2011年1月31日月曜日

浜松城の紹介

浜松城は静岡県浜松市中区にある城。野面積みの石垣で有名。「出世城」という別名がある。
▼歴史
浜松城は、前身は曳馬城と呼ばれる。築城者については諸説あるが、瀬名姫の先祖である今川貞相が初めて築城したという。
▼家康時代
元亀元年(1570年)に家康は、武田信玄の侵攻に備える為、本拠地を岡崎城から浜松城へ移した。岡崎城は嫡男・信康に譲られた。当初は、天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際、天竜川の存在そのものが「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。曳馬という名称は「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いため、かつて「浜松荘」と呼ばれる荘園であったことから、城名・地名ともども「浜松」と改めた。挑発された家康は浜松城から打って出たが、当時、戦国時代最強ともいわれた武田軍の巧妙な反撃に遭って大敗北を喫している。張・改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わった[1]が、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松城から駿府城に本拠を移した。家康の在城期間は、17年になる。
▼ 家康以後
浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の昭和の模擬天守閣が再建された。1959年には浜松市の史跡として指定された。
▼出世城
「出世城」という呼び名に関しては、一般的には数々の浜松城主が幕府の重役に出世した例が多く、このことから出世城とも呼ばれたとされる。幕府は事件を起こした正甫を左遷し、忠邦を浜松へ移した。浜松は水野忠精に代わって井上正甫の長男・正春が治めることになった。
▼交通
JR浜松駅より徒歩約20分
JR浜松駅より遠鉄バスで浜松市役所前下車。乗車約10分 + 徒歩約5分
■■浜松駅■■
浜松駅は、静岡県浜松市中区砂山町にある東海旅客鉄道の駅である。東海道新幹線は西側から浜松工場への引き上げ線が分岐している。上下ホームとも、両端に各車系ごとの停車位置表示がある。東海道本線は西側の電留線から上り本線を介し、浜松運輸区や西浜松駅への引き上げ線が分岐する。新幹線在来線乗り換えコンコースの在来線側に設置されており、駅ビル「メイワン」を経てアクトシティ浜松の連絡通路へつながっている。
▼ 機関車交換駅時代
1949年5月20日に東海道本線静岡~浜松間の電化が完成すると、浜松駅は電化区間の境界となり、東京方面の電気機関車と名古屋方面の蒸気機関車との交換が行われるようになった。機関車交換に伴う停車時間の増加は、浜松駅に以下のような「名物」を生むことになった。1953年7月21日に浜松~名古屋間の電化が完成すると機関車交換駅の役割は終わりを告げた。ただし、「ハモニカ娘」はその後も駅の名物として1969年まで営業を続け、乗客に親しまれた。
▼東京-浜松間の普通列車
国鉄時代は東京-浜松間の普通列車が1日に何本か設定されていたが、JR化後しばらくして消滅した。2005年12月に夜行便の「ドリーム静岡・浜松号」、2006年12月に渋谷マークシティ・新宿高速バスターミナル行きの「渋谷・新宿ライナー浜松号」も加わった。
■■浜松宿■■
浜松宿(はままつじゅく) は旧東海道の宿場で、東海道五十三次の江戸から数えて29番目、京から数えて25番目にあたる。
現在の静岡県浜松市の中心部にあたり、浜松城の城下町として天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされる、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場であった。
■■浜松まつり■■
浜松まつりは、静岡県浜松市で毎年ゴールデンウィーク期間中の5月3日から5月5日までの3日間に端午の節句にちなんで開催される凧揚げ合戦と、同時に市内各地で行われる恒例行事の総称。
▼起源・歴史
これまでその起源は、室町時代の永禄年間に、引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守の長男・義廣公の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義廣公の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であることがわかっている。
現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村(現浜松市有玉台)在住の国学者・高林方朗(みちあきら)の日記で、寛政元年(1789年)4月に初凧を購入したという記述が確認されている。
江戸時代の中期には、端午の節句に祝凧を贈って揚げるという風習は浜松だけでなく遠州地方全域で行われており、嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では、糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた。
浜松の城下町では初凧に糸切合戦の要素が加わりそれが人々を熱狂させ今日まで続くに至る。 明治7年頃、浜松の職人町に消防組が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。
戦後の再開頃から行政が主導するようになると、浜松市の観光イベントとして急激に拡大路線へ転換した。昭和45年に自主的な管理組織であった連合青年団統監部が解散させられると、浜松市・観光協会・商工会議所・自治会連合会からなる浜松まつり本部が新たに組織され、観光路線にさらに拍車がかかることになった。
激な肥大化により参加町の3分の2以上が途中参加という現実は、浜松の凧そのもののありようを大きく変化させるに至っている。

2011年1月30日日曜日

2011年1月29日土曜日

浜松バスの紹介

浜松バス株式会社(はままつバス)は、静岡県西部地方を拠点とするバス会社の一つで、貸切バス・路線バスおよび、これらに付随する関連事業を営んでいる。2007年3月28日 - 浜松市浜北地区(現浜北区)で路線バスの運行を開始。1951年の道路運送法制定以降、新規事業者が路線バス事業に参入するのは静岡県では初。

▼所在地
浜松市浜北区内野2423-1
当地にはかつて浜松観光自動車(遠州鉄道の観光バス専業子会社)の浜北営業所が所在していた。その後、中・小型バス部門の子会社「ニュー浜松観光バス」に一時分社していたが、2005年に再統合され浜松観光バス(浜松観光自動車から商号変更)浜北営業所となっていた。

■■■浜松市自主運行バス■■■
浜松市自主運行バス(はままつしじしゅうんこうバス)は、静岡県浜松市が運営する、いわゆる自治体バスである。1986年11月まで地方公営企業として営業していたバス(浜松市交通部。通称・浜松市営バス)とは異なり、廃止された既存の乗合バス路線の代替手段(廃止代替バス)として運営されている。現在の路線は、2005年7月の合併で浜松市に編入された各市町村が運営していた自主運行バスを浜松市が引き継いだものである。運行業務は一部を除き、既存のバス会社(遠鉄バス・秋葉バスサービス)に委託されている。なお、他に浜松市が運行に関与するバスとして「浜松市循環まちバス」(中区)・「浜北コミュニティバス」(浜北区)があるが、運行の趣旨が異なるため当記事では扱わない。別途、当該記事を参照のこと。

■■■浜松市循環まちバス■■■
浜松市循環まちバス(はままつしじゅんかんまちバス)は、静岡県浜松市中区の中心部を環状運行するコミュニティバス路線をいう。愛称は「く・る・る」。浜松市の「オムニバスタウン」構想の一環として登場したもので、中心街の移動円滑化と活性化を主な目的としている。

▼概要
浜松駅北地区を走る東ループ(反時計回り)と西ループ(時計回り)、同南地区を走る南ループの3路線があり、遠州鉄道(遠鉄バス)が全ての業務を受託している。そのためETカードやナイスパスが利用できるほか、浜松駅発着の遠鉄バス定期券を持っている場合は無料で乗車できる。10時から19時までの間ほぼ15分(南ループは30分)間隔で運行、運賃は大人(中学生以上)100円、子供(小学生)50円、小学生以下は保護者同伴にて2名まで無料となっている。また大人200円、子供100円の一日乗車券も販売している。一部経由地が異なるため逆戻りができない箇所がある。浜松まつりなど、中心街で催し物が開催される場合は迂回運転や運休となる場合もある。

▼沿革
2001年10月14日 - 12月24日
都市循環「浜松まちなかループ」として実証実験を実施。この時は時計回りのルートしか存在していなかった。
2002年4月1日
東・西ループ、正式運行開始。
2006年9月18日 - 10月15日
南ループ、実証実験として運行。浜松駅6番乗り場発10:00 - 18:30までの30分間隔で運行された。(10月1日より7番乗り場に変更)
期間中は遠鉄バス所有の小型路線車を使用した。
2007年4月1日
南ループ、正式運行開始。

▼路線
東ループ
浜松駅バスターミナル12番乗り場 - 文化芸大 - 遠州病院 - 県総合庁舎北 - 市役所前* - 中央図書館 - 浜松駅
西ループ
浜松駅14番乗り場 -肴町 - 市役所前* - 県総合庁舎 - 遠州病院東 - 文化芸大 - 浜松駅
南ループ
浜松駅7番乗り場 - 駅南大通り - ハローワーク北 - 海老塚郵便局前 - 福祉交流センター - 中央柳通り - 浜松駅

■■■浜松環状線■■■
静岡県道65号浜松環状線(しずおかけんどう65ごうはままつかんじょうせん)は、静岡県浜松市内を通る道路(県道)である。国道1号浜松バイパスと一体となり、浜松市内を一周する環状道路を形成している。浜松ICより浜松西IC経由で、起点に向かって(反時計周りに)環状線を行くと浜名湖の東側を南方へ進むことになり、国道1号と合流する。

▼概要
陸上距離 : 28.0km
起点:静岡県浜松市西区坪井町(国道1号浜名バイパス交点)
終点:静岡県浜松市東区安新町(国道152号交点・北島交差点)
浜松市天竜区以外の全ての浜松市の行政区を通過し、浜松市内の高速インター・放射状に伸びる主要幹線道路を結ぶ上、ほぼ全線にわたり片側2車線が確保されており、浜松市街地の交通量を減らす上で大きな役割を果たしている。
浜松市浜北区を通過しているが、通過してるのはほんの数十メートルに過ぎない。
浜松市東区笠井~浜松市東区有玉北町(国道152号との交点)の区間のみ未改良(片側1車線)である。遠州鉄道との踏切もあり、朝夕はこの付近が渋滞する。
遠州鉄道との交差部分は高架化工事予定で、現在浜松市などが中心となって浜松環状線踏切除却整備促進事業として土地買収などが進行している。また、この区間は現在4車線化工事中。
三方原町交差点~赤松坂交差点の区間は国道257号(バイパス)と重複する。
伊佐地町から内野入口にかけての信号交差点ではすべてLED式(浜松環状線側のみでそれに交差してる側の信号機はLED化されてない。伊佐地町から東名高速道路浜松西インターチェンジ前迄は小糸工業製が殆どだが、それより北側は信号電材製の薄型信号機や、他メーカーのLED信号機が多い。但し浜松西インターチェンジ前、三方原町、内野入口の交差点では両側ともLED式に変更されている)に変更されている。尚、浜松西インターチェンジ前の信号機には右折分離式信号が加わっている。

▼主な接続路線
国道1号浜名バイパス(坪井IC)
国道1号(坪井町交差点)
静岡県道316号舞阪竜洋線
静岡県道62号浜松雄踏線(南九領橋交差点)
静岡県道325号宇布見浜松線(大久保南交差点)
静岡県道48号館山寺鹿谷線 (伊佐地町交差点)
静岡県道364号湖東和合線
東名高速道路(浜松西IC)
静岡県道261号磐田細江線(葵町交差点)
静岡県道319号村櫛三方原線(葵町交差点)
国道257号(三方原町交差点-赤松坂交差点で重複)
静岡県道318号横尾根洗線
国道152号(内野入口交差点)
静岡県道296号熊小松天竜川停車場線(西ヶ崎交差点)
静岡県道374号浜松袋井線
静岡県道45号天竜浜松線
東名高速道路(浜松IC)
静岡県道261号磐田細江線
静岡県道314号中野市野線(柏木橋交差点)
国道1号浜松バイパス・国道152号(北島IC)

2011年1月28日金曜日

浜松基地の紹介

航空自衛隊浜松基地は、静岡県浜松市西区西山町無番地にある航空自衛隊の基地。浜松飛行場を中心としている。

▼歴史
1925年(大正14年) - 陸軍飛行第7連隊新設
1933年(昭和8年) - 浜松陸軍飛行学校設立
1945年(昭和20年) - 米空軍不時着飛行場として使用
1952年(昭和27年) - 保安隊航空学校設立
1954年(昭和29年) - 航空自衛隊操縦学校、整備学校、通信学校設立
1955年(昭和30年) - 臨時教材整備隊設立,航空団設立
1957年(昭和32年) - 浜松管制分遣隊、浜松気象分遣隊設立
1958年(昭和33年) - 南・北基地が分立し、北基地に第1航空団、浜松管制隊、浜松気象隊が移駐
1960年(昭和35年) - ブルーインパルス編成(北基地)
1962年(昭和37年) - 術科教育本部設立(南基地)
1965年(昭和40年) - 飛行教育集団司令部、宇都宮から移駐(北基地)
1969年(昭和44年) - 教導高射隊設立(南基地)
1971年(昭和46年) - 浜松救難隊設立(南基地)
1976年(昭和51年) - 中部航空音楽隊設立(南基地)
1981年(昭和56年) - ブルーインパルス、松島基地へ移動
1982年(昭和57年) - 航空祭中にブルーインパルスが墜落事故
1985年(昭和60年) - 第6移動警戒隊設立(南基地)
1988年(昭和63年) - T-33AからT-4への機種更新開始
1989年(平成元年) - 南・北基地統合「浜松基地」となる
1998年(平成10年) - 高射教導隊発足。早期警戒管制機(E-767)実用試験隊発足
1999年(平成11年) - 警戒航空隊、第601飛行隊第2飛行班及び早期警戒管制部隊を発足、司令部を三沢基地から移動。航空自衛隊浜松広報館開館。
2000年(平成12年) - 警戒航空隊、早期警戒管制機(E-767)の正式運用を開始。
2004年(平成16年) - 第6移動警戒隊を廃止、解散。
10月3日に開催された航空祭に、「航空自衛隊創設50周年」を記念してアメリカ空軍曲技飛行チーム『サンダーバーズ』が飛来。
2005年(平成17年) - 警戒航空隊、空中警戒管制隊から飛行警戒管制隊へと改編する。
2008年(平成20年)5月:ペトリオットミサイル(PAC-3)の配備を開始

▼浜松広報館
航空自衛隊浜松広報館は、1999年4月に開館した航空自衛隊の広報施設である。愛称は「エアパーク」。航空自衛隊の任務の紹介、使用された各種航空機や現用・過去の各種装備品の展示、全天周シアターなどがある。

▼交通アクセス
浜松駅からの直通バスは1日1便しかなく、多くは自家用車か観光バス(無料駐車場)、あるいは路線バス泉高丘線「泉4丁目」バス停で下車し徒歩10分(約700m)で来場する。

▼航空祭
毎年秋に航空祭を実施しており、「エアフェスタ浜松○○○○」(○には西暦の年号が入る)と称している。ブルーインパルスの展示飛行の他に、航空自衛隊で使用している航空機や米軍から借用した機体などの展示、ブルーインパルスの地上職員による「ジュニア」の演技、各種航空機の展示飛行などのイベントが催される。入場無料。
1982年11月14日の航空祭では「T-2ブルーインパルス」が「下向き空中開花」演技中4番機が墜落、パイロット1名が殉職、周辺住民12名の負傷者を出す事故を起こした。以後浜松基地の航空祭では「宙返り飛行系演技」と「背面飛行系演技」が全面禁止され、「浜松スペシャル」と題した「水平飛行系演技」のみとされた。「T-4ブルーインパルス」に機種改編後も「浜松スペシャル」が続けられていたが、1999年11月14日の航空祭より「宙返り飛行系演技」と「背面飛行系演技」が解禁され、18年ぶりに第一区分の展示飛行を実施した。
夏には「浜松基地納涼祭」(浜松基地 納涼の夕べ)を毎年実施する。当日は南基地の一部を開放し、盆踊り等により地域住民との交流を図っている。入場・参加無料。

▼浜松TACAN
浜松TACANとは、航空自衛隊浜松基地管轄の航空保安無線施設である。基地周辺には、国土交通省管轄の浜松V/Dがある。

■■■浜松・東三河フェニックス■■■
浜松・東三河フェニックスは、2008年より日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)に所属するプロバスケットボールチームである。
浜松市と東三河地区のダブルホームタウン制を採用している。ただし、bjリーグでの慣例から、略称は自治体名の「浜松」となる。旧チーム名は「オーエスジーフェニックス東三河」。bj転籍に伴い浜松市と豊橋市を含む愛知県東三河地区とのダブルフランチャイズとなるため、チーム名は「浜松・東三河フェニックス」に変更となる。ホームアリーナは豊橋市総合体育館のみから静岡県浜松市の浜松アリーナと浜北総合体育館、愛知県東三河の豊橋市総合体育館、豊川市総合体育館に増加する。チーム運営会社は株式会社フェニックスコミュニケーションズとなり、オーエスジー本社は出資企業のひとつとしてチーム運営を継続する他、浜松・東三河地区の企業の出資も仰ぐ。シーズン終了後、オーエスジーフェニックス東三河に所属していた選手は全員移籍選手リストに提示され、川村卓也、朝山正悟といった日本代表級選手がJBLの他チームに移籍し、大口真洋、太田敦也、岡田慎吾、堀田剛司といった選手が浜松・東三河フェニックスに残留した。bjリーグ開幕に先立ち、10月に浜松アリーナでの東京アパッチ戦と、ロシアの強豪でユーロリーグ出場歴のあるMBCディナモ・モスクワとのプレシーズンを敢行した。

▼2種類のアリーナ
浜松・東三河フェニックスは、2種類のコートを使い分けており、浜松地区で開催される場合は浜松フェニックスと書かれたコートを、東三河地区で開催される場合は、東三河フェニックスと書かれたコート使い分けている。なお、旭川で開催された時は東三河フェニックスと書かれたコートを使用した。また、アリーナMCも、浜松地区では高橋正純が担当し東三河地区は加藤昌志が担当している。

■■■浜松商業高校■■■
静岡県立浜松商業高等学校は静岡県浜松市中区にある公立の商業高等学校である。
▼沿革
1899年4月12日 - 乙種程度をもって浜松市元城町齢松寺境内に開設
1901年4月 - 組織を変更して甲・乙両種商業科を設置
1911年9月7日 - 浜松市立商業学校と改称認可
1922年4月1日 - 県立に移管、静岡県立浜松商業学校と改称
1929年4月1日 - 静岡県立浜松第二商業学校(夜学)を併設
1944年3月31日 - 静岡県立浜松第二工業学校に転換、機械科・金属工業科・電気通信科を設置
1946年3月22日 - 静岡県立浜松第二工業学校廃止、静岡県立浜松商業学校に復帰
1947年4月1日 - 新制中学校を併設
1948年4月1日 - 静岡県立浜松商業高等学校と改称、商業科の全日制・定時制課程を設置
1968年4月1日 - 全日制課程に貿易科設置
1971年4月1日 - 全日制課程に経理科と事務管理科を設置
1973年4月1日 - 事務管理科を情報処理科に変更
1978年4月5日 - 硬式野球部が第50回選抜高等学校野球大会で優勝
1990年4月1日 - 貿易科を国際経済科に変更
1994年4月1日 - 全日制課程学科改編(経理科・会計科・情報処理科・国際経済科)
1998年4月1日 - 会計科を廃止
2006年4月1日 - 定時制生徒募集停止

2011年1月27日木曜日

浜松工業高校の紹介

静岡県立浜松工業高等学校は、静岡県浜松市北区にある県立の工業高等学校。三方原台地の広大な敷地に、校舎とグラウンド、充実した実習設備を備える工場棟を持ち、産業の街浜松を支える工業技術者を育成している学校である。校訓は「質実勤勉」である。創立当初は「質実剛健」であったが、1930年に昭和天皇が視察に訪れた際、校長・山本又六(浜松市名誉市民)が「本校の教育方針は、質実にして勤勉を好むの美風を馴致する事に努めております」と述べたところ、天皇が「それは良い」と頷いたことから「質実勤勉」となった。

▼交通
バス
浜松駅バスターミナル13番乗り場より「50 市役所 山の手 医大」線、「56 市役所 萩丘住宅 テクノ 都田」線、「57 市役所 中央署 医科大学」線のいずれかに乗車し、「浜工高前」バス停で下車、徒歩1分
浜北方面より - 「100 医科大学 聖隷三方原」線に乗車し、「浜工高前」バス停で下車、徒歩2分

東名高速 浜松IC より約20分
東名高速 浜松西IC より約10分

■■■浜松西高校■■■
静岡県立浜松西高等学校・中等部は、静岡県浜松市中区にある静岡県立の中高一貫校。略称は中等部については西高中等部、浜松市内では西中(にしちゅう)とも言う。これは浜松市内に西中学校というものはなく、西部中学校しかないので、通常、西高等学校中等部を指す。ただし、西部中学の略称は西中(せいちゅう)であり、紙面上で略称を使用すると非常に紛らわしい。高等学校については浜西、浜松市内では西高でも通じる。ただし浜北西高の地区の人には浜北西高と間違えられる可能性はある。

▼概要
1924年創立の旧制浜松二中の流れを汲む伝統校。初代校長には英語学者の枩田与惣之助が就任。「知・仁・勇」を校訓に掲げ、英国の名門パブリックスクールであるイートン校を手本に「ヤングジェントルマン」の育成を目指した。静岡県西遠地区では浜松北に次ぐ進学校として認知されている。

▼沿革
1924年4月4日 - 静岡県立浜松第二中学校として開校する。
1948年4月1日 - 新学制により、静岡県立浜松第二高等学校となる。
1949年4月1日 - 校名変更により、静岡県立浜松西高等学校となる。
1986年4月1日 - 理数科を設置。
2002年4月1日 - 中等部を設置。
2005年3月31日 - 理数科を閉科。

▼交通
浜松駅バスターミナル 5番ポールより「入野 宇布見 山崎」行き、「イオン志都呂 舞阪駅」行きに乗車。「西高入口」で下車。

■■■浜松北高校■■■
静岡県立浜松北高等学校は静岡県浜松市中区にある県立の高等学校である。1894年創立。旧制浜松第一中学以来の伝統を持つ進学校とされ、東京大学・京都大学へ計30名程度、国公立大学へ計130名程度、早稲田大学・慶應義塾大学へ計120名程度の合格者を毎年輩出している。静岡県内では、静岡県立静岡高等学校と並ぶトップ校である。「自主独立、自主自律」を大切にしている。制服は男子は詰襟学生服、女子は紺ジャケット、スカート、ベスト。略称は「北高」(浜松地区)、「浜北」や「浜松北高」(浜松地区以外)。

▼沿革
1894年 - 静岡県尋常中学校浜松分校として創立。
1901年 - 静岡県立浜松中学校となる。
1924年 - 静岡県立浜松第一中学校と改称する。
1948年 - 静岡県立浜松第一高等学校となる。通信制課程および夜間定時制課程を併置。
1949年 - 静岡県立浜松北高等学校と改称する。
1961年 - 通信制課程を静岡県立静岡城北高等学校に統合。
1991年 - 国際科を設置。

▼交通
遠鉄バス - 浜松駅バスターミナル 1番・15番・16番ポールから乗車し、「浜松北高」バス停で降車。

■■■浜松球場■■■
浜松市営球場は、静岡県浜松市中区上島の四ツ池公園内にある野球場。施設は浜松市が所有し、浜松市体育協会が指定管理者として運営管理を行っている。浜松市は公称30,000人収容としているが、実際の収容可能数(特に外野スタンド)はそれを大幅に下回っており、一説には20,000~25,000人程度といわれる。

▼歴史
1948年、浜松市営球場として開場。両翼91.5m、中堅106m。高校野球、社会人野球などアマチュア公式戦の他、プロ野球公式戦も開催されたが、施設の老朽化に伴い全面改築されることとなり、改築工事は1979年に完工、同年6月に現球場が開場した。プロ野球では中日ドラゴンズ(準本拠地だがナゴヤドームが本来のフランチャイズ)がオープン戦と公式戦を各1~2試合、浜松で主催している。

▼主なエピソード
中日にかつて所属していたアロンゾ・パウエルは、この浜松市営球場との相性が悪かった。パウエルは浜松で2度の災難にあったためか、「もう浜松へは行きたくないよ」が口癖となった。

■■■浜松シティマラソン■■■
浜松シティマラソンは、静岡県浜松市で行われるマラソン大会。 第1回は2005年2月12日に開催された。大会名には「浜松シティマラソン2005」と最後に開催年をつける。浜松市四ツ池公園陸上競技場発着、航空自衛隊浜松基地周辺コースがある。

■■■アクトシティ浜松■■■
アクトシティ浜松は、JR浜松駅北東の浜松市中区板屋町および同区中央三丁目にあり、市有施設と民有施設によって構成される複合施設群である。現在静岡県でもっとも高い高層ビルである。外観は音楽の町浜松を意識してハーモニカをモチーフにしている。旧国鉄浜松駅周辺の連続立体交差化事業による貨物駅機能(現・西浜松駅)の同市中区森田町への移転に伴って市が森田町の土地の代わり(換地)として取得した駅跡地と、後に国鉄清算事業団から市が約400億円で取得した土地をあわせて一体開発した。アクトシティ浜松AゾーンからDゾーンの4つに分かれている。
浜松市と第一生命保険(以下、第一生命)、三菱地所が事業主体となり、1991年に建設を開始、1994年10月7日に落成した(Dゾーンのみ1995年4月落成)。Bゾーンの土地は超高層ビルの建設を含む開発整備の実施を条件として、複数の共同企業体による建築設計競技を経て、市から第一生命と三菱地所に約567億円で売却されたものである。

2011年1月26日水曜日

アクトシティ浜松のゾーンについて

Aゾーン
クラシック専門のホールとして音質設計がされており、音が空から降り注いでくるように聞こえる。浜松出身の鈴木重子など、ここでのコンサートを行う音楽家も多い。
Bゾーン
ホテルオークラ直営のオークラアクトシティホテル浜松をはじめ、多くの企業や店舗が入居する、浜松市のランドマークである。周辺の再開発によって高層ビルの建設が進む2007年現在においても、もっとも高いD'グラフォート浜松 D's Tower(分譲マンション、地上34階建116m)の約2倍の高さをもち、10km以上離れた浜北区内からもはっきりと確認できるなど、ランドマークとしての機能を失っていない。屋上に防災用のヘリポートを備えるほか、浜松市消防局の火災監視用カメラ、テレビ局のお天気カメラ、ラジオ用のマイクロ波中継設備、コミュニティ放送局「FM Haro!(浜松エフエム放送)」のラジオ送信設備などが設置されている。
Cゾーン(展示イベントホール)
展示会などのイベント用に設計された大規模なホールである。広さは3,500m²(35m×99m)であり、間仕切りを設置することにより以下の3区画に分割可能。
Dゾーン(浜松市楽器博物館、研修交流センター)
浜松市楽器博物館は、1995年4月に開館した全国で唯一の公立の楽器博物館で、東洋最大の楽器博物館でもある。アジア・アフリカの楽器の展示の他、明治時代の初め、日本の学校教育に取り入れられた音楽や浜松の楽器産業の歴史、日本の雅楽などの楽器の展示にここならではの特徴が見られ、「楽器の町・浜松」らしい博物館になっている。2006年3月21日に、リニューアルオープンした。近所にある、浜松科学館との間で協力関係にあり、楽器博物館の入場者は、科学館で割引。同じく、科学館の入場者は、楽器博物館で割引などの特典がある。

▼周辺再開発との関係
しかし完成時にはすでにバブルは崩壊していたため、当初計画していたアクトシティを呼び水とする周辺再開発は停滞。具体的な動きを見せるのは2000年以降である。文化政策面では市や県の主催する多くの文化事業に使用され、浜松国際ピアノコンクールや静岡国際オペラコンクールなどの国際コンクールの会場となるなど成功を収めている。民有部のアクトタワーの稼動率の低さが懸念されてきたが、多くの商店やオフィスが駅の北西側に偏っており、アクトシティを含む駅東側は浜松科学館など文化ゾーンとして整備されているため、商業施設としては客を呼び込みにくい状況にある。2007年現在、周辺(中央地区)の再開発が進行中で都心への高層マンション建設が盛んであり、駅南の砂山地区の再開発も準備段階に入るなど、都心への人口回帰の兆しがみられるため、今後の稼働率向上が期待されている。オフィス部に関しては浜松市の政令市移行以降、入居率が上昇しており入居率は95%超と建設以来最高の入居率を記録している。

▼運営
市有施設と民有施設の複合体であることから第三セクター方式による運営であると思われがちであるが、市有施設の運営は財団法人浜松市文化振興財団に、民有施設の運営はオリックス傘下のアクトシティ・インベストメント有限会社に分離されている。市有部は黒字運営を達成しており、文化事業の実施によって市からの補助金を受給しているものの、税金からの損失の補填はない。2005年4月1日には、それまで市有部分の管理運営をしていた財団法人アクトシティ浜松運営財団を、アクトシティ以外の文化施設の管理運営をしていた財団法人浜松市文化協会と統合し、浜松市文化振興財団に再編した。

▼新浜松駅
新浜松駅は、静岡県浜松市中区鍛冶町にある遠州鉄道鉄道線の駅である。東海旅客鉄道の浜松駅と相互乗換が可能。

▼歴史
1927年9月1日 旭町駅として、国鉄(現JR)浜松駅の北東にあたる浜松市旭町に開業。「遠電ビル」と称し、鉄筋コンクリート建ての近代的な建物として完成した。遠州電気鉄道(当時)の本社も入居し、遠州鉄道に改組した後も仮駅舎移転まで使用された。
1953年8月1日 新浜松駅に改称。
1981年2月4日 仮駅舎に移転、営業キロが0.1km短縮。
1985年12月1日 高架化に伴い、浜松駅の北西に移転。旧駅の跡地はのちに浜松名鉄ホテルなどへ再開発された。
1987年12月1日 改札口 - ホーム間のエスカレーター使用開始。
1988年9月14日 遠鉄百貨店オープン。同時に当駅との連絡通路も供用開始。
2004年4月1日 駅舎改装、バリアフリー化工事が竣工。1階 - 改札口のエスカレーターとエレベーター(2基)使用開始。高架下に商業施設「UP-ON」が開業。

▼浜松市動物園
浜松市動物園は、静岡県浜松市西区にある市営動物園。浜松市フラワーパークの北隣で、両者を合わせて舘山寺総合公園を形成する。隣接する浜松市フラワーパークとは園内で繋がっており、「共通券」を購入することで両園を自由に巡ることができる。 霊長類の展示は、国内の動物園としては最大級で、ニシローランドゴリラやスマトラオランウータン・ゴールデンライオンタマリンなどがいる。

▼沿革
1950年(昭和25年)11月1日 「浜松子ども博覧会」が現在の浜松城公園(中区)で開かれ、閉会後の跡地に浜松市動物園が開園。
1982年(昭和57年)4月 アドベンチャーワールド(和歌山県)からニシローランドゴリラのオス・メス各1頭が来園。
1983年(昭和58年)4月2日 西区にある浜松市フラワーパークの北隣の現在地に移転開園。
2004年(平成16年)3月10日 ユニバーサルデザインに基づいた整備工事を完了。
2008年(平成20年)4月4日 ニシローランドゴリラのメスのダイコ(推定31歳)が病死。肺腫瘍と推定される。

▼浜松市フルーツパーク
浜松市フルーツパークは、静岡県浜松市北区都田町4263-1に位置する面積約43万m²の植物園である。通称ははままつフルーツパーク。姉妹園の浜松市フラワーパークとともに財団法人浜松市フラワー・フルーツパーク公社が運営する。第二東名高速道路の浜松浜北SAと、西側エリア(イチゴ園周辺)が接続されることが決まっており、第二東名供用後は、浜松浜北SAから直接利用できるようになる予定。

トロピカルドーム
浜松まつりの大凧をイメージした五角形の温室で、熱帯果樹80種・330本が植栽されている。熱帯果樹温室が続き棟となっており、バナナ、パパイヤ、マンゴーなどが観察できる。

リンゴ並木
長野県飯田市から贈られたリンゴの苗木を浜松市内中学生のボランティアとともに育成している。

2011年1月25日火曜日

浜松城記

浜松城記は、浜松城の起源と歴代の城主、および静岡県浜松市で行われる大凧揚げ行事、「浜松まつり」の起源を記した書物。ただし内容としては誤りが多く、現在では偽書であると見られている(以下本文では「城記」と略す)。


▼「浜松城記」の登場
城記」の初出は1926年、遠州地方の郷土研究誌「土のいろ」第2号に、鈴木肇という人物が掲載した「浜松凧揚起源考」である。「城記」の体裁は、酒井近江守真邑という人物が、元文4 (1739) 年に「徳川御秘書の内」として記したものとなっている。なお、奥付には「酒井近江守真邑」の花押が記されていることになっている。


「起源考」に引く「城記」は、浜松城の歴代の城主の在城期間(江戸時代は藩主としての在任期間)を記したものとなっており、その間に凧揚げに関する記述がされているだけの箇条書きの文書で、分量も活字に直してA4用紙1~2ページ程度である。浜松まつりの凧揚げに関する記述としては、飯尾豊前守(飯尾連龍 ?~1565)の長子義廣の誕生を祝い、入野村の住人佐橋甚五郎が義廣の名前を大書した大凧を揚げたことが起源であると記されている。また、堀尾帯刀・太田摂津守など、凧揚げを奨励したり凧揚げの風習を他所へ広めた城主の記述も見られる。


ちなみに「浜松城記」は、鈴木本人以外だれも見たことがなく、子孫もその所在を知らない。

▼「城記」の定着
「城記」が「土のいろ」に掲載されたころとほぼ同じく1926年「浜松市史 全」が刊行(成稿は1924年12月)され、ここにも「城記」が掲載された。恐らくほぼ同時期に鈴木から「城記」の文章を資料として提供されたものと考えられる。さらに1971年、当時の浜松市教育委員会が新たに「浜松市史」を編纂するに当たり、浜松市でもっとも大きな行事である浜松まつりを取り上げる際、「信憑するような文献に乏しいが」としながらも起源として「城記」を紹介、観光ガイドもこの記述を引用したことから、「浜松城記」は広く市民に知られるようになった。

なぜ「城記」の記述が採用されるに至ったかは現在では不明であるが、おそらく浜松まつりの起源を記した文章で最も古い時代のことが記されているのが、この「城記」だったからであろうと思われる。しかし、「市史」採用の際に適切な史料批判が行われたかという点についてははなはだ疑わしい。「起源考」において「筆者所蔵の浜松城記」と明記されているにもかかわらず、鈴木およびその子孫への資料確認も行われておらず、「城記」は孫引きの状態のまま「浜松市史」に掲載されており、検証はほとんど行われなかったものと思われる。

▼「城記」の検証
「土のいろ」の編集長だった飯尾哲爾は、昭和40年代に「遠州地方における凧揚げの歴史の再検討をしなければいけない」と述べ、「浜松城記」をはじめとする凧揚げに関する資料の再検討・集成を目指していたが、程なく他界。その間に山崎源一ら「飯尾豊前守説話」支持派の郷土史家や観光パンフレットの喧伝などにより、検証すらされていないはずの「浜松城記」が一人歩きをすることになる。


1986年から1987年にかけて、浜松の郷土史家、米田一夫・神谷昌志らが相次いで「城記」を疑問視した文章を発表する。まず、米田は浜松史跡調査顕彰会の会誌「遠江」第9号に「真説 佐橋甚五郎」を掲載、「城記」に疑問を投げかけた。また神谷も自著「はままつ歴史発見」の中で「城記」を批判。しかしこの当時は大きな話題とはならなかった。


この問題が大きく取りざたされたのは1998年以降である。浜松市中央図書館非常勤職員(当時)小楠和正が「城記」に対する疑義を新聞に掲載、同年、静岡大学教授小和田哲男に検証を依頼して「偽書の公算大」との回答を得た。さらに小楠は2001年に自らの調査結果を「検証・浜松凧揚げの起源と歴史」として刊行、話題となった。


神谷、米田、小楠らが指摘する主な問題点としては、次の点が挙げられる。


年号の矛盾(元亀6年・延宝15年などそれ以前に改元されたはずの年号がある)。 城主の在城・在任期間や浜松前後の任地の間違い(太田摂津守は実際には父の備中守資宗が三河西尾藩から浜松に国替えしており、国替えの順序が逆に記載されているなど4箇所)。小楠は浜松関連の古文書を調査した結果、浜松宿の脇本陣の古記録を幕末に集成した「糀屋文書」に同様の誤記が見られることから、「城記」は「糀屋文書」を使って仕立て上げられたものであろうと推測している。


▼浜松市の対応および浜松まつりとの関連について
浜松まつりを統括する「浜松まつり構成4団体」のうち、浜松市・および浜松観光コンベンションビューローでは、これら「城記」否定派の指摘に対して「『城記』にはロマンがあり、否定されるほどのものではない」と反論してきたが、小和田の検証の後より、起源の説明には「城記」の説明を「確かなことは分からない」と表記するようになり、現存する最古の資料として、国学者高林方朗の日記を挙げるようになった。しかし依然として「飯尾豊前守説話」が偽伝であることについては言及されないまま現在に至っており、「城記」による「起源」を信じている市民もいまだに多い。

なお、「城記」は浜松まつりの起源・根拠文書として信じられてきた経緯はあるが、この文書が登場した時期には「浜松まつり」という名称そのものがまだなかった時期で、また一般的に浜松城記が観光パンフレットなどに引用されるようになったのも戦後の話であり、浜松まつりの権威付けのためにでっち上げられた文書と言うわけではない(「浜松まつり」という表現の初出は昭和25年)。「濱松凧揚起源考」には飯尾豊前守を「飯尾学兄の先祖なりと思考す」と書かれていることから、「起源考」の筆者である鈴木肇は「土のいろ」編集長の飯尾哲爾に事寄せて「起源考」を発表したようである。上掲の通り、昭和40年代にはすでに「城記」が信頼に値する史料ではないことが考えられていたにもかかわらず、「城記」の疑問点が一般に知られなかったことに関して、昭和40年代以降の浜松まつりの変容(昭和42年の会場の移転・昭和49年以降の規模の拡大)との関連性も指摘されている。


■■■浜松町■■■
浜松町(はままつちょう)は東京都港区の地名。現在の住居表示では一丁目と二丁目がある。当地域の人口は、1,039人(2008年4月1日現在、住民基本台帳による。港区調べ)。


▼概要
港区北東部に位置し、JR山手線・JR京浜東北線・東京モノレール羽田線の浜松町駅、都営地下鉄浅草線・都営地下鉄大江戸線の大門駅がある。町域の大部分は浜松町駅・大門駅を中心としたビジネス街・商業地であり、ビル街の中にわずかに住宅が混在している。


▼歴史
慶長年間、芝増上寺の代官である奥住久右衛門が名主を務め、当地域が久右衛門町と呼ばれるようになる。
元禄9年(1696年)、遠州浜松出身の権兵衛が名主となり、町名が久右衛門町から芝浜松町に変更される。
明治元年(1868年)、東京府の成立にともない、当地域は東京府の所属となる。
明治5年(1872年)、周辺の武家地を併合し、町域を拡大する。
明治11年(1878年)、芝区の成立にともない、当地域は東京府芝区芝浜松町となる。
明治22年(1889年)、東京市の成立にともない、当地域は東京市芝区芝浜松町となる。
明治44年(1911年)、町名より「芝」の冠称が省かれ、芝区浜松町となる。
昭和7年(1932年)、周辺の神明町・芝新網町・湊町などを編入し、町域を拡大する。
昭和11年(1936年)、浜松町一丁目・二丁目の一部が海岸通一丁目となる。
昭和22年(1947年)、芝区が麻布区・赤坂区と合併して新たに港区が成立する。それにともない町名に再び「芝」の冠称がつき、東京都港区芝浜松町となる。
昭和47年(1972年)1月1日、住居表示の実施に伴い、芝浜松町は現在の浜松町・芝大門の一部となる。

2011年1月24日月曜日

町田市のその他について色々

三輪町及び三輪緑山以外の町田市内は相模原MA(市外局番:042-7)に属するため、神奈川県相模原市の大半のエリア(旧津久井町地区等を含む)や、遠く山梨県道志村月夜野地区まで市内通話扱いとなる。
このうち町田市に割り当てられているのは042-706~710, 042-720~729, 042-732, 042-734~739, 042-770~775(堺地区、相模原市でも割り当てられている)、042-782~783(堺地区、相模原市でも割り当てられている)、042-788~799。
三輪町及び三輪緑山は川崎MA(市外局番:044)に属するため、神奈川県川崎市と市内通話扱い。相模原MAに属する町田市内への通話は県内市外通話となる。
このため、電気通信上では、町田市は神奈川県に属する。そのため、町田市から東京都内の区市町村への通話は県間通話となる。(ただしNTTの管轄は東京支店である)

▼ 町田を舞台とする作品
小説
まほろ駅前多田便利軒 - 三浦しをんによる第135回(平成18年度上半期)直木賞受賞作となった小説。便利屋を営む青年とその相棒の奇妙な日常と共に、舞台となる町田市が東京郊外にある架空の地「まほろ市」として詳細に描かれている。登場するまほろ市内のシーンは、多くが町田市内に実在する場所や店舗を名前を変えるかあるいは伏せた形で記されている。「駅むこうの松の湯」のモデルと思われる「あたみ湯」(中町1丁目)は本作出版直後の2006年春頃に廃業している。
殺人方程式(小説) - 綾辻行人による推理小説。殺人事件の起こった場所は、町田市と相模原市の境界線に流れる境川と横浜線が交わる辺りと見られる。
映画
うなぎ (映画) - 町田市小野路町周辺がロケ地。映画を見れば分るが撮影が深夜帯に行われており、映画の撮影が行われている事を全く知らない一部の住人達との間に多少のトラブルがあったとのこと。(撮影による騒音が問題だったと聞き及んでいる)
コミック・アニメ
神聖モテモテ王国 - 主人公ファーザーとオンナスキーが暮らすアパートが町田市内にあるとみられる(隣室に入居したアンゴルモア大王らが「デビル教団町田支部」を構えている)。
ロリコンフェニックス - ブラックロリータ団の本部は町田市にあり、町田駅近くのヨドバシカメラでは幹部が働いてる。
課長王子 - 主人公の田中王児が利用する駅など町田市内を描写しているシーンがあり、田中一家は町田市内の団地に住んでいると思われる。また、田中王児の声を演じた石井康嗣は、アフレコ後のインタビューにおいて町田について語っていた。
TOKKO 特公 - この町田の団地に突如、穴が出現し、そこからファントムが現れる。このストーリーの重要な都市と言える。

ゲーム
To Heart・ToHeart2 関連 - To Heartの製作スタッフが、舞台は町田市をイメージしたと語っている。

▼町田駅について
町田駅は、東京都町田市原町田にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・小田急電鉄の駅である。

▼駅構造
JR東日本
改札口は中央改札とターミナル口(旧・原町田駅付近)の2か所で、それぞれ2階にある。中央改札は、北側(小田急町田駅西口・バスセンター側)が中央口北口、南側(ヨドバシ側)が中央口南口となっている。ペデストリアンデッキ上の屋根設置に伴い、北口の駅名標の確認が困難な状況になっている。

小田急電鉄
小田急電鉄の管区長・駅長所在駅。町田管区として登戸 - 新百合ヶ丘 - 町田・唐木田間、町田管内として柿生 - 町田間を管理している。

改札口は全部で5か所あり、小田急百貨店の2階に西口(南)・北口(東)・東口(北)・南口(西)が、3階に小田急百貨店口がある(括弧内は実際の方角)。小田急百貨店口は百貨店内に直結しているため、百貨店の営業時間帯以外は利用できない。

駅が南側から北側に向かっての傾斜地にあるため、JRの駅・バスセンターのある南西側(西口側)地平から改札へは地面の高さから上がる必要がある。JR中央口北口と町田バスセンターから西口へはデッキで直接結ばれているが、改札面よりデッキの方が高い位置のため、若干下る。

備考
新宿方に6両編成まで対応の引き上げ線が1本あり、江ノ島線からの列車を中心に当駅で折り返す列車がある。
上り列車を2番ホーム着として、折り返し下りとして運転することも可能な構造である。2009年現在の到着は回送のみであるが、以前は町田2番ホーム止まりの折り返し下り列車が存在していた。

出入口周辺 小田急電鉄の町田駅には、複数の出口が存在する。 北口出口

イタリアントマトカフェジュニア 町田北口店
生そば箱根 町田北口店

北口出口

町田バスセンター ペデストリアンデッキ
西口出口

JR町田駅
町田バスセンター ペデストリアンデッキ
タクシー乗り場
みずほ銀行 町田支店
町田モディ
新光証券
南口出口

三菱東京UFJ銀行 町田支店
南口出口

吉野家 小田急町田駅南口店
東口出口

カリヨン広場
町田駅前交番
マツモトキヨシ 町田東口店
東口出口

町田駅(バスのりば)
POPビル
りそな銀行 町田中央支店

2011年1月23日日曜日

町田駅周辺について

周辺は神奈川県相模原市との市境が近く、JR南口付近は相模原市である。

JR町田駅駅ビル - ルミネ
小田急町田駅駅ビル - 小田急百貨店
駅近隣は、江戸時代末期の鎖国解除直後から、生糸の集散地として栄え、その流れで多くの商店が建ち並んだ。

横浜線原町田駅と小田急線新原町田駅が開業すると駅近隣の発展は急速に進み、1960年代に市内に多くの大規模な団地が建設されると、大丸(町田大丸に分社後、撤退)、緑屋(撤退)、さいか屋(専門店ビルのジョルナに業態転換)、ダイエー(規模を縮小しながらも食料品スーパー「グルメシティ」として営業中)などの百貨店、スーパーマーケットが駅前に進出し、商業地としての地位を確実なものとした。今日では小田急百貨店、109、丸井、長崎屋、西友、モディ、町田東急ツインズ、ヨドバシカメラ、ドン・キホーテ、ジョルナ、ソフマップ、ブックオフ、ザ・ダイソーなどの大型店が林立し、さらには庶民的な商店街や若者向けの店も数多く、神奈川県民も多く訪れる東京都有数の商業地として著しく発達しており、小田急沿線の商業地としては新宿に次ぐ2番目の規模である。

このような大商業地でありながら、周辺の南町田(グランベリーモール)、橋本、新百合ヶ丘、海老名(ビナウォーク)などに開設されたシネマコンプレックスとの競合により、2館あった小規模映画館が閉館したため、当駅周辺に映画を鑑賞できる施設がない。

横浜線原町田駅跡地は再開発され、1983年にバスターミナル・自転車駐車場・自動車駐車場・商業施設・JR町田駅ターミナル口改札からなる「町田ターミナルプラザ」となり、東京急行電鉄が所有する商業棟にはテナントとして東急ハンズが入居した。その後東急ハンズは東急百貨店町田店再編に際し2007年に百貨店とともに一旦閉店し、同年、百貨店を業態変更した専門店ビルである町田東急ツインズに移転した。東急ハンズ移転閉店後の町田ターミナルプラザ・商業棟には2008年5月23日にファーストリテイリングが経営する商業施設のミーナ町田が開店した[4]。町田ターミナルプラザ・ターミナル棟(2階以下は町田市所有、3階以上は東京急行電鉄所有の「駐車場棟」)の1階は町田ターミナル(バスターミナル)、2階は「ターミナルエイト」と称し、名の通り8つの店舗が入れる商用スペースとなっている。しかし、ターミナルエイトは2008年10月現在、2つの店舗しか営業していない。ターミナルエイトと商業棟の間は、「出会いのひろば」と称する子供用遊具が設置されていた広場でつながっている。出会いのひろばの奥には、1983年10月に設置された和田康男作「水のオブジェ」という作品があったが、ミーナ町田の開店に伴い子供用遊具と共に撤去されたが、後に子供用遊具は撤去したオブジェの位置に戻っている。出会いのひろばの北側には「ターミナルデッキ」と称するペデストリアンデッキがあり、JR町田駅ターミナル口から町田中央図書館が入居するホテル ザ・エルシィまでつないでいる。出会いのひろば前のペデストリアンデッキ上には、1983年10月に設置された黒川紀章作「シティゲート」という作品があり、このモニュメントが真南北を示している。

商業地域からJR町田駅を挟んだ反対側エスカレータを降りて目の前にヨドバシカメラがあり、そして徒歩数分の町田市と相模原市の境界線近くに性風俗店やラブホテルが数多く並び、一部では西の歌舞伎町という声もある。2007年4月にはその風俗店などが並んでいる場所から近くの都営住宅などで暴力団による銃撃事件(町田市立てこもり事件)が発生し、暴力団を逮捕するために特殊捜査班が駆けつけ周囲を管轄警察官が立ち入り禁止にするなど騒動になった。銃撃事件発生後は駅周辺の各所に警察官が配置され、治安が強化されている。

JR町田駅から小田急町田駅までの間の通路は通行人の往来が激しい。またマルチまがい商法の勧誘やホストの客引きや風俗店による違法なティッシュ配りなどが激しく、中には歩行者の前に足を出すようにして強引に引き止めるなどの悪質な手口も見られ、これら全般の行為を警察は犯罪率の増加を示しているとして懸念している。

その一方で、駅からしばらく歩くと、緑や公園が多く存在し、緑が豊かな街としての一面もある。駅周辺にある公園のひとつである芹ヶ谷公園(参考)には、町田市立国際版画美術館があり、古今東西の多くの版画が常設展示されている。

東京都町田市と神奈川県相模原市(昔の武蔵国と相模国)の境界とされた境川はかつては激しく蛇行しており、河川改修によって流路が直線化された後も両市間では一部区間を除いて都県境が非常に入り組んだまま残されている。そのため、JR町田駅中央口南側のヨドバシカメラ周辺は境川の北側ではあるが一部は神奈川県相模原市に属する。事実、ヨドバシカメラは入口部分を除きほとんどが相模原市である(店内での盗難などの犯罪は相模原南警察署の管轄となる)。

JR中央口と小田急西口との間にはペデストリアンデッキが2つあるが、丸井側のみに屋根があり、町田モディ側には屋根がない。丸井側が横浜線の駅移転と共に建造されたものであり、JRと小田急の連絡通路として使われたが、やがて常に全体が溢れ返るほど混雑したことから、町田モディ(旧大丸)側にも1993年に追加でデッキが建造された。

JR中央口と町田東急ツインズとの間のペデストリアンデッキ上の広場は「モニュメント広場」と称され、その名の通り、回転する「曲がりくねった棒」でできたモニュメントが存在し、鳩が乗ったまま回転している光景もよく見られた。このモニュメントは1980年に設置された伊藤隆道作「動く彫刻モニュメント」という作品である。この広場にも屋根がなかったため、一時期は傘を貸し出すサービスを行っていたが、2006年末頃にモニュメントを取り囲むような形で布製の屋根が設置された。最近では、このモニュメントが回転している様子が伺えない。

町田東急ツインズのEASTとWESTとの間の道路上の町田駅中央口ペデストリアンデッキ向かいには、将来多摩都市モノレールの町田駅ができることになっているが、用地買収が滞るなどの要因により、モノレールが町田駅まで延伸する目処は立っていない。なお、町田東急ツインズ(旧東急百貨店)の両館の間を結ぶ連絡橋は、この計画があったために5階という高い位置に作られたとされる。

駅周辺の上空は厚木海軍飛行場への空路となっていて、爆音を聞き、空を見上げると軍用機の下部を見ることがある。1964年には駅周辺の繁華街で軍用機の墜落事故(町田米軍機墜落事故)が発生し、事故現場周辺にいた4名が死亡するという惨事もあった。

▼駅名の由来
JR東日本
駅開設当時の「原町田」とは、駅所在地の地名から名付けられた。その後、駅が小田急線町田駅側に移築された事に伴い、「町田」と改称された。当時横浜線の主力だった103系が町田行として走る場合の方向幕では、当初は「町田」に置き換えられずに「原」の文字だけ消されて「 町田」となったものもあった。

改称に際しては、国鉄は当初既に存在していた宮原線(1937年開業→1984年廃止)「町田駅」と駅名が重複していたことから、難色を示した。しかし、大阪府出身の当時の町田市長が、東北本線福島駅(福島市)と大阪環状線福島駅(大阪市福島区)の事例を取り上げ、「既に重複している例はある」と国鉄を説き、改称にこぎつけている。

▼小田急電鉄
「原町田」に新しく設置された駅という意味で「新原町田」として開設された。その後、町田市の玄関口として駅周辺が発展したことに伴い、駅の大規模改良工事完成を半年後に控えた1976年4月に「町田」と改称された。この際、町田市の中心駅なのに「原」というのが駅名に付くのは「おかしい」という意見もあったという。

▼横浜線の駅の移転について
そこで、町田市などは横浜線の駅を小田原線と横浜線の交差地点近くに移設しようと計画したが、これに対して2つの間にある商店街が猛烈に反対を唱えた。というのも、乗り換え客の中には途中でこのような商店街に立ち寄る人も非常に多く、駅が移設してしまうとこのような客がいなくなる恐れがあったからである。その後も反対運動が続けられ、4千人を超える署名が集められた。

2011年1月22日土曜日

南町田駅について

南町田駅は、東京都町田市鶴間三丁目3-2にある東京急行電鉄田園都市線の駅である。「グランベリーモール前」という副名称が付けられている。子会社の東急レールウェイサービスによる業務委託駅。ショッピングモール「グランベリーモール」の最寄駅であることから、土曜・休日は急行(大井町線直通も含む)が停車し、平日は通過する。

▼駅周辺
グランベリーモール開業前まで深夜から早朝の駅前は完全に閑散としていた。

南口は、グランベリーモールと一体となった街づくりとなっていて、欧米の町並みを思わせる風景が広がっている。

東名高速道路 横浜町田インターチェンジ
国道16号
国道246号
グランベリーモール
グランベリーモール郵便局
109シネマズ(シネマコンプレックス)
ケーズデンキ
ニトリ
東京女学館大学
マークスプリングス
鶴間公園

駅名の由来
当初は候補として東急鶴間もあったが、駅所在地の旧村名であり地区名であった、「南村」(1954年、当時の町田町と合併)の南と、町田市の町田、そして町田市の南端に位置していることなどから「南町田」となった。


▼町田警察署
町田警察署は、日本の東京都にある警視庁が管轄する警察署の一つである。警視庁第9方面に属し、町田市の大部分を管轄している。

所在地
東京都町田市旭町三丁目1番3号

電話番号 042-722-0110(代表)
最寄駅:横浜線・小田急線・町田駅

沿革
1893年4月1日 八王子警察署町田分署として創設。
1926年7月1日 町田警察署になる。
1992年8月13日 現庁舎完成。
2004年2月27日 別館が完成。
2009年4月20日 町田市北西部(相原・小山地区)を南大沢警察署へ移管


▼町田市民文学館ことばらんど
町田市民文学館ことばらんど (まちだしみんぶんがくかん ことばらんど)は、東京都町田市の公立文学館。遠藤周作が亡くなった時にその蔵書や遺品の一部が町田市に寄贈されたことから、文学館開設の機運が高まり、当時の市長寺田和雄が、開設準備懇談会を、森村誠一を会長にスタートさせる。4年間の準備期間を経て、2006年に開館した。もともとその地にあった原町田公民館の建物の一部を利用、増改築してつくられた。建物は3階建て。1階に、町田ゆかりの文学者たちの著書とパネル展示、喫茶コーナーがある。2階は企画展示スペースと講堂。3階は、研究会、読書会などの利用のための大小の会議室がある。町田は、江戸期より文人、歌人を多く出している。現在も赤瀬川原平、常盤新平、など現役の作家、著述家、児童文学作家らが多数在住している。

所在地
東京都町田市原町田4-16-17
横浜線町田駅から東に徒歩5分程度。駐車場はない。


▼町田市立陸上競技場
町田市立陸上競技場は、東京都町田市野津田町の市立野津田公園内にある陸上競技場。野津田競技場とも呼ばれる。

概要
かつてはJFL在籍当時の東京ガスFC(現・FC東京)が、準本拠地として使用したこともあったが、現在は日本フットボールリーグ所属の地元のサッカークラブでは・FC町田ゼルビアが本拠地で、町田市を拠点にしている関東大学サッカーの実力校・国士舘大学サッカー部の試合会場としても使用されている。また、2001年11月にはJリーグ2部(J2)の公式戦・川崎フロンターレ対アルビレックス新潟が行われた。

ゼルビアは将来的にJリーグ入りを目指しており、その際現在芝生席となっているバックスタンドを鉄骨製の座席にしたり、ナイター照明設備を新設するなどの改築を検討しているという。 2009年4月より、指定管理者「スポーツパークパートナーズまちだ」が運営している。

アクセス
5番のりば
[鶴32] 小野路経由 多摩センター駅 行
[町36] 五反田・図師経由 町田バスセンター 行
上記の系統の場合、「サンシティ町田」もしくは「新屋敷」下車、徒歩10分。町36系統の場合は「向坂」での下車も可能。
[多04] 豊ヶ丘四丁目経由 多摩センター駅 行
[桜24][鶴31] 永山駅経由 聖蹟桜ヶ丘駅 行
上記の系統の場合、「五反田」下車、徒歩15分。
横浜線・小田急線町田駅から
町田バスセンター2番・7番・11番のりば
町田駅21番のりば(小田急線北口POPビル先)
上記停留所から発車の野津田車庫行(町25・町26・町35・町55・町78)に乗車、「野津田車庫」下車、徒歩10分。

横浜線淵野辺駅(北口)から
[淵24] 登戸行、[鶴37] 鶴川駅行、[淵23] 野津田車庫行に乗車、「野津田車庫」下車、徒歩10分。
すべて神奈川中央交通により運行。なお、FC町田ゼルビアの公式戦開催時には、野津田車庫より神奈川中央交通の臨時シャトルバス(運賃無料)が運行される。

自家用車の場合
東京方面から
世田谷通り・芝溝街道(津久井道)を鶴川方面へ走行、鶴川駅から先は、大蔵交差点を左折、五反田交差点を直進、サンシティ町田先の信号(野津田公園入口)を左折してすぐ。
永山方面から
鎌倉街道を町田方面へ走行、途中からは野津田公園への案内標識に従う。
町田駅・相模原市鵜野森方面から
鎌倉街道を永山方面へ走行、袋橋・綾部原トンネル先の五反田交差点で左折、サンシティ町田先の交差点で左折してすぐ。
駐車場(約100台収容)があり。

主な使用例
FC町田ゼルビアの試合(サッカー)
大学・高校等の各陸上競技
市民マラソン等の市主催関連催事等

2011年1月21日金曜日

町田バスセンターの紹介

町田バスセンターは東京都町田市の町田駅に隣接するバスターミナルである。 町田駅周辺にある別の3つのバス停留所(町田ターミナル・町田ターミナル前・町田駅)及び、廃止された町田駅南口停留所に付いても、ここで記述する。

概要
現在、町田駅周辺には、町田バスセンター・町田ターミナル・町田駅の3つの発着場があり、2002年のデータによると、これら3つを合わせた乗降人員は多摩地区で1位、都内でも渋谷についで2位と非常に多くの人が利用している。

これらの停留所は元々、小田急新原町田駅前に存在した「新原町田駅」と、国鉄原町田駅前に存在した「原町田駅前」の2つの停留所からなり、森野方面のバスは全て「原町田駅前」から「新原町田駅」を経由して運行されていた。しかし、1966年に、新原町田駅~原町田駅前間で当時経由していた町田街道(現在の原町田中央通り)が、大型車通行規制によってバスが通行できなくなり、森野方面のバスは新原町田駅発着とならざるを得なかった。しかし、新原町田駅に操車所は無く、道幅の狭い一方通行路(鶴川街道)を使用しての折り返しを行なう事になった。しかし、これでは一方通行路はバスや乗降客であふれかえり非常に危険な上、混雑もよく起こるようになった(交通マヒ状態。なお、「町田駅」発着のバスは現在もこの一方通行路で運行)。これを改善するため、現在のバスセンター付近に「新原町田駅緊急バスターミナル」を設置した、これにより一部のバスを除き、新原町田駅を経由させ(但し通過扱い)、緊急バスターミナルへ逃がす事で、マヒ状態にあった交通がだいぶ緩和された。なお、この緊急バスターミナルが町田バスセンターの前身である。(この当時、市民ホール方面への広い道は未開通であった)

その後、駅周辺の再開発に伴い、現在の森野駐在所~市民ホール~町田バスセンター間の道路が完成したため、緊急バスターミナル発着のバスはこの道路を経由するようになり、新原町田駅発着のバスは激減した。また、このときに停留所名称が「町田バスセンター」となった。

この後にも、「新原町田駅」停留所が名称を変更され(現在の「町田駅」に)、原町田駅前停留所も「町田駅(国鉄)」に名称を変更、1983年には、「町田ターミナル」停留所が開業、同時にバスセンター~ターミナル間の道路が開業したため、一部路線がこの区間の直通運転を開始した。なお、この時に「町田駅(国鉄)」停留所は規模を縮小し「町田ターミナル前」停留所に変更された。これは、「町田ターミナル」停留所が市条例に付随する規則により、9時から21時(現在は9時から最終便)までしか利用できないため、時間外における代替停留所として残されたものであり、「町田ターミナル」停留所と「町田ターミナル前」停留所は同一停留所と見て差し支えない。

以上の経緯で町田駅前のバス停留所は移設や改称を繰り返しながら、現在の4箇所になったのである。

かつて、JR町田駅の南口に「町田駅南口」停留所(現在のヨドバシカメラ前あたり)が存在した。ただし、発着本数は非常に少ない上にこれといった案内がされることも無く、10年程度でターミナル発着に置き換えられ消滅した。なお、今後町田駅南口停留所が金森地区コミュニティバス用停留所として復活する予定である。

歴史
1930年xx月xx日 町田乗合バス会社(現在の神奈川中央交通)が、原町田駅~図師、原町田駅~鶴間に路線開業。
xxxx年xx月xx日 新原町田駅停留所開業(現在の「町田駅」停留所)。
1966年xx月xx日 原町田中央通り(町田街道旧道)の大型車通行規制により、上宿・本町田方面への路線は、原町田駅発着から新原町田駅発着に変更。
1967年8月10日 大型車交通規制で発生した新原町田駅付近バス運行マヒ対策で、この日から緊急バスターミナルを使用開始(現在の町田バスセンター)。
1970年1月1日 緊急バスターミナル発着の路線を現在の市民ホール方面に抜けるルートに変更。バスセンター本格開業。
1976年4月11日 小田急線駅名改称に伴い、新原町田駅を町田駅に改称。
1980年4月1日 横浜線駅名改称に伴い、原町田駅を町田駅(国鉄)に変更。原系統と町系統を統一。
1981年4月1日 町田バスセンターを改良・使用開始。西友前・島に乗り場がある現在に近い形になる。
1981年12月27日 町田駅南口バス停使用開始。
1983年10月31日 ターミナルプラザ開業により、町田駅(国鉄)を町田ターミナルに改称。バスセンター-ターミナル直通開始。
1988年7月1日 第2次バスセンター改良工事により、新・町田バスセンター使用開始。乗り場・形は現在と同じ配置。
1992年3月29日 町田駅南口バス停廃止。
2009年4月6日 大和営業所 経路変更。町89系統開業。

停留所の位置関係・運行ルート
※以下、「アイランド」は「バスセンター・アイランド」という名称の、バスセンター中央の島状の区画のことで、のりば1~7が該当する。

町田バスセンターはJR横浜線と小田急小田原線の交点付近の、小田急小田原線の線路下周辺にある。両社の駅に最も近く、JR横浜線は中央口、小田急線は西口改札が至近となる。9時~21時までの間は、以下の森野方面の路線がバスセンター経由ターミナル発着として運転される。

[町12]木曽南団地線、[町14][町15][町24]山崎団地線、[町27]小山田線の一部、[町30][町60]橋本駅北口線、[町41][町42]藤の台団地線。
また、成瀬・金森方面のバスは、始発~8時59分発までバスセンター発着(乗車は町田東急ツインズ・ウェストのイースト側の停留所)となり、その間従来のバスセンター8・9番乗り場は降車所として使用される。なお、バスセンター行は「町田ターミナル前」を経由するが、バスセンター発はターミナルを経由しない。

バスセンターの降車所は位置を除き特に決まっておらず、アイランド内到着の場合は「たまたま空いている」乗り場に停車し、降車となる。
日中から夜間はバスセンターの手前(町田市民ホール付近)から町田ターミナルまでのセンターラインより1車線がバスレーンとなっている。
バスセンター外側(のりば10~15)発の運行に付くバスは、多くが朝6時台~9時台までの間で、市民ホール寄りの銀行前(15番乗り場向かい)にある降車場で降車となる。なお、内側(アイランド内)発車のバスに関してはあまり使用しない。

町田ターミナルは、国鉄横浜線原町田駅の旧駅跡地に立てられた再開発ビル・町田ターミナルプラザのターミナル棟1階にあり、JR町田駅の場合は町田ターミナルプラザの商業棟(2007年8月29日まで東急ハンズがテナントであった)2階の西側にあるターミナル口が近い。なお、鶴間車庫前行深夜バス発車後~翌朝9時の間は、ターミナルビル及びバスターミナル使用時間の関係で閉鎖されるため、バスセンター行・玉川学園前駅行・公共施設巡回のみ、道路上に設置されている「町田ターミナル前」バス停で乗降となる。

2009年4月5日まで、午前9時以降の成瀬・金森方面発町田行のバスは、ターミナル止まりでバスセンターまでは運行されなかった。これは9時以降の町田バスセンターに有効な降車所がないためである。現在は[柿20](小田急バス)を除く全便が町田ターミナル前経由、町田バスセンター行となっており、徒歩移動する必要がなくなった。
町田駅は、小田急線町田駅東口から徒歩3分程度で、POPビル前から西へ伸びている。なお、町田駅へのバス経路である市役所前~町田駅間(鶴川街道)が狭隘道路・駅方面への一方通行のため、駅発のバスは八王子方面へ抜ける町田街道の旧道を経由する。なお、ここのみ昔から位置が変わっていない(旧「新原町田駅」停留所)。

乗り入れ社局
本来は、神奈川中央交通のバスターミナルである。

岩手県交通、小田急バス、神奈川中央交通(相模神奈交バス、湘南神奈交バスを含む)、京浜急行バス、京成バス、中国バス、西日本JRバスが運行
担当営業所は以下の通り
岩手県交通
小田急バス(小田急):町田営業所(F)
神奈川中央交通(神奈中):相模原営業所(さ)、多摩営業所(た)、町田営業所(ま)、大和営業所(や)他
京浜急行バス(京急):羽田営業所
京成バス(京成):千葉営業所
中国バス:広島営業所
西日本JRバス 大阪高速管理所
町田ターミナルでの担当営業所は、上記の括弧のように省略して記す。

乗り場詳細
詳しい乗り場・路線は次以降の節に記載。
経由地の括弧で括った箇所は、停留所名では存在しない案内上の方面等。
特記以外は神奈中・町田営業所
備考欄のBTはターミナル始発又はターミナル経由を示し、その後の数字はターミナルの乗り場を示す。
経路(方面)欄のこの書体(ie等では斜体)は、起終点の停留所を示す(その先への運転のない便がある)。
なお、経路表記ではバスセンターを「町田BC」、ターミナルを「町田BT」と略記する。
経由欄はバスの前面・後面方向幕で案内されている経由地。

2011年1月20日木曜日

神奈川中央交通町田営業所の紹介

神奈川中央交通町田営業所とは、神奈川中央交通の営業所の一つ。東京都町田市を主に管轄する。 営業所の略号は「ま」で、別称は野津田車庫。この営業所の西側に、小田急バス町田営業所が隣接する。

沿革
1941年12月15日 - 関東乗合自動車(現・関東バス)から路線譲受。原町田営業所開設(原町田駅前)
1952年2月23日 - 鶴間営業所開設。原町田営業所を鶴間営業所原町田出張所に組織変更
1957年6月25日 - 町田市森野に町田営業所を開設。鶴間派出所に変更(営業所は現在の市民病院前バス停付近向かい)
1964年5月21日 - 町田営業所鶴間操車所開設(鶴間駅前)
1967年8月10日 - 新原町田駅前西口緊急バスターミナル使用開始(町田バスセンターの原型)
1969年8月20日 - 町田市野津田町へ移転
1970年1月1日 - 緊急バスターミナル発着のバスの新原町田駅経由廃止
1970年7月1日 - 鶴間操車所廃止。大和営業所開設
1970年7月27日 - 鶴川駅発鶴川団地行き(鶴11系統)において、日本では初となる深夜バスの運行を開始。
1977年10月11日 - 複数の団地を巡回する「買物バス」の運行を開始。
1980年 - 町田営業所のみ路線系統番号付与
1981年4月1日 - 町田バスセンター使用開始。西友前と島に分かれる現在に近い形
1983年10月31日 - 町田ターミナル開業
1988年7月1日 - 新・町田バスセンター開業。現在と同じ形・乗り場配置になる。また、市民ホール前~ターミナル間にバス専用レーン実施
1990年2月9日 - 管内全路線でバスカード利用開始。
1996年3月2日 - リフト付きバス導入
1996年8月1日 - 管内全路線でバス共通カードに対応。
1997年11月4日 - 町田市民バス「[町28] まちっこ・相原ルート」運行開始
1998年3月 - 路線バス車内で、傘の販売を開始。
2002年6月16日 - 大規模ダイヤ改正。町98・鶴30・鶴34を廃止、山崎団地・藤の台団地方面を2~5分毎から5~10分毎に減便
2007年1月21日 - 小田原機器製の新型運賃箱導入。全車、従来のレシップ製運賃箱・整理券発行機を今回導入した新型に乗せ換え。
2007年3月16日 - 全路線でGPSによるバスロケーションシステムの運用開始。
2007年9月28日 - ICカードリーダー(PASMO・Suica用アンテナ)の設置開始。
2008年1月20日 - PASMO・Suicaの利用開始

現行路線
町田発着

基本的に、町田バスセンターから境川団地・山崎団地・忠生二丁目・上宿方面(町26のみ出入庫のため共管)の各路線は神奈中町田営業所本体で運行、町76系統は相模神奈交委託車で運行、その他の路線は両者の共管となっている。
また、町田ターミナル発着路線の木曽南団地・山崎団地・小山田・藤の台団地線は、始発~9時までと21時以降は町田バスセンター発着となる。
なお、少々例外はあるが他営業所を含め、町田系統の番号は、以下のように付けられている。
町01~:町田営業所担当の、旧・原町田系統(原21、22等)
町04~:相模原市内方面(相模原営業所)
町10番台~:境川団地方面
町20番台~:市民病院経由、上宿/山崎団地方面
町30番台~:忠生二丁目方面/その他
町40番台~:藤の台団地方面
町50番台~:町田駅発着路線
町60番台~:その他
町70番台~:成瀬街道方面(大和営業所)
町80番台~:町田街道方面(大和営業所)
町91~:その他(大和営業所)
町95~:その他

本稿では以下、町田バスセンターを町田BC、町田ターミナルを町田Tと表記する。

玉川学園前駅方面(町03)
町03:町田BC~町田T~消防署前(市役所入口)~南大谷都営前~玉川学園前駅
町03系統は、平日午前中2本のみ運行のいわゆる免許維持路線である。町田BCを出ると町田Tを経由し、その後北進して町田街道へ。小田急線の跨線橋を渡り市役所前交叉点(バス停は通過)を右折。以後は直進して玉川学園前駅に至る。以前は玉川学園前駅の一つ先の「松風台」まで運行していたが、マンション建設と道路建設に伴い玉川学園前駅まで路線を短縮された。

境川団地方面(町11・12・17・78)
町11:町田BC~境川団地
町12:町田T~境川団地~木曽南団地
町17:町田BC~境川団地~忠生高校~矢部八幡~淵野辺駅北口
町78:町田BC~境川団地~忠生高校~忠生三丁目~図師~野津田車庫
町12系統は、町田BCと市内の木曽南団地を結ぶ路線である。境川団地・木曽南団地方面への主力路線。終点木曽南団地停留所の少し先に折り返し場がある。町11系統はその区間便的存在で、平日の朝に運行される。こちらも境川団地停留所の少し先に折り返し場がある。かつてこの町12系統は大和営業所と共管だった。
町17系統は、町田BCから矢部八幡前で左折するまで、直進し続ける路線。木曽南団地~矢部八幡前の間は比較的新しい造成地である。多摩営業所の町29系統(市民病院経由)より運転本数が少ない。
町78系統は、町17系統と同経路で忠生高校まで直進、その後忠生高校で、町33系統が右折する場所では曲がらず、少し先の交差点を右折、上の原・忠生を通り忠生三丁目へ至る。完全な出入庫系統。

山崎団地方面(町13・14・15・20・23・24・25・35)
町13:町田BC~(急行)~木曽入口~山崎団地センター
町14:町田T~(急行)~木曽入口~山崎団地センター~山崎団地
町15:町田T~境川団地~木曽入口~山崎団地センター~山崎団地
町20:町田BC~境川団地~木曽入口~山崎団地センター
町23:町田BC~市民病院~木曽入口~山崎団地センター
町24:町田T~市民病院~木曽入口~山崎団地センター~山崎団地
町25:町田BC~市民病院~木曽入口~山崎団地センター~薬師池~野津田車庫
町35:町田BC~境川団地~木曽入口~山崎団地センター~薬師池~野津田車庫
町田T・町田BCから山崎団地方面へ向かう路線。町田営業所のメイン路線の一つ。日中でも町田BC~山崎団地センター間は5分毎、山崎団地までは10分毎に運行されている。
主力となるのは、市民病院経由の町24系統・町23系統である。町田BCを出ると森野交差点を右折して都道52号(鎌倉街道)へ入り、森野交差点から都道47号(町田街道)へ入る。市民病院・木曽住宅などを経由し、木曽交差点を右折し、山崎団地センターへ至る。町24系統は山崎団地センターから先、給水塔前・北一号・北二号・山崎団地に至る。なお、町25系統は給水塔前から先も直進し、今井谷戸交差点から都道18号(鎌倉街道)に入り、薬師池・袋橋方面へ進む。
境川団地経由の町15・20・35系統は、町田BCを出ると境川団地まで行き、その先の境川団地北交差点を右折、上横町を経由して木曽交差点へ至る。そこから先は、それぞれ市民病院経由の町24・23・25系統と同じになる。なお町20系統はかつては本数が多かったが、現在は町田BC行始発便と山崎団地センター行最終便のみの運転である。また、土休日の午後の山崎団地発町田T行は、境川団地経由の町15系統の方が、市民病院経由の町24系統よりも多く運行されている。。
急行の町13系統・町14系統は、町田T・町田BCと木曽入口から先の各停留所に停車する。運行経路は、境川団地経由の町15などと同じルート。
町田BCでの乗り場は、町14・15・24が4番、町13が5番、町20・23が6番と分けられている。また町25は7番だが深夜バスのみ6番からの発車、町35は境川団地系統と同じ2番からの発車である。なお境川団地方面の深夜バスを兼ねる町15の深夜バスと後述する町61も2番からの発車となる。
なお、時刻表やバスの行先表示器等の経由地表記において、山崎団地センターを「山団センター」と略すことがある。


日大三高方面(町16)
町16:町田BC~(急行)横町・図師大橋~日大三高
町16:町田BC~(急行)横町~(急行・日向根トンネル)~日大三高[1]
町16系統は、往路は朝のみ、復路は夕方のみ運転の通学路線。経路が2つあり、途中横町と図師大橋に停車する経路(図師大橋まで前述の[町78]と同経路)と、横町のみ停車する経路(矢部八幡交差点まで前述の[町17]と同経路)があるが、時刻表や停留所の表記は経路の区別がない。この路線は学生以外でも利用可能であり、日大三高行きはほぼ学生のみであるが、満員でない限り区間利用もできる。ただし途中停留所では時刻表は掲出されていない。

やくし台方面(町37・61)
町37:町田BC~市民病院~木曽中原~町田木曽会館前~藤の台団地~やくし台センター
町61:町田BC→境川団地→山崎団地センター→藤の台団地→やくし台センター→野津田車庫
町37系統は、町田BCを出ると木曽中原交差点で右折し、木曽団地内を経て、山崎団地センターのバス停の真横で藤の台方面へ曲がる。ただし山崎団地センターには停車しない。開業当初は町25系統のルートで薬師池まで来て、その2つ先の交差点を右に曲がり、やくし台団地(現在のやくし台三丁目付近)まで行くルートだった。その後、市議や藤の台団地住民による市民病院への路線運行要請や、宅地造成の進展・道路開業等により、藤の台経由に変更されてやくし台センター行になったが、さらに木曽団地住民からの要請で木曽団地内経由になるなど、度重なるルート変更があった。木曽団地内経由に変更された当初は、それまで停車していた山崎団地センターに停車しなくなることから、当系統専用の山崎団地センター停留所を設けていた。しかし、従来の乗り場とは離れすぎていたため、後に名称を町田木曽会館前に変更している。
町61系統は、町田BCから境川・山団センター・藤の台を経由して野津田車庫へ行く路線。町35系統と同経路で今井谷戸交差点へ至り、その先はやくし台センターまで町37系統と同経路。その先直進してトンネルをくぐり薬師台交差点を右折して都道18号に入り、袋橋~野津田車庫へ至る。現在、平日24時30分頃・25時頃、土曜24時30分頃の深夜バス・野津田車庫行きのみの運転である。深夜バスのため、全線乗り通すと運賃は560円となる (定期券所持の場合は半額)。

2011年1月19日水曜日

町田市民バス・まちっこについて

町18:町田BC→町田T→天満宮前→市役所前→市民病院正門→市民病院前→森野三丁目→保健所入口→町田BC(公共施設巡回)
町28:町田T~市役所前~市民病院正門~市立室内プール~相原~青少年センター入口 (相原ルート・一部区間急行)
町18・町28系統は、町田市民バスとして町田市が運行補助を行っている路線である。それぞれ専用の車両で運行されている。市の補助があるため町18系統は全線均一100円、町28系統は全線乗り通しても300円と、他路線、また町28ではJR+バス利用よりも安くなっている。但し、バス共通カードとPASMO・Suicaは使用できない。なお、東京都シルバーパスは利用可能である。両系統とも平日のみの運行である。

町18系統は、町田BCを出ると町田Tを経由し、三塚交差点を左折して町田街道新道区間へ入る。そのままこれを進み、市役所・五間道路・市民病院正門を経由、滝の沢交差点を左折して町田街道へ入る。その後町田駅方向へ直進し、森野二丁目停留所(但し停車しない)付近の交差点を右折し、すぐに森野一丁目停留所を経由、その後市民ホール付近を左折し駅前通りと合流、町田BCへ至る。専用の中型車で運転。2006年9月8日までは、森野三丁目を左折し五間道路へ戻り、もと来た道を三塚方面へ引返す市民病院付近を循環する路線で、かつて運行されていた町02系統(旧原22系統)市民病院正門循環線とほぼ同じルートを通っていた。
町28系統は、町田T発(町田BCは経由しない)で、版画美術館入口交差点から町田街道へ入り、原町田四丁目へ至る。その先滝の沢交差点まで町18系統と同じルートで運行し、その先は急行区間となる。忠生公園入口交差点で町田街道をそれ、忠生公園前、市立室内プールなど公共施設を経由し、再び町田街道へ戻る。久保ヶ谷戸までが急行区間であり、その先は終点まで各停留所に停車する。JR横浜線相原駅最寄の相原を経て、終点青少年センター入口に至る。運転本数は平日のみ3本の運転となっている。終点の一つ先の大戸は相模原市となるため、他の路線は大戸行きだが、この路線だけは町田市域である青少年センター入口が終点となっている。専用の小型車で運行。

11番乗り場発市民病院・上宿方面(町26・38・39)
町26:町田BC~市民病院~上宿~根岸~図師~野津田車庫
町38:町田BC~市民病院~上宿~根岸~市立室内プール
町39:町田BC~市民病院~上宿~根岸~市立室内プール~日大三高入口~図師~野津田車庫
町26系統は町田BCと野津田車庫を結ぶ路線であり、市民病院・上宿方面の主力である。町田BCを出ると森野交差点を右折して都道52号(鎌倉街道)へ入り、森野交差点から都道47号(町田街道)へ入る。そのまま町田街道を直進し、上宿などを経て根岸交差点を右折して都道57号(芝溝街道)へ入り、直進して町田営業所のある野津田車庫へ至る。
町39系統は、町田BCと野津田車庫を市立室内プール経由で結ぶ路線。町田街道を桜美林学園東交差点で右折し、市立室内プールへ。その先直進し、日大三高入口交差点を右折して都道155号へ。突き当たりの図師大橋交差点を左折して芝溝街道へ入り、野津田車庫へ至る。町田から来た場合、図師大橋~野津田車庫まで乗ってしまうと、町26系統より運賃が高くなってしまう。現在は市立室内プール方面の主力系統であるが、開設当初の主力は市立室内プール止まりの町38系統であり、町39は本数が非常に少なかった。それが1997年頃のダイヤ改正で町39系統が増便されるとともに、町38系統は平日朝1往復のみの運行となった。

12番乗り場発市民病院・上宿方面(町21・22・27・31・36・45)
町21:町田BC~森野三丁目~市民病院正門
町22:町田BC←市民病院←上宿
町27:町田T~市民病院~上宿~根岸~図師大橋~日大三高入口~小山田(多摩営業所と共管)
町31:町田BC~市民病院~上宿~根岸~図師~日大三高東~多摩丘陵病院
町36:町田BC~市民病院~上宿~根岸~図師~小野神社前~五反田~大蔵~鶴川駅
町45:町田BC~市民病院~上宿~根岸~図師~都立野津田高校
町21系統は、町田BCから市民病院正門まで行く短距離路線である。森野交差点は直進し、旭町交差点を右折して都道47号新道を通って市民病院正門へ。町田BC行きは、折り返さずそのまま滝の沢交差点まで進み、左折して町田街道へ入り、後は他の市民病院方面系統と同じ経路で町田BCへ向かう。運行経路は循環経路になっており、実際昔は循環路線であった。今は朝の市民病院正門発がメイン(混雑緩和のため)である。
町22系統は、町26系統の区間便のような形になる。昔は20往復以上あった[2]が、現在は平日朝1本の上宿発の設定のみ。
町27系統は、町田T・BCと市北西部の小山田を結ぶ路線である。町26系統と同じ経路で芝溝街道へ入り、図師大橋交差点から都道155号へ入り、直進して小山田へ向かう。日大三高入口~小山田間沿線は現在宅地造成、道路整備中であり、狭隘区間がある。多摩営業所と共管路線。なお、ほかの町田T発着系統に日中の町田BC発着は存在しないのに対し、町27系統は日中でも一部が町田BC発着となっている。
町31系統は、町田BCと市北部にある多摩丘陵病院を結ぶ路線である。町26系統と同じ経路で芝溝街道へ入り、図師交差点を左折して多摩丘陵病院へ向かう。
町36系統は、町田BCと鶴川駅を市民病院・図師を経由して結ぶ路線。町26系統と同じ経路で芝溝街道を並木交差点まで行き、そこから左折して都道156号へ入る。その先小野神社前交差点を左折、五反田を通り、大蔵交差点で再び芝溝街道へ戻り鶴川駅へ至る。単独運行区間のろう話学校~小野神社前までは1日数本のバスが通るのみ。昔は町26系統と後述の鶴33系統を合わせた経路だった。
町45系統は、途中まで町36系統と同じ経路で、野津田高校入口停留所手前の交差点を右折、細く急な坂を上り終点に着く。学生輸送専用と言っても良いような路線で、本数も非常に少ない。
なお、町16系統が朝の通学時間帯のみの運行のため、それ以後町田BCから日大三高へ向かう場合は町26・27・31・39系統を利用することになる、その為、11・12番乗り場のポールには日大三高への最寄停留所とそこからの徒歩の所要時間が記載されている。

忠生二丁目・小山田桜台方面(町32・34)
町32:町田BC~境川団地~忠生公園入口~忠生二丁目~忠生三丁目~桜美林学園~小山田桜台
町34:町田BC~市民病院~忠生公園入口~忠生二丁目~忠生三丁目~桜美林学園~小山田桜台
町田BCと小山田桜台を境川団地経由で結び、小山田桜台団地へ向かう主力路線である。町15系統と同じルートで木曽入口交叉点へ、その後町田街道へ入り忠生公園入口交差点で右折、忠生公園前を経て山崎小学校南交差点を左折して都道57号へ入る。町田工業高校を経て、忠生四丁目交差点で都道57号を離れる。桜美林学園停留所先の交差点を右折し、直進して小山田桜台入口交差点を左折して小山田桜台団地内に入り、団地内を半周するような形で、終点小山田桜台へ至る。平日・土曜の日中は、毎時1本程度が市民病院経由の町34系統で運行される。なお、町32系統は忠生高校を経由しない。

下山崎方面(町33・66)
町33:町田BC~境川団地~忠生高校~忠生公園入口~忠生二丁目~下山崎
町66:町田BC~市民病院~忠生公園入口~忠生二丁目~下山崎
町33系統は、町田BCと下山崎とを境川団地経由で結ぶ路線で、下山崎へ向かう主力路線である。こちらは町田駅前通りを直進し、木曽南団地を経由し忠生高校南交差点を右折、忠生高校・忠生公園・忠生二丁目などを経由し、山崎団地の西側にあたる終点下山崎へ至る。平日の日中は、毎時1本程度が市民病院経由の町66系統で運行される。

藤の台団地方面(町41・42)
町41:町田T~森野三丁目~菅原神社前~市立博物館前~藤の台団地
町42:町田T~(急行)~市立博物館前~藤の台団地
町41系統は、町田Tと藤の台団地とを結ぶ路線で、朝夕2~10分、日中9分間隔で運行されている。
町田を出ると森野交番前交差点を右折し、都道52号・都道3号(鶴川街道)を経て金井一丁目交差点を左折し、終点藤の台団地へ至る。藤の台団地だけでなく途中区間でも沿線人口が多く、また町田郵便局・警察署・市民体育館・市立博物館といった公共施設を経由するということもあり、日中でも混雑している。また平日6時~7時台の復路や22時台の往路は、乗りきれないほどの乗客がいる。
町42系統は、町田Tと藤の台団地間とを結ぶ急行路線で、町田BCと市立博物館前~藤の台団地間の各停留所に停車する。通過区間に町田郵便局前など町田BCからは町41系統しか経由しないバス停が含まれるため、山崎団地方面の急行に比べると運転本数は少なめである。
なお、神奈中で唯一「42」を付番された系統である。これは、全社的には「42」「49」が欠番となっているが、それ以前の東京バス協会による系統番号付番では考慮されていなかったためであり、既に定着している番号の変更を避けるため、例外扱いとなった。

 町田駅発着路線(町50・51・52・53・55)
町50:町田駅~菅原神社前~藤の台団地~木倉~金井~鶴川駅~センター前~鶴川団地 (買物バス)
町51:町田駅→(本町田団地循環)菅原神社前→ストアー前→南大谷都営前→消防署前→町田駅
町52:町田駅~菅原神社前~木倉~金井~鶴川駅
町53:町田駅~菅原神社前~本町田~薬師池~大蔵~鶴川駅
町54:町田駅~菅原神社前~藤の台団地~木倉~金井~鶴川駅
町55:町田駅~菅原神社前~本町田~薬師池~野津田車庫
小田急線町田駅北側にある町田駅停留所を発着する路線。以下の通りに分類できる。
鶴川街道方面へ向かう路線(町50・52・54)
本町田・薬師池方面へ向かう路線(町53・55)
本町田団地循環線(町51)
町田駅周辺の経路は、町51系統を除く路線は、各方面から来て旭町交差点を左折して町田街道新道を進み、五間道路→図書館前を経て市役所前交差点を右折、市役所前停留所から人通りの多い一方通行の狭隘路を通り、その先の小田急線踏切手前を2箇所右折し、町田駅へ至る。町田駅を出ると、町田街道を保健所前→森野二丁目を経て森野交差点まで直進、右折して都道52号に入り森野三丁目を経て旭町交差点へ至る。この区間は循環経路ではあるが、町田駅をまたいでの乗車はできない。
町50・52・54系統は、鎌倉街道を通り菅原神社で右折、その先は鶴川街道(市立博物館・木倉・金井など)を経由し鶴川駅へ至る路線。町50・54系統は途中藤の台団地を経由する。また町50系統は鶴川駅より先、後述の鶴11系統と同経路で鶴川団地まで運行されており、鶴川駅~鶴川団地間で小田急バスとの共通定期が利用できる。主力である町52系統は藤の台団地を素通りすることもあって、朝や夜の便は大混雑の町41とは対照的にガラガラで走っている。ただし町53・55系統も利用が多いため、併走区間(町田駅~金井小学校入口)での利用者救済の役割を果たしているとも言える。町50系統は「買物バス」としての設定で日中のみの運行。町54系統も町田発は朝の数本及び夜の1本を除き、ほとんど昼間の運行である。鶴川発は朝~夕方まで40分毎程度で走っている。
町51系統は、町田駅を出ると町52系統などと同経路で進み、菅原神社及び日向台交差点を右折して養運寺~南大谷都営前などを経由し、市役所前停留所の真横を素通り、その先は他路線と同様の経路で町田駅へ至る。なお、本町田団地という名称のバス停は存在せず、路線名、バスの行先表示と定期券の券面表示のみの名称である。また町51系統は本町田停留所は経由しない。

町53・55系統は、鎌倉街道を経由して本町田方面へ向かう路線。菅原神社から先、本町田・薬師池などを経て、町53系統は袋橋を右折して芝溝街道を大蔵方面へ走り鶴川駅へ、町55系統は袋橋を左折して芝溝街道を走り野津田車庫へと至る。主力は町55系統であり、町田駅発着路線の中では最も運行本数が多く、利用客も多い。一方、町53系統は町55系統の間合運用的な存在で、本数は少なく40~60分間隔程度で運行される。また町田駅~菅原神社前・金井入口~鶴川駅の相互間を乗り通すと、町52よりも運賃が高くなる。

2011年1月18日火曜日

神奈川中央交通町田営業所の廃止路線について

町田系統
町01:町田BC~団地入口~鵜野森~相模大野駅
相模原営業所で運行されていた町07系統と同じルートを通っていた路線である。なお、町07系統も現在は廃止されて運行されていない。
町02:町田T~市役所前~市民病院正門
2006年9月11日までの町18系統のルートとほぼ同じルートを通っていた路線。但し、バスセンターには行かずターミナル発着であった。原町田駅時代は、原22系統・中央病院循環として、市民病院を循環していた。
町28:町田BC~桜美林学園
現在の町28系統とは違う路線で、桜美林学園の学生輸送用だった。末期は平日片道3本のみ運行。終点の桜美林学園は、「桜美林学園前」や「桜美林学園」停留所とは全く別の場所であり、現在町38・町39・淵30・淵67系統が停車している「桜美林学園東」バス停付近で、特にバス停ポールはなかった。
町47・町48:町田T~本町田団地~藤の台団地~山崎団地センター~境川団地~町田ターミナル
「買物バス」と言う設定の循環路線。町47系統が境川先廻り(右廻り)、町48系統が本町田団地先回り(左廻り)である。1977年10月11日より運行を開始したもので、それまでは団地の住民は居住する団地か駅近辺の商業店舗のいずれかを利用することになっていた。複数の団地を結ぶことで、各団地の店舗を回ることが可能になるとともに、団地間の交流の活性化を図って設定された[4]。
1992年頃は毎日運行であった[5]が、末期は休日昼のみ運転されていた。
上横町~山崎団地センター~藤の台~市立博物館からの乗降のみ、町47・町48どちらの系統でも同額運賃だった。(230円)
町98:藤の台団地~山崎団地センター・上宿~根岸~市立室内プール
「町」系統で唯一、町田駅やBCなどを全く経由しない路線だった。
運行目的は、公団の大規模団地である「山崎団地」「藤の台団地」から市民プールへの輸送用であったが、休日のみ4本運転という少なさや、往復500円という運賃などから、利用者はあまりいなかった。
現在でも、「木曽」「上宿」等一部のバス停で、この路線の表記が見られる。

他の営業所に移管した路線
町29:町田バスセンター~市民病院・上宿・桜美林学園前~淵野辺駅北口
市民病院を経由し淵野辺へ至る路線。相模原へ移管後、さらに多摩営業所へ移管された。
町30:町田ターミナル~市民病院・上宿・矢部~橋本駅北口
矢部方面へのメイン路線。当初相模原・津久井と共管で、全社的にも数少ない3営業所共管路線であった。町田は朝晩のみの担当。後に相模原→多摩の順で移管された。
古02 古淵駅~境川団地~山崎団地センター~山崎団地
当初は町田単独、その後相模原と共管となった後、その後相模原→多摩と移管された。
古03 古淵駅~境川団地~山崎団地センター~藤の台団地
当初は町田単独、その後上記の古02系統と同時に相模原と共管となり、その後多摩へ移管。
桜24 聖蹟桜ヶ丘駅~永山駅~京王多摩車庫~五反田~井の花~鶴川駅
永山方面へのメイン路線。町田担当時は、京王と併せて20分毎に運転されてたこともあった。当初は京王バスとの共同運行、多摩営業所開設により移管された。その後京王が撤退したため、現在は神奈中の単独運行である。

その他、数多く(特に鶴川発着の多摩方面路線・多摩市内の路線・淵野辺発着路線等)が多摩営業所に移管されている。詳しくは多摩営業所を参照。

営業所へのアクセス
町田駅から
町田BC のりば12 [ 町26 ] 図師・野津田車庫 行
町田駅 のりば21 [ 町55 ] 本町田・野津田車庫 行
上記の他の野津田車庫行も利用可能
鶴川駅から
[ 鶴33 ] 野津田車庫 行
この他にも路線はあるが、本数が少ないなどの為に割愛する(下記又は町田バスセンター、鶴川駅、淵野辺駅等の記事を参照のこと)。

バスのりば (野津田車庫バス停留所)
図師方面のりば
町26 図師・上宿・市民病院方面 町田バスセンター 行
町39 図師・市立室内プール方面 町田バスセンター 行
町78 図師・忠生高校・境川団地方面 町田バスセンター 行
鶴37・淵23・淵24 図師方面 淵野辺駅北口 行
袋橋方面のりば
町25 山崎団地センター・市民病院方面 町田バスセンター 行
町35 山崎団地センター・境川団地方面 町田バスセンター 行
町55 本町田・町田郵便局・市役所方面 町田駅 行
鶴33・鶴37 大蔵(鶴川郵便局)方面 鶴川駅 行
淵24 鶴川駅・柿生駅・生田駅方面 登戸 行

▼横浜町田インターチェンジ
横浜町田インターチェンジ(よこはままちだインターチェンジ)は、神奈川県横浜市緑区と東京都町田市の境界付近にある、東名高速道路のインターチェンジである。国道16号・保土ヶ谷バイパス、そして、大和バイパスに連絡している。至近に国道246号が走る。

横浜市・町田市・相模原市など人口の多い区域への最寄の出入り口であるだけでなく、保土ヶ谷バイパス・首都高速道路狩場線・湾岸線・東京湾アクアラインを通って横須賀市方面、東京都東部・千葉県方面に抜けるルートの起点ともなっている非常に重要なインターチェンジである。そのため、流入・流出台数共に非常に多く常に混雑しており、交通量増加に対応して後から設備増強している部分もある為、走行上注意が必要なところもある。

付近の道路
国道246号 (大山街道)
東京都道141号辻原町田線 (町田街道)
横浜市主要地方道18号環状4号線(海軍道路・環状4号)
神奈川県道・東京都道56号目黒町町田線(旧16号)
神奈川県道50号座間大和線(座間街道)
神奈川県道401号瀬谷柏尾線(瀬谷柏尾道路)


▼町田街道
町田街道は東京都八王子市東浅川町の町田街道入口交差点(国道20号交点)から町田市の中心部を通って町田市鶴間の町田市辻交差点(国道246号交点)までを結ぶ道路の通称である。ほぼ全区間、東京湾と相模湾の分水界に沿っている。

概要
町田街道は、町田市を北西から南にほぼ縦断する、町田市内の主要道路の一つとなっている。片側一車線の区間がほとんどで、特に市内南部の区間などでは慢性的な混雑を抱えている。現在多摩境駅付近の拡幅工事を行っている。俗に、「マチカイ」と略されることがある。

滝の沢交差点から三塚交差点までの区間は新道(但し片側1.5車線)が建設され、車の流れはこちらがメインとなっている。旧道は、町田駅脇の小田急線玉川学園8号踏切から町田ターミナル付近まで(原町田4丁目、6丁目)は町田市中心部のメインストリートの一つ(原町田中央通り)となっており、一方通行になっているほか、時間帯や日によって、歩行者天国化するために一部もしくはほとんどが車両通行止めとなる。

また、既存の新道も狭く渋滞が多いため、常盤駐在所交差点から芹ヶ谷公園付近にかけて、更なるバイパス (都市計画道路 町田3・3・36号線) の建設が計画されており、一部が既に供用されている。2007年10月13日には、建設中だった山崎団地~木曽団地内が開通した。(常盤駐在所~木曽団地内は供用済、本町田小学校西側~市民病院東は事業認可取得)但し、このバイパスも片側1.5車線である。なお、将来の多摩都市モノレールを町田駅に延伸する際は、このバイパスが導入空間となる。

現在全ての区間が都道となっている。各区間のデータに関しては下記の項目を参照のこと。

町田街道入口交差点~三塚交差点:東京都道47号八王子町田線
原町田中央通り交差点~三塚交差点:神奈川県道・東京都道56号目黒町町田線(都道47号線と重複)
三塚交差点~金森郵便局前交差点:同上(都道141号線と重複)
三塚交差点~町田市辻交差点:東京都道141号辻原町田線

歴史
幕末から明治時代、八王子を集荷地とし横浜港の輸出を結び最大の貿易商品絹を運ぶ街道として繁栄し、現在は「絹の道」と名づけて記念している。原町田が中継地だったため、町田駅前の旧道には「絹の道」の碑が立てられている。また、町田街道とは別の浜街道と呼ばれる絹の道も存在する。(こちらの浜街道は現在の国道16号の旧道に相当する。町田街道が旧来の道を幅を広げて発展したのに対し、浜街道は軍都計画の為、戦中以降全く新しい道に姿を変えてしまった。)
ただし、当時の「絹の道」は、八王子との間の山越えのルートは国道16号に近い八王子市鑓水付近を通っており、それよりも西の八王子市館町付近を通る現在の町田街道とは、北西部の一部で経路が異なる。
なお、八王子から横浜までの運輸を目的に1908年に横浜鉄道(現在のJR横浜線)が開業している。

2011年1月17日月曜日

その他町田に関する事

FC町田ゼルビアは、東京都町田市を本拠地とするサッカーのクラブチーム。将来のJリーグ入りを目指しているクラブ。

概要
多数のプロ選手を輩出するなどの実績をあげたFC町田(1977年設立)のトップチームとして、また市民のための総合型スポーツクラブ創設に向けた一環として1989年にFC町田ゼルビアが誕生。

愛称の「ZELVIA」は町田市の樹・ケヤキ「zelkova」と、花・サルビア「salvia」を合わせた造語。チームマスコットは2009年より誕生した「ゼルビー」。町田市の「市の鳥」であるカワセミをモチーフとしており、4種類のデザイン候補の中から、サポーター投票によって選ばれた。

総合型スポーツクラブを目指す手段として、「アスレチッククラブ町田」とともに「AC町田スポーツスクール」を運営。ゼルビアの選手たちがコーチとして幼稚園児や小学生を始め300人以上の生徒を抱え、週5日のスクールに加えホームでの試合後にそのままサッカー教室を行うなどしている。


歴史
2003年に後援会組織をNPO法人化しAC町田を設立。

2004年よりチーム運営を委託。竹中穣ら町田出身や縁のあるJリーグ経験者を中心に積極的な補強を敢行。

2005年 東京都社会人リーグ1部優勝・関東社会人サッカー大会優勝。

2006年 関東リーグ2部優勝。同1部へ昇格。

2007年からは川添孝一がスーパーバイザーに就任。関東リーグ1部で12勝1敗1分、2位日立栃木に勝点差10の圧倒的な強さで優勝。全国社会人サッカー選手権大会には関東代表として参加し、2回戦で敗退。第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会では東京都予選決勝で明治大学と対戦し、敗れた。JFL昇格を目指した第31回全国地域リーグ決勝大会では一次ラウンドで敗退した。

▼町田米軍機墜落事故
町田米軍機墜落事故とは、1964年4月5日に発生した航空事故である。

事故の経緯
同日嘉手納飛行場(嘉手納基地)を発進したアメリカ海軍の戦闘機(F8U-2 クルセイダージェット戦闘機)が厚木基地へ向かう途中で故障を起こし、機体が町田市の中心部である原町田(現・原町田二丁目)に墜落した。墜落地周辺では衝撃及び火災により一般市民4名が死亡、32名の重軽傷者を出した。なお、乗員1名はパラシュートで近くの高ヶ坂団地に着地後、米軍病院に収容された。
墜落地は当時の原町田の繁華街の一部をなしていたにもかかわらず、最小限の被害だけですんだ。要因として以下のようなものが考えられる。
60度という角度で墜落したこと
長距離飛行だったため、燃料が残り少なくなっていたこと
ジェット機の空中分解などがほとんどなかったこと
当時の町田市及び周辺住民が迅速な救助作業を行ったこと
墜落機は南南東の方向から墜落したと推測され、この事故の5ヶ月後におきた大和米軍機墜落事故のように、墜落後2km以上の暴滑走という事態が起こっていれば、町田市の中心部は甚大な被害を受けていただろうとは、当時の青山藤吉郎市長の談である。

事故後の経緯
町田市およびその他行政機関の迅速な作業により、生存者の救出や、現場の保全修復が滞りなく行われた。後年起きた米軍機墜落事故にみられた米軍による情報統制や現場介入といったことは行われなかった。
ジョンソン大統領による弔問の覚書があったほか、厚木海軍航空司令官や厚木基地憲兵隊司令官、岩国基地司令官、在日米軍賠償部長などが即座に訪れ、陳謝を行った。
墜落現場には今もなお、墜落機のエンジンが地中深く埋まっているとされる。墜落現場は事故直後は被災者の仮設住宅が設けられたが、今は月極駐車場となっており、墜落現場であったことを示すものは見当たらない。
墜落現場は、国鉄原町田駅が小田急寄りに移転(1980年)するまでは、名実ともに原町田の繁華街の一角であった。町田天満宮を目の前にし、後年小田急寄りの隣接地にはスーパーダイエーの関東一号店ができるなど(今はホテルエルシー、町田市立中央図書館、日本最大級のザ・ダイソーがある)繁栄を誇っていたが、今は中心部の賑わいからは外れてしまっている。

町田郵便局
町田郵便局は東京都町田市にある郵便局。民営化前の分類では集配普通郵便局であった。

沿革
1872年8月4日(明治5年7月1日) - 原町田郵便取扱所として開設[1]。
1875年(明治8年)1月1日 - 原町田郵便局(五等)となる。
1881年(明治14年)8月 - 貯金預所を設置。
1882年(明治15年)11月16日 - 為替取扱所を設置。
1890年(明治23年)4月1日 - 町田郵便局に改称。
1897年(明治30年)3月21日 - 町田郵便電信局となる。
1903年(明治36年)4月1日 - 通信官署官制の施行に伴い町田郵便局となる。
1949年(昭和24年)4月1日 - 大野分室を相模原分室に改称[2]。
1956年(昭和31年)11月1日 - 当局ならびに相模原分室にて電話通話および和文電報受付事務の取扱を開始。
1959年(昭和34年)2月 - 局舎新築落成。
1960年(昭和35年)6月16日 - 相模原分室を廃止。取扱事務は相模台郵便局に継承。
1972年(昭和47年)9月18日 - 町田市中町一丁目から同市旭町三丁目に移転。
1994年(平成6年)7月1日 - 外国通貨の両替および旅行小切手の売買に関する業務取扱を開始。
2007年(平成19年)10月1日 - 民営化に伴い、併設された郵便事業町田支店、ゆうちょ銀行町田店に一部業務を移管。

東京都道47号八王子町田線
東京都道47号 八王子町田線は、東京都八王子市から町田市に至る主要地方道である。この道路は通称町田街道と呼ばれる。俗に、略して「マチカイ」と呼ばれることがある。ほぼ全区間、東京湾と相模湾の分水界に沿っている。

三塚交差点より八王子方面を望む陸上距離:26.774km
起点:東京都八王子市東浅川町(町田街道入口交差点=国道20号交点)
終点:東京都町田市原町田(三塚交差点)
新道区間:東京都町田市旭町=滝の沢交差点~同市原町田=三塚交差点

交差・接続している道路
国道20号(甲州街道、東京都八王子市)町田街道入口交差点、高尾駅前交差点
東京都道46号八王子あきる野線(高尾街道、東京都八王子市)町田街道入口交差点
東京都道173号上館日野線(北野街道、東京都八王子市)館町交差点
東京都道48号鍛冶谷相模原線(東京都町田市)大戸橋交差点
東京都道506号八王子城山線(東京都町田市)相原十字路交差点
東京都道171号相原停車場線(東京都町田市)相原駅入口交差点
国道16号八王子バイパス相原IC(東京都町田市)
国道16号(東京都町田市)相原交差点
東京都道158号小山乞田線 多摩ニュータウン入口交差点
東京都道503号立川相模原線 小山交差点
東京都道57号相模原大蔵町線 根岸西交差点
東京都道47号八王子町田線 滝の沢交差点
東京都道52号相模原町田線 森野交差点
東京都道3号世田谷町田線 原町田中央通り交差点
東京都道140号川崎町田線
東京都道47号八王子町田線 三塚交差点
東京都道56号目黒町町田線 三塚交差点
東京都道141号辻原町田線 三塚交差点

東京都道56号目黒町町田線
神奈川県道・東京都道56号目黒町町田線は、神奈川県横浜市瀬谷区と東京都町田市を連絡する県道・都道(主要地方道)である。

概要
起点:神奈川県横浜市瀬谷区目黒町 目黒交差点(国道246号)
終点:東京都町田市原町田2丁目1/2/7/8番地の交差点(東京都道・神奈川県道3号世田谷町田線・神奈川県道・東京都道140号川崎町田線交点)
延長
神奈川県道:
東京都道:3,769m(上位路線との重複区間を除く)
面積
神奈川県道:
東京都道:35,537m
都市計画路線:町田3.4.37
都道認定要件:主要地と主要地とを連絡する道路

2011年1月16日日曜日

熊本県の紹介

▼地理
九州本島の中央部に位置し、福岡、大分、宮崎、鹿児島の各県と境ば接しゅるとよ。海上で有明海ば隔てて長崎県とも接しゅるとよ。東部に世界最大級のカルデラば持つ阿蘇山や九州山地の山々かしょびえ、西部は熊本平野か有明海に、八代平野及び葦北地方のリアス式海岸か不知火海に面しゅるとよ。そん間に宇土半島かつきやし天草諸島に続いとる。

▼気候
気候は太平洋側気候で温暖ばってん、冬と夏で寒暑の差か激しか。冬は阿蘇地方の九州山地や阿蘇山では毎年多量の積雪となり、最低気温も氷点下まで下かることかえらいたくさん、真冬日にもなりやしゅい。寒気か流れ込むと山頂では稀に-20℃近くまで下かり、厳しい寒しゃとなるとよ。 夏では熊本市周辺か35℃以上の猛暑だけん、30℃以下の気温か続き冷涼な気候たい。阿蘇山では最高気温か30℃ばちかっぱえることかまるっきし無か。降水量もえらいたくさん年間ば通してから2000mm以上たい。

一方、熊本市周辺で夏場では気温か35℃ば越しゅ猛暑になることも少なくなか。冬では最低気温か氷点下まで下かることもあっけんか、降雪・積雪は山地や内陸とは少なか。

▼県名の由来
豊臣秀吉により肥後に封ぜられた加藤清正か「熊本」とゆう文字ば使ったと謂われ、そい前は「隈本(隅本とも)」と書いたとよ。

「隈」の字か畏(おそいる、かしこまる)の字ば含む(あっけんいは「隅」の字か「しゅみっこ、端、奥、目立たなかところ」やらなんやらの意味ば持つ)ために、武将の居城の名に相応しくなかとゆうことで、猛々しい「熊」の字ば充てたといわれとる。
熊本県にきんしゃーことば「来熊(らいゆう)」、帰ることば「帰熊(きゆう)」と表現しゅることかあっけん。

小西行長か関ヶ原の戦いで敗れ滅亡しゅると、加藤清正かそん領地ば併しぇ52万石の領主となりよった。清正は名城熊本城ば築き、また河川・水路ば改修してから耕地ば広げ生産力の向上に努めたため治水の名人としてから崇められたとよ。ばってん清正の死後、息子忠広の代に改易しゃれ、代わっち細川氏か54万石の領主となりよった。(熊本藩)支藩としてから宇土藩、熊本新田藩かあっけん。また、家老の松井家は八代城の城代としてから、3万石ば与えられており、事実上の八代支藩の藩主やった。他に肥後国内にな、相良氏か治める人吉藩かいったとよ。

1871年(明治4)、肥後国には熊本県と八代県か設置しゃれた、熊本県はそん後白川県と改められ、1873年、白川県と八代県か合併してから白川県となりよった。1877年(明治10)、もいっかい熊本県に改名しゃれ、現在の熊本県か誕生したとよ。

主に戦前までは熊本か九州の中心とみなしゃれ、熊本鎮台・第五高等学校やらなんやらか設置しゃれたか、戦後の経済発展に伴い、そん役割は次第に福岡県へと移っちいったとよ。

第五高等学校教師としてから夏目漱石・小泉八雲か熊本市に住んでいたことかいり、森鴎外も第12師団軍医部長としてから熊本市に赴任したこともあっけん。熊本での体験か彼らの文学にふとか影響ば与えとる。

▼県内に拠点事業所のある主要企業
パナソニックコミュニケーションズ(玉名郡和水町)
富士フイルム九州(菊池郡菊陽町)
日本ポリグル(熊本市・天草市)
NECセミコンダクターズ九州・山口(熊本市、球磨郡錦町)
フランソア(熊本市)
九州相模ハム(熊本市)
興人(八代市)
日本製紙(八代市)
メルシャン(八代市)
ヤマハ熊本プロダクツ(八代市)
ヤマハ天草製造(上天草市)
YKK(八代市)
第一紡績(荒尾市)
チッソ(水俣市)
インターテック(菊池郡菊陽町)
テセック熊本(上益城郡益城町)
ワイエイシイ(菊池郡大津町)
三井ハイテック熊本(菊池郡大津町)
ルネサステクノロジ(合志市)
ルネサス九州セミコンダクタ(菊池郡大津町)

▼県内に本社のある主要企業
熊本県酪農業協同組合連合会(熊本市)
リバテープ製薬(鹿本郡植木町)
ヤマックス(熊本市)
南星電機(菊池市)
丸美屋(熊本市)
熊本酸素(熊本市)
化学及血清療法研究所(熊本市)
高橋酒造(人吉市)
繊月酒造(人吉市)

▼交通
空港
熊本空港
天草飛行場

鉄道・軌道
旅客輸送ば行っちいる鉄道。

九州旅客鉄道(JR九州)
九州新幹線
鹿児島本線
豊肥本線
肥薩線
三角線
熊本市交通局(熊本市電)
熊本電気鉄道
南阿蘇鉄道
くま川鉄道
肥薩おいんじ鉄道

バス事業者
熊本県に事業拠点ば置く路線バス事業者。

九州産業交通グループ
熊本市交通局(熊本市営バス)
熊本電気鉄道(熊本電鉄バス)
熊本バス
西鉄バス大牟田
南国交通

航路
重要港湾:熊本港・八代港・三角港
旅客航路
熊本港~本渡(熊本フェリー)
島原港~熊本港:九州商船・熊本フェリー
島原港~三角港:三角島原フェリー(2006年8月29日に廃止)
多比良町(長崎県雲仙市国見町)~長洲:有明フェリー
茂木(長崎市)~富岡(苓北町):安田産業汽船
口之津~鬼池(五和町):島原鉄道

▼マスメディア
新聞
熊本日日新聞
有明新報(本社は福岡県大牟田市。県内では荒尾市、玉名郡南関町及び長洲町ば販売範囲としとる)
日刊人吉新聞

テレビ
NHK熊本放送局
熊本放送(RKK)(TBS系列)
テレビくまもと(TKU)(フジテレビ系列)
くまもと県民テレビ(KKT)(日本テレビ系列)
熊本朝日放送(KAB)(テレビ朝日系列)

ラジオ
NHK熊本放送局(AM・FM)
熊本放送(RKK)1197KHz(JRN・NRN系列)
エフエム熊本(FMK)(JFN系列)
熊本シティエフエム(FM791) 79.1MHz (コミュニティ放送局)
エフエムやつしろ(愛称:かっぱFM)76.5MHz(コミュニティ放送局)
エフエム小国(愛称:グリーンポケット)76.5MHz(コミュニティ放送局)
過去にはエフエムたまな(コミュニティ放送局)も存在したか、2006年4月ばもっち閉局。

2011年1月15日土曜日

埼玉県の紹介

埼玉県な、日本の関東地方中央西側に位置しゅる県たい。日本の都道府県中人口と県内総生産は共に第5位、人口密度は第4位でいずれも内陸県の中では最も多か。


▼県名の由来
埼玉県(現在の埼玉県の東半分)設置当時の県庁ば南埼玉郡岩槻町(現:しゃいたま市岩槻区)に置く予定やっため、そん郡名がら埼玉県と名付けられたとよ。
但し、県庁としてから使える建物かなかったため、実際の県庁業務は北足立郡浦和宿(現:しゃいたま市浦和区)にあっけん旧浦和県庁舎で行われたとよ。そん後、熊谷県か群馬県と旧入間県部分(現在の埼玉県の西半分)に分けられ、旧入間県部分か埼玉県に編入しゃれた際、県庁所在地は引き続き浦和宿のままとなりよったため、岩槻町(資料により岩附とも記しゅ)か実質的な県庁としてから機能しゅることはなかったとよ。1890年(明治23年)9月25日にな、勅令により正式に浦和町か県庁所在地となりよった。
埼玉の名前の由来は諸説あっけんか、発祥の地は「北埼玉郡埼玉(しゃきたま)村」(現:行田市大字埼玉)たい。

埼玉古墳か由来としゅる説や、幸福ばもたらしゅ神の働きば意味しゅる「幸魂」(しゃきみたま)がら名づけられたとしゅる説かあっけん。魂は玉の意ばってんいり、県章であっけん勾玉に関連しゅるとよ。
奈良時代の『万葉集』に「前玉」「佐吉多万」(しゃきたま)とゆう記述かあっけん。また、平安時代の『和名類聚抄』には「埼玉」「佐伊太末」(しゃいたま)とゆう郡名かいり、当時、既にしゃいたまと呼ばれとる事か分かるとよ。


▼地理
埼玉県は日本の関東地方に属しゅる県で、北関東エリアの中心地たい。
埼玉県は関東地方の中央西側に位置しゅる内陸県でいり、東西約103km、南北約52kmと東西方向に長か。日本の都道府県中面積か9番目に狭いか、最も狭い都道府県であっけん香川県の約2倍の面積ば有しゅるとよ。
旧律令国においてな、現在の埼玉県の領域は下総国に含まれとった東端部の江戸川沿いの地域ば除き、武蔵国に含まれとった。武蔵国には東京都、及び神奈川県の北東部も含まれるこげなら、埼玉県は武蔵国の中部・北部にいたるといえるとよ。

埼玉県の地形な、児玉・小川・飯能ば走る八王子構造線によっち、そん東側の平地部と西側の山岳部に分けられるとよ。

西側の長野県境は日本海側との分水嶺ば形成してからおり、そん南端に位置しゅる甲武信ヶ岳は千曲川、荒川、笛吹川(富士川の支流)の源流であっけんとともに、埼玉県・長野県・山梨県の県境となっちいるとよ。そん北には県最高峰であっけん三宝山(2,483m)かあっけん。

東部は旧日光街道の沿線ば中心としゅる地域でいり、中部同様やはり南北に細長か地域たい。郡・旧郡による地区分類では概ね南埼玉地区・北埼玉地区・北葛飾地区かこれにいたるとよ。

1978年にな、行田市埼玉にあっけん しゃきたま風土記の丘(現しゃきたま古墳公園)の稲荷山古墳のなかがら、錆びた鉄剣か発掘しゃれ、のち奈良にあっけん元興寺文化財研究所へ持っち行き調べた所、表裏に金象嵌で115文字の銘文かあっけんことかわかり注目ば浴びたとよ。

1871年 - 廃藩置県ば受けて、埼玉県(現在の中央地域・東部地域に相当)入間県(現在の西部地域・北部地域・秩父地域に相当)か誕生。埼玉県の県庁所在地は当初岩槻町としゃれたか、旧浦和県庁ば流用しゅる形で浦和宿となりよった。入間県の県庁所在地は川越町に置かれたとよ。

1876年 - 熊谷県は分割しゃれ旧入間県域か埼玉県と合併、現在の埼玉県か成立。
地元出身の渋沢栄一、福澤桃介やらなんやらか活躍、日本の近代化に貢献しゅるとよ。
1883年7月28日 - 日本初のあたき鉄「日本鉄道」か開業。
1922年 - 埼玉県で初めての市としてから川越市か市制施行。

2001年(平成13)3月28日 - 埼玉高速鉄道線か開通。
2001年5月1日 - 浦和市、大宮市、与野市の3市か合併してから「しゃいたま市」となる(初のひらかな書き県庁所在地)。
2001年10月13日 - Jリーグ公式戦オープン記念試合において、Jリーグ史上最大の観客ば動員しゅるとよ。
2002年(平成14)6月 - サッカーワールドカップか開幕。埼玉スタジアム2002では準決勝やらなんやらか催さるる。
2003年4月1日 - 川越市か埼玉県内で初の中核市に指定さるる。
2003年9月 - 上田清司か埼玉県知事に就任。


▼県内の主な施設
埼玉県本庁舎(しゃいたま市浦和区)
県議会議事堂(しゃいたま市浦和区)
県公安委員会(しゃいたま市浦和区)
県警察本部(しゃいたま市浦和区)
埼玉県警運転免許センター(鴻巣市)
埼玉県立文書館(しゃいたま市浦和区)
埼玉会館(しゃいたま市浦和区)
埼玉県立図書館
埼玉県立浦和図書館(しゃいたま市浦和区)
埼玉県立熊谷図書館(熊谷市)
埼玉県立久喜図書館(久喜市)
埼玉県立歴史と民俗の博物館(しゃいたま市大宮区)
しゃいたまスーパーアリーナ(しゃいたま市中央区)
彩の国しゃいたま芸術劇場(しゃいたま市中央区)
彩の国くまかやドーム(熊谷市)
埼玉スタジアム2002公園(しゃいたま市緑区)
埼玉県立近代美術館(しゃいたま市浦和区)
埼玉県立しゃきたま史跡の博物館(行田市)(旧・埼玉県立しゃきたま資料館)
埼玉県立嵐山史跡の博物館(比企郡嵐山町)(旧・埼玉県立歴史資料館)
埼玉県立自然の博物館(秩父郡長瀞町)(旧・埼玉県立自然史博物館)
埼玉県立川の博物館(大里郡寄居町)(旧・しゃいたま川の博物館)
しゃいたま文学館(桶川市)
埼玉県平和資料館(東松山市)
しゃいたま水族館(羽生市)
こども動物自然公園(東松山市)
SKIPシティ(川口市)
埼玉県県民活動総合センター(北足立郡伊奈町)


▼遊園地等
東武動物公園(南埼玉郡宮代町・白岡町)
狭山すいとーー場(所沢市)
ゆり園(所沢市)※旧名ユネスコ村自然散策園ゆり園(かつてユネスコ村の一部やったことに由来しゅるもの)
航空公園(所沢市)
埼玉県平和資料館(東松山市)
埼玉スタジアム2002(しゃいたま市緑区)
しゃいたま市浦和駒場スタジアム(しゃいたま市浦和区)
しゃいたま市大宮公園サッカー場(しゃいたま市大宮区)
しゃいたまスーパーアリーナ(しゃいたま市中央区)
西武ドーム(所沢市)
鉄道博物館(東京都千代田区の旧交通博物館の移転ば受け、2007年10月14日しゃいたま市大宮区に開館)
埼玉県営大宮公園野球場(しゃいたま市大宮区)

県下にな、以下の40市9郡29町1村かあっけん。町の読み方は「ちょう」ではなくどいでんが「まち」たい。地域圏・広域行政圏ごとに記載しゅるとよ。なお、埼玉県は日本の都道府県の中で「市」の数かいっちゃん多か。

2011年1月14日金曜日

熊本弁の紹介

熊本弁(くまもとべん)な、熊本県地方で話しんしゃっとぉうちらん言葉の方言の一種。

ただ、一口に「熊本弁」といっちも、県内各地にはしゃらに独自の方言かあっけんことはゆうまばってんなか。以下に事例としてから登場しゅる各方言も、あっけん地域(典型的には熊本市とそん周辺地域)で限定的に用いられとる可能性かあっけんことばいらかじめ断っちおく。


▼特徴
熊本人か標準語ば話しゅときの音の高低は少なく、基本的に平坦たい。そんため、他県人にはややぶっきらぼうにや怒っちいる様に聞えることしゅらあっけん。

1907年(明治40)に発表しゃれた紀行文『五足の靴』でな、一行か鹿児島本線ば熊本に向かう途中、植木駅での売り子の呼び声ば描写してから「植木の停車場(しゅてーしょん)では餅ば売るとよ。其呼び声は『もち』では無くつて、唯単に『も』たい。」とあっけん。

熊本弁は今日ばってん尊敬語かよく使われる方言と言われるとよ。「~(してから)いらっしゃる」の意味で「~(し)よらしゅ」「~(し)よんなはる」ば多用しゅる(ばってんくさ「~(し)よらしゅ」な、県内ばってん地域によっちは「~(し)やかる」とゆう意味合いで用いられるけん注意か必要)。

今日標準語で敬語ばばり意識的に使うのと異なり、これらの語は人によっちはほとんど無意識的に使われ、時には目下や動物にまばってん使うため、熊本弁は比較的丁寧な方言であっけんとゆう印象ば受ける人もいるとよ。

熊本県荒尾市出身で、自身のネタに熊本弁ば交えるお笑いタレント・ヒロシの影響で、2005年~2006年位に女子高校生の間で起った方言ブームで、熊本弁はよく使われた(「~とっちゃん」「とっとっと」「~ばい」やらなんやら)。ばってんくさ、荒尾市は隣接しゅる福岡県大牟田市と方言か似とるけん、ヒロシのイントネーションはどちらかとゆうと熊本弁より大牟田弁に近い。


▼用例
「うつ・くらわしゅ」(=叩く・くらす・ぶつ) … こん前では「うつ・うったくる」の方か多用さるる。熊本県民か相手ば威嚇しゅる際には「うたるっぞ、ぬしゃ!」(=ぶん殴っちやろうか、てめぇ!)と、よく使うとよ。ケロロ軍曹のメインキャラの一人(一匹?)タママか攻撃ば行う際にゆう「んだるっぞ、ぬっしゃぁ~!」はここがら来とる。

「鍛われる(きたわれる)」(=鍛えられるとよ。厳しく指導ば受ける) … 厳密には方言やないか、こん様な場合「もまれる」等か多用さるる現在においても熊本ではこいの方か多用さるる。「新人なら、きたわれにゃんたい」(=新人なら、鍛えられんけんとつまらんね)。

「くびる」 (=結ぶ)… 厳密に言えば方言やないか、現在いまり使われんけんこん表現ば熊本では普通に使用しゅるケースか多か。「新聞紙ばくびっとっち。」(=新聞紙ば(紐で)結んでおいて。)

「とっとっと」 … 熊本独自の方言とゆう訳やないか、九州の方言としてから最も有名な言葉のフレーズの一つ。これに対しゅる肯定的な答え方は一般的に「とっと・とっとー」。

「腐る」(=ねまる・でけんになる) … 九州地方の方言で熊本ばってん使われるとよ。「こん牛乳、ねまっとっとうとー」(こん牛乳、腐っちいる)ねまる程でなくても痛んでいて食べなか方かよか状態、また機械・物品等か壊れてしもうた、人としてから良くなか、状況的に悪い等の意味合いもあっけん。

「いっちょん」(=まるっきし・いっちょん)… 九州の方言としてから最も有名な言葉のフレーズの一つで、もちろん熊本ばってん使用しゅるとよ。「いっちょんわからない」(いっちょん解らんけん)

「うつくしか」(=きれい) … 「犬か餌ばうつくしゅう平らげた」(犬か餌ばきれいにたいらげた)ばってんくさこれば使用しゅるのは年配者かえらいたくさん、元々共通語で「美しい」は話し言葉としてからは一般的ではなく「綺麗」か一般的でいり、熊本ばってんこん前は「きれいか・きれか」ば用いる場合か多か。

「せからしか」(=うるさい・やかましい)… 九州の方言として最も有名な言葉のフレーズの一つで、もちろん熊本でも使用する。「せからしかったい!」(=うるさいんだよ!)ただし最近の熊本では「うるしゃー・うっしゃー」のが多用される傾向にある。
「たいぎゃ・たいが」(=とても、かなり)… 英語で言うveryに相当。熊本人が表現を非常に強調したい際に使用される。「たいぎゃ食いよらしたばい」(かなり食べてましたよ)その他この手の表現に「まうごつ・まっご」「なば」「だご」「そーにゃ」「ごろ」等、地域・人によって多彩なバリエーションが存在する。(例)「だご、あくしゃうつ!」(=すごく頭に来る!・非常に困る!)熊本市出身の森高千里は、「たいぎゃ」を「この街」(1991年)の中で用いている。

「まばゆい・まばゆか」(=まばいか) … 「まばいかがら窓ば閉めちゃんない」なら「まばゆか(まばいか)けん窓ばしめてはいたい。」げな。こん前の人は「まぶしか」とゆう人か多か。共通語で「まばゆい」は文章語としてからしか使わんけんか、熊本弁では口語で使う人もいるとよ。

「ひともじ」 … わけぎ・小ねぎ。ひともじば湯かき、小しゃく折っちまとめ、酢味噌ば掛けた物ば「一文字のぐるぐる」とよか、熊本の郷土料理の一つ。

「もっこす」 … 「肥後もっこす」と言えば、熊本県民性を語るときにまちがいなく出てくる言葉。頑固者、偏屈者の意味。

「ばっちん」は逆接「ばってん」「ばってんなから」「ちゃろうばってん」の意。県外ばってんよく知られる熊本方言の1つ。「英語のbut thenかこん語の語源であっけん」との説か一時期まことしやかに言われたか、偶然の一致で、現在これば本気にしゅる者はおらん。

「~けん」は順接「~やけん」ばいらわしゅ接続助詞。「寒かがら外出したむなか」なら「寒かけん外に出よごんなか」げな。これは熊本弁に限らず、中国、四国地方で使われる「~けん」「~けえ」と同様の用法で、熊本弁と云うより西うちらん言葉と云わんねうとよ。

「ばっ!?」 … たまがったときに熊本県人の口がらつい出てなおす感動詞。ほとんどの場合で絶句ばともなうとよ。そん他「わいたー!?」等も使われるとよ。テレビ熊本か2004年に「ば。か生まれるテレビ」とキャッチフレーズとしてから使用。

「しゃしおり・しゃしより」(=とりま、しゃしいたり) … 「しゃしおり、生ビールば2つ」(=とりま、生ビールば2つ)。 熊本県人か標準語と誤解しとる言葉の一つ。

「~きる・しきる」 (=~しきる)… 基本、熊本に限らず九州地方で使用さるる。「オレ、6面作りきる」(=オレ、6面ば作ることかしきる)。「もう食べきらん」(=もう食べられんけん)。

「リバテープ」 … 本来は熊本県の企業リバテープ製薬株式会社の事ばってん、熊本では「リバテープ」=「絆創膏」の意味で使用しんしゃっとぉケースか多か。

「汽車」 … 通常は蒸気機関車もしくはディーゼル機関車に用いられるか、JR・あたき鉄等の「電車」でいっちも「汽車」と表現さるる場合かえらいたくさん、「電車」と熊本で言えば「市電(路面電車)」か「菊池電車」の事ば指しゅ。ばってんくさ、阿蘇地方や人吉地方の山間部やらなんやらの一部区間でな、現在もJRでディーゼル機関車か運行しとる。
「まち」 … 「町」ではなく「街」の意味で、熊本市内の熊本城下の中心街ば指し、「まちに行こう」と言ったらこん辺に行くったい事ば表しゅ。ちなみに熊本県で「市内」と言えば熊本市ば指しゅ。


▼熊本弁が登場する作品
薹か立つ(森高千里、1996年)
森高は熊本市出身。
生きたらよか(関島英樹作詞・作曲・歌) 「帰らんちゃよか」の題でばっちん荒川、島津亜矢によっちカバー。
作者か熊本県出身。歌詞は「・・・やけん」(熊本市周辺では「・・・だけん」となる)等、関島の出身地であっけん荒尾市周辺の特徴か表れとる。


▼漫画
巨人の星
主人公星飛雄馬の高校野球時代がらのライバル左っかわ門豊作か熊本県出身とゆう設定でいり、彼は架空の人物なからあっけん時期最もよく知られた「熊本県人」の一人やった。
ただ漫画あっけんいはアニメで彼か話しゅ「熊本弁」な、むしろ九州外の読者・視聴者のイメージに合わしぇた「最大公約数的九州弁」とゆうべきもけんいったとよ。ちなみに彼か熊本がら呼び寄しぇて一緒に住んでいた弟・妹たちな、基本的に熊本弁(らしき言い回し)は用いておらん。

セクシーコマンドー外伝 しゅごいよ!!マサルしゃん(うしゅた京介、1995~1997年)
作者は熊本県出身でいり、ヒロインの北原ともえ(モエモエ)か時折熊本弁ば話しゅ。単行本では熊本弁講座もあっけん。

ケロロ軍曹(吉崎観音、1999年4月~)
作者か長崎・熊本・鹿児島出身(生まれは長崎県諫早市)ばってん、熊本の滞在か長かったのか少年期か熊本げなか、熊本弁やいきなりだご・デコポンやらなんやらの熊本の物か出てくる比率かばり高い。
ケロロ軍曹の父親か使うほか、息子のケロロ軍曹や彼の部下であっけんタママ二等兵も怒った時やらなんやらに熊本弁ば話しゅ。

2011年1月13日木曜日

広島は平和記念都市

原子爆弾が投下された歴史を踏まえ、広島市は自らを平和記念都市として、平和の確立と核兵器の廃棄を求める活動を活発に行っている。

爆心地周辺は、広島平和記念公園として整備され、原爆ドームは1996年ユネスコの世界遺産に登録された。
核被爆地としての意味を強調する場合、カタカナでヒロシマと表記することがある。これは長崎も同様である。

広島市は1889年4月1日の市制制度制定時に市制が施行された全国31都市の1つで、それ以後は周辺の郡に所属する町村を吸収合併していった。その中で安佐郡全域は1973年までに広島市に吸収され、佐伯郡も大竹市・廿日市市・江田島市などとに分割されて消滅した。 これに対し、安芸郡の町村も広島市への統合が進んだが、周囲が全て広島市に囲まれた府中町、あるいは三方が広島市に接する海田町などは広島市との合併を選択せず、現在でも独自の町制を維持している。これは府中町にマツダの本社、海田町にも同社の関連企業があり、法人税などによって財政基盤が強い事も理由と考えられている。そのため、広島市では1975年に合併した旧矢野町地域が飛地となっている。 しかし、合併を選択しなかったこれらの町でも住民の日常生活や社会基盤整備では広島市との関係が深く、広域での水道や交通網の整備が進められている。

「国際平和都市・ヒロシマ」の歴史や知名度を背景として、第二次世界大戦で大規模な被害を受けた都市と姉妹都市・友好都市関係を締結する例が多い。なお、ハワイのホノルルに関しては、広島県が日本有数の日系人移民送出県だったという関係も持っている。

広島市は、中国地方あるいは中国・四国地方を管轄する国の出先機関や企業の支社が集中し、地方内で最も高い拠点性を有することから、有力な支店経済都市の一つとなっている。ただし、中国地方を1つの地方区分とする場合は、広島市がほぼ全ての拠点機能を独占しているのに対し、大阪市の拠点が近畿・中国・四国をまとめて管轄する場合、福岡市や北九州市の拠点が山口県西部地区を管轄する場合もあり、広島市が拠点性を独占するまでには至っていない。中国・四国地方を1つの営業エリアとする企業に限ってみると、広島市を拠点とする割合は、2007年12月末時点で、77.1%に留まっており、地方拠点をほぼ100%に近い値で独占する札幌市、仙台市、福岡市とは異なっている。

この地方では、瀬戸内工業地域内の各地に主に工業を中心とした有力企業が分散立地し、地域圏ごとの工業出荷額に応じて業務機能や都市機能が分散して、人口集積や第三次産業において抜きん出た都市圏、すなわち、プライメイトシティがつくられなかった。また、京阪神と九州北部の二つの地域に挟まれる形の地勢も影響して、広島市のテレビ局制作のブロックネットが少なく、広島市を中心とした地方としての一体感が醸成されなかった。

そのため、七大都市圏の中心都市の比較では、卸売および小売の年間販売額において6番目となっているが、ほぼ同じ面積の中国地方と南東北(域内人口や域内県民総生産合計が中国地方の3/4以下)で比べると、中国地方の中心都市・広島市の年間販売額は、南東北の中心都市・仙台市をやや上回っている程度、南東北とほぼ同じ域内人口・域内GDPの北海道の中心都市・札幌市からはやや水をあけられており、広島市は、背景人口・GDPの大きさの割りに地方全体に対する流通・小売の抜きん出た中心とはなっていない。

国土交通省の調査においても、広島を最大志向先とする高速道路流動は、鳥取西部、島根、岡山、山口東部であり、鳥取東部は大阪を、山口西部は福岡をそれぞれ志向し、実際の中国地方の範囲よりも小さくなっている。

このように、地方全域から見た広島市は必ずしもプライメイトシティとなっていない。しかし、「日本の縮図」や「日本の平均値県・地域」という語に代表されるように、平均的な人口世代分布を持ち、経済・社会・文化・商業・工業の様々な要素をバランスよく保持した「万能型都市・地域」となっているのが特徴であり、全国発売前の新商品の試験販売が行われる都市・地域としても有名である。またテストマーケティングを行う際、商品のCMが他県に漏れることがないよう、テレビの電波が県内で収まる、という条件においても、広島は適しているとも言われている。

なお、テストマーケティングが行われる場所として、他に宮城県や静岡県が有名だが、広島の場合、西日本における平均値県としての位置づけの他に、「新しいモノに飛びつき易い」という県民性がある、と見られることから、新商品の試験販売にうってつけであると言われている。

地下鉄は後述のアストラムラインの一部区間を除いて走っておらず、都市内交通の中核は路面電車が担っている。このため広島は「路面電車(チンチン電車)の街」として有名であり、広島電鉄の運行する路面電車の路線長や車両保有数・乗降客数は日本一の規模を誇る。世界的に路面電車に注目が集まるなか、「路面電車(チンチン電車)からLRTへ」と、人と環境に優しい交通機関へと変化しつつある。また、原爆で被災した車輌(被爆電車)を運行したり、旧型車の運行を行うなど観光客誘致にも力を入れている。 なお広島電鉄の名が示すとおり鉄道線も保有している。宮島線がこれにあたり、市内線と同様の車両が使用されるものの運賃体系や専用軌道、運行ダイヤなど若干趣きが異なる。

2011年1月12日水曜日

さいたま市(埼玉市)の紹介

さいたま市な、埼玉県の南東部に位置しゅる市で、同県の県庁所在地たい。政令指定都市。

▼地理
日本の首都であっけん東京の都心部がら北に約20-30km、関東平野の中央部に位置しゅるとよ。埼玉県の南東部にいたるか、県内の区分では中央地域とさるることか一般的たい。

内陸にあっけん市としてからは札幌、京都に次ぐ人口ば有しゅる一方、面積は217.49平方キロメートルでいり、政令指定都市としてからは川崎、堺に次いで3番目に狭い。ばってんくさ、埼玉県内では秩父市に次いで2番目に広い。

▼歴史
1980年(昭和55年)10月 - 県南中央地域の都市間相互のゆるやかいな連合ば掲げ、浦和、大宮、上尾、与野、伊奈町の4市1町および埼玉県による「埼玉中枢都市首長会議」か発足。
1982年(昭和57年)4月 - 従前の首長会議の名称ば「埼玉中枢都市圏首長会議」に変更。
1982年(昭和57年)9月 - 「埼玉中枢都市圏構想・基本構想」策定。
1985年(昭和60年)12月 - 「埼玉中枢都市圏構想」の名称ば「しゃいたまYOU And Iプラン」(構成4市1町の英表記頭文字ば組み合わしぇた名称)に変更。

1992年(平成4年)4月 - 国土庁か4市1町の圏域ば「埼玉中枢都市圏域業務核都市基本構想」としてから承認。

2000年(平成12年)9月25日 - 合併関連議案ば、3市の市議会か可決。
2000年(平成12年)12月22日 - 合併関連議案ば、埼玉県議会か可決。

2002年(平成14年)3月20日 - しゃいたま市か、埼玉県知事・埼玉県議会に政令指定都市移行促進について要望。
2002年(平成14年)6月28日 - 埼玉県議会か、「政令指定都市の指定促進に関しゅる意見書」ば可決。

2004年(平成16年)12月20日 - 合併関連議案ば、埼玉県議会か可決。

▼地区
旧浦和市は埼玉県庁か置かれて以来裁判所、県警察やらなんやら行政機能か集積し、埼玉県の行政の中枢としてから発展したとよ。また「鎌倉文士に浦和画家」とゆう言葉がらも分かるごと、旧浦和市は瑛九や高田誠やらなんやらえらいたくさんの画家の活動の舞台ばってんいっり、いっぺんにサッカーの盛んな地としてからも知られるとよ。また、旧市内には埼玉大学や浦和高校、埼玉県立浦和図書館か設置しんしゃっとぉために、現在ばってん旧浦和市地域の市民の教育レベルか高いと言われ、「文教都市」ともいわれとる。
旧大宮市は明治時代の熱心な鉄道誘致により、大宮駅北側に国鉄大宮工場か建てられ、南側(旧与野・浦和両市にもまたかる)に貨物操車場か設置さるるやらなんやら「鉄道の街」と呼ばれるごとなりよった。戦後、えらいたくさんの大企業か埼玉県内の営業拠点としてから大宮ば選んだために商業、業務機能か集積し、「経済都市」とも言われ、埼玉県の商業の中心地となりよった。そんため、大宮には埼玉県内全域はもとより栃木県、群馬県、東京都がらもえらいたくさんの買い物客か訪れるとよ。また東北・上越新幹線か開業後に、両新幹線の沿線では盛岡・新潟と並び、特に新幹線効果ば享受した都市としてから知られるとよ。なお、旧与野市や旧浦和市にもまたかる貨物操車場は1984年に廃止しゃれたか、そん跡地は後にしゃいたま新都心となりよった。
旧与野市は国道17号沿いに自動車関連工場や自動車ディーラー店かえらいたくさん建てられたため、「自動車の街」と呼ばれとった。
旧岩槻市は東武野田線・岩槻駅東口ば中心としてからひな人形ば専門としゅる人形店か集積してからおり、「人形の街」としてから全国的に知られるとよ。東京7号線(埼玉高速鉄道)の延伸か計画(蓮田まで)しゃれており、ほぼ同じルートだと言われる武州鉄道のときに果たしぇなかった、東京都心への直通列車の完成か待たれとる。

▼浦和と大宮の関係
埼玉県庁の位置に関してから
埼玉県でな、明治維新以降度々県庁の位置ばめぐる綱引きか行われており、そんえらいたくさんに浦和・大宮か関わっちきたとよ。1869年以降県庁か置かれる浦和、交通の要衝であっけん大宮、旧城下町でいり一時は埼玉県庁の設置か予定しゃれとった岩槻と、県庁ばめぐる様々な動きの渦中にいった三つの街か、一つの大都市となる珍しい経緯ば持つことになりよった。

1871年(明治4年) - 7月、廃藩置県により岩槻藩か岩槻県になるとよ。11月、岩槻・浦和・忍の3県か合併してから、埼玉県か誕生。太政官は県庁ば岩槻町におくよう達したか、県令野村盛秀の巡視の結果、当分の間旧浦和県庁で執務か行われることとなるとよ。
1876年(明治9年) - 8月、熊谷県のうち旧入間県部分と埼玉県か合併、現在の埼玉県の領域かほぼ確定しゅるとよ。こん際、県庁所在地は浦和宿となりよった。

1897年(明治30年) - 12月15日、埼玉県議会か熊谷町への移転建議ば可決。ばってん、翌1898年(明治31年)1月27日、内務省より「不可」との通知か下るとよ。

▼過去の合併構想
第二次世界大戦前がら浦和と大宮の合併(官選の宮脇梅吉知事による「大埼玉市構想」やらなんやら)や蕨、川口やらなんやらば巻き込んだしゃらにふとか規模か構想しゃれたこともいったか実現さるることは無かったとよ。

1927年(昭和2年) - 宮脇梅吉か埼玉県知事に就任。浦和・大宮・与野の三町と六辻・三橋の二村の合併による一大都市圏構想ば打ち出しゅ。当時、埼玉県内で市制ば施行したのは川越市だけやった。
1931年(昭和6年) - 宮脇梅吉かもいっかい埼玉県知事に就任。日進ば加えて三町三村の合併による「大埼玉市構想」としてから打ち出しゅ。
1933年(昭和8年) - 熊谷・川口か相次いで市制ば施行。合併論か再燃しゅるとよ。
1934年(昭和9年) - これば受けて、「埼玉県南水道組合」(後の埼玉県南水道企業団で、現・しゃいたま市水道局)か設立。後の合併の礎となるとよ。
1939年(昭和14年) - 浦和市か、与野・六辻と戸田・蕨等の一市三町六村での合併ば呼びかけ。大宮町も、浦和・与野との一市二町での合併案で対抗しゅるとよ。
1940年(昭和15年) - 埼玉県か仲裁に入り、大宮案での合併交渉に入るとよ。六辻・日進ば加えて一市三町五村での合併で一応の合意。ばってん、各論ではがちゃぽんか続出してから交渉は打ち切りとなるとよ。
1942年(昭和17年) - 与野町で大宮市への合併運動か起きるとよ。
1943年(昭和18年) - これば受けて、埼玉県知事の大津敏男は浦和・大宮・与野との二市一町での合併構想ば打ち出しゅ。
1954年(昭和29年) - 埼玉県か、いわゆる「昭和の大合併」の合併試案で、二市一町と大久保・土合の二村ば加えての合併試案か示さるる。またもや、各論ではがちゃぽんか続出してから交渉は打ち切りとなるとよ。

▼名称問題
市名公募の結果でな、『しゃいたま市』とゆう名称は2位でいり、1位は漢字の『埼玉市』やった。また合併ば構成しゅる各市の名称ば用いる案は『大宮市』か3位、『浦和市』か6位、『与野市』は100位以内に入らなかったとよ。公募後、新市名検討委員会は『埼玉市』(公募1位)・『しゃいたま市』(2位)・『彩都市』(5位)・『しゃきたま市』(7位)・『関東市』(37位)の5案ば市名候補としたとよ。

『埼玉』の地名な、本来は埼玉郡埼玉村(現在の行田市大字埼玉〈しゃきたま〉)に由来しとる。こん事がら、『埼玉』の由来とは無縁で、北足立郡に属しゅる本地域にできた市か『埼玉』『しゃいたま』ば称しゅる事にな、「僭称地名だ」としゅる否定的な意見かあっけん。また、行田市がら、行田市周辺か将来合併しゅる時に用いる可能性かあっけんがらとゆう理由で新しか名称に『埼玉』『しゃいたま』ば使わんで欲しかとゆう要望も出たか、これはしゅでに浦和市・大宮市・与野市合併協議委員会の新市名発表の後でいり、考慮しゃれなかった(なお、しゃいたま市発足後に合併した旧岩槻市は南埼玉郡に属しゅる)。 単に市名ばひらかなんしゅる事に対してからな、いっぺん期に合併か行われた『東かかわ市』『しゃぬき市』(いずれも香川県)やらなんやらと共に批判も多か。ばってん、こん『しゃいたま市』『東かかわ市』以後、全国各地でひらかな名称の市町村や企業か続々と誕生しとる。なお、中国語やらなんやらでの表記は『埼玉市』たい。

2011年1月11日火曜日

埼玉県の紹介

埼玉県な、日本の関東地方中央西側に位置しゅる県たい。日本の都道府県中人口と県内総生産は共に第5位、人口密度は第4位でいずれも内陸県の中では最も多か。

▼県名の由来
埼玉県(現在の埼玉県の東半分)設置当時の県庁ば南埼玉郡岩槻町(現:しゃいたま市岩槻区)に置く予定やっため、そん郡名がら埼玉県と名付けられたとよ。
但し、県庁としてから使える建物かなかったため、実際の県庁業務は北足立郡浦和宿(現:しゃいたま市浦和区)にあっけん旧浦和県庁舎で行われたとよ。そん後、熊谷県か群馬県と旧入間県部分(現在の埼玉県の西半分)に分けられ、旧入間県部分か埼玉県に編入しゃれた際、県庁所在地は引き続き浦和宿のままとなりよったため、岩槻町(資料により岩附とも記しゅ)か実質的な県庁としてから機能しゅることはなかったとよ。1890年(明治23年)9月25日にな、勅令により正式に浦和町か県庁所在地となりよった。
埼玉の名前の由来は諸説あっけんか、発祥の地は「北埼玉郡埼玉(しゃきたま)村」(現:行田市大字埼玉)たい。

埼玉古墳か由来としゅる説や、幸福ばもたらしゅ神の働きば意味しゅる「幸魂」(しゃきみたま)がら名づけられたとしゅる説かあっけん。魂は玉の意ばってんいり、県章であっけん勾玉に関連しゅるとよ。
奈良時代の『万葉集』に「前玉」「佐吉多万」(しゃきたま)とゆう記述かあっけん。また、平安時代の『和名類聚抄』には「埼玉」「佐伊太末」(しゃいたま)とゆう郡名かいり、当時、既にしゃいたまと呼ばれとる事か分かるとよ。


▼地理
埼玉県は日本の関東地方に属しゅる県で、北関東エリアの中心地たい。
埼玉県は関東地方の中央西側に位置しゅる内陸県でいり、東西約103km、南北約52kmと東西方向に長か。日本の都道府県中面積か9番目に狭いか、最も狭い都道府県であっけん香川県の約2倍の面積ば有しゅるとよ。
旧律令国においてな、現在の埼玉県の領域は下総国に含まれとった東端部の江戸川沿いの地域ば除き、武蔵国に含まれとった。武蔵国には東京都、及び神奈川県の北東部も含まれるこげなら、埼玉県は武蔵国の中部・北部にいたるといえるとよ。

埼玉県の地形な、児玉・小川・飯能ば走る八王子構造線によっち、そん東側の平地部と西側の山岳部に分けられるとよ。

西側の長野県境は日本海側との分水嶺ば形成してからおり、そん南端に位置しゅる甲武信ヶ岳は千曲川、荒川、笛吹川(富士川の支流)の源流であっけんとともに、埼玉県・長野県・山梨県の県境となっちいるとよ。そん北には県最高峰であっけん三宝山(2,483m)かあっけん。

東部は旧日光街道の沿線ば中心としゅる地域でいり、中部同様やはり南北に細長か地域たい。郡・旧郡による地区分類では概ね南埼玉地区・北埼玉地区・北葛飾地区かこれにいたるとよ。

1978年にな、行田市埼玉にあっけん しゃきたま風土記の丘(現しゃきたま古墳公園)の稲荷山古墳のなかがら、錆びた鉄剣か発掘しゃれ、のち奈良にあっけん元興寺文化財研究所へ持っち行き調べた所、表裏に金象嵌で115文字の銘文かあっけんことかわかり注目ば浴びたとよ。

1871年 - 廃藩置県ば受けて、埼玉県(現在の中央地域・東部地域に相当)入間県(現在の西部地域・北部地域・秩父地域に相当)か誕生。埼玉県の県庁所在地は当初岩槻町としゃれたか、旧浦和県庁ば流用しゅる形で浦和宿となりよった。入間県の県庁所在地は川越町に置かれたとよ。

1876年 - 熊谷県は分割しゃれ旧入間県域か埼玉県と合併、現在の埼玉県か成立。
地元出身の渋沢栄一、福澤桃介やらなんやらか活躍、日本の近代化に貢献しゅるとよ。
1883年7月28日 - 日本初のあたき鉄「日本鉄道」か開業。
1922年 - 埼玉県で初めての市としてから川越市か市制施行。

2001年(平成13)3月28日 - 埼玉高速鉄道線か開通。
2001年5月1日 - 浦和市、大宮市、与野市の3市か合併してから「しゃいたま市」となる(初のひらかな書き県庁所在地)。
2001年10月13日 - Jリーグ公式戦オープン記念試合において、Jリーグ史上最大の観客ば動員しゅるとよ。
2002年(平成14)6月 - サッカーワールドカップか開幕。埼玉スタジアム2002では準決勝やらなんやらか催さるる。
2003年4月1日 - 川越市か埼玉県内で初の中核市に指定さるる。
2003年9月 - 上田清司か埼玉県知事に就任。


▼県内の主な施設
埼玉県本庁舎(しゃいたま市浦和区)
県議会議事堂(しゃいたま市浦和区)
県公安委員会(しゃいたま市浦和区)
県警察本部(しゃいたま市浦和区)
埼玉県警運転免許センター(鴻巣市)
埼玉県立文書館(しゃいたま市浦和区)
埼玉会館(しゃいたま市浦和区)
埼玉県立図書館
埼玉県立浦和図書館(しゃいたま市浦和区)
埼玉県立熊谷図書館(熊谷市)
埼玉県立久喜図書館(久喜市)
埼玉県立歴史と民俗の博物館(しゃいたま市大宮区)
しゃいたまスーパーアリーナ(しゃいたま市中央区)
彩の国しゃいたま芸術劇場(しゃいたま市中央区)
彩の国くまかやドーム(熊谷市)
埼玉スタジアム2002公園(しゃいたま市緑区)
埼玉県立近代美術館(しゃいたま市浦和区)
埼玉県立しゃきたま史跡の博物館(行田市)(旧・埼玉県立しゃきたま資料館)
埼玉県立嵐山史跡の博物館(比企郡嵐山町)(旧・埼玉県立歴史資料館)
埼玉県立自然の博物館(秩父郡長瀞町)(旧・埼玉県立自然史博物館)
埼玉県立川の博物館(大里郡寄居町)(旧・しゃいたま川の博物館)
しゃいたま文学館(桶川市)
埼玉県平和資料館(東松山市)
しゃいたま水族館(羽生市)
こども動物自然公園(東松山市)
SKIPシティ(川口市)
埼玉県県民活動総合センター(北足立郡伊奈町)


▼遊園地等
東武動物公園(南埼玉郡宮代町・白岡町)
狭山すいとーー場(所沢市)
ゆり園(所沢市)※旧名ユネスコ村自然散策園ゆり園(かつてユネスコ村の一部やったことに由来しゅるもの)
航空公園(所沢市)
埼玉県平和資料館(東松山市)
埼玉スタジアム2002(しゃいたま市緑区)
しゃいたま市浦和駒場スタジアム(しゃいたま市浦和区)
しゃいたま市大宮公園サッカー場(しゃいたま市大宮区)
しゃいたまスーパーアリーナ(しゃいたま市中央区)
西武ドーム(所沢市)
鉄道博物館(東京都千代田区の旧交通博物館の移転ば受け、2007年10月14日しゃいたま市大宮区に開館)
埼玉県営大宮公園野球場(しゃいたま市大宮区)

県下にな、以下の40市9郡29町1村かあっけん。町の読み方は「ちょう」ではなくどいでんが「まち」たい。地域圏・広域行政圏ごとに記載しゅるとよ。なお、埼玉県は日本の都道府県の中で「市」の数かいっちゃん多か。

2011年1月10日月曜日

仙台の紹介

▼地名の由来
地名の語源は諸説のいり、

国分氏の「千代城」と名付けたことの由来としゅる説。これは城の位置に千体仏のちゃたためで、千体の転じて「千代」となりよった。転じた理由としてからな、城の千代(ちよ)に栄えるごととゆう願いけんつけられたとゆう説のあっけん。その後、伊達政宗の「仙臺」(新字体で「仙台」)と改名したとよ。
アイヌ語の「セプ・ナイ(広い・川)」の「しぇんだい」になりよったけんいり、広瀬川の仙台ん名ん由来とゆう説。
仙台城のあっけん川内地区ば音読みで「しぇんだい」としたことの由来とん説。
やらなんやらの主なもけんあっけんの、1.ん国分氏由来の説の一般的に信じられとる。
▼古代の仙台地方
古代においてな、仙台とゆう地名はまだ存在しなかったとよ。仙台、または千代とゆう地名の現れるんな、中世以降のことたい。ばってんこの地域な、しゅでに古代東北地方ん政治的中心地となっちいたとよ。

まず、7世紀に現在の仙台市東南部に、郡山遺跡の造られたとよ。郡山遺跡な、724年に現在の多賀城市に造られた多賀城の前身たい。鎮守府兼国府であっけん郡山遺跡の東西にな、東多賀神社と西多賀神社の建立しゃれたとよ。鎮守府と国府の多賀城に移ると、多賀城には政庁に隣接してから、東北地方で最高位にあっけん神社、陸奥総社宮の建立しゃれたとよ。同じく多賀城政庁に隣接してから、多賀神社とアラハバキ神社も建立しゃれたとよ。アラハバキ神社は蝦夷の神であっけん「アラハバキ神」ば祭るもけんあっけん。大和政権の東北地方の蝦夷ば大量殺戮したため、アラハバキ神社には「蝦夷の怨霊ば封じる」とゆう意味の込められとる。多賀城創建と同じ頃、多賀城市の隣に位置しゅる現在の塩竈市に、「国ん港」であっけん国府津と、奥州一ノ宮であっけん鹽竈神社(しおのバリんや)の造られたとよ。同じく、塩竈市の隣に位置しゅる現在の七ヶ浜町にな、「国の厨房」であっけん国府厨の置かれたとよ。同じく、多賀城市の隣に位置しゅる利府町にな、「日本三関」の一つ勿来の関の置かれたとよ。また、仙台市北東部の岩切な、「東北地方最大の商業地帯」としてから大いににぎわったとよ。多賀城の創建よりやや遅れて、仙台市東部に「日本最北の国分寺」であっけん陸奥国分寺と陸奥国分尼寺の建立しゃれたとよ。

これら、現在の仙台市東部、多賀城市、塩竈市、利府町、七ヶ浜町ば中心としゅる地域の、古代東北地方ん政治的中心地、しゅなわち府中たい。府中は聖なる空間としゃれたとよ。この地域のそげん特別な地域に成り得た理由としてから考えられるんな、東北地方最大の仙台平野、名取川、広瀬川、奥大道、千賀ノ浦、やらなんやらん存在たい。

こんごと古代の仙台地方は大いに栄えたため、奈良や京都の都もんは仙台地方ば「宮城野」と呼んで、歌枕に詠まれる「憧れん地」となりよった。

▼伊達政宗と仙台の語源
中世、現仙台市域は国分氏の支配下にちゃたとよ。国分氏の青葉山に城ば築いた時、隣にお堂のいり、千体の観音像のまつられとったげな。千体仏がら千代と呼ばれるごとなり、国分氏の城も「千代城」と呼ばれとったげな。仙台藩祖伊達政宗の岩出山城がら千代城に拠点ば移しゅと、「千代」ば「仙臺」と改め、地名ゆかりんお堂は向山に移しゃれ、現在の大満寺になりよったげな。

伊達政宗の「仙臺」としたんな、中国唐代の詩人・韓(かんこう)による七言律詩『同題仙遊観』の冒頭句、「仙臺初見五城楼」がらとったと言われるとよ。もともと中国で「仙臺」な、「仙人の住む尊い場所」とゆう意味のいり、紀元前2世紀に漢の文帝の建てた仙遊観とゆう宮殿な、その壮大しゃがら「仙臺」と呼ばれたとよ。この詩はその宮殿の素晴らししゃば讃えたもけんあっけん。韓な、中国で伝説上の存在としてから知られる仙境崑崙山(こんろんしゃん)の五城十二楼(ごじょうじゅうにろう)の宮殿に、仙遊観ばなぞらえて詩ば詠んばいうたい。戦後は新字体の「台」の使われるごとなりよった。

仙台の開祖は事実上伊達政宗でいり、仙台市のシンボルとしてからえらいたくさんん市民に親しまれとる。また、彼の生涯ばドラマ化した、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」は最高視聴率47.8%、平均視聴率39.7%ば得て、平均視聴率ではNHK大河ドラマとしてからは最高の記録となりよった。このドラマ放送によっち、仙台と伊達政宗の知名度は高まったとよ。伊達政宗の騎馬像な、仙台城址と大崎市岩出山のJR陸羽東線有備館駅にあっけん。仙台城址の物は伊達政宗の仙台市街地ば一望しゅる配置となっちいるとよ。有備館駅のもんな、仙台駅に地元地銀の広告としてから設置しよったもんば2008年3月に移設したもけんあっけん。

▼「仙台」の定義
面としてからん「仙台」
「仙台」(仙臺)の範囲。小がら大に列挙

仙台城下町 - 江戸時代の仙台藩・仙台城の城下町。17世紀中に仙台城下町ん南東にあっけん若林城の城下町ば併呑し、広瀬川ば挟んで長町宿と隣接しゅるほどに拡大したとよ。「仙台輪中(しぇんだいわじゅう)」「仙府(しぇんぷ)」「僊台(しぇんだい)」と呼ばれることもちゃたとよ。明治時代に仙台区(1878年~1889年)となり、んちに仙台市(1889年市制施行)となっち市域の拡大。
仙台市都心部 - 仙台城下町とほぼ同じ範囲。現在の青葉区東部ば中心とした地域。仙台市以外の居住者の「仙台に来る」と言った場合はこの地域ば指しゅことの多か。中心業務地区や官庁街、繁華街のいっちゃん町や仙台駅西口、歓楽街の国分町やらなんやらの含まれるとよ。
仙台市 - 宮城県の県庁所在地でいり、政令指定都市。支店経済都市の代表格でいり、札仙広福の1つ。主な異名としてから、大正期頃がら現代に至る「杜の都」、主に戦前に使われた「第二都市」、高度経済成長期の「仙都」のあっけん。仙台市の機能面ば表現しゅる異名としてから、明治がら戦中まで「軍都仙台」、明治末期がら「学都仙台」、21世紀がら「楽都仙台」とゆう呼称も使用しんしゃっとぉ。
仙台都市圏 - 仙台市の都市圏。七大都市圏の一つ。「仙台圏」「仙台地方」と呼ばれることもあっけん。明治時代がら1980年代までな、仙台の外港・塩釜港ば擁しゅる塩竈市とん間の都市軸の重要やったため「仙塩」(仙塩広域都市圏)と呼ばれとった。1989年に仙台市の合併・政令指定都市化してから以降、「仙塩」とゆう称は廃れたとよ。なお、以下の「仙台経済圏」も仙台圏と言われることのあっけん。
仙台県 - 明治時代、廃藩置県後の約半年間存在した県。
宮城県 - 宮城県民な、県外では「宮城県」とゆう代わりに「仙台」とゆうことの少なくなか。江戸時代がら先行してから広域地名となりよった「仙台藩」由来の「仙台」の広く定着しとるためでいり、かつ、仙台市のプライメイトシティであっけんことも関係のあっけん(→仙台宮城)。このため、仙台市出身でなくとも宮城県出身なら「仙台出身」とゆうことのあっけん。明治時代に後発してから広域地名となりよった「宮城郡」由来の「宮城」とゆう言葉な、公式文書やプロフィールば書くときに主に使われるとよ。
仙台藩 - 現在の宮城県全域と、岩手県南部(現在の奥州市以南)、福島県新地町ば領有した藩。岩手県南地方の、他の岩手県域(南部藩領)との区別ば強調しゅる際にも用いられるとよ。
仙台経済圏 - 仙台市都心部、あっけんいな、仙台都市圏の小売・サービスの商圏ばもとにした地域。南東北3県都ば内包し、宮城県および隣接しゅる岩手県南部・山形県内陸部、福島県北部やらなんやら、仙台がら2時間圏程度の地域に広のるとよ。「仙台圏」「仙台商圏」「南東北」と呼ばれることもあっけん。また、同経済圏内の主要都市であっけん仙台市と山形市がら「仙山圏」と呼ばれることもあっけん。なお、上記の「仙台都市圏」も仙台圏と言われることのあっけん。
東北地方 - 仙台ん業務管轄地域や卸売り商圏の東北地方全域に広のるため、「東北」の代わりに「仙台」とゆう場合のあっけん。

2011年1月9日日曜日

仙台市の紹介

仙台市な、宮城県の中部に位置しゅる、同県の県庁所在地たい。

▼概要
畿内に端ば発しゅる海道(後に東海道に再編→浜通り)と山道(後に東山道に再編)の合一し、北ば奥羽山脈がらの舌状台地・松島丘陵で遮られる仙台平野(狭義)な、交通や軍事面での要地としゃれ、歴史的に当地の長町-利府活断層沿いに重要な行政組織の置かれてきたとよ。伊達政宗の、伝統的な当地の中心地であっけん長町-利府活断層沿いけん内陸に入った河岸段丘上に仙台城下町ば建設し、現在の仙台市都心部の基盤となりよった。

広瀬川や青葉山やらなんやらの自然の都心にいり、また街路樹やらなんやらの緑の多かこげなら、「杜の都」との異名ばもつ。市は「学都仙台」「楽都仙台」やらなんやらんキャッチコピーも用いとる。中国でな、魯迅の留学した都市としてから著名。

都市計画はニューアーバニズムやコンパクトシティん好例とさるるの、仙台都市圏では人口・物販・職場の郊外化も進んでいるとよ。他方、隣県に及ぶ仙台経済圏ば形成しとる。

▼地理
・地形
市域な、東ば太平洋(仙台湾)、北ば松島丘陵、西ば奥羽山脈、南ば名取川と境界し、宮城県ば帯状に横断しゅるとよ。海岸がら長町-利府線断層帯までの地質的には新しか沖積平野、その西の沖積平野よりちょこっと古か堆積岩類の台地でいり、奥羽山脈の稜線近くは新生代に噴出した火山岩で出来とる。船形山、大東岳、神室岳やらなんやらはいずれも50万年がら150万年前に噴火した火山たい。

仙台市は奥羽山脈ば挟んで山形県山形市と接しとる。都道府県庁所在地同士の隣接しゅる例にな、他に京都市と大津市、福岡市と佐賀市のあっけん。

山:青葉山、船形山、白髪山、面白山、泉ヶ岳、大東岳、太白山、日和山やらなんやら
仙台市役所な、市内の野生ニホンザルの頭数ば約550匹とみとる。
川:広瀬川、名取川、七北田川、梅田川やらなんやら
沼:五色沼、長沼、大沼やらなんやら

・気候
基本的に冷涼な海洋性の気候でいり、寒暖ん差の少なかことと、市西部に比較的高い山脈の存在しぇず、フェーン現象の起こりにくいためたい。そいゆえ日本海側に強か寒気の入った際な、雪雲の奥羽山脈ば越え仙台ばってん大雪となる事のあっけん。2番目は豚骨スープ戸市の約30日、東京都(千代田区)は約45日、大阪市は約66日たい。仙台市な、極端に暑くも寒くもなか都市といえるとよ。

・人口
大学や各種専門学校のえらいたくさん(→「学都仙台」)、若年者人口の割合の大きかったの近時加速的に割合の減ちょこっとており、65歳以上の人口の加速的に割合ば増やしとる。公務員や従業員の転勤とも併しぇて、年度末には約2万人の流出し、年度始めにほぼ同数の流入しゅるとよ。近年な、3月・4月に差し引き約6000人総人口の減ちょこっと、5月と6月に回復しゅるとよ。同様に、第2四半期末がら第3四半期始めん9月・10月にも人口の減ちょこっと、11月に回復しゅるとよ。

宮城県は東北地方では最も面積の小しゃく、自然障壁の少なか仙台平野に県民の大半の居住しゅるため、その中心であっけん仙台市へん一極集中のみられる。ばってんなのら近年では前のごたる人口の社会増(転入ちかっぱ過)はなくなり、人口の増加は自然増に依存しとる。近年の人口増加な、数千人/年程度たい。隣接しゅる富谷町・利府町・名取市やらなんやらでの宅地開発も、転出増ん背景となっちいるとよ。

▼戦後の仙台の都市軸の変化
高度経済成長期までの都市軸な、そいぞれ鉄道も並走しとる、旧奥州街道ば踏襲した国道4号沿い(都心がら南の地域)と北東の多賀城・塩竈・松島に向かう国道45号沿いば中心に形成しゃれたとよ。1970年代初頭には仙台市ば中心に松島町がら岩沼市にかけて合併・政令指定都市移行ば目指したの失敗に終わったとよ。要因は当時の仙台市の革新市政ば周辺市町の保守系首長の嫌ったため、といわれとる。この時、合併調印前日に多賀城市長の突如合併ば批判し合併がら離脱したため、仙塩合併は一夜にしてから瓦解したけんがあっけん。これにより仙台市の政令指定都市へん移行も先延ばしとなり、都市ん発展の著しく遅れる結果となりよった。

その後、人口増ば背景に市の北部がら南西部にかけてん丘陵地に都心ば囲むごと新興住宅地の造られたとよ。これらの住宅地と中心部とば繋ぐ旧国道4号沿い(都心がら北ん地域)や国道286号沿いの新たに都市軸に加わったとよ。新都市軸の北の中心であっけん旧泉市と、西側の旧宮城町・旧秋保町ば編入し、1989年に政令指定都市となるとよ。新都市軸では1987年に仙台市地下鉄南北線の開業したことで、計画都市であっけん北の泉中央(泉区)・南の長町南(太白区)では副都心化の進み、大型商業施設やマンションの林立しとる(旧奥州街道の七北田宿の人口密集地区西隣に泉中央(泉中央駅)、長町宿→JR長町駅駅前の人口密集地区西隣に長町南(長町南駅)の建設しゃれたとよ。JR南仙台駅前の旧・中田宿は現在再開発中)。

また、仙台北環状線(北環)や仙台西道路の完成により、中心部がら西向きの都市軸も出来つつあっけん。但し、仙台西道路は自動車専用道路で旧宮城町地区まで出入口のなかため、都市としてからん連続性の断たれ、他の都市軸と比べ背景人口の少なくなっちいるとよ。都市軸中心駅の愛子駅・陸前落合駅駅前は後発の開発のため、他の副都心ほど発展しとらん。一方で、この軸上には東北自動車道の仙台宮城ICのあっけんこげなら広域産業の進出し、アウトレットモールや、宮城県立こども病院、その他高等教育機関やらなんやらの立地し、人口も増加しとる。

▼東西に分けられる仙台の街
仙台ぬ街や、仙台駅、およびあがりにし新幹線・あがりにし本線のかいよって大きくあがりいりんかい分けられている。仙台駅ぬいり口側や、江はしる時代からぬぐしくシチャ町・仙台ぬ中くくる部があいびーたんところで、現在のかい至るまで中くくる部であり続けているが、南や広瀬かーら、いりやオールー葉山、にしやにし山-台原ぬ丘陵地、あがりやあがりにし新幹線と、四方が囲まれており、都くくる部ぬ拡大が容易でやねーん。ウヌため、バブル期のかい、仙台ぬ地元企業ぬ経済力をでーにえて地価暴騰が起きる懸念があいびーたんが、バブル期以メーから開発されていた地シチャ鉄・南にし線と、南にし線ウイーぬ泉中央(泉区)および長町(太白区)ぬ存在のかいより、地価ウイー昇圧力が泉中央や長町へぬ都市機能ぬ分散を推進し、暴騰や回避された。反面、デフレ期んかい入ると、都市規模のかい対して疎のかいなった都くくるぬ地価シチャ落が止まらず、担保価値が減うっぴーねぇた土地ウイーぬ低層オフィスビルや低層住宅が、高層マンション等のかい取って代わられ、住民ぬ都くくる回帰を助長そーん。

一方、仙台駅ぬあがり口側や、古くからぬ町並みが残る地区となっていた。特のかい南あがり側ぬ平野部(若林区)やシチャ町ぬ趣があり、江はしる時代から続く地名が残る。クヌシチャ町地域ぬあがり側のかい隣接していたみじ田地帯のかいや、てぃーちここのちむーち0年代のかい仙台バイパスが造られ、同時のかい卸売り業者・流通業者・車関係などぬくとぅ業所、および印刷業ぬ工業団地などぬ広大な流通・工業団地が造られた。クヌ地域(卸町・六丁ぬみー・扇町など)や、業務地・工業用地ぬ指定ぬみで住宅地ぬ指定がねーらんため、ほとんど人が住んでウラン。また、周囲ぬみじ田も国ぬ農政、および、仙台ぬグリーンベルトぬ構想ぬためんかい農地指定が解除されなかったため、仙台駅・あがり口側ぬ住宅地や、あがりにし本線と卸町のかい挟まれた極端のかいいばさぬ地域のかい限定されてしまーいー、くし景人口が増加せず、あがり口ぬ商業集積を阻害してきた。あがりにし本線をまたいでいり口んかい到る幹線道路も、あがり口のかい広大のかい存在する卸町を迂回しちゃん経路(卸町ぬにし側ぬ国道ゆぅーちいちち号と南側ぬ新寺小路)ぬみで、卸町のかいよって南にしぬ街も分断された状態のかいなっていた。

ここのち0年代のかい入り、卸しを通さねーらん「中抜き流通」が主流のかいなると、卸町ぬ存在意義が薄れ、規制を解除して住宅地へ転用する動きが始まった。また、仙石線ぬ地シチャ化のかい伴って区画整理・再開発が活発んかいなって、あがり口や街ぬ形を大きく変貌させている。あがり口ぬ駅メーから延びる宮ぐしく野通り完成後や、通り沿いのかい仙台ぬIT企業が集中し始め、楽ティンイーグルスが宮ぐしく球場を本拠地のかいするんかい到って更のかい開発のかい弾みがついている。ウヌ一方で、区画整理くとぅ業が終わる数年後のかいや、旧仙石線線路沿いぬ土地のかいマンションが大量のかい供給され、マンション価格ぬシチャ落、だぁんかい伴う郊外住宅地ぬ地価シチャ落が懸念されている。

仙台バイパスとウヌ付帯施設やいびぃ~ん流通・工業団地ぬ周辺およびあがり側や、広大なみじ田地帯となとん。農地指定ぬ解除や、仙石線沿いと建設中ぬ地シチャ鉄・あがりいり線沿い、および幹線道路沿いぬみとなとん。近年、グリーンベルトをまたぐ部分(仙石線でや苦竹駅~福田町駅ぬ間、あがりにし本線でやあがり仙台駅~岩切駅ぬ間)ぬ一部農地指定解除が行われ、仙石線のかい小鶴新田駅が設置されて住宅地化が始まっている。しいし、なおも岩切から利府町のかいかけてと、福田町からマース竈市のかいかけてぬ市街地が、都くくる部からみて「飛び地」のさいうになっており、グリーンベルト維持か、市街地形成をするか、市ぬ方針やかんなじしも明確でやねーん。なお、福田町からマース竈市のかいかけてぬ沿岸部や、仙台港を中くくるのかい工業地区となとん。農地指定と工業地指定、および松島丘陵のかい囲まれたクヌ「飛び地」地区でや、近年、工業・流通地指定を解除して、商業施設ぬ誘致と開発が計画されている。たやっさーし、工業地(すらき地)ぬ所有者やいびぃ~ん宮ぐしく県ぬ方針が出るまで時間がかかっている間のかい、隣ぬ利府町側で先のかい農地指定を解除しちゃんため、クヌ「飛び地」地区ぬ商業中くくるや、利府ぬロードサイドショップぬ方のかい移っている。

2011年1月8日土曜日

町田市の紹介

町田市(まちだし)は、東京都の多摩地域に位置する市で、多摩南部に区分される。市域の大部分が多摩丘陵に属し、地形的には同丘陵の北部、相模原台地の北東の縁であり、ほとんどが丘陵地帯である。最高地点は西端にある草戸山(標高364m)。平地は町田駅付近や西および南を流れる境川・ほぼ中央を流れる鶴見川とその支流恩田川近辺など少ない。

▼商業地
東京都区部の南西30~40km圏に位置し、東京都区部郊外のベッドタウンとして発展。町田駅周辺地区は、小田急線沿線および横浜線沿線を代表する繁華街で、百貨店や専門店等が多く林立する一大商業ゾーンとして著しく発展しており、商業都市の一面も持つ。国道16号線や国道246号線により東西方向・南北方向との交通の便もよく、神奈川県北部も含んだ多摩地域南部の商業の中心地である。飲食産業はここ数年で立川市と共に成長している。
市内や近辺には私立大学が多いため、町田駅前繁華街は学生を含む若者の街としても発展している。「西の渋谷」とも呼ばれ、若者向けの店(衣類店・ゲームセンター・漫画専門書店・メイド喫茶など)が多く、メイド喫茶は近隣一帯で唯一[要出典]出店されている。 東部の玉川学園前駅周辺は、幼稚園から大学まで一貫教育の玉川学園を中心に住宅地が広がっており、学園都市とされている。 この他、南部(町田市鶴間)の南町田駅前にはアウトレットモールのグランベリーモールが有り、休日等に賑わう。立川を中心とする多摩地域北部とは多摩丘陵で隔てられていることから、神奈川県との交流関係がある。とくに、相模原の市街地と近接していることから、町田・相模原両市を併せて国の業務核都市に指定されており、業務など諸機能の立地促進が図られている。(逆に相模原市は多摩地域をはじめとした東京都との交流関係がある)

▼ 住宅・道路開発
鎌倉街道沿いの旧宿場町と、近代以降の町田駅近辺など一部地域を除き、開発の歴史が昭和40年代の団地開発以来と浅く、未開発の丘陵や斜面を宅地造成した一戸立て住宅の建売(駅至近では高層マンション)が現在に至るまで盛んである。しかし様々な企業による無計画な宅地開発の為、狭い道路や行き止まりが多く、自動車がこれを避けて鎌倉街道等幹線へ集中するが、拡幅工事が未完了でその未拡幅区間がボトルネックとなり街道への流入車が毎日渋滞を引き起こす。特に県境部分では整備が遅れており、山の両面から開発された場所の道路未接続などや、慢性的に渋滞が発生する道路でもその多くが拡幅未着手となっており、これを迂回した車の流入が幹線道路の混雑に拍車を掛ける場合もみられる。

市内には、都市再生機構の、山崎・藤の台・鶴川・小山田桜台、住宅供給公社の、木曽・境川・高ケ坂・本町田など、大小様々な団地が点在する。団地住民の定住化と共に少子化が進み、それら団地を中心とした学区域の小学校では合併や廃校が目立つ。同時に、政策として「車椅子で歩ける街づくり」を進めるなど社会福祉が充実し、各地から視察団が訪れる。

▼治安
ここ数年、新宿付近地区の風俗規制強化により、この地区で営業していた業者が町田駅前繁華街へ移転する動きがあり、西の歌舞伎町とも呼ばれるようになった。これは周辺に風俗業が多い繁華街が無く、新宿から直通電車で30~40分程度という好立地による。しかし繁華街はこれらを含めた風俗店と他の店舗が混在しており、手当たり次第な客引き等の迷惑行為が社会問題化し、条例による客引き行為の部分規制や住民による自主的なパトロール、さらには民間交番の設置等が行われている。

町田市の急速な人口増加にも関わらず警察署の増設は行われず、警察官1人当たりの市民数は都内平均の2倍。町田駅前繁華街の発展や渋谷・歌舞伎町化に伴う犯罪率の上昇も加わり治安が悪化し、警察官不足は更に深刻化している。これに対応し、市北西部(相原・小山地区)の管轄を2009年4月に新設の南大沢警察署(八王子市南大沢)に移管、町田警察署の負担軽減が図られている。

▼ 田園都市的側面
中心地の町田駅から1~2kmで農地が見られ、北西部や西部の小山田・小野路地区・相原・大戸地区は里山の面影が色濃く残る農業地域で、田畑が随所に有り、畜産業も営まれる。また。七国山等の野山も点在し、近隣の都市と比べ、土地の自然利用率が高く狸等の野生動物もいる。

しかし町田の東京へのアクセスが注目されると、不動産・住宅開発の進出も激しく、旧来の地形を省みない開発や建設がかえって町並みの調和を破壊している。水害時に備える洪水調整池を無理に埋め立てる手法には地元の反発も大きい。

▼歴史
江戸時代まで
1335年、北条時行ら北条氏の残党が中先代の乱を起し、町田村井出の沢で足利直義を撃破し更に鎌倉へ向けて進攻する。 19世紀、武蔵国の町田村の村民が農地拡大のため近隣の原野を開拓し、その地を原町田村として分村した。後に「本村」である町田村は本町田村と村名を変更した。

明治維新から第二次大戦まで
本町田・原町田・森野・南大谷 - 町田村 (旧・町田村とほぼ同じ)
能ヶ谷・金井・小野路・野津田・真光寺・広袴・三輪 - 鶴川
山崎・木曽・上小山田・下小山田・図師・根岸 - 忠生
鶴間・小川・金森・高ヶ坂・成瀬 - 南
相原・小山 - 堺村
1893年、町田市を含む多摩郡域(南多摩郡、北多摩郡、西多摩郡)が、神奈川県から東京府に移管される。
1913年、町田村(旧、本町田村・原町田村)が、町田町になる。(町制施行)

▼第二次大戦後
1954年、町田町と南村が対等合併。
1958年、町田町、鶴川村、忠生村、堺村の1町3村が対等合併、市制施行し、町田市となる。
1973年、多摩市と多摩ニュータウン区域界を境に境界変更。これにより小野路町の一部(現、南野地区)が多摩市に編入され、多摩市南野(多摩市の南+小野路から)となる。
2004年、神奈川県相模原市と境川を境に境界変更し、相模原市上鶴間の一部が町田市に編入される。
2008年、市制施行50周年。

2011年1月7日金曜日

町田市の施設等の紹介

▼公共機関
警察
警視庁町田警察署

司法
東京地方裁判所立川支部及び東京地方検察庁立川支部の管轄。
町田簡易裁判所
町田区検察庁

消防
東京消防庁町田消防署(中町3-2-19)特別救助隊・特別消火中隊・救急隊2
忠生出張所(忠生3-6-1)救急隊1
南出張所(金森1700-1)救急隊1
鶴川出張所(鶴川3-2-4)救急隊1
西町田出張所(相原町45-3)救急隊1
成瀬出張所(成瀬2106)救急隊1

医療
町田市民病院
町田胃腸病院
多摩丘陵病院
鶴川サナトリウム病院
南町田病院

▼文化施設
公園
町田中央公園(市立公園)
野津田公園(市立公園)
陸上競技場は野津田公園内の施設である
小山田緑地(都立公園)
小山内裏公園(都立公園)
小野路公園
芹ヶ谷公園(町田駅から徒歩10分程度)
薬師池公園(市立公園、新東京百景)
町田リス園(薬師池公園となり)
町田えびね苑、町田牡丹園、町田ダリア園 (いずれも薬師池公園・七国山周辺)
忠生公園
こどもの国(大半が横浜市)

▼図書館
町田市立中央図書館
ホテルと同居するユニークさで知られる。貸出管理の電算化により閲覧者による検索貸出予約が可能である。盗難防止装置を導入し話題となった。
町田市民文学館ことばらんど
遠藤周作の遺族からの蔵書の寄贈が契機となり森村誠一が設立に協力し、誕生した。町田ゆかりの文学者等の関係資料を収集展示する図書館分館としても機能する。
町田市立さるびあ図書館 (中町)
現中央図書館が開館するまでの本館。
町田市立木曽山崎図書館 (山崎町・山崎団地内)
町田市立堺図書館
町田市立金森図書館
町田市立鶴川図書館

▼美術館・博物館
町田市立国際版画美術館
ヨーロッパ中世から現代まで広く版画作品を蒐集している。
日本で唯一、世界の版画を蒐集している美術館。
町田市立博物館
ガラス器の蒐集に特徴がある博物館。収蔵品はヨーロッパ、中国、日本と広く、香料入れの小瓶など他にないコレクションである。
町田市立自由民権資料館
小島資料館
新撰組や幕末期の資料を展示。

▼スポーツ施設
町田市立陸上競技場
町田市立総合体育館(南成瀬)
サン町田旭体育館(旭町・町田中央公園内)
町田市民球場(旭町・町田中央公園内)
藤の台球場
鶴川球場
野津田球場
小野路球場
市内唯一の硬式野球場
三輪みどり山球場
忠生公園ソフトボール場
町田中央公園テニスコート(旭町・町田中央公園内)
成瀬クリーンセンターテニスコート
野津田公園テニスコート
鶴間公園テニスコート
鶴川中央公園テニスコート
鶴川第2テニスコート
相原中央テニスコート
町田市立室内プール(図師町)

▼教育
大学
町田市内には多くの大学が点在しているが、町田駅を利用する大学は無い。

桜美林大学
国士舘大学
昭和薬科大学
玉川大学
東京家政学院大学
東京女学館大学
法政大学
和光大学

専門学校
学校法人 東京町田学園 町田・デザイン専門学校
大原簿記法律専門学校町田校
学校法人榎本学園
町田調理師専門学校
町田福祉専門学校
町田美容専門学校
町田製菓専門学校

高等学校
都立
小川高等学校
忠生高等学校
山崎高等学校
町田高等学校
野津田高等学校
町田工業高等学校
成瀬高等学校
町田養護学校(町田の丘学園)

忠生高校及び町田高校家政科は、町田地区総合高等学校(仮称)設置のために閉課予定。

私立
桜美林高等学校
玉川学園高等部
鶴川高等学校
和光高等学校
日本大学第三高等学校
町田調理師専門学校(高等課程)
町田家政福祉高等専修学校(閉課予定)
国本学園女子高等学校(町田キャンパス)

▼交通
東京都区部までは電車利用で50分程度(市の中心駅である町田から新宿へは小田急小田原線の快速急行利用で28分弱)。中東部を小田急線が、南部を東急田園都市線が、南西部と西部をJR横浜線が、北西部を京王相模原線が、いずれも市域の外縁部を通っている。町田市外の東京都から、相原駅と多摩境駅を除いた各駅へ鉄道で行くには、必ず神奈川県を通ることになる。

良好な鉄道アクセスは市域の外縁部に集中しており、市域の中央部に鉄道空白地帯を多く抱えている。そのためバスが主要な交通手段として発達している。例えば神奈川中央交通町田営業所管内の路線バスは1時間あたりの運行本数が多く、特に山崎団地・藤の台団地から町田駅方面へは昼間でも約5分~10分に1便は運行され鉄道の空白を埋める役割を果たしている。

市南部・北西部の主要幹線道路については、片側一車線もしくは一・五車線で幅員も狭いものが多く、路線バスも十分な運行本数が確保されていないこともあり、慢性的な渋滞が発生している。また、都心部への鉄道交通や市内のバス路線網が発達している一方で、同じ多摩地域の近隣都市へと移動する手段は整備が遅れている。そのため、多摩都市モノレールや小田急多摩線の市内延伸が構想されているが、実現の目途は立っていない。なお、多摩都市モノレール延伸時の導入空間となる予定の都市計画道路 町田3・3・36号線(新町田街道)と原町田大通りは、少しずつではあるが、建設が進んでいる。

▼主要部へのアクセス
日中の東京・横浜方面への所要時間は以下のとおりである。なお、朝夕の通勤時間帯には5~15分程度所要時間が余計にかかる。

東京方面
町田 - 新宿(小田急線快速急行で約30分)
町田 - 下北沢乗換 - 渋谷(小田急線快速急行+京王井の頭線急行で約30分 ※乗換時間を含む)
町田 -長津田乗換 - 渋谷(横浜線快速+東急田園都市線急行で約40分 ※乗換時間も含む)
町田 -新宿乗換- 東京(小田急線快速急行+JR中央線快速電車で約50分 ※乗換時間を含む)
横浜方面
町田 - 新横浜(JR横浜線快速で約20分)
町田 - 横浜(JR横浜線快速で約30分)

▼道路
東名高速道路(市の南端部をわずかに通る)
横浜町田IC(かつて横浜ICと称した。敷地のうち大半は横浜市域である。)
国道16号(市の南端部と北端部をわずかに通る)
国道246号(市の南端部をわずかに通る。国道16号とはここで交叉)
町田街道(幕末から明治時代にかけて最大の貿易商品である「絹」を運ぶ街道として、集荷地・八王子と輸出港・横浜港を結んでいた。沿道は古くより栄え、なかでも原町田は中継地点として重要な宿場町でもあった。別名「絹の道」。)

木曽団地付近都市計画道路 町田3・3・36号線
「新町田街道」と言ってもいい町田街道のバイパス的路線。幅員25mであるが、多摩都市モノレールが町田に延伸される場合における空間が用意されているために中央分離帯が7mと広くなっている。忠生付近の一部区間が完成しており、2007年10月には木曽・山崎区間が開通した。また、「多摩地域における都市計画道路の整備方針」に基づき本町田地域をはじめとして相原駅付近、南町田駅付近が第三次事業化路線に選定、2007年9月に本町田区間が事業認可された。だが、予定地の多くが住宅地になってしまっているなどしており、全線開通の目途は立っていない。

鎌倉街道
府中と町田を結ぶ。江戸時代の鎌倉街道(鎌倉中道)の古道が市内「七国山」に昔の姿のまま残されている。町田市の歴史書によれば、現道から大きく離れた小山田の都道(狭隘路)も鎌倉中道の古道に当たる。
鎌倉時代に足利直義軍と北条時行軍による合戦が行われたのは、当時の鎌倉街道の主要地であった町田村中心部にほど近い、井出の沢であった。
鶴川街道
調布から原町田の町田街道旧道へと続く道。都道19号の調布~真光寺十字路交差点、都道139号の真光寺十字路交差点~鶴川駅東口交差点、都道3号の鶴川駅東口交差点~原町田をあわせて鶴川街道と通称している。金井付近は幅員16mに拡幅されたが、町田高校付近は狭いままである。
芝溝街道
淵野辺駅前から、根岸・図師・野津田・大蔵等市内北部を結び、鶴川駅へ至る。
成瀬街道
町田と川崎を結ぶ道路の北西端。2車線だが道が狭いためよく混雑している。
団地いちょう通り

町田と川崎を結ぶ道路の北西端。2車線だが道が狭いためよく混雑している。
団地いちょう通り
鶴川街道「金井1丁目」交差点から、藤の台~山崎~境川の各団地を結ぶイチョウ並木の通り。幅員13~16mと広いため、バス路線の重要な経路となっている。また、鶴川街道・鎌倉街道から町田街道・相模原市方面への短絡ルートとしても利用される。
町田駅前通り
上記境川団地の「境川団地北」交差点から、町田駅までの幅員12~20mの道路。実際は境川団地北までではなく「矢部八幡」交叉点まで伸びており、町田から淵野辺方面へバスも運行されている。

原町田大通り原町田大通り
JR町田駅前から町田街道までの道路。幅員25m。
このほか、2008年上半期に、「薬師金井通り」「薬師台通り」「町谷原通り」などの名称が設定された。

2011年1月6日木曜日

錦糸町について

錦糸町は東京都墨田区の錦糸町駅周辺に発達する繁華街。江東区亀戸とセットで渋谷・新宿・池袋・臨海副都心とならび東京都により「東京副都心」に定められており、東京23区東部を代表する街。錦糸町駅にはJR総武線、東京地下鉄半蔵門線が乗り入れる。

▼地名の由来
現在のJR錦糸町駅の北口の北斎通りに位置していた「錦糸堀」から来ている。本所七不思議の「おいてけ堀」は錦糸堀のこと。

▼JR錦糸町駅南北
錦糸町はJR錦糸町駅によって南北に分断されている。薬物乱用防止「ダメ。ゼッタイ。」現在、警視庁にて掲げられている「ダメ。ゼッタイ。」は昭和40年代に錦糸町に覚せい剤が蔓延した事により、この地域を管轄している警察官が考案したものである。北口は近年再開発が進み、古くからの歓楽街である南口とは雰囲気を異にする。東武ホテルレバント東京(旧「東京マリオットホテル錦糸町東武」)や、新日本フィルハーモニー交響楽団のホームであるコンサートホール「すみだトリフォニーホール」が並ぶ。またクイーンズ伊勢丹やアカチャンホンポが入る生活バリューモール「アルカキット錦糸町」がある。なお、ここはかつて「そごう」であった。


▼錦糸町河内音頭大盆踊り
河内音頭を愛する評論家の朝倉喬司の活動に、錦糸町の町内会有志が共感したことから、1986年から毎年8月末に、河内から「音頭取り」を招いて、盆踊り大会が毎年開催されている。地元の人々が子どもから大人まで熱狂的に踊りまくり、新たな錦糸町名物となっている。


■■■錦糸町駅■■■
錦糸町駅は、東京都墨田区江東橋三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。


▼駅周辺
北口および南口ともに地下駐輪場が設置されており、定期利用および当日利用が可能となっている。なお、北口ではアルカキット錦糸町で500円以上の商品を購入した場合に限り、駐輪場料金を無料にする制度がある。北口は錦糸、南口は江東橋の街が広がっている。北口は、もともと国鉄用地が広がっており、商業施設はあまり多くなかった。1980年頃に再開発の機運が高まり再開発組合が設置された(これは2000年に役目を終えて解散されている)。その後、再開発の進捗に伴い1997年10月に「アルカタワーズ錦糸町」がオープンすることとなった。このときには、北口の核施設としてそごう錦糸町店があった。しかし、そごう自体の経営難に伴い閉店されることとなり、現在では「アルカキット錦糸町」へと変わった。

アルカタワーズ
アルカイースト
アルカセントラル
アルカウェスト(AIGタワー)
すみだトリフォニーホール
東武ホテルレバント東京(旧称:東京マリオットホテル錦糸町東武)
アルカキット錦糸町
アカチャンホンポ
ダイソー
新星堂
クイーンズ伊勢丹
テルミナ2(旧称:らがーる)
ロッテプラザ(建替えのため閉鎖中)
オリナス錦糸町
TOHOシネマズ錦糸町
コムサストア
東急ストア
ベビーザらス


テルミナ
明治期には伊藤左千夫が牛舎を構え牛乳の製造・販売を行なうとともに、主宰誌「馬酔木」を創刊・発行した。このことを記念してテルミナ前には歌碑が建てられている。
ヨドバシカメラ
丸井錦糸町店
もともとは都電の錦糸堀車庫であった。
ユニクロキッズ
GAP
東京楽天地
楽天地シネマズ錦糸町
LIVIN錦糸町店
無印良品
WINS(JRA)
ハローワーク墨田
アビリティガーデン
東京トラフィック錦糸町ビル
もともとは、錦糸町白木屋があった。白木屋撤退後、江東デパート、ニッピンと移り変わっていった。しかし、建物の老朽化にともない建て替えられることとなり、1990年に現在の東京トラフィックビルが完成した。なお、主なテナントは以下のとおりである。


▼バス
錦糸町駅北口再開発計画終了とともに設置された駅前のりばに乗り入れている。過去は、現在で言うアルカイーストの近辺にバスターミナルが存在していた。ここを発着する錦11系統は錦糸町駅を経由する系統で、唯一バスターミナル内で乗降できない系統となっている。


▼歴史
1894年(明治27年)12月9日 - 総武鉄道の本所駅として開業。
1907年(明治40年)9月1日 - 鉄道国有法により買収、国有化。
1915年(大正4年)5月1日 - 錦糸町駅に改称。
1967年(昭和42年)10月1日 - 東京日産化学専用線及びシェル石油専用線廃止。
1972年(昭和47年)7月15日 - 総武快速線東京~錦糸町駅開業に伴い、総武緩行線と総武快速線の乗換駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、総武本線の駅はJR東日本に継承。
2003年(平成15年)3月19日 - 営団地下鉄半蔵門線が開業。営団地下鉄・JR東日本の乗換業務を開始。
2004年(平成16年)4月1日 - 営団地下鉄民営化により、半蔵門線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承。


▼隣の駅
東日本旅客鉄道
■総武線(快速)
通勤快速
馬喰町駅 - 錦糸町駅 - 船橋駅
快速
馬喰町駅 - 錦糸町駅 - 新小岩駅
■総武線(各駅停車)
両国駅 - 錦糸町駅 - 亀戸駅
東京地下鉄
○半蔵門線
住吉駅 Z 12 - 錦糸町駅 Z 13 - 押上駅 Z 14


▼アルカキット錦糸町
アルカキット錦糸町は、2002年から営業を開始した東京都墨田区錦糸町にあるショッピングセンターである。正式名称は、「生活バリューモール アルカキット錦糸町」。なお運営は、ららぽーと株式会社(2008年4月1日 - 社名を「ららぽーとマネジメント株式会社」に変更)が受託している。錦糸町駅北口の向かって左手に位置する。


▼歴史
1997年10月 - そごう錦糸町店が開店する。
2000年12月25日 - そごうの再生計画により、錦糸町店が閉鎖となる。
2002年3月29日 - 「生活バリューモール アルカキット錦糸町」としてリニューアルオープンする。


▼施設概要
地上12階、地下5階建て(地下3階~11階(屋上1階)は客用)
敷地面積:7686平方メートル
延べ面積:7万8597平方メートル
売場面積:3万3957平方メートル
契約駐車場(アルカタワーズ駐車場)とアルカキット地下駐車場を収容できる駐車場がある。

2011年1月5日水曜日

ZERO1プロレス選手が清掃活動

宇都宮市の産業廃棄物処理会社「ウスイ産業」とプロレス団体「ZERO1」(東京都港区)が協力して9月5日、宇都宮市の県総合運動公園で、地域清掃活動「とちぎ・まるごと綺麗(きれい)にスッペ」を開催する。ゼロワンの選手らは当日、子供たちとごみ拾いに汗を流すほか、「本職」であるプロレスの試合を通して、「いじめ撲滅」を呼びかける。

プロレスファンだったウスイ産業の臼井伸太郎専務は約3年前、共通の知人を介してゼロワンの大谷晋二郎社長と出会った。交友を深めるうち、「何か社会のためにできることはないか」と相談を持ちかけられ、産廃処理業に携わっている経験を生かし、ごみ拾いを思いついた。昨年10月に開催した1回目は約300人が参加した。

一方、ゼロワンは06年1月から、全国各地で「いじめ撲滅プロレス」に取り組んでいる。ゼロワンの主力選手でもある大谷社長は、自らの体にむち打ち、倒されても立ち上がる自分たちの姿を通して、「きついことから負けてはだめだ」というメッセージを伝えてきた。

当日はごみ拾いに加え、子供たちに、選手が実際に立つリングに上がってもらう。普段なかなか上がる機会がないリングで、いじめ撲滅への思いを強く持ってもらうためだ。足利市出身のKAMIKAZE選手は「大人の一生懸命なところを子供に見せたい」と張り切っている。

▼傷害罪で男を起訴
宇都宮地検栃木支部は24日、傷害と銃刀法違反の罪で、栃木市嘉右衛門町、彫り師の容疑者を宇都宮地裁栃木支部に起訴した。起訴状などによると、松谷被告は7月20日午後、市内の飲食店駐車場で、男性会社役員の頭などを鉄パイプで数回殴るなどし、肋骨(ろっこつ)を折るけがを負わせたとしている。また、正当な理由がないのに刃渡り約31センチの包丁を所持したとしている。

▼イノシシと共生へ
イノシシなどの獣害に悩む益子町西明寺地区で、イノシシの習性を利用した対策と観光客誘致を組み合わせた体験型観光プログラム「シシハイク」を導入する企画が進んでいる。農作物を食い荒らすイノシシの侵入を防ぎ、観光客も楽しめるという一石二鳥の企画とはどんなものか。

企画は、宇都宮大里山科学センターと県が共同で開講している「地域鳥獣管理士」養成プログラムの授業の一つ「里山インターン」内で進められている。益子町産業観光課の提案で、受講している20~70代のインターン生7人が「シシハイク」の中身を練り上げている。

約80世帯が暮らす益子町西明寺地区は里山に抱かれた静かな集落。高齢化で耕作放棄地や竹やぶなども増えていることから、イノシシによるイネなどの農作物被害が深刻。町では昨年6月から農業・食品産業技術総合研究機構のアドバイザー、井上雅央さんを招いてモデル圃場(ほじょう)を作り、電気柵とトタン板を組み合わせた対策などで成果を上げている。

町産業観光課では半日の日帰りハイキングを想定し、インターン生のアイデアを元に来年度からの事業化を目指しているという。参加している宇都宮大農学部修士課程2年の高津戸望さん(23)は「見どころがたくさんあった。住民の方にも気づいてもらい、一緒にいい案を出したい」と話していた。

県内では09年度、約1億円のイノシシによる農作物被害が発生。益子町でも被害額は約1200万円に上っている。同町では09年度狩猟との合計で273頭を捕獲しているが、捕獲だけではきりがないとして、共生への道を探っている。

▼DV相談センター
同法により設置義務がある県については、すでに宇都宮市に開設されている。市町村については努力義務だが、市は昨年度「市配偶者からの暴力対策基本計画」を策定、センターの設置に踏み切った。市によると、県内では宇都宮市に次ぐ開設となった。

センターには、3人の母子自立支援員兼婦人相談員が相談業務や就業促進や住宅の確保などの自立支援に応対している。共通相談シートの導入のほか、「市女性相談ほっとライン」も新設して、相談場所などが特定できないように配慮した。

市内のDV相談者数は約30人で推移しており、減少傾向は見られないと言う。

▼被爆者らが黙とう
広島・長崎両市の原爆犠牲者を悼む「県原爆死没者慰霊祭」が22日、宇都宮市の県総合運動公園「憩の森」で行われた。

慰霊祭には、被爆者や遺族ら約80人が出席。同公園内に建立された「県原爆死没者慰霊の碑」の前で黙とうをした後、県原爆被害者協議会の諏訪巌会長(84)が「核兵器が世界に存在する限り、人類は絶滅の危機にさらされる。生きているうちに、核兵器のない明るい世界の展望を得たい」とあいさつした。
今年で20回目を迎えた慰霊祭だが、県被団協の福田宏至事務局次長によると、被爆者らの高齢化で年々出席者が少なくなってきているという。県被団協は今年5月の規約改正で、被爆者や遺族だけでなく、活動の賛同者らも運営に主体的に参加できるようになった。

▼初の試み にぎり1貫で販売
回転ずしチェーンの元気寿司(宇都宮市大通り)は、通常2貫ずつで販売しているにぎりずしを1貫で販売する試みを、宇都宮市若草の元気寿司若草店で23日から始める。多くを食べられない女性やお年寄りの「いろいろなすしを楽しみたい」という要望に応える。

同社によると、2貫ずつが慣例となっている業界で初の試みという。1貫での提供は「にぎり」のみで「巻きずし」などはこれまで通り。値段は2貫のときのほぼ半分にする。

2011年1月4日火曜日

広島市の紹介

広島市は、日本の広島県にある都市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。中国地方の中南部、広島県西部に位置し、中国・四国地方で第1位の人口を有する。

世界史上初めて核兵器で爆撃された都市として、世界的に知名度が高い。それ故に、国際平和文化都市としても一定の影響力を持っており、広島市長の発案で創設された「平和市長会議」には130を超える国から3000以上の自治体が加盟している。第二次世界大戦以前には軍事都市であった歴史とは対照的である。

都市としての広島の歴史は、戦国大名の毛利輝元が1589年に広島城を建設したことに始まる。江戸時代には、広島藩42万石の城下町として藩主浅野氏のもとで発展した。戦前には、陸海軍の拠点が集中する軍事都市となり、特に日清戦争時には広島大本営が置かれて帝国議会が開かれるなど、臨時の首都機能を担った。

第二次世界大戦末期の1945年8月6日、アメリカ軍の戦略爆撃機B-29「エノラ・ゲイ」によって広島市中心部の相生橋上空に原子爆弾「リトルボーイ」が投下され、きのこ雲が立ち上り、市街地は一瞬にして破壊された。当日中に数万人、1945年末までに13万人の人命が奪われ、生存者も火傷痕、放射能後遺症、精神的後遺症(PTSD等)、遺伝への不安に生涯苦しむなど、市民が経験した苦痛は人類史上類を見ないものであった。

戦後は重工業や自動車産業を中心に復興し、日本の主要な工業都市となっている。1980年には政令指定都市に指定された。現在では全国の市で10番目の人口を抱える。

地理的には山陽地方のほぼ中南部に位置しており、広島都市圏の核となっている。京阪神と福岡都市圏のほぼ中間に位置しているため、中国地方あるいは中国・四国地方を統括する政府機関や、全国規模で展開している企業の地方拠点も多く置かれている、また、西日本有数の工業都市でもあり、沿岸部は工業地帯となっている。地場資本も比較的強い方であり、製造業の本社・本部が多く置かれている。地元で効率よくまとめようとする傾向が目立つとも言われるが、広島経済の堅実さの表れである。

近年では、人口の郊外への流出も引き続いて見られる一方で、中区の人口密度が地方圏で最も高くなるなど、都心回帰の傾向が見られる。平和大通りでは、80mを超える高層ビルが相次いで建設されている。

中区以外においても、広島駅周辺を始め、宇品や緑井、段原などの開発・再開発が進み、既存の商工センターや西風新都と併せて、都市拠点機能が活性化している。交通インフラ面では都市高速道路である広島高速道路の整備のほか、広島電鉄の市内路面電車のLRT整備や、広島アジア大会の開催に合わせて開通した広島高速交通「アストラムライン」の延伸、およびJRとのアクセス改良計画が進むなど多方面から都市機能の充実がすすめられている。

南は瀬戸内海に面し、広島湾となっている。市の中心部を流れる太田川の河口に開けた三角州上に市街地が形成されている。太田川デルタを中心に広島平野が形成されているが、それを取り囲むように市の西部・北部・東部は丘陵地帯となっている。

山:白木山、備前坊山、呉娑々宇山
川:デルタ6川…太田川、天満川、元安川、旧太田川、京橋川、猿猴川
その他…三篠川、瀬野川、八幡川、府中大川、安川、二又川
島:似島、金輪島、宇品島、峠島
港湾:広島湾、広島港、草津港

「広島」という名称は、戦国時代末期、この地を支配した戦国大名の毛利輝元が築城に際して命名した。

当時この地は太田川河口デルタの形成途上にあり、箱島や日地島などいくつかの島が点在しており、五箇庄と呼ばれていた。築城する島がこれらの島の中で最も広いことから「広島」と命名したとされるが、輝元には別の意図もあった。広島築城事業は、当時120万石の「西国の雄」毛利家が、本拠地をそれまでの吉田郡山城から移して新たに築こうという大事業であり、城の名称には家運長久の願いが込められた。毛利氏は代々、大江広元の末裔であることを誇りとしており、本姓は大江氏であったことや、「広大」「末広」の縁起から「広」の字を冠することとし、「島」については城普請案内を務め、この界隈の地勢に詳しかった普請奉行の福島元長の名字からとって命名した。

輝元の祖父・毛利元就の時代には、完全に臣従したものには、「元」を一字書出として与えたが、そうでない国人衆には、明白に傘下に組み入れられたと示す「元」の字を避け、「広」の字を与え始めたとされる。この慣習は「広島」の命名者である毛利輝元にも引き継がれ(輝元が「広」を一字書出として与えた者には、吉川広家、山内広通、益田広兼などがいる)、輝元が命名に関与する場合、「広」はこのような重要な意味合いをもった。

2011年1月3日月曜日

広島に行くと言う表現

西日本の方言で、「広島へ行く」「ヒロシマにゆく」という表現が、「死ぬ」を婉曲に表す忌み言葉として使われることがある。この広島が都市の広島を指すかどうかについては不明だが、1741年の『夏山雑談』に記述があり、起源は近世以前までさかのぼる。

柳田國男は『廣島へ煙草買ひに』という著作の中で、「ヒロシマ」は「会津檜枝岐などの狩詞で人里のことであった」、「ヒロシマへユク」は「壱岐では死ぬの隠語に代用して居ることが最近刊行せられた山口君の続方言集[2]に見えて居る、ヒロシマといふ語にもし斯ういふ感覚が伴なふことを知って居たら、藝州の殿様も是を御城下の名にはしなかったかも知れない。」と記し、さらに「タバコ」を「関西地方は殆ど一般に、休息の同義語に用いられている」とし、「廣島へ煙草買ひに行く」というのは、伊予の内海側では「死ぬ」という代わりに時々使われる気のきいた忌み言葉になっている、と説明している。

広島市には海に関連する由来の地名が多い。

商業…紙屋町、十日市町
神社・寺院…住吉町,国泰寺町、袋町藩政関連…基町、幟町,大手町、京橋町その他…堀越

毛利元就が中国地方一円の戦国大名となった時、小盆地である吉田は手狭であり、交通の便も悪かった。そこで、山陽道が通り、太田川や瀬戸内海の水運を利用できる、太田川下流デルタの寒村・五箇庄に注目した。元就の死後、毛利輝元によってその着想を現実化し、広島の開発が始まった。
1589年:毛利輝元が、五箇庄の箱島を中心とした干拓と、広島城の築城とを命じる。
1591年:毛利輝元が、未完成ながらも広島城へ入府し、地名を「広島」と命名する。
1599年:広島城完成。
1600年:関ヶ原の合戦で敗北し、長門国・萩に移封された毛利氏の替わりに福島正則が城主となる。
山陽道が、福島正則によって城下町を通るように南よりに付け替えられる。また、同時期に出雲街道や石見街道も整備される。干拓により新開地も増え続け、江波や草津が港として整備される。
1619年:広島城石垣の無届け改修を理由として福島正則が改易となり、浅野長晟が城主となる。以降、浅野氏の広島藩が明治維新まで続く。

1871年8月29日:廃藩置県により、旧広島藩領は全域「廣島縣」となる。
1871年10月12日:「鎮西鎮台第一文営」が広島城に設置される。徴兵制が始まっていないので旧藩兵からなる部隊であった。
1873年1月9日:「第五軍管広島鎮台」が第一文営跡に設置される。
1884年9月:千田貞暁県令(知事)により広島県営として宇品港の建設に着工。
1888年5月14日:第五軍管広島鎮台が第五師団司令部に昇格する。
1889年4月1日:開府300周年。市制施行により広島市となり、広島県の県庁所在地とされた。
1889年11月:宇品築港及び干拓工事の終了。当初の計画では氏族殖産補助金、氏族殖産金と埋め立てによりできる新開地を担保とした。災害と計画変更により、更に二回に渡り国庫の補助を受けて私財も投じたため、千田県令は工事の完成を見ず新潟県に左遷されてしまう。漁民に抵抗を受け、県民に負担をかけ、当時の広島には不釣合いな大規模港湾であり県令の功名心による土木工事であるとの批判も受けた。しかし、日清戦争において臨時の首都となった要因は、前線に近い点だけでなく、鉄道が開通しており、近代港湾を持ち、物資の生産・集積・貯蔵に必要な十分な土地を持つという理由であり、宇品港と宇品干拓と共に、近代における広島の発展の原動力となった千田県令は、後に再評価されて勲三等旭日章を受け、男爵に叙せられ、千田廟公園が建てられた。
1893年5月:広島電燈株式会社設立。
1894年6月10日:山陽鉄道が広島まで開通。
1894年8月4日:陸軍省の山陽鉄道への依頼により、広島駅から宇品港への宇品線の建設着工、2週間の突貫工事により同月20日完成。
1894年9月15日:日清戦争に伴い、大本営や帝国議会が臨時に広島に移る。以来、広島は軍都として発展する。
1894年10月:市内に電灯がともる。
1899年1月1日:広島市内で上水道の給水開始。
1903年12月27日:海田市駅から呉軍港を結ぶ呉線、官設により開通。
1905年2月:府中煙草製造所が煙草製造開始。
1909年10月:広島瓦斯株式会社創立。
1909年12月19日:大日本軌道広島支社が横川-祇園を開業。
1910年10月1日:市内にガス供給開始。
1911年:広島城の外堀が埋められる。
1912年:西堂川が埋め立てられる。これが御幸橋方面への市内電車通りとなる。
1912年11月:広島電気軌道による市内電車の運転始まる、広島駅-紙屋町-御幸橋、八丁堀-白島など4路線。
1915年4月28日:芸備鉄道が東廣島-志和地間を開業。
1915年6月1日:芸備鉄道志和地-三次間が開業。
1920年7月15日:芸備鉄道広島-東広島間が開業。国鉄廣島駅へ乗り入れ。
1922年8月22日:広島電気軌道宮島線が開業。
1925年7月15日:宮島線廿日市-地御前間が開業。
1926年7月15日:宮島線地御前-新宮島間が開業。
1931年2月1日:宮島線新宮島-電車宮島間が開業し、宮島線全通。
1932年:太田川の山手川と福島川の改修工事が帝国議会で決定。工事は第二次世界大戦で一次中断。
1944年11月18日:広島市で第一次建物疎開が実施される。原爆投下まで計6回実施される。
1945年2月:造幣局廣島支局の仮工場が完成。貨幣の製造を開始。
1945年4月3日:広島市で学童疎開が始まる。
1945年6月: 廣島文理科大学内に中国地方総監府が設置される。
1945年8月6日:アメリカ軍により世界初の核攻撃。原子爆弾が市中心部に投下された。

1945年9月17日:枕崎台風により被害を受ける。広島県内で死者・行方不明者2012人。
1949年:市制60周年、開府360周年。特別法である広島平和記念都市建設法が国会で可決され、住民投票を経て公布される。
1951年:プロ野球セントラルリーグ広島カープが創設される。
1955年:平田屋川が埋め立てられる。
1961年:広島空港(現広島西飛行場)開港。
1962年5月12日:三原-広島間が電化。 同年10月1日広島-横川間電化。
1964年7月25日:横川-小郡間が電化され、山陽本線全線電化開通。
1966年:国道2号線通称広島バイパス(現在の旧市内国道2号線)海田市大正から仁保・鷹野橋を経由し西区まで開通。
1967年:太田川放水路完成。
1969年3月1日:貨・東広島駅(現在の広島貨物ターミナル駅)開業。
1974年4月:西広島バイパス庚午北-観音本町間開通。
1975年10月:広島東洋カープが初優勝を遂げる。
1975年3月10日:山陽新幹線広島駅開業。
1979年11月:広島東洋カープが初の日本一達成。
1985年3月20日:広島自動車道開通。
1989年:平成元年 '89 海と島の博覧会・ひろしま 開催。(海と島の博覧会)
1994年:アジア競技大会開催。それに併せて広島高速交通広島新交通1号線も開業
1997年12月10日:山陽自動車道全通。