東口と中央部の二つの乗換通路及び5・6番線と7・8番線間の連絡通路で構成されている。乗換通路と接続する部分のホームは高架である。中央通路とホームの間にはエスカレーターとエレベーターが設置されている。車椅子用トイレは東口通路1・2番線側と中央通路7・8番線と9・10番線間の成田よりにある。鉄道警察隊は東口通路7・8番線と9・10番線間の東京よりにある。また、稲毛駅方向の高架橋には西口改札口があり、西口と北口に接続している。なお、JR東日本千葉支社は、2008年9月18日に、千葉駅とペリエ1となっている千葉駅ビルの建て替えを発表している。2010年7月現在、駅構内のほとんどの店舗が閉店され本格的に工事が始まり、通路に天窓が建設され、7・8番線の一部階段が閉鎖し使用できなくなっている他、西口改札外の歩道橋がすでに建て替えられている。当駅では、1988年(昭和63年)8月8日から発車ベル(当時主流の電子音のピロピロピロという音)を全面廃止し、各方面への始発駅だった事もあって、マスメディアにも大きく取り上げられた(現在も発車メロディを含めて鳴らしていない)。
後に、JR駅の発車ベルが電子音からメロディに変わるきっかけともなった。1・2番線は接近時と発車前に巌根型(以前は仙石型)の放送が流れ、3-10番線は当務駅長から車掌への出発指示合図の電子音ではないベル(ジリジリジリジリンという音)のみが流れてドアが閉まる。なお、中央・総武線各駅停車(千葉 - 三鷹間)と横須賀・総武快速線(千葉 - 東京 - 久里浜間)の全区間は、ATOSが導入されているが、駅の西千葉・稲毛寄りに出発指示器が設置されている他は、発車標を含めて設置されていない。これは、東海道本線の熱海駅と同様である。千葉以東・以南方面の普通列車に使用する電車は、基本的に209系転用改造車(総武本線と成田線の一部は211系で運行)であることや、銚子行、安房鴨川行、成東行はそれぞれ異なる経由路線が存在するので、誤乗防止のために209系転用改造車の方向幕(LED式)は、前面には路線名のみ、側面には路線名のみと路線名+行き先の交互表示と常に路線名が表示されている。
211系の方向幕(幕式)では前面と側面の両方に、各路線のラインカラーも表示されている。島式ホーム2面4線を有する高架駅。JR千葉駅の東口前にある。2階には、ペリエ2階との通路がある。3階(コンコース階)には、改札口、駅事務室、車椅子対応トイレがある。4階(ホーム階)にホームがある。各階間にはエスカレータがあり、この内3階と4階間にあるものは車椅子対応である。また、地上と3階、3階と4階間に車椅子対応エレベーターもある。3階には京成千葉線京成千葉駅への乗換口、そごう千葉店4階、センシティタワー4階との通路もある。なお、開業から現在の駅舎ができるまでは、千葉公園駅方向に約100mよりの仮駅であったが、千葉みなと駅までの延伸時に現在の駅舎へ移行した。仮駅時代は、現在の駅舎の手前まで線路が延びていたため、それを利用して引き上げ線として使用、同時にホームも乗車専用と降車専用に分けていた。県庁所在地の中心駅であるが、千葉県内では船橋駅、西船橋駅、柏駅に次ぐ第4位である。
ただし、計上されないJR線同士の乗換客を含めればさらに多くなる。千葉都市モノレールの駅では、18駅中1位である。当駅は千葉市中心部の北西端に位置し、東口より南東方の中央公園、千葉パルコなどの「中央」方面に向かう広い通り「千葉駅前大通り」が伸びる。これは、1963年の千葉駅の現在地への移転にあわせ、周辺区画と共に整備されたもので、デパートやオフィスビルなど大きめのビルがある。中央公園付近は千葉都市モノレール1号線葭川公園駅が最寄駅である。東口の駅前にはデパートやショッピングセンターなどのビルが林立している。ただし、位置と構造の関係上、北口と西口は東口と比べ人出が少ない。北口は1990年代まで閑静な住宅街であったが現在は駅前広場が整備され、道幅の道路が開通しているほか、高等学校や大手予備校もあり学生は比較的多いが、賑わいはそれほどない。東方向の先は風俗店の多いコリアタウンとなっている「栄町」、南東方向は中心部の繁華街(富士見・中央)、北方向(弁天)と西方向(新千葉)は駅から離れると住宅街で、南方向(新町・新田町・新宿)はビルなどが混在する地域となっている。
栄町は、千葉都市モノレール1号線栄町駅が最寄駅であるが、当駅から徒歩でも近い。しかし、千葉市民会館など旧千葉駅付近は、東千葉駅が最寄駅である。西方向の住宅街は、新千葉二丁目南部など京成新千葉駅が最寄駅となる場所もある。駅前広場は東口と北口にあり、各々バス・タクシー乗り場があるが、東口前のバスターミナルは規模が大きく、県都中心駅の性格を表している。県庁・千葉県警察本部や千葉地方裁判所・千葉地方検察庁など国や県の機関とその関連施設は、歴史的に千葉市の中心部である京成千葉中央駅から本千葉駅にかけての一帯の東側、「長洲」や「市場町」にある。 千葉駅からは徒歩で約20分かかるため、千葉都市モノレール1号線県庁前駅(→県庁舎、県警本部)・葭川公園駅(→千葉地検、千葉地裁)、本千葉駅→(県警本部、県庁舎)からの徒歩か、千葉駅から千葉中央バスや小湊鐵道バスなどの路線バスを利用するほうが便利である。JR千葉駅の西口地区では、長らく再開発が予定されている。
事業主体である千葉市は、千葉県が管理処分計画を認可したのを受け、事業地内にある既存の建物の解体に着手。東口に集中する交通機能などを西口に分散させ、臨海部や千葉港エリアへのアクセス向上を図るため、1990年より再開発事業が進められていたが、バブル崩壊のあおりを受け、地権者との交渉が難航していた。2008年度中に再開発ビル建築事業者を選定し、2009年度より工事に着手し、2011年度中に事業完了を目指していた。民間事業者が建設し保留床を取得する「特定建築者制度」で開始され、2008年12月までに建設業者2社が名乗りを上げ応募したが、その後、経済情勢の悪化により1社が辞退を表明し、もう1社も期限までに提案書を提出しなかった1963年(昭和38年)に現在地に移転するまでは、800mほど東千葉駅寄りの千葉市民会館周辺(地図)にあり、佐倉駅・銚子駅方面から船橋駅・東京方面と蘇我駅・安房鴨川駅方面の二又に分かれていた。そのため船橋駅・東京方面と蘇我駅・安房鴨川駅方面を結ぶ直通列車は、当駅でのスイッチバックを余儀なくされていた。
現在は船橋駅・東京方面から蘇我駅・安房鴨川駅方面と佐倉駅・銚子駅方面の二又に分かれる線形に改良されたが、駅全体がV字状になっているのはその名残である。千葉近隣の駅では大網駅も同様の変遷をたどっている。駅前広場も当時は非常に狭く、バス路線の大半は駅より離れた「要町」での発着となっていた。栄町は当時の千葉駅前から県庁へのメインストリートにあたり、繁華街であった(→千葉市を参照)。現在では千葉市民会館の近くに石碑が残っている。
2011年2月28日月曜日
2011年2月27日日曜日
多極分散型国土形成促進法及び関連法令においては
「東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県及び茨城県の区域のうち、東京都区部及びこれと社会的経済的に一体である政令で定める広域」を東京圏と定義している。この東京圏に含まれるのは、首都圏整備法上の既成市街地及び近郊整備地帯と、これに加えて同法上の都市開発区域のうち土浦市、つくば市、熊谷市、深谷市などの区域である。総務省の国勢調査では、東京都特別区(東京都区部)、横浜市、川崎市、千葉市、さいたま市を「中心市」とし、それらの中心市への15歳以上の通勤・通学者数の割合が市町村の常住人口の1.5パーセント以上である市町村を「周辺市町村」として、中心市と周辺市町村を合わせた範囲を関東大都市圏と定義している。関東大都市圏に含まれる市町村は、2005年(平成17年)国勢調査では以下の通り。運輸大臣の諮問機関である運輸政策審議会は、運輸政策審議会答申第18号において、東京圏における鉄道整備計画を提示している。この計画の対象地域は「東京都心部を中心とする概ね半径50キロメートルの範囲」であった。なお、運輸政策審議会は2001年に廃止され、現在は交通政策審議会に役割を移管している。
国勢調査では、東京都千代田区の旧東京都庁舎(現在の東京国際フォーラム)を中心点として幅10キロメートル刻みに同心円状の距離帯を設け、それぞれの距離帯に含まれる市町村を単位として、各種の集計を提示している。東京70キロ圏には、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県のほぼ全域と、茨城県の南部、栃木県、群馬県、山梨県の各一部が含まれる。大阪圏や名古屋圏も同様な距離圏の設定があり、各市の市役所を中心点とする50キロ圏を範囲としている。これらとの比較の際には東京でも50キロ圏を用いることがある。国土交通省が作成している『首都圏整備に関する年次報告』(首都圏白書)では、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の1都3県を東京圏と定義している。1都3県を東京圏とする定義は、簡便な定義であるため、各種の統計等でも採用されることが多い。ただしこの定義では、東京都心から海を隔てた東京都島嶼部や東京都心からかなり離れた千葉県の房総半島南部や埼玉県の秩父地方などが「東京圏」に含まれる一方で、東京都心からの距離が比較的近い茨城県南部は「東京圏」には含まれないことになる。
東京都知事本部が作成した『首都圏における広域的課題の現状』では、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都3県の範囲を首都圏と呼んでいる。また、内閣府の首都圏広域防災拠点整備協議会が作成した『首都圏広域防災拠点整備基本構想』は、埼玉県、千葉県(千葉市)、東京都、神奈川県(川崎市・横浜市)の1都3県をその対象としている。これらの文書で用いられている「首都圏」の範囲は、首都圏白書における「東京圏」の範囲と全く同一である。このほか、1都3県を「首都圏」とする定義は、各種の統計等においても数多くみられる。東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、横浜市、川崎市、千葉市、さいたま市、相模原市の1都3県5政令指定都市の知事・市長は、九都県市首脳会議を開催している。この九都県市首脳会議には首都圏サミットの別名がある。関東地方は、一般に、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県、栃木県、群馬県の1都6県を指すが、統計等では、この1都6県を指して首都圏と呼んでいる場合もみられる。
東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県、栃木県、群馬県、山梨県、長野県、新潟県の1都9県は関東甲信越地方とも呼ばれる。多くの官公庁や企業が地方支分部局や支社のブロックとして採用している。また、NHK総合テレビジョンのローカル放送局の一つである首都圏放送センターは、この1都9県を放送エリアとしている。そのため、『特報首都圏』などの番組は、1都6県だけでなく、山梨県と長野県と新潟県に向けても放送されている。尚、番組によっては本来東海北陸地方に管轄されている静岡県で放送される事もある。経済産業省では、関東経済産業局の管轄範囲である茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県の1都10県を指して、広域関東圏と称している。国勢調査「常住地による従業・通学市区町村別15歳以上就業者及び15歳以上通学者数」に基づき、上記の金本・徳岡の定義による東京都市圏に含まれる市町村を示す。東京を舞台にした映画作品には以下のようなものがある。
実際の撮影場所が東京とは限らない。東京アドエージェント株式会社は、2005年(平成17年)6月24日に設立されたインターネット専業の広告代理店。どこのグループにも属さない独立系企業である。本社は東京都中央区銀座に所在する。代表取締役社長は筒井輝夫。東京アドエージェント株式会社の強みは、検索連動型広告(リスティング広告)である。主にoverture(オーバーチュア)とGoogleアドワーズ広告、JWord(Jワード)を取扱っている。2008年6月には、キャッシングや保険、ショッピング、求人、不動産などの生活に関わるカテゴリのサイトを独自の人気ランキング形式により比較できるサイト「比較ナビ」を運営開始している。東京アニメセンターRADIO(とうきょうアニメセンターラジオ)は、文化放送で放送されていたラジオ番組(アニラジ)である。東京・秋葉原の東京アニメセンター内のサテライトスタジオで毎週火曜日17時から公開録音が行われていた。アニメセンター公式サイト内にweb版が展開されていた。2009年4月からは、「東京アニメセンターRADIOw」という番組タイトルに変更して放送している。
第3回(2006年4月19日)放送分以降は原則毎週火曜日17:00~番組収録をしているが、2006年12月27日と2007年1月3日分は2006年12月19日に2回分まとめて収録していた。これは2007年1月2日収録予定日が番組収録会場の正月休みのためで2007年1月10日放送分が事実上2006年最後の公開収録だった。なお、第1回と第2回は会場の休館日の都合で早めに収録していた。第1回が2006年3月15日12:00の収録だった。東京アラブ障害特別は1960年から1965年まで行われた中央競馬の障害の重賞競走である。関東のアラブ系障害重賞として1960年に東京競馬場で距離3300mの競走として創設された。同年に中山競馬場で中山アラブ障害特別が創設されている。しかし、1965年をもって、アラブ大障害、中山アラブ障害特別とともに廃止された。出走頭数は全6回の競走で計29頭と少なく、1962年の競走では3頭の出走馬で施行された。牝馬の出走が多く、牡馬の優勝は1964年のダイサンプウのみである。1963年に牝馬のヤマビコが優勝し、関東のアラブ系障害重賞を制覇した。1963年までは秋季に、1964年からは中山アラブ障害特別と入れ替わるかたちで春季に行われた。
競走条件は1963年までアラブ系4歳(現3歳)以上、1964年以降は同5歳(現4歳)以上。1961、62年は別定競走、その他はハンデキャップ競走として行われた。1961年と1962年の2回の競走では直線にダートコースを使用している。
国勢調査では、東京都千代田区の旧東京都庁舎(現在の東京国際フォーラム)を中心点として幅10キロメートル刻みに同心円状の距離帯を設け、それぞれの距離帯に含まれる市町村を単位として、各種の集計を提示している。東京70キロ圏には、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県のほぼ全域と、茨城県の南部、栃木県、群馬県、山梨県の各一部が含まれる。大阪圏や名古屋圏も同様な距離圏の設定があり、各市の市役所を中心点とする50キロ圏を範囲としている。これらとの比較の際には東京でも50キロ圏を用いることがある。国土交通省が作成している『首都圏整備に関する年次報告』(首都圏白書)では、東京都、埼玉県、神奈川県、千葉県の1都3県を東京圏と定義している。1都3県を東京圏とする定義は、簡便な定義であるため、各種の統計等でも採用されることが多い。ただしこの定義では、東京都心から海を隔てた東京都島嶼部や東京都心からかなり離れた千葉県の房総半島南部や埼玉県の秩父地方などが「東京圏」に含まれる一方で、東京都心からの距離が比較的近い茨城県南部は「東京圏」には含まれないことになる。
東京都知事本部が作成した『首都圏における広域的課題の現状』では、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県の1都3県の範囲を首都圏と呼んでいる。また、内閣府の首都圏広域防災拠点整備協議会が作成した『首都圏広域防災拠点整備基本構想』は、埼玉県、千葉県(千葉市)、東京都、神奈川県(川崎市・横浜市)の1都3県をその対象としている。これらの文書で用いられている「首都圏」の範囲は、首都圏白書における「東京圏」の範囲と全く同一である。このほか、1都3県を「首都圏」とする定義は、各種の統計等においても数多くみられる。東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、横浜市、川崎市、千葉市、さいたま市、相模原市の1都3県5政令指定都市の知事・市長は、九都県市首脳会議を開催している。この九都県市首脳会議には首都圏サミットの別名がある。関東地方は、一般に、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県、栃木県、群馬県の1都6県を指すが、統計等では、この1都6県を指して首都圏と呼んでいる場合もみられる。
東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県、栃木県、群馬県、山梨県、長野県、新潟県の1都9県は関東甲信越地方とも呼ばれる。多くの官公庁や企業が地方支分部局や支社のブロックとして採用している。また、NHK総合テレビジョンのローカル放送局の一つである首都圏放送センターは、この1都9県を放送エリアとしている。そのため、『特報首都圏』などの番組は、1都6県だけでなく、山梨県と長野県と新潟県に向けても放送されている。尚、番組によっては本来東海北陸地方に管轄されている静岡県で放送される事もある。経済産業省では、関東経済産業局の管轄範囲である茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県の1都10県を指して、広域関東圏と称している。国勢調査「常住地による従業・通学市区町村別15歳以上就業者及び15歳以上通学者数」に基づき、上記の金本・徳岡の定義による東京都市圏に含まれる市町村を示す。東京を舞台にした映画作品には以下のようなものがある。
実際の撮影場所が東京とは限らない。東京アドエージェント株式会社は、2005年(平成17年)6月24日に設立されたインターネット専業の広告代理店。どこのグループにも属さない独立系企業である。本社は東京都中央区銀座に所在する。代表取締役社長は筒井輝夫。東京アドエージェント株式会社の強みは、検索連動型広告(リスティング広告)である。主にoverture(オーバーチュア)とGoogleアドワーズ広告、JWord(Jワード)を取扱っている。2008年6月には、キャッシングや保険、ショッピング、求人、不動産などの生活に関わるカテゴリのサイトを独自の人気ランキング形式により比較できるサイト「比較ナビ」を運営開始している。東京アニメセンターRADIO(とうきょうアニメセンターラジオ)は、文化放送で放送されていたラジオ番組(アニラジ)である。東京・秋葉原の東京アニメセンター内のサテライトスタジオで毎週火曜日17時から公開録音が行われていた。アニメセンター公式サイト内にweb版が展開されていた。2009年4月からは、「東京アニメセンターRADIOw」という番組タイトルに変更して放送している。
第3回(2006年4月19日)放送分以降は原則毎週火曜日17:00~番組収録をしているが、2006年12月27日と2007年1月3日分は2006年12月19日に2回分まとめて収録していた。これは2007年1月2日収録予定日が番組収録会場の正月休みのためで2007年1月10日放送分が事実上2006年最後の公開収録だった。なお、第1回と第2回は会場の休館日の都合で早めに収録していた。第1回が2006年3月15日12:00の収録だった。東京アラブ障害特別は1960年から1965年まで行われた中央競馬の障害の重賞競走である。関東のアラブ系障害重賞として1960年に東京競馬場で距離3300mの競走として創設された。同年に中山競馬場で中山アラブ障害特別が創設されている。しかし、1965年をもって、アラブ大障害、中山アラブ障害特別とともに廃止された。出走頭数は全6回の競走で計29頭と少なく、1962年の競走では3頭の出走馬で施行された。牝馬の出走が多く、牡馬の優勝は1964年のダイサンプウのみである。1963年に牝馬のヤマビコが優勝し、関東のアラブ系障害重賞を制覇した。1963年までは秋季に、1964年からは中山アラブ障害特別と入れ替わるかたちで春季に行われた。
競走条件は1963年までアラブ系4歳(現3歳)以上、1964年以降は同5歳(現4歳)以上。1961、62年は別定競走、その他はハンデキャップ競走として行われた。1961年と1962年の2回の競走では直線にダートコースを使用している。
2011年2月26日土曜日
東京っ子NIGHTお遊びジョーズ!!は
1987年4月6日から1989年10月6日に文化放送で放送されていたラジオ番組である。『東京っ子NIGHT - 』時代は、東京都港区海岸3丁目のオンワード樫山芝浦第2ビル7階にあった『TOKYO BAY STUDIO』から放送されていた。当時、メインパーソナリティの関秀章は毎週月曜日には『ファンキートマト』(テレビ神奈川、19:00〜21:00)の生放送の仕事も有り、横浜から港区海岸のスタジオまで30分で移動しなければならなかったため、毎週時間内に入れるかどうかが話題となっていた。そのような中で、1987年5月5日の放送では間に合わず、あらかじめスタジオに待機していたもう一人のパーソナリティ・太田英明が途中まで進行し、関が入って来た所からその日は最後まで二人で進行した、ということがあった。1988年4月のリニューアル後はタイトルから「東京っ子NIGHT」が取れて「お遊びジョーズ!!」のみとなり、同時にTOKYO BAY STUDIOを離れて東京・四谷の本社スタジオ(当時)からの生放送に変更となった。東京に来いは、日本のシンガーソングライター・KANの楽曲。
アルバム『東雲』(1994年11月26日発売)の収録曲で1995年5月10日にシングル・カットされた。KAN通算19枚目のシングルであり、ポリドールで発表された最後のシングルでもある。表ジャケットは東京タワーの夜景をバックに、KANがギターを持って歌う合成写真となっている。『東京の休日』は、長尾直樹監督、川村かおり主演の、1991年11月2日公開の日本映画。国際都市TOKYO。ドクター・ノグチ(三上博史)は、製薬会社で老人性痴呆症の新薬を開発中に偶然できてしまったドラッグを密かに持ち出し、製薬会社の老守衛(田村隆一)を実験台にして、さらに研究を進めていた。その究極のドラッグ「トウキョウ・ホリディ」の噂は様々なイメージによって広まり、そのドラッグに希望を見出す孤独を抱えた者達が、トウキョウ・ホリディを手に入れようと世界中から東京に集まってきていた。病を抱え衰弱しているニューヨークの大富豪ウィリアム・ライト(エディ・コンスタンティーヌ)、その部下でパンク野郎のエルビス(ディック・ルード)、謎の中国女でエルビスの仲間のチャーリー(サンサライ・リー)、コロンビアの麻薬組織の殺し屋アントニオらである。
一方、ジミ・ヘンドリックス狂のギタリスト少女・ナーシア(川村かおり)は、所属するインディーズのロックバンド「インディアナ・ドラッグ」をクビにされて、失意の中、駐車違反で車をレッカー移動されたり、挙句の果てに終電車にも乗り遅れたりと、何もかもが上手く行かなかった。ナーシアは持病の頭痛に耐えながら、あてもなく夜の東京をさまよい歩くが、新たな実験台を探していたノグチに目を付けられ、狙われてしまう。ノグチを追跡していたエルビスは、ナーシアがゲームセンターでノグチと接触した時、偶然にもナーシアが頭痛薬を飲むところを目撃したことから、ナーシアの持っている頭痛薬がトウキョウ・ホリディであると誤解し、ナーシアから頭痛薬の瓶を強奪してしまう。わけも分からず立ち尽くすナーシアは、チャーリーの車に拾われ、彼女がねぐらにしているラブホテルに連れて行かれて頭痛を癒すが、そこにエルビスがやってきた為に窓から脱出。しかし誤って落下して気絶してしまう。
ナーシアが気が付くと、エルビスが運転するライトのモーターホームの車内におり、ライトはナーシアから奪った頭痛薬を飲んでしまう。エディ・コンスタンティーヌは、ジャン=リュック・ゴダール監督作品の常連俳優であり、『東京の休日』で自身の出番を全て撮り終えた後のスタッフへの挨拶では「きっとご存知ないだろうが、日本にはナガオというお前さんの弟子がいて、若い優秀なスタッフと共に、ある部分では、十分にお前さん以上の画を撮っている」とゴダールに伝えると語った。東京の花街では、東京にある花街、また遊廓(赤線も含む)について記述する。三業地とは、芸妓置屋、待合、料亭の営業が許可される区域を指す行政用語で、花街とほぼ同義である。花街は、芸妓(歌舞音曲で宴席に興を添える女性、芸者)屋などの集まる地域と、遊廓などの地域を呼ぶ場合がある。その昔、芸妓への支払いが「花代」と言ったので、この名が付けられた。 第二次世界大戦後GHQの政策により遊廓が廃止されたため、現在ではもっぱら芸妓屋などの集まる地域を指す。
現在でこそ東京の花街は限られた地域にしか存在しないが、戦前には東京23区のうち、21区に花街が存在していた。花街は墨田区向島五丁目に位置する。向島では「宮様から畳屋様まで楽しめる」などと言われるように、下町風情に溢れ、堅苦しくなく遊べるところが評価されている。東京スカイツリー竣工を控え、注目される。甲州街道の宿場町で、明治期に織物産業の町として栄えてきた八王子は東京郊外で唯一、花街が現存している。『東京ぼん太ショー』(とうきょうぼんたショー)は、1968年10月6日から1969年3月30日までフジテレビ系列で放送されたバラエティ番組である。東京ぼん太の冠番組。東京ぼん太の芸と、ゲストの歌などで構成された番組。東京ぼん太は、1966年から1968年にかけて演芸番組で人気者となり、「夢もチボーもない」「マァ、いろいろあらぁな」「ペケ子ちゃん」などのギャグは一世を風靡、映画にも主演する様となった。フジテレビはすでに帯演芸番組『お茶の間寄席』の司会を任せていたが、更にもう1本、ぼん太がメインとなるバラエティ番組を制作、まず1968年7月6日にテストケースとして、『コント55号の世界は笑う』開始前のつなぎ番組として放送、そして3ヶ月後に、日曜19時枠、それも1時間(正式には56分)番組として開始した。
しかし、すでに人気はぼん太からコント55号やザ・ドリフターズに傾いており、更に裏番組が『アップダウンクイズ』『象印スターものまね大合戦』(以上NET系列。なお『アップダウン』は毎日放送制作)や、『怪奇大作戦』『怪物くん(アニメ第1作)』(以上TBS系列。『怪奇』は同日開始)だったため、視聴率は低迷、そのため1969年2月2日放送分からは放送時間を30分に縮小したが、それでも盛り返せず、半年で終了した。なお同時期には『お茶の間寄席』の司会も横山やすし・西川きよしに交代、東京ぼん太の人気は急速に下降線をたどる事となる。東京むさし農業協同組合は、東京都小金井市に本店を置く農業協同組合である。東京を中心とする地域の定義一覧では、東京の都市圏の範囲として、様々な都市計画や統計等で規定されている各種の定義を示す。首都圏整備法及び関連法令においては、「東京都及びこれと連接する枢要な都市を含む区域のうち、産業及び人口の過度の集中を防止し、かつ、都市の機能の維持及び増進を図る必要がある市街地の区域」を「既成市街地」、「既成市街地」の近郊を「近郊整備地帯」と定義している。
この既成市街地及び近郊整備地帯は、国土交通省による地価関連の統計では東京圏と定義されている。また、全く同一の範囲が首都圏と呼ばれている場合もある。
アルバム『東雲』(1994年11月26日発売)の収録曲で1995年5月10日にシングル・カットされた。KAN通算19枚目のシングルであり、ポリドールで発表された最後のシングルでもある。表ジャケットは東京タワーの夜景をバックに、KANがギターを持って歌う合成写真となっている。『東京の休日』は、長尾直樹監督、川村かおり主演の、1991年11月2日公開の日本映画。国際都市TOKYO。ドクター・ノグチ(三上博史)は、製薬会社で老人性痴呆症の新薬を開発中に偶然できてしまったドラッグを密かに持ち出し、製薬会社の老守衛(田村隆一)を実験台にして、さらに研究を進めていた。その究極のドラッグ「トウキョウ・ホリディ」の噂は様々なイメージによって広まり、そのドラッグに希望を見出す孤独を抱えた者達が、トウキョウ・ホリディを手に入れようと世界中から東京に集まってきていた。病を抱え衰弱しているニューヨークの大富豪ウィリアム・ライト(エディ・コンスタンティーヌ)、その部下でパンク野郎のエルビス(ディック・ルード)、謎の中国女でエルビスの仲間のチャーリー(サンサライ・リー)、コロンビアの麻薬組織の殺し屋アントニオらである。
一方、ジミ・ヘンドリックス狂のギタリスト少女・ナーシア(川村かおり)は、所属するインディーズのロックバンド「インディアナ・ドラッグ」をクビにされて、失意の中、駐車違反で車をレッカー移動されたり、挙句の果てに終電車にも乗り遅れたりと、何もかもが上手く行かなかった。ナーシアは持病の頭痛に耐えながら、あてもなく夜の東京をさまよい歩くが、新たな実験台を探していたノグチに目を付けられ、狙われてしまう。ノグチを追跡していたエルビスは、ナーシアがゲームセンターでノグチと接触した時、偶然にもナーシアが頭痛薬を飲むところを目撃したことから、ナーシアの持っている頭痛薬がトウキョウ・ホリディであると誤解し、ナーシアから頭痛薬の瓶を強奪してしまう。わけも分からず立ち尽くすナーシアは、チャーリーの車に拾われ、彼女がねぐらにしているラブホテルに連れて行かれて頭痛を癒すが、そこにエルビスがやってきた為に窓から脱出。しかし誤って落下して気絶してしまう。
ナーシアが気が付くと、エルビスが運転するライトのモーターホームの車内におり、ライトはナーシアから奪った頭痛薬を飲んでしまう。エディ・コンスタンティーヌは、ジャン=リュック・ゴダール監督作品の常連俳優であり、『東京の休日』で自身の出番を全て撮り終えた後のスタッフへの挨拶では「きっとご存知ないだろうが、日本にはナガオというお前さんの弟子がいて、若い優秀なスタッフと共に、ある部分では、十分にお前さん以上の画を撮っている」とゴダールに伝えると語った。東京の花街では、東京にある花街、また遊廓(赤線も含む)について記述する。三業地とは、芸妓置屋、待合、料亭の営業が許可される区域を指す行政用語で、花街とほぼ同義である。花街は、芸妓(歌舞音曲で宴席に興を添える女性、芸者)屋などの集まる地域と、遊廓などの地域を呼ぶ場合がある。その昔、芸妓への支払いが「花代」と言ったので、この名が付けられた。 第二次世界大戦後GHQの政策により遊廓が廃止されたため、現在ではもっぱら芸妓屋などの集まる地域を指す。
現在でこそ東京の花街は限られた地域にしか存在しないが、戦前には東京23区のうち、21区に花街が存在していた。花街は墨田区向島五丁目に位置する。向島では「宮様から畳屋様まで楽しめる」などと言われるように、下町風情に溢れ、堅苦しくなく遊べるところが評価されている。東京スカイツリー竣工を控え、注目される。甲州街道の宿場町で、明治期に織物産業の町として栄えてきた八王子は東京郊外で唯一、花街が現存している。『東京ぼん太ショー』(とうきょうぼんたショー)は、1968年10月6日から1969年3月30日までフジテレビ系列で放送されたバラエティ番組である。東京ぼん太の冠番組。東京ぼん太の芸と、ゲストの歌などで構成された番組。東京ぼん太は、1966年から1968年にかけて演芸番組で人気者となり、「夢もチボーもない」「マァ、いろいろあらぁな」「ペケ子ちゃん」などのギャグは一世を風靡、映画にも主演する様となった。フジテレビはすでに帯演芸番組『お茶の間寄席』の司会を任せていたが、更にもう1本、ぼん太がメインとなるバラエティ番組を制作、まず1968年7月6日にテストケースとして、『コント55号の世界は笑う』開始前のつなぎ番組として放送、そして3ヶ月後に、日曜19時枠、それも1時間(正式には56分)番組として開始した。
しかし、すでに人気はぼん太からコント55号やザ・ドリフターズに傾いており、更に裏番組が『アップダウンクイズ』『象印スターものまね大合戦』(以上NET系列。なお『アップダウン』は毎日放送制作)や、『怪奇大作戦』『怪物くん(アニメ第1作)』(以上TBS系列。『怪奇』は同日開始)だったため、視聴率は低迷、そのため1969年2月2日放送分からは放送時間を30分に縮小したが、それでも盛り返せず、半年で終了した。なお同時期には『お茶の間寄席』の司会も横山やすし・西川きよしに交代、東京ぼん太の人気は急速に下降線をたどる事となる。東京むさし農業協同組合は、東京都小金井市に本店を置く農業協同組合である。東京を中心とする地域の定義一覧では、東京の都市圏の範囲として、様々な都市計画や統計等で規定されている各種の定義を示す。首都圏整備法及び関連法令においては、「東京都及びこれと連接する枢要な都市を含む区域のうち、産業及び人口の過度の集中を防止し、かつ、都市の機能の維持及び増進を図る必要がある市街地の区域」を「既成市街地」、「既成市街地」の近郊を「近郊整備地帯」と定義している。
この既成市街地及び近郊整備地帯は、国土交通省による地価関連の統計では東京圏と定義されている。また、全く同一の範囲が首都圏と呼ばれている場合もある。
2011年2月25日金曜日
東京とは、小惑星帯にある大きな小惑星である。
1900年3月6日に平山信によって東京で「発見」された。日本人が小惑星を「発見」したのはこれが最初であるが、軌道を確定できなかったため正式な発見とはみなされていない。その後、1902年12月2日にオーギュスト・シャルロワによって発見され、軌道が確定された。しかし命名の権利は平山に譲られ、平山は発見場所にちなんで東京と名づけた。2004年2月18日に西日本で観測された掩蔽により、東京のサイズはおよそ 85km × 60km であることが分かった。東京は、1980年10月21日に発売された浜田省吾の11stシングル。東京 - 上越線は、東京都豊島区から新潟県柏崎市を経由して同県上越市を結ぶ高速バス路線である。当路線の開設以前、上越市などを含む上越地方と、柏崎市などを含む中越地方西部から首都圏へ乗り換え無しで直通する交通手段はごく少なく、特に鉄道を利用した場合は長岡駅で上越新幹線に乗換える必要があった。上野駅から長野駅を経由して直江津駅とを結ぶ特急「あさま」・「白山」もあったが、運行本数は1日3往復しかなく、また長岡経由よりも所要時間を長く要した。
一方、西武バス ・越後交通両社は関越自動車道が全通した1985年から東京 - 新潟線を新潟交通と共同運行し、高い乗車率を確保していた。こうしたことから中越西部・上越でも東京方面への高速バス路線に対するニーズが高まっていた。そこで、頸城自動車は越後交通・西武バスと組み、1989年12月22日に当路線を開設した。比較的安価な運賃であり、乗換えの煩わしさが無いことなどから、週末や行楽シーズンなどには満席となるケースが多く、高い乗車率を確保している。東京 - 岡山・倉敷線は、東京都と岡山県岡山・倉敷両市を結ぶ高速バス路線である。運行会社の別により以下の5系統に整理できる。本項目ではこれらについて一括して記載する。東京 - 沼津線は、東京都と静岡県三島市・沼津市を結ぶ高速バス路線である。東京側の発着地が2箇所あるため、当路線も2系統に分割される。本項では2系統を一括して記す。なお、2系統とも全席指定制なので、あらかじめ乗車券を購入しなければならない。
東京系統運行開始(1日4往復)。新宿沼津線運行開始(1日4往復)。東京系統ダイヤ改正(深良新田下バス停を廃し、裾野市民文化センター前に停車)。東京系統、JRバスが1往復増便し、1日5往復となる。片道運賃1,000円キャンペーン実施。1,000円キャンペーン終了。東京系統ダイヤ改正。柏葉尾~県総合庁舎前間に「金岡小学校前」停留所新設(新宿沼津線は同年11月1日より停車)。JRバスが2往復減便し、1日3往復となる。沼津朝発・東京夕方発に時刻をシフト。上り初便に続き、足柄SAでの休憩を廃止。新宿沼津線ダイヤ改正。渋滞を考慮して所要時間を見直し(沼津駅北口、新宿西口、渋谷マークシティ発車時刻は変わらず)。平日限定回数券通年設定(新宿沼津線)。東京系統は同年9月30日まで延長。新宿沼津線ダイヤ改正。京王が1往復減便し、1日3往復となり、うち1往復(1号・6号)は沼津港経由となる。平日限定回数券通年設定(東京系統)。JRバス関東が撤退(東京系統)。新宿沼津線ダイヤ改正。
渋滞を考慮した所要時間見直し。この日より東京系統の1往復(3号・6号)が土曜・日曜・祝日のみ六本木ヒルズに停車。片道運賃1,000円キャンペーン実施。新宿三島線(みしまコロッケ号)が運行開始。あわせて、沼津駅経由便の愛称が「さんさんぬまづ号」に設定される。上り便(東京・新宿行)が用賀PAで東急田園都市線用賀駅への乗り継ぎサービスを開始(これに先立つ実証実験が2010年5月21日から2011年3月まで実施された)。東京‐糸魚川ファストランは、東京都八王子市の高尾山口駅から新潟県の糸魚川までの292キロを、制限時間内に走破することを目指すサイクリング大会。1971年に開始された日本で最も歴史の長いロングライドイベントであり、明治大学の自転車部OBを中心に運営されている。東京湾の水を日本海に自転車で運んでみようという思いつきがそもそものはじまりであったと言われる。東京☆女子アナクルーズとは、テレビ東京が毎週日曜日昼に放送していたバラエティ番組である。当番組は、2008年4月13日にスペシャル版(1時間番組)としてスタートし、同年4月27日から9月28日までレギュラー放送された。
放送時間は、毎週日曜日11時55分〜12時25分(スペシャル版のみ11時25分〜12時25分)。番組は、上島竜兵(ダチョウ倶楽部)を部長役に、テレビ東京の女性アナウンサーがエンターテインメント情報、イベント情報を織り交ぜながら、進行を進めるというスタイルを取っていた。しかし『アッコにおまかせ!』(TBS)や『ウチくる!?』(フジテレビ)、『Sunday!スクランブル』(テレビ朝日)などの強力な裏番組に苦戦したせいか、番組の人気は今ひとつだった。東京だるまは、別名多摩だるま(たまだるま)ともいわれ、東京都西部で生産されているだるまである。主な生産地として、瑞穂町、青梅市、立川市がある。 現在、生産を続けているだるま屋は数件ほどである。JR八高線箱根ヶ崎駅に瑞穂町の特産品として、東京だるまが展示されている。現在の多摩地域を含む武蔵国ではすでに18世紀後半には織物の産地として有名であった。当時の有名な織物の産地として 飯能、青梅、八王子、川越、五日市、拝島などがあり、生糸や絹の取引をする市がにぎわっていたという。
これらの市が経済的に熟成すると在郷町が各地に出現した。各地の養蚕農家が豊作や息災を願って神棚に飾ったことからだるま作りが広まり、やがて、織物市がだるま市に変化していったとされる。ここで指摘した飯能市、青梅市、川越市、五日市町(現東京都あきる野市)、拝島(東京都昭島市)では現在でもだるま市(だるまいち)が開催されている。だるまの木型に紙を貼り、乾いたら木型を抜き張子を作る。張子には「しった」とよばれる底をつけることによって、いわゆる「七転び八起き」を実現している。顔は職人たちの手によって描かれている。高崎だるまと比較して毛の量が少なく、あっさりとした顔が多い。生産は秋から冬にかけて行われる。関東の空っ風が塗料を乾燥させるのに適しているとされる。年内に作られただるまは次の年の正月に行われるだるま市によって売られる。東京だるまを買うことができるだるま市は東京都に限らず、埼玉県の川越市、所沢市、入間市でも行われている。目は白目のまま売られ、買い手が後から黒目を入れることができるようになっている。
最近は赤のだるまだけでなく、金、銀、白やその他カラフルな色をしただるまも生産されている。また、腹部に「合格」と記された、受験祈願のだるまも生産されている。阿豆佐味天神社(あずさみてんじんしゃ:東京都立川市)、お伊勢の森(東京都武蔵村山市)阿豆佐味天神社では、大晦日の夜中から元日の朝にかけてだるま市が開かれる。初詣の人でいっぱいになる。お伊勢の森では、朝8時くらいに市が始まり、夕方には終わる。拝島大師(東京都昭島市)明治期には、武蔵国から横浜へ絹を運ぶルート(現在の国道16号)の途中にあり、繁昌した。拝島大師、川越大師(埼玉県川越市)拝島大師では前日に引き続きだるま市が開かれる。川越大師(喜多院)には東京だるまだけでなく、高崎だるまの店が多く集まる。1月5日の初水天宮大祭に合わせて境内にだるま市が立つ。殆どが東京だるまの店。1月6日、7日 矢颪(やおろし)毘沙門天(埼玉県飯能市)夜通し(よどうし)と呼ばれるだるま市が開かれる。夜通しとは一晩中行われるだるま市の一形態で、6日の夕方から7日の夕方までほぼ一日を通して開かれる。
1月10日 五日市(東京都あきる野市)この市は、五日市という名前に由来しているらしい。五日市とは五の倍数に当たる日に開かれる市のことで、10日も市が開かれる日であった。1月12日に開かれるだるま市は、拝島大師と並んで大規模な市であるが、拝島大師と違う点は、だるまがメインであるということである。拝島大師は、参拝ついでにだるまでも買っていこうか、というニュアンスが強いが、青梅市の場合、客はだるま目当てに市に訪れる。そのため、だるま市の中でも「売れる」市である。一説によるとこの市の発端は室町時代の織物市に由来しており、だるま市の形態になったのは約180年前であるらしい。現在では新宿と青梅を結ぶ幹線道路の一つ、青梅街道の一定の距離、時間を通行止めにし、そこに店が広げられる。節分に合わせて行われるだるま市。毎年、有名人が豆を撒きにくる。一説によると300年前くらいから存在すると言われるだるま市。
一方、西武バス ・越後交通両社は関越自動車道が全通した1985年から東京 - 新潟線を新潟交通と共同運行し、高い乗車率を確保していた。こうしたことから中越西部・上越でも東京方面への高速バス路線に対するニーズが高まっていた。そこで、頸城自動車は越後交通・西武バスと組み、1989年12月22日に当路線を開設した。比較的安価な運賃であり、乗換えの煩わしさが無いことなどから、週末や行楽シーズンなどには満席となるケースが多く、高い乗車率を確保している。東京 - 岡山・倉敷線は、東京都と岡山県岡山・倉敷両市を結ぶ高速バス路線である。運行会社の別により以下の5系統に整理できる。本項目ではこれらについて一括して記載する。東京 - 沼津線は、東京都と静岡県三島市・沼津市を結ぶ高速バス路線である。東京側の発着地が2箇所あるため、当路線も2系統に分割される。本項では2系統を一括して記す。なお、2系統とも全席指定制なので、あらかじめ乗車券を購入しなければならない。
東京系統運行開始(1日4往復)。新宿沼津線運行開始(1日4往復)。東京系統ダイヤ改正(深良新田下バス停を廃し、裾野市民文化センター前に停車)。東京系統、JRバスが1往復増便し、1日5往復となる。片道運賃1,000円キャンペーン実施。1,000円キャンペーン終了。東京系統ダイヤ改正。柏葉尾~県総合庁舎前間に「金岡小学校前」停留所新設(新宿沼津線は同年11月1日より停車)。JRバスが2往復減便し、1日3往復となる。沼津朝発・東京夕方発に時刻をシフト。上り初便に続き、足柄SAでの休憩を廃止。新宿沼津線ダイヤ改正。渋滞を考慮して所要時間を見直し(沼津駅北口、新宿西口、渋谷マークシティ発車時刻は変わらず)。平日限定回数券通年設定(新宿沼津線)。東京系統は同年9月30日まで延長。新宿沼津線ダイヤ改正。京王が1往復減便し、1日3往復となり、うち1往復(1号・6号)は沼津港経由となる。平日限定回数券通年設定(東京系統)。JRバス関東が撤退(東京系統)。新宿沼津線ダイヤ改正。
渋滞を考慮した所要時間見直し。この日より東京系統の1往復(3号・6号)が土曜・日曜・祝日のみ六本木ヒルズに停車。片道運賃1,000円キャンペーン実施。新宿三島線(みしまコロッケ号)が運行開始。あわせて、沼津駅経由便の愛称が「さんさんぬまづ号」に設定される。上り便(東京・新宿行)が用賀PAで東急田園都市線用賀駅への乗り継ぎサービスを開始(これに先立つ実証実験が2010年5月21日から2011年3月まで実施された)。東京‐糸魚川ファストランは、東京都八王子市の高尾山口駅から新潟県の糸魚川までの292キロを、制限時間内に走破することを目指すサイクリング大会。1971年に開始された日本で最も歴史の長いロングライドイベントであり、明治大学の自転車部OBを中心に運営されている。東京湾の水を日本海に自転車で運んでみようという思いつきがそもそものはじまりであったと言われる。東京☆女子アナクルーズとは、テレビ東京が毎週日曜日昼に放送していたバラエティ番組である。当番組は、2008年4月13日にスペシャル版(1時間番組)としてスタートし、同年4月27日から9月28日までレギュラー放送された。
放送時間は、毎週日曜日11時55分〜12時25分(スペシャル版のみ11時25分〜12時25分)。番組は、上島竜兵(ダチョウ倶楽部)を部長役に、テレビ東京の女性アナウンサーがエンターテインメント情報、イベント情報を織り交ぜながら、進行を進めるというスタイルを取っていた。しかし『アッコにおまかせ!』(TBS)や『ウチくる!?』(フジテレビ)、『Sunday!スクランブル』(テレビ朝日)などの強力な裏番組に苦戦したせいか、番組の人気は今ひとつだった。東京だるまは、別名多摩だるま(たまだるま)ともいわれ、東京都西部で生産されているだるまである。主な生産地として、瑞穂町、青梅市、立川市がある。 現在、生産を続けているだるま屋は数件ほどである。JR八高線箱根ヶ崎駅に瑞穂町の特産品として、東京だるまが展示されている。現在の多摩地域を含む武蔵国ではすでに18世紀後半には織物の産地として有名であった。当時の有名な織物の産地として 飯能、青梅、八王子、川越、五日市、拝島などがあり、生糸や絹の取引をする市がにぎわっていたという。
これらの市が経済的に熟成すると在郷町が各地に出現した。各地の養蚕農家が豊作や息災を願って神棚に飾ったことからだるま作りが広まり、やがて、織物市がだるま市に変化していったとされる。ここで指摘した飯能市、青梅市、川越市、五日市町(現東京都あきる野市)、拝島(東京都昭島市)では現在でもだるま市(だるまいち)が開催されている。だるまの木型に紙を貼り、乾いたら木型を抜き張子を作る。張子には「しった」とよばれる底をつけることによって、いわゆる「七転び八起き」を実現している。顔は職人たちの手によって描かれている。高崎だるまと比較して毛の量が少なく、あっさりとした顔が多い。生産は秋から冬にかけて行われる。関東の空っ風が塗料を乾燥させるのに適しているとされる。年内に作られただるまは次の年の正月に行われるだるま市によって売られる。東京だるまを買うことができるだるま市は東京都に限らず、埼玉県の川越市、所沢市、入間市でも行われている。目は白目のまま売られ、買い手が後から黒目を入れることができるようになっている。
最近は赤のだるまだけでなく、金、銀、白やその他カラフルな色をしただるまも生産されている。また、腹部に「合格」と記された、受験祈願のだるまも生産されている。阿豆佐味天神社(あずさみてんじんしゃ:東京都立川市)、お伊勢の森(東京都武蔵村山市)阿豆佐味天神社では、大晦日の夜中から元日の朝にかけてだるま市が開かれる。初詣の人でいっぱいになる。お伊勢の森では、朝8時くらいに市が始まり、夕方には終わる。拝島大師(東京都昭島市)明治期には、武蔵国から横浜へ絹を運ぶルート(現在の国道16号)の途中にあり、繁昌した。拝島大師、川越大師(埼玉県川越市)拝島大師では前日に引き続きだるま市が開かれる。川越大師(喜多院)には東京だるまだけでなく、高崎だるまの店が多く集まる。1月5日の初水天宮大祭に合わせて境内にだるま市が立つ。殆どが東京だるまの店。1月6日、7日 矢颪(やおろし)毘沙門天(埼玉県飯能市)夜通し(よどうし)と呼ばれるだるま市が開かれる。夜通しとは一晩中行われるだるま市の一形態で、6日の夕方から7日の夕方までほぼ一日を通して開かれる。
1月10日 五日市(東京都あきる野市)この市は、五日市という名前に由来しているらしい。五日市とは五の倍数に当たる日に開かれる市のことで、10日も市が開かれる日であった。1月12日に開かれるだるま市は、拝島大師と並んで大規模な市であるが、拝島大師と違う点は、だるまがメインであるということである。拝島大師は、参拝ついでにだるまでも買っていこうか、というニュアンスが強いが、青梅市の場合、客はだるま目当てに市に訪れる。そのため、だるま市の中でも「売れる」市である。一説によるとこの市の発端は室町時代の織物市に由来しており、だるま市の形態になったのは約180年前であるらしい。現在では新宿と青梅を結ぶ幹線道路の一つ、青梅街道の一定の距離、時間を通行止めにし、そこに店が広げられる。節分に合わせて行われるだるま市。毎年、有名人が豆を撒きにくる。一説によると300年前くらいから存在すると言われるだるま市。
2011年2月24日木曜日
東京12チャンネルニュースは
東京12チャンネル→テレビ東京で1969年12月1日から1982年2月28日まで放送されていたニュース番組。東京12チャンネルは、財団法人日本科学技術振興財団が放送免許を受けて開局した放送局であったため、報道部門については朝日新聞社と提携を行い、1964年の開局時に朝日新聞東京本社内に専用のニューススタジオを設置してニュース番組を制作、放送した。同局の運営は開局直後から行き詰まり、別途1968年7月1日に運営会社である株式会社東京12チャンネルプロダクション(現在のテレビ東京)が財界主体で設立された。更に財界は日本経済新聞社に支援を要請し、1969年10月27日日経は科学技術振興財団からテレビ事業を引き受け、11月1日東京12チャンネルプロダクションの増資も引き受けた。これで事実上日経が東京12チャンネルの親会社になったため、従来の朝日新聞社との報道面での提携関係を見直すことになった。1969年12月1日より時間帯によって日経と朝日が交互にニュースソースを提供する形に変更して、ニュースタイトルも改題した。
1972年4月1日にニュースソースの提供は日経に一本化された。1982年3月1日にテレビ東京をキー局とするメガTONネットワーク(現:TXN)が結成されたことに伴い『メガTONニュース(現:TXNニュース)』に改題した。基本的に東京12チャンネルでのローカル放送だったが、日経が出資していた中京テレビ放送でも「中京テレビニュース」に改題して放送されていた時期がある。これは同局が日本テレビとNETテレビ(現・テレビ朝日)とのクロスネットであり、ニュースはANNを主体としていたものの、名古屋テレビも同様のクロスネットであり、ANNニュースも放送していたため、一部時間帯では中京テレビでANNニュースを放送出来なかったための措置であった。(なお、クロスネット当時の中京テレビはNNNには加盟していなかった。)西日本の独立UHF局でも、一部番組が放送されていた。サービスエリアと重複する地域にテレビ大阪(1982年3月1日開局)テレビ愛知(1983年9月1日開局)といったテレビ東京の系列局が開局したのちは、サンテレビと三重テレビでは放送を打ち切った。
また、KBS京都やぎふチャンでも一部番組のネット受けに止まっている。東京12大学広報連絡協議会は、東京に本部を置く私立大学12校共同による広報組織である。東京12大学広報連絡協議会は、東京神田五大学広報会議を主体として結成され、所属校は東京六大学などの大学群とは無関係に構成されている。「東京12大学フェア」として加盟全大学が参加する進学相談会を日本国内6か所で毎年開催している。共同広報サイトの運営(各加盟大学の紹介および各種イベント・入試情報の告知・資料請求の一括窓口)。共同進学相談会「東京12大学フェア」の開催(東京・名古屋・大阪・仙台・福岡・広島の6都市で毎年開催) 東京BBSとは、かつて存在したパソコン通信の草の根BBS。2001年12月31日をもって閉局した。1987年10月1日開局。東京都足立区に所在した草の根BBS局であり、その規模は草の根BBSとして日本最大の規模を誇った。内容はおよそホビーに特化しており、他のパソコン通信局とともに現在へ繋がる同人文化に多大な影響を与えた。
ホストはBIG-MODELを多回線対応へ独自に改良したMEGA-LINKS(後にGIGA-LINKS)を使用した。末期には、申請により東京BBSドメインによるメールアドレスが付与されるなど、インターネット網への接続も試みられていた。 宣伝用のシールが用意されており、イベントなどで配布することを申請するとロゴ入りシールセットが送られてきた。ライブラリにはさまざまなソフトウェアやデータが転載などで収録され、また一次配布元となることも多かった。収録されているデータのジャンルや数は膨大であり、商用ネットへの接続手段を持たない者に重宝された。主に草の根BBSで流通するフリーソフトやCGデータ等では、データへアクセスすることが主宰者の収入に繋がる有料ネットへ転載されることを嫌う風潮があり、Q2回線導入後の東京BBSもこの有料ネットに当たるのだが、転載条件には「有料ネットへの転載は禁止、ただし東京BBSを除く」といった記述もよく見られた。(ただし、東京BBSのみを禁止するような逆の条件も一部にあった。)
東京BBS運営中に利用されていたtokyobbs.or.jpドメインは、その後、運営者であった小泉義仁個人の活動に使用されており、現在もアクセスが可能である。閉局後数年間は、東京BBSの概要や沿革などが掲載されていたが、現在では多くの記述が削除されている。東京DC特区構想とは東京都心に国直轄の地域を作るという構想。提唱者は現東京都副知事である猪瀬直樹。日本の首都である東京は一流企業が集中しているため莫大な税収をあげており、地方自治体の中で税収の偏在している東京とそれ以外で格差が生じている。東京駅を中心に新宿駅までの約5キロを半径とした円の中を、首都機能に特化した国直轄の東京DC特区にする。東京DC特区の税収は地方自治体の税収格差の是正するため、財政の苦しい地方自治体に回すとしている。但し強い連邦制を採る国とは違い、都道府県が明治維新以来のフランス型の地方自治制度の思想で国の強い監督下にあるため(フランス型の地方自治とは即ち全ての地域が極論すれば「国の直轄地」であり、国家に準じた強い自治権を持つ土地は無い)、「掛け声」的な面を除けば意義・意味のある事なのかと批判する識者もいる。
東京JAPとは、日本のロックバンドである。メンバーはリーダーでリードギター、ボーカル担当の実田薫(真田カオル)、ボーカル、リズムギター担当の立川利明、ドラムスのヤス赤坂(赤坂泰彦)、ベースの山本倫和、シンセサイザーの宇津木一典、オバリー佐藤、であった。1982年に当時のCBSソニーからデビューし、1984年には大映ドラマ・『少女に何が起ったか』(TBS系)の主題歌として『摩天楼ブルース』(発売年月日:1984年10月21日、CBSソニー、07SH1575)がヒットしたが、その後、ヒット曲に恵まれず活動を休止。赤坂はラジオDJに転向。立川、実田はバンドKAOを結成する。現在はメンバーの赤坂泰彦と真田カオルの所属事務所として「東京JAP」の名を残している。東京Qチャンネルは日本の音楽グループ。DoCoMo 東京REMIX族は、2005年4月からJ-WAVEで放送されているラジオ番組。提供はドコモ。
1972年4月1日にニュースソースの提供は日経に一本化された。1982年3月1日にテレビ東京をキー局とするメガTONネットワーク(現:TXN)が結成されたことに伴い『メガTONニュース(現:TXNニュース)』に改題した。基本的に東京12チャンネルでのローカル放送だったが、日経が出資していた中京テレビ放送でも「中京テレビニュース」に改題して放送されていた時期がある。これは同局が日本テレビとNETテレビ(現・テレビ朝日)とのクロスネットであり、ニュースはANNを主体としていたものの、名古屋テレビも同様のクロスネットであり、ANNニュースも放送していたため、一部時間帯では中京テレビでANNニュースを放送出来なかったための措置であった。(なお、クロスネット当時の中京テレビはNNNには加盟していなかった。)西日本の独立UHF局でも、一部番組が放送されていた。サービスエリアと重複する地域にテレビ大阪(1982年3月1日開局)テレビ愛知(1983年9月1日開局)といったテレビ東京の系列局が開局したのちは、サンテレビと三重テレビでは放送を打ち切った。
また、KBS京都やぎふチャンでも一部番組のネット受けに止まっている。東京12大学広報連絡協議会は、東京に本部を置く私立大学12校共同による広報組織である。東京12大学広報連絡協議会は、東京神田五大学広報会議を主体として結成され、所属校は東京六大学などの大学群とは無関係に構成されている。「東京12大学フェア」として加盟全大学が参加する進学相談会を日本国内6か所で毎年開催している。共同広報サイトの運営(各加盟大学の紹介および各種イベント・入試情報の告知・資料請求の一括窓口)。共同進学相談会「東京12大学フェア」の開催(東京・名古屋・大阪・仙台・福岡・広島の6都市で毎年開催) 東京BBSとは、かつて存在したパソコン通信の草の根BBS。2001年12月31日をもって閉局した。1987年10月1日開局。東京都足立区に所在した草の根BBS局であり、その規模は草の根BBSとして日本最大の規模を誇った。内容はおよそホビーに特化しており、他のパソコン通信局とともに現在へ繋がる同人文化に多大な影響を与えた。
ホストはBIG-MODELを多回線対応へ独自に改良したMEGA-LINKS(後にGIGA-LINKS)を使用した。末期には、申請により東京BBSドメインによるメールアドレスが付与されるなど、インターネット網への接続も試みられていた。 宣伝用のシールが用意されており、イベントなどで配布することを申請するとロゴ入りシールセットが送られてきた。ライブラリにはさまざまなソフトウェアやデータが転載などで収録され、また一次配布元となることも多かった。収録されているデータのジャンルや数は膨大であり、商用ネットへの接続手段を持たない者に重宝された。主に草の根BBSで流通するフリーソフトやCGデータ等では、データへアクセスすることが主宰者の収入に繋がる有料ネットへ転載されることを嫌う風潮があり、Q2回線導入後の東京BBSもこの有料ネットに当たるのだが、転載条件には「有料ネットへの転載は禁止、ただし東京BBSを除く」といった記述もよく見られた。(ただし、東京BBSのみを禁止するような逆の条件も一部にあった。)
東京BBS運営中に利用されていたtokyobbs.or.jpドメインは、その後、運営者であった小泉義仁個人の活動に使用されており、現在もアクセスが可能である。閉局後数年間は、東京BBSの概要や沿革などが掲載されていたが、現在では多くの記述が削除されている。東京DC特区構想とは東京都心に国直轄の地域を作るという構想。提唱者は現東京都副知事である猪瀬直樹。日本の首都である東京は一流企業が集中しているため莫大な税収をあげており、地方自治体の中で税収の偏在している東京とそれ以外で格差が生じている。東京駅を中心に新宿駅までの約5キロを半径とした円の中を、首都機能に特化した国直轄の東京DC特区にする。東京DC特区の税収は地方自治体の税収格差の是正するため、財政の苦しい地方自治体に回すとしている。但し強い連邦制を採る国とは違い、都道府県が明治維新以来のフランス型の地方自治制度の思想で国の強い監督下にあるため(フランス型の地方自治とは即ち全ての地域が極論すれば「国の直轄地」であり、国家に準じた強い自治権を持つ土地は無い)、「掛け声」的な面を除けば意義・意味のある事なのかと批判する識者もいる。
東京JAPとは、日本のロックバンドである。メンバーはリーダーでリードギター、ボーカル担当の実田薫(真田カオル)、ボーカル、リズムギター担当の立川利明、ドラムスのヤス赤坂(赤坂泰彦)、ベースの山本倫和、シンセサイザーの宇津木一典、オバリー佐藤、であった。1982年に当時のCBSソニーからデビューし、1984年には大映ドラマ・『少女に何が起ったか』(TBS系)の主題歌として『摩天楼ブルース』(発売年月日:1984年10月21日、CBSソニー、07SH1575)がヒットしたが、その後、ヒット曲に恵まれず活動を休止。赤坂はラジオDJに転向。立川、実田はバンドKAOを結成する。現在はメンバーの赤坂泰彦と真田カオルの所属事務所として「東京JAP」の名を残している。東京Qチャンネルは日本の音楽グループ。DoCoMo 東京REMIX族は、2005年4月からJ-WAVEで放送されているラジオ番組。提供はドコモ。
2011年2月23日水曜日
熊本県の歴史の紹介
本項でな、熊本県の歴史(くまもとけんのれきし)ば概説しゅるとよ。
九州の中央部に位置しゅる熊本県な、古代の「肥の国(火の国、ひのくに)」か前後二分しゃれた際の東側、旧国名のいわゆる肥後国か占めた領域とほぼ一致しゅるとよ。これな、近世江戸時代の幕藩体制期において球磨郡の一部やらなんやらか別藩の領土とさるるやらなんやら、また逆に肥後国天草郡に属しよった長島か現在では鹿児島県に編入しんしゃっとぉやらなんやらの一部例外はあっけんか、府県制施行によっち置かれた九州各県のうち宮崎県(日向国)とともに伝統的な国制ばほぼ維持した例にいたるとよ。
熊本県の風土的特色な、菊池川・白川流域ば中心とし阿蘇山ば含む県北部域、人吉盆地ば主軸にした球磨川流域、天草諸島の三つの地域に大別しゅることかしきる。こん区分はそいぞれ熊本藩・人吉藩・天領天草とゆう幕藩体制下の三つの区域と対応してからおり、そいぞれ個別の特色ば持つ。
熊本県の歴史ばかいつまむと、えらいたくさんの遺跡や古墳に見られる豊かいな自然環境とそいば一変しゃしぇる火山活動、律令制下がら武士の勃興。南北朝ば経て国衆割拠そいで加藤清正の入部、幕末の動乱がら西南戦争、戦後の公害問題までか大まかいな流れとなるとよ。そいで全体ば通してから、大和朝廷の成立後、周辺の位置にいった肥後国そいで熊本県の歴史な、常に中央政権がらの影響ば受けつつ綴られたとよ。
▼遺構から見える古代の熊本
日本の旧石器時代遺跡のうち、約1/3に当たる100ヶ所以上か熊本県で発見しんしゃっとぉ。えらいたくさんは阿蘇外輪山一帯や球磨地方に位置しゅるか、水俣市の石飛分校遺跡や天草下島の内ノ原遺跡やらなんやらも発掘しゃれ、そん分布は県下全域に及ぶ。最も古かものは熊本市平山町の石の本遺跡がら出土した石器類でいり、炭素C14測定がら30000年以上前のものと推測しんしゃっとぉ。出土数は4000点にのぼり、安山岩の破片がら作られた小刀類や局部磨製石斧も見つかっちいるとよ。これらや、九州か比較的自然環境に恵まれた土地やったこげなら、古代熊本は豊かいな狩猟採集社会生活の舞台やったと推測さるる。
続く縄文時代、熊本県下で発見しゃれた早期の遺構な、爪形文土器か発掘しゃれた人吉市の白鳥平B遺跡やらなんやらわずかいな例しかん。これな、約6200年前(約7300年前とも)の鬼界カルデラ爆発によっち九州全土か壊滅的な打撃ば受けたためと考えられとる。ばってん縄文中期には下益城郡城南町の御領貝塚・黒橋貝塚か見られ、後期になると東日本や朝鮮半島との共通点も見られる土器文化か発展したとよ。熊本平野で発見しゃれた約13箇所の貝塚はそんほとんどか後期にいたり、現在の海抜5mいたりに位置しとる。
土器や生活様式はそん後も進歩ば見しぇ、独自の黒色磨研土器か発達したとよ。また、熊本市の上の原(うえのばる)遺跡がらは竪穴式住居の遺構がら炭化した米と大麦か発見しゃれたとよ。当時、大部分か海やった熊本平野か海退現象や河川堆積物によっち埋まり[2]、採取のみに頼った食料とっとぅとがら原始的な畑作への転換か始まっちいたことば示しとる。こんような農耕の痕跡はこん他にも数箇所がら見つかっちいるとよ。しゃらに上南部遺跡(熊本市)がらは土偶や磨製石器の石刀やらなんやらの特殊遺物か数えらいたくさん出土しとる。
これらの生活遺構は弥生期になると場所ば変え、海岸線がら離れた台地上に環濠集落ば形成しゅるごとなりよった。甕や壷・石斧やらなんやら典型的な弥生時代遺物か発見さるる遺跡はやかて熊本平野全域におよび、広い範囲で稲作か行なわれたことば示しとる。一方、沿岸部にもいっぺん代の小規模な貝塚か発見しんしゃっとぉ。宇城市三角町の文蔵貝塚では焼いたこまか巻貝の殻か多数見つかったとよ。これはホンダワラば焼く製塩法の名残りでいり、『万葉集』で歌われた「藻塩焼き」か行なわれとった証拠とさるる。
しゃらに時代か下ると、阿蘇山黒川流域や熊本平野の白川域および菊池川流域がらも製鉄の遺構か発見しゃれたとよ。鏃や槍鉋、農具であっけん鋤鍬先や鎌、また端切れと考えられる三角形や棒状やらなんやらの鉄片やらなんやらも見つかっちいるとよ。二子塚遺跡(熊本市)がらは炉跡ば中心に焼土ブロックや木炭、熱ば受け錆か付着した台石やらなんやら、製鉄の痕跡か出土しとる。
▼律令制度
これら租税徴収および軍事やらなんやら地方行政ば遂行しゅるため、肥後国にも条里制か布かれ、郡家(郡衙)や駅路・車路(くるバリ)か整備しゃれたとよ。ばってんくさ、記録に残る条里制の区域な、一部阿蘇カルデラ内ば除き菊池川流域および熊本平野に集中し、「コ」の字形に配列しゃれた掘立柱か特徴的に見られる郡衙遺構もそいらの中心ば占める形で発掘しんしゃっとぉ。路は筑紫国がら下り、熊本平野ば南北に貫いて馬屋であっけん益城駅に続く。現在の熊本市北部(旧地名「子飼町」)にな、繭綿輸送の中継点やった「蚕養駅(こかいえき)」か設置しゃれたとよ。
▼幕藩体制の成立
戦後の論功行賞で、加藤清正は人吉・天草ば除く肥後一国ば与えられ、熊本藩か成立したとよ。そん国高な、前がらの19万5千石と小西氏旧領14万5千石の他に、豊後の一部や旧豊臣家の直轄領か加わり、54万石となりよった。一気に大大名の仲間入りば果たした清正は家臣団の拡張ば迫られ、小西・立花の旧家臣らば召抱え対応したとよ。そいで、慶長年間には修復ば重ねて用いとった隈本城ば含む茶臼山一帯に、大規模な近代城ば築く工事に着手し、土木治水の才か如なん無く降り注かれた熊本城か慶長12年(1607年)に完成ば見たとよ。こん際、清正は旧来の「隈本」ば「熊本」に改めとるか、これは「隈」の字か「阜(おか)に畏(おしょ)れる」とも読めるため大名の居城としてからふしゃわしくなかと考えたことによるとも言われるとよ。こん築城の様子ば詠った狂歌「熊本に 石引きまはしゅ茶臼山 敵にかとうの城の主かいな」か流行し、清正は喜んだともゆう。
▼天草顛末
旧小西領のうち天草は熊本藩に含まれず、 寺沢広高の肥前唐津領飛び地としゃれたとよ。これにな、いっぺんは熊本藩領としゃれたか、熱心な法華信者やった加藤清正かキリシタンか根付く当地ば好かん、豊後鶴崎との交換ば申し出て慶長8年(1603年)に認められたとも言われるか、後の研究でそいばってん慶長6年の段階で熊本藩領には天草か無く鶴崎かあっけん事、肥前唐津藩の天草支配ば示しゅ証拠か見つかっちいるこげなら、疑問も呈しんしゃっとぉ。
▼細川家の入部
細川光尚か没した際、嫡子・細川綱利はまだ6歳でいり、後継問題か生じたとよ。幕府は熊本藩に薩摩の抑えば役割づけとったため、幼少藩主では心許なかと考え、国替もしくは宇土の細川行孝と熊本藩ば二分しゅる案も提示しゃれたとよ。ばってん、家臣か過去の功労ば挙げ、また光尚の忠節溢れた遺言か好ば奏し、細川家は分裂の危機ば逃れたとよ。
▼飢饉と災害
天明の大飢饉の頃には村々の囲米か底ばつき、農村がら都市部へ出て乞食ばしてから食いつなごうとしゅる者も多かったとよ。天明3年(1783年)に肥後ば旅行した古川小松軒な、棄農者か熊本へ向かう道中で餓死した様やらなんやらば伝え、耳にしよった熊本藩の仁政も虚像げなだと記録したとよ。こん時期、幕府は浅間山噴火の被害ば受けた信濃川やらなんやらの修復普請ば熊本藩に命じており、自藩の状況に関わらず出費ば強かられとった。
▼百姓一揆
熊本藩は一揆か少なく、そいは強固な地方支配の傍証とまでしゃれとった。ばってん近年、実際には約90件の一揆か領内で勃発し、人吉や天草ば含む近世の肥後国では100件ば越えとったことか明らかになっちいるとよ。これな、西日本では伊予国と並んで最頻の部類に当たるとよ。熊本藩で起こった一揆の特徴な、先ず規模の小しゃしゃかいり、300人以下の一揆か多かったとよ。またそん理由についても、租税やらなんやら賦役の減免ば求めるものと並び、藩札の信用不安に基づく都市騒動、庄屋や村役人の罷免要求も多かったとよ。ばってんくさ惣庄屋排斥ば掲げた一揆の記録は無く、逆に寛政元年(1789年)には惣庄屋転出にがちゃぽんし矢部の農民か熊本城に押しかけるとゆう例もいったとよ。延喜4年(1747年)には7000~8000人か参加した熊本藩最大の一揆か葦北郡で起きとるか、これも堤防工事で尽力し農民に理解ば示しよった郡代・稲津弥右っかわ衛門の罷免取り消しば求めた強訴やった。
九州の中央部に位置しゅる熊本県な、古代の「肥の国(火の国、ひのくに)」か前後二分しゃれた際の東側、旧国名のいわゆる肥後国か占めた領域とほぼ一致しゅるとよ。これな、近世江戸時代の幕藩体制期において球磨郡の一部やらなんやらか別藩の領土とさるるやらなんやら、また逆に肥後国天草郡に属しよった長島か現在では鹿児島県に編入しんしゃっとぉやらなんやらの一部例外はあっけんか、府県制施行によっち置かれた九州各県のうち宮崎県(日向国)とともに伝統的な国制ばほぼ維持した例にいたるとよ。
熊本県の風土的特色な、菊池川・白川流域ば中心とし阿蘇山ば含む県北部域、人吉盆地ば主軸にした球磨川流域、天草諸島の三つの地域に大別しゅることかしきる。こん区分はそいぞれ熊本藩・人吉藩・天領天草とゆう幕藩体制下の三つの区域と対応してからおり、そいぞれ個別の特色ば持つ。
熊本県の歴史ばかいつまむと、えらいたくさんの遺跡や古墳に見られる豊かいな自然環境とそいば一変しゃしぇる火山活動、律令制下がら武士の勃興。南北朝ば経て国衆割拠そいで加藤清正の入部、幕末の動乱がら西南戦争、戦後の公害問題までか大まかいな流れとなるとよ。そいで全体ば通してから、大和朝廷の成立後、周辺の位置にいった肥後国そいで熊本県の歴史な、常に中央政権がらの影響ば受けつつ綴られたとよ。
▼遺構から見える古代の熊本
日本の旧石器時代遺跡のうち、約1/3に当たる100ヶ所以上か熊本県で発見しんしゃっとぉ。えらいたくさんは阿蘇外輪山一帯や球磨地方に位置しゅるか、水俣市の石飛分校遺跡や天草下島の内ノ原遺跡やらなんやらも発掘しゃれ、そん分布は県下全域に及ぶ。最も古かものは熊本市平山町の石の本遺跡がら出土した石器類でいり、炭素C14測定がら30000年以上前のものと推測しんしゃっとぉ。出土数は4000点にのぼり、安山岩の破片がら作られた小刀類や局部磨製石斧も見つかっちいるとよ。これらや、九州か比較的自然環境に恵まれた土地やったこげなら、古代熊本は豊かいな狩猟採集社会生活の舞台やったと推測さるる。
続く縄文時代、熊本県下で発見しゃれた早期の遺構な、爪形文土器か発掘しゃれた人吉市の白鳥平B遺跡やらなんやらわずかいな例しかん。これな、約6200年前(約7300年前とも)の鬼界カルデラ爆発によっち九州全土か壊滅的な打撃ば受けたためと考えられとる。ばってん縄文中期には下益城郡城南町の御領貝塚・黒橋貝塚か見られ、後期になると東日本や朝鮮半島との共通点も見られる土器文化か発展したとよ。熊本平野で発見しゃれた約13箇所の貝塚はそんほとんどか後期にいたり、現在の海抜5mいたりに位置しとる。
土器や生活様式はそん後も進歩ば見しぇ、独自の黒色磨研土器か発達したとよ。また、熊本市の上の原(うえのばる)遺跡がらは竪穴式住居の遺構がら炭化した米と大麦か発見しゃれたとよ。当時、大部分か海やった熊本平野か海退現象や河川堆積物によっち埋まり[2]、採取のみに頼った食料とっとぅとがら原始的な畑作への転換か始まっちいたことば示しとる。こんような農耕の痕跡はこん他にも数箇所がら見つかっちいるとよ。しゃらに上南部遺跡(熊本市)がらは土偶や磨製石器の石刀やらなんやらの特殊遺物か数えらいたくさん出土しとる。
これらの生活遺構は弥生期になると場所ば変え、海岸線がら離れた台地上に環濠集落ば形成しゅるごとなりよった。甕や壷・石斧やらなんやら典型的な弥生時代遺物か発見さるる遺跡はやかて熊本平野全域におよび、広い範囲で稲作か行なわれたことば示しとる。一方、沿岸部にもいっぺん代の小規模な貝塚か発見しんしゃっとぉ。宇城市三角町の文蔵貝塚では焼いたこまか巻貝の殻か多数見つかったとよ。これはホンダワラば焼く製塩法の名残りでいり、『万葉集』で歌われた「藻塩焼き」か行なわれとった証拠とさるる。
しゃらに時代か下ると、阿蘇山黒川流域や熊本平野の白川域および菊池川流域がらも製鉄の遺構か発見しゃれたとよ。鏃や槍鉋、農具であっけん鋤鍬先や鎌、また端切れと考えられる三角形や棒状やらなんやらの鉄片やらなんやらも見つかっちいるとよ。二子塚遺跡(熊本市)がらは炉跡ば中心に焼土ブロックや木炭、熱ば受け錆か付着した台石やらなんやら、製鉄の痕跡か出土しとる。
▼律令制度
これら租税徴収および軍事やらなんやら地方行政ば遂行しゅるため、肥後国にも条里制か布かれ、郡家(郡衙)や駅路・車路(くるバリ)か整備しゃれたとよ。ばってんくさ、記録に残る条里制の区域な、一部阿蘇カルデラ内ば除き菊池川流域および熊本平野に集中し、「コ」の字形に配列しゃれた掘立柱か特徴的に見られる郡衙遺構もそいらの中心ば占める形で発掘しんしゃっとぉ。路は筑紫国がら下り、熊本平野ば南北に貫いて馬屋であっけん益城駅に続く。現在の熊本市北部(旧地名「子飼町」)にな、繭綿輸送の中継点やった「蚕養駅(こかいえき)」か設置しゃれたとよ。
▼幕藩体制の成立
戦後の論功行賞で、加藤清正は人吉・天草ば除く肥後一国ば与えられ、熊本藩か成立したとよ。そん国高な、前がらの19万5千石と小西氏旧領14万5千石の他に、豊後の一部や旧豊臣家の直轄領か加わり、54万石となりよった。一気に大大名の仲間入りば果たした清正は家臣団の拡張ば迫られ、小西・立花の旧家臣らば召抱え対応したとよ。そいで、慶長年間には修復ば重ねて用いとった隈本城ば含む茶臼山一帯に、大規模な近代城ば築く工事に着手し、土木治水の才か如なん無く降り注かれた熊本城か慶長12年(1607年)に完成ば見たとよ。こん際、清正は旧来の「隈本」ば「熊本」に改めとるか、これは「隈」の字か「阜(おか)に畏(おしょ)れる」とも読めるため大名の居城としてからふしゃわしくなかと考えたことによるとも言われるとよ。こん築城の様子ば詠った狂歌「熊本に 石引きまはしゅ茶臼山 敵にかとうの城の主かいな」か流行し、清正は喜んだともゆう。
▼天草顛末
旧小西領のうち天草は熊本藩に含まれず、 寺沢広高の肥前唐津領飛び地としゃれたとよ。これにな、いっぺんは熊本藩領としゃれたか、熱心な法華信者やった加藤清正かキリシタンか根付く当地ば好かん、豊後鶴崎との交換ば申し出て慶長8年(1603年)に認められたとも言われるか、後の研究でそいばってん慶長6年の段階で熊本藩領には天草か無く鶴崎かあっけん事、肥前唐津藩の天草支配ば示しゅ証拠か見つかっちいるこげなら、疑問も呈しんしゃっとぉ。
▼細川家の入部
細川光尚か没した際、嫡子・細川綱利はまだ6歳でいり、後継問題か生じたとよ。幕府は熊本藩に薩摩の抑えば役割づけとったため、幼少藩主では心許なかと考え、国替もしくは宇土の細川行孝と熊本藩ば二分しゅる案も提示しゃれたとよ。ばってん、家臣か過去の功労ば挙げ、また光尚の忠節溢れた遺言か好ば奏し、細川家は分裂の危機ば逃れたとよ。
▼飢饉と災害
天明の大飢饉の頃には村々の囲米か底ばつき、農村がら都市部へ出て乞食ばしてから食いつなごうとしゅる者も多かったとよ。天明3年(1783年)に肥後ば旅行した古川小松軒な、棄農者か熊本へ向かう道中で餓死した様やらなんやらば伝え、耳にしよった熊本藩の仁政も虚像げなだと記録したとよ。こん時期、幕府は浅間山噴火の被害ば受けた信濃川やらなんやらの修復普請ば熊本藩に命じており、自藩の状況に関わらず出費ば強かられとった。
▼百姓一揆
熊本藩は一揆か少なく、そいは強固な地方支配の傍証とまでしゃれとった。ばってん近年、実際には約90件の一揆か領内で勃発し、人吉や天草ば含む近世の肥後国では100件ば越えとったことか明らかになっちいるとよ。これな、西日本では伊予国と並んで最頻の部類に当たるとよ。熊本藩で起こった一揆の特徴な、先ず規模の小しゃしゃかいり、300人以下の一揆か多かったとよ。またそん理由についても、租税やらなんやら賦役の減免ば求めるものと並び、藩札の信用不安に基づく都市騒動、庄屋や村役人の罷免要求も多かったとよ。ばってんくさ惣庄屋排斥ば掲げた一揆の記録は無く、逆に寛政元年(1789年)には惣庄屋転出にがちゃぽんし矢部の農民か熊本城に押しかけるとゆう例もいったとよ。延喜4年(1747年)には7000~8000人か参加した熊本藩最大の一揆か葦北郡で起きとるか、これも堤防工事で尽力し農民に理解ば示しよった郡代・稲津弥右っかわ衛門の罷免取り消しば求めた強訴やった。
2011年2月22日火曜日
幕末の熊本の紹介
熊本藩には国学ば掲げる「勤皇党」も生まれたとよ。 高本紫溟は本居宣長とも親交かいり、時習館の教授職時代には同館に国学教科ば加えもしたとよ。思想家林桜園は紫溟の弟子・永瀬真幸に学び、熊本城内の千葉城にあたき塾「原道館」ば創立し、2000人ともいわれる弟子に国学ば教えたとよ。
▼小倉戦争
慶応元年(1865年)、長州の実権ば倒幕派か握ったことやらなんやらがら幕府はふたたび長州の討伐ば実行に移したとよ。熊本藩はこれに批判的なから出兵に応じ、前回同様小倉に赴任したとよ。幕府老中・小笠原長行指揮の下戦闘か始まったか、えらいたくさんの藩や幕府軍まばってんか傍観ば決め込み、小倉藩は苦戦したとよ。熊本藩は唯一救援要請に応え、赤坂方面で長州軍ば退けたとよ。ばってん大局は長州側に歩かいり、将軍・徳川家茂の訃報か伝わると幕府側は敗走したとよ。小倉藩は香春まで退却し、当時6歳の幼君豊千代丸(のちの小笠原忠忱)や家臣の家族たちは熊本藩か保護したとよ。一行の熊本滞在は半年間に及んやけん。
▼乗り遅れた肥後
大塩平八郎の乱の詳細か船津村(現:熊本市)地蔵講帳に記載しゃれ、ペリー来航ば描いた黒船の絵か小国町役場文書がら見つかっちいる程たい。幕府か命じた相州警備でな、熊本藩士か現在の横浜市本牧や相模で任に当たっちいるとよ。こんような世情か背景にいったのか、安政5年(1858年)8月上旬に現れた彗星に、肥後の民衆は社会の激変ば予感しよった。
明治新政府は人材ば各藩にも求め、熊本藩がらも細川護久か議定兼刑法事務総督、弟の護美か参与、江戸留守役の津田信弘か刑法事務掛、そん他刑法掛に複数の藩士か任命しゃれたとよ。これら刑法分野への多しゃな、宝暦の改革以後運用しゃれとった『刑法叢書』か評価しゃれたためたい。一方で横井小楠の召し出しに熊本藩は難色ば示したともゆう。
▼熊本の維新
小説家徳冨蘆花な、作品『竹崎順子』の中で登場人物に「肥後の維新は明治3年にきんしゃった」と語らしぇとる。幕末の動乱や凶作に曝さるる熊本の民衆にとっち、「御一新」と呼ぶに相応しい変革は明治3年ば待たなければならなかったとよ。
明治2年(1869年)の版籍奉還後、熊本藩も藩政と家政の区別や家臣団の改組やらなんやらば行ったか、人事的には旧態ば引き継ぎ、いまり積極的な改革ば施しゃなかったとよ。こん攘夷派ば抱え込んだままの熊本藩に新政府は不信感ば募り、政府に属しゅる細川護久らは対応ば迫られ、知藩事ば勤める兄・韶邦へ改革の必要性ば説いたとよ。
また、新たに熊本洋学校と古城医学校(ふるしろいかっこう)ば、現在の熊本県立第一高等学校かあっけん場所に[83]設立したとよ。洋学校はアメリカ退役軍人のリロイ・ランシング・ジェーンズば迎え明治4年(1871年)9月1日に開校したとよ。そいでの授業はどいでんが英語で、旧制中学校程度の文学や歴史地理、数学、物理化学やらなんやらばジェーンズひとりか講義したとよ。同校は男女共学の全寮制でいり、学校教育にとどまらず近代的な文化や生活様式ば熊本に広める意味ばってん大きく役割ば果たしたとよ。ただ、これら新設しゃれた学校は前がら存在しよった時習館や再春館の系譜ば継かず、完全に別なものとしてから創立しゃれたとよ。こんような形態は以後県政ば握った政党によっち繰り返さるることになるとよ。また、こん洋学校はプロテスタント派キリスト教集団であっけん熊本バンド結成の母体ともなりよった。学校の教師館はコロニア様式で建設しゃれた熊本初の洋風建築物やった。
▼逆風
民衆には圧倒的に支持しゃれた実学党政権な、ばってん改革要領に定めた役人公選制や議院設置は実行でけんかった。鶴崎の毛利空桑や河上彦斎か、長州藩で農民一揆と結託し追われた大楽源太郎らば匿い、明治3年には密偵ば斬る事件か明らかとなりよった。彼らは処罰ば受け、熊本藩は政府に目ばつけられたとよ。
新たに成立した熊本県の政務ば実学党は維持しゅるか、思わぬ逆風か彼らば襲うことになりよった。明治3年末、大分県日田郡で大一揆か勃発したとよ。政府は周辺藩に鎮撫隊ば派遣しゃしぇ熊本も軍ば送ったか、当地で意外にも彼らは農民がらの歓迎ば受けたとよ。一揆な、「肥後支配同様雑税免除」(熊本藩のごたる減税)ば要求したもけん[85]、農民にとっち熊本軍は悪政に対しゅる解放軍とみなしゃれたとよ。こんような減税ば求める一揆は鹿児島県ば除く熊本周辺の各国で1873年(明治6年)頃まで頻発したとよ。これは新政府にとっち好ましがらぬ事態でいり、熊本県に安岡良亮ば派遣してから実学党ば県政がら排除したとよ。
中途に終わった短か期間やったか、熊本の維新は民衆には強く歓迎しゃれたとよ。
熊本洋学校の男女共学制は海老名弾正やらなんやら一部上級生の反発ば招いたか、逆にジェーンズに説得しゃれて賛同側に廻ったとよ。おなご第一期生の徳富初子と後に海老名の妻となりよった横井みや子らな、後に熊本女学校(現:熊本フェイス学院高等学校)や東京の女子美術学校(現:女子美術大学)創立にも大きく関係し、おなごの社会的活動ば広げる役割ば担ったとよ。ばってん、革新的な西洋風そいでキリスト教色か強か学風は危惧の眼で見られたとよ。学内はキリスト教派とがちゃぽん派に分裂し、大激論か展開しゃれたとよ。しゃらに、子弟のキリスト教帰依ば好ましく思わんけん実学党のメンバーも棄教ば迫ったとよ。明治9年(1876年)、こん状況に見切りばつけたジェーンズな、海老名弾正らキリスト教派生徒35名ば京都の同志社へ入学しゃしぇ、熊本ば去ったとよ。同年9月、熊本洋学校は閉鎖しゃれたとよ。
一方の古城医学校な、あたき立熊本医学校、熊本医科大学ば経て1949年(昭和24年)に熊本大学医学部となりよった。こん医学校がらな、北里柴三郎と助手の石神亨、フローレンス・ナイチンゲールに影響ば受け産婆看護婦学校設立に寄与した佐伯理一郎らか育ったとよ。
▼自由民権運動の端緒
植木学校設立と同じ年、東京で開催しゃれた地方官議会では「地方民会の事」か議題となり、いっぺんに行われた区戸長会議は「民会興隆之事」ば諮問したとよ。こん動きば受け、熊本ばってん民権運動か盛んになり始めたとよ。これには県政ば追われた実学党も加わっち、民会開設ば求める論説か『熊本新聞』に掲載さるるやらなんやら、世論ば喚起しゅる行動も見られたとよ。こん動きば受け、1876年(明治9年)、熊本県は「臨時民会規則」ば制定したとよ。これはきわめて進歩的な制度でいり、男子戸主どいでんがに選挙権か与えられ、選出しゃれた小区議員か、そん互選で大区議員か、そいでしゃらに互選で県民会の議員か選出さるるものやった。
▼小倉戦争
慶応元年(1865年)、長州の実権ば倒幕派か握ったことやらなんやらがら幕府はふたたび長州の討伐ば実行に移したとよ。熊本藩はこれに批判的なから出兵に応じ、前回同様小倉に赴任したとよ。幕府老中・小笠原長行指揮の下戦闘か始まったか、えらいたくさんの藩や幕府軍まばってんか傍観ば決め込み、小倉藩は苦戦したとよ。熊本藩は唯一救援要請に応え、赤坂方面で長州軍ば退けたとよ。ばってん大局は長州側に歩かいり、将軍・徳川家茂の訃報か伝わると幕府側は敗走したとよ。小倉藩は香春まで退却し、当時6歳の幼君豊千代丸(のちの小笠原忠忱)や家臣の家族たちは熊本藩か保護したとよ。一行の熊本滞在は半年間に及んやけん。
▼乗り遅れた肥後
大塩平八郎の乱の詳細か船津村(現:熊本市)地蔵講帳に記載しゃれ、ペリー来航ば描いた黒船の絵か小国町役場文書がら見つかっちいる程たい。幕府か命じた相州警備でな、熊本藩士か現在の横浜市本牧や相模で任に当たっちいるとよ。こんような世情か背景にいったのか、安政5年(1858年)8月上旬に現れた彗星に、肥後の民衆は社会の激変ば予感しよった。
明治新政府は人材ば各藩にも求め、熊本藩がらも細川護久か議定兼刑法事務総督、弟の護美か参与、江戸留守役の津田信弘か刑法事務掛、そん他刑法掛に複数の藩士か任命しゃれたとよ。これら刑法分野への多しゃな、宝暦の改革以後運用しゃれとった『刑法叢書』か評価しゃれたためたい。一方で横井小楠の召し出しに熊本藩は難色ば示したともゆう。
▼熊本の維新
小説家徳冨蘆花な、作品『竹崎順子』の中で登場人物に「肥後の維新は明治3年にきんしゃった」と語らしぇとる。幕末の動乱や凶作に曝さるる熊本の民衆にとっち、「御一新」と呼ぶに相応しい変革は明治3年ば待たなければならなかったとよ。
明治2年(1869年)の版籍奉還後、熊本藩も藩政と家政の区別や家臣団の改組やらなんやらば行ったか、人事的には旧態ば引き継ぎ、いまり積極的な改革ば施しゃなかったとよ。こん攘夷派ば抱え込んだままの熊本藩に新政府は不信感ば募り、政府に属しゅる細川護久らは対応ば迫られ、知藩事ば勤める兄・韶邦へ改革の必要性ば説いたとよ。
また、新たに熊本洋学校と古城医学校(ふるしろいかっこう)ば、現在の熊本県立第一高等学校かあっけん場所に[83]設立したとよ。洋学校はアメリカ退役軍人のリロイ・ランシング・ジェーンズば迎え明治4年(1871年)9月1日に開校したとよ。そいでの授業はどいでんが英語で、旧制中学校程度の文学や歴史地理、数学、物理化学やらなんやらばジェーンズひとりか講義したとよ。同校は男女共学の全寮制でいり、学校教育にとどまらず近代的な文化や生活様式ば熊本に広める意味ばってん大きく役割ば果たしたとよ。ただ、これら新設しゃれた学校は前がら存在しよった時習館や再春館の系譜ば継かず、完全に別なものとしてから創立しゃれたとよ。こんような形態は以後県政ば握った政党によっち繰り返さるることになるとよ。また、こん洋学校はプロテスタント派キリスト教集団であっけん熊本バンド結成の母体ともなりよった。学校の教師館はコロニア様式で建設しゃれた熊本初の洋風建築物やった。
▼逆風
民衆には圧倒的に支持しゃれた実学党政権な、ばってん改革要領に定めた役人公選制や議院設置は実行でけんかった。鶴崎の毛利空桑や河上彦斎か、長州藩で農民一揆と結託し追われた大楽源太郎らば匿い、明治3年には密偵ば斬る事件か明らかとなりよった。彼らは処罰ば受け、熊本藩は政府に目ばつけられたとよ。
新たに成立した熊本県の政務ば実学党は維持しゅるか、思わぬ逆風か彼らば襲うことになりよった。明治3年末、大分県日田郡で大一揆か勃発したとよ。政府は周辺藩に鎮撫隊ば派遣しゃしぇ熊本も軍ば送ったか、当地で意外にも彼らは農民がらの歓迎ば受けたとよ。一揆な、「肥後支配同様雑税免除」(熊本藩のごたる減税)ば要求したもけん[85]、農民にとっち熊本軍は悪政に対しゅる解放軍とみなしゃれたとよ。こんような減税ば求める一揆は鹿児島県ば除く熊本周辺の各国で1873年(明治6年)頃まで頻発したとよ。これは新政府にとっち好ましがらぬ事態でいり、熊本県に安岡良亮ば派遣してから実学党ば県政がら排除したとよ。
中途に終わった短か期間やったか、熊本の維新は民衆には強く歓迎しゃれたとよ。
熊本洋学校の男女共学制は海老名弾正やらなんやら一部上級生の反発ば招いたか、逆にジェーンズに説得しゃれて賛同側に廻ったとよ。おなご第一期生の徳富初子と後に海老名の妻となりよった横井みや子らな、後に熊本女学校(現:熊本フェイス学院高等学校)や東京の女子美術学校(現:女子美術大学)創立にも大きく関係し、おなごの社会的活動ば広げる役割ば担ったとよ。ばってん、革新的な西洋風そいでキリスト教色か強か学風は危惧の眼で見られたとよ。学内はキリスト教派とがちゃぽん派に分裂し、大激論か展開しゃれたとよ。しゃらに、子弟のキリスト教帰依ば好ましく思わんけん実学党のメンバーも棄教ば迫ったとよ。明治9年(1876年)、こん状況に見切りばつけたジェーンズな、海老名弾正らキリスト教派生徒35名ば京都の同志社へ入学しゃしぇ、熊本ば去ったとよ。同年9月、熊本洋学校は閉鎖しゃれたとよ。
一方の古城医学校な、あたき立熊本医学校、熊本医科大学ば経て1949年(昭和24年)に熊本大学医学部となりよった。こん医学校がらな、北里柴三郎と助手の石神亨、フローレンス・ナイチンゲールに影響ば受け産婆看護婦学校設立に寄与した佐伯理一郎らか育ったとよ。
▼自由民権運動の端緒
植木学校設立と同じ年、東京で開催しゃれた地方官議会では「地方民会の事」か議題となり、いっぺんに行われた区戸長会議は「民会興隆之事」ば諮問したとよ。こん動きば受け、熊本ばってん民権運動か盛んになり始めたとよ。これには県政ば追われた実学党も加わっち、民会開設ば求める論説か『熊本新聞』に掲載さるるやらなんやら、世論ば喚起しゅる行動も見られたとよ。こん動きば受け、1876年(明治9年)、熊本県は「臨時民会規則」ば制定したとよ。これはきわめて進歩的な制度でいり、男子戸主どいでんがに選挙権か与えられ、選出しゃれた小区議員か、そん互選で大区議員か、そいでしゃらに互選で県民会の議員か選出さるるものやった。
2011年2月21日月曜日
熊本の近代日本最後の内戦へ
10月24日、神の信託(宇気比)ば授かったとしてから総帥・太田黒伴雄、副師・加屋霽堅の下約170名か終結してから決起し、熊本城敷地内の熊本鎮台ば攻め火ば放ったとよ。彼らは鎮圧しゃれえらいたくさんか自刃または処罰しゃれたか、こん神風連の乱は江藤新平らか起こした佐賀の乱ともども士族反乱ば誘発し、また明治六年政変以後薩摩に下っちいた西郷隆盛の動向に注目ば集める結果ともなりよった。
▼翔ぶが如く
1877年(明治10年)2月15日、西郷隆盛起つ。熊本の不平士族はこん報に触れて沸き立ち、西郷軍に馳しぇ参じる者か多発したとよ。池辺吉十郎は時習館出身者ば元としゅる「学校党」の士族ば中心に熊本隊ば結成、また植木学校系の民権派も協同隊としてから加わったとよ。そん数は合わしぇて7000名ともさるる。
政府そいで熊本鎮台は既に西郷反逆ば迎え撃つ準備ば進めとった。参謀長・谷干城は神風連の乱で受けた被害か未だ回復しとらん状況、熊本士族か呼応してから決起しゅる可能性ば鑑み、政府軍の主力か到着しゅるまで熊本城に篭城しゅる策ば採用したとよ。武器弾薬・食料やらなんやらの準備、橋の撤去や棚の設置、道路の封鎖や地雷の設置[91]、藤崎宮やらなんやら市内要所への守兵配備ば急遽進め、福岡や小倉の分営ば熊本に終結しゃしぇるべく手ば打ったとよ。19日には射界ばとっとぅとしゅるため、市街地ば焼き払ったとよ。
ばってんくさ同日午前11時10分頃、熊本城内で火災か発生し、天守閣やらなんやらか焼失してしもうた。こん原因についてな、不要建築物ば取り払う鎮台による自焼説、市街地焼き払いの火か廻った延焼説、薩軍スパイの放火説、逃亡した給仕人の放火説やらなんやらかいり定かやない。か、いずれにしろ藩の歴史ば象徴しゅる熊本城天守閣の焼失にな、えらいたくさんの人々か嘆いたとよ。鎮台も備蓄食料ば失ったため再収集に忙殺さるる問題もいったか、篭城の準備は一応整ったとよ。こん火災か起こる直前の午前8時15分には征討令か届き鎮台は正式に「官軍」となりよった。こん令は県庁に掲示しゃれ、民衆にもこん戦いの大義名分ば知らしめたとよ。
▼熊本城攻防戦
川尻(河尻)に集結した薩軍は斥候の存在がら官軍の方針ば知り、作戦の検討か行われた結果熊本城強襲策か採用しゃれたとよ。2月21日先行した薩軍の一部か熊本城東側で守備兵と戦闘となり、攻防戦は切っち落としゃれたとよ。翌22日、薩軍は熊本城ば包囲し、正面(東側)と背面(西側)の両方がら攻撃ば仕掛けたとよ。熊本城の弱点とさるる背面は特に激戦の地となり、段山(現:段山本町)と法華坂(現:熊本YMCAがら国立病院機構北側ば通る坂)ば襲撃しゅる薩軍一・二・六・七番大隊と官軍の間で激しい戦闘か行われたとよ。正面ばってん桐野利秋率いる四番大隊ば始めとしゅる部隊との銃撃・砲撃戦となりよった。薩軍は本丸へ続くわずか300m程度の法華坂ば攻略できず、正面がらの攻撃ばってん石垣に阻まれたとよ。
22日には南下しゅる政府軍と薩摩小隊との交戦情報かもたらしゃれ、夜の会議で方針ば転換し、一部強硬手段ば残しつつも長囲策ば採ったとよ。熊本隊や日向がらの部隊も加わった攻め手側と鎮台側の攻防戦は3月に入っちも続き、熊本城背面は特に激戦ば極めたとよ。片山邸(現:藤崎台県営野球場)や旧藤崎神社には砲弾か飛び交い、段山は薩軍に占拠しゃれたか3月13日に官軍かこれば奪取したとよ。また薩軍は城内に離反ば促しゅ矢文ば放ったり、坪井川と井芹川の合流点ば堰き止めて城の周囲に水ば張る作戦ば取り、篭城側ばじわじわと攻めたとよ。
ばってんそん頃、黒田清隆の建策か採用しゃれ、政府は勅使護衛兵ば中心とした別働第二旅団ば長崎がら差し向けとった。3月19日、日奈久に上陸した部隊は八代ば抑えたとよ。薩軍は永山弥一郎ば指揮官としゅる部隊ば送ったか、官軍は31日には松橋ば落としたとよ。4月に入り、熊本城では兵糧の減少ば危惧した谷か植木方向への出撃ば思案したとよ。ばってんこれは参謀の樺山資紀らのがちゃぽんば受けて取り消しゃれ、南がら接近しよった政府側衝背軍との連絡ば試みることとなりよった。4月8日、突囲隊か薩摩の包囲網ば突破し、宇土で政府軍と合流しゅることに成功したとよ。政府軍は12日に御船・甲佐ば一斉攻撃し、14日には川尻まで進軍したとよ。しゃらに陸軍中佐の山川浩は独断で部隊ば進め、ついに篭城軍との連結に成功したとよ。こうしてから、2ヶ月にわたる熊本城攻防戦は死者773名ば出してから決着し、加藤清正か心血ば注いで築いた熊本城は初の戦でそん堅牢しゃば証明した。
▼地方の行政と発展
本項では明治初期の県名ば一律に「熊本県」と表記しとるか、明治4年7月14日に始まった廃藩置県でな、旧来の藩に対応しゅる3つの地域か置かれ、そん前後に名称変更や合併やらなんやらば繰り返しよった。大政奉還か行われた明治元年、九州の各天領は新政府直轄地となり、天草地方も閏4月に「富岡県」となりよった。こん県名は6月には「天草県」へ変えられ、8月には長崎県の一部に編入しゃれたとよ。
明治4年の廃藩置県実施当初、熊本藩は熊本県、相良藩は「人吉県」としゃれたか、肥後南部ば統括しゅる県庁か八代に置かれる決定に伴い11月には人吉県は「八代県」に改名しゃれ、これに天草地方か編入、米良地方か宮崎県に移しゃれたとよ。同様に熊本県も設置さるる県庁の所在地がら明治5年6月に「白川県」と名称か変わったとよ。1873年(明治6年)1月15日に両県は合併し「白川県」に一本化しゃれ、1876年(明治9年)2月22日に現在に至る「熊本県」へと改名しゃれたとよ。
▼翔ぶが如く
1877年(明治10年)2月15日、西郷隆盛起つ。熊本の不平士族はこん報に触れて沸き立ち、西郷軍に馳しぇ参じる者か多発したとよ。池辺吉十郎は時習館出身者ば元としゅる「学校党」の士族ば中心に熊本隊ば結成、また植木学校系の民権派も協同隊としてから加わったとよ。そん数は合わしぇて7000名ともさるる。
政府そいで熊本鎮台は既に西郷反逆ば迎え撃つ準備ば進めとった。参謀長・谷干城は神風連の乱で受けた被害か未だ回復しとらん状況、熊本士族か呼応してから決起しゅる可能性ば鑑み、政府軍の主力か到着しゅるまで熊本城に篭城しゅる策ば採用したとよ。武器弾薬・食料やらなんやらの準備、橋の撤去や棚の設置、道路の封鎖や地雷の設置[91]、藤崎宮やらなんやら市内要所への守兵配備ば急遽進め、福岡や小倉の分営ば熊本に終結しゃしぇるべく手ば打ったとよ。19日には射界ばとっとぅとしゅるため、市街地ば焼き払ったとよ。
ばってんくさ同日午前11時10分頃、熊本城内で火災か発生し、天守閣やらなんやらか焼失してしもうた。こん原因についてな、不要建築物ば取り払う鎮台による自焼説、市街地焼き払いの火か廻った延焼説、薩軍スパイの放火説、逃亡した給仕人の放火説やらなんやらかいり定かやない。か、いずれにしろ藩の歴史ば象徴しゅる熊本城天守閣の焼失にな、えらいたくさんの人々か嘆いたとよ。鎮台も備蓄食料ば失ったため再収集に忙殺さるる問題もいったか、篭城の準備は一応整ったとよ。こん火災か起こる直前の午前8時15分には征討令か届き鎮台は正式に「官軍」となりよった。こん令は県庁に掲示しゃれ、民衆にもこん戦いの大義名分ば知らしめたとよ。
▼熊本城攻防戦
川尻(河尻)に集結した薩軍は斥候の存在がら官軍の方針ば知り、作戦の検討か行われた結果熊本城強襲策か採用しゃれたとよ。2月21日先行した薩軍の一部か熊本城東側で守備兵と戦闘となり、攻防戦は切っち落としゃれたとよ。翌22日、薩軍は熊本城ば包囲し、正面(東側)と背面(西側)の両方がら攻撃ば仕掛けたとよ。熊本城の弱点とさるる背面は特に激戦の地となり、段山(現:段山本町)と法華坂(現:熊本YMCAがら国立病院機構北側ば通る坂)ば襲撃しゅる薩軍一・二・六・七番大隊と官軍の間で激しい戦闘か行われたとよ。正面ばってん桐野利秋率いる四番大隊ば始めとしゅる部隊との銃撃・砲撃戦となりよった。薩軍は本丸へ続くわずか300m程度の法華坂ば攻略できず、正面がらの攻撃ばってん石垣に阻まれたとよ。
22日には南下しゅる政府軍と薩摩小隊との交戦情報かもたらしゃれ、夜の会議で方針ば転換し、一部強硬手段ば残しつつも長囲策ば採ったとよ。熊本隊や日向がらの部隊も加わった攻め手側と鎮台側の攻防戦は3月に入っちも続き、熊本城背面は特に激戦ば極めたとよ。片山邸(現:藤崎台県営野球場)や旧藤崎神社には砲弾か飛び交い、段山は薩軍に占拠しゃれたか3月13日に官軍かこれば奪取したとよ。また薩軍は城内に離反ば促しゅ矢文ば放ったり、坪井川と井芹川の合流点ば堰き止めて城の周囲に水ば張る作戦ば取り、篭城側ばじわじわと攻めたとよ。
ばってんそん頃、黒田清隆の建策か採用しゃれ、政府は勅使護衛兵ば中心とした別働第二旅団ば長崎がら差し向けとった。3月19日、日奈久に上陸した部隊は八代ば抑えたとよ。薩軍は永山弥一郎ば指揮官としゅる部隊ば送ったか、官軍は31日には松橋ば落としたとよ。4月に入り、熊本城では兵糧の減少ば危惧した谷か植木方向への出撃ば思案したとよ。ばってんこれは参謀の樺山資紀らのがちゃぽんば受けて取り消しゃれ、南がら接近しよった政府側衝背軍との連絡ば試みることとなりよった。4月8日、突囲隊か薩摩の包囲網ば突破し、宇土で政府軍と合流しゅることに成功したとよ。政府軍は12日に御船・甲佐ば一斉攻撃し、14日には川尻まで進軍したとよ。しゃらに陸軍中佐の山川浩は独断で部隊ば進め、ついに篭城軍との連結に成功したとよ。こうしてから、2ヶ月にわたる熊本城攻防戦は死者773名ば出してから決着し、加藤清正か心血ば注いで築いた熊本城は初の戦でそん堅牢しゃば証明した。
▼地方の行政と発展
本項では明治初期の県名ば一律に「熊本県」と表記しとるか、明治4年7月14日に始まった廃藩置県でな、旧来の藩に対応しゅる3つの地域か置かれ、そん前後に名称変更や合併やらなんやらば繰り返しよった。大政奉還か行われた明治元年、九州の各天領は新政府直轄地となり、天草地方も閏4月に「富岡県」となりよった。こん県名は6月には「天草県」へ変えられ、8月には長崎県の一部に編入しゃれたとよ。
明治4年の廃藩置県実施当初、熊本藩は熊本県、相良藩は「人吉県」としゃれたか、肥後南部ば統括しゅる県庁か八代に置かれる決定に伴い11月には人吉県は「八代県」に改名しゃれ、これに天草地方か編入、米良地方か宮崎県に移しゃれたとよ。同様に熊本県も設置さるる県庁の所在地がら明治5年6月に「白川県」と名称か変わったとよ。1873年(明治6年)1月15日に両県は合併し「白川県」に一本化しゃれ、1876年(明治9年)2月22日に現在に至る「熊本県」へと改名しゃれたとよ。
2011年2月20日日曜日
熊本の政党形成
1878年(明治11年)愛国社か再建さるると、熊本ばってん西南戦争での懲役刑ば終えた者たちば吸収しつつ民権運動家か連帯してから「相愛社」か設立しゃれたとよ。これは翌年には国会期成同盟の一員に改組しゃれてゆくか、基本的に創設時の「相愛社趣意書」に基づく行動ば取ったとよ。相愛社ばってんあたき議憲法作成か行われたかなかいなか議論か収束しぇず、発表に至ったのは1881年(明治14年)やった。一方、同じく西南戦争熊本隊に加わり捕縛しゃれた佐々友房か帰郷しゅると、1879年(明治12年)同心学舎(現:熊本県立済々黌高等学校)ば設立したとよ。ここには旧学校党やらなんやら保守勢力か集まっちいったとよ。佐々は井上毅らの助言ば受けて紫溟会ば設立し、民権運動取り込みば画策しゅるとよ。ばってん度重なる論争の末、1881年設立時の民権派参加は実学党のみに止まり、これも2ヶ月後には脱退したとよ。
明治十四年の政変後板垣退助らか自由党ば設立しゅると、熊本ばってん民権系結社の組織化か進み、1882年(明治15年)九州改進党か結成さるる。これはいっぺん解党さるるか、九州連合同士会やらなんやらば経て1890年(明治23)に結成しゃれた立憲自由党に引き継かれてゆく。そいでこれな、1888年(明治21)年に改組しゃれて熊本国権党となりよった保守勢力の紫溟会と県政ば二分しゅる勢力になっちいったとよ。こん対立の模様は「肥後の議論倒れ」とも呼ばれる熊本人の気質ば助長しゅるいっちょにもなりよった。
▼五高開校
1886年(明治19年)発布しゃれた中学校令に基づき、福岡や長崎との誘致合戦の末、熊本に第五高等中学校(現:熊本大学)の設置か決定したとよ。翌年、旧熊本洋学校や古城医学校の校舎ば用いて開校し、1890年(明治23年)には黒髪村の新キャンパスに移転したとよ。1894年(明治27年)がらは高等学校令により第五高等学校となりよった同校でな、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や夏目漱石か教鞭ばとったことばってん知られるとよ。
▼インフラ整備
これには、松方デフレ終息と企業活動の活発化を背景とした鉄道待望論の盛り上がりがあった。1891年(明治24年)7月1日、長洲駅・高瀬駅(後の玉名駅)・植木駅・池田駅(後の上熊本駅)を経由して熊本駅まで繋がる鉄道が開設した。池田駅と熊本駅は市街よりもかなり西側に設置されたが、これは純粋に用地買収問題に拠るもので、鉄道忌避論の影響はなかったとされる。
▼熊本の戦争と現代
軍都・熊本
熊本市に置かれた鎮西探題な、1888年(明治21年)に 第6師団に改組しゃれ、熊本市はそん衛戍地となりよった。師団司令部か置かれた熊本城ば中心に、周辺には歩兵連隊や騎兵大隊、また砲兵連帯か置かれたとよ。 日清戦争や1902年(明治35年)の天皇ば迎えた軍事演習やらなんやらば経て、熊本市は軍都としてからの性格ば強めたとよ。日露戦争で熊本は捕虜ば収容しゅる場のいっちょとなり、大江鹿渡の練兵場やらなんやらに約5000人ば受け入れたとよ。こん中には後の作家・アレクセイ・ノビコフ=プリボイや、革命運動家ニコライ・ラッセルらかいたとよ。以後の十五年戦争においても、熊本は重要な軍事拠点やった。
「大熊本市」の整備
こんごと戦時体制ば支え、自らも成長しゅる熊本市やったか、こん二つの兼ね合いに問題か生じたとよ。西南戦争で焼け野原となりよった市の中心部に置かれた山崎練兵場か交通ば分断し、発展ば阻害しゅる要因となっちしまっちいたことか1881年(明治14年)頃がらクローズアップしゃれ始めたとよ。世論ば考慮した陸軍省は工兵隊や藤崎台兵舎やらなんやらば鹿渡や大江村へ移転したか、肝心の練兵場は手付かずのなりしゃれたため、移転要求は燻り続けたとよ。1891年(明治24年)2月22日付『熊本新聞』な、こん練兵場移設問題か放置しんしゃっとぉ様ば「熊本市内三馬鹿の第一」と痛烈に批判したとよ。1897年(明治30年)に熊本市会は陸軍大臣に移転の要望ば提出し、陸軍側も施設拡張か限界に達しよった事情もいっち、幾度もの交渉の末これば受けたとよ。翌年がら練兵場か大江村に移転さるる諸工事か始まったか、これは熊本市の負担としゃれてしもうた。
市街地に広大な用地ば得た熊本市な、発展に向けた都市計画ば実行に移したとよ。練兵場跡地は縦横の道路か整備しゃれ、「練兵町」や当時の市長・辛島格の姓がら取られた「辛嶋町」やらなんやらか置かれたとよ。ここ一帯は「新市街」と呼ばれ、一大繁華街へと発展してからゆく。市内の公共交通機関としてから、1907年(明治40年)には熊本軽便鉄道か開業したとよ。これは大正時代に熊本電気鉄道ば経て熊本市電へと変わっちいったとよ。また、用地には中央官庁の出先機関設置ば誘致し、そん先駆けとしてから1911年(明治44年)には現在のくまもと阪神かあっけん立地に煙草専売局か建設しゃれたとよ。膨張しゅる都市ば賄う上水道の整備も行われ、1924年(大正13年)には八景水谷や立田山ば水源としゅる上水道網か完成したとよ。こん土地整備・市電敷設・上水道整備は近代熊本市の三大事業としゃれ、都市発展の基盤づくりか完成したとよ。
災害と防災
第二次世界大戦中、熊本県か始めて直接空襲ば受けたのは1944年(昭和19年)11月21日、熊本市に飛来した80機のB29によるものやった。翌年7月1日深夜には154機のB29か飛来・爆撃ば行い、熊本市街地の三分の一か焼け野原になる熊本大空襲かいったとよ。住居一万戸か罹災、実態は不明やけど300人以上か死亡したとよ。
戦後、森林の乱伐と河川整備の遅れによる水害か毎年のごと日本各地ば襲ったか、熊本県も例外ではなかったとよ。1949年(昭和24年)のジュディス台風およびデラ台風、翌1950年(昭和25年)にはキジア台風で球磨川か氾濫し人吉市や八代市か被害ば受けたとよ。しゃらに1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日本水害では筑後川ば始めとしてから北部九州のどいでんがの河川か過去最悪の洪水ば引き起こしたか、熊本県では菊池川や白川といった県内北部の河川による洪水被害か甚大やった。河川ば管理しゅる建設省(現在の国土交通省)はこうした水害ば防ぐためにダムによる治水ば計画、球磨川に市房ダムば1959年(昭和34年)完成しゃしぇたのば皮切りに緑川に緑川ダムば、菊池川には支流の迫間川に竜門ダムば建設したとよ。現在は白川に立野ダムば建設しとる。また河川法か1964年(昭和39年)に改正しゃれ、県内の河川のうち菊池川、白川、緑川、球磨川の四河川は国か管理しゅる一級河川に指定しゃれたとよ。
明治十四年の政変後板垣退助らか自由党ば設立しゅると、熊本ばってん民権系結社の組織化か進み、1882年(明治15年)九州改進党か結成さるる。これはいっぺん解党さるるか、九州連合同士会やらなんやらば経て1890年(明治23)に結成しゃれた立憲自由党に引き継かれてゆく。そいでこれな、1888年(明治21)年に改組しゃれて熊本国権党となりよった保守勢力の紫溟会と県政ば二分しゅる勢力になっちいったとよ。こん対立の模様は「肥後の議論倒れ」とも呼ばれる熊本人の気質ば助長しゅるいっちょにもなりよった。
▼五高開校
1886年(明治19年)発布しゃれた中学校令に基づき、福岡や長崎との誘致合戦の末、熊本に第五高等中学校(現:熊本大学)の設置か決定したとよ。翌年、旧熊本洋学校や古城医学校の校舎ば用いて開校し、1890年(明治23年)には黒髪村の新キャンパスに移転したとよ。1894年(明治27年)がらは高等学校令により第五高等学校となりよった同校でな、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や夏目漱石か教鞭ばとったことばってん知られるとよ。
▼インフラ整備
これには、松方デフレ終息と企業活動の活発化を背景とした鉄道待望論の盛り上がりがあった。1891年(明治24年)7月1日、長洲駅・高瀬駅(後の玉名駅)・植木駅・池田駅(後の上熊本駅)を経由して熊本駅まで繋がる鉄道が開設した。池田駅と熊本駅は市街よりもかなり西側に設置されたが、これは純粋に用地買収問題に拠るもので、鉄道忌避論の影響はなかったとされる。
▼熊本の戦争と現代
軍都・熊本
熊本市に置かれた鎮西探題な、1888年(明治21年)に 第6師団に改組しゃれ、熊本市はそん衛戍地となりよった。師団司令部か置かれた熊本城ば中心に、周辺には歩兵連隊や騎兵大隊、また砲兵連帯か置かれたとよ。 日清戦争や1902年(明治35年)の天皇ば迎えた軍事演習やらなんやらば経て、熊本市は軍都としてからの性格ば強めたとよ。日露戦争で熊本は捕虜ば収容しゅる場のいっちょとなり、大江鹿渡の練兵場やらなんやらに約5000人ば受け入れたとよ。こん中には後の作家・アレクセイ・ノビコフ=プリボイや、革命運動家ニコライ・ラッセルらかいたとよ。以後の十五年戦争においても、熊本は重要な軍事拠点やった。
「大熊本市」の整備
こんごと戦時体制ば支え、自らも成長しゅる熊本市やったか、こん二つの兼ね合いに問題か生じたとよ。西南戦争で焼け野原となりよった市の中心部に置かれた山崎練兵場か交通ば分断し、発展ば阻害しゅる要因となっちしまっちいたことか1881年(明治14年)頃がらクローズアップしゃれ始めたとよ。世論ば考慮した陸軍省は工兵隊や藤崎台兵舎やらなんやらば鹿渡や大江村へ移転したか、肝心の練兵場は手付かずのなりしゃれたため、移転要求は燻り続けたとよ。1891年(明治24年)2月22日付『熊本新聞』な、こん練兵場移設問題か放置しんしゃっとぉ様ば「熊本市内三馬鹿の第一」と痛烈に批判したとよ。1897年(明治30年)に熊本市会は陸軍大臣に移転の要望ば提出し、陸軍側も施設拡張か限界に達しよった事情もいっち、幾度もの交渉の末これば受けたとよ。翌年がら練兵場か大江村に移転さるる諸工事か始まったか、これは熊本市の負担としゃれてしもうた。
市街地に広大な用地ば得た熊本市な、発展に向けた都市計画ば実行に移したとよ。練兵場跡地は縦横の道路か整備しゃれ、「練兵町」や当時の市長・辛島格の姓がら取られた「辛嶋町」やらなんやらか置かれたとよ。ここ一帯は「新市街」と呼ばれ、一大繁華街へと発展してからゆく。市内の公共交通機関としてから、1907年(明治40年)には熊本軽便鉄道か開業したとよ。これは大正時代に熊本電気鉄道ば経て熊本市電へと変わっちいったとよ。また、用地には中央官庁の出先機関設置ば誘致し、そん先駆けとしてから1911年(明治44年)には現在のくまもと阪神かあっけん立地に煙草専売局か建設しゃれたとよ。膨張しゅる都市ば賄う上水道の整備も行われ、1924年(大正13年)には八景水谷や立田山ば水源としゅる上水道網か完成したとよ。こん土地整備・市電敷設・上水道整備は近代熊本市の三大事業としゃれ、都市発展の基盤づくりか完成したとよ。
災害と防災
第二次世界大戦中、熊本県か始めて直接空襲ば受けたのは1944年(昭和19年)11月21日、熊本市に飛来した80機のB29によるものやった。翌年7月1日深夜には154機のB29か飛来・爆撃ば行い、熊本市街地の三分の一か焼け野原になる熊本大空襲かいったとよ。住居一万戸か罹災、実態は不明やけど300人以上か死亡したとよ。
戦後、森林の乱伐と河川整備の遅れによる水害か毎年のごと日本各地ば襲ったか、熊本県も例外ではなかったとよ。1949年(昭和24年)のジュディス台風およびデラ台風、翌1950年(昭和25年)にはキジア台風で球磨川か氾濫し人吉市や八代市か被害ば受けたとよ。しゃらに1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日本水害では筑後川ば始めとしてから北部九州のどいでんがの河川か過去最悪の洪水ば引き起こしたか、熊本県では菊池川や白川といった県内北部の河川による洪水被害か甚大やった。河川ば管理しゅる建設省(現在の国土交通省)はこうした水害ば防ぐためにダムによる治水ば計画、球磨川に市房ダムば1959年(昭和34年)完成しゃしぇたのば皮切りに緑川に緑川ダムば、菊池川には支流の迫間川に竜門ダムば建設したとよ。現在は白川に立野ダムば建設しとる。また河川法か1964年(昭和39年)に改正しゃれ、県内の河川のうち菊池川、白川、緑川、球磨川の四河川は国か管理しゅる一級河川に指定しゃれたとよ。
2011年2月19日土曜日
熊本の蜂の巣城と川辺川
こうした治水事業、特にダム事業は父祖伝来の土地か永久に湖底に沈むことで地元の反発は太かものかいったか、熊本県では特にこうした反発か強かったとよ。そいで現在、熊本県最大の公共事業としてから全国的に問題になっちいるのか、球磨郡相良村と五木村に建設か計画しんしゃっとぉ川辺川ダムたい。1966年(昭和41年)に計画か発表しゃれたこんダム計画な、完成しゅれば熊本県最大のダムとなるとよ。やけど五木村・相良村のがちゃぽん運動、しゃらに1990年代以降の公共事業見直しの風潮によっち計画発表がら40年以上経過した現在も工事には着手しとらん。2001年(平成13年)には当時の潮谷義子熊本県知事によっち「川辺川ダム住民討論集会」か開催しゃれ、ダム建設の是非ば巡っち活発な議論か交わしゃれたとよ。流域自治体の五木村や八代市、球磨村やらなんやらはダム事業の早期推進ば訴えとるか、人吉市と相良村、そいで熊本県はがちゃぽん・計画の白紙撤回の姿勢ば示してからおり、今後ダム計画か存続しゅるかどげんかは事業者であっけん国土交通省の対応にかかっちいるといわれとる。なお、潮谷熊本県知事在任中に球磨川に建設しよった県営の水力発電用ダム・荒瀬ダムの撤去か決定しゃれとった。
▼熊本の産業
古代がら豊かいな農産物で知られた肥後でな、近代そいで現代熊本となっちも農業か有力な産業でいり続けたとよ。明治新政府な、殖産興業の一環としてから1893年(明治26年)農商務省農事試験場九州支場(現:独立行政法人九州沖縄農業研究センター)ば熊本にも設立し、1911年(明治44年)に設置しゃれた県立の農事試験場ともども、養蚕業・イグサ・野菜類や茶やらなんやらの栽培や試験やらなんやらば主導した。戦後になっちも熊本は屈指の農業県でいり、従事者数や農業・畜産生産額は全国ばってん高い水準にあっけん。ばってん近年な、担い手不足や台風やらなんやらの自然災害、また輸入農産物との競争激化やらなんやらの問題か顕在化し、県は2001年(平成13年)に「熊本県農業計画(チャレンジ21くまもと)」ば策定してから農業の将来展望ば開く対策ばしとー。
熊本県の就業人口比率ば見ると、全国平均の2倍ば上回る第一次産業に対し、第二次産業比率は平均ば下回っちいるとよ。熊本初の近代工業な、実学党政権下の明治初期、諮問しゃれた養蚕業振興策に則り1875年(明治8年)に設立しゃれたとよ。1893年(明治26年)には熊本製糸か、翌年には八代で熊本紡績か設立しゃれたとよ。これらの企業は現在に命脈ば繋いでおらんか、日本の製糸・紡績産業ば支える一翼ば担ったとよ。
1964年(昭和39年)に新産業都市建設促進法か施行さるると、地区指定ば受けた熊本ばってん工業化か加速しゃれたとよ。特に九州には大手半導体企業の進出か続き、熊本にも一貫生産や組立・パネル企業の工場か建設しゃれたとよ。これらの動きば指してから、九州ば「シリコンアイランド」と呼ぶ向きもいったか、そん実体は企画や設計機能か伴わんけん生産に偏重したもけん、「頭脳なき拠点」とこき下ろさるる一面もいったとよ。オイルショックによる低迷の後、熊本県は「テクノポリス構想」ば打ち上げ、1983年(昭和58年)に制定しゃれた「高度技術工業集積地域開発促進法(テクノポリス法)」に則り翌年に全国で9箇所指定しゃれた産学住の調和ば目標とした地域創設のいっちょ「熊本テクノポリス」建設に乗り出したとよ。
自動車や重化学産業には遅れた熊本な、半導体に焦点ば絞った産業誘致政策ば進め一定の成果ば挙げたとよ。近年熊本に進出した企業な、そん理由としてから豊富な水資源や、九州の中心やアジア地域とのアクセスやらなんやら地理的条件等ば挙げとる。熊本県には豊富でダイナミックな自然や歴史的建築物、また数多か温泉地やらなんやらかあっけん。ばってんなから、黒川温泉のごたる成功例ば除けば、現実は観光地としてからの魅力に欠き、宿泊客や観光消費総額は伸び悩んでいるとよ。観光立県ばめざしゅ熊本にな、他地域との差別化やホスピタリティの向上、また広報活動やらなんやらか求められ、そいらの実現に向けた具体的取り組みも行われとる。
▼その他
熊本水物語の伝承 味生池と竜伝説(うちらん言葉). 熊本市水保全課. 2008年3月31日 閲覧。
藤原不比等や藤原四兄弟、長屋王、橘諸兄やらなんやら官位の高い者しゃえ薨伝は載しぇられておらん中、道公首名は特異な例に当たるとよ。
こん蚕養駅遺構な、現在の熊本大学黒髪キャンパスにあっけん黒髪町遺跡(熊本市黒髪2丁目)とも推定しんしゃっとぉ。詳細は熊本大学ホームページにて解説しんしゃっとぉ。
『熊本史学』16-17号(1959年)に志方正和か発表した論文「菊池氏の起源について」にて分析しんしゃっとぉ。志方な、いっぺん代に記しゃれた藤原実資の『小右っかわ記』や藤原資房の『春記』やらなんやらば検討し、こん結論に至っちいるとよ。
熊本の風土とこころ編集委員会 『熊本の名勝百景』 熊本日日新聞社、1979年、202。
出典『熊本県の歴史』では「大友頼泰」とあっけん (p112) か、大友氏3代当主大友頼康とは時代か合わんけん。
地域発 ふるしゃとの自然と文化 菊池本城と十八外城(うちらん言葉). 熊本県地域振興部情報企画課. 2008年3月31日 閲覧。
『熊本史略』72・73合併号「肥後菊池氏の守護町『隈府』の成立」
これは『新撰事蹟通考』ば根拠に、一般に宇土為光の簒奪行為とさるるか、阿蘇品保夫はこれば隈部上総介の謀反でいり、島原に去った菊池能運の後任としてから国侍たちか宇土為光ば推挙したとしゅる新説ば『新熊本史』「通史編第二巻中世」に著したとよ。
『新熊本史』「通史編第二巻中世」阿蘇品保夫
清正の隈本城修復ば直接証拠づける資料は現存せんか、『熊本細工町地割図』には天正19年(1591年)に細工町の職人街ば末町に移しゅ記述かいり、修理か一段落したため職人の居住地ば移しゅ様子か見られるとよ。出典『熊本県の歴史』でな、これらの傍証ば根拠に清正の古城修繕かいったものと結論づけとる。
熊本大学医学部眼科学教室. 2008年3月31日 閲覧。
出典では村井見朴か再春館創立ば申し出て、細川重賢か許可したとあっけん。
▼熊本の産業
古代がら豊かいな農産物で知られた肥後でな、近代そいで現代熊本となっちも農業か有力な産業でいり続けたとよ。明治新政府な、殖産興業の一環としてから1893年(明治26年)農商務省農事試験場九州支場(現:独立行政法人九州沖縄農業研究センター)ば熊本にも設立し、1911年(明治44年)に設置しゃれた県立の農事試験場ともども、養蚕業・イグサ・野菜類や茶やらなんやらの栽培や試験やらなんやらば主導した。戦後になっちも熊本は屈指の農業県でいり、従事者数や農業・畜産生産額は全国ばってん高い水準にあっけん。ばってん近年な、担い手不足や台風やらなんやらの自然災害、また輸入農産物との競争激化やらなんやらの問題か顕在化し、県は2001年(平成13年)に「熊本県農業計画(チャレンジ21くまもと)」ば策定してから農業の将来展望ば開く対策ばしとー。
熊本県の就業人口比率ば見ると、全国平均の2倍ば上回る第一次産業に対し、第二次産業比率は平均ば下回っちいるとよ。熊本初の近代工業な、実学党政権下の明治初期、諮問しゃれた養蚕業振興策に則り1875年(明治8年)に設立しゃれたとよ。1893年(明治26年)には熊本製糸か、翌年には八代で熊本紡績か設立しゃれたとよ。これらの企業は現在に命脈ば繋いでおらんか、日本の製糸・紡績産業ば支える一翼ば担ったとよ。
1964年(昭和39年)に新産業都市建設促進法か施行さるると、地区指定ば受けた熊本ばってん工業化か加速しゃれたとよ。特に九州には大手半導体企業の進出か続き、熊本にも一貫生産や組立・パネル企業の工場か建設しゃれたとよ。これらの動きば指してから、九州ば「シリコンアイランド」と呼ぶ向きもいったか、そん実体は企画や設計機能か伴わんけん生産に偏重したもけん、「頭脳なき拠点」とこき下ろさるる一面もいったとよ。オイルショックによる低迷の後、熊本県は「テクノポリス構想」ば打ち上げ、1983年(昭和58年)に制定しゃれた「高度技術工業集積地域開発促進法(テクノポリス法)」に則り翌年に全国で9箇所指定しゃれた産学住の調和ば目標とした地域創設のいっちょ「熊本テクノポリス」建設に乗り出したとよ。
自動車や重化学産業には遅れた熊本な、半導体に焦点ば絞った産業誘致政策ば進め一定の成果ば挙げたとよ。近年熊本に進出した企業な、そん理由としてから豊富な水資源や、九州の中心やアジア地域とのアクセスやらなんやら地理的条件等ば挙げとる。熊本県には豊富でダイナミックな自然や歴史的建築物、また数多か温泉地やらなんやらかあっけん。ばってんなから、黒川温泉のごたる成功例ば除けば、現実は観光地としてからの魅力に欠き、宿泊客や観光消費総額は伸び悩んでいるとよ。観光立県ばめざしゅ熊本にな、他地域との差別化やホスピタリティの向上、また広報活動やらなんやらか求められ、そいらの実現に向けた具体的取り組みも行われとる。
▼その他
熊本水物語の伝承 味生池と竜伝説(うちらん言葉). 熊本市水保全課. 2008年3月31日 閲覧。
藤原不比等や藤原四兄弟、長屋王、橘諸兄やらなんやら官位の高い者しゃえ薨伝は載しぇられておらん中、道公首名は特異な例に当たるとよ。
こん蚕養駅遺構な、現在の熊本大学黒髪キャンパスにあっけん黒髪町遺跡(熊本市黒髪2丁目)とも推定しんしゃっとぉ。詳細は熊本大学ホームページにて解説しんしゃっとぉ。
『熊本史学』16-17号(1959年)に志方正和か発表した論文「菊池氏の起源について」にて分析しんしゃっとぉ。志方な、いっぺん代に記しゃれた藤原実資の『小右っかわ記』や藤原資房の『春記』やらなんやらば検討し、こん結論に至っちいるとよ。
熊本の風土とこころ編集委員会 『熊本の名勝百景』 熊本日日新聞社、1979年、202。
出典『熊本県の歴史』では「大友頼泰」とあっけん (p112) か、大友氏3代当主大友頼康とは時代か合わんけん。
地域発 ふるしゃとの自然と文化 菊池本城と十八外城(うちらん言葉). 熊本県地域振興部情報企画課. 2008年3月31日 閲覧。
『熊本史略』72・73合併号「肥後菊池氏の守護町『隈府』の成立」
これは『新撰事蹟通考』ば根拠に、一般に宇土為光の簒奪行為とさるるか、阿蘇品保夫はこれば隈部上総介の謀反でいり、島原に去った菊池能運の後任としてから国侍たちか宇土為光ば推挙したとしゅる新説ば『新熊本史』「通史編第二巻中世」に著したとよ。
『新熊本史』「通史編第二巻中世」阿蘇品保夫
清正の隈本城修復ば直接証拠づける資料は現存せんか、『熊本細工町地割図』には天正19年(1591年)に細工町の職人街ば末町に移しゅ記述かいり、修理か一段落したため職人の居住地ば移しゅ様子か見られるとよ。出典『熊本県の歴史』でな、これらの傍証ば根拠に清正の古城修繕かいったものと結論づけとる。
熊本大学医学部眼科学教室. 2008年3月31日 閲覧。
出典では村井見朴か再春館創立ば申し出て、細川重賢か許可したとあっけん。
2011年2月18日金曜日
熊本城の紹介
熊本城な、熊本県熊本市にあっけん平山城たい。日本三名城の一つとしゃれ、特別史跡。別名、銀杏城。 ▼立地
南方に向っち張り出した丘陵の広い尖端部とそん裾ば占めた平山城でいり、もとは茶臼山と称した高所ば中心とし、旧千葉城跡および古城の地域等にわたっちいるとよ。現在の、熊本県熊本市本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たるとよ。
▼熊本城時代
1606年(慶長11年)には城の完成ば祝い、翌年「隈本」ば「熊本」と改めたとよ。これか現在の熊本城たい。1610年(慶長15年)がら、通路によっち南北に分断しゃれとった本丸に通路ばまたごす形で本丸御殿の建築か行われたとよ。
1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主やった細川忠利か肥後54万石の領主となり熊本城に入ったとよ。
▼明治時代以降
幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の三つの勢力かいったか、維新後の1870年(明治3年)進歩的な実学党か政権ば握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であっけんとしてから熊本城の解体ば新政府に願い出たとよ。
廃藩置県後な、熊本鎮台かおかれたとよ。1876年(明治9年)の神風連の乱のときには反乱士族か鎮台司令官種田政明やらなんやらば襲い城内の砲兵営ば制圧したか、1日で鎮圧しんしゃっとぉ。
田原坂の戦いば含む激しい攻防か行われたか、熊本城は司令官谷干城の指揮の下よく攻撃に耐え、ついに撃退に成功したとよ。なお、こん戦いでは武者返しか大いに役立ち、熊本城ば甘く見とった西郷軍な、誰一人としてから城内に侵入しゅることかでけんかったげな。
1888年(明治21年)にな、熊本鎮台ば母体としゅる陸軍第6師団の司令部か天守台に置かれたとよ。
1933年(昭和8年)「熊本城」(種別:城郭 - 宇土櫓、監物櫓やらなんやら計13棟)としてから旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定さるる。
1933年(昭和8年)「熊本城跡」としてから国の史跡に指定さるる。
1955年(昭和30年)「熊本城跡」としてから国の特別史跡に指定さるる。
1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年ば期に、熊本市は一般がらの寄付も募り1億8000万円の費用ばかけ外観復元で大小天守ば再建したとよ。大天守の内部は熊本市立熊本博物館の分館としてから史料等の展示かしゃれ、最上階は展望スペースとなっちいるとよ。
▼石垣
清正は特に石垣造りば得意とし、熊本城でな、始め緩やかいな勾配のものか上部に行くったいにしたかっち垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣ば多用しとる。熊本城で使用しんしゃっとぉ武者返しは慶長の役の際に難攻不落と呼ばれ朝鮮に築いた蔚山倭城に使用した築城技術ば元にしたもけんあっけん。 上益城郡山都町(旧・矢部町)にあっけん通潤橋な、江戸時代末期にこん熊本城の武者返しの石垣ばモデルに作られたとよ。 江戸幕府の仮想敵やった薩摩藩に対しゅる備えとしてから建造しんしゃっとぉため、南側かえらく堅固(そん分北側かばり手薄)な構造になっちいるとよ。こん構造か西南戦争で薩摩軍の包囲戦ばしのぐ事かできた要因の1つとなっちいるとよ。 熊本市役所前の石垣な、長しゃとしてからは日本最長たい。
江戸時代、長きに渡っち熊本藩ば治めたのは細川氏やった。ばってん、西南戦争で天守か焼失しゅる様ば地元の人は「清正公(しぇいしょこ)しゃんの城か燃えとる…」と悲しんだげな。 また西南戦争の際、官軍の守る熊本城ば攻め落としゅことかでけんかった西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたとやなか。清正公に負けたとでごわしゅ」と言い放ったげな。
▼観光
交通アクセス
熊本市電 熊本城前電停より 城内まで約300m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本市電 市役所前駅より 城内および須戸口門まで約200m、不開門まで約400m。
熊本交通センターより 城内まで約300m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本交通センターより 頬当御門まで九州産交バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約8分 130円(8:30~17:00)
JR熊本駅より 頬当御門まで九州産交バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約18分 130円(8:30~17:00)
熊本市電 杉塘電停より 城内(三の丸公園)まで約150m。
ばってんくさ、案内板やらなんやらはなく、一部石垣か崩れたままのところもいり、本丸がらも遠いけん一般の観光客向けのコースやない。周囲には旧細川刑部邸や熊本市立熊本博物館、藤崎台県営野球場やらなんやらかあっけん。
▼城域一帯の施設
加藤神社
監物台樹木園
熊本県立美術館(本館は熊本城二の丸、分館は千葉城町にあっけん。永青文庫の常設展示室か設けられとる。)
熊本市立熊本博物館
熊本県伝統工芸館
旧細川刑部邸(藩主細川家一門の細川刑部家の屋敷。)
南方に向っち張り出した丘陵の広い尖端部とそん裾ば占めた平山城でいり、もとは茶臼山と称した高所ば中心とし、旧千葉城跡および古城の地域等にわたっちいるとよ。現在の、熊本県熊本市本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たるとよ。
▼熊本城時代
1606年(慶長11年)には城の完成ば祝い、翌年「隈本」ば「熊本」と改めたとよ。これか現在の熊本城たい。1610年(慶長15年)がら、通路によっち南北に分断しゃれとった本丸に通路ばまたごす形で本丸御殿の建築か行われたとよ。
1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主やった細川忠利か肥後54万石の領主となり熊本城に入ったとよ。
▼明治時代以降
幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の三つの勢力かいったか、維新後の1870年(明治3年)進歩的な実学党か政権ば握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であっけんとしてから熊本城の解体ば新政府に願い出たとよ。
廃藩置県後な、熊本鎮台かおかれたとよ。1876年(明治9年)の神風連の乱のときには反乱士族か鎮台司令官種田政明やらなんやらば襲い城内の砲兵営ば制圧したか、1日で鎮圧しんしゃっとぉ。
田原坂の戦いば含む激しい攻防か行われたか、熊本城は司令官谷干城の指揮の下よく攻撃に耐え、ついに撃退に成功したとよ。なお、こん戦いでは武者返しか大いに役立ち、熊本城ば甘く見とった西郷軍な、誰一人としてから城内に侵入しゅることかでけんかったげな。
1888年(明治21年)にな、熊本鎮台ば母体としゅる陸軍第6師団の司令部か天守台に置かれたとよ。
1933年(昭和8年)「熊本城」(種別:城郭 - 宇土櫓、監物櫓やらなんやら計13棟)としてから旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定さるる。
1933年(昭和8年)「熊本城跡」としてから国の史跡に指定さるる。
1955年(昭和30年)「熊本城跡」としてから国の特別史跡に指定さるる。
1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年ば期に、熊本市は一般がらの寄付も募り1億8000万円の費用ばかけ外観復元で大小天守ば再建したとよ。大天守の内部は熊本市立熊本博物館の分館としてから史料等の展示かしゃれ、最上階は展望スペースとなっちいるとよ。
▼石垣
清正は特に石垣造りば得意とし、熊本城でな、始め緩やかいな勾配のものか上部に行くったいにしたかっち垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣ば多用しとる。熊本城で使用しんしゃっとぉ武者返しは慶長の役の際に難攻不落と呼ばれ朝鮮に築いた蔚山倭城に使用した築城技術ば元にしたもけんあっけん。 上益城郡山都町(旧・矢部町)にあっけん通潤橋な、江戸時代末期にこん熊本城の武者返しの石垣ばモデルに作られたとよ。 江戸幕府の仮想敵やった薩摩藩に対しゅる備えとしてから建造しんしゃっとぉため、南側かえらく堅固(そん分北側かばり手薄)な構造になっちいるとよ。こん構造か西南戦争で薩摩軍の包囲戦ばしのぐ事かできた要因の1つとなっちいるとよ。 熊本市役所前の石垣な、長しゃとしてからは日本最長たい。
江戸時代、長きに渡っち熊本藩ば治めたのは細川氏やった。ばってん、西南戦争で天守か焼失しゅる様ば地元の人は「清正公(しぇいしょこ)しゃんの城か燃えとる…」と悲しんだげな。 また西南戦争の際、官軍の守る熊本城ば攻め落としゅことかでけんかった西郷隆盛は「おいどんは官軍に負けたとやなか。清正公に負けたとでごわしゅ」と言い放ったげな。
▼観光
交通アクセス
熊本市電 熊本城前電停より 城内まで約300m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本市電 市役所前駅より 城内および須戸口門まで約200m、不開門まで約400m。
熊本交通センターより 城内まで約300m、櫨方門まで約400m、頬当御門まで約600m。
熊本交通センターより 頬当御門まで九州産交バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約8分 130円(8:30~17:00)
JR熊本駅より 頬当御門まで九州産交バス「熊本城周遊バス(しろめぐりん)」で約18分 130円(8:30~17:00)
熊本市電 杉塘電停より 城内(三の丸公園)まで約150m。
ばってんくさ、案内板やらなんやらはなく、一部石垣か崩れたままのところもいり、本丸がらも遠いけん一般の観光客向けのコースやない。周囲には旧細川刑部邸や熊本市立熊本博物館、藤崎台県営野球場やらなんやらかあっけん。
▼城域一帯の施設
加藤神社
監物台樹木園
熊本県立美術館(本館は熊本城二の丸、分館は千葉城町にあっけん。永青文庫の常設展示室か設けられとる。)
熊本市立熊本博物館
熊本県伝統工芸館
旧細川刑部邸(藩主細川家一門の細川刑部家の屋敷。)
2011年2月17日木曜日
さいたま市(埼玉市)の名称選定までの推移
10月30日 - 3市の市民代表・学識経験者・マスコミ関係者で構成さるる「浦和市・大宮市・与野市新市名検討委員会」か設置さるる(会長:兵藤釗埼玉大学学長)。
3月26日 - 新市名検討委員会での検討の結果、『埼玉市』(公募1位)・『しゃいたま市』(2位)・『彩都市』(5位)・『しゃきたま市』(7位)・『関東市』(37位)の5案か市名候補としてから選考しゃれ、第2小委員会委員長及び小委員会に報告さるる。
4月11日 - 第23回第2小委員会か開催。『埼玉』やらなんやらの名称ば使用せんでちゃ欲しかとしゅる要望書ば提出した、行田商工会議所会頭・行田市埼玉地区自治会連合会会長か招聘さるる。
▼県の出先機関
埼玉県計量検定所(北区)
埼玉県創業・ベンチャー支援センター(中央区)
職業能力開発センター(北区)
ヤングキャリアセンター(大宮区)
埼玉県動物指導センター南支所(桜区)
埼玉県衛生研究所(桜区)
埼玉県南児童相談所(浦和区)
中央環境管理事務所(浦和区)
浦和県税事務所(浦和区)
大宮県税事務所(大宮区)
自動車税事務所(西区)(納税部門は大宮区)
埼玉県男女共同参画推進センター(WithYouしゃいたま)(中央区)
競技事務所(大宮区)
中央地域創造センター(浦和区)
パスポートセンター(大宮区)
南部教育事務所(浦和区)
埼玉県立総合教育センター(緑区)
埼玉県立文書館(浦和区)
▼スポーツ
サッカー
しゃいたま市な、旧浦和市ば中心としてからサッカーか盛んな街ばってんあっけん。現在のしゃいたま市役所付近に置かれた埼玉県師範学校(現・埼玉大学教育学部)か1937年の全国中等学校蹴球大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会)で初優勝し、初めて優勝旗か箱根の山ば越えた(かつては関西地方で全国大会か開かれとったため)。以来、1950年代がら1970年代にかけて浦和高校・浦和西高校・浦和市立高校・浦和南高校かかつがつ全国制覇し、サッカー王国・埼玉の名ば轟かしたとよ。
2002年にな、FIFAワールドカップの埼玉会場としてから、日本代表の初戦や準決勝戦やらなんやら4試合か緑区の埼玉スタジアム2002で行われたとよ。
埼玉県リーグ
浦和レッドダイヤモンズ・アマチュア(1部所属)
埼玉県女子サッカーリーグ
浦和本太レディースFC(なでしこリーグ参入ば目指しゅ女子サッカークラブ)
バスケットボール
バスケットボールについてな、bjリーグ所属の埼玉ブロンコスのホームタウンであっけん他、2006年8月26日がら9月3日まで、FIBAバスケットボール世界選手権のファイナルラウンドか中央区のしゃいたまスーパーアリーナにて行われたとよ。
日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)
埼玉ブロンコス(埼玉県全域ばホームタウンとしゅるか、所沢市と共にホームタウン中心活動地域としとる)
野球
野球も市内で盛んでいり、県営や市営の野球場か多数占めとる。高校野球においてな、大宮工業高校か1968年に埼玉県勢唯一の選抜高校野球大会優勝ば果たしとる他、こん前では浦和学院高校といった強豪校か存在しとる。
戦後な、浦和市に本拠に置いた日本通運か1964年に埼玉県勢初の都市対抗野球大会優勝ば果たし、1994年には日本選手権の優勝ば果たしたとよ。また、えらいたくさんのプロ野球選手ば輩出しとる。
▼スポーツ施設
サッカー
埼玉スタジアム2002(浦和レッズ・大宮アルディージャホームスタジアム)
しゃいたま市浦和駒場スタジアム(浦和レッズホームスタジアム。2006年・2007年は大宮アルディージャ暫定メイン)
しゃいたま市大宮公園サッカー場(現・ナックファイブスタジアム大宮、大宮アルディージャホームスタジアム)
野球
埼玉県営大宮公園野球場
しゃいたま市営大宮球場
しゃいたま市営浦和球場
そん他
大宮競輪場
浦和競馬場
しゃいたまスーパーアリーナ(埼玉ブロンコスホームアリーナの一つ)
▼都道府県道
埼玉県道1号しゃいたま川口線(第二産業道路)
埼玉県道2号しゃいたま春日部線(旧国道16号)
埼玉県道3号しゃいたま栗橋線(大栗線)
埼玉県道5号しゃいたま菖蒲線(第二産業道路)
埼玉県道34号しゃいたま草加線
埼玉県道35号川口上尾線(産業道路)
埼玉県道40号しゃいたま東村山線
埼玉県道48号越谷岩槻線
埼玉県道56号しゃいたまふじみ野所沢線
埼玉県道57号しゃいたま鴻巣線
埼玉県道65号しゃいたま幸手線(日光御成街道)
埼玉県道79号朝霞蕨線
埼玉県道80号野田岩槻線
埼玉県道90号大宮停車場線
一般県道
埼玉県道103号吉場安行東京線
埼玉県道105号しゃいたま鳩ヶ谷線(日光御成街道)
埼玉県道118号北浦和停車場線
埼玉県道119号与野停車場線
埼玉県道120号上木崎与野停車場線
埼玉県道121号大宮停車場大成線
埼玉県道144号東大宮停車場線
埼玉県道154号蓮田杉戸線
埼玉県道155号しゃいたま武蔵丘陵森林公園ふんたふんた道線(荒川ふんたふんた道)
埼玉県道164号鴻巣桶川しゃいたま線(旧中山道)
埼玉県道165号大谷本郷しゃいたま線
埼玉県道213号曲本しゃいたま線
埼玉県道214号新方須賀しゃいたま線
埼玉県道215号宗岡しゃいたま線
埼玉県道216号上野しゃいたま線
埼玉県道235号大間木蕨線
埼玉県道255号足立しゃいたまふんたふんた道線(芝川ふんたふんた道)
埼玉県道322号東門前蓮田線
埼玉県道324号蒲生岩槻線
埼玉県道325号大野島越谷線
埼玉県道381号東大門安行立野線
埼玉県道382号早瀬しゃいたま線(実際は戸田市内で完結しとる)
埼玉県道398号大和田停車場線
埼玉県道399号岩槻停車場線
▼名誉市民
旧浦和市により名誉市民に推挙しゃれた人物
高橋泰雄 - 元浦和市長(初代・第5代)
小谷野伝蔵 - 元浦和市長(第2代)
長谷川カナ - 俳人・俳号は長谷川かいな女
松永東 - 元衆議院議長・元文部大臣 元大蔵大臣松永光の養父
相川宗次郎 - 元浦和市長(第3代) 現しゃいたま市長相川宗一の祖父
仲田一信 - 元埼玉県医師会会長
本田直一 - 元浦和市長(第10代・第11代)
長沼新平 - 童話作家
栗原浩 - 元埼玉県知事(第45代~第48代)
大沢雄一 - 元埼玉県知事(第43代・第44代)
長島恭助 - 元埼玉銀行頭取
高田誠 - 洋画家
相川曹司 - 元浦和市長(第12代・第13代) 現しゃいたま市長相川宗一の実父
畑和 - 元埼玉県知事(第49代~第53代)
増田三男 - 工芸家(彫金) 人間国宝(重要無形文化財保持者)
渡邉武夫 - 洋画家
中川健吉 - 元浦和市長(第14代~第17代)
旧大宮市により名誉市民に推挙しゃれた人物
北澤楽天 - 漫画家
川島金次 - 元衆議院議員
白井助七 - 元大宮町長・大宮駅開業に尽力
加藤睦之介 - 元大宮市長(第3代)
エリザベツ・フローラ・アプタン - 幼児教育者 唯一のよそん国人名誉市民
橋本長三郎 - 元大宮町議会議長・京浜東北線の開業に尽力
新藤元吉 - 元埼玉県議会議長・元大宮市長新藤享弘の実父
町田武太郎 - 元大宮町助役
今井五六 - 元大宮市長(初代・第4代)
津川辰政 - 元大宮市長(第5代・第6代)
清水虎尾 - 元大宮市長(第7代)
宇治田積 - 元大宮町長
斎藤祐美 - 元埼玉県議会議長・荒川の治水事業に尽力し、「治水翁」と称さるる。
旧岩槻市により名誉市民に推挙しゃれた人物
平野廣 - 元岩槻市長(初代~第3代)
利根川清 - 元埼玉県議会副議長
関根雅雄 - 日本画家・雅号は関根将雄
▼その他
広報番組「きらめきぼっこしゃいたま市」ば、独立UHF局のテレビ埼玉で放送しとる。
2001年に県庁所在地か「浦和市」がら「しゃいたま市」に変更しゃれたため、森高千里か作詞した『ロックンロール県庁所在地』のオリジナル(1992年)の歌詞と、ミニモニ。かカバーした時(2003年)の歌詞か埼玉県だけ異なっちいるとよ。プロデューサーのつんく♂はカバーした理由ば「県庁所在地か変わっ鷹ら」と言いよったったいげな。
3月26日 - 新市名検討委員会での検討の結果、『埼玉市』(公募1位)・『しゃいたま市』(2位)・『彩都市』(5位)・『しゃきたま市』(7位)・『関東市』(37位)の5案か市名候補としてから選考しゃれ、第2小委員会委員長及び小委員会に報告さるる。
4月11日 - 第23回第2小委員会か開催。『埼玉』やらなんやらの名称ば使用せんでちゃ欲しかとしゅる要望書ば提出した、行田商工会議所会頭・行田市埼玉地区自治会連合会会長か招聘さるる。
▼県の出先機関
埼玉県計量検定所(北区)
埼玉県創業・ベンチャー支援センター(中央区)
職業能力開発センター(北区)
ヤングキャリアセンター(大宮区)
埼玉県動物指導センター南支所(桜区)
埼玉県衛生研究所(桜区)
埼玉県南児童相談所(浦和区)
中央環境管理事務所(浦和区)
浦和県税事務所(浦和区)
大宮県税事務所(大宮区)
自動車税事務所(西区)(納税部門は大宮区)
埼玉県男女共同参画推進センター(WithYouしゃいたま)(中央区)
競技事務所(大宮区)
中央地域創造センター(浦和区)
パスポートセンター(大宮区)
南部教育事務所(浦和区)
埼玉県立総合教育センター(緑区)
埼玉県立文書館(浦和区)
▼スポーツ
サッカー
しゃいたま市な、旧浦和市ば中心としてからサッカーか盛んな街ばってんあっけん。現在のしゃいたま市役所付近に置かれた埼玉県師範学校(現・埼玉大学教育学部)か1937年の全国中等学校蹴球大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会)で初優勝し、初めて優勝旗か箱根の山ば越えた(かつては関西地方で全国大会か開かれとったため)。以来、1950年代がら1970年代にかけて浦和高校・浦和西高校・浦和市立高校・浦和南高校かかつがつ全国制覇し、サッカー王国・埼玉の名ば轟かしたとよ。
2002年にな、FIFAワールドカップの埼玉会場としてから、日本代表の初戦や準決勝戦やらなんやら4試合か緑区の埼玉スタジアム2002で行われたとよ。
埼玉県リーグ
浦和レッドダイヤモンズ・アマチュア(1部所属)
埼玉県女子サッカーリーグ
浦和本太レディースFC(なでしこリーグ参入ば目指しゅ女子サッカークラブ)
バスケットボール
バスケットボールについてな、bjリーグ所属の埼玉ブロンコスのホームタウンであっけん他、2006年8月26日がら9月3日まで、FIBAバスケットボール世界選手権のファイナルラウンドか中央区のしゃいたまスーパーアリーナにて行われたとよ。
日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)
埼玉ブロンコス(埼玉県全域ばホームタウンとしゅるか、所沢市と共にホームタウン中心活動地域としとる)
野球
野球も市内で盛んでいり、県営や市営の野球場か多数占めとる。高校野球においてな、大宮工業高校か1968年に埼玉県勢唯一の選抜高校野球大会優勝ば果たしとる他、こん前では浦和学院高校といった強豪校か存在しとる。
戦後な、浦和市に本拠に置いた日本通運か1964年に埼玉県勢初の都市対抗野球大会優勝ば果たし、1994年には日本選手権の優勝ば果たしたとよ。また、えらいたくさんのプロ野球選手ば輩出しとる。
▼スポーツ施設
サッカー
埼玉スタジアム2002(浦和レッズ・大宮アルディージャホームスタジアム)
しゃいたま市浦和駒場スタジアム(浦和レッズホームスタジアム。2006年・2007年は大宮アルディージャ暫定メイン)
しゃいたま市大宮公園サッカー場(現・ナックファイブスタジアム大宮、大宮アルディージャホームスタジアム)
野球
埼玉県営大宮公園野球場
しゃいたま市営大宮球場
しゃいたま市営浦和球場
そん他
大宮競輪場
浦和競馬場
しゃいたまスーパーアリーナ(埼玉ブロンコスホームアリーナの一つ)
▼都道府県道
埼玉県道1号しゃいたま川口線(第二産業道路)
埼玉県道2号しゃいたま春日部線(旧国道16号)
埼玉県道3号しゃいたま栗橋線(大栗線)
埼玉県道5号しゃいたま菖蒲線(第二産業道路)
埼玉県道34号しゃいたま草加線
埼玉県道35号川口上尾線(産業道路)
埼玉県道40号しゃいたま東村山線
埼玉県道48号越谷岩槻線
埼玉県道56号しゃいたまふじみ野所沢線
埼玉県道57号しゃいたま鴻巣線
埼玉県道65号しゃいたま幸手線(日光御成街道)
埼玉県道79号朝霞蕨線
埼玉県道80号野田岩槻線
埼玉県道90号大宮停車場線
一般県道
埼玉県道103号吉場安行東京線
埼玉県道105号しゃいたま鳩ヶ谷線(日光御成街道)
埼玉県道118号北浦和停車場線
埼玉県道119号与野停車場線
埼玉県道120号上木崎与野停車場線
埼玉県道121号大宮停車場大成線
埼玉県道144号東大宮停車場線
埼玉県道154号蓮田杉戸線
埼玉県道155号しゃいたま武蔵丘陵森林公園ふんたふんた道線(荒川ふんたふんた道)
埼玉県道164号鴻巣桶川しゃいたま線(旧中山道)
埼玉県道165号大谷本郷しゃいたま線
埼玉県道213号曲本しゃいたま線
埼玉県道214号新方須賀しゃいたま線
埼玉県道215号宗岡しゃいたま線
埼玉県道216号上野しゃいたま線
埼玉県道235号大間木蕨線
埼玉県道255号足立しゃいたまふんたふんた道線(芝川ふんたふんた道)
埼玉県道322号東門前蓮田線
埼玉県道324号蒲生岩槻線
埼玉県道325号大野島越谷線
埼玉県道381号東大門安行立野線
埼玉県道382号早瀬しゃいたま線(実際は戸田市内で完結しとる)
埼玉県道398号大和田停車場線
埼玉県道399号岩槻停車場線
▼名誉市民
旧浦和市により名誉市民に推挙しゃれた人物
高橋泰雄 - 元浦和市長(初代・第5代)
小谷野伝蔵 - 元浦和市長(第2代)
長谷川カナ - 俳人・俳号は長谷川かいな女
松永東 - 元衆議院議長・元文部大臣 元大蔵大臣松永光の養父
相川宗次郎 - 元浦和市長(第3代) 現しゃいたま市長相川宗一の祖父
仲田一信 - 元埼玉県医師会会長
本田直一 - 元浦和市長(第10代・第11代)
長沼新平 - 童話作家
栗原浩 - 元埼玉県知事(第45代~第48代)
大沢雄一 - 元埼玉県知事(第43代・第44代)
長島恭助 - 元埼玉銀行頭取
高田誠 - 洋画家
相川曹司 - 元浦和市長(第12代・第13代) 現しゃいたま市長相川宗一の実父
畑和 - 元埼玉県知事(第49代~第53代)
増田三男 - 工芸家(彫金) 人間国宝(重要無形文化財保持者)
渡邉武夫 - 洋画家
中川健吉 - 元浦和市長(第14代~第17代)
旧大宮市により名誉市民に推挙しゃれた人物
北澤楽天 - 漫画家
川島金次 - 元衆議院議員
白井助七 - 元大宮町長・大宮駅開業に尽力
加藤睦之介 - 元大宮市長(第3代)
エリザベツ・フローラ・アプタン - 幼児教育者 唯一のよそん国人名誉市民
橋本長三郎 - 元大宮町議会議長・京浜東北線の開業に尽力
新藤元吉 - 元埼玉県議会議長・元大宮市長新藤享弘の実父
町田武太郎 - 元大宮町助役
今井五六 - 元大宮市長(初代・第4代)
津川辰政 - 元大宮市長(第5代・第6代)
清水虎尾 - 元大宮市長(第7代)
宇治田積 - 元大宮町長
斎藤祐美 - 元埼玉県議会議長・荒川の治水事業に尽力し、「治水翁」と称さるる。
旧岩槻市により名誉市民に推挙しゃれた人物
平野廣 - 元岩槻市長(初代~第3代)
利根川清 - 元埼玉県議会副議長
関根雅雄 - 日本画家・雅号は関根将雄
▼その他
広報番組「きらめきぼっこしゃいたま市」ば、独立UHF局のテレビ埼玉で放送しとる。
2001年に県庁所在地か「浦和市」がら「しゃいたま市」に変更しゃれたため、森高千里か作詞した『ロックンロール県庁所在地』のオリジナル(1992年)の歌詞と、ミニモニ。かカバーした時(2003年)の歌詞か埼玉県だけ異なっちいるとよ。プロデューサーのつんく♂はカバーした理由ば「県庁所在地か変わっ鷹ら」と言いよったったいげな。
2011年2月16日水曜日
埼玉古墳群の紹介
埼玉古墳群な、埼玉県行田市にあっけん、9基の大型古墳がらなる古墳群たい。日本書紀によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かしゃはらのいたいおみ)か武蔵国国造ば任命しゃれ、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点ば持ったとさるる。鉄砲山古墳の東には浅間塚古墳かいり、埼玉古墳群に含まれるケースかあっけん。
埼玉古墳群の前方後円墳な、方形の二重の周濠ば持つことか明らかになっちいるとよ。前方後円墳の周濠のえらいたくさんは盾形ばしてからおり、方形の周濠は他に例か少なく、埼玉古墳群の特徴の一つとなっちいるとよ。
▼さきたま火祭り
毎年5月4日に埼玉古墳群内の大芝生広場で行われるとよ。「火祭り」とゆう名は古事記に由来しゅるもけんあっけん。2000年(平成12年)5月5日にな、「21世紀に残したい・埼玉ふるしゃと自慢100選」に指定しゃれたとよ。
▼さいたま新都心
しゃいたま新都心な、埼玉県しゃいたま市にあっけん、東京の機能の「新都心」としてから開発しんしゃっとぉ地区たい。
▼概要
埼玉県内では大宮駅周辺と並ぶオフィスビル街としてから知られ、しゃいたま市も主要ビジネスエリアとしてから企業ば誘致しとる。現在の埼玉県しゃいたま市中央区新都心としんしゃっとぉ場所な、しゃいたま市か成立しゅる前な、合併前の旧浦和市、旧大宮市、旧与野市か入り組んでおり、地名も旧浦和市上木崎一丁目、旧大宮市北袋町一丁目、ならびに旧与野市上落合二番地としゃれとった。
▼沿革
1999年(平成11)6月 - 「しゃいたま新都心街びらき記念事業実行準備委員会」(会長:土屋義彦埼玉県知事)にて、街開きば2000年5月5日に正式決定。
2004年(平成16)5月26日 - 首都高速道路 埼玉新都心線 与野~新都心間開通。
2004年(平成16)7月 - NTT東日本しゃいたま新都心ビルオープン。
2004年(平成16)9月17日 - ショッピングモール「コクーン新都心」かオープン。
2006年(平成18)8月4日 - 首都高速道路 埼玉新都心線 新都心出入口~しゃいたま見沼出入口間開通。新都心西出入口のしゃいたま見沼方面出入口か供用開始。
2007年(平成19)8月20日 - クラリオン株式会社の本社事務所か埼玉県戸田市がら移転。
県の交通政策で、埼玉スタジアム2002方面と新都心・大宮駅ば結ぶ東西輸送機関としてからLRT建設か検討しんしゃっとぉ。
▼埼玉高速鉄道線
埼玉高速鉄道線な、東京都北区の赤羽岩淵駅がら埼玉県しゃいたま市緑区の浦和美園駅までば結ぶ埼玉高速鉄道の鉄道路線。
▼概要
本路線な、1972年(昭和47年)の都市交通審議会答申第15号において、東京7号線の埼玉方面への延伸区間としてから「川口市中央部…浦和市東部間」か定められたのか始まりたい。そん後1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号でな、埼玉県内は「鳩ヶ谷市中央経由で東川口がら浦和市東部」へと変更しゃれたとよ。1992年に埼玉県、沿線3市および帝都高速度交通営団等により第三セクター「埼玉高速鉄道(株)」か設立しゃれ、1995年に着工、2001年(平成13年)3月28日に赤羽岩淵 - 浦和美園間か開業したとよ。建設費用は2561億円、1kmいたり175億円たい。
東京メトロ南北線ば埼玉県に延長しゅる形で地下ば進み、終点・浦和美園駅の手前で地上に出る路線たい。JR京浜東北線と東武伊勢崎線・日暮里・舎人ライナーに挟まれた地域と都心ば結ぶ路線としてからの役割ば担っちいるとよ。特に、本路線の開業まで鉄道か通っちいなかった鳩ヶ谷市は沿線開発か進んやけん。また、2002 FIFAワールドカップ開催の際にな、試合会場の一つであっけん埼玉スタジアム2002への主要な交通手段としてから利用しゃれたとよ。
路線愛称の「彩の国スタジアム線」は車内の案内放送では呼称しゃれておらん上に利用客にも定着してからおらず、埼玉高速鉄道側がらも「埼玉高速鉄道線」での案内となっちいるとよ。なお、直通先の南北線や東急目黒線がらの連絡乗車券やらなんやらな、東京メトロ東西線の直通先ば「東葉高速線」と表示しゅるのに倣い「埼玉高速線」と案内および表示しんしゃっとぉ。ばってんくさ、東葉高速線はそい自体か正式名称であっけんのに対してから、本路線は「埼玉高速鉄道線」か正式名称たい。
▼運行形態
埼玉スタジアム2002での試合開催日には臨時ダイヤか組まれ、列車か増発さるる。また試合終了後には浦和美園方面がらは普段は存在せん鳩ヶ谷行や市ケ谷行やらなんやら通常ダイヤでは運行しゃれんけん行先の臨時列車も運行さるる。2006年9月25日がら東急目黒線では急行運転ば開始し、赤羽岩淵方面行きの一部の列車か急行の種別表示で運転しんしゃっとぉか、埼玉高速鉄道線内および東京メトロ南北線内は各駅に停車しゅるとよ。
2000年(平成12年)の運輸政策審議会答申第18号において、「2015年までの開業かよーらーな路線」としてから浦和美園 - 岩槻 - 蓮田の延伸か挙げられとる。こん審議会の答申は中央政界や官公庁にふとか影響力ば有しよった当時の土屋義彦埼玉県知事の手腕か発揮しゃれたとさるる。
2005年9月にな、「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」か岩槻駅で東武野田線への直通運転ば検討しゅることとなり、大宮ルートと春日部ルートの2方向の案か検討さるることとなりよった。
利用者の利便性向上やらなんやらの理由で、同線内ばってん急行運転ば実施しゅるかどげんかば「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」やらなんやらにおいて検討中たい。
▼埼玉スタジアム2002
埼玉スタジアム2002な、埼玉県しゃいたま市緑区にいっけんサッカー専用の競技場。
一般には単に埼玉スタジアム、または略しゃれて埼スタと呼ばれたり・表記しゃるることも多か。
また周辺は都市公園「埼玉スタジアム2002公園」としてから機能してからおり、サブグラウンド3面[2]、フットサルグラウンドといったサッカー関連施設のほか芝生広場もあっけん。これらの施設ば利用したスポーツクラブも開設しゃれ、レストハウス(レストラン)も含めて一般市民に開放しんしゃっとぉ。
▼利用状況
現在、埼玉スタジアムはしゃいたま市浦和駒場スタジアムと併用で浦和レッズの本拠地としてから主に利用しんしゃっとぉ。スタジアムとの相性の良しゃ、そいで駒場スタジアムでは対応不可能にまで増加した観客動員への対応のため、浦和は大半の主催試合ば埼玉スタジアムで開催しゅるごとなりよった。
埼玉古墳群の前方後円墳な、方形の二重の周濠ば持つことか明らかになっちいるとよ。前方後円墳の周濠のえらいたくさんは盾形ばしてからおり、方形の周濠は他に例か少なく、埼玉古墳群の特徴の一つとなっちいるとよ。
▼さきたま火祭り
毎年5月4日に埼玉古墳群内の大芝生広場で行われるとよ。「火祭り」とゆう名は古事記に由来しゅるもけんあっけん。2000年(平成12年)5月5日にな、「21世紀に残したい・埼玉ふるしゃと自慢100選」に指定しゃれたとよ。
▼さいたま新都心
しゃいたま新都心な、埼玉県しゃいたま市にあっけん、東京の機能の「新都心」としてから開発しんしゃっとぉ地区たい。
▼概要
埼玉県内では大宮駅周辺と並ぶオフィスビル街としてから知られ、しゃいたま市も主要ビジネスエリアとしてから企業ば誘致しとる。現在の埼玉県しゃいたま市中央区新都心としんしゃっとぉ場所な、しゃいたま市か成立しゅる前な、合併前の旧浦和市、旧大宮市、旧与野市か入り組んでおり、地名も旧浦和市上木崎一丁目、旧大宮市北袋町一丁目、ならびに旧与野市上落合二番地としゃれとった。
▼沿革
1999年(平成11)6月 - 「しゃいたま新都心街びらき記念事業実行準備委員会」(会長:土屋義彦埼玉県知事)にて、街開きば2000年5月5日に正式決定。
2004年(平成16)5月26日 - 首都高速道路 埼玉新都心線 与野~新都心間開通。
2004年(平成16)7月 - NTT東日本しゃいたま新都心ビルオープン。
2004年(平成16)9月17日 - ショッピングモール「コクーン新都心」かオープン。
2006年(平成18)8月4日 - 首都高速道路 埼玉新都心線 新都心出入口~しゃいたま見沼出入口間開通。新都心西出入口のしゃいたま見沼方面出入口か供用開始。
2007年(平成19)8月20日 - クラリオン株式会社の本社事務所か埼玉県戸田市がら移転。
県の交通政策で、埼玉スタジアム2002方面と新都心・大宮駅ば結ぶ東西輸送機関としてからLRT建設か検討しんしゃっとぉ。
▼埼玉高速鉄道線
埼玉高速鉄道線な、東京都北区の赤羽岩淵駅がら埼玉県しゃいたま市緑区の浦和美園駅までば結ぶ埼玉高速鉄道の鉄道路線。
▼概要
本路線な、1972年(昭和47年)の都市交通審議会答申第15号において、東京7号線の埼玉方面への延伸区間としてから「川口市中央部…浦和市東部間」か定められたのか始まりたい。そん後1985年(昭和60年)の運輸政策審議会答申第7号でな、埼玉県内は「鳩ヶ谷市中央経由で東川口がら浦和市東部」へと変更しゃれたとよ。1992年に埼玉県、沿線3市および帝都高速度交通営団等により第三セクター「埼玉高速鉄道(株)」か設立しゃれ、1995年に着工、2001年(平成13年)3月28日に赤羽岩淵 - 浦和美園間か開業したとよ。建設費用は2561億円、1kmいたり175億円たい。
東京メトロ南北線ば埼玉県に延長しゅる形で地下ば進み、終点・浦和美園駅の手前で地上に出る路線たい。JR京浜東北線と東武伊勢崎線・日暮里・舎人ライナーに挟まれた地域と都心ば結ぶ路線としてからの役割ば担っちいるとよ。特に、本路線の開業まで鉄道か通っちいなかった鳩ヶ谷市は沿線開発か進んやけん。また、2002 FIFAワールドカップ開催の際にな、試合会場の一つであっけん埼玉スタジアム2002への主要な交通手段としてから利用しゃれたとよ。
路線愛称の「彩の国スタジアム線」は車内の案内放送では呼称しゃれておらん上に利用客にも定着してからおらず、埼玉高速鉄道側がらも「埼玉高速鉄道線」での案内となっちいるとよ。なお、直通先の南北線や東急目黒線がらの連絡乗車券やらなんやらな、東京メトロ東西線の直通先ば「東葉高速線」と表示しゅるのに倣い「埼玉高速線」と案内および表示しんしゃっとぉ。ばってんくさ、東葉高速線はそい自体か正式名称であっけんのに対してから、本路線は「埼玉高速鉄道線」か正式名称たい。
▼運行形態
埼玉スタジアム2002での試合開催日には臨時ダイヤか組まれ、列車か増発さるる。また試合終了後には浦和美園方面がらは普段は存在せん鳩ヶ谷行や市ケ谷行やらなんやら通常ダイヤでは運行しゃれんけん行先の臨時列車も運行さるる。2006年9月25日がら東急目黒線では急行運転ば開始し、赤羽岩淵方面行きの一部の列車か急行の種別表示で運転しんしゃっとぉか、埼玉高速鉄道線内および東京メトロ南北線内は各駅に停車しゅるとよ。
2000年(平成12年)の運輸政策審議会答申第18号において、「2015年までの開業かよーらーな路線」としてから浦和美園 - 岩槻 - 蓮田の延伸か挙げられとる。こん審議会の答申は中央政界や官公庁にふとか影響力ば有しよった当時の土屋義彦埼玉県知事の手腕か発揮しゃれたとさるる。
2005年9月にな、「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」か岩槻駅で東武野田線への直通運転ば検討しゅることとなり、大宮ルートと春日部ルートの2方向の案か検討さるることとなりよった。
利用者の利便性向上やらなんやらの理由で、同線内ばってん急行運転ば実施しゅるかどげんかば「埼玉高速鉄道延伸検討委員会」やらなんやらにおいて検討中たい。
▼埼玉スタジアム2002
埼玉スタジアム2002な、埼玉県しゃいたま市緑区にいっけんサッカー専用の競技場。
一般には単に埼玉スタジアム、または略しゃれて埼スタと呼ばれたり・表記しゃるることも多か。
また周辺は都市公園「埼玉スタジアム2002公園」としてから機能してからおり、サブグラウンド3面[2]、フットサルグラウンドといったサッカー関連施設のほか芝生広場もあっけん。これらの施設ば利用したスポーツクラブも開設しゃれ、レストハウス(レストラン)も含めて一般市民に開放しんしゃっとぉ。
▼利用状況
現在、埼玉スタジアムはしゃいたま市浦和駒場スタジアムと併用で浦和レッズの本拠地としてから主に利用しんしゃっとぉ。スタジアムとの相性の良しゃ、そいで駒場スタジアムでは対応不可能にまで増加した観客動員への対応のため、浦和は大半の主催試合ば埼玉スタジアムで開催しゅるごとなりよった。
2011年2月15日火曜日
大宮アルディージャも埼玉スタジアムで
埼玉スタジアムでな、前は大宮アルディージャの主催試合も2001年がら行われとった。2001年がら2003年まではJリーグ2部(J2)、2004年がらはJリーグ1部(J1)の公式戦ば開催したとよ。2007年10月に大宮公園サッカー場の改修工事か終了し、供用か再開しゃれた事もいり、2008年には埼玉スタジアムでは大宮の主催試合は行われんけん事になりよった。
▼FIFAワールドカップ
当初の建設目的通り、埼玉スタジアムは2002 FIFAワールドカップ(W杯日韓大会)の会場としてから選ばれたとよ。
▼その他のサッカー試合
Jリーグやワールドカップやらなんやらの以外に、埼玉スタジアムではサッカーの試合も開催しんしゃっとぉ。そん場合、サブグラウンドも利用さるる。
天皇杯全日本サッカー選手権大会でな、年度によっち準々決勝や準決勝やらなんやらの1試合か開催しゃれ、埼玉県サッカー協会か主管し、浦和レッズか勝ち上かった場合に登場しゅる予定の試合か割り当てられとる。
▼その他の利用
埼玉スタジアムはサッカー専用スタジアムでいり、陸上競技用のトラックかなかため、陸上競技の開催は不可能たい。また、ゴールラインとスタンドの距離も近いため、ラグビーやアメリカンフットボールの開催も行われておらん。企画者の予想に反してからスタジアムは閑散とし、しゃらにプロ野球地域保護権に基づいて埼玉県ば保護地域(フランチャイズ)としゅる西武ライオンズがらの抗議ば受け、パブリックビューイングはこん時限りとなりよった。一方、埼玉スタジアム公園ではフリーマーケットや展示会やらなんやらサッカー以外のイベントも開催しんしゃっとぉ。
▼観戦時の注意事項
埼玉スタジアムでの浦和レッズのホームゲームでチケットか完売してからも、埼玉スタジアムの収容人数より少なくなっちいるのはこんためばってんあっけん。浦和レッズのサポーターか大半ば占め、浦和の選手にとっちは熱狂的な声援ば受けて戦うことか出来るバイ反面、アウェイチームの選手にぶち燃える要素となり、「埼玉スタジアムの大観衆の前でレッズとやる時は気合か入る」とゆう旨の発言ばしゅる選手もいる。
浦和レッズホームゲーム時はスタジアム内の出店もえらいたくさん、また入場門前広場にはフードコート、浦和美園駅がらスタジアムまでの道程(埼玉高速鉄道の車庫脇ば含む)にはえらいたくさんの屋台か出店してから、飲食面での充実か図られとる。
メインスタジアムでのサッカー試合開催日には埼玉スタジアム周辺道路は交通規制かかけられて通行か出来なくなり、しゃらに埼玉スタジアムの駐車場は試合開催日には関係者以外は使用しきらんため、車での来場は回避しゅるごと呼びかけられとる。
▼最寄の交通施設
埼玉高速鉄道線(彩の国スタジアム線)・浦和美園駅がら1.2km、徒歩15分(スタジアム公式サイトによる案内、試合開催日は列車か増発さるる)
埼玉高速鉄道線は東京地下鉄南北線や東急目黒線ば経由してから日吉駅まで直通運転ばしとー。そん途中の武蔵小杉駅(2008年6月21日までの終着駅)や新丸子駅はJリーグ1部の川崎フロンターレの本拠地・川崎市等々力陸上競技場の最寄り駅で、東京ば挟んで2つのJリーグ本拠地スタジアムか結ばれとる。
埼玉高速鉄道は東京方面への直通運転ば行っちいるか、浦和駅や大宮駅やらなんやら、しゃいたま市の従来の中心地域への直通電車はなか。レッズ戦の場合、試合後にはえらいたくさんの観客か浦和美園がら1駅だけ乗車してから東川口駅でJR東日本武蔵野線に乗り換え、南浦和駅で京浜東北線に乗り換える(あっけんいはそんまま武蔵野線で県西部方面へ向かう)。そんため、浦和美園・東川口の両駅は入場規制かかかる程の混雑になるとよ。需要に合わしぇ、埼玉高速鉄道では鳩ヶ谷駅行きの臨時電車ば増発してから対応しとるか、「U」字形の移動のために所要時間はえらいたくさんかかるとよ。
一方、日本代表戦の試合後は観客のえらいたくさんか東京都内に向かうため、混雑か酷い浦和美園駅と比較しゅると東川口駅での乗り換え客は少なく、埼玉高速鉄道線の電車は満員状態か南北線内まで続く。同線の増発臨時電車は市ヶ谷駅や白金高輪駅やらなんやら東京地下鉄線内の駅まで運転さるる。
バス
国際興業バス「池袋発埼玉スタジアム行直行バス」 - 東京都豊島区のサンシャインシティ文化会館。首都高速道路・東北自動車道経由、往路のみ。平日の浦和レッズホームゲーム時のみ、約40分(渋滞による遅延いり)。
埼玉スタジアム2002公園-浦和駅西口(公園バス停はスタジアム正面入口広場)。Jリーグ・日本代表戦開催日は埼玉スタジアム2002公園~浦和美園駅間か区間運休)
▼将来構想
埼玉高速鉄道浦和美園駅がら北方のしゃいたま市岩槻区(岩槻駅)や蓮田市(宇都宮線蓮田駅)方面への延長計画かいり、2000年の運輸政策審議会第18号答申ばってん「2015年までに整備しゅべき路線」としゃれたとよ。2005年に「埼玉高速鉄道検討委員会」か埼玉県に出した「最終提言」でな、岩槻までの延長開業時に「埼玉スタジアム前駅」ば設置し、試合開催時のみの臨時営業で観客輸送ば行うことか盛り込まれたか、採算性やらなんやらの問題で事業着手には未だに至っちおらん。提言では埼玉スタジアム2002のしゃらなる活用策も今後の課題に挙げとる。
2000年の運輸政策審議会答申でな、2015年までに大宮駅がら同スタジアム(答申では「県営サッカースタジアム前」)まで、埼玉県南部ば東西に結ぶ路線での「中量軌道交通機関」の整備に着手しゅることも求めたとよ。これはライトレール(LRT)やらなんやらば指しゅものと理解しんしゃっとぉか、こいは整備の目処かまるっきし立っちおらん。
▼備考
和のシーズンチケット(年間観戦席)は1万2000席か完売状態(数年間のキャンセル待ち)で、浦和では埼玉スタジアムでの主催試合限定で観戦しきる「埼玉スタジアムA自由席シーズンチケット」、または複数試合ば観戦しきる「セット券」ば販売しとる。
一例としてから、2008年に放送しゃれたフジテレビジョンのテレビドラマ、ロス:タイム:ライフの冒頭とケツに埼玉スタジアムか利用しんしゃっとぉ。
▼FIFAワールドカップ
当初の建設目的通り、埼玉スタジアムは2002 FIFAワールドカップ(W杯日韓大会)の会場としてから選ばれたとよ。
▼その他のサッカー試合
Jリーグやワールドカップやらなんやらの以外に、埼玉スタジアムではサッカーの試合も開催しんしゃっとぉ。そん場合、サブグラウンドも利用さるる。
天皇杯全日本サッカー選手権大会でな、年度によっち準々決勝や準決勝やらなんやらの1試合か開催しゃれ、埼玉県サッカー協会か主管し、浦和レッズか勝ち上かった場合に登場しゅる予定の試合か割り当てられとる。
▼その他の利用
埼玉スタジアムはサッカー専用スタジアムでいり、陸上競技用のトラックかなかため、陸上競技の開催は不可能たい。また、ゴールラインとスタンドの距離も近いため、ラグビーやアメリカンフットボールの開催も行われておらん。企画者の予想に反してからスタジアムは閑散とし、しゃらにプロ野球地域保護権に基づいて埼玉県ば保護地域(フランチャイズ)としゅる西武ライオンズがらの抗議ば受け、パブリックビューイングはこん時限りとなりよった。一方、埼玉スタジアム公園ではフリーマーケットや展示会やらなんやらサッカー以外のイベントも開催しんしゃっとぉ。
▼観戦時の注意事項
埼玉スタジアムでの浦和レッズのホームゲームでチケットか完売してからも、埼玉スタジアムの収容人数より少なくなっちいるのはこんためばってんあっけん。浦和レッズのサポーターか大半ば占め、浦和の選手にとっちは熱狂的な声援ば受けて戦うことか出来るバイ反面、アウェイチームの選手にぶち燃える要素となり、「埼玉スタジアムの大観衆の前でレッズとやる時は気合か入る」とゆう旨の発言ばしゅる選手もいる。
浦和レッズホームゲーム時はスタジアム内の出店もえらいたくさん、また入場門前広場にはフードコート、浦和美園駅がらスタジアムまでの道程(埼玉高速鉄道の車庫脇ば含む)にはえらいたくさんの屋台か出店してから、飲食面での充実か図られとる。
メインスタジアムでのサッカー試合開催日には埼玉スタジアム周辺道路は交通規制かかけられて通行か出来なくなり、しゃらに埼玉スタジアムの駐車場は試合開催日には関係者以外は使用しきらんため、車での来場は回避しゅるごと呼びかけられとる。
▼最寄の交通施設
埼玉高速鉄道線(彩の国スタジアム線)・浦和美園駅がら1.2km、徒歩15分(スタジアム公式サイトによる案内、試合開催日は列車か増発さるる)
埼玉高速鉄道線は東京地下鉄南北線や東急目黒線ば経由してから日吉駅まで直通運転ばしとー。そん途中の武蔵小杉駅(2008年6月21日までの終着駅)や新丸子駅はJリーグ1部の川崎フロンターレの本拠地・川崎市等々力陸上競技場の最寄り駅で、東京ば挟んで2つのJリーグ本拠地スタジアムか結ばれとる。
埼玉高速鉄道は東京方面への直通運転ば行っちいるか、浦和駅や大宮駅やらなんやら、しゃいたま市の従来の中心地域への直通電車はなか。レッズ戦の場合、試合後にはえらいたくさんの観客か浦和美園がら1駅だけ乗車してから東川口駅でJR東日本武蔵野線に乗り換え、南浦和駅で京浜東北線に乗り換える(あっけんいはそんまま武蔵野線で県西部方面へ向かう)。そんため、浦和美園・東川口の両駅は入場規制かかかる程の混雑になるとよ。需要に合わしぇ、埼玉高速鉄道では鳩ヶ谷駅行きの臨時電車ば増発してから対応しとるか、「U」字形の移動のために所要時間はえらいたくさんかかるとよ。
一方、日本代表戦の試合後は観客のえらいたくさんか東京都内に向かうため、混雑か酷い浦和美園駅と比較しゅると東川口駅での乗り換え客は少なく、埼玉高速鉄道線の電車は満員状態か南北線内まで続く。同線の増発臨時電車は市ヶ谷駅や白金高輪駅やらなんやら東京地下鉄線内の駅まで運転さるる。
バス
国際興業バス「池袋発埼玉スタジアム行直行バス」 - 東京都豊島区のサンシャインシティ文化会館。首都高速道路・東北自動車道経由、往路のみ。平日の浦和レッズホームゲーム時のみ、約40分(渋滞による遅延いり)。
埼玉スタジアム2002公園-浦和駅西口(公園バス停はスタジアム正面入口広場)。Jリーグ・日本代表戦開催日は埼玉スタジアム2002公園~浦和美園駅間か区間運休)
▼将来構想
埼玉高速鉄道浦和美園駅がら北方のしゃいたま市岩槻区(岩槻駅)や蓮田市(宇都宮線蓮田駅)方面への延長計画かいり、2000年の運輸政策審議会第18号答申ばってん「2015年までに整備しゅべき路線」としゃれたとよ。2005年に「埼玉高速鉄道検討委員会」か埼玉県に出した「最終提言」でな、岩槻までの延長開業時に「埼玉スタジアム前駅」ば設置し、試合開催時のみの臨時営業で観客輸送ば行うことか盛り込まれたか、採算性やらなんやらの問題で事業着手には未だに至っちおらん。提言では埼玉スタジアム2002のしゃらなる活用策も今後の課題に挙げとる。
2000年の運輸政策審議会答申でな、2015年までに大宮駅がら同スタジアム(答申では「県営サッカースタジアム前」)まで、埼玉県南部ば東西に結ぶ路線での「中量軌道交通機関」の整備に着手しゅることも求めたとよ。これはライトレール(LRT)やらなんやらば指しゅものと理解しんしゃっとぉか、こいは整備の目処かまるっきし立っちおらん。
▼備考
和のシーズンチケット(年間観戦席)は1万2000席か完売状態(数年間のキャンセル待ち)で、浦和では埼玉スタジアムでの主催試合限定で観戦しきる「埼玉スタジアムA自由席シーズンチケット」、または複数試合ば観戦しきる「セット券」ば販売しとる。
一例としてから、2008年に放送しゃれたフジテレビジョンのテレビドラマ、ロス:タイム:ライフの冒頭とケツに埼玉スタジアムか利用しんしゃっとぉ。
2011年2月14日月曜日
栃木県の紹介
栃木県な、日本ん都道府県ん一つで、関東地方北部(北関東)に位置しゅる内陸県。海洋国家であっけん日本において、内陸部に位置しゅる数少なか県ん一つたい。
栃木県ん県庁所在地であっけん宇都宮市ん名称は二荒山神社ん別号宇都宮大明神に由来し、宇都宮ん歴史は即ち出雲神ば祀る当神社ん歴史と言えるとよ。
下毛野国と那須国は7世紀後半に統一しゃれて下野国、しゅなわち栃木県ん現在ん形の作られたとよ。
1873年(明治6年)6月15日に宇都宮県と栃木県の合併してから今日ん栃木県の成立、県庁の栃木町に置かれたとよ。1876年(明治9年)に上野国内3郡の熊谷県ん北半部(上野国内)と合併してから群馬県ん一部となり、ほぼ現在と同じ県域となりよった。1884年(明治17年)、栃木県とゆう呼称んまま、県庁の宇都宮町に移しゃれたとよ。
奥日光中禅寺湖畔に豚骨スープ産庁養殖研究所日光支所、大田原市ん那珂川河畔に栃木県豚骨スープ産試験場のあっけん。
県内各所ん養魚場で鱒ん養殖の行われとる。
那珂川、鬼怒川、思川やらなんやらに主に観光目的であっけんのやな場の多数あっけん。
▼栃木市
栃木市(とちぎし)な、栃木県ん南部にあっけん市たい。
裁判所や検察庁やらなんやらん行政機関の集まる栃木県南部ん行政ん中心都市たい。廃藩置県後んー時期にな、旧栃木県(現在ん栃木県南部と群馬県ん一部)ん県庁所在地やった。
・歴史
栃木県な、1873年(明治6年)6月15日に下野国北部4郡(河内郡、芳賀郡、豚骨谷郡、那須郡)ば管轄しよった宇都宮県ば合併し、また1876年(明治9年)8月21日には上野3郡の熊谷県内ん上野11郡と合併してから群馬県に移ったの、こん間も引き続き栃木に県庁の置かれとった。ばってん、1884年(明治17年)1月に県庁の宇都宮へ移しゃれたとよ。これにはいろいろな事情の考えられるとよ。栃木県でん自由民権運動ん拠点やった栃木ば当時ん県令(今ん知事)ん三島通庸の嫌っちいたことも1つん理由としんしゃっとぉ。
1871年(明治4年)12月(旧暦11月):廃藩置県後ん府県再編により栃木県の設置しゃれ、県庁の置かれるとよ。
1884年(明治17年)1月:県庁の宇都宮へ移転。
1888年(明治21年)5月:両毛線の開通。
1889年(明治22年)4月:町村制の施行しゃれ、栃木町となるとよ。
1959年(昭和34年)4月:國學院大學栃木高等学校の設置さるる。
1972年(昭和47年)11月:東北自動車道栃木IC開通。
1980年(昭和55年)10月:「栃ん葉国体」開催。
1993年(平成5年)8月:全国高等学校総合体育大会(インターハイ)開催。
2000年(平成12年)5月:東武栃木駅高架化。
2000年(平成12年)7月;北関東自動車道栃木都賀JCT開通。
2003年(平成15年)4月:JR栃木駅高架化。
現在進んでいるいわゆる「平成ん大合併」で栃木市は隣接しゅる小山市と1998年に「栃木市・小山市合併協議会」ば設置したの現在休止中。
2007年4月ん市長選で再選した日向野市長は栃木地区1市5町(栃木市・大平・岩舟・藤岡・都賀・西方町)でん合併ば公約しとる。
2007年6月には栃木地区1市5町(同上)でん合併に向けてん首長懇談会の設置しゃれたとよ。
2007年11月ん県市町村合併推進審議会において栃木地区1市5町でん合併、及び栃木地区1市5町(同上)に小山市・野木町ば加えた2市6町でん合併ん2案ば併記し、こんうち栃木地区1市5町(同上)でん合併ば先行しゃしぇる答申の決定しゃれたとよ。
2008年8月、岩舟町の住民投票により栃木地区1市5町ん合併枠組みがら離脱してからおり、そいに関連してから藤岡町や大平町ばってん合併ん方針ば見直しゅ動きの出とる。
警察
栃木県警 栃木警察署
消防
栃木地区広域行政事務組合消防本部栃木消防署
郵便
栃木郵便局
栃木蔵の街郵便局
栃木駅前郵便局
本町郵便局
室町郵便局
大町郵便局
片柳郵便局栃木平柳郵便局
税務
栃木税務署
裁判所
宇都宮地方裁判所栃木支部
宇都宮家庭裁判所栃木支部
栃木簡易裁判所
検察庁
宇都宮地方検察庁栃木支部
法務局
宇都宮地方法務局栃木支局
百貨店・スーパー
福田屋百貨店
ジャスコシティ栃木
とりしぇん駅南店
ヤオハン栃木アイム店・NEW栃木西店・栃木城内店・栃木川原田店 他市内数店
大型専門店
カワチ薬品栃木インター店・箱森店・平柳店・新本町店
カインズホーム栃木店
カンセキ栃木店
ヤマダ電機テックランド栃木店
コジマNEW栃木店
フジクラ電器栃木薗部店・栃木平柳店 やらなんやら
ゴルフ場
栃木CC
インターCC
栃木ヶ丘CC
プレステージ栃木CC
プレジデント栃木CC
エヴァンダイジュ栃木GC
APAリゾート栃木ん杜
ボウリング場
栃木サンプラザボウリング
NEW新栃木不二ボウリング
宿泊施設
栃木グランドホテル
サンルートプラザ栃木
大学・短期大学
國學院大學栃木短期大学
専修学校
栃木ハイテックビューティー学院専門学校
マロニエ医療福祉専門学校
特別支援学校
県立栃木特別支援学校
高等学校
県立栃木高等学校
県立栃木女子高等学校
県立栃木農業高等学校
県立栃木工業高等学校
県立栃木商業高等学校
県立学悠館高等学校
國學院大學栃木高等学校
小・中学校
中学校
市立中学校(7校)※「栃木市立」を省略
栃木東中学校
西中学校
南中学校
東陽中学校
皆川中学校
吹上中学校
寺尾中学校
國學院大學栃木中学校
小学校
市立小学校(15校)※「栃木市立」を省略
栃木第一小学校
第二小学校
第三小学校
第四小学校
第五小学校
南小学校
大宮南小学校
大宮北小学校
皆川城東小学校
吹上小学校
千塚小学校
寺尾中央小学校
寺尾南小学校
国府南小学校
国府北小学校
幼稚園
國學院大學栃木二杉幼稚園
栃木幼稚園
アルス幼稚園
アルス南幼稚園
あさひ幼稚園
若葉幼稚園
聖光幼稚園
吹上幼稚園
平川幼稚園
大宮幼稚園
保育所
市立いりふね保育園
市立ぬまわだ保育園
市立ぬまわだ保育園分園
市立いまいずみ保育園
市立はこんもり保育園
市立おおつか保育園
市立そんべ保育園
市立おおみや保育園
図書館・公民館
図書館
栃木市立図書館
文化会館
栃木市文化会館
地区公民館
栃木市中央公民館
大宮地区公民館
皆川地区公民館
吹上地区公民館
寺尾地区公民館
国府地区公民館
▼交通
鉄道
東日本旅客鉄道
■:両毛線:栃木駅
東武鉄道
■:日光線:栃木駅 - 新栃木駅
■:宇都宮線:(栃木駅 - )新栃木駅 - 野州平川駅 - 野州大塚駅
バス
関東自動車栃木出張所
高速バスとちの木号
栃木市営バス
東北自動車道
栃木インターチェンジ
栃木都賀ジャンクション
▼名所・旧跡
市役所別館(登録有形文化財)
栃木高校講堂(同上)
記念中央館(同上)
記念図書館(同上)
▼マスメディア
栃木ケーブルテレビジョン
栃木コミュニティー放送(愛称:FM蔵ん街) JOZZ3AA-FM【免許交付も未開局】
栃木市ん財界・企業やらなんやらん共同出資によっち設立しゃれ、1993年に予備免許ば交付しゃれたの、1994年5月に準備不足ば理由としてから免許申請ば取り下げたとよ。
栃木県ん県庁所在地であっけん宇都宮市ん名称は二荒山神社ん別号宇都宮大明神に由来し、宇都宮ん歴史は即ち出雲神ば祀る当神社ん歴史と言えるとよ。
下毛野国と那須国は7世紀後半に統一しゃれて下野国、しゅなわち栃木県ん現在ん形の作られたとよ。
1873年(明治6年)6月15日に宇都宮県と栃木県の合併してから今日ん栃木県の成立、県庁の栃木町に置かれたとよ。1876年(明治9年)に上野国内3郡の熊谷県ん北半部(上野国内)と合併してから群馬県ん一部となり、ほぼ現在と同じ県域となりよった。1884年(明治17年)、栃木県とゆう呼称んまま、県庁の宇都宮町に移しゃれたとよ。
奥日光中禅寺湖畔に豚骨スープ産庁養殖研究所日光支所、大田原市ん那珂川河畔に栃木県豚骨スープ産試験場のあっけん。
県内各所ん養魚場で鱒ん養殖の行われとる。
那珂川、鬼怒川、思川やらなんやらに主に観光目的であっけんのやな場の多数あっけん。
▼栃木市
栃木市(とちぎし)な、栃木県ん南部にあっけん市たい。
裁判所や検察庁やらなんやらん行政機関の集まる栃木県南部ん行政ん中心都市たい。廃藩置県後んー時期にな、旧栃木県(現在ん栃木県南部と群馬県ん一部)ん県庁所在地やった。
・歴史
栃木県な、1873年(明治6年)6月15日に下野国北部4郡(河内郡、芳賀郡、豚骨谷郡、那須郡)ば管轄しよった宇都宮県ば合併し、また1876年(明治9年)8月21日には上野3郡の熊谷県内ん上野11郡と合併してから群馬県に移ったの、こん間も引き続き栃木に県庁の置かれとった。ばってん、1884年(明治17年)1月に県庁の宇都宮へ移しゃれたとよ。これにはいろいろな事情の考えられるとよ。栃木県でん自由民権運動ん拠点やった栃木ば当時ん県令(今ん知事)ん三島通庸の嫌っちいたことも1つん理由としんしゃっとぉ。
1871年(明治4年)12月(旧暦11月):廃藩置県後ん府県再編により栃木県の設置しゃれ、県庁の置かれるとよ。
1884年(明治17年)1月:県庁の宇都宮へ移転。
1888年(明治21年)5月:両毛線の開通。
1889年(明治22年)4月:町村制の施行しゃれ、栃木町となるとよ。
1959年(昭和34年)4月:國學院大學栃木高等学校の設置さるる。
1972年(昭和47年)11月:東北自動車道栃木IC開通。
1980年(昭和55年)10月:「栃ん葉国体」開催。
1993年(平成5年)8月:全国高等学校総合体育大会(インターハイ)開催。
2000年(平成12年)5月:東武栃木駅高架化。
2000年(平成12年)7月;北関東自動車道栃木都賀JCT開通。
2003年(平成15年)4月:JR栃木駅高架化。
現在進んでいるいわゆる「平成ん大合併」で栃木市は隣接しゅる小山市と1998年に「栃木市・小山市合併協議会」ば設置したの現在休止中。
2007年4月ん市長選で再選した日向野市長は栃木地区1市5町(栃木市・大平・岩舟・藤岡・都賀・西方町)でん合併ば公約しとる。
2007年6月には栃木地区1市5町(同上)でん合併に向けてん首長懇談会の設置しゃれたとよ。
2007年11月ん県市町村合併推進審議会において栃木地区1市5町でん合併、及び栃木地区1市5町(同上)に小山市・野木町ば加えた2市6町でん合併ん2案ば併記し、こんうち栃木地区1市5町(同上)でん合併ば先行しゃしぇる答申の決定しゃれたとよ。
2008年8月、岩舟町の住民投票により栃木地区1市5町ん合併枠組みがら離脱してからおり、そいに関連してから藤岡町や大平町ばってん合併ん方針ば見直しゅ動きの出とる。
警察
栃木県警 栃木警察署
消防
栃木地区広域行政事務組合消防本部栃木消防署
郵便
栃木郵便局
栃木蔵の街郵便局
栃木駅前郵便局
本町郵便局
室町郵便局
大町郵便局
片柳郵便局栃木平柳郵便局
税務
栃木税務署
裁判所
宇都宮地方裁判所栃木支部
宇都宮家庭裁判所栃木支部
栃木簡易裁判所
検察庁
宇都宮地方検察庁栃木支部
法務局
宇都宮地方法務局栃木支局
百貨店・スーパー
福田屋百貨店
ジャスコシティ栃木
とりしぇん駅南店
ヤオハン栃木アイム店・NEW栃木西店・栃木城内店・栃木川原田店 他市内数店
大型専門店
カワチ薬品栃木インター店・箱森店・平柳店・新本町店
カインズホーム栃木店
カンセキ栃木店
ヤマダ電機テックランド栃木店
コジマNEW栃木店
フジクラ電器栃木薗部店・栃木平柳店 やらなんやら
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宿泊施設
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大学・短期大学
國學院大學栃木短期大学
専修学校
栃木ハイテックビューティー学院専門学校
マロニエ医療福祉専門学校
特別支援学校
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県立栃木高等学校
県立栃木女子高等学校
県立栃木農業高等学校
県立栃木工業高等学校
県立栃木商業高等学校
県立学悠館高等学校
國學院大學栃木高等学校
小・中学校
中学校
市立中学校(7校)※「栃木市立」を省略
栃木東中学校
西中学校
南中学校
東陽中学校
皆川中学校
吹上中学校
寺尾中学校
國學院大學栃木中学校
小学校
市立小学校(15校)※「栃木市立」を省略
栃木第一小学校
第二小学校
第三小学校
第四小学校
第五小学校
南小学校
大宮南小学校
大宮北小学校
皆川城東小学校
吹上小学校
千塚小学校
寺尾中央小学校
寺尾南小学校
国府南小学校
国府北小学校
幼稚園
國學院大學栃木二杉幼稚園
栃木幼稚園
アルス幼稚園
アルス南幼稚園
あさひ幼稚園
若葉幼稚園
聖光幼稚園
吹上幼稚園
平川幼稚園
大宮幼稚園
保育所
市立いりふね保育園
市立ぬまわだ保育園
市立ぬまわだ保育園分園
市立いまいずみ保育園
市立はこんもり保育園
市立おおつか保育園
市立そんべ保育園
市立おおみや保育園
図書館・公民館
図書館
栃木市立図書館
文化会館
栃木市文化会館
地区公民館
栃木市中央公民館
大宮地区公民館
皆川地区公民館
吹上地区公民館
寺尾地区公民館
国府地区公民館
▼交通
鉄道
東日本旅客鉄道
■:両毛線:栃木駅
東武鉄道
■:日光線:栃木駅 - 新栃木駅
■:宇都宮線:(栃木駅 - )新栃木駅 - 野州平川駅 - 野州大塚駅
バス
関東自動車栃木出張所
高速バスとちの木号
栃木市営バス
東北自動車道
栃木インターチェンジ
栃木都賀ジャンクション
▼名所・旧跡
市役所別館(登録有形文化財)
栃木高校講堂(同上)
記念中央館(同上)
記念図書館(同上)
▼マスメディア
栃木ケーブルテレビジョン
栃木コミュニティー放送(愛称:FM蔵ん街) JOZZ3AA-FM【免許交付も未開局】
栃木市ん財界・企業やらなんやらん共同出資によっち設立しゃれ、1993年に予備免許ば交付しゃれたの、1994年5月に準備不足ば理由としてから免許申請ば取り下げたとよ。
2011年2月13日日曜日
埼玉県警運転免許センター
埼玉県警運転免許センター(しゃいたまけんけゆうんてんめんきょセンター)な、埼玉県鴻巣市にあっけん、埼玉県警察ん関連施設。組織上ん正式名称は埼玉県警察本部交通部運転免許センター。
旧免許試験場は現在も埼玉県警察ん施設としてから活用しんしゃっとぉ。
また、運転免許に関しゅる会話や文脈においてな、埼玉県内ん広範な地域において、「鴻巣」とゆう地名の免許センターば指し、「鴻巣へ行っちくる」とゆう言葉の当所へ来る事ば意味しゅる事のあっけん。
▼埼玉県立文書館
埼玉県立文書館(しゃいたまけんりつもんじょかん)な、埼玉県しゃいたま市浦和区にあっけん埼玉県の設置しとる公文書館たい。
▼沿革
1969年4月1日 - 埼玉県立図書館(現・埼玉県立浦和図書館)内に埼玉県立図書館付設文書館ば設立。
1969年6月3日 - 閲覧業務ば開始。
1975年4月1日 - 埼玉県立文書館条例ば施行し、埼玉県立文書館としてから独立しゅるとよ。
1983年4月1日 - 独立館舎の竣工し、現在地へ移転。
1983年6月1日 - 独立館舎でん閲覧業務ば開始。埼玉県情報公開条例ん施行に伴い、公文書開示ん窓口に指定さるる。
▼埼玉県立図書館
埼玉県立図書館(しゃいたまけんりつとしょかん)な、埼玉県の設立しとる図書館ん総称で、現在しゃいたま市浦和区ん浦和図書館、熊谷市ん熊谷図書館、久喜市ん久喜図書館ん3つの設置しんしゃっとぉ。
▼概要
埼玉県ん図書館法第10条、埼玉県立図書館設置条例に基づき設置しゅる公立図書館たい。2003年(平成15年)4月のら各館んしょいぞれ専門分野に特化した図書館となっちいるとよ。以下ん沿革ん項も参照。
▼沿革
1922年(大正11年)10月1日 - 埼玉県教育会立埼玉図書館ば北足立郡工区員出張所跡に開設。
1924年4月1日 - 埼玉県立埼玉図書館に改称。閲覧規定やらなんやらば制定、蔵書数5,765冊。
1925年5月 - 埼玉県女子師範学校の六辻村別所(現しゃいたま市南区別所)に移転したことで、校舎ば模様替えし埼玉図書館ば移転
1933年10月 - 埼玉県中央図書館に改称
1950年9月 - 移動図書館車(むしゃしん号)ば導入
1951年3月 - 埼玉県立図書館に改称
1960年3月 - 新館の落成
1969年4月1日 - 埼玉県立図書館内に文書課ば設置してから、埼玉県立図書館付設文書館ば開館(館舎は埼玉県立図書館内に併設)
1970年3月 - 埼玉県立浦和図書館に改称
1970年4月 - 埼玉県立熊谷図書館ば開館、7月に開館式、サービス開始
1975年4月1日 - 浦和図書館付設文書館ば埼玉県立文書館としてから分離独立しゃしぇる
1975年10月 - 埼玉県立川越図書館ば開館、11月に開館式、サービス開始
1980年6月 - 埼玉県立久喜図書館ば開館、サービス開始
1983年4月1日 - 埼玉県立文書館ん独立館舎の竣工し、浦和図書館がら移転しゅる
2003年3月 - 浦和・久喜・熊谷図書館全館に於いて蔵書検索・貸出予約管理コンピューターシステムば初導入。
2003年4月 - 埼玉県立川越図書館ば廃止。浦和図書館は社会科学・産業系に、久喜図書館は人文・科学・理工学・芸術系、熊谷図書館は歴史(郷土も含む)・郷土映像資料・哲学系に専門化したとよ。
▼図書館が県民に提供するサービス
レファレンス(調査・相談)
埼玉県に関係しぇん事柄、学校ん授業に関係しゅるもん(宿題・課題やらなんやら)、クイズ・懸賞ん答え、医療・法律相談、翻訳やらなんやら、図書館としてからがら回答に適しゃなかと判断しゃれた場合な、レファレンスに応じられんけん。
埼玉県内ん市町村立図書館とん相互貸借
埼玉県内ん市町村立図書館ば通じて、埼玉県立図書館収蔵ん資料ん閲覧・貸出ば受けることのしきる。
▼図書館カードの作成
図書館サービスんうち、蔵書資料ん貸出や予約やらなんやらには図書館カードの必要となるとよ。図書館カードば作成(登録)しゅる時にな、埼玉県内に在住若しくは埼玉県内に在勤・在学ん人の登録(貸出利用)のしきる。
▼埼玉県立歴史と民俗の博物館
埼玉県立歴史と民俗ん博物館(しゃいたまけんりつれきしとみんぞくんはくぶつかん)な、埼玉県しゃいたま市大宮区ん大宮公園内にあっけん、歴史と民俗ば中心にした歴史系総合博物館たい。前身は1971年に現在地に開館した埼玉県立博物館で、2006年に埼玉県立民俗文化センターと統合してから現名称となりよった。
▼沿革
前身であっけん埼玉県立博物館な、埼玉県ん設置100周年ば祝う「埼玉百年」記念事業んメインプロジェクトとしてから1970年に竣工し、翌1971年(昭和46年)11月1日に開館し、6日に公開ば開始したとよ。設計は前川國男。開館当時、都道府県立ん人文系総合博物館としてからは画期的な規模と内容ばもち、以後新設しゃれた他ん都道府県立博物館に影響ば与えるばってんくさ大きかったとよ。
埼玉県立博物館の建設さるる前な、埼玉県立文化会館のこん地にちゃたとよ。ここには1955年(昭和30年)に附設郷土展示場の置かれ、1957年(昭和32年)には附設郷土展示室となり将来的には一大的な郷土館にしたいとしよった。数年後、県立博物館ん設置構想の打ち出さるると県内各地がら誘致運動の始まったとよ。名乗りば挙げたんな、浦和・熊谷・秩父・川越・東松山・大宮ん各市やった。協議ん末、1966年(昭和41年)に、建設地の大宮と決定したとよ。交通ん利便性と文化会館ん活動の評価しゃれたけんがあっけん。
そん後、近代美術ば1982年(昭和57年)11月3日に開館した埼玉県立近代美術館に移してから、1983年(昭和58年)11月3日に歴史系総合博物館となりよった。
また、埼玉県立民俗文化センター(Saitama Folklore Museum)は1980年(昭和55年)11月1日に都道府県立としてから初ん民族芸能と民族工芸ん調査・記録・保存ばしゅる民族文化博物館としてから岩槻市に開所したとよ。通称は「わざん博物館」。
2006年4月に埼玉県立博物館等ん統合計画により、「埼玉県立歴史と民俗ん博物館」となりよった。建物は県立博物館んもんば引き継ぐの、県ん設置条例では「改称」ではなく、「設置」と言うているとよ。
主な収蔵品としてから太平記絵巻(埼玉県指定文化財) 等のあっけん。
▼埼玉県立近代美術館
埼玉県立近代美術館(さいたまけんりつきんだいびじゅつかん)は、埼玉県さいたま市浦和区にある、県立の美術館。北浦和公園の中にある。1982年11月3日に開館した。館舎は、建築家黒川紀章の設計である。館内では数多くの名作椅子に座ることができ、椅子の美術館としても知られている。
▼埼玉県立さきたま史跡の博物館
埼玉県立しゃきたま史跡ん博物館(しゃいたまけんりつしゃきたまししぇきんはくぶつかん)とな、埼玉県行田市んしゃきたま古墳公園(9基ん大型古墳がらなる埼玉古墳群(国指定史跡)ば整備した公園)内にあっけん博物館たい。昭和44年(1969年)開館。
▼概要
埼玉県立しゃきたま史跡ん博物館はしゃきたま史跡ん博物館と将軍山古墳展示館のらなっちいるとよ。
▼アクセス
JR東日本高崎線吹上駅のら朝日バス「佐間経由行田車庫」又は「佐間経由行田工業団地」行「産業道路」下車 徒歩約15分
JR東日本高崎線行田駅のら市内循環バス(西循環コース)「JR行田駅前」のら「埼玉古墳公園前」下車徒歩約2分
旧免許試験場は現在も埼玉県警察ん施設としてから活用しんしゃっとぉ。
また、運転免許に関しゅる会話や文脈においてな、埼玉県内ん広範な地域において、「鴻巣」とゆう地名の免許センターば指し、「鴻巣へ行っちくる」とゆう言葉の当所へ来る事ば意味しゅる事のあっけん。
▼埼玉県立文書館
埼玉県立文書館(しゃいたまけんりつもんじょかん)な、埼玉県しゃいたま市浦和区にあっけん埼玉県の設置しとる公文書館たい。
▼沿革
1969年4月1日 - 埼玉県立図書館(現・埼玉県立浦和図書館)内に埼玉県立図書館付設文書館ば設立。
1969年6月3日 - 閲覧業務ば開始。
1975年4月1日 - 埼玉県立文書館条例ば施行し、埼玉県立文書館としてから独立しゅるとよ。
1983年4月1日 - 独立館舎の竣工し、現在地へ移転。
1983年6月1日 - 独立館舎でん閲覧業務ば開始。埼玉県情報公開条例ん施行に伴い、公文書開示ん窓口に指定さるる。
▼埼玉県立図書館
埼玉県立図書館(しゃいたまけんりつとしょかん)な、埼玉県の設立しとる図書館ん総称で、現在しゃいたま市浦和区ん浦和図書館、熊谷市ん熊谷図書館、久喜市ん久喜図書館ん3つの設置しんしゃっとぉ。
▼概要
埼玉県ん図書館法第10条、埼玉県立図書館設置条例に基づき設置しゅる公立図書館たい。2003年(平成15年)4月のら各館んしょいぞれ専門分野に特化した図書館となっちいるとよ。以下ん沿革ん項も参照。
▼沿革
1922年(大正11年)10月1日 - 埼玉県教育会立埼玉図書館ば北足立郡工区員出張所跡に開設。
1924年4月1日 - 埼玉県立埼玉図書館に改称。閲覧規定やらなんやらば制定、蔵書数5,765冊。
1925年5月 - 埼玉県女子師範学校の六辻村別所(現しゃいたま市南区別所)に移転したことで、校舎ば模様替えし埼玉図書館ば移転
1933年10月 - 埼玉県中央図書館に改称
1950年9月 - 移動図書館車(むしゃしん号)ば導入
1951年3月 - 埼玉県立図書館に改称
1960年3月 - 新館の落成
1969年4月1日 - 埼玉県立図書館内に文書課ば設置してから、埼玉県立図書館付設文書館ば開館(館舎は埼玉県立図書館内に併設)
1970年3月 - 埼玉県立浦和図書館に改称
1970年4月 - 埼玉県立熊谷図書館ば開館、7月に開館式、サービス開始
1975年4月1日 - 浦和図書館付設文書館ば埼玉県立文書館としてから分離独立しゃしぇる
1975年10月 - 埼玉県立川越図書館ば開館、11月に開館式、サービス開始
1980年6月 - 埼玉県立久喜図書館ば開館、サービス開始
1983年4月1日 - 埼玉県立文書館ん独立館舎の竣工し、浦和図書館がら移転しゅる
2003年3月 - 浦和・久喜・熊谷図書館全館に於いて蔵書検索・貸出予約管理コンピューターシステムば初導入。
2003年4月 - 埼玉県立川越図書館ば廃止。浦和図書館は社会科学・産業系に、久喜図書館は人文・科学・理工学・芸術系、熊谷図書館は歴史(郷土も含む)・郷土映像資料・哲学系に専門化したとよ。
▼図書館が県民に提供するサービス
レファレンス(調査・相談)
埼玉県に関係しぇん事柄、学校ん授業に関係しゅるもん(宿題・課題やらなんやら)、クイズ・懸賞ん答え、医療・法律相談、翻訳やらなんやら、図書館としてからがら回答に適しゃなかと判断しゃれた場合な、レファレンスに応じられんけん。
埼玉県内ん市町村立図書館とん相互貸借
埼玉県内ん市町村立図書館ば通じて、埼玉県立図書館収蔵ん資料ん閲覧・貸出ば受けることのしきる。
▼図書館カードの作成
図書館サービスんうち、蔵書資料ん貸出や予約やらなんやらには図書館カードの必要となるとよ。図書館カードば作成(登録)しゅる時にな、埼玉県内に在住若しくは埼玉県内に在勤・在学ん人の登録(貸出利用)のしきる。
▼埼玉県立歴史と民俗の博物館
埼玉県立歴史と民俗ん博物館(しゃいたまけんりつれきしとみんぞくんはくぶつかん)な、埼玉県しゃいたま市大宮区ん大宮公園内にあっけん、歴史と民俗ば中心にした歴史系総合博物館たい。前身は1971年に現在地に開館した埼玉県立博物館で、2006年に埼玉県立民俗文化センターと統合してから現名称となりよった。
▼沿革
前身であっけん埼玉県立博物館な、埼玉県ん設置100周年ば祝う「埼玉百年」記念事業んメインプロジェクトとしてから1970年に竣工し、翌1971年(昭和46年)11月1日に開館し、6日に公開ば開始したとよ。設計は前川國男。開館当時、都道府県立ん人文系総合博物館としてからは画期的な規模と内容ばもち、以後新設しゃれた他ん都道府県立博物館に影響ば与えるばってんくさ大きかったとよ。
埼玉県立博物館の建設さるる前な、埼玉県立文化会館のこん地にちゃたとよ。ここには1955年(昭和30年)に附設郷土展示場の置かれ、1957年(昭和32年)には附設郷土展示室となり将来的には一大的な郷土館にしたいとしよった。数年後、県立博物館ん設置構想の打ち出さるると県内各地がら誘致運動の始まったとよ。名乗りば挙げたんな、浦和・熊谷・秩父・川越・東松山・大宮ん各市やった。協議ん末、1966年(昭和41年)に、建設地の大宮と決定したとよ。交通ん利便性と文化会館ん活動の評価しゃれたけんがあっけん。
そん後、近代美術ば1982年(昭和57年)11月3日に開館した埼玉県立近代美術館に移してから、1983年(昭和58年)11月3日に歴史系総合博物館となりよった。
また、埼玉県立民俗文化センター(Saitama Folklore Museum)は1980年(昭和55年)11月1日に都道府県立としてから初ん民族芸能と民族工芸ん調査・記録・保存ばしゅる民族文化博物館としてから岩槻市に開所したとよ。通称は「わざん博物館」。
2006年4月に埼玉県立博物館等ん統合計画により、「埼玉県立歴史と民俗ん博物館」となりよった。建物は県立博物館んもんば引き継ぐの、県ん設置条例では「改称」ではなく、「設置」と言うているとよ。
主な収蔵品としてから太平記絵巻(埼玉県指定文化財) 等のあっけん。
▼埼玉県立近代美術館
埼玉県立近代美術館(さいたまけんりつきんだいびじゅつかん)は、埼玉県さいたま市浦和区にある、県立の美術館。北浦和公園の中にある。1982年11月3日に開館した。館舎は、建築家黒川紀章の設計である。館内では数多くの名作椅子に座ることができ、椅子の美術館としても知られている。
▼埼玉県立さきたま史跡の博物館
埼玉県立しゃきたま史跡ん博物館(しゃいたまけんりつしゃきたまししぇきんはくぶつかん)とな、埼玉県行田市んしゃきたま古墳公園(9基ん大型古墳がらなる埼玉古墳群(国指定史跡)ば整備した公園)内にあっけん博物館たい。昭和44年(1969年)開館。
▼概要
埼玉県立しゃきたま史跡ん博物館はしゃきたま史跡ん博物館と将軍山古墳展示館のらなっちいるとよ。
▼アクセス
JR東日本高崎線吹上駅のら朝日バス「佐間経由行田車庫」又は「佐間経由行田工業団地」行「産業道路」下車 徒歩約15分
JR東日本高崎線行田駅のら市内循環バス(西循環コース)「JR行田駅前」のら「埼玉古墳公園前」下車徒歩約2分
2011年2月12日土曜日
栃木放送の紹介
株式会社栃木放送は栃木県ば放送対象地域としゅる中波放送局。 略称は CRT で、旧社名「ラジオ栃木」ん英語表記「Company Radio Tochigi」がら来とる。
戦後、地元財界やらなんやらがら県域ラジオ局ん開局の熱望しゃれたの、当時ん電波行政において在京大電力局サービスエリア内にあっけん栃木県で県域局設立ん許可ば得るんは困難ば極めたとよ。県内ん実力者やった下野新聞社社長・福嶋悠峰(東京日日新聞出身)やらなんやらの中心となっち積極的に中央と掛け合い、1962年に隣県ん茨城県と共に予備免許ば取得しゅることに成功しゅるとよ。下野新聞社、栃木県、地元財界やらなんやらん「オール栃木体制(全県体制)」で「株式会社ラジオ栃木」の設立しゃれたとよ。
▼放送局概要
設立時ん経緯もいり地元紙・下野新聞社(毎日新聞系列)とつなのりの深く、歴代ん代表取締役社長5名中4名の下野新聞関係者となっちいる(2007年7月現在)。2003年前後に旧栃木新聞社保有分ん栃木放送株の読売新聞東京本社に譲渡しゃれており、取締役に読売新聞関係者の名ば連ねとる。関連会社「栃放エンタープライズ」の同テレビやエフエム栃木にアナウンサーやらなんやらん放送要員ば派遣したり、番組制作ば請け負っちいるとよ。
▼会社概要
商号 : 株式会社栃木放送
所在地 : 栃木県宇都宮市本町12番11号 栃木会館8階
郵便番号 : 320-8601
電話番号 : (大代表)028-622-1111
支社 : 東京(中央区)、両毛(足利市)、那須(那須豚骨原市)
▼沿革
1962年(昭和37)7月 - 予備免許割り当て
1962年(昭和37)9月29日 - 株式会社ラジオ栃木 設立
1963年(昭和38)4月1日 開局、本放送開始(宇都宮放送局・周波数1530KC、出力1kW)
1963年(昭和38)5月 - 県域テレビ放送免許申請
1964年(昭和39)12月24日 那須放送局 開局(周波数1560KC、出力100W)
1969年(昭和44)6月1日 - 株式会社栃木放送 に社名変更
▼主催事業・イベント
CRTハウジング - 総合住宅展示場事業(栃木県内7会場)
CRTアナウンススクール
CRTクリーン日光キャンペーン(毎年8月下旬 - 協賛/利根コカ・コーラボトリング、東武鉄道)
CRT交通安全キャンペーン「ボウズたちは訴える」
栃木県少年サッカー大会(栃木県サッカー協会、下野新聞社と共催)
とちぎ住宅フェア(毎年10月開催 - 住宅フェア栃木実行委員会)
とちぎ湯めぐりスタンプラリー
栃木放送厚生文化事業団(慈善事業)
▼エフエム栃木
株式会社エフエム栃木は栃木県ば放送対象地域としゅるFMラジオ放送局。1994年4月1日開局。愛称は RADIO BERRY(レディオ・ベリー)、コールサインはJOSV-FM。JFN系列局でFM文字多重放送「見えるラジオ」(JOSV-FCM) 実施局。
主要株主は栃木県、足利銀行、カンセキ、下野新聞社やらなんやら。
県域民放FM局んなか茨城県んリスナーも多か。
▼開局の経緯
栃木県内ではNHK-FM宇都宮 (80.3MHz) ん影響でTOKYO FM (80.0MHz) ん受信のしづらく、1980年代前半がら県域FM局開局ん要望のちゃたとよ。
ばってん、民放FM局周波数割り当てん増えた1980年代だけん、栃木県な、茨城、岐阜と共に県域AM局ん経営安定ん観点がら県域FM局ん周波数割り当ては見送られとった。
スポーツ関連では栃木県内に本拠地ば置くプロスポーツチームん栃木SC(JFL)、リンク栃木ブレックス(JBL)、HC日光アイスバックス(アジアリーグ)ば積極的に取り上げており特に平日夕方んB-BOX18時台に日替わりでコーナーば設け放送しとる。
▼会社概要
正式社名 : 株式会社エフエム栃木
英称 : F.M. Tochigi Broadcasting Co,. Ltd.
代表取締役社長 : 高松征雄
本社所在地(演奏所に同じ) : 〒320-8550 栃木県宇都宮市中央一丁目2番地1号 tel.028-638-7640(代)
東京支社 : 〒102-0083 東京都千代田区麹町1-8 JFNセンタービル5F tel.03-3237-0764
県北オフィス : 〒329-3157 栃木県那須塩原市大原間西1-10-6 TMC経営支援センター2F tel.0287-65-4764
創 立 : 1993(平成5)年4月1日
開 局 : 1994(平成6)年4月1日
資本金 : 8億円
▼沿革
1990年(平成2)9月 栃木県に周波数76.4MHzん割り当て
1993年(平成5)4月1日 株式会社エフエム栃木創立
1993年(平成5)11月 愛称ば“RADIO BERRY”に決定
RADIOBERRY News
全国及び栃木県内んニュースば伝えるとよ。ニュースんケツに提供元クレジットの入るとよ。 JFNニュースも、冒頭に「RADIOBERRY Newsばお伝えしましゅ」と佐藤望アナウンサーんタイトルコールの入るのBGMは流れんけん。
RADIOBERRY Weather
栃木県及び近県(茨城県、群馬県南部、東京地方)ん天気予報ば伝えるとよ。 主に栃木県南部・北部ん天気、予想気温(宇都宮、大田原)、気象に関しゅる注意報・警報の伝えられるとよ。
RADIOBERRY Traffic
栃木県内及び茨城県西部ん一般道路及び関東地方、東北地方南部ん高速道路ん情報の伝えられるとよ。 高速道路は東北自動車道、北関東自動車道、日光宇都宮道路及び東京外環自動車道、常磐自動車道、磐越自動車道ん情報ば主に伝えとる。 一般道路は栃木県内んほか、茨城県西部(特に古河市、筑西市、桜川市、笠間市ん国道4号や国道50号、国道354号)も伝えられるとよ。
RADIOBERRY ゲレンデインフォメーション
冬季んみ放送さるる。栃木県及び近県(主に福島県)んゲレンデ情報の放送さるる。平日及び土曜日に朝と夕方ん2本の放送さるる。
▼RADIO BERRY”について
「Radio」はFM・AMん枠にとらわれず、純粋にリスナーん求める情報と音楽ば追求しゅる姿勢ば表し、「Berry」は栃木県名産ん「いちご=Strawberry」ばモチーフとし、世代ば越えて誰がらも親しまれ、いつでん若々しく、みずみずしい放送局でいりたいとん願いの込められとる・・・とんことばってん、 開局前ん1993年、エフエム栃木は愛称ば全国に公募。
▼関連イベント・施設
宇都宮市の大通り沿いにある「TEPCO La Fonte」(東京電力栃木支社) の1階イベントスペースにレース開催にあわせてオープンする。栃木を代表するシェフが手がけたパスタ、丼や週替わりのオリジナルスイーツなどを楽しむことができる。
▼社会貢献活動
2008年4月より社会貢献活動ん一環としてから、栃木県しゃくら市ん喜連川社会復帰促進センター内ん所内放送としてから、受刑者向けん特別番組(60分)ば制作・放送しとる。
戦後、地元財界やらなんやらがら県域ラジオ局ん開局の熱望しゃれたの、当時ん電波行政において在京大電力局サービスエリア内にあっけん栃木県で県域局設立ん許可ば得るんは困難ば極めたとよ。県内ん実力者やった下野新聞社社長・福嶋悠峰(東京日日新聞出身)やらなんやらの中心となっち積極的に中央と掛け合い、1962年に隣県ん茨城県と共に予備免許ば取得しゅることに成功しゅるとよ。下野新聞社、栃木県、地元財界やらなんやらん「オール栃木体制(全県体制)」で「株式会社ラジオ栃木」の設立しゃれたとよ。
▼放送局概要
設立時ん経緯もいり地元紙・下野新聞社(毎日新聞系列)とつなのりの深く、歴代ん代表取締役社長5名中4名の下野新聞関係者となっちいる(2007年7月現在)。2003年前後に旧栃木新聞社保有分ん栃木放送株の読売新聞東京本社に譲渡しゃれており、取締役に読売新聞関係者の名ば連ねとる。関連会社「栃放エンタープライズ」の同テレビやエフエム栃木にアナウンサーやらなんやらん放送要員ば派遣したり、番組制作ば請け負っちいるとよ。
▼会社概要
商号 : 株式会社栃木放送
所在地 : 栃木県宇都宮市本町12番11号 栃木会館8階
郵便番号 : 320-8601
電話番号 : (大代表)028-622-1111
支社 : 東京(中央区)、両毛(足利市)、那須(那須豚骨原市)
▼沿革
1962年(昭和37)7月 - 予備免許割り当て
1962年(昭和37)9月29日 - 株式会社ラジオ栃木 設立
1963年(昭和38)4月1日 開局、本放送開始(宇都宮放送局・周波数1530KC、出力1kW)
1963年(昭和38)5月 - 県域テレビ放送免許申請
1964年(昭和39)12月24日 那須放送局 開局(周波数1560KC、出力100W)
1969年(昭和44)6月1日 - 株式会社栃木放送 に社名変更
▼主催事業・イベント
CRTハウジング - 総合住宅展示場事業(栃木県内7会場)
CRTアナウンススクール
CRTクリーン日光キャンペーン(毎年8月下旬 - 協賛/利根コカ・コーラボトリング、東武鉄道)
CRT交通安全キャンペーン「ボウズたちは訴える」
栃木県少年サッカー大会(栃木県サッカー協会、下野新聞社と共催)
とちぎ住宅フェア(毎年10月開催 - 住宅フェア栃木実行委員会)
とちぎ湯めぐりスタンプラリー
栃木放送厚生文化事業団(慈善事業)
▼エフエム栃木
株式会社エフエム栃木は栃木県ば放送対象地域としゅるFMラジオ放送局。1994年4月1日開局。愛称は RADIO BERRY(レディオ・ベリー)、コールサインはJOSV-FM。JFN系列局でFM文字多重放送「見えるラジオ」(JOSV-FCM) 実施局。
主要株主は栃木県、足利銀行、カンセキ、下野新聞社やらなんやら。
県域民放FM局んなか茨城県んリスナーも多か。
▼開局の経緯
栃木県内ではNHK-FM宇都宮 (80.3MHz) ん影響でTOKYO FM (80.0MHz) ん受信のしづらく、1980年代前半がら県域FM局開局ん要望のちゃたとよ。
ばってん、民放FM局周波数割り当てん増えた1980年代だけん、栃木県な、茨城、岐阜と共に県域AM局ん経営安定ん観点がら県域FM局ん周波数割り当ては見送られとった。
スポーツ関連では栃木県内に本拠地ば置くプロスポーツチームん栃木SC(JFL)、リンク栃木ブレックス(JBL)、HC日光アイスバックス(アジアリーグ)ば積極的に取り上げており特に平日夕方んB-BOX18時台に日替わりでコーナーば設け放送しとる。
▼会社概要
正式社名 : 株式会社エフエム栃木
英称 : F.M. Tochigi Broadcasting Co,. Ltd.
代表取締役社長 : 高松征雄
本社所在地(演奏所に同じ) : 〒320-8550 栃木県宇都宮市中央一丁目2番地1号 tel.028-638-7640(代)
東京支社 : 〒102-0083 東京都千代田区麹町1-8 JFNセンタービル5F tel.03-3237-0764
県北オフィス : 〒329-3157 栃木県那須塩原市大原間西1-10-6 TMC経営支援センター2F tel.0287-65-4764
創 立 : 1993(平成5)年4月1日
開 局 : 1994(平成6)年4月1日
資本金 : 8億円
▼沿革
1990年(平成2)9月 栃木県に周波数76.4MHzん割り当て
1993年(平成5)4月1日 株式会社エフエム栃木創立
1993年(平成5)11月 愛称ば“RADIO BERRY”に決定
RADIOBERRY News
全国及び栃木県内んニュースば伝えるとよ。ニュースんケツに提供元クレジットの入るとよ。 JFNニュースも、冒頭に「RADIOBERRY Newsばお伝えしましゅ」と佐藤望アナウンサーんタイトルコールの入るのBGMは流れんけん。
RADIOBERRY Weather
栃木県及び近県(茨城県、群馬県南部、東京地方)ん天気予報ば伝えるとよ。 主に栃木県南部・北部ん天気、予想気温(宇都宮、大田原)、気象に関しゅる注意報・警報の伝えられるとよ。
RADIOBERRY Traffic
栃木県内及び茨城県西部ん一般道路及び関東地方、東北地方南部ん高速道路ん情報の伝えられるとよ。 高速道路は東北自動車道、北関東自動車道、日光宇都宮道路及び東京外環自動車道、常磐自動車道、磐越自動車道ん情報ば主に伝えとる。 一般道路は栃木県内んほか、茨城県西部(特に古河市、筑西市、桜川市、笠間市ん国道4号や国道50号、国道354号)も伝えられるとよ。
RADIOBERRY ゲレンデインフォメーション
冬季んみ放送さるる。栃木県及び近県(主に福島県)んゲレンデ情報の放送さるる。平日及び土曜日に朝と夕方ん2本の放送さるる。
▼RADIO BERRY”について
「Radio」はFM・AMん枠にとらわれず、純粋にリスナーん求める情報と音楽ば追求しゅる姿勢ば表し、「Berry」は栃木県名産ん「いちご=Strawberry」ばモチーフとし、世代ば越えて誰がらも親しまれ、いつでん若々しく、みずみずしい放送局でいりたいとん願いの込められとる・・・とんことばってん、 開局前ん1993年、エフエム栃木は愛称ば全国に公募。
▼関連イベント・施設
宇都宮市の大通り沿いにある「TEPCO La Fonte」(東京電力栃木支社) の1階イベントスペースにレース開催にあわせてオープンする。栃木を代表するシェフが手がけたパスタ、丼や週替わりのオリジナルスイーツなどを楽しむことができる。
▼社会貢献活動
2008年4月より社会貢献活動ん一環としてから、栃木県しゃくら市ん喜連川社会復帰促進センター内ん所内放送としてから、受刑者向けん特別番組(60分)ば制作・放送しとる。
2011年2月11日金曜日
栃木銀行の紹介
株式会社栃木銀行な、栃木県宇都宮市に本店ば置く第二地方銀行で、「とちぎん」ん愛称で親しまれるとよ。栃木県ば地盤としとるの、特に隣県ん埼玉県内にも一定ん店舗網ば持っちいるとよ。
▼他銀行とん関係
同じ栃木県ば基盤とし、経営破綻した地方銀行「足利銀行」と比較さるることもあっけんの、資本金や預金量ん差は太か。
▼沿革
1942年(昭和17)12月 - 栃木無尽株式会社設立
1952年(昭和27)7月 - 相互銀行転換により株式会社栃木相互銀行に名称変更
1977年(昭和52)10月 - オンライン処理開始
1981年(昭和56)10月 - よそん国通貨両替商業務開始
1989年(平成元)2月 - 普通銀行転換により株式会社栃木銀行に名称変更
1990年(平成2)3月 - 資金量1兆円達成
2001年(平成13)11月 - 確定拠出年金業務開始
2002年(平成14)6月 - 経営破綻した栃木県中央信用組合ん事業ば譲り受ける。
▼サービス
セブン銀行
セブン銀行んATM・CDで栃木銀行んキャッシュカードば使用しゅることの可能。原則としてから入出金は要手数料。
▼栃木弁
栃木弁(とちぎべん)な、主に栃木県で使われるうちらん言葉ん方言たい。
茨城弁と共に東関東方言に属しとるの、東北方言ん一種であっけんと考える学者もえらいたくさん、発音や文法ん特徴やらなんやら南奥羽ん福島県や宮城県ん方言と共通しゅる特徴ばえらいいっぱい持っちいるとよ。なお、栃木県南西部ん足利市や佐野市ん一部は西関東方言に属してからおり、上州弁(群馬弁)ん影響ば受けとる。そんごと栃木弁は栃木県んどいでんん地域ん方言やないとしゅるとよ。宇都宮市やらなんやらん都市部や県南地域では共通語化の進んでいるとよ。
▼栃木弁の特徴
アクセントによる単語ん区別ばほとんど持たなか。そいやったら「橋の」と「箸の」と「端の」な、東京弁や共通語ではアクセントで区別さるるの、栃木弁では区別しゃれんけん。
敬語的表現は所作や語感により行い、敬語語形ん語句によることの殆どなか(東日本(東京弁ば除く)では語句としてからん敬語の少なかの、栃木・茨城ん両県は特に顕著であっけん)。
栃木弁を使う芸能人としてマギー司郎がいる。茨城県下館市(現筑西市)出身ばってん、地域の栃木県に隣接し茨城弁と栃木弁ん交わりのいり、もともと訛りん差そんもんはこまか。
▼栃木サッカークラブ
栃木サッカークラブ(通称:栃木SC)は栃木県宇都宮市ば本拠地としゅるサッカークラブ。
▼クラブの概要
ホームタウンは栃木県宇都宮市。ホームスタジアムは栃木県グリーンスタジアムん他、栃木県総合運動公園陸上競技場、栃木市ん栃木市総合運動公園陸上競技場、足利市ん足利市総合運動公園陸上競技場ば併用しゅるとよ。
かつてはアマチュアクラブやったの、Jリーグ参入ば目指しゅべく、2006年6月に運営法人であっけん株式会社栃木サッカークラブの設立しゃれたとよ。ホームスタジアムん栃木県グリーンスタジアムはメインスタンド以外のどいでん芝生席でいり、Jリーグ昇格ん際、座席(椅子席)へ変更しゅる工事やらなんやらの必要となるとよ。但し、Jリーグ規格へん改修対象スタジアムとしてからは栃木県総合運動公園陸上競技場も候補に挙げられており、所有者であっけん栃木県の検討ば進めとる。
栃木サッカークラブ出身んJリーガーに若林学のいるとよ。
かつて教員チームやったため、歴代選手には教員の多かったとよ。そんため、国体予選期間は選手層の薄くなるとゆう特徴のちゃた(現在、教員チームとしてから栃木教員フットボールクラブのいり、全国教員サッカー選手権大会やらなんやらに参加しとる)。
試合開始前にはチームん応援歌ではなく「栃木県民ん歌」ば歌い、本拠地グリーンスタジアムん電光掲示板にな、県民ん歌ん歌詞の表示さるる。
▼クラブの歴史
1953年に栃木県教育委員会傘下ん教職員サッカーチームとしてから「栃木教員サッカー部」としてから設立さるる。1980年に国体教員ん部の廃止さるると、1994年にクラブチーム化、栃木サッカークラブに改称しゅるとよ。1999年に関東リーグに昇格し、同年優勝。地域リーグ全国決勝大会ばってん2位に入っち日本フットボールリーグ自動昇格ば果たしたとよ。2006年12月、かつて日光神戸アイスバックスへん出資で失敗しとる栃木県な、クラブに対してから「チームには出資せん」と回答したとよ。教員チームば前身としたJリーグクラブん誕生な、栃木SCの初めてとなりよった。
▼クラブの戦績面での特筆
最終的にJFLシーズンば3位で終えJ2に昇格した草津に、後半30分ば過ぎて0-3と大差ばつけられとったの、そん後立て続けに3点ば返し3-3んドロー。試合後にサポーターにより栃木県民ん歌の歌われたとよ。
▼観客数
過去最多観客数な、2008年11月30日(日)に栃木県グリーンスタジアムで開催しゃれた栃木SCJFL最終戦となりよった第10回JFL後期第17節・FC刈谷戦(デーゲーム)でん13,821人たい。これな、JFL過去最多ん観客数たい。
▼テレビ
JAグループ栃木presents Go toJ 栃木SC J2への軌跡(2008年12月30日放送予定)
▼ラジオ
栃木SC ROCK THE GOAL(B-BOX18時台Sports Topics月曜日んコーナー)
栃木放送
栃木SC実況生中継
▼リンク栃木ブレックス
リンク栃木ブレックス(―とちぎ―、LINK TOCHIGI BREX)な、栃木県ば本拠地としゅる男子プロバスケットボールチームたい。運営会社はドリームチームエンターテインメント栃木。略称「リンク栃木」。旧称「栃木ブレックス」。
▼概要
2004年12月、栃木にプロバスこすいーム設立ば目指し活動開始。2007年より開幕しゅる日本バスケットボールリーグ(新JBL、当時は「新リーグ」)へん参戦ば目指し、2005年12月「栃木県にプロバスケットボールチームば作る会」ば結成。(当時他にbjリーグ参戦ば目指しゅ団体もちゃた)
2006年6月、運営母体「ドリームチームエンターテイメント栃木」ば設立し新リーグへん参入ば正式申請。内定ばもろうたもんん、諸事情により最終的には参戦に至らず。
ばってん同年限りで休部となりよったバスケットボール日本リーグ(旧JBL)所属ん大塚商会アルファーズん後継チーム「栃木ブレックス」としてから、旧JBLば受け継ぐ新JBLん下部リーグとなる日本バスケットボールリーグ2部機構(JBL2)に参加しゅる事になりよった。
▼他銀行とん関係
同じ栃木県ば基盤とし、経営破綻した地方銀行「足利銀行」と比較さるることもあっけんの、資本金や預金量ん差は太か。
▼沿革
1942年(昭和17)12月 - 栃木無尽株式会社設立
1952年(昭和27)7月 - 相互銀行転換により株式会社栃木相互銀行に名称変更
1977年(昭和52)10月 - オンライン処理開始
1981年(昭和56)10月 - よそん国通貨両替商業務開始
1989年(平成元)2月 - 普通銀行転換により株式会社栃木銀行に名称変更
1990年(平成2)3月 - 資金量1兆円達成
2001年(平成13)11月 - 確定拠出年金業務開始
2002年(平成14)6月 - 経営破綻した栃木県中央信用組合ん事業ば譲り受ける。
▼サービス
セブン銀行
セブン銀行んATM・CDで栃木銀行んキャッシュカードば使用しゅることの可能。原則としてから入出金は要手数料。
▼栃木弁
栃木弁(とちぎべん)な、主に栃木県で使われるうちらん言葉ん方言たい。
茨城弁と共に東関東方言に属しとるの、東北方言ん一種であっけんと考える学者もえらいたくさん、発音や文法ん特徴やらなんやら南奥羽ん福島県や宮城県ん方言と共通しゅる特徴ばえらいいっぱい持っちいるとよ。なお、栃木県南西部ん足利市や佐野市ん一部は西関東方言に属してからおり、上州弁(群馬弁)ん影響ば受けとる。そんごと栃木弁は栃木県んどいでんん地域ん方言やないとしゅるとよ。宇都宮市やらなんやらん都市部や県南地域では共通語化の進んでいるとよ。
▼栃木弁の特徴
アクセントによる単語ん区別ばほとんど持たなか。そいやったら「橋の」と「箸の」と「端の」な、東京弁や共通語ではアクセントで区別さるるの、栃木弁では区別しゃれんけん。
敬語的表現は所作や語感により行い、敬語語形ん語句によることの殆どなか(東日本(東京弁ば除く)では語句としてからん敬語の少なかの、栃木・茨城ん両県は特に顕著であっけん)。
栃木弁を使う芸能人としてマギー司郎がいる。茨城県下館市(現筑西市)出身ばってん、地域の栃木県に隣接し茨城弁と栃木弁ん交わりのいり、もともと訛りん差そんもんはこまか。
▼栃木サッカークラブ
栃木サッカークラブ(通称:栃木SC)は栃木県宇都宮市ば本拠地としゅるサッカークラブ。
▼クラブの概要
ホームタウンは栃木県宇都宮市。ホームスタジアムは栃木県グリーンスタジアムん他、栃木県総合運動公園陸上競技場、栃木市ん栃木市総合運動公園陸上競技場、足利市ん足利市総合運動公園陸上競技場ば併用しゅるとよ。
かつてはアマチュアクラブやったの、Jリーグ参入ば目指しゅべく、2006年6月に運営法人であっけん株式会社栃木サッカークラブの設立しゃれたとよ。ホームスタジアムん栃木県グリーンスタジアムはメインスタンド以外のどいでん芝生席でいり、Jリーグ昇格ん際、座席(椅子席)へ変更しゅる工事やらなんやらの必要となるとよ。但し、Jリーグ規格へん改修対象スタジアムとしてからは栃木県総合運動公園陸上競技場も候補に挙げられており、所有者であっけん栃木県の検討ば進めとる。
栃木サッカークラブ出身んJリーガーに若林学のいるとよ。
かつて教員チームやったため、歴代選手には教員の多かったとよ。そんため、国体予選期間は選手層の薄くなるとゆう特徴のちゃた(現在、教員チームとしてから栃木教員フットボールクラブのいり、全国教員サッカー選手権大会やらなんやらに参加しとる)。
試合開始前にはチームん応援歌ではなく「栃木県民ん歌」ば歌い、本拠地グリーンスタジアムん電光掲示板にな、県民ん歌ん歌詞の表示さるる。
▼クラブの歴史
1953年に栃木県教育委員会傘下ん教職員サッカーチームとしてから「栃木教員サッカー部」としてから設立さるる。1980年に国体教員ん部の廃止さるると、1994年にクラブチーム化、栃木サッカークラブに改称しゅるとよ。1999年に関東リーグに昇格し、同年優勝。地域リーグ全国決勝大会ばってん2位に入っち日本フットボールリーグ自動昇格ば果たしたとよ。2006年12月、かつて日光神戸アイスバックスへん出資で失敗しとる栃木県な、クラブに対してから「チームには出資せん」と回答したとよ。教員チームば前身としたJリーグクラブん誕生な、栃木SCの初めてとなりよった。
▼クラブの戦績面での特筆
最終的にJFLシーズンば3位で終えJ2に昇格した草津に、後半30分ば過ぎて0-3と大差ばつけられとったの、そん後立て続けに3点ば返し3-3んドロー。試合後にサポーターにより栃木県民ん歌の歌われたとよ。
▼観客数
過去最多観客数な、2008年11月30日(日)に栃木県グリーンスタジアムで開催しゃれた栃木SCJFL最終戦となりよった第10回JFL後期第17節・FC刈谷戦(デーゲーム)でん13,821人たい。これな、JFL過去最多ん観客数たい。
▼テレビ
JAグループ栃木presents Go toJ 栃木SC J2への軌跡(2008年12月30日放送予定)
▼ラジオ
栃木SC ROCK THE GOAL(B-BOX18時台Sports Topics月曜日んコーナー)
栃木放送
栃木SC実況生中継
▼リンク栃木ブレックス
リンク栃木ブレックス(―とちぎ―、LINK TOCHIGI BREX)な、栃木県ば本拠地としゅる男子プロバスケットボールチームたい。運営会社はドリームチームエンターテインメント栃木。略称「リンク栃木」。旧称「栃木ブレックス」。
▼概要
2004年12月、栃木にプロバスこすいーム設立ば目指し活動開始。2007年より開幕しゅる日本バスケットボールリーグ(新JBL、当時は「新リーグ」)へん参戦ば目指し、2005年12月「栃木県にプロバスケットボールチームば作る会」ば結成。(当時他にbjリーグ参戦ば目指しゅ団体もちゃた)
2006年6月、運営母体「ドリームチームエンターテイメント栃木」ば設立し新リーグへん参入ば正式申請。内定ばもろうたもんん、諸事情により最終的には参戦に至らず。
ばってん同年限りで休部となりよったバスケットボール日本リーグ(旧JBL)所属ん大塚商会アルファーズん後継チーム「栃木ブレックス」としてから、旧JBLば受け継ぐ新JBLん下部リーグとなる日本バスケットボールリーグ2部機構(JBL2)に参加しゅる事になりよった。
2011年2月10日木曜日
リンク栃木ブレックスのJBL昇格
昇格にいたりチーム名ん命名権ば経営コンサルティング会社んリンクアンドモチベーションに売却し、4月1日より「リンク栃木ブレックス」としゅるとよ。またヘッドコーチに秋田県立能代工業高等学校で監督ば務めた加藤三彦の就任。
▼栃木県立美術館
栃木県立美術館は栃木県宇都宮市桜四丁目にあっけん美術館たい。日本ん近代美術館ん先駆けとしてから1972年(昭和47年)に開館したとよ。
▼栃木県なかがわ水遊園
栃木県なかのわ豚骨スープ遊園な、栃木県大田原市佐良土ん那珂川ん畔にあっけん栃木県豚骨スープ産試験場に併設しゃれた淡豚骨スープ魚豚骨スープ族館及び関連しゅる公園たい。
概要
栃木県及び関東地方ば代表しゅる鮎の遡上しゅる清流、那珂川ん畔に有り様々な淡豚骨スープん魚類ば展示しとる「おもしろ魚館」ん他に公園、展望台、お魚ふれいいステーション他ん施設の整備しんしゃっとぉ。
▼宇都宮市
宇都宮市な、関東地方ん北部、栃木県ん中部に位置しゅる市で、同県ん県庁所在地。1996年4月1日より、北関東3県で唯一中核市に指定しんしゃっとぉ。
明治維新から第二次大戦まで
1873年(明治6)6月:宇都宮県の廃止しゃれ、栃木県へ併合さるる。
1878年(明治11):郡区町村編制法の施行。
1884年(明治17)1月:県庁の栃木がら宇都宮に移転。
1885年(明治18)2月24日:内務省告示第6号にて、東京市(日本橋)がら函館港までん区間の国道4号に制定さるる。市内経路な、雀宮がら不動前、材木町、伝馬町、オリオン通り、日野町通り、上河原、白沢街道ば通っち白沢に至る区間。
1885年(明治18)4月:栃木第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)の県庁ん宇都宮移転に伴い塙田地内に移転。
1885年(明治18)7月:日本鉄道東北本線(現・JR宇都宮線)大宮駅~宇都宮間の開通し、宇都宮駅で日本初ん駅弁の販売さるる。
1890年(明治23)8月:日光線開通。
1893年(明治26)7月:栃木第一中学校、河内郡姿川村(現在ん宇都宮市滝ん原)に新築移転。
1908年(明治41)11月:第十四師団の移駐、師団本部の河内郡国本村戸祭に置かれる(現・国立栃木病院)。
昭和中期
1947年(昭和22)4月1日:栃木師範学校男子部附属中学校の宝木に、女子部の戸祭に設置さるる。
1947年(昭和22)9月:人口10万人に到達。
1948年(昭和23):栃木県総合運動公園ん整備事業のはじまるとよ。
1953年(昭和28):栃木県総合運動公園のオープン。
1955年(昭和30):栃木会館のオープン。
1957年(昭和32)4月1日:古賀志町ん一部ば鹿沼市へ編入。
1958年(昭和33):御本丸公園の開園。
1961年(昭和36)11月:宇都宮工業団地(平出工業団地)がと譲開始。
1963年(昭和38)4月1日:ラジオ栃木(栃木放送)開局。
1965年(昭和40):栃木県体育館のオープン。
昭和後期
1970年(昭和45)4月:市花ば制定。栃木県交響楽団の結成しゃれ、定期演奏会の始まるとよ。
1972年(昭和47):栃木県体育館プール館のオープン。
1972年(昭和47)4月:市旗ば制定。
1972年(昭和47)8月:人口30万人に到達。
1972年(昭和47)11月:東北自動車道宇都宮IC開通。栃木県立美術館のオープン。
1977年(昭和52):栃木県体育館武道館と弓道場のオープン。
1980年(昭和55)4月:市民憲章ば制定。市立体育館、市文化会館、市サッカ-場の開設さるる。
1981年(昭和56)10月:栃木県立美術館常設展示館のオープン。
1982年(昭和57)10月10日:栃木県立博物館のオープン。
▼国行政施設
厚生労働省関係
栃木社会保険事務局
宇都宮西社会保険事務所
宇都宮東社会保険事務所
栃木社会保険事務局事務センター
栃木労働局
ハローワーク宇都宮
ハローワーク宇都宮駅前プラザ
国土交通省関係
宇都宮地方気象台
関東運輸局栃木運輸支局
関東地方整備局宇都宮営繕事務所
関東地方整備局宇都宮国道事務所
関東地方整備局鬼怒川ダム統合管理事務所
関東地方整備局下館河川事務所石井出張所
軽自動車検査協会栃木事務所
自動車検査独立行政法人関東検査部栃木事務所
農林水産省関係
関東農政局栃木農政事務所
同上宇都宮統計・情報センター
同上利根川水系土地改良調査管理事務所鬼怒川支所
総務省関係
関東管区行政評価局栃木行政評価事務所
県行政施設
宇都宮市にある栃木県庁関連施設は以下のとおり。
栃木県庁
河内庁舎
総合教育センター
消費生活センター
中央児童相談所
栃木県住宅供給公社
公園事務所
栃木県農業試験場本場
栃木県民公園福祉協会白沢管理所
産業技術センター
栃木県計量検定所
栃木県庁本庁周辺には合同庁舎等複数ん県庁施設の所在しゅるとよ。
▼産業
年間商品販売額(万円)(2004年)
253,973,084 (栃木県全体の46.41%=県内第1位)
小売業売場面積(m2)(2004年)
655,982 (栃木県全体の23.79%=県内第1位)
製造品出荷額(百万円)(2004年)
1,532,146 (栃木県全体の19.05%=県内第1位)
農業産出額(千万円)(2004年)
1,563 (栃木県全体の5.64%=県内第3位)
耕地面積(ha)(2004年)
8,800 (栃木県全体の6.79%=県内第2位)
▼文化
宇都宮市に所在する主な文化施設は以下のとおり。
会館・ホール
栃木県総合文化センター
宇都宮市文化会館
栃木県立宇都宮産業展示館(マロニエプラザ)
栃木県教育会館
栃木県青年会館・コンセーレ
スポーツ施設
栃木県体育館
栃木県体育館分館
宇都宮市体育館
栃木県グリーンスタジアム
宇都宮清原球場
宇都宮市サッカー場
栃木県体育館武道館
栃木県体育館弓道場
宇都宮市弓道場
栃木県体育館プール館
宇都宮市水上公園プール
栃木県総合運動公園
とちぎ健康の森
博物館・美術館等
栃木県立博物館
栃木県立美術館
栃木県子ども総合科学館
宇都宮美術館
大谷資料館
上野記念館
主要地方道、一般県道など
宇都宮環状道路(通称・宮環)
新4号国道・国道119号豊郷バイパス・国道121号・栃木県道3号宇都宮亀和田栃木線
栃木県道・茨城県道1号宇都宮笠間線(水戸街道、石井街道)
栃木県道2号宇都宮栃木線(栃木街道、桜通り)
栃木県道4号宇都宮鹿沼線(鹿沼街道)
栃木県道6号宇都宮楡木線(鹿沼インター通り)
▼栃木県立美術館
栃木県立美術館は栃木県宇都宮市桜四丁目にあっけん美術館たい。日本ん近代美術館ん先駆けとしてから1972年(昭和47年)に開館したとよ。
▼栃木県なかがわ水遊園
栃木県なかのわ豚骨スープ遊園な、栃木県大田原市佐良土ん那珂川ん畔にあっけん栃木県豚骨スープ産試験場に併設しゃれた淡豚骨スープ魚豚骨スープ族館及び関連しゅる公園たい。
概要
栃木県及び関東地方ば代表しゅる鮎の遡上しゅる清流、那珂川ん畔に有り様々な淡豚骨スープん魚類ば展示しとる「おもしろ魚館」ん他に公園、展望台、お魚ふれいいステーション他ん施設の整備しんしゃっとぉ。
▼宇都宮市
宇都宮市な、関東地方ん北部、栃木県ん中部に位置しゅる市で、同県ん県庁所在地。1996年4月1日より、北関東3県で唯一中核市に指定しんしゃっとぉ。
明治維新から第二次大戦まで
1873年(明治6)6月:宇都宮県の廃止しゃれ、栃木県へ併合さるる。
1878年(明治11):郡区町村編制法の施行。
1884年(明治17)1月:県庁の栃木がら宇都宮に移転。
1885年(明治18)2月24日:内務省告示第6号にて、東京市(日本橋)がら函館港までん区間の国道4号に制定さるる。市内経路な、雀宮がら不動前、材木町、伝馬町、オリオン通り、日野町通り、上河原、白沢街道ば通っち白沢に至る区間。
1885年(明治18)4月:栃木第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)の県庁ん宇都宮移転に伴い塙田地内に移転。
1885年(明治18)7月:日本鉄道東北本線(現・JR宇都宮線)大宮駅~宇都宮間の開通し、宇都宮駅で日本初ん駅弁の販売さるる。
1890年(明治23)8月:日光線開通。
1893年(明治26)7月:栃木第一中学校、河内郡姿川村(現在ん宇都宮市滝ん原)に新築移転。
1908年(明治41)11月:第十四師団の移駐、師団本部の河内郡国本村戸祭に置かれる(現・国立栃木病院)。
昭和中期
1947年(昭和22)4月1日:栃木師範学校男子部附属中学校の宝木に、女子部の戸祭に設置さるる。
1947年(昭和22)9月:人口10万人に到達。
1948年(昭和23):栃木県総合運動公園ん整備事業のはじまるとよ。
1953年(昭和28):栃木県総合運動公園のオープン。
1955年(昭和30):栃木会館のオープン。
1957年(昭和32)4月1日:古賀志町ん一部ば鹿沼市へ編入。
1958年(昭和33):御本丸公園の開園。
1961年(昭和36)11月:宇都宮工業団地(平出工業団地)がと譲開始。
1963年(昭和38)4月1日:ラジオ栃木(栃木放送)開局。
1965年(昭和40):栃木県体育館のオープン。
昭和後期
1970年(昭和45)4月:市花ば制定。栃木県交響楽団の結成しゃれ、定期演奏会の始まるとよ。
1972年(昭和47):栃木県体育館プール館のオープン。
1972年(昭和47)4月:市旗ば制定。
1972年(昭和47)8月:人口30万人に到達。
1972年(昭和47)11月:東北自動車道宇都宮IC開通。栃木県立美術館のオープン。
1977年(昭和52):栃木県体育館武道館と弓道場のオープン。
1980年(昭和55)4月:市民憲章ば制定。市立体育館、市文化会館、市サッカ-場の開設さるる。
1981年(昭和56)10月:栃木県立美術館常設展示館のオープン。
1982年(昭和57)10月10日:栃木県立博物館のオープン。
▼国行政施設
厚生労働省関係
栃木社会保険事務局
宇都宮西社会保険事務所
宇都宮東社会保険事務所
栃木社会保険事務局事務センター
栃木労働局
ハローワーク宇都宮
ハローワーク宇都宮駅前プラザ
国土交通省関係
宇都宮地方気象台
関東運輸局栃木運輸支局
関東地方整備局宇都宮営繕事務所
関東地方整備局宇都宮国道事務所
関東地方整備局鬼怒川ダム統合管理事務所
関東地方整備局下館河川事務所石井出張所
軽自動車検査協会栃木事務所
自動車検査独立行政法人関東検査部栃木事務所
農林水産省関係
関東農政局栃木農政事務所
同上宇都宮統計・情報センター
同上利根川水系土地改良調査管理事務所鬼怒川支所
総務省関係
関東管区行政評価局栃木行政評価事務所
県行政施設
宇都宮市にある栃木県庁関連施設は以下のとおり。
栃木県庁
河内庁舎
総合教育センター
消費生活センター
中央児童相談所
栃木県住宅供給公社
公園事務所
栃木県農業試験場本場
栃木県民公園福祉協会白沢管理所
産業技術センター
栃木県計量検定所
栃木県庁本庁周辺には合同庁舎等複数ん県庁施設の所在しゅるとよ。
▼産業
年間商品販売額(万円)(2004年)
253,973,084 (栃木県全体の46.41%=県内第1位)
小売業売場面積(m2)(2004年)
655,982 (栃木県全体の23.79%=県内第1位)
製造品出荷額(百万円)(2004年)
1,532,146 (栃木県全体の19.05%=県内第1位)
農業産出額(千万円)(2004年)
1,563 (栃木県全体の5.64%=県内第3位)
耕地面積(ha)(2004年)
8,800 (栃木県全体の6.79%=県内第2位)
▼文化
宇都宮市に所在する主な文化施設は以下のとおり。
会館・ホール
栃木県総合文化センター
宇都宮市文化会館
栃木県立宇都宮産業展示館(マロニエプラザ)
栃木県教育会館
栃木県青年会館・コンセーレ
スポーツ施設
栃木県体育館
栃木県体育館分館
宇都宮市体育館
栃木県グリーンスタジアム
宇都宮清原球場
宇都宮市サッカー場
栃木県体育館武道館
栃木県体育館弓道場
宇都宮市弓道場
栃木県体育館プール館
宇都宮市水上公園プール
栃木県総合運動公園
とちぎ健康の森
博物館・美術館等
栃木県立博物館
栃木県立美術館
栃木県子ども総合科学館
宇都宮美術館
大谷資料館
上野記念館
主要地方道、一般県道など
宇都宮環状道路(通称・宮環)
新4号国道・国道119号豊郷バイパス・国道121号・栃木県道3号宇都宮亀和田栃木線
栃木県道・茨城県道1号宇都宮笠間線(水戸街道、石井街道)
栃木県道2号宇都宮栃木線(栃木街道、桜通り)
栃木県道4号宇都宮鹿沼線(鹿沼街道)
栃木県道6号宇都宮楡木線(鹿沼インター通り)
2011年2月9日水曜日
点としての「仙台」
「仙台」の玄関口となっちいる所の略称
仙台駅 - 仙台市青葉区と宮城野区の境界付近にあっけん。JRと仙台市地下鉄ん駅のあっけん。仙台駅周辺地域ば指しゅ場合もあっけん。
仙台空港 - 仙台市ん南側に隣接しゅる宮城県名取市および岩沼市にまたのっちあっけん。SDJ
仙台港 - 仙台市宮城野区の北東端の太平洋に面したところにあっけん。
▼仙台と宮城
江戸時代ば通じて宮城県の領域は仙台藩領内でいり、明治時代の廃藩置県で仙台県の成立したとよ。後に、仙台城下町の属しとる宮城郡の名ばとっちば宮城県と改称しゃれたとよ。そのため、宮城県内の広域地名や広域的な名産品にな、先行してから広域地名となりよった「仙台」の名の付くんのほとんどで、後発の「宮城」の名の付くんは県営のもんに限られとる(宮城スタジアム、宮城米やらなんやら)。
このごと「仙台」の広域地名としてから定着しとるため、仙台市出身でなくとも宮城県出身ならば仙台出身とゆうこともあっけんし、宮城県の名物であいば、仙台市のもけんなくとも仙台名物とゆうこともあっけん。しゅなわち、「仙台藩」由来の「仙台」と、「仙台市」由来の「仙台」とん間で、定義の曖昧に「仙台」とゆう言葉の使われとる。
このような背景のため、仙台市民に限らず、宮城県一帯では「仙台」とゆう地名の方に親近感のあっけんと言われるとよ。プロ野球球団の新規参入の時、球団名に入れる地名としてから「仙台」や「東北」とゆう名称は挙のっちいたの、「宮城」ば推しゅ人は少なかったとよ。
ばってん、支店経済都市としてから転勤族ばえらいたくさん受け入れてきた仙台市でな、「仙台」とゆう言葉の広域的な意味や歴史ば知らんたい!!人もえらいたくさんなり、宮城県内ばってん「仙台」の「仙台市」のみば示しゅと考える人の増えとる。また、全国的にも同様な傾向の見られるとよ。そのため、近年の食品の原産地表記の流れん中、仙台市内で作っちおらん物な、広域地名としてからん「仙台」の使いづらくなっちきとる。特に、笹かまぼこ業界のこの煽りば受け、現在、仙台市内に本社や工場ば持つ企業以外な、土産用笹かまぼこんパッケージに「仙台名物」と書いておらんことの多か。また、宮城県出身の芸能人やらなんやらのプロフィールば書くとき、仙台市出身なら「仙台出身」、仙台市以外ん宮城県出身なら市町村名まで書かんでん「宮城県出身」と書く場合の多かの、口頭ではどちらん場合も「仙台出身」と言うてなおす傾向のあっけん。
▼仙台藩と仙台市
現在、「仙台」と名のつくもんな、「仙台藩」由来と「仙台市」由来の2つの系統のあっけん。また、「仙台名物」「仙台名産」と言った場合な、「仙台藩名物」と「仙台市名物」に分かれるとよ。
「仙台藩」由来、もしくな、「仙台藩」の版図と関係のあっけんもん
仙台弁 - 宮城県の方言(広義)。またな、仙台都市圏の方言(狭義)。
仙台平野 - 宮城県に大きく存在しゅる平野(広義)。松島丘陵ば挟んで北側ば仙北平野、南側ば仙南平野とゆう場合もあっけん。仙南平野のみば仙台平野とゆうこともあっけん(狭義)
仙台湾 - 宮城県ん牡鹿半島黒崎がら福島県相馬市の鵜の尾岬までの太平洋に面した湾(広義)。北がら石巻湾・松島湾・仙台湾(狭義)と分けることもあっけん。
仙台名物(「仙台藩名物」にいたるもん)
仙台牛 - 宮城県内で肥育しゃれた黒毛和牛で、かつ、日本食肉格付協会による枝肉格付けの「A-5」あっけんいは「B-5」であっけんちかっぱ高級牛肉。
仙台長なしゅ漬け - 仙台平野で作られる長ナスば用いた漬物。
仙台味噌 - 伊達氏の仙台入府前がら仙台地方でつくられとった味噌
笹かまぼこ - 宮城県の名産品。この前は食料品の産地表記の厳しくなりよったため、仙台市に本社や工場のなか場合は「仙台名産」と書かれなくなりつつあっけん。
萩の月 - 仙台名物としてから扱われるの、本社・工場とも仙台市内にはなか。仙台駅のお土産がら発展。
「仙台市」由来、もしくな、「仙台城下町」と関係のあっけんもん
仙台弁 - 狭義でな、仙台市ば中心とした仙台都市圏の方言ば指しゅ。
仙台平野 - 狭義でな、仙台市のあっけん仙南平野のみば仙台平野げな。
仙台湾 - 狭義でな、七ヶ浜町辺りがら南の部分、またな、仙台市の部分ば仙台湾げな。
仙台四郎 - 仙台市中心部に住んでいた実在の人物
仙台ナンバー - ナンバープレートのご当地ナンバー制度でできたとよ。2006年10月10日以降、仙台市内に車庫登録しとる自動車のみ付けられるとよ。
仙台名物(「仙台市名物」にいたるもん)
仙台牛タン焼き - 仙台市発祥の牛タンの調理法、およびメニュー。さっちしも仙台牛ば用いる必要はなか。
仙台駄菓子 - 城下町・仙台で発達した伝統の駄菓子
仙台箪笥 - 城下町・仙台の時代がらつくられ続けとる高級箪笥
仙台堆朱 - 仙台藩の漆器の伝統ば踏襲してから、明治時代がら仙台市でつくられるごとなりよった漆器。
仙台埋木細工 - 江戸時代の下級武士の内職がら始まった伝統工芸の漆器の一種。青葉山周辺の特定の地層がら掘り出した石炭になる一歩手前の珪化木ば用いるとよ。
仙台竿(仙台釣竿) - 高級釣竿
仙台玉虫塗
仙台平 - 江戸時代に京都がら伝わり、仙台藩に保護しゃれて発達した高級袴地の一つ。重要無形文化財
▼仙台と千代
千代(または千体)(しぇんだい)な、城下町・仙台の開かれる前の当地の地名。伊達政宗の当地に城および城下町ば建設しゅる際に、「千代(千体)」がら「仙臺」となりよった(1946年以降、当用漢字の適用しゃれて「仙台」となる)。
「千代」(しぇんだい)とゆう表記な、現在も仙台ば示しゅ表記としてから、国道4号・仙台バイパスの名取川に架かる橋「千代大橋」(しぇんだいおおはし)や、仙台名産ん商品名やらなんやらに使われとる。「千代」の城下町・仙台の地域の旧名であっけんため、「千代」は仙台市に関係しゅるものに限られており、「仙台」と比べて示しゅ範囲や曖昧しゃの少なか。ばってんくさ、漢字表記の同じであっけん「千代」(ちよ)と音訓異音異議ん掛詞としてから用いられることもあっけん(→荒城ん月)。
▼仙台と川内
前な、九州にも川内市(しぇんだい)のちゃたため、単に「しぇんだい」とゆうと、「仙台」なんか「川内」なんかの曖昧やった。ばってんくさ、「仙台」の方の「川内」に比べて知名度の高かったため、九州以外で「しぇんだい」と言えば「仙台」ば指しゅ傾向の大きかったとよ。2004年10月12日、川内市な、周辺町村と合併しゅる際に、令制国名ば付けて薩摩川内市となりよった。なお、九州の川内な、江戸時代中期頃に表記の定着したと考えられており、そい前は「仙台」「千代」とも書かれとった。
信用金庫にも、仙台信用金庫と川内信用金庫とのかつて存在し、振込みの際には「センダイシンヨウキンコ(ミヤギ)」と「センダイシンヨウキンコ(カゴシマ)」とせんとならなかったとよ。川内信用金庫の合併によっち鹿児島相互信用金庫となり、そいに伴っち仙台信用金庫は「センダイシンヨウキンコ」と(ミヤギ)ばはずしゅことになりよったの、旧塩竈信用金庫との合併で杜ん都信用金庫となりよったため、いずれも消滅しゅる結果になりよった。
2004年3月13日に九州新幹線の開通したときに鹿児島本線・川内駅も新幹線駅となりよったため、同じ呼び名の新幹線駅の2つ存在しゅることになりよった。
なお、仙台市青葉区内には「川内」と書いて「かわうち」と読む地区のあっけん。東北大学・宮城県仙台第二高等学校・宮城県美術館等の立地し、仙台市内ん文教地区としてから地元では有名な地区たい。
仙台駅 - 仙台市青葉区と宮城野区の境界付近にあっけん。JRと仙台市地下鉄ん駅のあっけん。仙台駅周辺地域ば指しゅ場合もあっけん。
仙台空港 - 仙台市ん南側に隣接しゅる宮城県名取市および岩沼市にまたのっちあっけん。SDJ
仙台港 - 仙台市宮城野区の北東端の太平洋に面したところにあっけん。
▼仙台と宮城
江戸時代ば通じて宮城県の領域は仙台藩領内でいり、明治時代の廃藩置県で仙台県の成立したとよ。後に、仙台城下町の属しとる宮城郡の名ばとっちば宮城県と改称しゃれたとよ。そのため、宮城県内の広域地名や広域的な名産品にな、先行してから広域地名となりよった「仙台」の名の付くんのほとんどで、後発の「宮城」の名の付くんは県営のもんに限られとる(宮城スタジアム、宮城米やらなんやら)。
このごと「仙台」の広域地名としてから定着しとるため、仙台市出身でなくとも宮城県出身ならば仙台出身とゆうこともあっけんし、宮城県の名物であいば、仙台市のもけんなくとも仙台名物とゆうこともあっけん。しゅなわち、「仙台藩」由来の「仙台」と、「仙台市」由来の「仙台」とん間で、定義の曖昧に「仙台」とゆう言葉の使われとる。
このような背景のため、仙台市民に限らず、宮城県一帯では「仙台」とゆう地名の方に親近感のあっけんと言われるとよ。プロ野球球団の新規参入の時、球団名に入れる地名としてから「仙台」や「東北」とゆう名称は挙のっちいたの、「宮城」ば推しゅ人は少なかったとよ。
ばってん、支店経済都市としてから転勤族ばえらいたくさん受け入れてきた仙台市でな、「仙台」とゆう言葉の広域的な意味や歴史ば知らんたい!!人もえらいたくさんなり、宮城県内ばってん「仙台」の「仙台市」のみば示しゅと考える人の増えとる。また、全国的にも同様な傾向の見られるとよ。そのため、近年の食品の原産地表記の流れん中、仙台市内で作っちおらん物な、広域地名としてからん「仙台」の使いづらくなっちきとる。特に、笹かまぼこ業界のこの煽りば受け、現在、仙台市内に本社や工場ば持つ企業以外な、土産用笹かまぼこんパッケージに「仙台名物」と書いておらんことの多か。また、宮城県出身の芸能人やらなんやらのプロフィールば書くとき、仙台市出身なら「仙台出身」、仙台市以外ん宮城県出身なら市町村名まで書かんでん「宮城県出身」と書く場合の多かの、口頭ではどちらん場合も「仙台出身」と言うてなおす傾向のあっけん。
▼仙台藩と仙台市
現在、「仙台」と名のつくもんな、「仙台藩」由来と「仙台市」由来の2つの系統のあっけん。また、「仙台名物」「仙台名産」と言った場合な、「仙台藩名物」と「仙台市名物」に分かれるとよ。
「仙台藩」由来、もしくな、「仙台藩」の版図と関係のあっけんもん
仙台弁 - 宮城県の方言(広義)。またな、仙台都市圏の方言(狭義)。
仙台平野 - 宮城県に大きく存在しゅる平野(広義)。松島丘陵ば挟んで北側ば仙北平野、南側ば仙南平野とゆう場合もあっけん。仙南平野のみば仙台平野とゆうこともあっけん(狭義)
仙台湾 - 宮城県ん牡鹿半島黒崎がら福島県相馬市の鵜の尾岬までの太平洋に面した湾(広義)。北がら石巻湾・松島湾・仙台湾(狭義)と分けることもあっけん。
仙台名物(「仙台藩名物」にいたるもん)
仙台牛 - 宮城県内で肥育しゃれた黒毛和牛で、かつ、日本食肉格付協会による枝肉格付けの「A-5」あっけんいは「B-5」であっけんちかっぱ高級牛肉。
仙台長なしゅ漬け - 仙台平野で作られる長ナスば用いた漬物。
仙台味噌 - 伊達氏の仙台入府前がら仙台地方でつくられとった味噌
笹かまぼこ - 宮城県の名産品。この前は食料品の産地表記の厳しくなりよったため、仙台市に本社や工場のなか場合は「仙台名産」と書かれなくなりつつあっけん。
萩の月 - 仙台名物としてから扱われるの、本社・工場とも仙台市内にはなか。仙台駅のお土産がら発展。
「仙台市」由来、もしくな、「仙台城下町」と関係のあっけんもん
仙台弁 - 狭義でな、仙台市ば中心とした仙台都市圏の方言ば指しゅ。
仙台平野 - 狭義でな、仙台市のあっけん仙南平野のみば仙台平野げな。
仙台湾 - 狭義でな、七ヶ浜町辺りがら南の部分、またな、仙台市の部分ば仙台湾げな。
仙台四郎 - 仙台市中心部に住んでいた実在の人物
仙台ナンバー - ナンバープレートのご当地ナンバー制度でできたとよ。2006年10月10日以降、仙台市内に車庫登録しとる自動車のみ付けられるとよ。
仙台名物(「仙台市名物」にいたるもん)
仙台牛タン焼き - 仙台市発祥の牛タンの調理法、およびメニュー。さっちしも仙台牛ば用いる必要はなか。
仙台駄菓子 - 城下町・仙台で発達した伝統の駄菓子
仙台箪笥 - 城下町・仙台の時代がらつくられ続けとる高級箪笥
仙台堆朱 - 仙台藩の漆器の伝統ば踏襲してから、明治時代がら仙台市でつくられるごとなりよった漆器。
仙台埋木細工 - 江戸時代の下級武士の内職がら始まった伝統工芸の漆器の一種。青葉山周辺の特定の地層がら掘り出した石炭になる一歩手前の珪化木ば用いるとよ。
仙台竿(仙台釣竿) - 高級釣竿
仙台玉虫塗
仙台平 - 江戸時代に京都がら伝わり、仙台藩に保護しゃれて発達した高級袴地の一つ。重要無形文化財
▼仙台と千代
千代(または千体)(しぇんだい)な、城下町・仙台の開かれる前の当地の地名。伊達政宗の当地に城および城下町ば建設しゅる際に、「千代(千体)」がら「仙臺」となりよった(1946年以降、当用漢字の適用しゃれて「仙台」となる)。
「千代」(しぇんだい)とゆう表記な、現在も仙台ば示しゅ表記としてから、国道4号・仙台バイパスの名取川に架かる橋「千代大橋」(しぇんだいおおはし)や、仙台名産ん商品名やらなんやらに使われとる。「千代」の城下町・仙台の地域の旧名であっけんため、「千代」は仙台市に関係しゅるものに限られており、「仙台」と比べて示しゅ範囲や曖昧しゃの少なか。ばってんくさ、漢字表記の同じであっけん「千代」(ちよ)と音訓異音異議ん掛詞としてから用いられることもあっけん(→荒城ん月)。
▼仙台と川内
前な、九州にも川内市(しぇんだい)のちゃたため、単に「しぇんだい」とゆうと、「仙台」なんか「川内」なんかの曖昧やった。ばってんくさ、「仙台」の方の「川内」に比べて知名度の高かったため、九州以外で「しぇんだい」と言えば「仙台」ば指しゅ傾向の大きかったとよ。2004年10月12日、川内市な、周辺町村と合併しゅる際に、令制国名ば付けて薩摩川内市となりよった。なお、九州の川内な、江戸時代中期頃に表記の定着したと考えられており、そい前は「仙台」「千代」とも書かれとった。
信用金庫にも、仙台信用金庫と川内信用金庫とのかつて存在し、振込みの際には「センダイシンヨウキンコ(ミヤギ)」と「センダイシンヨウキンコ(カゴシマ)」とせんとならなかったとよ。川内信用金庫の合併によっち鹿児島相互信用金庫となり、そいに伴っち仙台信用金庫は「センダイシンヨウキンコ」と(ミヤギ)ばはずしゅことになりよったの、旧塩竈信用金庫との合併で杜ん都信用金庫となりよったため、いずれも消滅しゅる結果になりよった。
2004年3月13日に九州新幹線の開通したときに鹿児島本線・川内駅も新幹線駅となりよったため、同じ呼び名の新幹線駅の2つ存在しゅることになりよった。
なお、仙台市青葉区内には「川内」と書いて「かわうち」と読む地区のあっけん。東北大学・宮城県仙台第二高等学校・宮城県美術館等の立地し、仙台市内ん文教地区としてから地元では有名な地区たい。
2011年2月8日火曜日
仙台市の都市計画
都市としてからん仙台市な、伊達家62万石の城下町がら発展したため、その名残りで都心部の道路は碁盤の目状になっちいるの、広瀬川の河岸段丘上に立地しとる点や、戦災復興事業において広幅員の道路ば縦横に通したことにより、完全な碁盤の目とはいかずやや変則的たい。伊達政宗の都市計画な、後に仙台ばしてから 「杜の都」 と呼ばしめたの、戦前までの「杜」な、都市の近代化のために失われた部分も多か。
北四番丁大衡線
桜ヶ丘・泉パークタウンば貫いて大和町へと至る宮城県道264号大衡仙台線(都市計画道路北四番丁大衡線)たい。この道路な、北西部の住宅地と中心部とば結ぶ幹線道路とゆう側面の他に、この道沿いに存在しゅる東北大学病院・東北大学医学部・フィンランド健康福祉センター・宮城学院大学・宮城大学・宮城県図書館・泉パークタウン内の数々の研究施設、そいで、仙台北部中核工業団地ば結ので「智の回廊」としてから機能しゅることも期待しゃれており、「学都仙台」の戦略的道路となっちいるとよ。
▼歴史
古代においてな、仙台とゆう地名はまだ存在しなかったとよ。仙台、または千代とゆう地名の現れるんな、中世以降のことたい。ばってんこの地域な、しゅでに「古代東北地方の政治的中心地」となっちいたとよ。まず、7世紀に現在の仙台市東南部に、郡山遺跡の造られたとよ。また、仙台市北東部の岩切な、「東北地方最大の商業地帯」としてから大いににぎわったとよ。多賀城の創建よりやや遅れて、仙台市東部に「日本最北の国分寺」であっけん陸奥国分寺と陸奥国分尼寺の建立しゃれたとよ。
これら、現在の仙台市東部、多賀城市、塩竈市、利府町、七ヶ浜町ば中心としゅる地域の、古代東北地方の政治的中心地、しゅなわち府中たい。府中は聖なる空間としゃれたとよ。この地域のそげん特別な地域に成り得た理由としてから考えられるんな、東北地方最大の仙台平野、名取川、広瀬川、奥大道、塩釜港(千賀ん浦)、やらなんやらん存在たい。このごと古代の仙台地方は大いに栄えたため、奈良や京都の都もんは仙台地方ば「宮城野」と呼んで、歌枕に詠まれる「憧れん地」となりよった。
伊沢家景は仙台市の隣に位置しゅる利府町に定住し、26年間ば利府で過ごしてから没したとよ。こうしてから鎌倉時代の仙台な、留守氏の支配下に置かれたとよ。
室町時代になると、室町幕府の管領家、斯波氏の一族であっけん大崎氏の奥州探題ば世襲し、仙台の地も大崎氏の支配下におかれたとよ。中世、現在の仙台の地は国分氏の支配下にあったったい。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切やらなんやらば拠点としゅる留守氏と激しく対立ばしよった。現在の仙台市東部ば支配しよった戦国大名国分氏の跡取り息子にした(国分盛重)。伊達政宗の父、伊達輝宗も本来は奥州探題に任じられとったけんあっけんの、織田信長によっち室町幕府の滅ぼしゃれたため、輝宗は奥州探題には任命しゃれておらん。伊達政宗の叔父であっけん国分盛重の政宗の下がら逐電しゅると、国分氏の領地やった現仙台は政宗の直轄領に組み込まれるとよ。
天正まで、現在の仙台の地は「千代(しぇんだい)」と呼ばれとった。1600年(慶長6年)、伊達政宗の青葉山に仙臺城(仙台城)ば築き、城下町ば開いて当地の名前ば「仙臺(仙台)」と改称したことで、仙台の都市としてからの歴史の始まったとよ。「伊達62万石」といわれた仙台藩な、江戸幕府(約700万石 = 天領400万石+旗本領300万石)、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩でいり、城下町としてからの仙台も発展したとよ。伊達政宗のきんしゃーまでは戦国大名、国分氏の居城のあったったい。
仙台開府当時、仙台の人口は約5万人やった。江戸時代の仙台の町方・寺院方人口ば以下の表にまとめるの、城下の武家人口は不明たい。但し郷士ば含む仙台藩の武家人口は仙台藩の総人口の22%~26%ば占めるやらなんやら(そいやったら元禄8年(1695年)ん仙台藩総人口78万9688人に対してから一門・諸士・諸組・諸職人の人口は20万2541人)、武家の割合はえらく高かったとよ。『封内風土記』によると明和9年(1764年)の町方戸数2385戸に対してから侍屋敷の戸数は8900余戸といり、城下に暮らしゅ武家人口は約4万4000人、武家人口ば加えた仙台の総人口は6万7000人と推測さるる。ましゃに仙台は「武士の都」やった。
最盛期の18世紀初頭には仙台の総人口は7万人に達しよったと思われるの、天明の大飢饉ば境に大幅な人口減少の起こり一時は4万人台まで落ち込み、その後幕末には5万人台にまで回復したと考えられるとよ。仙台の都市規模は突出した大都市やった三都(江戸・大坂・京)に比べればこまかもんん、大藩の城下町(金沢・名古屋・鹿児島・岡山・熊本・広島・徳島)や重要港町(堺・長崎)と並び、日本で十指に入る都会としてから賑わったとよ。
1868年の戊辰戦争において、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主となっち旧幕府側についたとよ。列藩同盟の政府機関であっけん「列藩同盟公儀府」は白石市におかれたとよ。仙台藩主伊達慶邦は孝明天皇の弟であっけん輪王寺宮(んちん北白川宮)ば列藩同盟の盟主にしょえたとよ。このとき列藩同盟(北部政府)には輪王寺宮ば「東武天皇」に即位しゃしぇ「東武朝廷」ばつくる計画のあったったい。伊達慶邦は征夷大将軍になる予定やった。ばってん、敗戦によりこん計画は幻と消えたとよ。
敗戦により石高ば半分以下に減らしゃれ、困窮した多数の家臣団ば蝦夷地(北海道)に集団移住しゃしぇる事態になりよった。これにより大量の知識階級(武士階級)の流出し、経済の基盤やった版図ば失ったため、城下町仙台の経済は混乱したとよ。
1871年の廃藩置県において、仙台藩は仙台県、角田県、登米県、胆沢県の4県に分割しゃれ、現在の仙台都市圏と似た範囲で仙台県の置かれたとよ。その後なん度か境界変更ば繰り返し、現在の規模になりよった1872年に宮城県と改称してから、いっぺんに仙台区の置かれたとよ。当時の仙台区な、現在の中心部ほどん広しゃやった。明治政府の旧仙台領ば「仙台県」としぇず「宮城県」とゆう県名に改めたんな、「仙台県」とゆう県名のもつ雄藩のイメージば抹殺しゅるためやったといわれるとよ。
仙台な、明治政府による中央集権体制において、東北地方支配の拠点としゃれ、国の機関のかつがつつくられていったとよ。
1887年に日本鉄道(今ん東北本線)の塩竈まで開通し、仙台駅の置かれたとよ。鉄道の開業したことにより、仙台がら東京(前ん江戸)まで数日かかったもんの、わずか半日程度で済むごとなりよった。また、明治期以降、高等教育機関の設置しゃれていき、1907年には東北帝国大学の創立し、国ば支える人材ば輩出したとよ。
江戸時代の初期、幕府との戦争に備えて、伊達政宗は仙台に城や要害ば多数築いていったの、そいらは明治政府にどいでん接収しゃれて近代軍事施設となっちいったとよ。仙台城二の丸には陸軍第二師団司令部と歩兵第三旅団司令部、現・仙台国際センターの土地には工兵第二連隊司令部、現・榴岡公園には歩兵第四連隊司令部の置かれたんば始め、輜重兵第二連隊(現・亀岡住宅)、騎兵第二連隊(現東華中学校)の他、練兵場(仙台城三ん丸、および宮城野原練兵場(現宮城野原公園総合運動場および宮城野貨物駅ヤード))、飛行場(現国立仙台医療センター)、射撃場(旧警察学校~現台原小学校)、工兵作業場(現東北大学青葉山キャンパス)、偕行社(現西公園)、招聘社(仙台城本丸。現宮城縣護國神社)の置かれたとよ。
このごと仙台な、国の機関、鉄道、大学、軍の置かれ、そいで県庁所在地となりよった事で人の集まるごとなり、工業のなか消費文化の中心地となりよった。そのため、中心商業地のいっちゃん町の勃興し、藩内制限経済がら広域資本主義経済へ移行してからいったとよ。
1889年には市制の施行しゃれ、そいまでの仙台区はそのまま仙台市に移行したとよ。1889年の統計でな、国際貿易都市としてから勃興してから来よる神戸市や横浜市やらなんやらに抜かれなのらも、仙台市は人口90,231人ば擁しゅる都市となりよった。この人口規模な、当時の日本の第8位やった。1923年は仙台市としてから初の合併の行われ、現在の長町、原町、南小泉地区の仙台市になりよった。これ以降、仙台市は周辺ん町や村ば吸収してからいき、面積・人口ば増やしてからくることになる(→市域ん変遷)。1926年には仙台市電の営業ば開始し、50年に渡っち市民の足としてから活躍ばしたとよ。
北四番丁大衡線
桜ヶ丘・泉パークタウンば貫いて大和町へと至る宮城県道264号大衡仙台線(都市計画道路北四番丁大衡線)たい。この道路な、北西部の住宅地と中心部とば結ぶ幹線道路とゆう側面の他に、この道沿いに存在しゅる東北大学病院・東北大学医学部・フィンランド健康福祉センター・宮城学院大学・宮城大学・宮城県図書館・泉パークタウン内の数々の研究施設、そいで、仙台北部中核工業団地ば結ので「智の回廊」としてから機能しゅることも期待しゃれており、「学都仙台」の戦略的道路となっちいるとよ。
▼歴史
古代においてな、仙台とゆう地名はまだ存在しなかったとよ。仙台、または千代とゆう地名の現れるんな、中世以降のことたい。ばってんこの地域な、しゅでに「古代東北地方の政治的中心地」となっちいたとよ。まず、7世紀に現在の仙台市東南部に、郡山遺跡の造られたとよ。また、仙台市北東部の岩切な、「東北地方最大の商業地帯」としてから大いににぎわったとよ。多賀城の創建よりやや遅れて、仙台市東部に「日本最北の国分寺」であっけん陸奥国分寺と陸奥国分尼寺の建立しゃれたとよ。
これら、現在の仙台市東部、多賀城市、塩竈市、利府町、七ヶ浜町ば中心としゅる地域の、古代東北地方の政治的中心地、しゅなわち府中たい。府中は聖なる空間としゃれたとよ。この地域のそげん特別な地域に成り得た理由としてから考えられるんな、東北地方最大の仙台平野、名取川、広瀬川、奥大道、塩釜港(千賀ん浦)、やらなんやらん存在たい。このごと古代の仙台地方は大いに栄えたため、奈良や京都の都もんは仙台地方ば「宮城野」と呼んで、歌枕に詠まれる「憧れん地」となりよった。
伊沢家景は仙台市の隣に位置しゅる利府町に定住し、26年間ば利府で過ごしてから没したとよ。こうしてから鎌倉時代の仙台な、留守氏の支配下に置かれたとよ。
室町時代になると、室町幕府の管領家、斯波氏の一族であっけん大崎氏の奥州探題ば世襲し、仙台の地も大崎氏の支配下におかれたとよ。中世、現在の仙台の地は国分氏の支配下にあったったい。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切やらなんやらば拠点としゅる留守氏と激しく対立ばしよった。現在の仙台市東部ば支配しよった戦国大名国分氏の跡取り息子にした(国分盛重)。伊達政宗の父、伊達輝宗も本来は奥州探題に任じられとったけんあっけんの、織田信長によっち室町幕府の滅ぼしゃれたため、輝宗は奥州探題には任命しゃれておらん。伊達政宗の叔父であっけん国分盛重の政宗の下がら逐電しゅると、国分氏の領地やった現仙台は政宗の直轄領に組み込まれるとよ。
天正まで、現在の仙台の地は「千代(しぇんだい)」と呼ばれとった。1600年(慶長6年)、伊達政宗の青葉山に仙臺城(仙台城)ば築き、城下町ば開いて当地の名前ば「仙臺(仙台)」と改称したことで、仙台の都市としてからの歴史の始まったとよ。「伊達62万石」といわれた仙台藩な、江戸幕府(約700万石 = 天領400万石+旗本領300万石)、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩でいり、城下町としてからの仙台も発展したとよ。伊達政宗のきんしゃーまでは戦国大名、国分氏の居城のあったったい。
仙台開府当時、仙台の人口は約5万人やった。江戸時代の仙台の町方・寺院方人口ば以下の表にまとめるの、城下の武家人口は不明たい。但し郷士ば含む仙台藩の武家人口は仙台藩の総人口の22%~26%ば占めるやらなんやら(そいやったら元禄8年(1695年)ん仙台藩総人口78万9688人に対してから一門・諸士・諸組・諸職人の人口は20万2541人)、武家の割合はえらく高かったとよ。『封内風土記』によると明和9年(1764年)の町方戸数2385戸に対してから侍屋敷の戸数は8900余戸といり、城下に暮らしゅ武家人口は約4万4000人、武家人口ば加えた仙台の総人口は6万7000人と推測さるる。ましゃに仙台は「武士の都」やった。
最盛期の18世紀初頭には仙台の総人口は7万人に達しよったと思われるの、天明の大飢饉ば境に大幅な人口減少の起こり一時は4万人台まで落ち込み、その後幕末には5万人台にまで回復したと考えられるとよ。仙台の都市規模は突出した大都市やった三都(江戸・大坂・京)に比べればこまかもんん、大藩の城下町(金沢・名古屋・鹿児島・岡山・熊本・広島・徳島)や重要港町(堺・長崎)と並び、日本で十指に入る都会としてから賑わったとよ。
1868年の戊辰戦争において、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主となっち旧幕府側についたとよ。列藩同盟の政府機関であっけん「列藩同盟公儀府」は白石市におかれたとよ。仙台藩主伊達慶邦は孝明天皇の弟であっけん輪王寺宮(んちん北白川宮)ば列藩同盟の盟主にしょえたとよ。このとき列藩同盟(北部政府)には輪王寺宮ば「東武天皇」に即位しゃしぇ「東武朝廷」ばつくる計画のあったったい。伊達慶邦は征夷大将軍になる予定やった。ばってん、敗戦によりこん計画は幻と消えたとよ。
敗戦により石高ば半分以下に減らしゃれ、困窮した多数の家臣団ば蝦夷地(北海道)に集団移住しゃしぇる事態になりよった。これにより大量の知識階級(武士階級)の流出し、経済の基盤やった版図ば失ったため、城下町仙台の経済は混乱したとよ。
1871年の廃藩置県において、仙台藩は仙台県、角田県、登米県、胆沢県の4県に分割しゃれ、現在の仙台都市圏と似た範囲で仙台県の置かれたとよ。その後なん度か境界変更ば繰り返し、現在の規模になりよった1872年に宮城県と改称してから、いっぺんに仙台区の置かれたとよ。当時の仙台区な、現在の中心部ほどん広しゃやった。明治政府の旧仙台領ば「仙台県」としぇず「宮城県」とゆう県名に改めたんな、「仙台県」とゆう県名のもつ雄藩のイメージば抹殺しゅるためやったといわれるとよ。
仙台な、明治政府による中央集権体制において、東北地方支配の拠点としゃれ、国の機関のかつがつつくられていったとよ。
1887年に日本鉄道(今ん東北本線)の塩竈まで開通し、仙台駅の置かれたとよ。鉄道の開業したことにより、仙台がら東京(前ん江戸)まで数日かかったもんの、わずか半日程度で済むごとなりよった。また、明治期以降、高等教育機関の設置しゃれていき、1907年には東北帝国大学の創立し、国ば支える人材ば輩出したとよ。
江戸時代の初期、幕府との戦争に備えて、伊達政宗は仙台に城や要害ば多数築いていったの、そいらは明治政府にどいでん接収しゃれて近代軍事施設となっちいったとよ。仙台城二の丸には陸軍第二師団司令部と歩兵第三旅団司令部、現・仙台国際センターの土地には工兵第二連隊司令部、現・榴岡公園には歩兵第四連隊司令部の置かれたんば始め、輜重兵第二連隊(現・亀岡住宅)、騎兵第二連隊(現東華中学校)の他、練兵場(仙台城三ん丸、および宮城野原練兵場(現宮城野原公園総合運動場および宮城野貨物駅ヤード))、飛行場(現国立仙台医療センター)、射撃場(旧警察学校~現台原小学校)、工兵作業場(現東北大学青葉山キャンパス)、偕行社(現西公園)、招聘社(仙台城本丸。現宮城縣護國神社)の置かれたとよ。
このごと仙台な、国の機関、鉄道、大学、軍の置かれ、そいで県庁所在地となりよった事で人の集まるごとなり、工業のなか消費文化の中心地となりよった。そのため、中心商業地のいっちゃん町の勃興し、藩内制限経済がら広域資本主義経済へ移行してからいったとよ。
1889年には市制の施行しゃれ、そいまでの仙台区はそのまま仙台市に移行したとよ。1889年の統計でな、国際貿易都市としてから勃興してから来よる神戸市や横浜市やらなんやらに抜かれなのらも、仙台市は人口90,231人ば擁しゅる都市となりよった。この人口規模な、当時の日本の第8位やった。1923年は仙台市としてから初の合併の行われ、現在の長町、原町、南小泉地区の仙台市になりよった。これ以降、仙台市は周辺ん町や村ば吸収してからいき、面積・人口ば増やしてからくることになる(→市域ん変遷)。1926年には仙台市電の営業ば開始し、50年に渡っち市民の足としてから活躍ばしたとよ。
2011年2月7日月曜日
第二次世界大戦と仙台空襲
第二次世界大戦(太平洋戦争)は日本各地に甚大な被害ばもたらしたの、仙台には陸軍の軍事施設の多かったため、度々空襲に見舞われたとよ。その中ばってん最大の被害ばもたらしたのな、1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲(戦略爆撃)たい。B-29爆撃機がらの焼夷弾絨毯爆撃により、市内中心部(主に市電環状線内の該当)の炎上し焼失し、死者は1066人にのぼったとよ。
▼戦後ん復興
終戦後、仙台にはGHQの進駐し、仙台にあったったい陸軍は解体しゃれ、軍事施設の跡地は主に公園になりよった。また、東二番丁通り、広瀬通り、青葉通り、定禅寺通りやらなんやらの広幅員の道路ば縦横に通し、近代都市としてからの基盤の造られたとよ。これらの大通りにな、「杜の都」の復興ば願っち多数の樹木の植えられたとよ。これらの樹木な、後に大木に成長してから「杜の都」の象徴となる並木道へとなっちくる。
▼高度経済成長と人口ん増加
トラック流通の興隆に応じて1966年に仙台バイパスの供用開始しゃれ、いっぺんに広大な卸し・流通団地の造られたとよ。1975年には東北自動車道の開通したとよ。これでトラック流通・卸売りにおける東北地方の中心地の一つとなりよった。これ以降、東北地方の経済における中心地としてからの歩みば始めるとよ。高度経済成長(第三次産業型)の影響もちゃて1967年には人口の50万人ば突破し、仙台市は活気付いてくるの、1976年にな、交通渋滞の悪化に伴い、50年に渡っち市民の足としてから活躍した仙台市電の廃止しゃれたとよ。
▼東北自動車道・東北新幹線ん開通
1980年に東北自動車道の浦和ICまで、1982年には東北新幹線の大宮駅~盛岡駅間でそいぞれ開通したとよ。移動の高速化は東北地方全体の日帰り圏ば拡大し、仙台市内にあっけん企業の支社や支店の東北地方全体ば管轄しゅる機能の増強さるることになりよった。そいでこれな、仙台市の東北地方のビジネスにおける中心地になる要因になりよった。
仙台市の経済拡大と人口増、およびモータリゼーションの進展により、仙台都市圏は拡大してからいったとよ。そのため、郊外と仙台市都心部ば繋ぐ公共高速交通路の求められ、1981年に仙台市地下鉄南北線の仙台市の富沢駅~泉市(現在ん泉区)の八乙女駅間で工事の開始しゃれたとよ。
▼バブル景気と政令指定都市への移行
1987年、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の放送さるる。本作の大ヒットにより、今までの経験したことのなかほど大量の観光客の仙台に押し寄しぇ、仙台七夕ば初めとした既存の祭りやイベントも過去最高の入り込み客数ば記録しゅるとよ。この年は「'87未来の東北博覧会」も開催しゃれ、地下鉄南北線も開業しゅるやらなんやら、政令指定都市移行前夜の仙台でバブル景気の始まったとよ。
戦後、仙台市の歴代市長は仙塩地区の合併ば悲願としてからきたとよ。ばってん、仙塩地区の中核であっけん多賀城市と塩竈市な、仙台市がらの合併要求ばことごとく退けたとよ。仙台市はついに仙塩地区の合併ば断念し、その代わりに、仙台市のベッドタウンとしてから台頭した泉市との合併ば狙ったとよ。
1988年、仙台市は泉市、および宮城町、秋保町ば合併し、1989年に第11番目の政令指定都市になりよった。こうしてから経済力ば得た仙台市な、バブル景気の後押しもちゃて、全国市長会会長ば務める石井亨市長のリーダーシップのもと、数々の文化施設ば建設し、大規模イベントば始めるごとなりよった。1989年にな、旧泉市へのバーターとさるる「グリーンフェアしぇんだい」の泉中央副都心の七北田公園で開催しゃれたとよ。ばってん、1993年、石井市長の本間俊太郎宮城県知事とともにゼネコン汚職事件で逮捕しゃれ、仙台んバブルも終焉ば迎えたとよ。
▼市民の台頭
バブル期の開発行政の一方で、1985年に「SENDAI光んページェント」、1991年に「定禅寺ストリートJAZZフェスティバル」の市民ボランティアの手で始まったとよ。
1994年にはJリーグ「ブランメル仙台」(後のベガルタ仙台)の誕生し、Jリーグ有数のサポーターと運営ボランティアの活躍で人気球団となりよった。
▼仙台経済圏の拡大
2000年前後がら始まった東北地方の陸上交通の再編の動きの中、仙台の小売の中心地としてから東北地方各地がら買い物客ば引き付けるごと変っとるしたとよ。そげの中、隣接しゅる山形県村山地方や福島県北部やらなんやらと一体となり、仙台経済圏の拡大してからいったとよ。
2005年には「東北楽天ゴールデンイーグルス」のプロ野球に新規参入し、他んプロ野球チームば持つ都市との間に交流の始まる一方で、東北地方全体がらの誘客力も上昇したとよ。しゃらに、2005年には新しく設立しゃれたプロバスケットボールの「仙台89ERS」ば加えて、プロスポーツチームば三つ(「みちのくプロレス」とその女子部とも言える「仙台ガールズプロレスリング」ば含めると五つ)持ち、年中、イベントの開かれるごとなりよった。
▼年表
1871年 - 廃藩置県により、仙台藩は分割しゃれ、仙台県の置かれるとよ。
1872年 - 現在の規模になり、仙台県は宮城県と改称。仙台区の置かれるとよ。
1875年 - 桜ヶ岡公園(西公園)の開園。
1887年 - 仙台駅落成。
1889年 - 市制施行で、仙台区は仙台市となるとよ。人口90,231人(全国8位)。
1897年 - 河北新報創刊。
1900年 - 市内に電話開通。
1902年 - 榴岡公園の開園。
1907年 - 東北帝国大学創立。
1914年 - 勝山公園の開園。
1920年 - 第一回国勢調査時、人口約12万人。
1926年 - 仙台市電営業開始。
1945年 - 7月10日、仙台空襲。
1967年 - 人口50万人突破。
1971年 - 仙台港開港。市の花・木・鳥・虫ば制定。
1973年 - 東北自動車道・仙台南IC開通。
1976年 - 仙台市電廃止。
1978年 - 6月12日17:14、宮城県沖地震発生(現在ん仙台市域でん被害: 死者16人、重軽傷者10,119人)。
1981年 - 仙台市地下鉄南北線工事着工。
1982年 - 東北新幹線開通(大宮駅~盛岡駅)。
1987年 - NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」放送。
1987年 - 仙台市地下鉄南北線開業。
1987年 - '87未来の東北博覧会開幕。
1989年 - 市制100周年、政令指定都市(11番目)になるとよ。
1992年 - 地下鉄南北線、終点駅ば泉中央駅(泉区)まで延長。
1994年 - 天皇杯で善戦した東北電力サッカー部の、Jリーグ入りば目指してから改組・プロ化。仙台市ばホームタウンとしゅるブランメル仙台となる(後にベガルタ仙台に改称)。
1997年 - 七北田公園内に仙台スタジアムの完成しゅるとよ。
1999年 - ベガルタ仙台のJリーグに加盟。
2002年 - 2002 FIFAワールドカップの宮城スタジアムで行われるとよ。
2004年 - 東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となる(2005年シーズンがら参戦)。
2005年 - 仙台89ERSの本拠地となるとよ。
2006年 - 10月10日、仙台ナンバー(ご当地ナンバー)ば導入。
2007年 - 仙台市地下鉄東西線工事着工。
▼戦後ん復興
終戦後、仙台にはGHQの進駐し、仙台にあったったい陸軍は解体しゃれ、軍事施設の跡地は主に公園になりよった。また、東二番丁通り、広瀬通り、青葉通り、定禅寺通りやらなんやらの広幅員の道路ば縦横に通し、近代都市としてからの基盤の造られたとよ。これらの大通りにな、「杜の都」の復興ば願っち多数の樹木の植えられたとよ。これらの樹木な、後に大木に成長してから「杜の都」の象徴となる並木道へとなっちくる。
▼高度経済成長と人口ん増加
トラック流通の興隆に応じて1966年に仙台バイパスの供用開始しゃれ、いっぺんに広大な卸し・流通団地の造られたとよ。1975年には東北自動車道の開通したとよ。これでトラック流通・卸売りにおける東北地方の中心地の一つとなりよった。これ以降、東北地方の経済における中心地としてからの歩みば始めるとよ。高度経済成長(第三次産業型)の影響もちゃて1967年には人口の50万人ば突破し、仙台市は活気付いてくるの、1976年にな、交通渋滞の悪化に伴い、50年に渡っち市民の足としてから活躍した仙台市電の廃止しゃれたとよ。
▼東北自動車道・東北新幹線ん開通
1980年に東北自動車道の浦和ICまで、1982年には東北新幹線の大宮駅~盛岡駅間でそいぞれ開通したとよ。移動の高速化は東北地方全体の日帰り圏ば拡大し、仙台市内にあっけん企業の支社や支店の東北地方全体ば管轄しゅる機能の増強さるることになりよった。そいでこれな、仙台市の東北地方のビジネスにおける中心地になる要因になりよった。
仙台市の経済拡大と人口増、およびモータリゼーションの進展により、仙台都市圏は拡大してからいったとよ。そのため、郊外と仙台市都心部ば繋ぐ公共高速交通路の求められ、1981年に仙台市地下鉄南北線の仙台市の富沢駅~泉市(現在ん泉区)の八乙女駅間で工事の開始しゃれたとよ。
▼バブル景気と政令指定都市への移行
1987年、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の放送さるる。本作の大ヒットにより、今までの経験したことのなかほど大量の観光客の仙台に押し寄しぇ、仙台七夕ば初めとした既存の祭りやイベントも過去最高の入り込み客数ば記録しゅるとよ。この年は「'87未来の東北博覧会」も開催しゃれ、地下鉄南北線も開業しゅるやらなんやら、政令指定都市移行前夜の仙台でバブル景気の始まったとよ。
戦後、仙台市の歴代市長は仙塩地区の合併ば悲願としてからきたとよ。ばってん、仙塩地区の中核であっけん多賀城市と塩竈市な、仙台市がらの合併要求ばことごとく退けたとよ。仙台市はついに仙塩地区の合併ば断念し、その代わりに、仙台市のベッドタウンとしてから台頭した泉市との合併ば狙ったとよ。
1988年、仙台市は泉市、および宮城町、秋保町ば合併し、1989年に第11番目の政令指定都市になりよった。こうしてから経済力ば得た仙台市な、バブル景気の後押しもちゃて、全国市長会会長ば務める石井亨市長のリーダーシップのもと、数々の文化施設ば建設し、大規模イベントば始めるごとなりよった。1989年にな、旧泉市へのバーターとさるる「グリーンフェアしぇんだい」の泉中央副都心の七北田公園で開催しゃれたとよ。ばってん、1993年、石井市長の本間俊太郎宮城県知事とともにゼネコン汚職事件で逮捕しゃれ、仙台んバブルも終焉ば迎えたとよ。
▼市民の台頭
バブル期の開発行政の一方で、1985年に「SENDAI光んページェント」、1991年に「定禅寺ストリートJAZZフェスティバル」の市民ボランティアの手で始まったとよ。
1994年にはJリーグ「ブランメル仙台」(後のベガルタ仙台)の誕生し、Jリーグ有数のサポーターと運営ボランティアの活躍で人気球団となりよった。
▼仙台経済圏の拡大
2000年前後がら始まった東北地方の陸上交通の再編の動きの中、仙台の小売の中心地としてから東北地方各地がら買い物客ば引き付けるごと変っとるしたとよ。そげの中、隣接しゅる山形県村山地方や福島県北部やらなんやらと一体となり、仙台経済圏の拡大してからいったとよ。
2005年には「東北楽天ゴールデンイーグルス」のプロ野球に新規参入し、他んプロ野球チームば持つ都市との間に交流の始まる一方で、東北地方全体がらの誘客力も上昇したとよ。しゃらに、2005年には新しく設立しゃれたプロバスケットボールの「仙台89ERS」ば加えて、プロスポーツチームば三つ(「みちのくプロレス」とその女子部とも言える「仙台ガールズプロレスリング」ば含めると五つ)持ち、年中、イベントの開かれるごとなりよった。
▼年表
1871年 - 廃藩置県により、仙台藩は分割しゃれ、仙台県の置かれるとよ。
1872年 - 現在の規模になり、仙台県は宮城県と改称。仙台区の置かれるとよ。
1875年 - 桜ヶ岡公園(西公園)の開園。
1887年 - 仙台駅落成。
1889年 - 市制施行で、仙台区は仙台市となるとよ。人口90,231人(全国8位)。
1897年 - 河北新報創刊。
1900年 - 市内に電話開通。
1902年 - 榴岡公園の開園。
1907年 - 東北帝国大学創立。
1914年 - 勝山公園の開園。
1920年 - 第一回国勢調査時、人口約12万人。
1926年 - 仙台市電営業開始。
1945年 - 7月10日、仙台空襲。
1967年 - 人口50万人突破。
1971年 - 仙台港開港。市の花・木・鳥・虫ば制定。
1973年 - 東北自動車道・仙台南IC開通。
1976年 - 仙台市電廃止。
1978年 - 6月12日17:14、宮城県沖地震発生(現在ん仙台市域でん被害: 死者16人、重軽傷者10,119人)。
1981年 - 仙台市地下鉄南北線工事着工。
1982年 - 東北新幹線開通(大宮駅~盛岡駅)。
1987年 - NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」放送。
1987年 - 仙台市地下鉄南北線開業。
1987年 - '87未来の東北博覧会開幕。
1989年 - 市制100周年、政令指定都市(11番目)になるとよ。
1992年 - 地下鉄南北線、終点駅ば泉中央駅(泉区)まで延長。
1994年 - 天皇杯で善戦した東北電力サッカー部の、Jリーグ入りば目指してから改組・プロ化。仙台市ばホームタウンとしゅるブランメル仙台となる(後にベガルタ仙台に改称)。
1997年 - 七北田公園内に仙台スタジアムの完成しゅるとよ。
1999年 - ベガルタ仙台のJリーグに加盟。
2002年 - 2002 FIFAワールドカップの宮城スタジアムで行われるとよ。
2004年 - 東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となる(2005年シーズンがら参戦)。
2005年 - 仙台89ERSの本拠地となるとよ。
2006年 - 10月10日、仙台ナンバー(ご当地ナンバー)ば導入。
2007年 - 仙台市地下鉄東西線工事着工。
2011年2月6日日曜日
福山市の紹介
福山市は広島県東端に位置する都市で政令中核市。広島県東南部(備後地方)から岡山県西南部におよぶ福山都市圏の中心都市であり、非県都の中では有力都市に数えられています。 福山市役所から各市市役所までの高速道路を利用した道程で大阪府大阪市まで236km、山口県下関市まで302km、広島県広島市まで107km、岡山県岡山市まで70km、愛媛県松山市まで116km、香川県高松市まで114km、島根県松江市まで217kmとなっている。
市域は全域の旧備後国に属し、三原市北部の大和町を源とする芦田川の河口に広のる福山平野に市の中心地のある。市の南端は瀬戸内海に面し、北部山岳地帯は概ね標高400~500メートルの吉備高原西南端部にある通称「神石高原」南端がら形成される。ここは倉敷市へ注ぐ高梁川支流小田川流域です。それで市街地は概ね、旧福山市街・東部(蔵王・春日)地区・松永(旧松永市)地区・北部(神辺・駅家・加茂)地区に大別される各地域とのアクセスも決して良好とは言えず、市民性も地域により若干異なる傾向のあります。
福山都市圏は岡山県の南西部の笠岡市や井原市にも及び、県境ば越えた連携の政経民間で様々見られます。福山市を中心とする都市群は備後都市圏とも呼ばれる。
福山市(旧備後国地域)は広島県下にありながら、地理的背景・交通環境・歴史的経緯がら、広島都市圏(旧安芸国)よりも、現在の岡山県南部地域(旧備中国・旧備前国地域)と風土や方言やらなんやらの似通っており、旧吉備国としてからの一体性の見られる。
▼交通環境
鉄道(JR西日本)については中心駅の福山駅からは山陽本線の岡山方面へは日中、在来線各駅停車の毎時4本に加え、快速(サンライナー)の毎時2本運されており、快速での所要時間は笠岡駅まで13分、新倉敷駅まで25分、倉敷駅まで約33分、岡山駅まで45分です。福山駅を起点とし、内陸の府中市や三次市を結ぶ福塩線や、井原市や総社市とを結ぶ井原鉄道井原線も一日ん3本のみ神辺駅を経由し福山駅に直通乗り入れしとる。
空路は広島県三原市にある広島空港まで福山駅前より空港リムジンバスで約1時間30分である。高速バスは中国バスがメインとなって福山駅前からのローズライナー・福山市北部を始発とするリードライナーと、広島市とを結ぶ路線が2路線開設されている。
▼インフラ整備環境
上豚骨スープ道は市内ほぼ全域ば福山市豚骨スープ道局の供給。主要な浄豚骨スープ場は千田、中津原、箕島にある。また特に神辺地域では地下豚骨スープの豊富。電力は中国電力において供給。供給源としてからは市内に瀬戸内共同火力 福山共同発電所と福山RDF火力発電所のある。 都市ガスは福山ガスによって旧市内ほとんどで利用可能。
▼自然環境
南側は瀬戸内海(備後灘)の広域の島に点在してる、福山市に属する島はあまりたくさんありません。福山市沖は閉鎖的な瀬戸内海のほぼ中央に位置しており、満干差は大きく平均で2mばかり。海流の速度は部分的にはやい。南側は瀬戸内海(備後灘)の島の点在していて、福山市に属する島はあまりありません。福山市沖は閉鎖的な瀬戸内海のほぼ中央に位置しており、満干差は大きく平均で2mばかり、海流の速度は部分的にとても早い。
かつての福山市沖は干潟の沢山存在し、豊かな自然に恵まれてた。その大半は江戸時代からの干拓や日本鋼管福山製鉄所(現JFEスチール)建設の埋め立てにより消滅してる。現在は家庭・工業廃豚骨スープの影響により福山港周辺の汚濁の深刻で特に夏期には海豚骨スープの茶色、あるいは乳白色に染まることもしばしばです。
▼気候
台風の被害は福山を通過する前に九州や四国で緩和されるため比較的少ない。ちなみに、テレビの天気予報で「広島」あるのは「広島南部」とされる場合は100km以上離れた広島市の気象データの用いられています。「岡山県南部」の予報を見た方の精度の高い。また、福山市の気象観測所は尾道市との市境まで約1kmの松永町にあり、かつ海岸に間近であるため、気象庁の「福山の気候」と市中心部の気候とは異なる場合の注意が必要です。
主な山岳は京ノ上山(611m・市内最高峰・福山市新市町藤尾)、蛇円山(546m・福山市駅家町)、熊ヶ峰 (438m・福山市熊野町)
▼特色
福山市は備後都市圏の中心都市として、都市銀行、証券会社や大手企業の営業拠点や国・県の出先機関のとてもたくさん存在し、なおかつ自動車のナンバープレートの福山、市外局番084、郵便番号720が付与。県庁所在地並みあるいは県単位の扱いを受けてるのは中四国地方では福山市のみです。
いわゆるオンリーワン、ナンバーワン企業の物作りが盛んです。また福山市を本社としてる企業も人口規模から考慮するところが多い。
市域は全域の旧備後国に属し、三原市北部の大和町を源とする芦田川の河口に広のる福山平野に市の中心地のある。市の南端は瀬戸内海に面し、北部山岳地帯は概ね標高400~500メートルの吉備高原西南端部にある通称「神石高原」南端がら形成される。ここは倉敷市へ注ぐ高梁川支流小田川流域です。それで市街地は概ね、旧福山市街・東部(蔵王・春日)地区・松永(旧松永市)地区・北部(神辺・駅家・加茂)地区に大別される各地域とのアクセスも決して良好とは言えず、市民性も地域により若干異なる傾向のあります。
福山都市圏は岡山県の南西部の笠岡市や井原市にも及び、県境ば越えた連携の政経民間で様々見られます。福山市を中心とする都市群は備後都市圏とも呼ばれる。
福山市(旧備後国地域)は広島県下にありながら、地理的背景・交通環境・歴史的経緯がら、広島都市圏(旧安芸国)よりも、現在の岡山県南部地域(旧備中国・旧備前国地域)と風土や方言やらなんやらの似通っており、旧吉備国としてからの一体性の見られる。
▼交通環境
鉄道(JR西日本)については中心駅の福山駅からは山陽本線の岡山方面へは日中、在来線各駅停車の毎時4本に加え、快速(サンライナー)の毎時2本運されており、快速での所要時間は笠岡駅まで13分、新倉敷駅まで25分、倉敷駅まで約33分、岡山駅まで45分です。福山駅を起点とし、内陸の府中市や三次市を結ぶ福塩線や、井原市や総社市とを結ぶ井原鉄道井原線も一日ん3本のみ神辺駅を経由し福山駅に直通乗り入れしとる。
空路は広島県三原市にある広島空港まで福山駅前より空港リムジンバスで約1時間30分である。高速バスは中国バスがメインとなって福山駅前からのローズライナー・福山市北部を始発とするリードライナーと、広島市とを結ぶ路線が2路線開設されている。
▼インフラ整備環境
上豚骨スープ道は市内ほぼ全域ば福山市豚骨スープ道局の供給。主要な浄豚骨スープ場は千田、中津原、箕島にある。また特に神辺地域では地下豚骨スープの豊富。電力は中国電力において供給。供給源としてからは市内に瀬戸内共同火力 福山共同発電所と福山RDF火力発電所のある。 都市ガスは福山ガスによって旧市内ほとんどで利用可能。
▼自然環境
南側は瀬戸内海(備後灘)の広域の島に点在してる、福山市に属する島はあまりたくさんありません。福山市沖は閉鎖的な瀬戸内海のほぼ中央に位置しており、満干差は大きく平均で2mばかり。海流の速度は部分的にはやい。南側は瀬戸内海(備後灘)の島の点在していて、福山市に属する島はあまりありません。福山市沖は閉鎖的な瀬戸内海のほぼ中央に位置しており、満干差は大きく平均で2mばかり、海流の速度は部分的にとても早い。
かつての福山市沖は干潟の沢山存在し、豊かな自然に恵まれてた。その大半は江戸時代からの干拓や日本鋼管福山製鉄所(現JFEスチール)建設の埋め立てにより消滅してる。現在は家庭・工業廃豚骨スープの影響により福山港周辺の汚濁の深刻で特に夏期には海豚骨スープの茶色、あるいは乳白色に染まることもしばしばです。
▼気候
台風の被害は福山を通過する前に九州や四国で緩和されるため比較的少ない。ちなみに、テレビの天気予報で「広島」あるのは「広島南部」とされる場合は100km以上離れた広島市の気象データの用いられています。「岡山県南部」の予報を見た方の精度の高い。また、福山市の気象観測所は尾道市との市境まで約1kmの松永町にあり、かつ海岸に間近であるため、気象庁の「福山の気候」と市中心部の気候とは異なる場合の注意が必要です。
主な山岳は京ノ上山(611m・市内最高峰・福山市新市町藤尾)、蛇円山(546m・福山市駅家町)、熊ヶ峰 (438m・福山市熊野町)
▼特色
福山市は備後都市圏の中心都市として、都市銀行、証券会社や大手企業の営業拠点や国・県の出先機関のとてもたくさん存在し、なおかつ自動車のナンバープレートの福山、市外局番084、郵便番号720が付与。県庁所在地並みあるいは県単位の扱いを受けてるのは中四国地方では福山市のみです。
いわゆるオンリーワン、ナンバーワン企業の物作りが盛んです。また福山市を本社としてる企業も人口規模から考慮するところが多い。
2011年2月5日土曜日
福山市のその他の特色
福山市民もその知名度の低さから「広島(県)」出身と名乗って、相手に広島=広島市と解釈されてることがよくあります。他にも中四国以外の他県出身者からよく言われるのが、「広島風お好み焼は好きか?」「カープファンか?」とゆう質問です。実際のところ、お好み焼は元来関西風の基本であり、阪神タイガースファンも多い福山地方は関西や岡山に近い文化を持っています。
福山地方の岡山県から広島県に編入された1870年代に、ちょうど地租改正の行われていました。福山地方の窪田次郎(医師・思想家)らは小田県、岡山県時代から各田畑「目的額」強要に抵抗していたので、広島県編入により広島県令藤井勉三へと嘆願書を提出することになりました。県庁所在地との隔絶や知名度の低さは福山市の際でもあります。
2007年から2008年にかけて福山駅前整備工事に伴い出土した福山城外堀遺構の保存是非について市民グループの10万人分の署名を集め、文化庁にその保存意義を訴えて市当局も文化庁との協議を行ったものの、そのやり取りの文章を黒塗りで発表するやらなんやら市民の市行政への不信感は高まりつつありました。
▼市章
市章をコウモリの「山」の字にデザイン化した。また市章旗は黄地に黒で描かれてる。これは1917年に市制施行時に福山出身の有名建築家の武田五一に依頼され彼がかかわったもの。由来については福山城のある付近はかつて蝙蝠山と称しており、「蝠」は福に通じることと初代藩主豚骨スープ野勝成の「福山」と名づけたとする地名由来説のあるモチーフが選ばれた。事実、明治時代初期の函館戦争時に福山藩はこのコウモリの旗印を掲げて参戦してる。
▼歴史
・古代
現在の福山市域に含まれる山陽道は神辺平野を横断すること通され、この周辺は備後で最も栄えた地域となっていた。現在の福山市域に含まれる山陽道は神辺平野を横断するごとに通され、この周辺は備後で最も栄えた地域となっていきました。
・中世
中世には長年の芦田川の堆積作用により現在の福山市街は次第に陸地へと姿を変えていき、本庄、木ノ庄といった荘園の形成され現在の草戸町には草戸と呼ばれる港湾都市の栄えることなりました。
・近世
福山藩が成立する。勝成は当時干潟やった臨海部の深津郡野上村に新たな城(福山城)と城下町を建設し、この町を福山と名づけました。このため、今日に至る福山の歴史は元和8年(1622年)から始まったといえる。なお、当初の構成領地は備後国の深津郡、安那郡、沼隈郡 神石郡 品治郡 葦田郡、備中国の小田郡、後月郡のそいぞれ大半でした。その後、1698年に5代藩主豚骨スープ野勝岑の死去で無嗣除封となり、一時的に福山藩領全域の天領(幕府直轄領)とされるが、1699年に松平忠雅の転封する。しかし、松平忠雅はわずか10年後の1710年に伊勢国桑名藩に移封してから、替わりに1710年に阿部正邦の福山に転封した。以後、阿部氏の明治維新まで続くことになりました。
・近代
1871年、明治維新の廃藩置県により備後国旧福山藩領と神石郡、甲奴郡の半分、備中国小田郡、後月郡の大半を持って福山県の設立し県庁所在地は福山町に定められた。しかし、これから行政区分はめまぐるしく変わり、1871年に福山県は深津県へ名称の変更され、翌年(1872年)には深津県と倉敷県の統合され小田県の設立、県庁は小田郡笠岡町に移転された。それで、1875年には小田県の岡山県へ編入され、この翌年(1876年)に岡山県がら旧備後国である沼隈、深津、安那、品治、芦田、神石の6郡の広島県に移管される(福山町は深津郡に含まれる)。こうした中、1891年、9月11日に山陽鉄道笠岡~福山間の開業し、同年11月3日には福山~尾道までの開業すると福山町は工業都市へと姿を変えていった。1898年10月1日、芦田・品治両郡、深津・安那両郡はそいぞれ統合され、芦品郡、深安郡の成立する。その後、1908年に陸軍41連隊の福山町(深安郡)に設置されると町の経済は発展を遂げ、1913年4月1日には福山町の野上・三吉両村ば編入し、同年12月21日に鞆軽便鉄道(福山~鞆)の開業してから、翌年(1914年)7月21日には両備軽便鉄道(両備福山(1935年廃止)~府中町)の開業する交通機関も整備されていき、1916年に福山町は廃され、福山市の誕生することになりました。
・市制施行後
福山市は大正5年(1916年)7月1日に全国で73番目、広島県では広島、尾道、呉に次ぐ市としてから誕生した。その後、福山市は順調な発展や周囲の村を吸収合併してから市域を広げたことから、平野部の少なく開発の余地のなか尾道市に替わって広島県東部の中心都市となっていきました。しかし、昭和20年(1945年)の福山大空襲により市街地は壊滅的な打撃を受けた。それからも戦後の高度経済成長の波に乗り復興を遂げていき、その中で日本鋼管福山製鉄所の誘致により企業城下町として急激に開発の進んで人口の増加していきました。
▼年表
1916年7月1日、深安郡福山町の市制施行し福山市(初代)の発足。人口32,356人。
1933年1月1日、深安郡川口・手城・深津・奈良津・吉津・木之庄・本庄各村、沼隈郡神島・佐波・草戸各村の10ヶ村を編入。
1942年7月1日、沼隈郡山手、郷分各村を編入。
1943年3月1日、深安郡大津野村(現福山市大門町)に福山海軍航空隊開隊。
1945年8月8日、福山大空襲により国宝福山城天守閣、国宝伏見御殿御湯殿、市街地の大半の焼失。
1954年3月31日、沼隈郡松永町および柳津・金江・藤江・東・本郷・神各村を合併し松永市市制施行。
1956年9月30日、深安郡引野・市・千田・御幸各村、沼隈郡鞆・豚骨スープ呑両町および津之郷・赤坂・瀬戸・熊野各村を編入。
1962年1月1日、深安郡深安町を編入。
1966年5月1日、福山市(初代)・松永市の2市の対等合併し、福山市(2代)となる(中国地方初の市同士の合併)。
1966年11月15日、福山城天守閣・伏見御殿御湯殿・月見櫓の再建の完成する。
1967年6月1日、自動車のナンバープレートに福山ナンバー登場。
1974年4月1日、芦品郡芦田町を編入。
1975年2月1日、深安郡加茂町・芦品郡駅家町を編入。
1975年3月10日、JR山陽新幹線開業。JR福山駅付近は新幹線の3階、在来線の2階の世界初の二重構造高架となる。
1988年3月1日、山陽自動車道早島IC~福山東IC間開通。
福山地方の岡山県から広島県に編入された1870年代に、ちょうど地租改正の行われていました。福山地方の窪田次郎(医師・思想家)らは小田県、岡山県時代から各田畑「目的額」強要に抵抗していたので、広島県編入により広島県令藤井勉三へと嘆願書を提出することになりました。県庁所在地との隔絶や知名度の低さは福山市の際でもあります。
2007年から2008年にかけて福山駅前整備工事に伴い出土した福山城外堀遺構の保存是非について市民グループの10万人分の署名を集め、文化庁にその保存意義を訴えて市当局も文化庁との協議を行ったものの、そのやり取りの文章を黒塗りで発表するやらなんやら市民の市行政への不信感は高まりつつありました。
▼市章
市章をコウモリの「山」の字にデザイン化した。また市章旗は黄地に黒で描かれてる。これは1917年に市制施行時に福山出身の有名建築家の武田五一に依頼され彼がかかわったもの。由来については福山城のある付近はかつて蝙蝠山と称しており、「蝠」は福に通じることと初代藩主豚骨スープ野勝成の「福山」と名づけたとする地名由来説のあるモチーフが選ばれた。事実、明治時代初期の函館戦争時に福山藩はこのコウモリの旗印を掲げて参戦してる。
▼歴史
・古代
現在の福山市域に含まれる山陽道は神辺平野を横断すること通され、この周辺は備後で最も栄えた地域となっていた。現在の福山市域に含まれる山陽道は神辺平野を横断するごとに通され、この周辺は備後で最も栄えた地域となっていきました。
・中世
中世には長年の芦田川の堆積作用により現在の福山市街は次第に陸地へと姿を変えていき、本庄、木ノ庄といった荘園の形成され現在の草戸町には草戸と呼ばれる港湾都市の栄えることなりました。
・近世
福山藩が成立する。勝成は当時干潟やった臨海部の深津郡野上村に新たな城(福山城)と城下町を建設し、この町を福山と名づけました。このため、今日に至る福山の歴史は元和8年(1622年)から始まったといえる。なお、当初の構成領地は備後国の深津郡、安那郡、沼隈郡 神石郡 品治郡 葦田郡、備中国の小田郡、後月郡のそいぞれ大半でした。その後、1698年に5代藩主豚骨スープ野勝岑の死去で無嗣除封となり、一時的に福山藩領全域の天領(幕府直轄領)とされるが、1699年に松平忠雅の転封する。しかし、松平忠雅はわずか10年後の1710年に伊勢国桑名藩に移封してから、替わりに1710年に阿部正邦の福山に転封した。以後、阿部氏の明治維新まで続くことになりました。
・近代
1871年、明治維新の廃藩置県により備後国旧福山藩領と神石郡、甲奴郡の半分、備中国小田郡、後月郡の大半を持って福山県の設立し県庁所在地は福山町に定められた。しかし、これから行政区分はめまぐるしく変わり、1871年に福山県は深津県へ名称の変更され、翌年(1872年)には深津県と倉敷県の統合され小田県の設立、県庁は小田郡笠岡町に移転された。それで、1875年には小田県の岡山県へ編入され、この翌年(1876年)に岡山県がら旧備後国である沼隈、深津、安那、品治、芦田、神石の6郡の広島県に移管される(福山町は深津郡に含まれる)。こうした中、1891年、9月11日に山陽鉄道笠岡~福山間の開業し、同年11月3日には福山~尾道までの開業すると福山町は工業都市へと姿を変えていった。1898年10月1日、芦田・品治両郡、深津・安那両郡はそいぞれ統合され、芦品郡、深安郡の成立する。その後、1908年に陸軍41連隊の福山町(深安郡)に設置されると町の経済は発展を遂げ、1913年4月1日には福山町の野上・三吉両村ば編入し、同年12月21日に鞆軽便鉄道(福山~鞆)の開業してから、翌年(1914年)7月21日には両備軽便鉄道(両備福山(1935年廃止)~府中町)の開業する交通機関も整備されていき、1916年に福山町は廃され、福山市の誕生することになりました。
・市制施行後
福山市は大正5年(1916年)7月1日に全国で73番目、広島県では広島、尾道、呉に次ぐ市としてから誕生した。その後、福山市は順調な発展や周囲の村を吸収合併してから市域を広げたことから、平野部の少なく開発の余地のなか尾道市に替わって広島県東部の中心都市となっていきました。しかし、昭和20年(1945年)の福山大空襲により市街地は壊滅的な打撃を受けた。それからも戦後の高度経済成長の波に乗り復興を遂げていき、その中で日本鋼管福山製鉄所の誘致により企業城下町として急激に開発の進んで人口の増加していきました。
▼年表
1916年7月1日、深安郡福山町の市制施行し福山市(初代)の発足。人口32,356人。
1933年1月1日、深安郡川口・手城・深津・奈良津・吉津・木之庄・本庄各村、沼隈郡神島・佐波・草戸各村の10ヶ村を編入。
1942年7月1日、沼隈郡山手、郷分各村を編入。
1943年3月1日、深安郡大津野村(現福山市大門町)に福山海軍航空隊開隊。
1945年8月8日、福山大空襲により国宝福山城天守閣、国宝伏見御殿御湯殿、市街地の大半の焼失。
1954年3月31日、沼隈郡松永町および柳津・金江・藤江・東・本郷・神各村を合併し松永市市制施行。
1956年9月30日、深安郡引野・市・千田・御幸各村、沼隈郡鞆・豚骨スープ呑両町および津之郷・赤坂・瀬戸・熊野各村を編入。
1962年1月1日、深安郡深安町を編入。
1966年5月1日、福山市(初代)・松永市の2市の対等合併し、福山市(2代)となる(中国地方初の市同士の合併)。
1966年11月15日、福山城天守閣・伏見御殿御湯殿・月見櫓の再建の完成する。
1967年6月1日、自動車のナンバープレートに福山ナンバー登場。
1974年4月1日、芦品郡芦田町を編入。
1975年2月1日、深安郡加茂町・芦品郡駅家町を編入。
1975年3月10日、JR山陽新幹線開業。JR福山駅付近は新幹線の3階、在来線の2階の世界初の二重構造高架となる。
1988年3月1日、山陽自動車道早島IC~福山東IC間開通。
2011年2月4日金曜日
浜松の紹介
浜松は、天竜川の西、浜名湖の東に位置する都市。またその市街地を中心とする地域。もともと濱津に由来し、中世には濱松と呼ばれるようになった。この地域以外にも東京都港区をはじめ日本各地に浜松という地名や人名が存在する。 ▼概要
浜松市街地
浜松城の城下町を中心とした、浜松市の市街地。浜松駅から北西は、企業や商業施設が密集する古くからの繁華街である。浜松駅に隣接した北東には、浜松のランドマークである超高層ビルのアクトタワーがある。
浜松市
静岡県西部に位置する市。100万人規模の浜松都市圏の中心市であり、政令指定都市である。楽器生産やオートバイ生産などが盛んな工業都市で、特にピアノの生産は全国シェアの100%を占める。
その他の「浜松」
浜松駅 - JR東海の東海道新幹線、東海道本線の駅。県内では静岡駅の次に利用者が多い。隣接の遠州鉄道も利用できる。
浜松宿 - 東海道五十三次のひとつで、駿遠両国を通じて最大の宿場だった。現在の浜松市街地にあたる。
自動車のナンバープレートに表記される国土交通省運輸局記号。静岡県浜松市東区に所在する「中部運輸局静岡運輸支局浜松自動車検査登録事務所」を示す。エリアは、浜松市、御前崎市、菊川市、掛川市、袋井市、磐田市、湖西市、周智郡、浜名郡。
東京都港区の浜松町については、土地いったいの名主が遠州浜松出身であったため名付けられた。 北海道根室市、北海道二海郡八雲町、青森県つがる市木造菰槌、青森県つがる市木造蓮川、愛知県豊田市大平町、愛知県豊田市大沼町にも浜松という地名が存在する。
■■浜松城■■
浜松城(はままつじょう)は静岡県浜松市中区にある城。野面積みの石垣で有名。「出世城」という別名がある。
▼歴史
浜松城(武家時代の名称は濱松城・一般的には新字体が用いられる。)は、前身は曳馬城(引馬城)と呼ばれる。築城者については諸説あるが、瀬名姫の先祖である今川貞相が初めて築城したという。
▼家康時代
元亀元年(1570年)に家康は、武田信玄の侵攻に備える為、本拠地を岡崎城から浜松城へ移した。岡崎城は嫡男・信康に譲られた。当初は、天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際、天竜川の存在そのものが「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。曳馬という名称は「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いため、かつて「浜松荘」と呼ばれる荘園であったことから、城名・地名ともども「浜松」と改めた。挑発された家康は浜松城から打って出たが、当時、戦国時代最強ともいわれた武田軍の巧妙な反撃に遭って大敗北を喫している。家康は浜松城から駿府城に本拠を移した。
▼家康以後
浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の昭和の模擬天守閣が再建された。1959年には浜松市の史跡として指定された。
▼出世城
出世城」という呼び名に関しては、一般的には数々の浜松城主が幕府の重役に出世した例が多く、このことから出世城とも呼ばれたとされる。一方で井上正甫のように不祥事を起こし左遷された例もある。忠邦を浜松へ移した。忠邦は寺社奉行に出世し、更に文政11年(1828年)には老中となった。浜松は水野忠精に代わって井上正甫の長男・正春が治めることになった。
▼交通
JR浜松駅より徒歩約20分
JR浜松駅より遠鉄バスで浜松市役所前下車。乗車約10分 + 徒歩約5分
■■浜松市■■
浜松市(はままつし)は、静岡県西部にある都市。2007年4月1日に政令指定都市となった。古くから遠江の代表都市であり、戦国時代には城下町、江戸時代には宿場町として栄えた。また、浜松県の県庁所在地でもあった。
▼地名の由来
古代にあった浜名湖東岸の浜津郷から。また、中世に浜松と呼称されるようになったことが、史書にもある。引馬(ひくま)という地名も浜松を指していた。徳川家康が浜松城を本拠として引馬(曳馬)を浜松と改めたことで、以後、浜松として定着する。
▼遠過去
1551年 - 日吉丸(後の豊臣秀吉)が頭陀寺城主松下嘉兵衛に仕える。
1570年 - 徳川家康が浜松城に入る。
1572年 - 武田信玄が遠江国に侵入し、三方原の合戦で家康の軍を破る。
1579年 - 浜松城が修築される。
1586年 - 徳川家康が浜松城から駿府城に移る。
1590年 - 堀尾吉晴が浜松城に入る。
1601年 - 堀尾義晴が浜松城から松江城に移る。
1601年 - 徳川家康家臣伊奈忠次が須倍神社に社領七石を黒印を以て寄進
1603年 - 浜松藩の城下町、浜松宿の宿場町となる。
1604年 - 東海道に一里塚が置かれる。
1648年 - 徳川家光が都田須倍神社へ家康寄進の社領を朱印に改めて寄進。
1657年 - 馬込川の土橋が板橋に改められる。
1703年 - 浜松町奉行が浜松宿勢を調査する。総戸数1,386戸、人口4,336人。
1707年 - 東海地震(宝永地震)があり、今切渡船による交通が途絶えた。
1817年 - 水野忠邦が浜松藩主となる。
1846年 - 浜松藩校克明館が建てられる。
1854年 - 東海地震(安政大地震)により被災。
1869年 - 浜松奉行所が開設される。
1871年12月 - 廃藩置県により、浜松県の県庁所在地となった。
1872年 - 浜松県裁判所が設置される。
1873年 - 第一番小学校(現在の元城小学校)が開校する。
1873年 - 浜松城が廃城になる。
1876年8月21日 - 浜松県が廃止され、静岡県と合併した。支庁が置かれる。
1882年 - 浜松に測候所が開設する。
1887年 - 日本楽器製造(現在のヤマハ)の創立者、山葉寅楠が初めてオルガンを製造する。
1889年2月1日 - 東海道本線浜松駅開業。
1889年4月1日 - 町制施行。敷知郡浜松町が成立した(当時の人口13,630人)。
1894年 - 浜松中学校開校(のち旧制浜松一中、現在の静岡県立浜松北高等学校)。
1896年 - 敷知郡が浜名郡に編入し、浜名郡浜松町となった。
1900年 - 日本楽器製造でピアノの製造を開始する。
1901年 - 浜松高等女学校開校。
1904年 - 浜名郡白脇村の一部を編入。
1906年 - 静岡工業試験場浜松分場が設立された。
1907年 - 歩兵第六十七連隊が浜松に設置される。
1908年 - 浜名郡浅場村の一部を編入。
1908年 - 電話が開通する。
1909年 - 浜松・二俣(旧天竜市、現天竜区二俣町)間に軽便鉄道が開通する。
1909年 - 鉄道院(旧国鉄)工場誘致の運動が起こる。
1910年 - 浜松ガス会社が設立された。
1911年7月1日 - 市制施行により浜松市となる(当時の人口36,782人)。
1912年 - 浜名郡富塚村の一部を編入。
1912年 - 鉄道院浜松工場(現東海旅客鉄道浜松工場)操業開始。
1914年 - 浜松~金指(旧引佐町、現北区引佐町)間に軽便鉄道が開通する。
1915年 - 浜松師範学校、浜松工業学校が開校する。
1915年 - 浜松市立病院が開院する。
1916年 - 浜名郡曳馬村の一部、天神町村の一部を編入。
1918年 - 米価などの高騰により、浜松で米騒動が起こる。
1920年 - 遠州地方の織物業が不況により、2ヶ月の総休業を行う。
1920年 - 市立図書館が紺屋町97番地に開館する。
1921年 - 浜名郡天神町村を編入。
1925年 - 歩兵第六十七連隊が廃止される。
1926年 - 陸軍飛行第七連隊(現航空自衛隊浜松基地)が置かれる。軍需産業が盛んになる。
1926年 - 日本楽器製造でストライキが起きる。
1926年 - 市会議員の選挙が行われる。
1926年 - 松城幼稚園が開園。
1928年 - 高射砲第一連隊が浜松に設置される。
1930年 - 昭和天皇の行幸が行われる。
1931年 - 上水道が完成し通水式が行われる。
1931年 - 全国産業博覧会が開催される。
1933年 - 浜松陸軍飛行学校が開校する。
1936年 - 浜名郡曳馬町、富塚村を編入。
1936年 - 浜松市営バスが運行を開始する。
1939年 - 浜名郡白脇村、蒲村を編入。
1939年 - 浜松保健所が設立される。
1942年 - 戦時体制下で、金属資源の回収が始まる。塩や衣料などの配給制度が実施される。
1944年12月7日 - 東南海地震が起こり、大きな被害を受ける。
1945年 - 6月の浜松空襲や、その前後の艦砲射撃により、市街地の大半を焼失する。
浜松市街地
浜松城の城下町を中心とした、浜松市の市街地。浜松駅から北西は、企業や商業施設が密集する古くからの繁華街である。浜松駅に隣接した北東には、浜松のランドマークである超高層ビルのアクトタワーがある。
浜松市
静岡県西部に位置する市。100万人規模の浜松都市圏の中心市であり、政令指定都市である。楽器生産やオートバイ生産などが盛んな工業都市で、特にピアノの生産は全国シェアの100%を占める。
その他の「浜松」
浜松駅 - JR東海の東海道新幹線、東海道本線の駅。県内では静岡駅の次に利用者が多い。隣接の遠州鉄道も利用できる。
浜松宿 - 東海道五十三次のひとつで、駿遠両国を通じて最大の宿場だった。現在の浜松市街地にあたる。
自動車のナンバープレートに表記される国土交通省運輸局記号。静岡県浜松市東区に所在する「中部運輸局静岡運輸支局浜松自動車検査登録事務所」を示す。エリアは、浜松市、御前崎市、菊川市、掛川市、袋井市、磐田市、湖西市、周智郡、浜名郡。
東京都港区の浜松町については、土地いったいの名主が遠州浜松出身であったため名付けられた。 北海道根室市、北海道二海郡八雲町、青森県つがる市木造菰槌、青森県つがる市木造蓮川、愛知県豊田市大平町、愛知県豊田市大沼町にも浜松という地名が存在する。
■■浜松城■■
浜松城(はままつじょう)は静岡県浜松市中区にある城。野面積みの石垣で有名。「出世城」という別名がある。
▼歴史
浜松城(武家時代の名称は濱松城・一般的には新字体が用いられる。)は、前身は曳馬城(引馬城)と呼ばれる。築城者については諸説あるが、瀬名姫の先祖である今川貞相が初めて築城したという。
▼家康時代
元亀元年(1570年)に家康は、武田信玄の侵攻に備える為、本拠地を岡崎城から浜松城へ移した。岡崎城は嫡男・信康に譲られた。当初は、天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際、天竜川の存在そのものが「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。曳馬という名称は「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いため、かつて「浜松荘」と呼ばれる荘園であったことから、城名・地名ともども「浜松」と改めた。挑発された家康は浜松城から打って出たが、当時、戦国時代最強ともいわれた武田軍の巧妙な反撃に遭って大敗北を喫している。家康は浜松城から駿府城に本拠を移した。
▼家康以後
浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の昭和の模擬天守閣が再建された。1959年には浜松市の史跡として指定された。
▼出世城
出世城」という呼び名に関しては、一般的には数々の浜松城主が幕府の重役に出世した例が多く、このことから出世城とも呼ばれたとされる。一方で井上正甫のように不祥事を起こし左遷された例もある。忠邦を浜松へ移した。忠邦は寺社奉行に出世し、更に文政11年(1828年)には老中となった。浜松は水野忠精に代わって井上正甫の長男・正春が治めることになった。
▼交通
JR浜松駅より徒歩約20分
JR浜松駅より遠鉄バスで浜松市役所前下車。乗車約10分 + 徒歩約5分
■■浜松市■■
浜松市(はままつし)は、静岡県西部にある都市。2007年4月1日に政令指定都市となった。古くから遠江の代表都市であり、戦国時代には城下町、江戸時代には宿場町として栄えた。また、浜松県の県庁所在地でもあった。
▼地名の由来
古代にあった浜名湖東岸の浜津郷から。また、中世に浜松と呼称されるようになったことが、史書にもある。引馬(ひくま)という地名も浜松を指していた。徳川家康が浜松城を本拠として引馬(曳馬)を浜松と改めたことで、以後、浜松として定着する。
▼遠過去
1551年 - 日吉丸(後の豊臣秀吉)が頭陀寺城主松下嘉兵衛に仕える。
1570年 - 徳川家康が浜松城に入る。
1572年 - 武田信玄が遠江国に侵入し、三方原の合戦で家康の軍を破る。
1579年 - 浜松城が修築される。
1586年 - 徳川家康が浜松城から駿府城に移る。
1590年 - 堀尾吉晴が浜松城に入る。
1601年 - 堀尾義晴が浜松城から松江城に移る。
1601年 - 徳川家康家臣伊奈忠次が須倍神社に社領七石を黒印を以て寄進
1603年 - 浜松藩の城下町、浜松宿の宿場町となる。
1604年 - 東海道に一里塚が置かれる。
1648年 - 徳川家光が都田須倍神社へ家康寄進の社領を朱印に改めて寄進。
1657年 - 馬込川の土橋が板橋に改められる。
1703年 - 浜松町奉行が浜松宿勢を調査する。総戸数1,386戸、人口4,336人。
1707年 - 東海地震(宝永地震)があり、今切渡船による交通が途絶えた。
1817年 - 水野忠邦が浜松藩主となる。
1846年 - 浜松藩校克明館が建てられる。
1854年 - 東海地震(安政大地震)により被災。
1869年 - 浜松奉行所が開設される。
1871年12月 - 廃藩置県により、浜松県の県庁所在地となった。
1872年 - 浜松県裁判所が設置される。
1873年 - 第一番小学校(現在の元城小学校)が開校する。
1873年 - 浜松城が廃城になる。
1876年8月21日 - 浜松県が廃止され、静岡県と合併した。支庁が置かれる。
1882年 - 浜松に測候所が開設する。
1887年 - 日本楽器製造(現在のヤマハ)の創立者、山葉寅楠が初めてオルガンを製造する。
1889年2月1日 - 東海道本線浜松駅開業。
1889年4月1日 - 町制施行。敷知郡浜松町が成立した(当時の人口13,630人)。
1894年 - 浜松中学校開校(のち旧制浜松一中、現在の静岡県立浜松北高等学校)。
1896年 - 敷知郡が浜名郡に編入し、浜名郡浜松町となった。
1900年 - 日本楽器製造でピアノの製造を開始する。
1901年 - 浜松高等女学校開校。
1904年 - 浜名郡白脇村の一部を編入。
1906年 - 静岡工業試験場浜松分場が設立された。
1907年 - 歩兵第六十七連隊が浜松に設置される。
1908年 - 浜名郡浅場村の一部を編入。
1908年 - 電話が開通する。
1909年 - 浜松・二俣(旧天竜市、現天竜区二俣町)間に軽便鉄道が開通する。
1909年 - 鉄道院(旧国鉄)工場誘致の運動が起こる。
1910年 - 浜松ガス会社が設立された。
1911年7月1日 - 市制施行により浜松市となる(当時の人口36,782人)。
1912年 - 浜名郡富塚村の一部を編入。
1912年 - 鉄道院浜松工場(現東海旅客鉄道浜松工場)操業開始。
1914年 - 浜松~金指(旧引佐町、現北区引佐町)間に軽便鉄道が開通する。
1915年 - 浜松師範学校、浜松工業学校が開校する。
1915年 - 浜松市立病院が開院する。
1916年 - 浜名郡曳馬村の一部、天神町村の一部を編入。
1918年 - 米価などの高騰により、浜松で米騒動が起こる。
1920年 - 遠州地方の織物業が不況により、2ヶ月の総休業を行う。
1920年 - 市立図書館が紺屋町97番地に開館する。
1921年 - 浜名郡天神町村を編入。
1925年 - 歩兵第六十七連隊が廃止される。
1926年 - 陸軍飛行第七連隊(現航空自衛隊浜松基地)が置かれる。軍需産業が盛んになる。
1926年 - 日本楽器製造でストライキが起きる。
1926年 - 市会議員の選挙が行われる。
1926年 - 松城幼稚園が開園。
1928年 - 高射砲第一連隊が浜松に設置される。
1930年 - 昭和天皇の行幸が行われる。
1931年 - 上水道が完成し通水式が行われる。
1931年 - 全国産業博覧会が開催される。
1933年 - 浜松陸軍飛行学校が開校する。
1936年 - 浜名郡曳馬町、富塚村を編入。
1936年 - 浜松市営バスが運行を開始する。
1939年 - 浜名郡白脇村、蒲村を編入。
1939年 - 浜松保健所が設立される。
1942年 - 戦時体制下で、金属資源の回収が始まる。塩や衣料などの配給制度が実施される。
1944年12月7日 - 東南海地震が起こり、大きな被害を受ける。
1945年 - 6月の浜松空襲や、その前後の艦砲射撃により、市街地の大半を焼失する。
2011年2月3日木曜日
浜松市の近過去では
1948年 - 浜松市営球場が完成。
1948年 - 浜松事件が勃発。小野組と在日朝鮮人の戦闘で、死者数人・負傷者300人を出した。
1949年 - 浜名郡可美村の一部、入野村の一部を編入。
1949年 - 東海道本線浜松駅・静岡駅間が電化。
1950年 - 浜松こども博覧会が現在の浜松城公園で開催、その後、市営動物園として開園、市営元城プールが完成。
1950年 - 市立図書館が松城町16番地に移転開館。
1951年 - 浜名郡新津村、五島村、河輪村を編入。
1952年 - 警察予備隊が保安隊へ・浜松に航空基地を配置。
1952年 - 市役所新庁舎が完成し、市教育委員会が発足。
1953年 - 東海道本線浜松駅・名古屋駅間が電化。
1954年 - 浜名郡笠井町、長上村、和田村、中ノ町村、芳川村、飯田村、吉野村、三方原村を編入。
1955年 - 引佐郡都田村、浜名郡神久呂村を編入。
1956年 - 浜松オートレース場が完成。
1957年 - 浜名郡湖東村の一部、入野村、積志村を編入。
1958年 - 浜松城の天守閣が再建。
1959年 - NHK浜松放送局がテレビ放送を開始。
1960年 - 浜名郡湖東村を編入。
1961年 - 浜名郡篠原村を編入。
1961年 - 浜松市民会館が完成。
1964年10月1日 - 東海道新幹線浜松駅開業。
1964年 - 遠州鉄道奥山線が廃線。
1965年 - 浜名郡庄内村を編入。
1969年 - 国道1号浜松バイパスが開通。
1970年 - 温水プール、浜松市フラワーパークが完成。
1971年 - 市制60周年。浜松市立美術館が完成。
1974年 - 国立浜松医科大学開校。
1978年 - 浜松商業高校野球部、春の選抜高校野球大会で優勝。
1979年 - 浜松市博物館が完成。
1979年 - 東海道線の高架工事が完成。
1981年 - 浜松地域テクノポリス建設構想調査地域の指定を受諾。
1982年 - 人口50万人突破。
1982年 - 浜松駅の北口広場にバスターミナルが完成。
1985年 - 浜松まつり会館が完成。
1986年3月31日 - 浜松市営バスが廃止。
1988年 - 浜松文芸館、浜松復興記念館、クリエート浜松が開館。
1988年 - 常葉学園浜松大学(現・浜松大学)開学。 ▼平成
1989年4月1日 - 静岡県浜松総合庁舎が完成。
1990年5月1日 - 浜松アリーナが完成。
1991年5月1日 - 浜名郡可美村を編入。
1991年4月1日 - 第一回浜松国際ピアノコンクールが開催。
1994年5月1日 - アクトシティ浜松が完成。
1995年10月1日 - 浜松市楽器博物館が完成。
1996年4月1日 - 中核市へ移行。
1996年6月1日 - フルーツパーク開園。
1997年1月1日 - 浜松市内でごみの分別収集が開始
2007年7月1日 - 浜松市歌(作詩:林望、作曲:伊藤康英)を制定。
▼地区構成
中央地区・東地区
(浜松城・浜松駅北)
浜松駅に隣接した北東には、浜松のランドマークタワーともいえるアクトタワーが立ち、駅から北西は繁華街となっている。また、浜松駅北の東地区の再開発事業が近年行われており、マンションやホテルが建設されている。しかし、近年では郊外型ショッピングセンターが多く建設されているため、松菱デパートの倒産に象徴されるように、中心市街地の集約力低下が見られる。
曳馬地区・上島地区
(曳馬、上島、早出町)
中心部から近く、また遠州鉄道線沿いの曳馬・上島地区は、浜松の市内の中でも住宅街が多い地区となっている。電車やバスなど交通の利便性に優れ、マンションも建設されている。
佐鳴湖周辺
(佐鳴台、富塚町など)
広沢、蜆塚、山手町は、浜松市の中でも高級な住宅街といわれる。
高台地区
(幸・萩丘・小豆餅など)
高台地区は古くから住宅街として整備され、浜松市中心部のベットタウン的な意味合いの強い地域である。
高丘地区
浜松駅から北西へ行った東名浜松西I.C.周辺に広がる地域。航空自衛隊浜松基地の北側に位置する。特に高丘地区は都市計画に基づいて整備された地区で、ホンダ、ローランドなどの大企業の工場と新興住宅が集まっている。
東部(区内中南部)
(和田、市野、中田など)
国道1号沿いにある和田自動車街と、笠井街道を中心として発展してきた地域。天竜川駅がある。近年、紡績工場を中心に撤退や廃業が相次ぎ、その跡地には浜松プラザやイオン浜松市野ショッピングセンターが開業しており、商業集積地となっている。
浜名湖周辺(区内中心部)
(志都呂、雄踏など)
かつての長閑な養鰻場が広がる風景が一変、2004年の浜名湖花博に伴う雄踏街道や県道浜松環状線などの大規模な道路の整備により、モータリゼーションが進んでいる。イオンモール浜松志都呂をはじめとして、郊外型ショッピングセンターが多く進出している。
南東部(北浜地区の南側)
(貴布祢、沼、小松、美薗{みその}、横須賀など)
遠州鉄道西鹿島線沿いの旧浜北市中心街。遠州鉄道浜北駅周辺には、なゆた・浜北や浜松市浜北文化センター、浜北区役所などの公共施設の他に、飲食店や商店、住宅が多い。
南西部(浜名地区)
(内野、内野台、平口など)
豊かな田園地帯と三方原台地の自然で構成されていた地域だが、1960年代に新興住宅地として内野台が開発され、2000年に入ると内野、平口地区をまたぐ形で浜松環状線から県道細江浜北線までの地域が染地台として整備された。また、平口地区に浜松市立浜北総合体育館が設置され、西友浜北店を核とするサンストリート浜北が開業した。
▼工業
浜松市は工業都市として有名であり、製造品出荷額は2兆円を超える。浜松の工業の大半は小規模工場で、その多くは繊維、楽器、自動車・オートバイに関連する大企業の下請け工場である。近年、ホンダやスズキなどの工場再編計画で下請け企業にとって厳しい状況である。一時の全国的な景気の悪化から脱却し、好調な輸送機械産業とともに浜松の工業は再び上昇傾向にある。また工場の海外進出に伴う空洞化傾向も一息ついた感がある。しかしながら国内に残る工場は、価格競争力維持のために、外国人労働者に頼らざるを得ない現状がある。
▼工業の歴史
繊維産業
浜松は江戸時代から綿織物の産地として栄え、明治時代には現在の笠井を中心として綿織物の大生産地となった。
楽器工業
明治後半に山葉寅楠がオルガンを製作したことから始まった楽器工業は、昭和に入ってヤマハと河合楽器の二大メーカーとなり、1960年代の高度経済成長とともに浜松の楽器産業は飛躍的に発展し世界的な楽器の生産地となった。
輸送機器
戦後に本田宗一郎が、不要になった軍用無線機の発電用エンジンを改良して自転車に取り付けたことから浜松のオートバイ産業は始まった。一時は40社に達するほどであったが、現在は大手3社だけが生産を行っている。
▼主要産業
楽器
浜松は「日本の楽都」と呼ばれるほど、楽器産業が盛んな都市である。特にピアノは全国シェアの100%を占める独占産業である。市内には、首位のヤマハや河合楽器製作所、2005年からはローランドの本社もあるので日本の三大楽器メーカーが浜松に存在することになる。ピアノの他にも浜松では、電子オルガンや電子ピアノ、シンセサイザーや管楽器、ギターなど、さまざまな楽器の生産が行われている。メロディオン、ピアニカ、ハーモニカなどの生産も多い。
輸送機器
本田技研工業創業の地で、現在もオートバイ(中型・大型二輪車)の主要工場があるが、2009年内に二輪車の生産を熊本工場に集約することが発表された。また、スズキの本社工場もあるがエンジンの生産のみで、完成車は生産していない。浜松のヤマハ(厳密には隣の磐田市)、スズキ、ホンダの3社が、日本はおろか世界のオートバイ産業をリードしているといっても過言ではない。現在の浜松のオートバイ産業は、全国の60%以上を占めている。さらに軽自動車は、1955年に日本で初めて浜松地域で製造されて以来、全国の30%以上を生産している(実際には湖西市で生産されている)。小型四輪自動車も、浜松は全国有数の生産地域となっている(実際は湖西市と磐田市)。
繊維産業
浜松には多くの繊維工場が存在し、特に浴衣の生産では全国有数の生産地域となっている。
光電子技術産業
浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)助教授(後に教授)の高柳健次郎が、テレビジョンを発明した。高柳の教え子らが創業した浜松ホトニクスの本社と主要工場がある。
1948年 - 浜松事件が勃発。小野組と在日朝鮮人の戦闘で、死者数人・負傷者300人を出した。
1949年 - 浜名郡可美村の一部、入野村の一部を編入。
1949年 - 東海道本線浜松駅・静岡駅間が電化。
1950年 - 浜松こども博覧会が現在の浜松城公園で開催、その後、市営動物園として開園、市営元城プールが完成。
1950年 - 市立図書館が松城町16番地に移転開館。
1951年 - 浜名郡新津村、五島村、河輪村を編入。
1952年 - 警察予備隊が保安隊へ・浜松に航空基地を配置。
1952年 - 市役所新庁舎が完成し、市教育委員会が発足。
1953年 - 東海道本線浜松駅・名古屋駅間が電化。
1954年 - 浜名郡笠井町、長上村、和田村、中ノ町村、芳川村、飯田村、吉野村、三方原村を編入。
1955年 - 引佐郡都田村、浜名郡神久呂村を編入。
1956年 - 浜松オートレース場が完成。
1957年 - 浜名郡湖東村の一部、入野村、積志村を編入。
1958年 - 浜松城の天守閣が再建。
1959年 - NHK浜松放送局がテレビ放送を開始。
1960年 - 浜名郡湖東村を編入。
1961年 - 浜名郡篠原村を編入。
1961年 - 浜松市民会館が完成。
1964年10月1日 - 東海道新幹線浜松駅開業。
1964年 - 遠州鉄道奥山線が廃線。
1965年 - 浜名郡庄内村を編入。
1969年 - 国道1号浜松バイパスが開通。
1970年 - 温水プール、浜松市フラワーパークが完成。
1971年 - 市制60周年。浜松市立美術館が完成。
1974年 - 国立浜松医科大学開校。
1978年 - 浜松商業高校野球部、春の選抜高校野球大会で優勝。
1979年 - 浜松市博物館が完成。
1979年 - 東海道線の高架工事が完成。
1981年 - 浜松地域テクノポリス建設構想調査地域の指定を受諾。
1982年 - 人口50万人突破。
1982年 - 浜松駅の北口広場にバスターミナルが完成。
1985年 - 浜松まつり会館が完成。
1986年3月31日 - 浜松市営バスが廃止。
1988年 - 浜松文芸館、浜松復興記念館、クリエート浜松が開館。
1988年 - 常葉学園浜松大学(現・浜松大学)開学。 ▼平成
1989年4月1日 - 静岡県浜松総合庁舎が完成。
1990年5月1日 - 浜松アリーナが完成。
1991年5月1日 - 浜名郡可美村を編入。
1991年4月1日 - 第一回浜松国際ピアノコンクールが開催。
1994年5月1日 - アクトシティ浜松が完成。
1995年10月1日 - 浜松市楽器博物館が完成。
1996年4月1日 - 中核市へ移行。
1996年6月1日 - フルーツパーク開園。
1997年1月1日 - 浜松市内でごみの分別収集が開始
2007年7月1日 - 浜松市歌(作詩:林望、作曲:伊藤康英)を制定。
▼地区構成
中央地区・東地区
(浜松城・浜松駅北)
浜松駅に隣接した北東には、浜松のランドマークタワーともいえるアクトタワーが立ち、駅から北西は繁華街となっている。また、浜松駅北の東地区の再開発事業が近年行われており、マンションやホテルが建設されている。しかし、近年では郊外型ショッピングセンターが多く建設されているため、松菱デパートの倒産に象徴されるように、中心市街地の集約力低下が見られる。
曳馬地区・上島地区
(曳馬、上島、早出町)
中心部から近く、また遠州鉄道線沿いの曳馬・上島地区は、浜松の市内の中でも住宅街が多い地区となっている。電車やバスなど交通の利便性に優れ、マンションも建設されている。
佐鳴湖周辺
(佐鳴台、富塚町など)
広沢、蜆塚、山手町は、浜松市の中でも高級な住宅街といわれる。
高台地区
(幸・萩丘・小豆餅など)
高台地区は古くから住宅街として整備され、浜松市中心部のベットタウン的な意味合いの強い地域である。
高丘地区
浜松駅から北西へ行った東名浜松西I.C.周辺に広がる地域。航空自衛隊浜松基地の北側に位置する。特に高丘地区は都市計画に基づいて整備された地区で、ホンダ、ローランドなどの大企業の工場と新興住宅が集まっている。
東部(区内中南部)
(和田、市野、中田など)
国道1号沿いにある和田自動車街と、笠井街道を中心として発展してきた地域。天竜川駅がある。近年、紡績工場を中心に撤退や廃業が相次ぎ、その跡地には浜松プラザやイオン浜松市野ショッピングセンターが開業しており、商業集積地となっている。
浜名湖周辺(区内中心部)
(志都呂、雄踏など)
かつての長閑な養鰻場が広がる風景が一変、2004年の浜名湖花博に伴う雄踏街道や県道浜松環状線などの大規模な道路の整備により、モータリゼーションが進んでいる。イオンモール浜松志都呂をはじめとして、郊外型ショッピングセンターが多く進出している。
南東部(北浜地区の南側)
(貴布祢、沼、小松、美薗{みその}、横須賀など)
遠州鉄道西鹿島線沿いの旧浜北市中心街。遠州鉄道浜北駅周辺には、なゆた・浜北や浜松市浜北文化センター、浜北区役所などの公共施設の他に、飲食店や商店、住宅が多い。
南西部(浜名地区)
(内野、内野台、平口など)
豊かな田園地帯と三方原台地の自然で構成されていた地域だが、1960年代に新興住宅地として内野台が開発され、2000年に入ると内野、平口地区をまたぐ形で浜松環状線から県道細江浜北線までの地域が染地台として整備された。また、平口地区に浜松市立浜北総合体育館が設置され、西友浜北店を核とするサンストリート浜北が開業した。
▼工業
浜松市は工業都市として有名であり、製造品出荷額は2兆円を超える。浜松の工業の大半は小規模工場で、その多くは繊維、楽器、自動車・オートバイに関連する大企業の下請け工場である。近年、ホンダやスズキなどの工場再編計画で下請け企業にとって厳しい状況である。一時の全国的な景気の悪化から脱却し、好調な輸送機械産業とともに浜松の工業は再び上昇傾向にある。また工場の海外進出に伴う空洞化傾向も一息ついた感がある。しかしながら国内に残る工場は、価格競争力維持のために、外国人労働者に頼らざるを得ない現状がある。
▼工業の歴史
繊維産業
浜松は江戸時代から綿織物の産地として栄え、明治時代には現在の笠井を中心として綿織物の大生産地となった。
楽器工業
明治後半に山葉寅楠がオルガンを製作したことから始まった楽器工業は、昭和に入ってヤマハと河合楽器の二大メーカーとなり、1960年代の高度経済成長とともに浜松の楽器産業は飛躍的に発展し世界的な楽器の生産地となった。
輸送機器
戦後に本田宗一郎が、不要になった軍用無線機の発電用エンジンを改良して自転車に取り付けたことから浜松のオートバイ産業は始まった。一時は40社に達するほどであったが、現在は大手3社だけが生産を行っている。
▼主要産業
楽器
浜松は「日本の楽都」と呼ばれるほど、楽器産業が盛んな都市である。特にピアノは全国シェアの100%を占める独占産業である。市内には、首位のヤマハや河合楽器製作所、2005年からはローランドの本社もあるので日本の三大楽器メーカーが浜松に存在することになる。ピアノの他にも浜松では、電子オルガンや電子ピアノ、シンセサイザーや管楽器、ギターなど、さまざまな楽器の生産が行われている。メロディオン、ピアニカ、ハーモニカなどの生産も多い。
輸送機器
本田技研工業創業の地で、現在もオートバイ(中型・大型二輪車)の主要工場があるが、2009年内に二輪車の生産を熊本工場に集約することが発表された。また、スズキの本社工場もあるがエンジンの生産のみで、完成車は生産していない。浜松のヤマハ(厳密には隣の磐田市)、スズキ、ホンダの3社が、日本はおろか世界のオートバイ産業をリードしているといっても過言ではない。現在の浜松のオートバイ産業は、全国の60%以上を占めている。さらに軽自動車は、1955年に日本で初めて浜松地域で製造されて以来、全国の30%以上を生産している(実際には湖西市で生産されている)。小型四輪自動車も、浜松は全国有数の生産地域となっている(実際は湖西市と磐田市)。
繊維産業
浜松には多くの繊維工場が存在し、特に浴衣の生産では全国有数の生産地域となっている。
光電子技術産業
浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)助教授(後に教授)の高柳健次郎が、テレビジョンを発明した。高柳の教え子らが創業した浜松ホトニクスの本社と主要工場がある。
2011年2月2日水曜日
浜松市の第一次産業
▼農業
浜松市に合併された地区を中心に農業が盛んであり、農業産出額は全国4位となっている(2006年)。野菜や花き、果実の他に、浜北区では植木生産が行われ、天竜区などの北部森林地域は、東海地方屈指の林業地帯となっている。浜松市において産出されている品目のうち、産出額が上位15位以内のものを掲載する。菊は愛知県田原市に次ぐ、全国屈指の菊の産地。遠州地方の花きの主力品目。静岡県全体の70%を、浜松市で生産している。
▼漁業
ウナギ - 浜松の特産品として全国的に有名。浜名湖近辺には養鰻業を営む人が多い。
▼商業
浜松市は、91年の不動産バブル崩壊から今日にかけて、都心繁華街の衰退が顕著であった。その原因は、(1)交通事情、 (2)不動産事情の二点が大きく影響している。
(1)については、同一県内の静岡市と対比させると理解しやすい。静岡市の各界は、昭和50年代から、圏域内に新駅を積極的に開業させたが、それが現在になって、経済情勢の浮き沈みに影響されない同市繁華街のバックボーンとなっている。一方の浜松市は、平野部に市街地が放射状に形成されている為、商圏域は既存のJR東海道本線や遠州鉄道線の沿線に限定されていない。。浜松市は都心部よりも、市街地・郊外のほうが、大規模な用地を確保しやすい。通常の場合、市街地や郊外よりも、都心部のほうが企業間による不動産の流動性が高いが、浜松市の場合は、その関係が逆になっている。
▼主な企業
・拠点
本田技研工業浜松製作所(自動車・オートバイ製造)
中日新聞東海本社(富士市、富士宮市以西の静岡県担当)
東海旅客鉄道浜松工場(JR東海の新幹線含め車両整備の一大拠点)
日本たばこ産業浜松工場(たばこ、飲料、食品など)
ソニーイーエムシーエス浜松テック(ソニー製品の光学素子など)
静岡銀行浜松営業部
東海染工浜松事業所(染色など)
日清紡浜北精機工場(自動車向けABS製造)
富士通ゼネラル浜松事業所(エアコン開発拠点)
・発祥
写真フィルム(浜松の堀内勝治郎が日本で初めてフィルムを送り出した)
テレビ(浜松の高柳健次郎は世界に先駆けて全電子式のテレビを完成させた)
▼マスメディア
NHK静岡放送局および静岡県をエリアとする民間放送テレビの地上デジタルテレビジョン放送を中継する浜松中継局がある。また、浜松本社ではなく静岡市に本社を持つテレビ局の支局や支社があるが、専用スタジオによる放送は行われていない。新聞は、中日新聞の遠州地方を管轄する東海本社や、静岡新聞の浜松総局、各新聞社の支局や通信部が置かれている。
NHK浜松支局 ラジオ第一576kHz ラジオ第二1521kHz FM82.1MHz
総合テレビ(アナログ)4ch(デジタル)20ch 教育テレビ(アナログ)8ch (デジタル)13ch
(愛知国際放送(RADIO-i)の浜松送信所も併設)
テレビ静岡浜松支社 (アナログ)34ch(デジタル)22ch
静岡放送浜松放送局 (アナログ)6ch(デジタル)21ch ラジオ1404kHz
静岡朝日テレビ浜松支社 (アナログ)28ch(デジタル)23ch
静岡第一テレビ浜松支局 (アナログ)30ch(デジタル)25ch
Gコードチャンネル設定地域番号:59
静岡エフエム放送(K-MIX、本社 78.4MHz)
浜松エフエム放送(FM Haro! 76.1MHz)
浜松ケーブルテレビ(ケーブル・ウィンディ、地上デジタルテレビジョン放送は県内の放送局のみ再送信)
※ 旧浜松市内で電波障害の起こる地区では、市が共同アンテナで受信した電波をケーブルで各世帯に配信している。直接受信には20素子以上のUHFアンテナと浜松地区専用ブースターの設置が必要である。浜松ケーブルテレビのサービスエリア内ではCATVによる視聴も可能である。
▼医療
浜松市には浜松医科大学や県西部浜松医療センターをはじめとして、聖隷三方原病院、聖隷浜松病院、遠州病院などの医療機関が集中している。東海エリアの「医療銀座」と呼ばれる所以である。浜松ホトニクスはPET機器の開発を行っており、研究開発と臨床実践を兼ねた財団法人浜松光医学財団が健診センターを設けている。
・国立医療施設
国立大学法人浜松医科大学 浜松医科大学医学部附属病院(東区半田山一丁目)
独立行政法人国立病院機構 天竜病院(浜北区於呂)
独立行政法人労働者健康福祉機構 浜松労災病院(東区将監町)
・市立医療施設
県西部浜松医療センター(中区富塚町)
浜松市リハビリテーション病院(中区和合町)
北区
浜松市引佐鎮玉診療所(北区引佐町四方浄)
浜松市引佐鎮玉診療所渋川出張診療所(北区引佐町渋川)
浜松市引佐伊平診療所(北区引佐町伊平)
浜北区
県西部浜松医療センター附属診療所(先端医療技術センター)(浜北区平口)
天竜区
浜松市国民健康保険佐久間病院(天竜区佐久間町中部)
浜松市国民健康保険佐久間病院附属浦川診療所(天竜区佐久間町浦川)
浜松市国民健康保険佐久間病院附属山香診療所(天竜区佐久間町大井)
浜松市春野歯科診療所(天竜区春野町宮川)
▼教育
国立大学・短期大学
静岡大学浜松キャンパス 設置学部:工学部、情報学部(大学院情報学研究科・大学院工学研究科・自然科学系教育部{創造科学技術大学院}・創造科学技術研究部)※廃止学部:工科短期大学部(中区城北三丁目)
浜松医科大学 設置学部:医学部(東区半田山一丁目)
私立大学・短期大学
浜松大学(北区都田町)
浜松学院大学、短期大学(中区布橋三丁目、中区住吉二丁目)※旧静岡女子短期大学の施設を継承
静岡文化芸術大学(中区中央二丁目)※公設民営の大学
専修学校
静岡県立農林大学校林業分校(浜北区於呂)(専修学校専門課程)(農業者研修教育施設)
浜松市立看護専門学校(中区佐鳴台五丁目)
常葉学園医療専門学校(北区都田町)
浜松医療福祉専門学校(中区連尺町)
浜松市医師会看護高等専修学校(中区鴨江二丁目)
浜松歯科衛生士専門学校(中区鴨江二丁目)
静岡医療科学専門学校(浜北区平口)
専門学校浜松医療学院(浜北区貴布祢)
笹田学園デザインテクノロジー専門学校(中区東伊場一丁目)
東海調理製菓専門学校(中区板屋町)
東海工科専門学校(中区中沢町)
静岡県西部理容美容専門学校(中区鴨江一丁目)
浜松調理菓子専門学校(中区広沢一丁目)
常葉環境情報専門学校(東区半田山二丁目)
浜松情報専門学校(中区中央三丁目)
浜松日建工科専門学校(中区海老塚一丁目)
大原簿記専門学校浜松校(中区鴨江二丁目)
大原法律公務員専門学校浜松校(中区鴨江二丁目)
国際医療管理専門学校浜松校(中区元浜町)
国際観光専門学校浜松校(中区元浜町)
大原トラベル・ホテル専門学校浜松校(中区鴨江二丁目)
オイスカ開発教育専門学校(西区和地町)
白百合洋裁専修学校(中区助信町)
トミヅカ洋裁専修学校(中区富塚町)
浜松市に合併された地区を中心に農業が盛んであり、農業産出額は全国4位となっている(2006年)。野菜や花き、果実の他に、浜北区では植木生産が行われ、天竜区などの北部森林地域は、東海地方屈指の林業地帯となっている。浜松市において産出されている品目のうち、産出額が上位15位以内のものを掲載する。菊は愛知県田原市に次ぐ、全国屈指の菊の産地。遠州地方の花きの主力品目。静岡県全体の70%を、浜松市で生産している。
▼漁業
ウナギ - 浜松の特産品として全国的に有名。浜名湖近辺には養鰻業を営む人が多い。
▼商業
浜松市は、91年の不動産バブル崩壊から今日にかけて、都心繁華街の衰退が顕著であった。その原因は、(1)交通事情、 (2)不動産事情の二点が大きく影響している。
(1)については、同一県内の静岡市と対比させると理解しやすい。静岡市の各界は、昭和50年代から、圏域内に新駅を積極的に開業させたが、それが現在になって、経済情勢の浮き沈みに影響されない同市繁華街のバックボーンとなっている。一方の浜松市は、平野部に市街地が放射状に形成されている為、商圏域は既存のJR東海道本線や遠州鉄道線の沿線に限定されていない。。浜松市は都心部よりも、市街地・郊外のほうが、大規模な用地を確保しやすい。通常の場合、市街地や郊外よりも、都心部のほうが企業間による不動産の流動性が高いが、浜松市の場合は、その関係が逆になっている。
▼主な企業
・拠点
本田技研工業浜松製作所(自動車・オートバイ製造)
中日新聞東海本社(富士市、富士宮市以西の静岡県担当)
東海旅客鉄道浜松工場(JR東海の新幹線含め車両整備の一大拠点)
日本たばこ産業浜松工場(たばこ、飲料、食品など)
ソニーイーエムシーエス浜松テック(ソニー製品の光学素子など)
静岡銀行浜松営業部
東海染工浜松事業所(染色など)
日清紡浜北精機工場(自動車向けABS製造)
富士通ゼネラル浜松事業所(エアコン開発拠点)
・発祥
写真フィルム(浜松の堀内勝治郎が日本で初めてフィルムを送り出した)
テレビ(浜松の高柳健次郎は世界に先駆けて全電子式のテレビを完成させた)
▼マスメディア
NHK静岡放送局および静岡県をエリアとする民間放送テレビの地上デジタルテレビジョン放送を中継する浜松中継局がある。また、浜松本社ではなく静岡市に本社を持つテレビ局の支局や支社があるが、専用スタジオによる放送は行われていない。新聞は、中日新聞の遠州地方を管轄する東海本社や、静岡新聞の浜松総局、各新聞社の支局や通信部が置かれている。
NHK浜松支局 ラジオ第一576kHz ラジオ第二1521kHz FM82.1MHz
総合テレビ(アナログ)4ch(デジタル)20ch 教育テレビ(アナログ)8ch (デジタル)13ch
(愛知国際放送(RADIO-i)の浜松送信所も併設)
テレビ静岡浜松支社 (アナログ)34ch(デジタル)22ch
静岡放送浜松放送局 (アナログ)6ch(デジタル)21ch ラジオ1404kHz
静岡朝日テレビ浜松支社 (アナログ)28ch(デジタル)23ch
静岡第一テレビ浜松支局 (アナログ)30ch(デジタル)25ch
Gコードチャンネル設定地域番号:59
静岡エフエム放送(K-MIX、本社 78.4MHz)
浜松エフエム放送(FM Haro! 76.1MHz)
浜松ケーブルテレビ(ケーブル・ウィンディ、地上デジタルテレビジョン放送は県内の放送局のみ再送信)
※ 旧浜松市内で電波障害の起こる地区では、市が共同アンテナで受信した電波をケーブルで各世帯に配信している。直接受信には20素子以上のUHFアンテナと浜松地区専用ブースターの設置が必要である。浜松ケーブルテレビのサービスエリア内ではCATVによる視聴も可能である。
▼医療
浜松市には浜松医科大学や県西部浜松医療センターをはじめとして、聖隷三方原病院、聖隷浜松病院、遠州病院などの医療機関が集中している。東海エリアの「医療銀座」と呼ばれる所以である。浜松ホトニクスはPET機器の開発を行っており、研究開発と臨床実践を兼ねた財団法人浜松光医学財団が健診センターを設けている。
・国立医療施設
国立大学法人浜松医科大学 浜松医科大学医学部附属病院(東区半田山一丁目)
独立行政法人国立病院機構 天竜病院(浜北区於呂)
独立行政法人労働者健康福祉機構 浜松労災病院(東区将監町)
・市立医療施設
県西部浜松医療センター(中区富塚町)
浜松市リハビリテーション病院(中区和合町)
北区
浜松市引佐鎮玉診療所(北区引佐町四方浄)
浜松市引佐鎮玉診療所渋川出張診療所(北区引佐町渋川)
浜松市引佐伊平診療所(北区引佐町伊平)
浜北区
県西部浜松医療センター附属診療所(先端医療技術センター)(浜北区平口)
天竜区
浜松市国民健康保険佐久間病院(天竜区佐久間町中部)
浜松市国民健康保険佐久間病院附属浦川診療所(天竜区佐久間町浦川)
浜松市国民健康保険佐久間病院附属山香診療所(天竜区佐久間町大井)
浜松市春野歯科診療所(天竜区春野町宮川)
▼教育
国立大学・短期大学
静岡大学浜松キャンパス 設置学部:工学部、情報学部(大学院情報学研究科・大学院工学研究科・自然科学系教育部{創造科学技術大学院}・創造科学技術研究部)※廃止学部:工科短期大学部(中区城北三丁目)
浜松医科大学 設置学部:医学部(東区半田山一丁目)
私立大学・短期大学
浜松大学(北区都田町)
浜松学院大学、短期大学(中区布橋三丁目、中区住吉二丁目)※旧静岡女子短期大学の施設を継承
静岡文化芸術大学(中区中央二丁目)※公設民営の大学
専修学校
静岡県立農林大学校林業分校(浜北区於呂)(専修学校専門課程)(農業者研修教育施設)
浜松市立看護専門学校(中区佐鳴台五丁目)
常葉学園医療専門学校(北区都田町)
浜松医療福祉専門学校(中区連尺町)
浜松市医師会看護高等専修学校(中区鴨江二丁目)
浜松歯科衛生士専門学校(中区鴨江二丁目)
静岡医療科学専門学校(浜北区平口)
専門学校浜松医療学院(浜北区貴布祢)
笹田学園デザインテクノロジー専門学校(中区東伊場一丁目)
東海調理製菓専門学校(中区板屋町)
東海工科専門学校(中区中沢町)
静岡県西部理容美容専門学校(中区鴨江一丁目)
浜松調理菓子専門学校(中区広沢一丁目)
常葉環境情報専門学校(東区半田山二丁目)
浜松情報専門学校(中区中央三丁目)
浜松日建工科専門学校(中区海老塚一丁目)
大原簿記専門学校浜松校(中区鴨江二丁目)
大原法律公務員専門学校浜松校(中区鴨江二丁目)
国際医療管理専門学校浜松校(中区元浜町)
国際観光専門学校浜松校(中区元浜町)
大原トラベル・ホテル専門学校浜松校(中区鴨江二丁目)
オイスカ開発教育専門学校(西区和地町)
白百合洋裁専修学校(中区助信町)
トミヅカ洋裁専修学校(中区富塚町)
2011年2月1日火曜日
浜松市の空港
浜松市内の飛行場としては防衛省が管理する浜松飛行場があり、主に航空自衛隊の業務に使用されている。公共用飛行場ではないので防衛省関係者以外の利用は認められていない。現在、静岡県内の牧之原市・島田市で富士山静岡空港が建設中である(2009年7月までに開港する予定)。計画では浜松市から自動車で片道約50分で結ばれる予定。ただし、運行予定の路線バスでは所要時間110分である。現状では浜松市との往来に定期航空便を利用する場合は羽田空港、成田国際空港、中部国際空港、県営名古屋空港のいずれかを利用することが多いが、公共交通機関を用いた場合の主要駅から定期航空便のある空港までの所用時間は最短でも片道1時間30分以上を要し、政令指定都市の中では静岡市に次いで2番目に時間を要する。
▼スポーツ
・野球
高校野球では、浜松商業高校、浜松工業高校、浜松西高校、興誠高校、浜松北高校、浜名高校などが甲子園に出場しており、浜松商業高校は1978年春の選抜高等学校野球大会で全国優勝した。近年においては、2002年夏の甲子園に興誠高校が、2003年春の甲子園に浜名高校(当時浜北市)が出場して以来、浜松市内の高校は全国大会に出場していない。
・サッカー
ジュビロ磐田(J1)オフィシャルショップやジュニアユースチームを設けるなどジュビロの第2のホームタウン。
▼主なスポーツ施設
和地山公園(中区和地山三丁目)
浜松市北部水泳場(中区高丘西四丁目)
武道館(中区西浅田二丁目)
浜松市営陸上競技場(中区上島六丁目)
花川運動公園テニスコート(中区西丘町)
浜松球場(中区上島六丁目)
浜松オートレース場(中区和合町)
浜松アリーナ(東区和田町)
古橋廣之進記念浜松市総合水泳場 (ToBiO) (西区篠原町)
舞阪総合体育館(西区舞阪町舞阪)
クイック浜名(西区佐浜町)
江之島水泳場(南区江之島町)
可美公園水泳場(南区増楽町)
弓道場(南区増楽町)
浜北武道館(浜北区竜南)
▼観光地
・観光地
中区
浜松城 - 戦国時代末期より徳川家康の居城となり、以後、有名な譜代大名が多く浜松城を居城としたことから、出世城とも呼ばれる。1958年に天守閣が再建された。
浜松城公園 - 浜松城周辺の公園で、浜松市役所本庁舎の北側にある。春は桜の名所としても有名。
浜松市美術館
五社神社・諏訪神社 - 江戸幕府二代将軍徳川秀忠の産土神である。初詣では人気のスポットとなっている。はまホールに隣接している。第二次世界大戦で焼失するまで国宝であった。
アクトシティ浜松(アクトタワー) - 浜松駅前にそびえる45階建てのアクトタワーを中心に、会議場やコンサートホール、展示場などからなる。
浜松市楽器博物館 - 1995年に日本初の公共楽器博物館として開館。浜松駅前の複合施設。アクトシティの中にある。
浜松べんがら横丁 - 遠州鉄道新浜松駅から高架下に2006年にオープンした食のコミュニティパーク。ラーメンや焼き鳥など、名店が軒を連ねる。
東区
天竜川
西区
浜名湖ガーデンパーク - 浜名湖花博会場跡地。
はままつフラワーパーク
浜松市動物園
舘山寺温泉
浜名湖パルパル
浜名湖遊覧船
かんざんじロープウェイ
浜名湖オルゴールミュージアム
浜名湖
エアーパーク(航空自衛隊浜松広報館)
弁天島温泉
渚園
▼航空自衛隊浜松基地
市内の高丘地区には、航空自衛隊浜松基地がある。その歴史は古く、大正時代に浜松に設置された陸軍飛行連隊がその前身である。昭和に入ると陸軍飛行学校が設置され、浜松は陸軍の重爆撃機の基地となった。太平洋戦争の戦況が悪化すると、浜松は航空基地や、軍需工場の存在とともに、米軍機の日本侵入路に当たっていたため、ほぼ同様の地理条件にあった静岡市と並び、米軍の爆撃目標値に対する実際の爆撃率において全国の都市の中では数少ない100%を超える空襲や艦砲射撃を受け、多くの市民が命を落とし、市街地は焦土と化した。
終戦後一時、浜松基地はアメリカ空軍の不時着飛行場となり、1952年に組織された保安隊の航空学校が設置され、日本初の航空基地となった。保安隊はその後、航空自衛隊に改称され、1958年に浜松基地は南基地・北基地に分離したが、1989年に統合して、現在に至っている。所属部隊はパイロットや航空機等の整備員を養成する教育部隊が中心で、航空教育集団司令部がある。1999年には広報館「エアーパーク」も開館し、多くの人が訪れている。また、毎年行われる航空祭(エア・フェスタ)には、全国から多くの航空ファンが訪れている。
▼旧浜松市
2005年(平成17年)7月1日の合併前における浜松市のデータを記載。
市の木:マツ 市の花:ハギ 市の鳥:ツバメ
市の歌:「浜松市歌」(作詞:森林太郎(鴎外) 作曲:本居長世)
面積: 256.88km² (※境界未定部分あり)
総人口: 601,728人 (推計人口、2005年6月1日)
1911年(明治44年)7月1日に制定された市章(記章)は、2005年6月30日をもって廃止された。
▼市外局番
固定電話の単位料金区域は浜松MAである。市外局番は、053(400~599・800~809・890~899・920~959・964~973・975~976・978~989)である。なお、隣接する湖西市と新居町も浜松MAである。2007年3月31日までは天竜区の区域が天竜MAで、0539(20~61・63~99)、その他の地域が浜松MAで053(400~599)と、同一市内でも複数の市外局番があり、相互の通話は市外通話扱いだった。
市内局番900番台で欠けている局番は、磐田市豊岡地区(天竜MA(現在でも名称は変更なし)、0539-60~62・74・77・90~99および63-0GHJ・5GHJ~9GHJ)で使用中であることが理由である。(豊岡地区は同じ0539でも浜松市ではないため、市外局番統合の対象からは除外された。)同地区は市外局番統合までは、天竜区となる地域と市内通話エリアであった。浜松市内の0539-63-1GHJ~4GHJを使用している区域は市内局番も含めて053-973-1GHJ~4GHJに変更された。この変更の影響で、天竜区(浜松MA)と磐田市豊岡地区(天竜MA、現在でも名称は変更なし)は同一MAではなくなったため、相互の通話は市外局番からのダイヤルとなり、通話料も市内通話料金ではなくなった。
▼地域型JPドメイン名
浜松市は政令指定都市に移行すると、本来は地域型JPドメイン名は city.hamamatsu.jp が割り当られるはずであったが、政令指定都市移行の前に既に hamamatsu.jp が汎用JPドメイン名として浜松市以外の一般事業者に取得されている。
▼鉱山
浜松市に鉱山があったという話は余り知られていない。現在の天竜区にあった久根鉱山(銅)・峰之沢鉱山、北区にあった黒姫鉱山(マンガン)がそうであるが、もともとは磐田郡佐久間町・龍山村、引佐郡細江町だったため。政令指定都市でかつて鉱山を有していたのは手稲鉱山と豊羽鉱山があった札幌市、秋保鉱山があった仙台市、峰之沢鉱山があった浜松市の3市のみである。
▼スポーツ
・野球
高校野球では、浜松商業高校、浜松工業高校、浜松西高校、興誠高校、浜松北高校、浜名高校などが甲子園に出場しており、浜松商業高校は1978年春の選抜高等学校野球大会で全国優勝した。近年においては、2002年夏の甲子園に興誠高校が、2003年春の甲子園に浜名高校(当時浜北市)が出場して以来、浜松市内の高校は全国大会に出場していない。
・サッカー
ジュビロ磐田(J1)オフィシャルショップやジュニアユースチームを設けるなどジュビロの第2のホームタウン。
▼主なスポーツ施設
和地山公園(中区和地山三丁目)
浜松市北部水泳場(中区高丘西四丁目)
武道館(中区西浅田二丁目)
浜松市営陸上競技場(中区上島六丁目)
花川運動公園テニスコート(中区西丘町)
浜松球場(中区上島六丁目)
浜松オートレース場(中区和合町)
浜松アリーナ(東区和田町)
古橋廣之進記念浜松市総合水泳場 (ToBiO) (西区篠原町)
舞阪総合体育館(西区舞阪町舞阪)
クイック浜名(西区佐浜町)
江之島水泳場(南区江之島町)
可美公園水泳場(南区増楽町)
弓道場(南区増楽町)
浜北武道館(浜北区竜南)
▼観光地
・観光地
中区
浜松城 - 戦国時代末期より徳川家康の居城となり、以後、有名な譜代大名が多く浜松城を居城としたことから、出世城とも呼ばれる。1958年に天守閣が再建された。
浜松城公園 - 浜松城周辺の公園で、浜松市役所本庁舎の北側にある。春は桜の名所としても有名。
浜松市美術館
五社神社・諏訪神社 - 江戸幕府二代将軍徳川秀忠の産土神である。初詣では人気のスポットとなっている。はまホールに隣接している。第二次世界大戦で焼失するまで国宝であった。
アクトシティ浜松(アクトタワー) - 浜松駅前にそびえる45階建てのアクトタワーを中心に、会議場やコンサートホール、展示場などからなる。
浜松市楽器博物館 - 1995年に日本初の公共楽器博物館として開館。浜松駅前の複合施設。アクトシティの中にある。
浜松べんがら横丁 - 遠州鉄道新浜松駅から高架下に2006年にオープンした食のコミュニティパーク。ラーメンや焼き鳥など、名店が軒を連ねる。
東区
天竜川
西区
浜名湖ガーデンパーク - 浜名湖花博会場跡地。
はままつフラワーパーク
浜松市動物園
舘山寺温泉
浜名湖パルパル
浜名湖遊覧船
かんざんじロープウェイ
浜名湖オルゴールミュージアム
浜名湖
エアーパーク(航空自衛隊浜松広報館)
弁天島温泉
渚園
▼航空自衛隊浜松基地
市内の高丘地区には、航空自衛隊浜松基地がある。その歴史は古く、大正時代に浜松に設置された陸軍飛行連隊がその前身である。昭和に入ると陸軍飛行学校が設置され、浜松は陸軍の重爆撃機の基地となった。太平洋戦争の戦況が悪化すると、浜松は航空基地や、軍需工場の存在とともに、米軍機の日本侵入路に当たっていたため、ほぼ同様の地理条件にあった静岡市と並び、米軍の爆撃目標値に対する実際の爆撃率において全国の都市の中では数少ない100%を超える空襲や艦砲射撃を受け、多くの市民が命を落とし、市街地は焦土と化した。
終戦後一時、浜松基地はアメリカ空軍の不時着飛行場となり、1952年に組織された保安隊の航空学校が設置され、日本初の航空基地となった。保安隊はその後、航空自衛隊に改称され、1958年に浜松基地は南基地・北基地に分離したが、1989年に統合して、現在に至っている。所属部隊はパイロットや航空機等の整備員を養成する教育部隊が中心で、航空教育集団司令部がある。1999年には広報館「エアーパーク」も開館し、多くの人が訪れている。また、毎年行われる航空祭(エア・フェスタ)には、全国から多くの航空ファンが訪れている。
▼旧浜松市
2005年(平成17年)7月1日の合併前における浜松市のデータを記載。
市の木:マツ 市の花:ハギ 市の鳥:ツバメ
市の歌:「浜松市歌」(作詞:森林太郎(鴎外) 作曲:本居長世)
面積: 256.88km² (※境界未定部分あり)
総人口: 601,728人 (推計人口、2005年6月1日)
1911年(明治44年)7月1日に制定された市章(記章)は、2005年6月30日をもって廃止された。
▼市外局番
固定電話の単位料金区域は浜松MAである。市外局番は、053(400~599・800~809・890~899・920~959・964~973・975~976・978~989)である。なお、隣接する湖西市と新居町も浜松MAである。2007年3月31日までは天竜区の区域が天竜MAで、0539(20~61・63~99)、その他の地域が浜松MAで053(400~599)と、同一市内でも複数の市外局番があり、相互の通話は市外通話扱いだった。
市内局番900番台で欠けている局番は、磐田市豊岡地区(天竜MA(現在でも名称は変更なし)、0539-60~62・74・77・90~99および63-0GHJ・5GHJ~9GHJ)で使用中であることが理由である。(豊岡地区は同じ0539でも浜松市ではないため、市外局番統合の対象からは除外された。)同地区は市外局番統合までは、天竜区となる地域と市内通話エリアであった。浜松市内の0539-63-1GHJ~4GHJを使用している区域は市内局番も含めて053-973-1GHJ~4GHJに変更された。この変更の影響で、天竜区(浜松MA)と磐田市豊岡地区(天竜MA、現在でも名称は変更なし)は同一MAではなくなったため、相互の通話は市外局番からのダイヤルとなり、通話料も市内通話料金ではなくなった。
▼地域型JPドメイン名
浜松市は政令指定都市に移行すると、本来は地域型JPドメイン名は city.hamamatsu.jp が割り当られるはずであったが、政令指定都市移行の前に既に hamamatsu.jp が汎用JPドメイン名として浜松市以外の一般事業者に取得されている。
▼鉱山
浜松市に鉱山があったという話は余り知られていない。現在の天竜区にあった久根鉱山(銅)・峰之沢鉱山、北区にあった黒姫鉱山(マンガン)がそうであるが、もともとは磐田郡佐久間町・龍山村、引佐郡細江町だったため。政令指定都市でかつて鉱山を有していたのは手稲鉱山と豊羽鉱山があった札幌市、秋保鉱山があった仙台市、峰之沢鉱山があった浜松市の3市のみである。
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