地上60メートル以上の塔や煙突は赤白塗装(昼間障害標識)が義務付けられているがテレビ塔は同51条の制定(1960年航空法改正時に追加された)前に完成されたという理由、名古屋テレビ塔株式会社初代社長の神野金之助の抵抗、最上部に航空障害灯を設置したことで切り抜けている。そのため完成当初から銀色塗装となっている。テレビ塔は約7年おきに塗装の塗り替えを行っている。塗り替え費用は1回につき2億円で、下塗り2回・上塗り2回の計4回行う。上塗りの際には5トンの塗料が使われている。名古屋テレビ塔は2011年7月24日でアナログ放送の電波塔としての役割を終えた。地デジ化によるアナログ放送の停波後は(2011年までの)年間3億円の収入のうち、約3割に当たるテレビ局のアンテナ設置料などの収入1億円が入らなくなることや現在の名古屋テレビ塔株式会社社長である大澤が就任した2003年には、名古屋テレビ塔株式会社は倒産寸前だったことを明かしている経緯があることから厳しい運営状況に陥ることが予想されている。
さらなる収入確保のためにアナログ放送機器スペースを撤去することで生じるスペースを飲食や物販を販売する店へと転換するリニューアル計画を2011年夏の着工、2013年の完了を目標に策定している。しかしながら事業費の35億円のうち、耐震改修費の15億円を「民間での資金調達では限界」という理由で出資者である愛知県と名古屋市に対して公的支援を求めた。名古屋市は「税金(公的支援)投入は市民の理解が必要」として回答せず、6月16日の会社役員会の際は基本計画の延長及び規模の見直しを求めた。この計画が承認されない場合「行政・市民の支えがなければ存続は難しく、解体もあり得る」と名古屋テレビ塔株式会社常務の若山宏常が発言している。しかし出資者である名古屋市の代表(株主)である名古屋市長の河村たかしは2011年6月の定例議会で存続することを明言し、「市長としてテレビ塔を取り壊すつもりはない。久屋大通公園を含め、名古屋のシンボルとして大いに盛り上げていきたい」と発言している。
ただし公的資金の投入に対しては否定的で、民間の買い上げを望んでいる。また「テレビ塔を学生にプレゼントし、周辺の道路を閉鎖して毎週学園祭を行えばいい」とも発言している。なおテレビ塔の次回の塗り替えが2012年の予定になっているものの、アナログ放送終了後の収入が不明瞭な点と存廃問題で、行われるか否か不明。名古屋テレビ放送は開局当初から中区の名古屋市営地下鉄名城線東別院駅前にある局舎に移るまで、テレビ塔の一室を借りて放送していた。後に開局した東海テレビ放送(THK)が中部日本放送(CBC)の送信所で研修を受けたという逸話がある。また日本初の集約電波塔という側面があるため、NHK・CBC・THK3局の仲は良好だったという。この際に生まれた共有精神が、名古屋の地上波のテレビ局・ラジオ局の合同番組やイベントに生かされているという側面も持っているとされる。名古屋ルーセントタワーは、愛知県名古屋市西区にある牛島市街地再開発組合(名古屋鉄道、中部電力、トヨタ自動車、住友生命保険、大成建設、ほか個人1名)のオフィスビル兼商業施設である。
東面は全面ガラスの緩やかなカーブを描いており、通常全方位から見られることを意識して作られる高層ビルとしては非対称形という特徴を持つ。名古屋駅周辺の線路側にはこのビルの特徴であるカーブ面が見えにくいため、列車の乗客にとっては一般的なガラスウォールの方形高層ビルに見える。また、地下道「ルーセントアベニュー」によって、地下鉄東山線名古屋駅から徒歩約5分で結ばれている。線路側には窓がほとんどないが、これは日の照る線路側からの日光をさえぎり、空調の効き目を良くするためである。名古屋モーターショーとは、東京モーターショーなどとともに行われる日本国内5大モーターショーのひとつである。日本国内では東京モーターショーに次ぐ、2番目に歴史があるモーターショーとなっている。1979年の第1回開催より、東京モーターショーと同じく2年に1度、開催されている。1979年11月に中部経済新聞社と東海ラジオ放送の共催により、吹上ホールにて前身の『ナゴヤモーターフェスティバル』が開催された(来場者数は74500人)。
第2回開催の1981年からは、開催場所を現在の名古屋市国際展示場に移した(来場者数は111900人)。1991年の第3回開催より、名称を現在の『名古屋モーターショー』に変更した。近年では輸入車メーカーにおいては、その年の東京モーターショーでは出展が間に合わず名古屋で初披露される車種が多く、2009年開催の第16回開催では東京モーターショーでは出展を見合わせた一部の欧米輸入車メーカーが出展し、ジャガー・XJ、シボレー・カマロ、ポルシェ・パナメーラなどがジャパンプレミアとなった。名古屋めしとは、愛知県名古屋市を中心とする中京圏が発祥の、もしくは中京圏で発展した食事の総称である。名古屋めしは、名古屋から進出した地方の食文化を指す。ゼットンが東京へ進出し名古屋の地元料理を提供しはじめた頃、グルメ情報誌の記者がイタリア料理のイタめしをまねてなごめしという呼称でゼットンの料理を紹介しようとした。これに対しゼットンの代表取締役社長をしていた稲本健一がもっとストレートに名古屋めしと呼ぶことを提案し、採用されたのが言葉の始まりである。
ゼットンに続いて矢場とんや世界の山ちゃんなどの名古屋の企業が東京へ進出して名古屋名物を提供し始めた時にも使われ、名古屋めしという表現は東京を中心に広まっていった。地元の名古屋で使われるようになったのはその後である。多くは、名古屋市周辺が発祥の名物とされる食べ物であるが、他の地域発祥であっても名古屋地区において独特の発展を遂げた物も含む。特に、メディアで話題となってからは、発祥の地を名乗る店舗が急増しているのが現状で、真相は闇の中といった状況となっている。名古屋は独特な食文化を持っていると言われている。元々のメニューにアレンジを利かせたアイデア料理が特徴で、その中でも、味噌カツやひつまぶし、天むすといった名古屋の名物が雑誌などで特集されるようになった。天むす(三重県津市の天ぷら定食店「千寿」。名古屋市の天むすびの「多香野」 等が元祖を名乗っている)味噌カツ(味噌カツ発祥に関しては1965年発祥とする津市のカトレアと、1947年創業の味噌カツ専門店、矢場とんが挙げられる)ひつまぶし(熱田区の「あつた蓬莱軒」や、中区の「いば昇」)(大阪・三重津市が発祥との説もある。)