頭の1号岸壁から4号岸壁は、日本丸・海王丸を初めとするイベント誘致船や飛鳥II・ぱしふぃっくびいなすなどの大型旅客船が停泊する。1985年からは南極観測船・ふじが永久係留されている。2009年1月7日にふじの係留設備に損傷が見つかり同船の一般公開を休止したが、24日に復旧し公開を再開した。
海の日(ハッピーマンデーが施行されてからは、それに準ずる前今後週の土曜日または日曜日)に行われる「海の日名古屋みなと祭」、クリスマスの時期に行われる「スターライト・レビュー」もある。1946年に第1回が開催された「名古屋みなと祭り花火大会」もここが会場である。1989年の世界デザイン博覧会、2007年の名古屋港開港100周年記念祭には中心地となってイベントを開催している。また2005年の新世紀・名古屋城世紀博の開催中には愛知万博の開会式典で展示された金鯱(の雌1体)をガーデン埠頭内の臨海緑園で一般公開を行なっている。1990年完成。周辺が現在の物流の中心地であり、ふ頭中心部には名古屋市国際展示場(ポートメッセなごや)がある。2011年3月14日にJR東海の運営するリニア・鉄道館がオープンした。船止めのボラードを擬人化し、今後の名古屋港の発展と安全を願う明るくほのぼのとした笑顔を表現している。名前「ポー」はポート(港)を意味し、「タン」は語呂がよく、親しみやすさを表現している。
名古屋港が誰からも愛され、さらに発展することを願って命名された。2006年11月15日に名古屋市港区で特別住民票登録をし、マスコットキャラクターとしては初の名古屋市民となった。「美しいさんご礁に囲まれた名もない南の不思議の島」が出身地。生年月日は1907年11月10日。10年に一度1歳ずつ年を取るという設定で、2007年11月10日の開港100周年記念日で10歳となった。住所は名古屋市港区入船一丁目8番21号。2011年名古屋市長選挙は、2011年1月23日に告示され、2月6日に執行された、愛知県名古屋市の市長選挙である。県都・名古屋市では、市長を務めていた河村たかしが、公約に掲げていた「市民税の恒久減税」を議会に阻まれたとして議会解散のリコール運動に出た一方で、自らも市民の信を問うとして職を辞したことに伴う選挙で、第17回統一地方選挙の前哨戦としても注目を集めた。河村がこの選挙に立候補すると表明していたこともあり、前職1人と新人3人が挑む構図となった。
投票率を上げるため、名古屋市選挙管理委員会は倉科カナと吉田秀彦を投票啓発ポスターのモデルに起用した。倉科が筆を持つ構図で、ポスター上部に毛筆のタッチで投票日を書いて目立たせている。名古屋城は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭である。通称、「金鯱城」、「金城」とも呼ばれた。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、廃城とされた。清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。