2011年5月21日土曜日

名古屋帯とは日本の女帯の一種。

明治以降に普及。考案した名古屋女学校(現在の名古屋女子大学)の創始者越原春子が名古屋で開発したので、このような名前となった。「名古屋帯」という名称は使わず、「なごや帯」と称する場合もある。このことからヤフーオークションのカテゴリーは「なごや帯」となっている。体に巻きつける部分(前帯)を最初から半幅帯のように折りたたんで縫い付けてあるのが特徴で、お太鼓を結び上げた状態では遠目には袋帯と区別しにくい。錦などでも仕立てられ、外出着や略礼装にも用いられる。形状から、袋帯と比べると帯結びの自由度は低い。着用時のお太鼓は、一重太鼓。喪服の様な、重なっては困る仏事に着用する黒共帯は、一重太鼓のなごや帯である。名古屋嬢とは、名古屋に生まれ育った若い女性のなかで特に「お嬢様」を指す俗称。語源は「名古屋城」と「名古屋のお嬢様」を掛けた語呂合わせ。愛知万博とともに全国的に知られるようになった。おしゃれで派手で、化粧品やブランドものが大好きな名古屋生まれ・名古屋育ちの若い女性の代名詞として使われる。

2000年頃から名古屋独特のお嬢様ファッションやヘアスタイルが注目され始め、名古屋の裕福な家庭で育ったファッションに敏感なお嬢様に対して使われるようになる。目指すところのイメージは「名古屋の箱入り娘」である。太い縦巻きのカールがついたロングのヘアスタイルが東京のファッション誌で注目され、当時としては特徴的なこれらの巻き髪を「名古屋巻き」と呼ばれるようになり、その後に全国的に定番化していった。ファッションの特徴は、日本のアパレルブランドの洋服を百貨店で購入し、海外高級ブランドのバッグやアクセサリーを合わせるスタイルが主流である。派手好きな名古屋人というイメージを強く反映している。また、落ち着いたコンサバファッションの名古屋嬢達は一見お淑やかに見えるものの、派手さよりも豪華さが際立っている。携帯するブランド物の装飾品は誰からも分かる定番商品やロゴが目立つ箇所に入っていたりと、他人が見てブランド名を容易に判別できる物を身につける傾向がある。

洋服や高級ブランド品は、自身が仕事の給金で購入するのではなく、同居している両親が百貨店の外商で購入したり、母親同伴で高級ブティックに出かけて高価なブランドものを大量に買ってもらう(名古屋買い)消費スタイルが多い。また一つの商品を母子で共有し一緒に使うこともある。「名古屋嬢」と呼ばれる若い女性はおおむね、名古屋のお嬢様学校である伝統校の椙山女学園・愛知淑徳・金城学院のローマ字の頭文字を取って「SSK」と呼ばれる、女子教育を主とする3つの学校法人の大学(ただし現在、愛知淑徳のみ大学は共学化)の在校生やその卒業生を指すものであった。SSKの同窓生は母親、祖母、曾祖母の代から卒業生という家系が少なからずあり、3代4代と続いてSSKの附属から大学までの出身者の場合がある。また名古屋は他所者を受け付けない保守的な土地柄(村社会)に加えて、他の土地に移住する者も少なく、地元の大学に進学することが多い。

特に女子は結婚するまで親元で生活し、良家の子女はSSKの中学校から大学卒業後、けいこ事をしながら見合いをし、家柄が良く安定した職業につく男性や素性の分かった地元の資産家の家に嫁ぐのが幸せであるという考えが一部ではあるが今日も根強く、卒業後も就職せず家事手伝いで過ごすのを良しとする風潮がいまだに残る古風な土地柄である。名古屋飛ばしとは、日本国内の他の大都市圏で行われているイベントの開催や鉄道の停車が愛知県名古屋市で行われないことを示す俗語である。「名古屋飛ばし」が大きな話題となった端緒は、1992年3月14日に東海旅客鉄道(JR東海)が東海道新幹線で運転を開始した「のぞみ」の1日2往復のうち、下りの一番列車(「のぞみ301号」)で新横浜駅に停車して名古屋駅を通過するダイヤが組まれたことである。この列車は京都駅も通過するとされたが、東海道新幹線の建設計画時点で同駅自体を経由しない案に対する一悶着(「鉄道と政治」の項を参照)に比べれば大した問題ではなく、観光客には使いにくい時間帯でもあったためか、京都市と京都府の側からは抗議の動きはほとんど見られなかった。

「のぞみ301号」は東京・横浜周辺のビジネス・出張利用客が早朝に出発して、大阪近辺のオフィスへの出社時刻に間に合うように設定された。しかし、当時は夜間の保線工事の後、地盤を固めるために早朝の数本の列車については減速運転をしなければならない事情を抱えていた。そのため、「のぞみ301号」を新横浜・名古屋・京都の各駅に停車させると、登場当時の「のぞみ」の売り文句であった「東京 - 新大阪間2時間半運転」が不可能となるため、苦肉の策として名古屋駅と京都駅を通過させることで対応しようとしたのである。JR東海は、名古屋駅と京都駅を利用する客には前後の列車を使用してもらうことで極力不便を与えないような配慮を講じることにしていた。翌1993年3月18日の「のぞみ」規格ダイヤ組込に合わせたダイヤ改正では、この列車に続行する「新横浜駅通過、名古屋・京都両駅停車」の「のぞみ1号」が設定された。1991年11月2日にこの方針が(前記のような事情を公表せず、通過するという話だけが知らされる形で)明らかになると、愛知県、特に名古屋市を筆頭に尾張地方の政財界は猛烈な反発を示し、中日新聞など名古屋のメディアも「名古屋飛ばし」として批判し、同紙の「中日春秋」や大学教授などのコラム・社説・読者投稿欄などでもヒステリックな反応が目立った。

(その当時の新横浜地区は、再開発がほとんど進んでいない「街はずれの田舎」という印象もあり、「三大都市の中枢である名古屋を新横浜ごときの田舎より冷遇するとは何事だ」という感情論も大きく影響した)。これが契機となり、それまではイベント業界などで使われていたと思われる「名古屋飛ばし」という語が一般化したものと考えられている。この時期には名古屋市出身の海部俊樹首相が退陣したことや、中部通商産業局(現経済産業局)長が名古屋圏の低落傾向を報告しており、鈴木礼治愛知県知事は名古屋圏の地盤沈下を懸念するとともに、地元選出の国会議員たちは将来のリニア中央新幹線での名古屋駅通過に至ることを危惧した。さらに「名古屋飛ばし」とは直接関係のない「名古屋学」講座の応募者数の増加、騒音問題を通じての「のぞみ」へのネガティブキャンペーン、政治家インタビューでも話題となった。1992年3月14日に「のぞみ301号」が運転を開始した。同列車が名古屋駅を通過する瞬間は地元メディアによって大きく報じられた。

なお名古屋・京都両駅はいずれも全列車停車を前提とした駅構造や配線となっているため70km/hの速度制限が行われ、新幹線列車としては非常に低速での通過となっていた。