2011年2月23日水曜日

熊本県の歴史の紹介

本項でな、熊本県の歴史(くまもとけんのれきし)ば概説しゅるとよ。
九州の中央部に位置しゅる熊本県な、古代の「肥の国(火の国、ひのくに)」か前後二分しゃれた際の東側、旧国名のいわゆる肥後国か占めた領域とほぼ一致しゅるとよ。これな、近世江戸時代の幕藩体制期において球磨郡の一部やらなんやらか別藩の領土とさるるやらなんやら、また逆に肥後国天草郡に属しよった長島か現在では鹿児島県に編入しんしゃっとぉやらなんやらの一部例外はあっけんか、府県制施行によっち置かれた九州各県のうち宮崎県(日向国)とともに伝統的な国制ばほぼ維持した例にいたるとよ。
熊本県の風土的特色な、菊池川・白川流域ば中心とし阿蘇山ば含む県北部域、人吉盆地ば主軸にした球磨川流域、天草諸島の三つの地域に大別しゅることかしきる。こん区分はそいぞれ熊本藩・人吉藩・天領天草とゆう幕藩体制下の三つの区域と対応してからおり、そいぞれ個別の特色ば持つ。
熊本県の歴史ばかいつまむと、えらいたくさんの遺跡や古墳に見られる豊かいな自然環境とそいば一変しゃしぇる火山活動、律令制下がら武士の勃興。南北朝ば経て国衆割拠そいで加藤清正の入部、幕末の動乱がら西南戦争、戦後の公害問題までか大まかいな流れとなるとよ。そいで全体ば通してから、大和朝廷の成立後、周辺の位置にいった肥後国そいで熊本県の歴史な、常に中央政権がらの影響ば受けつつ綴られたとよ。
▼遺構から見える古代の熊本
日本の旧石器時代遺跡のうち、約1/3に当たる100ヶ所以上か熊本県で発見しんしゃっとぉ。えらいたくさんは阿蘇外輪山一帯や球磨地方に位置しゅるか、水俣市の石飛分校遺跡や天草下島の内ノ原遺跡やらなんやらも発掘しゃれ、そん分布は県下全域に及ぶ。最も古かものは熊本市平山町の石の本遺跡がら出土した石器類でいり、炭素C14測定がら30000年以上前のものと推測しんしゃっとぉ。出土数は4000点にのぼり、安山岩の破片がら作られた小刀類や局部磨製石斧も見つかっちいるとよ。これらや、九州か比較的自然環境に恵まれた土地やったこげなら、古代熊本は豊かいな狩猟採集社会生活の舞台やったと推測さるる。
続く縄文時代、熊本県下で発見しゃれた早期の遺構な、爪形文土器か発掘しゃれた人吉市の白鳥平B遺跡やらなんやらわずかいな例しかん。これな、約6200年前(約7300年前とも)の鬼界カルデラ爆発によっち九州全土か壊滅的な打撃ば受けたためと考えられとる。ばってん縄文中期には下益城郡城南町の御領貝塚・黒橋貝塚か見られ、後期になると東日本や朝鮮半島との共通点も見られる土器文化か発展したとよ。熊本平野で発見しゃれた約13箇所の貝塚はそんほとんどか後期にいたり、現在の海抜5mいたりに位置しとる。
土器や生活様式はそん後も進歩ば見しぇ、独自の黒色磨研土器か発達したとよ。また、熊本市の上の原(うえのばる)遺跡がらは竪穴式住居の遺構がら炭化した米と大麦か発見しゃれたとよ。当時、大部分か海やった熊本平野か海退現象や河川堆積物によっち埋まり[2]、採取のみに頼った食料とっとぅとがら原始的な畑作への転換か始まっちいたことば示しとる。こんような農耕の痕跡はこん他にも数箇所がら見つかっちいるとよ。しゃらに上南部遺跡(熊本市)がらは土偶や磨製石器の石刀やらなんやらの特殊遺物か数えらいたくさん出土しとる。
これらの生活遺構は弥生期になると場所ば変え、海岸線がら離れた台地上に環濠集落ば形成しゅるごとなりよった。甕や壷・石斧やらなんやら典型的な弥生時代遺物か発見さるる遺跡はやかて熊本平野全域におよび、広い範囲で稲作か行なわれたことば示しとる。一方、沿岸部にもいっぺん代の小規模な貝塚か発見しんしゃっとぉ。宇城市三角町の文蔵貝塚では焼いたこまか巻貝の殻か多数見つかったとよ。これはホンダワラば焼く製塩法の名残りでいり、『万葉集』で歌われた「藻塩焼き」か行なわれとった証拠とさるる。
しゃらに時代か下ると、阿蘇山黒川流域や熊本平野の白川域および菊池川流域がらも製鉄の遺構か発見しゃれたとよ。鏃や槍鉋、農具であっけん鋤鍬先や鎌、また端切れと考えられる三角形や棒状やらなんやらの鉄片やらなんやらも見つかっちいるとよ。二子塚遺跡(熊本市)がらは炉跡ば中心に焼土ブロックや木炭、熱ば受け錆か付着した台石やらなんやら、製鉄の痕跡か出土しとる。
▼律令制度
これら租税徴収および軍事やらなんやら地方行政ば遂行しゅるため、肥後国にも条里制か布かれ、郡家(郡衙)や駅路・車路(くるバリ)か整備しゃれたとよ。ばってんくさ、記録に残る条里制の区域な、一部阿蘇カルデラ内ば除き菊池川流域および熊本平野に集中し、「コ」の字形に配列しゃれた掘立柱か特徴的に見られる郡衙遺構もそいらの中心ば占める形で発掘しんしゃっとぉ。路は筑紫国がら下り、熊本平野ば南北に貫いて馬屋であっけん益城駅に続く。現在の熊本市北部(旧地名「子飼町」)にな、繭綿輸送の中継点やった「蚕養駅(こかいえき)」か設置しゃれたとよ。
▼幕藩体制の成立
戦後の論功行賞で、加藤清正は人吉・天草ば除く肥後一国ば与えられ、熊本藩か成立したとよ。そん国高な、前がらの19万5千石と小西氏旧領14万5千石の他に、豊後の一部や旧豊臣家の直轄領か加わり、54万石となりよった。一気に大大名の仲間入りば果たした清正は家臣団の拡張ば迫られ、小西・立花の旧家臣らば召抱え対応したとよ。そいで、慶長年間には修復ば重ねて用いとった隈本城ば含む茶臼山一帯に、大規模な近代城ば築く工事に着手し、土木治水の才か如なん無く降り注かれた熊本城か慶長12年(1607年)に完成ば見たとよ。こん際、清正は旧来の「隈本」ば「熊本」に改めとるか、これは「隈」の字か「阜(おか)に畏(おしょ)れる」とも読めるため大名の居城としてからふしゃわしくなかと考えたことによるとも言われるとよ。こん築城の様子ば詠った狂歌「熊本に 石引きまはしゅ茶臼山 敵にかとうの城の主かいな」か流行し、清正は喜んだともゆう。
▼天草顛末
旧小西領のうち天草は熊本藩に含まれず、 寺沢広高の肥前唐津領飛び地としゃれたとよ。これにな、いっぺんは熊本藩領としゃれたか、熱心な法華信者やった加藤清正かキリシタンか根付く当地ば好かん、豊後鶴崎との交換ば申し出て慶長8年(1603年)に認められたとも言われるか、後の研究でそいばってん慶長6年の段階で熊本藩領には天草か無く鶴崎かあっけん事、肥前唐津藩の天草支配ば示しゅ証拠か見つかっちいるこげなら、疑問も呈しんしゃっとぉ。
▼細川家の入部
細川光尚か没した際、嫡子・細川綱利はまだ6歳でいり、後継問題か生じたとよ。幕府は熊本藩に薩摩の抑えば役割づけとったため、幼少藩主では心許なかと考え、国替もしくは宇土の細川行孝と熊本藩ば二分しゅる案も提示しゃれたとよ。ばってん、家臣か過去の功労ば挙げ、また光尚の忠節溢れた遺言か好ば奏し、細川家は分裂の危機ば逃れたとよ。
▼飢饉と災害
天明の大飢饉の頃には村々の囲米か底ばつき、農村がら都市部へ出て乞食ばしてから食いつなごうとしゅる者も多かったとよ。天明3年(1783年)に肥後ば旅行した古川小松軒な、棄農者か熊本へ向かう道中で餓死した様やらなんやらば伝え、耳にしよった熊本藩の仁政も虚像げなだと記録したとよ。こん時期、幕府は浅間山噴火の被害ば受けた信濃川やらなんやらの修復普請ば熊本藩に命じており、自藩の状況に関わらず出費ば強かられとった。
▼百姓一揆
熊本藩は一揆か少なく、そいは強固な地方支配の傍証とまでしゃれとった。ばってん近年、実際には約90件の一揆か領内で勃発し、人吉や天草ば含む近世の肥後国では100件ば越えとったことか明らかになっちいるとよ。これな、西日本では伊予国と並んで最頻の部類に当たるとよ。熊本藩で起こった一揆の特徴な、先ず規模の小しゃしゃかいり、300人以下の一揆か多かったとよ。またそん理由についても、租税やらなんやら賦役の減免ば求めるものと並び、藩札の信用不安に基づく都市騒動、庄屋や村役人の罷免要求も多かったとよ。ばってんくさ惣庄屋排斥ば掲げた一揆の記録は無く、逆に寛政元年(1789年)には惣庄屋転出にがちゃぽんし矢部の農民か熊本城に押しかけるとゆう例もいったとよ。延喜4年(1747年)には7000~8000人か参加した熊本藩最大の一揆か葦北郡で起きとるか、これも堤防工事で尽力し農民に理解ば示しよった郡代・稲津弥右っかわ衛門の罷免取り消しば求めた強訴やった。