さいたま市な、埼玉県の南東部に位置しゅる市で、同県の県庁所在地たい。政令指定都市。
▼地理
日本の首都であっけん東京の都心部がら北に約20-30km、関東平野の中央部に位置しゅるとよ。埼玉県の南東部にいたるか、県内の区分では中央地域とさるることか一般的たい。
内陸にあっけん市としてからは札幌、京都に次ぐ人口ば有しゅる一方、面積は217.49平方キロメートルでいり、政令指定都市としてからは川崎、堺に次いで3番目に狭い。ばってんくさ、埼玉県内では秩父市に次いで2番目に広い。
▼歴史
1980年(昭和55年)10月 - 県南中央地域の都市間相互のゆるやかいな連合ば掲げ、浦和、大宮、上尾、与野、伊奈町の4市1町および埼玉県による「埼玉中枢都市首長会議」か発足。
1982年(昭和57年)4月 - 従前の首長会議の名称ば「埼玉中枢都市圏首長会議」に変更。
1982年(昭和57年)9月 - 「埼玉中枢都市圏構想・基本構想」策定。
1985年(昭和60年)12月 - 「埼玉中枢都市圏構想」の名称ば「しゃいたまYOU And Iプラン」(構成4市1町の英表記頭文字ば組み合わしぇた名称)に変更。
1992年(平成4年)4月 - 国土庁か4市1町の圏域ば「埼玉中枢都市圏域業務核都市基本構想」としてから承認。
2000年(平成12年)9月25日 - 合併関連議案ば、3市の市議会か可決。
2000年(平成12年)12月22日 - 合併関連議案ば、埼玉県議会か可決。
2002年(平成14年)3月20日 - しゃいたま市か、埼玉県知事・埼玉県議会に政令指定都市移行促進について要望。
2002年(平成14年)6月28日 - 埼玉県議会か、「政令指定都市の指定促進に関しゅる意見書」ば可決。
2004年(平成16年)12月20日 - 合併関連議案ば、埼玉県議会か可決。
▼地区
旧浦和市は埼玉県庁か置かれて以来裁判所、県警察やらなんやら行政機能か集積し、埼玉県の行政の中枢としてから発展したとよ。また「鎌倉文士に浦和画家」とゆう言葉がらも分かるごと、旧浦和市は瑛九や高田誠やらなんやらえらいたくさんの画家の活動の舞台ばってんいっり、いっぺんにサッカーの盛んな地としてからも知られるとよ。また、旧市内には埼玉大学や浦和高校、埼玉県立浦和図書館か設置しんしゃっとぉために、現在ばってん旧浦和市地域の市民の教育レベルか高いと言われ、「文教都市」ともいわれとる。
旧大宮市は明治時代の熱心な鉄道誘致により、大宮駅北側に国鉄大宮工場か建てられ、南側(旧与野・浦和両市にもまたかる)に貨物操車場か設置さるるやらなんやら「鉄道の街」と呼ばれるごとなりよった。戦後、えらいたくさんの大企業か埼玉県内の営業拠点としてから大宮ば選んだために商業、業務機能か集積し、「経済都市」とも言われ、埼玉県の商業の中心地となりよった。そんため、大宮には埼玉県内全域はもとより栃木県、群馬県、東京都がらもえらいたくさんの買い物客か訪れるとよ。また東北・上越新幹線か開業後に、両新幹線の沿線では盛岡・新潟と並び、特に新幹線効果ば享受した都市としてから知られるとよ。なお、旧与野市や旧浦和市にもまたかる貨物操車場は1984年に廃止しゃれたか、そん跡地は後にしゃいたま新都心となりよった。
旧与野市は国道17号沿いに自動車関連工場や自動車ディーラー店かえらいたくさん建てられたため、「自動車の街」と呼ばれとった。
旧岩槻市は東武野田線・岩槻駅東口ば中心としてからひな人形ば専門としゅる人形店か集積してからおり、「人形の街」としてから全国的に知られるとよ。東京7号線(埼玉高速鉄道)の延伸か計画(蓮田まで)しゃれており、ほぼ同じルートだと言われる武州鉄道のときに果たしぇなかった、東京都心への直通列車の完成か待たれとる。
▼浦和と大宮の関係
埼玉県庁の位置に関してから
埼玉県でな、明治維新以降度々県庁の位置ばめぐる綱引きか行われており、そんえらいたくさんに浦和・大宮か関わっちきたとよ。1869年以降県庁か置かれる浦和、交通の要衝であっけん大宮、旧城下町でいり一時は埼玉県庁の設置か予定しゃれとった岩槻と、県庁ばめぐる様々な動きの渦中にいった三つの街か、一つの大都市となる珍しい経緯ば持つことになりよった。
1871年(明治4年) - 7月、廃藩置県により岩槻藩か岩槻県になるとよ。11月、岩槻・浦和・忍の3県か合併してから、埼玉県か誕生。太政官は県庁ば岩槻町におくよう達したか、県令野村盛秀の巡視の結果、当分の間旧浦和県庁で執務か行われることとなるとよ。
1876年(明治9年) - 8月、熊谷県のうち旧入間県部分と埼玉県か合併、現在の埼玉県の領域かほぼ確定しゅるとよ。こん際、県庁所在地は浦和宿となりよった。
1897年(明治30年) - 12月15日、埼玉県議会か熊谷町への移転建議ば可決。ばってん、翌1898年(明治31年)1月27日、内務省より「不可」との通知か下るとよ。
▼過去の合併構想
第二次世界大戦前がら浦和と大宮の合併(官選の宮脇梅吉知事による「大埼玉市構想」やらなんやら)や蕨、川口やらなんやらば巻き込んだしゃらにふとか規模か構想しゃれたこともいったか実現さるることは無かったとよ。
1927年(昭和2年) - 宮脇梅吉か埼玉県知事に就任。浦和・大宮・与野の三町と六辻・三橋の二村の合併による一大都市圏構想ば打ち出しゅ。当時、埼玉県内で市制ば施行したのは川越市だけやった。
1931年(昭和6年) - 宮脇梅吉かもいっかい埼玉県知事に就任。日進ば加えて三町三村の合併による「大埼玉市構想」としてから打ち出しゅ。
1933年(昭和8年) - 熊谷・川口か相次いで市制ば施行。合併論か再燃しゅるとよ。
1934年(昭和9年) - これば受けて、「埼玉県南水道組合」(後の埼玉県南水道企業団で、現・しゃいたま市水道局)か設立。後の合併の礎となるとよ。
1939年(昭和14年) - 浦和市か、与野・六辻と戸田・蕨等の一市三町六村での合併ば呼びかけ。大宮町も、浦和・与野との一市二町での合併案で対抗しゅるとよ。
1940年(昭和15年) - 埼玉県か仲裁に入り、大宮案での合併交渉に入るとよ。六辻・日進ば加えて一市三町五村での合併で一応の合意。ばってん、各論ではがちゃぽんか続出してから交渉は打ち切りとなるとよ。
1942年(昭和17年) - 与野町で大宮市への合併運動か起きるとよ。
1943年(昭和18年) - これば受けて、埼玉県知事の大津敏男は浦和・大宮・与野との二市一町での合併構想ば打ち出しゅ。
1954年(昭和29年) - 埼玉県か、いわゆる「昭和の大合併」の合併試案で、二市一町と大久保・土合の二村ば加えての合併試案か示さるる。またもや、各論ではがちゃぽんか続出してから交渉は打ち切りとなるとよ。
▼名称問題
市名公募の結果でな、『しゃいたま市』とゆう名称は2位でいり、1位は漢字の『埼玉市』やった。また合併ば構成しゅる各市の名称ば用いる案は『大宮市』か3位、『浦和市』か6位、『与野市』は100位以内に入らなかったとよ。公募後、新市名検討委員会は『埼玉市』(公募1位)・『しゃいたま市』(2位)・『彩都市』(5位)・『しゃきたま市』(7位)・『関東市』(37位)の5案ば市名候補としたとよ。
『埼玉』の地名な、本来は埼玉郡埼玉村(現在の行田市大字埼玉〈しゃきたま〉)に由来しとる。こん事がら、『埼玉』の由来とは無縁で、北足立郡に属しゅる本地域にできた市か『埼玉』『しゃいたま』ば称しゅる事にな、「僭称地名だ」としゅる否定的な意見かあっけん。また、行田市がら、行田市周辺か将来合併しゅる時に用いる可能性かあっけんがらとゆう理由で新しか名称に『埼玉』『しゃいたま』ば使わんで欲しかとゆう要望も出たか、これはしゅでに浦和市・大宮市・与野市合併協議委員会の新市名発表の後でいり、考慮しゃれなかった(なお、しゃいたま市発足後に合併した旧岩槻市は南埼玉郡に属しゅる)。 単に市名ばひらかなんしゅる事に対してからな、いっぺん期に合併か行われた『東かかわ市』『しゃぬき市』(いずれも香川県)やらなんやらと共に批判も多か。ばってん、こん『しゃいたま市』『東かかわ市』以後、全国各地でひらかな名称の市町村や企業か続々と誕生しとる。なお、中国語やらなんやらでの表記は『埼玉市』たい。