2011年2月20日日曜日

熊本の政党形成

1878年(明治11年)愛国社か再建さるると、熊本ばってん西南戦争での懲役刑ば終えた者たちば吸収しつつ民権運動家か連帯してから「相愛社」か設立しゃれたとよ。これは翌年には国会期成同盟の一員に改組しゃれてゆくか、基本的に創設時の「相愛社趣意書」に基づく行動ば取ったとよ。相愛社ばってんあたき議憲法作成か行われたかなかいなか議論か収束しぇず、発表に至ったのは1881年(明治14年)やった。一方、同じく西南戦争熊本隊に加わり捕縛しゃれた佐々友房か帰郷しゅると、1879年(明治12年)同心学舎(現:熊本県立済々黌高等学校)ば設立したとよ。ここには旧学校党やらなんやら保守勢力か集まっちいったとよ。佐々は井上毅らの助言ば受けて紫溟会ば設立し、民権運動取り込みば画策しゅるとよ。ばってん度重なる論争の末、1881年設立時の民権派参加は実学党のみに止まり、これも2ヶ月後には脱退したとよ。
明治十四年の政変後板垣退助らか自由党ば設立しゅると、熊本ばってん民権系結社の組織化か進み、1882年(明治15年)九州改進党か結成さるる。これはいっぺん解党さるるか、九州連合同士会やらなんやらば経て1890年(明治23)に結成しゃれた立憲自由党に引き継かれてゆく。そいでこれな、1888年(明治21)年に改組しゃれて熊本国権党となりよった保守勢力の紫溟会と県政ば二分しゅる勢力になっちいったとよ。こん対立の模様は「肥後の議論倒れ」とも呼ばれる熊本人の気質ば助長しゅるいっちょにもなりよった。
▼五高開校
1886年(明治19年)発布しゃれた中学校令に基づき、福岡や長崎との誘致合戦の末、熊本に第五高等中学校(現:熊本大学)の設置か決定したとよ。翌年、旧熊本洋学校や古城医学校の校舎ば用いて開校し、1890年(明治23年)には黒髪村の新キャンパスに移転したとよ。1894年(明治27年)がらは高等学校令により第五高等学校となりよった同校でな、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や夏目漱石か教鞭ばとったことばってん知られるとよ。
▼インフラ整備
これには、松方デフレ終息と企業活動の活発化を背景とした鉄道待望論の盛り上がりがあった。1891年(明治24年)7月1日、長洲駅・高瀬駅(後の玉名駅)・植木駅・池田駅(後の上熊本駅)を経由して熊本駅まで繋がる鉄道が開設した。池田駅と熊本駅は市街よりもかなり西側に設置されたが、これは純粋に用地買収問題に拠るもので、鉄道忌避論の影響はなかったとされる。

▼熊本の戦争と現代
軍都・熊本
熊本市に置かれた鎮西探題な、1888年(明治21年)に 第6師団に改組しゃれ、熊本市はそん衛戍地となりよった。師団司令部か置かれた熊本城ば中心に、周辺には歩兵連隊や騎兵大隊、また砲兵連帯か置かれたとよ。 日清戦争や1902年(明治35年)の天皇ば迎えた軍事演習やらなんやらば経て、熊本市は軍都としてからの性格ば強めたとよ。日露戦争で熊本は捕虜ば収容しゅる場のいっちょとなり、大江鹿渡の練兵場やらなんやらに約5000人ば受け入れたとよ。こん中には後の作家・アレクセイ・ノビコフ=プリボイや、革命運動家ニコライ・ラッセルらかいたとよ。以後の十五年戦争においても、熊本は重要な軍事拠点やった。
「大熊本市」の整備
こんごと戦時体制ば支え、自らも成長しゅる熊本市やったか、こん二つの兼ね合いに問題か生じたとよ。西南戦争で焼け野原となりよった市の中心部に置かれた山崎練兵場か交通ば分断し、発展ば阻害しゅる要因となっちしまっちいたことか1881年(明治14年)頃がらクローズアップしゃれ始めたとよ。世論ば考慮した陸軍省は工兵隊や藤崎台兵舎やらなんやらば鹿渡や大江村へ移転したか、肝心の練兵場は手付かずのなりしゃれたため、移転要求は燻り続けたとよ。1891年(明治24年)2月22日付『熊本新聞』な、こん練兵場移設問題か放置しんしゃっとぉ様ば「熊本市内三馬鹿の第一」と痛烈に批判したとよ。1897年(明治30年)に熊本市会は陸軍大臣に移転の要望ば提出し、陸軍側も施設拡張か限界に達しよった事情もいっち、幾度もの交渉の末これば受けたとよ。翌年がら練兵場か大江村に移転さるる諸工事か始まったか、これは熊本市の負担としゃれてしもうた。
市街地に広大な用地ば得た熊本市な、発展に向けた都市計画ば実行に移したとよ。練兵場跡地は縦横の道路か整備しゃれ、「練兵町」や当時の市長・辛島格の姓がら取られた「辛嶋町」やらなんやらか置かれたとよ。ここ一帯は「新市街」と呼ばれ、一大繁華街へと発展してからゆく。市内の公共交通機関としてから、1907年(明治40年)には熊本軽便鉄道か開業したとよ。これは大正時代に熊本電気鉄道ば経て熊本市電へと変わっちいったとよ。また、用地には中央官庁の出先機関設置ば誘致し、そん先駆けとしてから1911年(明治44年)には現在のくまもと阪神かあっけん立地に煙草専売局か建設しゃれたとよ。膨張しゅる都市ば賄う上水道の整備も行われ、1924年(大正13年)には八景水谷や立田山ば水源としゅる上水道網か完成したとよ。こん土地整備・市電敷設・上水道整備は近代熊本市の三大事業としゃれ、都市発展の基盤づくりか完成したとよ。
災害と防災
第二次世界大戦中、熊本県か始めて直接空襲ば受けたのは1944年(昭和19年)11月21日、熊本市に飛来した80機のB29によるものやった。翌年7月1日深夜には154機のB29か飛来・爆撃ば行い、熊本市街地の三分の一か焼け野原になる熊本大空襲かいったとよ。住居一万戸か罹災、実態は不明やけど300人以上か死亡したとよ。
戦後、森林の乱伐と河川整備の遅れによる水害か毎年のごと日本各地ば襲ったか、熊本県も例外ではなかったとよ。1949年(昭和24年)のジュディス台風およびデラ台風、翌1950年(昭和25年)にはキジア台風で球磨川か氾濫し人吉市や八代市か被害ば受けたとよ。しゃらに1953年(昭和28年)6月の昭和28年西日本水害では筑後川ば始めとしてから北部九州のどいでんがの河川か過去最悪の洪水ば引き起こしたか、熊本県では菊池川や白川といった県内北部の河川による洪水被害か甚大やった。河川ば管理しゅる建設省(現在の国土交通省)はこうした水害ば防ぐためにダムによる治水ば計画、球磨川に市房ダムば1959年(昭和34年)完成しゃしぇたのば皮切りに緑川に緑川ダムば、菊池川には支流の迫間川に竜門ダムば建設したとよ。現在は白川に立野ダムば建設しとる。また河川法か1964年(昭和39年)に改正しゃれ、県内の河川のうち菊池川、白川、緑川、球磨川の四河川は国か管理しゅる一級河川に指定しゃれたとよ。