周辺は神奈川県相模原市との市境が近く、JR南口付近は相模原市である。
JR町田駅駅ビル - ルミネ
小田急町田駅駅ビル - 小田急百貨店
駅近隣は、江戸時代末期の鎖国解除直後から、生糸の集散地として栄え、その流れで多くの商店が建ち並んだ。
横浜線原町田駅と小田急線新原町田駅が開業すると駅近隣の発展は急速に進み、1960年代に市内に多くの大規模な団地が建設されると、大丸(町田大丸に分社後、撤退)、緑屋(撤退)、さいか屋(専門店ビルのジョルナに業態転換)、ダイエー(規模を縮小しながらも食料品スーパー「グルメシティ」として営業中)などの百貨店、スーパーマーケットが駅前に進出し、商業地としての地位を確実なものとした。今日では小田急百貨店、109、丸井、長崎屋、西友、モディ、町田東急ツインズ、ヨドバシカメラ、ドン・キホーテ、ジョルナ、ソフマップ、ブックオフ、ザ・ダイソーなどの大型店が林立し、さらには庶民的な商店街や若者向けの店も数多く、神奈川県民も多く訪れる東京都有数の商業地として著しく発達しており、小田急沿線の商業地としては新宿に次ぐ2番目の規模である。
このような大商業地でありながら、周辺の南町田(グランベリーモール)、橋本、新百合ヶ丘、海老名(ビナウォーク)などに開設されたシネマコンプレックスとの競合により、2館あった小規模映画館が閉館したため、当駅周辺に映画を鑑賞できる施設がない。
横浜線原町田駅跡地は再開発され、1983年にバスターミナル・自転車駐車場・自動車駐車場・商業施設・JR町田駅ターミナル口改札からなる「町田ターミナルプラザ」となり、東京急行電鉄が所有する商業棟にはテナントとして東急ハンズが入居した。その後東急ハンズは東急百貨店町田店再編に際し2007年に百貨店とともに一旦閉店し、同年、百貨店を業態変更した専門店ビルである町田東急ツインズに移転した。東急ハンズ移転閉店後の町田ターミナルプラザ・商業棟には2008年5月23日にファーストリテイリングが経営する商業施設のミーナ町田が開店した[4]。町田ターミナルプラザ・ターミナル棟(2階以下は町田市所有、3階以上は東京急行電鉄所有の「駐車場棟」)の1階は町田ターミナル(バスターミナル)、2階は「ターミナルエイト」と称し、名の通り8つの店舗が入れる商用スペースとなっている。しかし、ターミナルエイトは2008年10月現在、2つの店舗しか営業していない。ターミナルエイトと商業棟の間は、「出会いのひろば」と称する子供用遊具が設置されていた広場でつながっている。出会いのひろばの奥には、1983年10月に設置された和田康男作「水のオブジェ」という作品があったが、ミーナ町田の開店に伴い子供用遊具と共に撤去されたが、後に子供用遊具は撤去したオブジェの位置に戻っている。出会いのひろばの北側には「ターミナルデッキ」と称するペデストリアンデッキがあり、JR町田駅ターミナル口から町田中央図書館が入居するホテル ザ・エルシィまでつないでいる。出会いのひろば前のペデストリアンデッキ上には、1983年10月に設置された黒川紀章作「シティゲート」という作品があり、このモニュメントが真南北を示している。
商業地域からJR町田駅を挟んだ反対側エスカレータを降りて目の前にヨドバシカメラがあり、そして徒歩数分の町田市と相模原市の境界線近くに性風俗店やラブホテルが数多く並び、一部では西の歌舞伎町という声もある。2007年4月にはその風俗店などが並んでいる場所から近くの都営住宅などで暴力団による銃撃事件(町田市立てこもり事件)が発生し、暴力団を逮捕するために特殊捜査班が駆けつけ周囲を管轄警察官が立ち入り禁止にするなど騒動になった。銃撃事件発生後は駅周辺の各所に警察官が配置され、治安が強化されている。
JR町田駅から小田急町田駅までの間の通路は通行人の往来が激しい。またマルチまがい商法の勧誘やホストの客引きや風俗店による違法なティッシュ配りなどが激しく、中には歩行者の前に足を出すようにして強引に引き止めるなどの悪質な手口も見られ、これら全般の行為を警察は犯罪率の増加を示しているとして懸念している。
その一方で、駅からしばらく歩くと、緑や公園が多く存在し、緑が豊かな街としての一面もある。駅周辺にある公園のひとつである芹ヶ谷公園(参考)には、町田市立国際版画美術館があり、古今東西の多くの版画が常設展示されている。
東京都町田市と神奈川県相模原市(昔の武蔵国と相模国)の境界とされた境川はかつては激しく蛇行しており、河川改修によって流路が直線化された後も両市間では一部区間を除いて都県境が非常に入り組んだまま残されている。そのため、JR町田駅中央口南側のヨドバシカメラ周辺は境川の北側ではあるが一部は神奈川県相模原市に属する。事実、ヨドバシカメラは入口部分を除きほとんどが相模原市である(店内での盗難などの犯罪は相模原南警察署の管轄となる)。
JR中央口と小田急西口との間にはペデストリアンデッキが2つあるが、丸井側のみに屋根があり、町田モディ側には屋根がない。丸井側が横浜線の駅移転と共に建造されたものであり、JRと小田急の連絡通路として使われたが、やがて常に全体が溢れ返るほど混雑したことから、町田モディ(旧大丸)側にも1993年に追加でデッキが建造された。
JR中央口と町田東急ツインズとの間のペデストリアンデッキ上の広場は「モニュメント広場」と称され、その名の通り、回転する「曲がりくねった棒」でできたモニュメントが存在し、鳩が乗ったまま回転している光景もよく見られた。このモニュメントは1980年に設置された伊藤隆道作「動く彫刻モニュメント」という作品である。この広場にも屋根がなかったため、一時期は傘を貸し出すサービスを行っていたが、2006年末頃にモニュメントを取り囲むような形で布製の屋根が設置された。最近では、このモニュメントが回転している様子が伺えない。
町田東急ツインズのEASTとWESTとの間の道路上の町田駅中央口ペデストリアンデッキ向かいには、将来多摩都市モノレールの町田駅ができることになっているが、用地買収が滞るなどの要因により、モノレールが町田駅まで延伸する目処は立っていない。なお、町田東急ツインズ(旧東急百貨店)の両館の間を結ぶ連絡橋は、この計画があったために5階という高い位置に作られたとされる。
駅周辺の上空は厚木海軍飛行場への空路となっていて、爆音を聞き、空を見上げると軍用機の下部を見ることがある。1964年には駅周辺の繁華街で軍用機の墜落事故(町田米軍機墜落事故)が発生し、事故現場周辺にいた4名が死亡するという惨事もあった。
▼駅名の由来
JR東日本
駅開設当時の「原町田」とは、駅所在地の地名から名付けられた。その後、駅が小田急線町田駅側に移築された事に伴い、「町田」と改称された。当時横浜線の主力だった103系が町田行として走る場合の方向幕では、当初は「町田」に置き換えられずに「原」の文字だけ消されて「 町田」となったものもあった。
改称に際しては、国鉄は当初既に存在していた宮原線(1937年開業→1984年廃止)「町田駅」と駅名が重複していたことから、難色を示した。しかし、大阪府出身の当時の町田市長が、東北本線福島駅(福島市)と大阪環状線福島駅(大阪市福島区)の事例を取り上げ、「既に重複している例はある」と国鉄を説き、改称にこぎつけている。
▼小田急電鉄
「原町田」に新しく設置された駅という意味で「新原町田」として開設された。その後、町田市の玄関口として駅周辺が発展したことに伴い、駅の大規模改良工事完成を半年後に控えた1976年4月に「町田」と改称された。この際、町田市の中心駅なのに「原」というのが駅名に付くのは「おかしい」という意見もあったという。
▼横浜線の駅の移転について
そこで、町田市などは横浜線の駅を小田原線と横浜線の交差地点近くに移設しようと計画したが、これに対して2つの間にある商店街が猛烈に反対を唱えた。というのも、乗り換え客の中には途中でこのような商店街に立ち寄る人も非常に多く、駅が移設してしまうとこのような客がいなくなる恐れがあったからである。その後も反対運動が続けられ、4千人を超える署名が集められた。