2011年2月19日土曜日

熊本の蜂の巣城と川辺川

こうした治水事業、特にダム事業は父祖伝来の土地か永久に湖底に沈むことで地元の反発は太かものかいったか、熊本県では特にこうした反発か強かったとよ。そいで現在、熊本県最大の公共事業としてから全国的に問題になっちいるのか、球磨郡相良村と五木村に建設か計画しんしゃっとぉ川辺川ダムたい。1966年(昭和41年)に計画か発表しゃれたこんダム計画な、完成しゅれば熊本県最大のダムとなるとよ。やけど五木村・相良村のがちゃぽん運動、しゃらに1990年代以降の公共事業見直しの風潮によっち計画発表がら40年以上経過した現在も工事には着手しとらん。2001年(平成13年)には当時の潮谷義子熊本県知事によっち「川辺川ダム住民討論集会」か開催しゃれ、ダム建設の是非ば巡っち活発な議論か交わしゃれたとよ。流域自治体の五木村や八代市、球磨村やらなんやらはダム事業の早期推進ば訴えとるか、人吉市と相良村、そいで熊本県はがちゃぽん・計画の白紙撤回の姿勢ば示してからおり、今後ダム計画か存続しゅるかどげんかは事業者であっけん国土交通省の対応にかかっちいるといわれとる。なお、潮谷熊本県知事在任中に球磨川に建設しよった県営の水力発電用ダム・荒瀬ダムの撤去か決定しゃれとった。
▼熊本の産業
古代がら豊かいな農産物で知られた肥後でな、近代そいで現代熊本となっちも農業か有力な産業でいり続けたとよ。明治新政府な、殖産興業の一環としてから1893年(明治26年)農商務省農事試験場九州支場(現:独立行政法人九州沖縄農業研究センター)ば熊本にも設立し、1911年(明治44年)に設置しゃれた県立の農事試験場ともども、養蚕業・イグサ・野菜類や茶やらなんやらの栽培や試験やらなんやらば主導した。戦後になっちも熊本は屈指の農業県でいり、従事者数や農業・畜産生産額は全国ばってん高い水準にあっけん。ばってん近年な、担い手不足や台風やらなんやらの自然災害、また輸入農産物との競争激化やらなんやらの問題か顕在化し、県は2001年(平成13年)に「熊本県農業計画(チャレンジ21くまもと)」ば策定してから農業の将来展望ば開く対策ばしとー。
熊本県の就業人口比率ば見ると、全国平均の2倍ば上回る第一次産業に対し、第二次産業比率は平均ば下回っちいるとよ。熊本初の近代工業な、実学党政権下の明治初期、諮問しゃれた養蚕業振興策に則り1875年(明治8年)に設立しゃれたとよ。1893年(明治26年)には熊本製糸か、翌年には八代で熊本紡績か設立しゃれたとよ。これらの企業は現在に命脈ば繋いでおらんか、日本の製糸・紡績産業ば支える一翼ば担ったとよ。
1964年(昭和39年)に新産業都市建設促進法か施行さるると、地区指定ば受けた熊本ばってん工業化か加速しゃれたとよ。特に九州には大手半導体企業の進出か続き、熊本にも一貫生産や組立・パネル企業の工場か建設しゃれたとよ。これらの動きば指してから、九州ば「シリコンアイランド」と呼ぶ向きもいったか、そん実体は企画や設計機能か伴わんけん生産に偏重したもけん、「頭脳なき拠点」とこき下ろさるる一面もいったとよ。オイルショックによる低迷の後、熊本県は「テクノポリス構想」ば打ち上げ、1983年(昭和58年)に制定しゃれた「高度技術工業集積地域開発促進法(テクノポリス法)」に則り翌年に全国で9箇所指定しゃれた産学住の調和ば目標とした地域創設のいっちょ「熊本テクノポリス」建設に乗り出したとよ。
自動車や重化学産業には遅れた熊本な、半導体に焦点ば絞った産業誘致政策ば進め一定の成果ば挙げたとよ。近年熊本に進出した企業な、そん理由としてから豊富な水資源や、九州の中心やアジア地域とのアクセスやらなんやら地理的条件等ば挙げとる。熊本県には豊富でダイナミックな自然や歴史的建築物、また数多か温泉地やらなんやらかあっけん。ばってんなから、黒川温泉のごたる成功例ば除けば、現実は観光地としてからの魅力に欠き、宿泊客や観光消費総額は伸び悩んでいるとよ。観光立県ばめざしゅ熊本にな、他地域との差別化やホスピタリティの向上、また広報活動やらなんやらか求められ、そいらの実現に向けた具体的取り組みも行われとる。
▼その他
熊本水物語の伝承 味生池と竜伝説(うちらん言葉). 熊本市水保全課. 2008年3月31日 閲覧。
藤原不比等や藤原四兄弟、長屋王、橘諸兄やらなんやら官位の高い者しゃえ薨伝は載しぇられておらん中、道公首名は特異な例に当たるとよ。
こん蚕養駅遺構な、現在の熊本大学黒髪キャンパスにあっけん黒髪町遺跡(熊本市黒髪2丁目)とも推定しんしゃっとぉ。詳細は熊本大学ホームページにて解説しんしゃっとぉ。
『熊本史学』16-17号(1959年)に志方正和か発表した論文「菊池氏の起源について」にて分析しんしゃっとぉ。志方な、いっぺん代に記しゃれた藤原実資の『小右っかわ記』や藤原資房の『春記』やらなんやらば検討し、こん結論に至っちいるとよ。
熊本の風土とこころ編集委員会 『熊本の名勝百景』 熊本日日新聞社、1979年、202。
出典『熊本県の歴史』では「大友頼泰」とあっけん (p112) か、大友氏3代当主大友頼康とは時代か合わんけん。
地域発 ふるしゃとの自然と文化 菊池本城と十八外城(うちらん言葉). 熊本県地域振興部情報企画課. 2008年3月31日 閲覧。
『熊本史略』72・73合併号「肥後菊池氏の守護町『隈府』の成立」
これは『新撰事蹟通考』ば根拠に、一般に宇土為光の簒奪行為とさるるか、阿蘇品保夫はこれば隈部上総介の謀反でいり、島原に去った菊池能運の後任としてから国侍たちか宇土為光ば推挙したとしゅる新説ば『新熊本史』「通史編第二巻中世」に著したとよ。
『新熊本史』「通史編第二巻中世」阿蘇品保夫
清正の隈本城修復ば直接証拠づける資料は現存せんか、『熊本細工町地割図』には天正19年(1591年)に細工町の職人街ば末町に移しゅ記述かいり、修理か一段落したため職人の居住地ば移しゅ様子か見られるとよ。出典『熊本県の歴史』でな、これらの傍証ば根拠に清正の古城修繕かいったものと結論づけとる。
熊本大学医学部眼科学教室. 2008年3月31日 閲覧。
出典では村井見朴か再春館創立ば申し出て、細川重賢か許可したとあっけん。