広島市は、日本の広島県にある都市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。中国地方の中南部、広島県西部に位置し、中国・四国地方で第1位の人口を有する。
世界史上初めて核兵器で爆撃された都市として、世界的に知名度が高い。それ故に、国際平和文化都市としても一定の影響力を持っており、広島市長の発案で創設された「平和市長会議」には130を超える国から3000以上の自治体が加盟している。第二次世界大戦以前には軍事都市であった歴史とは対照的である。
都市としての広島の歴史は、戦国大名の毛利輝元が1589年に広島城を建設したことに始まる。江戸時代には、広島藩42万石の城下町として藩主浅野氏のもとで発展した。戦前には、陸海軍の拠点が集中する軍事都市となり、特に日清戦争時には広島大本営が置かれて帝国議会が開かれるなど、臨時の首都機能を担った。
第二次世界大戦末期の1945年8月6日、アメリカ軍の戦略爆撃機B-29「エノラ・ゲイ」によって広島市中心部の相生橋上空に原子爆弾「リトルボーイ」が投下され、きのこ雲が立ち上り、市街地は一瞬にして破壊された。当日中に数万人、1945年末までに13万人の人命が奪われ、生存者も火傷痕、放射能後遺症、精神的後遺症(PTSD等)、遺伝への不安に生涯苦しむなど、市民が経験した苦痛は人類史上類を見ないものであった。
戦後は重工業や自動車産業を中心に復興し、日本の主要な工業都市となっている。1980年には政令指定都市に指定された。現在では全国の市で10番目の人口を抱える。
地理的には山陽地方のほぼ中南部に位置しており、広島都市圏の核となっている。京阪神と福岡都市圏のほぼ中間に位置しているため、中国地方あるいは中国・四国地方を統括する政府機関や、全国規模で展開している企業の地方拠点も多く置かれている、また、西日本有数の工業都市でもあり、沿岸部は工業地帯となっている。地場資本も比較的強い方であり、製造業の本社・本部が多く置かれている。地元で効率よくまとめようとする傾向が目立つとも言われるが、広島経済の堅実さの表れである。
近年では、人口の郊外への流出も引き続いて見られる一方で、中区の人口密度が地方圏で最も高くなるなど、都心回帰の傾向が見られる。平和大通りでは、80mを超える高層ビルが相次いで建設されている。
中区以外においても、広島駅周辺を始め、宇品や緑井、段原などの開発・再開発が進み、既存の商工センターや西風新都と併せて、都市拠点機能が活性化している。交通インフラ面では都市高速道路である広島高速道路の整備のほか、広島電鉄の市内路面電車のLRT整備や、広島アジア大会の開催に合わせて開通した広島高速交通「アストラムライン」の延伸、およびJRとのアクセス改良計画が進むなど多方面から都市機能の充実がすすめられている。
南は瀬戸内海に面し、広島湾となっている。市の中心部を流れる太田川の河口に開けた三角州上に市街地が形成されている。太田川デルタを中心に広島平野が形成されているが、それを取り囲むように市の西部・北部・東部は丘陵地帯となっている。
山:白木山、備前坊山、呉娑々宇山
川:デルタ6川…太田川、天満川、元安川、旧太田川、京橋川、猿猴川
その他…三篠川、瀬野川、八幡川、府中大川、安川、二又川
島:似島、金輪島、宇品島、峠島
港湾:広島湾、広島港、草津港
「広島」という名称は、戦国時代末期、この地を支配した戦国大名の毛利輝元が築城に際して命名した。
当時この地は太田川河口デルタの形成途上にあり、箱島や日地島などいくつかの島が点在しており、五箇庄と呼ばれていた。築城する島がこれらの島の中で最も広いことから「広島」と命名したとされるが、輝元には別の意図もあった。広島築城事業は、当時120万石の「西国の雄」毛利家が、本拠地をそれまでの吉田郡山城から移して新たに築こうという大事業であり、城の名称には家運長久の願いが込められた。毛利氏は代々、大江広元の末裔であることを誇りとしており、本姓は大江氏であったことや、「広大」「末広」の縁起から「広」の字を冠することとし、「島」については城普請案内を務め、この界隈の地勢に詳しかった普請奉行の福島元長の名字からとって命名した。
輝元の祖父・毛利元就の時代には、完全に臣従したものには、「元」を一字書出として与えたが、そうでない国人衆には、明白に傘下に組み入れられたと示す「元」の字を避け、「広」の字を与え始めたとされる。この慣習は「広島」の命名者である毛利輝元にも引き継がれ(輝元が「広」を一字書出として与えた者には、吉川広家、山内広通、益田広兼などがいる)、輝元が命名に関与する場合、「広」はこのような重要な意味合いをもった。