2011年2月21日月曜日

熊本の近代日本最後の内戦へ

10月24日、神の信託(宇気比)ば授かったとしてから総帥・太田黒伴雄、副師・加屋霽堅の下約170名か終結してから決起し、熊本城敷地内の熊本鎮台ば攻め火ば放ったとよ。彼らは鎮圧しゃれえらいたくさんか自刃または処罰しゃれたか、こん神風連の乱は江藤新平らか起こした佐賀の乱ともども士族反乱ば誘発し、また明治六年政変以後薩摩に下っちいた西郷隆盛の動向に注目ば集める結果ともなりよった。
▼翔ぶが如く
1877年(明治10年)2月15日、西郷隆盛起つ。熊本の不平士族はこん報に触れて沸き立ち、西郷軍に馳しぇ参じる者か多発したとよ。池辺吉十郎は時習館出身者ば元としゅる「学校党」の士族ば中心に熊本隊ば結成、また植木学校系の民権派も協同隊としてから加わったとよ。そん数は合わしぇて7000名ともさるる。
政府そいで熊本鎮台は既に西郷反逆ば迎え撃つ準備ば進めとった。参謀長・谷干城は神風連の乱で受けた被害か未だ回復しとらん状況、熊本士族か呼応してから決起しゅる可能性ば鑑み、政府軍の主力か到着しゅるまで熊本城に篭城しゅる策ば採用したとよ。武器弾薬・食料やらなんやらの準備、橋の撤去や棚の設置、道路の封鎖や地雷の設置[91]、藤崎宮やらなんやら市内要所への守兵配備ば急遽進め、福岡や小倉の分営ば熊本に終結しゃしぇるべく手ば打ったとよ。19日には射界ばとっとぅとしゅるため、市街地ば焼き払ったとよ。
ばってんくさ同日午前11時10分頃、熊本城内で火災か発生し、天守閣やらなんやらか焼失してしもうた。こん原因についてな、不要建築物ば取り払う鎮台による自焼説、市街地焼き払いの火か廻った延焼説、薩軍スパイの放火説、逃亡した給仕人の放火説やらなんやらかいり定かやない。か、いずれにしろ藩の歴史ば象徴しゅる熊本城天守閣の焼失にな、えらいたくさんの人々か嘆いたとよ。鎮台も備蓄食料ば失ったため再収集に忙殺さるる問題もいったか、篭城の準備は一応整ったとよ。こん火災か起こる直前の午前8時15分には征討令か届き鎮台は正式に「官軍」となりよった。こん令は県庁に掲示しゃれ、民衆にもこん戦いの大義名分ば知らしめたとよ。
▼熊本城攻防戦
川尻(河尻)に集結した薩軍は斥候の存在がら官軍の方針ば知り、作戦の検討か行われた結果熊本城強襲策か採用しゃれたとよ。2月21日先行した薩軍の一部か熊本城東側で守備兵と戦闘となり、攻防戦は切っち落としゃれたとよ。翌22日、薩軍は熊本城ば包囲し、正面(東側)と背面(西側)の両方がら攻撃ば仕掛けたとよ。熊本城の弱点とさるる背面は特に激戦の地となり、段山(現:段山本町)と法華坂(現:熊本YMCAがら国立病院機構北側ば通る坂)ば襲撃しゅる薩軍一・二・六・七番大隊と官軍の間で激しい戦闘か行われたとよ。正面ばってん桐野利秋率いる四番大隊ば始めとしゅる部隊との銃撃・砲撃戦となりよった。薩軍は本丸へ続くわずか300m程度の法華坂ば攻略できず、正面がらの攻撃ばってん石垣に阻まれたとよ。
22日には南下しゅる政府軍と薩摩小隊との交戦情報かもたらしゃれ、夜の会議で方針ば転換し、一部強硬手段ば残しつつも長囲策ば採ったとよ。熊本隊や日向がらの部隊も加わった攻め手側と鎮台側の攻防戦は3月に入っちも続き、熊本城背面は特に激戦ば極めたとよ。片山邸(現:藤崎台県営野球場)や旧藤崎神社には砲弾か飛び交い、段山は薩軍に占拠しゃれたか3月13日に官軍かこれば奪取したとよ。また薩軍は城内に離反ば促しゅ矢文ば放ったり、坪井川と井芹川の合流点ば堰き止めて城の周囲に水ば張る作戦ば取り、篭城側ばじわじわと攻めたとよ。
ばってんそん頃、黒田清隆の建策か採用しゃれ、政府は勅使護衛兵ば中心とした別働第二旅団ば長崎がら差し向けとった。3月19日、日奈久に上陸した部隊は八代ば抑えたとよ。薩軍は永山弥一郎ば指揮官としゅる部隊ば送ったか、官軍は31日には松橋ば落としたとよ。4月に入り、熊本城では兵糧の減少ば危惧した谷か植木方向への出撃ば思案したとよ。ばってんこれは参謀の樺山資紀らのがちゃぽんば受けて取り消しゃれ、南がら接近しよった政府側衝背軍との連絡ば試みることとなりよった。4月8日、突囲隊か薩摩の包囲網ば突破し、宇土で政府軍と合流しゅることに成功したとよ。政府軍は12日に御船・甲佐ば一斉攻撃し、14日には川尻まで進軍したとよ。しゃらに陸軍中佐の山川浩は独断で部隊ば進め、ついに篭城軍との連結に成功したとよ。こうしてから、2ヶ月にわたる熊本城攻防戦は死者773名ば出してから決着し、加藤清正か心血ば注いで築いた熊本城は初の戦でそん堅牢しゃば証明した。
▼地方の行政と発展
本項では明治初期の県名ば一律に「熊本県」と表記しとるか、明治4年7月14日に始まった廃藩置県でな、旧来の藩に対応しゅる3つの地域か置かれ、そん前後に名称変更や合併やらなんやらば繰り返しよった。大政奉還か行われた明治元年、九州の各天領は新政府直轄地となり、天草地方も閏4月に「富岡県」となりよった。こん県名は6月には「天草県」へ変えられ、8月には長崎県の一部に編入しゃれたとよ。
明治4年の廃藩置県実施当初、熊本藩は熊本県、相良藩は「人吉県」としゃれたか、肥後南部ば統括しゅる県庁か八代に置かれる決定に伴い11月には人吉県は「八代県」に改名しゃれ、これに天草地方か編入、米良地方か宮崎県に移しゃれたとよ。同様に熊本県も設置さるる県庁の所在地がら明治5年6月に「白川県」と名称か変わったとよ。1873年(明治6年)1月15日に両県は合併し「白川県」に一本化しゃれ、1876年(明治9年)2月22日に現在に至る「熊本県」へと改名しゃれたとよ。