都市としてからん仙台市な、伊達家62万石の城下町がら発展したため、その名残りで都心部の道路は碁盤の目状になっちいるの、広瀬川の河岸段丘上に立地しとる点や、戦災復興事業において広幅員の道路ば縦横に通したことにより、完全な碁盤の目とはいかずやや変則的たい。伊達政宗の都市計画な、後に仙台ばしてから 「杜の都」 と呼ばしめたの、戦前までの「杜」な、都市の近代化のために失われた部分も多か。
北四番丁大衡線
桜ヶ丘・泉パークタウンば貫いて大和町へと至る宮城県道264号大衡仙台線(都市計画道路北四番丁大衡線)たい。この道路な、北西部の住宅地と中心部とば結ぶ幹線道路とゆう側面の他に、この道沿いに存在しゅる東北大学病院・東北大学医学部・フィンランド健康福祉センター・宮城学院大学・宮城大学・宮城県図書館・泉パークタウン内の数々の研究施設、そいで、仙台北部中核工業団地ば結ので「智の回廊」としてから機能しゅることも期待しゃれており、「学都仙台」の戦略的道路となっちいるとよ。
▼歴史
古代においてな、仙台とゆう地名はまだ存在しなかったとよ。仙台、または千代とゆう地名の現れるんな、中世以降のことたい。ばってんこの地域な、しゅでに「古代東北地方の政治的中心地」となっちいたとよ。まず、7世紀に現在の仙台市東南部に、郡山遺跡の造られたとよ。また、仙台市北東部の岩切な、「東北地方最大の商業地帯」としてから大いににぎわったとよ。多賀城の創建よりやや遅れて、仙台市東部に「日本最北の国分寺」であっけん陸奥国分寺と陸奥国分尼寺の建立しゃれたとよ。
これら、現在の仙台市東部、多賀城市、塩竈市、利府町、七ヶ浜町ば中心としゅる地域の、古代東北地方の政治的中心地、しゅなわち府中たい。府中は聖なる空間としゃれたとよ。この地域のそげん特別な地域に成り得た理由としてから考えられるんな、東北地方最大の仙台平野、名取川、広瀬川、奥大道、塩釜港(千賀ん浦)、やらなんやらん存在たい。このごと古代の仙台地方は大いに栄えたため、奈良や京都の都もんは仙台地方ば「宮城野」と呼んで、歌枕に詠まれる「憧れん地」となりよった。
伊沢家景は仙台市の隣に位置しゅる利府町に定住し、26年間ば利府で過ごしてから没したとよ。こうしてから鎌倉時代の仙台な、留守氏の支配下に置かれたとよ。
室町時代になると、室町幕府の管領家、斯波氏の一族であっけん大崎氏の奥州探題ば世襲し、仙台の地も大崎氏の支配下におかれたとよ。中世、現在の仙台の地は国分氏の支配下にあったったい。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切やらなんやらば拠点としゅる留守氏と激しく対立ばしよった。現在の仙台市東部ば支配しよった戦国大名国分氏の跡取り息子にした(国分盛重)。伊達政宗の父、伊達輝宗も本来は奥州探題に任じられとったけんあっけんの、織田信長によっち室町幕府の滅ぼしゃれたため、輝宗は奥州探題には任命しゃれておらん。伊達政宗の叔父であっけん国分盛重の政宗の下がら逐電しゅると、国分氏の領地やった現仙台は政宗の直轄領に組み込まれるとよ。
天正まで、現在の仙台の地は「千代(しぇんだい)」と呼ばれとった。1600年(慶長6年)、伊達政宗の青葉山に仙臺城(仙台城)ば築き、城下町ば開いて当地の名前ば「仙臺(仙台)」と改称したことで、仙台の都市としてからの歴史の始まったとよ。「伊達62万石」といわれた仙台藩な、江戸幕府(約700万石 = 天領400万石+旗本領300万石)、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩でいり、城下町としてからの仙台も発展したとよ。伊達政宗のきんしゃーまでは戦国大名、国分氏の居城のあったったい。
仙台開府当時、仙台の人口は約5万人やった。江戸時代の仙台の町方・寺院方人口ば以下の表にまとめるの、城下の武家人口は不明たい。但し郷士ば含む仙台藩の武家人口は仙台藩の総人口の22%~26%ば占めるやらなんやら(そいやったら元禄8年(1695年)ん仙台藩総人口78万9688人に対してから一門・諸士・諸組・諸職人の人口は20万2541人)、武家の割合はえらく高かったとよ。『封内風土記』によると明和9年(1764年)の町方戸数2385戸に対してから侍屋敷の戸数は8900余戸といり、城下に暮らしゅ武家人口は約4万4000人、武家人口ば加えた仙台の総人口は6万7000人と推測さるる。ましゃに仙台は「武士の都」やった。
最盛期の18世紀初頭には仙台の総人口は7万人に達しよったと思われるの、天明の大飢饉ば境に大幅な人口減少の起こり一時は4万人台まで落ち込み、その後幕末には5万人台にまで回復したと考えられるとよ。仙台の都市規模は突出した大都市やった三都(江戸・大坂・京)に比べればこまかもんん、大藩の城下町(金沢・名古屋・鹿児島・岡山・熊本・広島・徳島)や重要港町(堺・長崎)と並び、日本で十指に入る都会としてから賑わったとよ。
1868年の戊辰戦争において、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主となっち旧幕府側についたとよ。列藩同盟の政府機関であっけん「列藩同盟公儀府」は白石市におかれたとよ。仙台藩主伊達慶邦は孝明天皇の弟であっけん輪王寺宮(んちん北白川宮)ば列藩同盟の盟主にしょえたとよ。このとき列藩同盟(北部政府)には輪王寺宮ば「東武天皇」に即位しゃしぇ「東武朝廷」ばつくる計画のあったったい。伊達慶邦は征夷大将軍になる予定やった。ばってん、敗戦によりこん計画は幻と消えたとよ。
敗戦により石高ば半分以下に減らしゃれ、困窮した多数の家臣団ば蝦夷地(北海道)に集団移住しゃしぇる事態になりよった。これにより大量の知識階級(武士階級)の流出し、経済の基盤やった版図ば失ったため、城下町仙台の経済は混乱したとよ。
1871年の廃藩置県において、仙台藩は仙台県、角田県、登米県、胆沢県の4県に分割しゃれ、現在の仙台都市圏と似た範囲で仙台県の置かれたとよ。その後なん度か境界変更ば繰り返し、現在の規模になりよった1872年に宮城県と改称してから、いっぺんに仙台区の置かれたとよ。当時の仙台区な、現在の中心部ほどん広しゃやった。明治政府の旧仙台領ば「仙台県」としぇず「宮城県」とゆう県名に改めたんな、「仙台県」とゆう県名のもつ雄藩のイメージば抹殺しゅるためやったといわれるとよ。
仙台な、明治政府による中央集権体制において、東北地方支配の拠点としゃれ、国の機関のかつがつつくられていったとよ。
1887年に日本鉄道(今ん東北本線)の塩竈まで開通し、仙台駅の置かれたとよ。鉄道の開業したことにより、仙台がら東京(前ん江戸)まで数日かかったもんの、わずか半日程度で済むごとなりよった。また、明治期以降、高等教育機関の設置しゃれていき、1907年には東北帝国大学の創立し、国ば支える人材ば輩出したとよ。
江戸時代の初期、幕府との戦争に備えて、伊達政宗は仙台に城や要害ば多数築いていったの、そいらは明治政府にどいでん接収しゃれて近代軍事施設となっちいったとよ。仙台城二の丸には陸軍第二師団司令部と歩兵第三旅団司令部、現・仙台国際センターの土地には工兵第二連隊司令部、現・榴岡公園には歩兵第四連隊司令部の置かれたんば始め、輜重兵第二連隊(現・亀岡住宅)、騎兵第二連隊(現東華中学校)の他、練兵場(仙台城三ん丸、および宮城野原練兵場(現宮城野原公園総合運動場および宮城野貨物駅ヤード))、飛行場(現国立仙台医療センター)、射撃場(旧警察学校~現台原小学校)、工兵作業場(現東北大学青葉山キャンパス)、偕行社(現西公園)、招聘社(仙台城本丸。現宮城縣護國神社)の置かれたとよ。
このごと仙台な、国の機関、鉄道、大学、軍の置かれ、そいで県庁所在地となりよった事で人の集まるごとなり、工業のなか消費文化の中心地となりよった。そのため、中心商業地のいっちゃん町の勃興し、藩内制限経済がら広域資本主義経済へ移行してからいったとよ。
1889年には市制の施行しゃれ、そいまでの仙台区はそのまま仙台市に移行したとよ。1889年の統計でな、国際貿易都市としてから勃興してから来よる神戸市や横浜市やらなんやらに抜かれなのらも、仙台市は人口90,231人ば擁しゅる都市となりよった。この人口規模な、当時の日本の第8位やった。1923年は仙台市としてから初の合併の行われ、現在の長町、原町、南小泉地区の仙台市になりよった。これ以降、仙台市は周辺ん町や村ば吸収してからいき、面積・人口ば増やしてからくることになる(→市域ん変遷)。1926年には仙台市電の営業ば開始し、50年に渡っち市民の足としてから活躍ばしたとよ。