浜松城は静岡県浜松市中区にある城。野面積みの石垣で有名。「出世城」という別名がある。
▼歴史
浜松城は、前身は曳馬城と呼ばれる。築城者については諸説あるが、瀬名姫の先祖である今川貞相が初めて築城したという。
▼家康時代
元亀元年(1570年)に家康は、武田信玄の侵攻に備える為、本拠地を岡崎城から浜松城へ移した。岡崎城は嫡男・信康に譲られた。当初は、天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際、天竜川の存在そのものが「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。曳馬という名称は「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いため、かつて「浜松荘」と呼ばれる荘園であったことから、城名・地名ともども「浜松」と改めた。挑発された家康は浜松城から打って出たが、当時、戦国時代最強ともいわれた武田軍の巧妙な反撃に遭って大敗北を喫している。張・改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わった[1]が、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松城から駿府城に本拠を移した。家康の在城期間は、17年になる。
▼ 家康以後
浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の昭和の模擬天守閣が再建された。1959年には浜松市の史跡として指定された。
▼出世城
「出世城」という呼び名に関しては、一般的には数々の浜松城主が幕府の重役に出世した例が多く、このことから出世城とも呼ばれたとされる。幕府は事件を起こした正甫を左遷し、忠邦を浜松へ移した。浜松は水野忠精に代わって井上正甫の長男・正春が治めることになった。
▼交通
JR浜松駅より徒歩約20分
JR浜松駅より遠鉄バスで浜松市役所前下車。乗車約10分 + 徒歩約5分
■■浜松駅■■
浜松駅は、静岡県浜松市中区砂山町にある東海旅客鉄道の駅である。東海道新幹線は西側から浜松工場への引き上げ線が分岐している。上下ホームとも、両端に各車系ごとの停車位置表示がある。東海道本線は西側の電留線から上り本線を介し、浜松運輸区や西浜松駅への引き上げ線が分岐する。新幹線在来線乗り換えコンコースの在来線側に設置されており、駅ビル「メイワン」を経てアクトシティ浜松の連絡通路へつながっている。
▼ 機関車交換駅時代
1949年5月20日に東海道本線静岡~浜松間の電化が完成すると、浜松駅は電化区間の境界となり、東京方面の電気機関車と名古屋方面の蒸気機関車との交換が行われるようになった。機関車交換に伴う停車時間の増加は、浜松駅に以下のような「名物」を生むことになった。1953年7月21日に浜松~名古屋間の電化が完成すると機関車交換駅の役割は終わりを告げた。ただし、「ハモニカ娘」はその後も駅の名物として1969年まで営業を続け、乗客に親しまれた。
▼東京-浜松間の普通列車
国鉄時代は東京-浜松間の普通列車が1日に何本か設定されていたが、JR化後しばらくして消滅した。2005年12月に夜行便の「ドリーム静岡・浜松号」、2006年12月に渋谷マークシティ・新宿高速バスターミナル行きの「渋谷・新宿ライナー浜松号」も加わった。
■■浜松宿■■
浜松宿(はままつじゅく) は旧東海道の宿場で、東海道五十三次の江戸から数えて29番目、京から数えて25番目にあたる。
現在の静岡県浜松市の中心部にあたり、浜松城の城下町として天保年間には本陣が6軒、旅籠が94軒もあったとされる、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場であった。
■■浜松まつり■■
浜松まつりは、静岡県浜松市で毎年ゴールデンウィーク期間中の5月3日から5月5日までの3日間に端午の節句にちなんで開催される凧揚げ合戦と、同時に市内各地で行われる恒例行事の総称。
▼起源・歴史
これまでその起源は、室町時代の永禄年間に、引間城(現在の浜松城)の城主であった、飯尾豊前守の長男・義廣公の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義廣公の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であることがわかっている。
現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村(現浜松市有玉台)在住の国学者・高林方朗(みちあきら)の日記で、寛政元年(1789年)4月に初凧を購入したという記述が確認されている。
江戸時代の中期には、端午の節句に祝凧を贈って揚げるという風習は浜松だけでなく遠州地方全域で行われており、嫁の里から凧が贈られ、贈られた家では、糸や用具を整え、それを近所の若者が揚げた。
浜松の城下町では初凧に糸切合戦の要素が加わりそれが人々を熱狂させ今日まで続くに至る。 明治7年頃、浜松の職人町に消防組が組織されると各町の若者同士の対抗意識が高まって町同士による凧合戦が行われるようになった。
戦後の再開頃から行政が主導するようになると、浜松市の観光イベントとして急激に拡大路線へ転換した。昭和45年に自主的な管理組織であった連合青年団統監部が解散させられると、浜松市・観光協会・商工会議所・自治会連合会からなる浜松まつり本部が新たに組織され、観光路線にさらに拍車がかかることになった。
激な肥大化により参加町の3分の2以上が途中参加という現実は、浜松の凧そのもののありようを大きく変化させるに至っている。