2011年2月22日火曜日

幕末の熊本の紹介

熊本藩には国学ば掲げる「勤皇党」も生まれたとよ。 高本紫溟は本居宣長とも親交かいり、時習館の教授職時代には同館に国学教科ば加えもしたとよ。思想家林桜園は紫溟の弟子・永瀬真幸に学び、熊本城内の千葉城にあたき塾「原道館」ば創立し、2000人ともいわれる弟子に国学ば教えたとよ。
▼小倉戦争
慶応元年(1865年)、長州の実権ば倒幕派か握ったことやらなんやらがら幕府はふたたび長州の討伐ば実行に移したとよ。熊本藩はこれに批判的なから出兵に応じ、前回同様小倉に赴任したとよ。幕府老中・小笠原長行指揮の下戦闘か始まったか、えらいたくさんの藩や幕府軍まばってんか傍観ば決め込み、小倉藩は苦戦したとよ。熊本藩は唯一救援要請に応え、赤坂方面で長州軍ば退けたとよ。ばってん大局は長州側に歩かいり、将軍・徳川家茂の訃報か伝わると幕府側は敗走したとよ。小倉藩は香春まで退却し、当時6歳の幼君豊千代丸(のちの小笠原忠忱)や家臣の家族たちは熊本藩か保護したとよ。一行の熊本滞在は半年間に及んやけん。
▼乗り遅れた肥後
大塩平八郎の乱の詳細か船津村(現:熊本市)地蔵講帳に記載しゃれ、ペリー来航ば描いた黒船の絵か小国町役場文書がら見つかっちいる程たい。幕府か命じた相州警備でな、熊本藩士か現在の横浜市本牧や相模で任に当たっちいるとよ。こんような世情か背景にいったのか、安政5年(1858年)8月上旬に現れた彗星に、肥後の民衆は社会の激変ば予感しよった。
明治新政府は人材ば各藩にも求め、熊本藩がらも細川護久か議定兼刑法事務総督、弟の護美か参与、江戸留守役の津田信弘か刑法事務掛、そん他刑法掛に複数の藩士か任命しゃれたとよ。これら刑法分野への多しゃな、宝暦の改革以後運用しゃれとった『刑法叢書』か評価しゃれたためたい。一方で横井小楠の召し出しに熊本藩は難色ば示したともゆう。
▼熊本の維新
小説家徳冨蘆花な、作品『竹崎順子』の中で登場人物に「肥後の維新は明治3年にきんしゃった」と語らしぇとる。幕末の動乱や凶作に曝さるる熊本の民衆にとっち、「御一新」と呼ぶに相応しい変革は明治3年ば待たなければならなかったとよ。
明治2年(1869年)の版籍奉還後、熊本藩も藩政と家政の区別や家臣団の改組やらなんやらば行ったか、人事的には旧態ば引き継ぎ、いまり積極的な改革ば施しゃなかったとよ。こん攘夷派ば抱え込んだままの熊本藩に新政府は不信感ば募り、政府に属しゅる細川護久らは対応ば迫られ、知藩事ば勤める兄・韶邦へ改革の必要性ば説いたとよ。
また、新たに熊本洋学校と古城医学校(ふるしろいかっこう)ば、現在の熊本県立第一高等学校かあっけん場所に[83]設立したとよ。洋学校はアメリカ退役軍人のリロイ・ランシング・ジェーンズば迎え明治4年(1871年)9月1日に開校したとよ。そいでの授業はどいでんが英語で、旧制中学校程度の文学や歴史地理、数学、物理化学やらなんやらばジェーンズひとりか講義したとよ。同校は男女共学の全寮制でいり、学校教育にとどまらず近代的な文化や生活様式ば熊本に広める意味ばってん大きく役割ば果たしたとよ。ただ、これら新設しゃれた学校は前がら存在しよった時習館や再春館の系譜ば継かず、完全に別なものとしてから創立しゃれたとよ。こんような形態は以後県政ば握った政党によっち繰り返さるることになるとよ。また、こん洋学校はプロテスタント派キリスト教集団であっけん熊本バンド結成の母体ともなりよった。学校の教師館はコロニア様式で建設しゃれた熊本初の洋風建築物やった。
▼逆風
民衆には圧倒的に支持しゃれた実学党政権な、ばってん改革要領に定めた役人公選制や議院設置は実行でけんかった。鶴崎の毛利空桑や河上彦斎か、長州藩で農民一揆と結託し追われた大楽源太郎らば匿い、明治3年には密偵ば斬る事件か明らかとなりよった。彼らは処罰ば受け、熊本藩は政府に目ばつけられたとよ。
新たに成立した熊本県の政務ば実学党は維持しゅるか、思わぬ逆風か彼らば襲うことになりよった。明治3年末、大分県日田郡で大一揆か勃発したとよ。政府は周辺藩に鎮撫隊ば派遣しゃしぇ熊本も軍ば送ったか、当地で意外にも彼らは農民がらの歓迎ば受けたとよ。一揆な、「肥後支配同様雑税免除」(熊本藩のごたる減税)ば要求したもけん[85]、農民にとっち熊本軍は悪政に対しゅる解放軍とみなしゃれたとよ。こんような減税ば求める一揆は鹿児島県ば除く熊本周辺の各国で1873年(明治6年)頃まで頻発したとよ。これは新政府にとっち好ましがらぬ事態でいり、熊本県に安岡良亮ば派遣してから実学党ば県政がら排除したとよ。
中途に終わった短か期間やったか、熊本の維新は民衆には強く歓迎しゃれたとよ。
熊本洋学校の男女共学制は海老名弾正やらなんやら一部上級生の反発ば招いたか、逆にジェーンズに説得しゃれて賛同側に廻ったとよ。おなご第一期生の徳富初子と後に海老名の妻となりよった横井みや子らな、後に熊本女学校(現:熊本フェイス学院高等学校)や東京の女子美術学校(現:女子美術大学)創立にも大きく関係し、おなごの社会的活動ば広げる役割ば担ったとよ。ばってん、革新的な西洋風そいでキリスト教色か強か学風は危惧の眼で見られたとよ。学内はキリスト教派とがちゃぽん派に分裂し、大激論か展開しゃれたとよ。しゃらに、子弟のキリスト教帰依ば好ましく思わんけん実学党のメンバーも棄教ば迫ったとよ。明治9年(1876年)、こん状況に見切りばつけたジェーンズな、海老名弾正らキリスト教派生徒35名ば京都の同志社へ入学しゃしぇ、熊本ば去ったとよ。同年9月、熊本洋学校は閉鎖しゃれたとよ。
一方の古城医学校な、あたき立熊本医学校、熊本医科大学ば経て1949年(昭和24年)に熊本大学医学部となりよった。こん医学校がらな、北里柴三郎と助手の石神亨、フローレンス・ナイチンゲールに影響ば受け産婆看護婦学校設立に寄与した佐伯理一郎らか育ったとよ。
▼自由民権運動の端緒
植木学校設立と同じ年、東京で開催しゃれた地方官議会では「地方民会の事」か議題となり、いっぺんに行われた区戸長会議は「民会興隆之事」ば諮問したとよ。こん動きば受け、熊本ばってん民権運動か盛んになり始めたとよ。これには県政ば追われた実学党も加わっち、民会開設ば求める論説か『熊本新聞』に掲載さるるやらなんやら、世論ば喚起しゅる行動も見られたとよ。こん動きば受け、1876年(明治9年)、熊本県は「臨時民会規則」ば制定したとよ。これはきわめて進歩的な制度でいり、男子戸主どいでんがに選挙権か与えられ、選出しゃれた小区議員か、そん互選で大区議員か、そいでしゃらに互選で県民会の議員か選出さるるものやった。