ドイツ・ルネサンス様式の鉄骨レンガ造2階建の東京市役所が完成する。同地は現在の千代田区丸の内三丁目に当たる。このときの建物は戦災で焼失し、戦後に新庁舎に建て替えられ、現在はさらに東京国際フォーラムに建て替えられている。1898年(明治31年)10月1日、東京・大阪両市有志同盟の請願が結実し「市制特例撤廃法」が成立、東京市に一般市制が施行され、東京府庁内に市役所が開かれた。府知事の市長兼務は廃止されて東京市長は官選となり、初代市長には松田秀雄が任命された。1926年(大正15年)からは市議の互選により市長が選出されるようになった。大正期に入ると東京市への人口流入はさらに進み、1920年(大正9年)の人口は370万人になった。また、大正年間に入る頃から大東京という表現が見られるようになった。多くの場合それは従来の東京市(15区)と隣接5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)に、しばしば北多摩郡砧村・千歳村を加えた地域を指していた。
これは現在の東京都区部(東京23区)の区域に相当する。1922年(大正11年)4月24日には旧都市計画法に基づき、東京市と上記6郡84町村が「東京都市計画区域」として定められた。1923年(大正12年)9月1日、東京市は関東大震災にみまわれ、特に下町が大打撃を受けた。この影響で1928年(昭和3年)から1932年(昭和7年)の近隣町村編入までの間、大阪市に人口規模で抜かれることになった(→都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位)。1932年(昭和7年)10月1日、近隣の5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)を編入して新たに20区を置き東京35区となった。1936年(昭和11年)10月1日、北多摩郡砧村・千歳村を世田谷区に編入し現在の東京都区部の範囲が確定した。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日に内務省主導で東京都制が施行され、地方自治体としての東京市と東京府は廃止されて東京都が設置された。それまでの東京市役所の機能は、以後は東京都庁に移された。
旧東京市35区は従来どおり議会(区会)をもつ自治体としての性格を保ちながらも東京都の直轄下の区とされ、従来東京市の吏員が任命されていた区長には官吏が任命されることとなり、東京都長官の指揮監督を通じて内務省による統制が強化された。35区は1947年(昭和22年)3月15日に東京22区に再編され、同年5月3日の地方自治法施行により同法の定める特別区となった。同年8月1日、旧練馬町ほか4村の区域が板橋区から分離して練馬区となって東京23区となり、現在に至っている。東京都章及び東京都旗は旧東京市章を継承したものである。ただし、現在では1989年(平成元年)に制定されたTの字を図案化したシンボルマークの方がよく使われる。「都民の日」に当たる10月1日は、一般市制による東京市発足の日に因んでいる。東京都知事は、日本の首都とされる東京都の首長である。東京都は第二次世界大戦中の1943年に行政の効率化を図るために東京府と東京市の統合によって設置され、現在も市町村の事務の一部を管掌している。
東京都は千代田区を管轄に含んでおり、なおかつその立場から日本の首都であるとされる。そのため地方自治体の首長の中でも注目度が高く、知事選挙の時も特に注目される。かつては、東京都制(1943年~1947年)による東京都の首長は官選の東京都長官(親任官)であり、閣議に出席することもできた。現在でもその名残があり、知事の給与は国務大臣とほぼ同額である(ただし石原慎太郎の知事就任時から10%カット中)。東京府は大阪府、京都府と同格であったが東京都はカナダの旧自治領であるトロント・ドミニオン(Toronto Dominion)に倣って制定され、地方自治法上は他の県と同格でありつつも制度の運用面において特別な扱いを講じた自治体である。首府の東京市の行政区は東京都の発足とともに東京都の行政区となるが、1947年に22区、さらに23区に再編され、同年の地方自治法の施行により特別地方公共団体である東京特別区(通称:"東京23区")となった。これにより制度上は東京という名称で一体として統治される都市は消滅し、都市としての自治権は各区へ移管・委譲されたことになる。
現在の東京都はそのような歴史的経緯から、“東京県”としての性質と自治的都市の連合体としての性質を併せ持ち、旧神奈川県域である東京都下にはユニークな市町村が多い。中でも随一の繁華街吉祥寺を擁する武蔵野市や、都市公団(旧:住宅都市整備公団)による郊外住宅街開発により成立した多摩ニュータウンの中心である多摩市、八王子市などは全国的にみても優良な自治体である。最近の東京都知事は鈴木俊一(無所属)、青島幸男(無所属)、石原慎太郎(無所属)で、1991年以降政党の推薦を受けた知事は誕生していない。東京都の自治体としての性質から、他の道府県知事に比較すると、パフォーマンス能力にも長けた人選がなされる傾向もみられる。また、公選になって以降は「東京の顔」にふさわしい人物が東京都知事に就任していると評されている。東京都は東京府と東京市が合わさって成立したため、旧東京市地域を管轄する地方自治体として公的に位置づけられる性格もあり、オリンピックの招致活動などでは東京都知事が東京の市長として扱われる。
これはロンドン(グレーター・ロンドン)と似た構造となっている。これは前述の東京都区部と同じ範囲である。東京都は、府県制時代の東京府の性格も有している。したがって、東京都は日本の47都道府県のひとつでもある。東京府の行政区域を受け継いだため、多摩地域や伊豆諸島・小笠原諸島までの広大な海域・島嶼も含まれる。府県制から都制へ移行した1943年(昭和18年)まで、東京府には東京市・八王子市・立川市の3市があったが、都制施行と共に東京市が23区へ解体されたため、東京都下の市は八王子市と立川市の2市に減った。その後、新憲法施行に伴い地方自治法が施行され、東京都三多摩地区には2市以外にも多くの市が誕生した。東京圏は、東京都区部を中心とする都市圏である。法令上は、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県及び茨城県の都県域のうち、東京都区部及びこれと社会的経済的に一体である「多極分散型国土形成促進法施行令」第6条で定める広域をいう。
ここでは様々な法令が引用されているため難解であるが、まとめると次の区域となる。一般的には、東京都心から50kmから70km程度の圏内を首都圏とみなす定義、あるいは、利根川以南の島嶼部を除く南関東1都3県(東京都・埼玉県・神奈川県・千葉県)を首都圏とみなす定義が多く見られる。近年は新幹線などの交通網の発達により首都圏の範囲は広がっているととらえて、北関東や甲信越地方、静岡県、福島県浜通り・中通りなどを含める論議もある。ただし定義によっては、市街地の連続性や交通網の発達度などの要素が見落とされていたり、科学的かつ厳密なものとは言い切れない場合もある。
2011年9月30日金曜日
2011年9月29日木曜日
東京都制とは
現在の東京都の地域に存在していた東京府と現在の東京23区(当時の東京市は35区)の地域に存在していた東京市を廃止し、新たに東京都という広域行政機関かつ基礎的地方公共団体を設置することを定めた日本の法律である。この法律は1947年の地方自治法の施行に伴い廃止された。1943年(昭和18年)7月1日に東京都制施行。東京府と東京市を廃止し、東京府の存在していた地域に東京都を設置した。東京府と東京市は廃止されたが、ともに条例等を東京都に引き継いだ。 東京都制の目的は「帝都たる東京に真の国家的性格に適応する体制を整備確立すること」、「帝都に於ける従来の府市併存の弊を解消し、帝都一般行政の、一元的にして強力な遂行を期すること」、「帝都行政の根本的刷新と高度の効率化を図ること」にあった。太平洋戦争下における、いわゆる戦時法制のひとつである。東京都制による東京都の長は、官選による東京都長官である。議決機関として東京都議会と東京都参事会を設置した。
東京都長官以下、統治機構の官制については天皇の大権に属するため法律である東京都制ではなく勅令である東京都官制(昭和18年6月18日勅令第503号、昭和18年7月1日施行)によって定められている。従前との相違点は、旧東京市の範囲に設置した区が東京都の直轄になっている点である。区の執行機関である区長は従前は市の有給吏員として東京市において選任されていたが、東京官制によって東京都長官が官吏である書記官をもって選任することに改められた。区は従前どおり法人格をもった自治体としての性格を一応は保ったが、都との関係について様々な合理化が図られ、都の強力な監督下に置かれた。多摩地域や島嶼部の市町村が基礎的地方自治体であることは従前と変わりがないが、これらに対しても都の監督が強化された。戦後、1946年9月に市制(明治44年法律第68号)・町村制(明治44年法律第69号)、府県制(明治32年法律第64号、この改正により道府県制と改称)とともに東京都制も改正された。
この改正により区の自治権が強化されて区長は区長公選制により公選とされた(ただし、1952年~1975年の間は地方自治法改正によって特別区の独立性の制限と都への従属の強化が図られたため、非公選の選任制となる)。同時に東京都長官にも公選制が導入された。1947年4月に実施された最初の東京都知事選挙はこの改正東京都制によるものであり、その時点では東京都長官を選出するものとして実施された。すなわち最初の公選都知事とされる安井誠一郎は4月に最後の東京都長官として選出・就任した後、5月3日の地方自治法施行によって東京都知事に移行したものである。東京都制は地方自治法(昭和22年法律第67号)附則第2条により、1947年5月3日の日本国憲法(昭和21年11月3日憲法)施行に伴い、同日廃止された(同条但書により、東京都制第189条乃至第191条、第198条はなお効力を有する)。また、昭和22年法律第67号附則第2条但書の効力も、昭和39年7月11日法律169号附則第2条及び昭和49年6月1日法律第71号附則第2条、平成10年5月8日法律54号附則第2条、平成11年7月16日法律第87号附則第15条により、効力を再び制限された。
現在の東京都は東京都制ではなく、地方自治法に基づいている。東京都の名称は同法第3条第1項の「地方公共団体の名称は、従来の名称による」という規定に基づくものであるが、特別区の存在を除いて、同法上は他の道府県との違いはない。東京都制下との違いは、首長である東京都知事及び特別区の区長・区議会議員が公選制になるなどである。東京都制、道府県制、市制及び町村制は、これを廃止する。但し、東京都制第189条乃至第191条及び第198条の規定は、なお、その効力を有する。地方自治法附則第2条ただし書によりなお効力を有する旧東京都制第189条から第191条まで及び第198条の規定は、改正後の地方自治法第281条第2項第一三号から第二〇号までに掲げる事務及び第281条の3第2項に規定する特別区の区長の権限に属する事務に関しては、その適用はないものとする。地方自治法附則第2条ただし書の規定によりなおその効力を有することとされる旧東京都制(昭和18年法律第89号)第191条の規定は、法律又はこれに基づく政令により市に属する事務で改正後の地方自治法第281条第2項の規定により特別区が処理することとされているもの並びに同法第281条の3第1項の規定により特別区の区長が管理し、及び執行することとされている事務に関しては、その適用はないものとする。
地方自治法附則第2条ただし書の規定によりなおその効力を有することとされる旧東京都制(昭和18年法律第89号)第191条の規定は、法律又はこれに基づく政令により市に属する事務で第1条の規定による改正後の地方自治法第281条第2項の規定により特別区が処理することとされているもの並びに同法第281条の7第1項の規定により特別区の区長が管理し、及び執行することとされている事務に関しては、その適用はないものとする。新地方自治法附則第2条ただし書の規定によりなおその効力を有することとされる旧東京都制(昭和18年法律第89号)第191条の規定は、法律又はこれに基づく政令により市が処理することとされている事務で新地方自治法第281条第2項の規定により特別区が処理することとされているものに関しては、その適用はないものとする。「東京都制」構想そのものは、明治時代より存在しており、1895年には東京府を廃止して東京15区を「東京都」として独立させて政府の支配を強化し、他の地域を多摩県として再編成させる「東京都制および多摩県設置法案」が提出されたが、帝国議会(第9議会)や東京市民の反感を買って廃案となり、野村靖内務大臣は責任を取って辞任している。
東京市は、旧東京府東部に1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)までの間に存在していた市である。市域は現在の東京都区部(東京23区)に相当する。1878年(明治11年)7月22日、東京府は府下を区と郡に分かち、府税収入の多い地域を吟味選定のうえ、郡区町村編制法第2条の定めるところに従って旧幕時代の地称を付し麹町区・神田区・浅草区以下の東京15区を設けた。同時に、市街地に隣接する旧街道宿場および農村部に荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡を置いた。1888年(明治21年)、東京市区改正条例公布。政府の機関として東京市区改正委員会(委員長・芳川顕正元東京府知事)が置かれる。1889年(明治22年)5月1日、前月施行の「市制・町村制」に基づき東京府は府下に東京市を設け旧15区の区域をもって市域となして、区部の財産管理を移掌した。東京市の市制は、同3月公布法律12号「市制中東京市京都市大阪市二特例ヲ設クルノ件」(市制特例)によって一般市とは一部異なる変則的な市制だった。
東京府知事および府書記官が市長を兼務しており、市役所も市職員も置かれなかった。その一方で従来の15区はそれぞれ単独で区会(議会)を持ち、東京市の下位の自治体とされた。
東京都長官以下、統治機構の官制については天皇の大権に属するため法律である東京都制ではなく勅令である東京都官制(昭和18年6月18日勅令第503号、昭和18年7月1日施行)によって定められている。従前との相違点は、旧東京市の範囲に設置した区が東京都の直轄になっている点である。区の執行機関である区長は従前は市の有給吏員として東京市において選任されていたが、東京官制によって東京都長官が官吏である書記官をもって選任することに改められた。区は従前どおり法人格をもった自治体としての性格を一応は保ったが、都との関係について様々な合理化が図られ、都の強力な監督下に置かれた。多摩地域や島嶼部の市町村が基礎的地方自治体であることは従前と変わりがないが、これらに対しても都の監督が強化された。戦後、1946年9月に市制(明治44年法律第68号)・町村制(明治44年法律第69号)、府県制(明治32年法律第64号、この改正により道府県制と改称)とともに東京都制も改正された。
この改正により区の自治権が強化されて区長は区長公選制により公選とされた(ただし、1952年~1975年の間は地方自治法改正によって特別区の独立性の制限と都への従属の強化が図られたため、非公選の選任制となる)。同時に東京都長官にも公選制が導入された。1947年4月に実施された最初の東京都知事選挙はこの改正東京都制によるものであり、その時点では東京都長官を選出するものとして実施された。すなわち最初の公選都知事とされる安井誠一郎は4月に最後の東京都長官として選出・就任した後、5月3日の地方自治法施行によって東京都知事に移行したものである。東京都制は地方自治法(昭和22年法律第67号)附則第2条により、1947年5月3日の日本国憲法(昭和21年11月3日憲法)施行に伴い、同日廃止された(同条但書により、東京都制第189条乃至第191条、第198条はなお効力を有する)。また、昭和22年法律第67号附則第2条但書の効力も、昭和39年7月11日法律169号附則第2条及び昭和49年6月1日法律第71号附則第2条、平成10年5月8日法律54号附則第2条、平成11年7月16日法律第87号附則第15条により、効力を再び制限された。
現在の東京都は東京都制ではなく、地方自治法に基づいている。東京都の名称は同法第3条第1項の「地方公共団体の名称は、従来の名称による」という規定に基づくものであるが、特別区の存在を除いて、同法上は他の道府県との違いはない。東京都制下との違いは、首長である東京都知事及び特別区の区長・区議会議員が公選制になるなどである。東京都制、道府県制、市制及び町村制は、これを廃止する。但し、東京都制第189条乃至第191条及び第198条の規定は、なお、その効力を有する。地方自治法附則第2条ただし書によりなお効力を有する旧東京都制第189条から第191条まで及び第198条の規定は、改正後の地方自治法第281条第2項第一三号から第二〇号までに掲げる事務及び第281条の3第2項に規定する特別区の区長の権限に属する事務に関しては、その適用はないものとする。地方自治法附則第2条ただし書の規定によりなおその効力を有することとされる旧東京都制(昭和18年法律第89号)第191条の規定は、法律又はこれに基づく政令により市に属する事務で改正後の地方自治法第281条第2項の規定により特別区が処理することとされているもの並びに同法第281条の3第1項の規定により特別区の区長が管理し、及び執行することとされている事務に関しては、その適用はないものとする。
地方自治法附則第2条ただし書の規定によりなおその効力を有することとされる旧東京都制(昭和18年法律第89号)第191条の規定は、法律又はこれに基づく政令により市に属する事務で第1条の規定による改正後の地方自治法第281条第2項の規定により特別区が処理することとされているもの並びに同法第281条の7第1項の規定により特別区の区長が管理し、及び執行することとされている事務に関しては、その適用はないものとする。新地方自治法附則第2条ただし書の規定によりなおその効力を有することとされる旧東京都制(昭和18年法律第89号)第191条の規定は、法律又はこれに基づく政令により市が処理することとされている事務で新地方自治法第281条第2項の規定により特別区が処理することとされているものに関しては、その適用はないものとする。「東京都制」構想そのものは、明治時代より存在しており、1895年には東京府を廃止して東京15区を「東京都」として独立させて政府の支配を強化し、他の地域を多摩県として再編成させる「東京都制および多摩県設置法案」が提出されたが、帝国議会(第9議会)や東京市民の反感を買って廃案となり、野村靖内務大臣は責任を取って辞任している。
東京市は、旧東京府東部に1889年(明治22年)から1943年(昭和18年)までの間に存在していた市である。市域は現在の東京都区部(東京23区)に相当する。1878年(明治11年)7月22日、東京府は府下を区と郡に分かち、府税収入の多い地域を吟味選定のうえ、郡区町村編制法第2条の定めるところに従って旧幕時代の地称を付し麹町区・神田区・浅草区以下の東京15区を設けた。同時に、市街地に隣接する旧街道宿場および農村部に荏原郡・東多摩郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の6郡を置いた。1888年(明治21年)、東京市区改正条例公布。政府の機関として東京市区改正委員会(委員長・芳川顕正元東京府知事)が置かれる。1889年(明治22年)5月1日、前月施行の「市制・町村制」に基づき東京府は府下に東京市を設け旧15区の区域をもって市域となして、区部の財産管理を移掌した。東京市の市制は、同3月公布法律12号「市制中東京市京都市大阪市二特例ヲ設クルノ件」(市制特例)によって一般市とは一部異なる変則的な市制だった。
東京府知事および府書記官が市長を兼務しており、市役所も市職員も置かれなかった。その一方で従来の15区はそれぞれ単独で区会(議会)を持ち、東京市の下位の自治体とされた。
2011年9月28日水曜日
江戸時代、江戸の市域は
「朱引」と呼ばれ、その範囲は「朱引き線」によって明示されていた。明治2年2月19日(1869年)、江戸に代わった東京府は、新たな朱引を定めた。これは皇居を中心とし、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めるものであった。同年3月16日には、朱引内に50区の区画が制定され(五十番組制、五十区制)、さらに明治4年6月(1871年)にはその範囲が縮小されて44区に再編成された(朱引内四十四区制)。1878年(明治11年)、郡区町村編制法が制定され、宮城(皇居)周辺の都心部に、麹町区、神田区、日本橋区など15区が定められた。1889年(明治22年)には、この15区に市制が施行され、東京市となる。明治時代には、およそ明治通りの内側が東京市とされ、外側は南豊島郡渋谷村などの町村であった。このときの東京市は、現在の千代田区、中央区、港区、文京区、台東区の全域、および新宿区・墨田区・江東区の各一部を範囲としていた。1932年(昭和7年)、周辺82町村が編入され、面積・人口が一気に拡大した。
このとき、既存の15区に加えて、新たに20区が定められ、35区となった。現在の東京都区部の区域は、このときの35区とほぼ重なる。1943年(昭和18年)には東京都制が施行されて東京府および東京市は廃止され、35区は東京都の行政区となった。1947年(昭和22年)に地方自治法が公布されて35区は再編され、23の特別区となった。制度創設から長らく、特別区は東京都の内部的団体と位置付けられ、日本国憲法93条2項の「地方公共団体」にあたらないと解されてきた。しかし、2000年(平成12年)の地方分権改革により、特別区は「基礎的な地方公共団体」と規定され、名実ともに独立した地方公共団体となった。東京高速道路及びその高架下(西銀座デパート等)- 皇居外濠、京橋川、汐留川を埋め立てて作られたものであるが、外濠は千代田区と中央区、汐留川は中央区と港区の境界線になっており、東京高速道路及びその高架下は区界の上に存在する。こうした経緯により、その行政上の所属は未確定のままである。
中央防波堤内側埋立地、中央防波堤外側廃棄物処理場 - 江東区・大田区が帰属を主張し未確定となっている。大手町から丸の内、霞が関、汐留、六本木にかけての地域は、オフィス街として大企業の本社や中央省庁が立地し、日本の経済・行政の中心地となっている。他に品川、新宿などの副都心もオフィス街となっている。2009年6月、CBリチャード・エリス(CBRE)グループによるオフィス不動産市場調査によると、東京都心はロンドンのウエスト・エンド地区やニューヨークのミッドタウン地区を凌ぎ、世界で最もオフィス価格が高いと評価されている。百貨店や専門店、商業ビルが多数立地している商業地は、銀座・有楽町エリア、渋谷エリア、原宿・青山・表参道エリア、東京駅・日本橋エリア、新宿エリア、浅草・上野エリア、池袋エリアの7大エリアが主な所である。これらの中でも銀座は、ニューヨークの五番街、パリのシャンゼリゼ通りと共に、高級百貨店やラグジュアリーショップ、ブランド旗艦店などが立ち並ぶブランドストリートとして世界的にも知られる。
他に有名な街(繁華街)は、六本木・赤坂・麻布エリア、恵比寿・代官山エリア、秋葉原、お台場、新橋、自由が丘、神田、神保町、神楽坂、高田馬場、高円寺、蒲田、北千住、錦糸町、下北沢・三軒茶屋エリア、巣鴨、中野、赤羽、練馬、五反田なども有名な街である。近年、オフィス街に商業施設がオープンしたり、商業地にマンションやオフィス棟が建設されるなど、オフィス街、繁華街、住宅地の区別が曖昧になってきている。都心も、行政区単位で都心3区や都心5区、都心7区などを指す場合もあれば、首都高内側の都心11区を指す考えまで様々であり、街も数え上げれば膨大になる。フランスのタイヤメーカーミシュランが発行するグルメブック、『ミシュラン東京日本語版2008』が2007年11月に刊行された。アジアでは初のことである。2008年版では23区のうち8区が対象となり、三つ星レストランが8店と、パリに次いで多く、星を獲得した店の合計は世界一多い150店、星の総数は191となった。
総責任者のジャン=リュック・ナレは「東京は世界一の美食の都」と語り、ロイター通信は、「パリやニューヨークやローマは、もうどうでもいい。ミシュランによると、グルメの本場は東京なのだそうだ」と伝えた。2010年度版では、三つ星が11店、二つ星が42店、一つ星が144店となり、星の総数が史上最多の261となった。 三つ星の数でもパリの10店を抜き、世界一となっている。ミシュランガイドの総責任者のナレは、「東京は世界の美食の首都だ」と評価し、2位以下は京都、パリの順だと発言している。さらに東京はパリの4倍の飲食店があるが、質も格別と絶賛した。東京都区部の市外局番としては03が使用される。なお、市外局番03は、東京都狛江市の大部分と調布市・三鷹市の一部地域でも使用されている。しかし、東京03は隣接の神奈川県・埼玉県・千葉県では使用されていない。 東京都区部の市内局番は1960年2月7日から3桁(それ以前は2桁。詳しくは日本における市外局番の変更を参照)であったが、対象となる電話加入者の急激な増加に対応しきれなくなってきたため、1988年2月8日から新規加入者を中心として段階的に5で始まる4桁のものが使い始められた。
1991年1月1日からは、既存の3桁の市内局番の利用者についても、その前に3を加えた4桁に変更することで、全面的に4桁に切り替えられた。また、2003年ごろから4または6で始まる4桁が増えてきた。大田区羽田地区に所在する第一種空港。羽田地区一帯は、大田区の未来核として位置付けられており,空港沖合展開により区に返還される土地の利用について検討が行われている。アクセス路線として東京モノレール羽田線と京急空港線が空港内に直結している。羽田空港は2010年10月21日に4本目の滑走路と新しい国際ターミナルの供用が開始され再国際化した。これにより32年ぶりとなる台湾以外の航空会社の国際線定期便が就航した。これまで定期チャーター便扱いであった中華人民共和国、大韓民国、香港、台湾向けの路線は定期便に格上げされ、増便された。羽田空港以外の国際線は千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)が最寄となる。成田空港は、第一ターミナルビルの地下に成田空港駅、第二ターミナルには空港第2ビル駅が設置されており、JR成田線と京成本線が所属している。
そのため、アクセス路線としてはJR東日本が東京駅を発着する各路線方面から空港へ直結する列車成田エクスプレス(NEX) とエアポート成田、京成電鉄は京成スカイライナーをそれぞれ運行している。23区東部、東京湾に面する港湾。都が管理している。港則法上では「京浜港東京区」といい、「京浜港川崎区」の北部に隣接する。日本の主要な国際貿易港の一つで、横浜港と共に「スーパー中枢港湾」として国から指定されている。
このとき、既存の15区に加えて、新たに20区が定められ、35区となった。現在の東京都区部の区域は、このときの35区とほぼ重なる。1943年(昭和18年)には東京都制が施行されて東京府および東京市は廃止され、35区は東京都の行政区となった。1947年(昭和22年)に地方自治法が公布されて35区は再編され、23の特別区となった。制度創設から長らく、特別区は東京都の内部的団体と位置付けられ、日本国憲法93条2項の「地方公共団体」にあたらないと解されてきた。しかし、2000年(平成12年)の地方分権改革により、特別区は「基礎的な地方公共団体」と規定され、名実ともに独立した地方公共団体となった。東京高速道路及びその高架下(西銀座デパート等)- 皇居外濠、京橋川、汐留川を埋め立てて作られたものであるが、外濠は千代田区と中央区、汐留川は中央区と港区の境界線になっており、東京高速道路及びその高架下は区界の上に存在する。こうした経緯により、その行政上の所属は未確定のままである。
中央防波堤内側埋立地、中央防波堤外側廃棄物処理場 - 江東区・大田区が帰属を主張し未確定となっている。大手町から丸の内、霞が関、汐留、六本木にかけての地域は、オフィス街として大企業の本社や中央省庁が立地し、日本の経済・行政の中心地となっている。他に品川、新宿などの副都心もオフィス街となっている。2009年6月、CBリチャード・エリス(CBRE)グループによるオフィス不動産市場調査によると、東京都心はロンドンのウエスト・エンド地区やニューヨークのミッドタウン地区を凌ぎ、世界で最もオフィス価格が高いと評価されている。百貨店や専門店、商業ビルが多数立地している商業地は、銀座・有楽町エリア、渋谷エリア、原宿・青山・表参道エリア、東京駅・日本橋エリア、新宿エリア、浅草・上野エリア、池袋エリアの7大エリアが主な所である。これらの中でも銀座は、ニューヨークの五番街、パリのシャンゼリゼ通りと共に、高級百貨店やラグジュアリーショップ、ブランド旗艦店などが立ち並ぶブランドストリートとして世界的にも知られる。
他に有名な街(繁華街)は、六本木・赤坂・麻布エリア、恵比寿・代官山エリア、秋葉原、お台場、新橋、自由が丘、神田、神保町、神楽坂、高田馬場、高円寺、蒲田、北千住、錦糸町、下北沢・三軒茶屋エリア、巣鴨、中野、赤羽、練馬、五反田なども有名な街である。近年、オフィス街に商業施設がオープンしたり、商業地にマンションやオフィス棟が建設されるなど、オフィス街、繁華街、住宅地の区別が曖昧になってきている。都心も、行政区単位で都心3区や都心5区、都心7区などを指す場合もあれば、首都高内側の都心11区を指す考えまで様々であり、街も数え上げれば膨大になる。フランスのタイヤメーカーミシュランが発行するグルメブック、『ミシュラン東京日本語版2008』が2007年11月に刊行された。アジアでは初のことである。2008年版では23区のうち8区が対象となり、三つ星レストランが8店と、パリに次いで多く、星を獲得した店の合計は世界一多い150店、星の総数は191となった。
総責任者のジャン=リュック・ナレは「東京は世界一の美食の都」と語り、ロイター通信は、「パリやニューヨークやローマは、もうどうでもいい。ミシュランによると、グルメの本場は東京なのだそうだ」と伝えた。2010年度版では、三つ星が11店、二つ星が42店、一つ星が144店となり、星の総数が史上最多の261となった。 三つ星の数でもパリの10店を抜き、世界一となっている。ミシュランガイドの総責任者のナレは、「東京は世界の美食の首都だ」と評価し、2位以下は京都、パリの順だと発言している。さらに東京はパリの4倍の飲食店があるが、質も格別と絶賛した。東京都区部の市外局番としては03が使用される。なお、市外局番03は、東京都狛江市の大部分と調布市・三鷹市の一部地域でも使用されている。しかし、東京03は隣接の神奈川県・埼玉県・千葉県では使用されていない。 東京都区部の市内局番は1960年2月7日から3桁(それ以前は2桁。詳しくは日本における市外局番の変更を参照)であったが、対象となる電話加入者の急激な増加に対応しきれなくなってきたため、1988年2月8日から新規加入者を中心として段階的に5で始まる4桁のものが使い始められた。
1991年1月1日からは、既存の3桁の市内局番の利用者についても、その前に3を加えた4桁に変更することで、全面的に4桁に切り替えられた。また、2003年ごろから4または6で始まる4桁が増えてきた。大田区羽田地区に所在する第一種空港。羽田地区一帯は、大田区の未来核として位置付けられており,空港沖合展開により区に返還される土地の利用について検討が行われている。アクセス路線として東京モノレール羽田線と京急空港線が空港内に直結している。羽田空港は2010年10月21日に4本目の滑走路と新しい国際ターミナルの供用が開始され再国際化した。これにより32年ぶりとなる台湾以外の航空会社の国際線定期便が就航した。これまで定期チャーター便扱いであった中華人民共和国、大韓民国、香港、台湾向けの路線は定期便に格上げされ、増便された。羽田空港以外の国際線は千葉県成田市の成田国際空港(成田空港)が最寄となる。成田空港は、第一ターミナルビルの地下に成田空港駅、第二ターミナルには空港第2ビル駅が設置されており、JR成田線と京成本線が所属している。
そのため、アクセス路線としてはJR東日本が東京駅を発着する各路線方面から空港へ直結する列車成田エクスプレス(NEX) とエアポート成田、京成電鉄は京成スカイライナーをそれぞれ運行している。23区東部、東京湾に面する港湾。都が管理している。港則法上では「京浜港東京区」といい、「京浜港川崎区」の北部に隣接する。日本の主要な国際貿易港の一つで、横浜港と共に「スーパー中枢港湾」として国から指定されている。
2011年9月27日火曜日
5月1日に東京府内15区を
東京府から分立して市制を施行し東京市としたが市制特例により東京市長は府知事が兼ねた(府知事の市長兼務は1898年(明治31年)10月1日に廃止)。1896年(明治29年)、東京市を「都」に改めて官選都長を置く「東京都制案」、府郡部を県とする「武蔵県設置法案」ともに帝国議会不成立。1897年(明治30年)、市長を公選とする「東京市制案」、府郡部を県とする「千代田県設置法案」ともに帝国議会不成立。日本が日中戦争に突入すると戦時体制構築のため、政府は東京府地域の政治・経済の統制強化を要求するようになった。1938年(昭和13年)6月、内務省は「東京都制案要綱」を発表したが東京市35区は内務省案反対を決議した。しかし1943年(昭和18年)1月、政府が帝国議会に提出した「東京都制案」が可決され同年7月1日、東京都制によって東京府・東京市が廃止されて「東京都」が設置された。都制により東京府東京市は廃止され、旧市域は東京都35区となった。一方、東京府下で市制を施行していた東京府八王子市と東京府立川市はそれぞれ東京都八王子市と東京都立川市となった。
江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書とは、明治元年7月17日(西暦では1868年9月3日)に、明治天皇が発した詔勅である。天皇が江戸で政務を執ることを宣言し、江戸を東京と改称することを内容とする。車駕東幸の詔書、東京遷都ノ詔、東京奠都の詔とも呼ばれるが、公式な略称・呼称ではない。一般の詔書と同様、この詔書にも正式名称はない。便宜的に付された名称は、太政官の編纂による『詔勅録』では「江戸ヲ東京ト改称ノ詔」とし、内閣官報局『法令全書』は目録や索引で「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」とし、国立公文書館では件名を「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔」(一字違い)としている。また、通称の「東京奠都の詔」は、後年に至って用いられたものと思われる。1940年(昭和15年)に文部省が明治維新の歴史を詳細に記した『概観維新史』(文部省維新史料編纂会編)では、この詔を「東京奠都の詔」と称し、1872年(明治5年)に英照皇太后が東京に移るに至って事実上の東京遷都となったとした。
その翌年の本編『維新史』第五巻では「車駕東幸の詔書」と称し、この詔を奠都の旨を公表するものではないと解釈し、皇城を宮城と改称するに至って東京が事実上の皇都の地位を得たとしている。なお、太政官あるいは内閣記録局が、1885年(明治18年)頃に編纂した『太政官沿革志』(親政体制一)では、「車駕東幸、十月十三日ヲ以テ東京城ニ抵リ、本城ヲ以テ奠メテ皇居ト為シ、踰ヘテ一日先ツ親政ノ令ヲ布ク。是ヲ奠都以還親政ノ始トス。」として、10月17日の「布告」(『詔勅録』によれば「東幸親政正議直諌セシムルノ詔」)に先立つ、天皇の東京入城を「奠都」の契機としており、「奠都」の語自体は早くから用いられていた。。この詔書は、本文と副書から成る。本文は、端的に天皇が江戸で政務を執ることと、江戸を東京に改称する旨を述べている。副書は、天皇が東京で政務を執ることの意義を述べている。東京15区(とうきょう15く)とは、明治11年(1878年)から昭和7年(1932年)まで東京に存在した行政区域群のことである。
昭和7年(1932年)に東京市が周辺町村を合併して「大東京市」を構成する以前の、いわゆる旧市域に含まれる15区を指す。その内訳は、麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区である。この配置順は皇居のある麹町区を起点に、「の」の字型を描くように指定されたものであり、公式には必ずこの順番で並べられた。また近郊6郡についても、荏原郡、南豊島郡、東多摩郡(1896年に南豊島郡・東多摩郡は豊多摩郡に統合)、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡と西南から時計回りで東南に弧を描くように配された。なお、パリにおける1区から20区までの順序も、中心から時計回りの渦巻きを描く点で、東京15区の順序と同様である。明治7年(1874年)3月8日に東京に導入された大区小区制が定着せず、4年後の明治11年(1878年)11月2日に施行された郡区町村編制法によって、東京15区は初めて画定された。当初の区域は旧朱引内であり、且つ墨引き(江戸においては町奉行管轄の地)の土地であった(「明治11年(1878年)の15区」の節参照)。明治22年(1889年)4月1日の市制・町村制施行と共にその区域は変更が加えられ、拡大しつつも一部は府下6郡の各町村に合併されることとなった。
このときの区域が東京市となる。昭和7年(1932年)10月1日には周辺町村を東京市に編入していわゆる大東京市が成立し、東京市内の区は全部で35区となった。東京35区になって以降、それまでの15区を旧市域、新たな20区を新市域といって区別することもあった。1947年(昭和22年)3月15日に東京都の35区が22区に再編された際、旧市域15区のそれぞれは他の区と統合された。このため、15区の名称は現在の23区の名称には引き継がれなかった。他方、現在の千代田区(麹町税務署、神田税務署)、中央区(日本橋税務署、京橋税務署)、文京区(小石川税務署、本郷税務署)などに置かれた税務署の名称とその管轄区域は、旧15区の名残と見受けられる。東京都区部とは、東京都で23の特別区から構成される地域である。1943年(昭和18年)6月までの東京市に相当する地域で、東京23区または東京特別区とも呼ばれる。各区の事務のうち、清掃・職員採用・競馬事業は、23区で一部事務組合(特別地方公共団体)を設置し共同処理している。
東京都区部は、東京都のうち旧東京市に該当する。東京都区部の人口は、1920年(大正9年)に台東区が上野桜木、池之端をはじめ都心の高級住宅街として人口第1位の439,596人。世田谷区は39,952人。1965年(昭和40年)に約889万人(国勢調査人口)で最大となった後、郊外化で減少に転じ、特にバブル景気に伴う地価の高騰によって1990年代には800万人を割り込んだ(参照)。その後は都心回帰現象などにより、約872万人(2008年6月1日現在の推計人口)にまで再び増加し、東京都の人口の約67.7%を占めるまでに至った。東京都区部を一つの自治体と見なした場合の人口は日本で最も多く、2位の横浜市と比較しても約2.5倍もの人口規模である。なお、昼間人口では、1980年代末のバブル景気期に約1129万人で最大となり、失われた10年の間は減少していたが、その後は増加してバブル期並みとなっている(参照)。周囲が巨大なベッドタウンとなっていることもあり、昼間人口に比べ夜間人口の方がずっと少ない。
都心の区は、主に中心業務地区に利用されているため、居住地が少なく人口も少ない。また、地価が高いだけでなく、面積が狭いことも人口の少ない要因のひとつである。周辺の区ほど人口が多いが、面積最大の大田区より面積第2位の世田谷区の方が人口は多く(大田区は羽田空港の沖合展開による埋め立ての結果、世田谷区を抜き最大の区となった)、面積第4位の練馬区は人口第2位である。東京湾沿岸の区は、東京港港湾施設や広大な工場・流通地区を持つため、内陸の周辺区よりも人口密度が低いが、江東区などは超高層住宅の建設が進められており、一部そうでもない場所もある。
江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書とは、明治元年7月17日(西暦では1868年9月3日)に、明治天皇が発した詔勅である。天皇が江戸で政務を執ることを宣言し、江戸を東京と改称することを内容とする。車駕東幸の詔書、東京遷都ノ詔、東京奠都の詔とも呼ばれるが、公式な略称・呼称ではない。一般の詔書と同様、この詔書にも正式名称はない。便宜的に付された名称は、太政官の編纂による『詔勅録』では「江戸ヲ東京ト改称ノ詔」とし、内閣官報局『法令全書』は目録や索引で「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」とし、国立公文書館では件名を「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔」(一字違い)としている。また、通称の「東京奠都の詔」は、後年に至って用いられたものと思われる。1940年(昭和15年)に文部省が明治維新の歴史を詳細に記した『概観維新史』(文部省維新史料編纂会編)では、この詔を「東京奠都の詔」と称し、1872年(明治5年)に英照皇太后が東京に移るに至って事実上の東京遷都となったとした。
その翌年の本編『維新史』第五巻では「車駕東幸の詔書」と称し、この詔を奠都の旨を公表するものではないと解釈し、皇城を宮城と改称するに至って東京が事実上の皇都の地位を得たとしている。なお、太政官あるいは内閣記録局が、1885年(明治18年)頃に編纂した『太政官沿革志』(親政体制一)では、「車駕東幸、十月十三日ヲ以テ東京城ニ抵リ、本城ヲ以テ奠メテ皇居ト為シ、踰ヘテ一日先ツ親政ノ令ヲ布ク。是ヲ奠都以還親政ノ始トス。」として、10月17日の「布告」(『詔勅録』によれば「東幸親政正議直諌セシムルノ詔」)に先立つ、天皇の東京入城を「奠都」の契機としており、「奠都」の語自体は早くから用いられていた。。この詔書は、本文と副書から成る。本文は、端的に天皇が江戸で政務を執ることと、江戸を東京に改称する旨を述べている。副書は、天皇が東京で政務を執ることの意義を述べている。東京15区(とうきょう15く)とは、明治11年(1878年)から昭和7年(1932年)まで東京に存在した行政区域群のことである。
昭和7年(1932年)に東京市が周辺町村を合併して「大東京市」を構成する以前の、いわゆる旧市域に含まれる15区を指す。その内訳は、麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区である。この配置順は皇居のある麹町区を起点に、「の」の字型を描くように指定されたものであり、公式には必ずこの順番で並べられた。また近郊6郡についても、荏原郡、南豊島郡、東多摩郡(1896年に南豊島郡・東多摩郡は豊多摩郡に統合)、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡と西南から時計回りで東南に弧を描くように配された。なお、パリにおける1区から20区までの順序も、中心から時計回りの渦巻きを描く点で、東京15区の順序と同様である。明治7年(1874年)3月8日に東京に導入された大区小区制が定着せず、4年後の明治11年(1878年)11月2日に施行された郡区町村編制法によって、東京15区は初めて画定された。当初の区域は旧朱引内であり、且つ墨引き(江戸においては町奉行管轄の地)の土地であった(「明治11年(1878年)の15区」の節参照)。明治22年(1889年)4月1日の市制・町村制施行と共にその区域は変更が加えられ、拡大しつつも一部は府下6郡の各町村に合併されることとなった。
このときの区域が東京市となる。昭和7年(1932年)10月1日には周辺町村を東京市に編入していわゆる大東京市が成立し、東京市内の区は全部で35区となった。東京35区になって以降、それまでの15区を旧市域、新たな20区を新市域といって区別することもあった。1947年(昭和22年)3月15日に東京都の35区が22区に再編された際、旧市域15区のそれぞれは他の区と統合された。このため、15区の名称は現在の23区の名称には引き継がれなかった。他方、現在の千代田区(麹町税務署、神田税務署)、中央区(日本橋税務署、京橋税務署)、文京区(小石川税務署、本郷税務署)などに置かれた税務署の名称とその管轄区域は、旧15区の名残と見受けられる。東京都区部とは、東京都で23の特別区から構成される地域である。1943年(昭和18年)6月までの東京市に相当する地域で、東京23区または東京特別区とも呼ばれる。各区の事務のうち、清掃・職員採用・競馬事業は、23区で一部事務組合(特別地方公共団体)を設置し共同処理している。
東京都区部は、東京都のうち旧東京市に該当する。東京都区部の人口は、1920年(大正9年)に台東区が上野桜木、池之端をはじめ都心の高級住宅街として人口第1位の439,596人。世田谷区は39,952人。1965年(昭和40年)に約889万人(国勢調査人口)で最大となった後、郊外化で減少に転じ、特にバブル景気に伴う地価の高騰によって1990年代には800万人を割り込んだ(参照)。その後は都心回帰現象などにより、約872万人(2008年6月1日現在の推計人口)にまで再び増加し、東京都の人口の約67.7%を占めるまでに至った。東京都区部を一つの自治体と見なした場合の人口は日本で最も多く、2位の横浜市と比較しても約2.5倍もの人口規模である。なお、昼間人口では、1980年代末のバブル景気期に約1129万人で最大となり、失われた10年の間は減少していたが、その後は増加してバブル期並みとなっている(参照)。周囲が巨大なベッドタウンとなっていることもあり、昼間人口に比べ夜間人口の方がずっと少ない。
都心の区は、主に中心業務地区に利用されているため、居住地が少なく人口も少ない。また、地価が高いだけでなく、面積が狭いことも人口の少ない要因のひとつである。周辺の区ほど人口が多いが、面積最大の大田区より面積第2位の世田谷区の方が人口は多く(大田区は羽田空港の沖合展開による埋め立ての結果、世田谷区を抜き最大の区となった)、面積第4位の練馬区は人口第2位である。東京湾沿岸の区は、東京港港湾施設や広大な工場・流通地区を持つため、内陸の周辺区よりも人口密度が低いが、江東区などは超高層住宅の建設が進められており、一部そうでもない場所もある。
2011年9月26日月曜日
埼玉県は
日本の都道府県の一つで、関東地方の中央西側内陸部、東京都の北に位置する県。県庁所在地はさいたま市。旧埼玉県の設置当初、県庁が埼玉郡岩槻町(現:さいたま市岩槻区)に置かれる予定であったため、その郡名から埼玉県と名付けられた。但し、当時の岩槻には県庁として使用するのに適した建物がなかったため、県庁業務は北足立郡浦和宿(現:さいたま市浦和区)にある旧浦和県庁舎で行われた。一方、現在の埼玉県の西側3分の2に当たる地域は入間県となり、その後、群馬県と合併して熊谷県となるも僅か3年で熊谷県は解消され、旧入間県地域は旧埼玉県と合併した。その際に、埼玉県の名称のまま県庁所在地も浦和宿となったため、岩槻町が実質的な県庁として機能することはなかった。1890年(明治23年)9月25日には、勅令により正式に浦和町が県庁所在地となった。「埼玉」の地名の発祥地は「北埼玉郡埼玉(さきたま)村」(現:行田市大字埼玉)である。その名称の由来は諸説あるが、埼玉古墳群が由来とする説や、幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂」(さきみたま)から名づけられたとする説がある。
奈良時代の『万葉集』に「前玉」「佐吉多万」(さきたま)という記述があり、また、平安時代の『和名類聚抄』に「埼玉」「佐伊太末」(さいたま)という郡名がみられる。当時、既に「さいたま」と呼ばれている事が分かる。旧律令国においては、現在の埼玉県の領域は大部分が武蔵国に含まれており、東端部の江戸川沿いの一部地域が下総国に含まれていた。武蔵国には東京都、及び神奈川県の北東部も含まれることから、埼玉県は武蔵国の中部・北部にあたるといえる。埼玉県の形状は、東西約103km、南北約52kmと東西方向に長い。日本の都道府県中面積が9番目に狭いが、最も狭い都道府県である香川県の約2倍の面積を有する。また周囲は7都県と隣接し長野県の8県に次いで多い。県の東側では江戸川を境に千葉県に接し、北東側には茨城県・栃木県ともわずかに接する。北側および北西側は概ね利根川、神流川(利根川の支流)といった河川、および荒川・神流川の分水嶺を境として群馬県に接している。
南側はほぼ東西に真っ直ぐに東京都・山梨県と接している。この南境は、西部では荒川と多摩川あるいは笛吹川の分水嶺にあたるが、東部では一部が荒川となっている他は河川や分水嶺などの地形に見いだすことは難しい。埼玉県の地形は、児玉・小川・飯能を走る八王子構造線によって、その東側の平地部と西側の山岳部に分けられる。東側の平地部は古来利根川や荒川、入間川などの流域であり、低地や台地(武蔵野台地、大宮台地など)が広がるほか、一部に丘陵(比企丘陵など)もみられる。江戸時代、徳川家康により現在の古利根川の流路に近かった利根川の流路は、渡良瀬川(現在の江戸川の流路に近い)、ついで鬼怒川(毛野川)に導かれ、また現在の元荒川の流路に近かった荒川の流路は入間川に導かれ、現在の河川形態となった(利根川東遷事業)。西側の山地部は関東山地に含まれ、その中央部に秩父盆地がある。秩父盆地東側の比較的標高の低い山塊は特に外秩父山地とも呼ばれる。
西側の長野県境は日本海側との分水嶺を形成しており、その南端に位置する甲武信ヶ岳は千曲川、荒川、笛吹川(富士川の支流)の源流であるとともに、埼玉県・長野県・山梨県の県境となっている。その北には県最高峰である三宝山(2,483m)がある。また、埼玉県の諸都市の特徴のひとつに、同等の人口を持つ自治体が多数存在することが挙げられる。県全体の人口は全国で5位と高位でありながら、合併によってさいたま市が誕生するまで、50万人都市は存在しなかった(さいたま市の合併時である2001年当時浦和市約48万人、大宮市約45万人、また川口市は約46万人)。県庁は浦和市にあり、経済規模では埼玉県で最大の乗客数を誇る大宮駅を擁する大宮市が優位で、市制施行は川越市が最も早かった。一方、2001年に大宮市・浦和市・与野市の合併で100万都市である「さいたま市」が成立し(その後岩槻市を2005年に編入)、政治・経済共に中心と呼べる自治体区域が誕生した。
国などの関東地方出先機関が集まるさいたま新都心も造成されたことで、東京のベッドタウンから関東地方において独自の重要性を持つ地域になりつつある。現在こうした県東西の移動・交流の活発化、既存交通網の混雑緩和を狙った「東西交通大宮ルート」と「東西交通県南ルート」と呼ばれる2つのLRT整備計画が検討されている。「東西交通大宮ルート」は、所沢-上福岡-大宮、大宮-さいたま新都心-浦和美園、浦和美園-越谷-吉川の3区間で構成される。大宮-浦和美園区間の11.4kmについては、2015年の開業を目指して調査・検討がなされている。また、東西交通県南ルートは川口-南鳩ヶ谷-草加の8.9kmとなっている。埼玉県は、場面や分野に応じて北関東に区分される場合もあれば南関東に区分される場合もある。また、埼玉県は千葉県や東京都や神奈川県とともに「東京圏」を構成し、相互の通勤・通学等の流動が多いことなどを重視し、南関東に区分されることが多いが、衆議院議員総選挙における比例ブロックにおいては北関東に区分されている。
県域は隆起と海退によって形成された。海面は、現在よりも高く、東京都江戸川区から県域南東部を中心とした海抜の低い地域は、古東京湾の入り江が大きく入り込んでいたため、海底だったと推定される。その証拠に、川口市等に貝塚が至る所に発見されており、その影響は縄文・弥生時代まで続いたとされる。古代の国選史書である『日本書紀』にある534年(安閑天皇元年)に、「閏の十二月…(中略)…是の月に武蔵国造笠原直使主と同族小杵と国造を相争いて年経るに定めがたし」云々とあり、鴻巣市笠原地区付近に居を構えていたとされる豪族、笠原直使主と同族の小杵による武蔵国造の勢力争いが起き、朝廷の力を借りた直使主が勝利し、武蔵国造となった使主は朝廷に横渟(多摩郡または横見郡)・橘花(神奈川県橘樹郡)・多氷(多摩)・倉樔(神奈川県久良郡)の四箇所を屯倉として差し出した。と記述されていることや、6世紀に突如現れたこの地の巨大古墳郡、および後述の鉄剣などから大和朝廷の直接支配まで、長らく武蔵国における中心だったと考えられる。
本域は、律令制以前は、毛野国と呼ばれ、筑紫や吉備に比肩する大国であったとされ、大和朝廷との関係において高い地位にあり、現在の東京地域よりも繁栄していた。708年(和銅元年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(ニギアカガネ、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、日本最初の流通貨幣となる和同開珎が発行される。1978年(昭和53年)には、行田市埼玉にある さきたま風土記の丘(現:さきたま古墳公園)の稲荷山古墳の中から、金錯銘鉄剣が発掘され、のち奈良にある元興寺文化財研究所へ持って行き調べた所、表裏に金象嵌で115文字の銘文があることが分かり注目を浴びた。その文中にある「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」は『記紀』に出てくる雄略天皇であり、『宋書』倭国伝に見える倭王武である。また、冒頭の「辛亥の年」は471年である。との学説が主流である。古代史ブームの巻き起こる中で、鉄剣の解釈をめぐりさまざまな議論がある。
奈良時代の『万葉集』に「前玉」「佐吉多万」(さきたま)という記述があり、また、平安時代の『和名類聚抄』に「埼玉」「佐伊太末」(さいたま)という郡名がみられる。当時、既に「さいたま」と呼ばれている事が分かる。旧律令国においては、現在の埼玉県の領域は大部分が武蔵国に含まれており、東端部の江戸川沿いの一部地域が下総国に含まれていた。武蔵国には東京都、及び神奈川県の北東部も含まれることから、埼玉県は武蔵国の中部・北部にあたるといえる。埼玉県の形状は、東西約103km、南北約52kmと東西方向に長い。日本の都道府県中面積が9番目に狭いが、最も狭い都道府県である香川県の約2倍の面積を有する。また周囲は7都県と隣接し長野県の8県に次いで多い。県の東側では江戸川を境に千葉県に接し、北東側には茨城県・栃木県ともわずかに接する。北側および北西側は概ね利根川、神流川(利根川の支流)といった河川、および荒川・神流川の分水嶺を境として群馬県に接している。
南側はほぼ東西に真っ直ぐに東京都・山梨県と接している。この南境は、西部では荒川と多摩川あるいは笛吹川の分水嶺にあたるが、東部では一部が荒川となっている他は河川や分水嶺などの地形に見いだすことは難しい。埼玉県の地形は、児玉・小川・飯能を走る八王子構造線によって、その東側の平地部と西側の山岳部に分けられる。東側の平地部は古来利根川や荒川、入間川などの流域であり、低地や台地(武蔵野台地、大宮台地など)が広がるほか、一部に丘陵(比企丘陵など)もみられる。江戸時代、徳川家康により現在の古利根川の流路に近かった利根川の流路は、渡良瀬川(現在の江戸川の流路に近い)、ついで鬼怒川(毛野川)に導かれ、また現在の元荒川の流路に近かった荒川の流路は入間川に導かれ、現在の河川形態となった(利根川東遷事業)。西側の山地部は関東山地に含まれ、その中央部に秩父盆地がある。秩父盆地東側の比較的標高の低い山塊は特に外秩父山地とも呼ばれる。
西側の長野県境は日本海側との分水嶺を形成しており、その南端に位置する甲武信ヶ岳は千曲川、荒川、笛吹川(富士川の支流)の源流であるとともに、埼玉県・長野県・山梨県の県境となっている。その北には県最高峰である三宝山(2,483m)がある。また、埼玉県の諸都市の特徴のひとつに、同等の人口を持つ自治体が多数存在することが挙げられる。県全体の人口は全国で5位と高位でありながら、合併によってさいたま市が誕生するまで、50万人都市は存在しなかった(さいたま市の合併時である2001年当時浦和市約48万人、大宮市約45万人、また川口市は約46万人)。県庁は浦和市にあり、経済規模では埼玉県で最大の乗客数を誇る大宮駅を擁する大宮市が優位で、市制施行は川越市が最も早かった。一方、2001年に大宮市・浦和市・与野市の合併で100万都市である「さいたま市」が成立し(その後岩槻市を2005年に編入)、政治・経済共に中心と呼べる自治体区域が誕生した。
国などの関東地方出先機関が集まるさいたま新都心も造成されたことで、東京のベッドタウンから関東地方において独自の重要性を持つ地域になりつつある。現在こうした県東西の移動・交流の活発化、既存交通網の混雑緩和を狙った「東西交通大宮ルート」と「東西交通県南ルート」と呼ばれる2つのLRT整備計画が検討されている。「東西交通大宮ルート」は、所沢-上福岡-大宮、大宮-さいたま新都心-浦和美園、浦和美園-越谷-吉川の3区間で構成される。大宮-浦和美園区間の11.4kmについては、2015年の開業を目指して調査・検討がなされている。また、東西交通県南ルートは川口-南鳩ヶ谷-草加の8.9kmとなっている。埼玉県は、場面や分野に応じて北関東に区分される場合もあれば南関東に区分される場合もある。また、埼玉県は千葉県や東京都や神奈川県とともに「東京圏」を構成し、相互の通勤・通学等の流動が多いことなどを重視し、南関東に区分されることが多いが、衆議院議員総選挙における比例ブロックにおいては北関東に区分されている。
県域は隆起と海退によって形成された。海面は、現在よりも高く、東京都江戸川区から県域南東部を中心とした海抜の低い地域は、古東京湾の入り江が大きく入り込んでいたため、海底だったと推定される。その証拠に、川口市等に貝塚が至る所に発見されており、その影響は縄文・弥生時代まで続いたとされる。古代の国選史書である『日本書紀』にある534年(安閑天皇元年)に、「閏の十二月…(中略)…是の月に武蔵国造笠原直使主と同族小杵と国造を相争いて年経るに定めがたし」云々とあり、鴻巣市笠原地区付近に居を構えていたとされる豪族、笠原直使主と同族の小杵による武蔵国造の勢力争いが起き、朝廷の力を借りた直使主が勝利し、武蔵国造となった使主は朝廷に横渟(多摩郡または横見郡)・橘花(神奈川県橘樹郡)・多氷(多摩)・倉樔(神奈川県久良郡)の四箇所を屯倉として差し出した。と記述されていることや、6世紀に突如現れたこの地の巨大古墳郡、および後述の鉄剣などから大和朝廷の直接支配まで、長らく武蔵国における中心だったと考えられる。
本域は、律令制以前は、毛野国と呼ばれ、筑紫や吉備に比肩する大国であったとされ、大和朝廷との関係において高い地位にあり、現在の東京地域よりも繁栄していた。708年(和銅元年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(ニギアカガネ、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、日本最初の流通貨幣となる和同開珎が発行される。1978年(昭和53年)には、行田市埼玉にある さきたま風土記の丘(現:さきたま古墳公園)の稲荷山古墳の中から、金錯銘鉄剣が発掘され、のち奈良にある元興寺文化財研究所へ持って行き調べた所、表裏に金象嵌で115文字の銘文があることが分かり注目を浴びた。その文中にある「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」は『記紀』に出てくる雄略天皇であり、『宋書』倭国伝に見える倭王武である。また、冒頭の「辛亥の年」は471年である。との学説が主流である。古代史ブームの巻き起こる中で、鉄剣の解釈をめぐりさまざまな議論がある。
2011年9月25日日曜日
山梨日日新聞は、
株式会社山梨日日新聞社が発行する山梨県の県域新聞である。正式な読み方は「やまなしにちにちしんぶん」だが、「やまなしひびしんぶん」と読む人もいる。略称は山日(さんにち)、山日新聞(さんにちしんぶん)など。山梨県での購読率は公称約70%で、県内日刊紙は「山日」1紙が独占している。テレビ・ラジオ番組表は本編とは別に4頁の別冊の「山日テレビガイド」として発行している。また、甲府市の山梨県立図書館には、一時期を除いてマイクロフィルムとして所蔵されている。1872年(明治5年)7月1日、県令土肥実匡の官命で、甲府の書店温古堂の書籍商内藤伝右衛門が「峡中新聞」として創刊。当初は木版の不定期刊行で、県庁学務科員が執筆した県庁広報誌であった。大小切騒動で発行不能に至ったこともあり、有識者による新聞解話会が開かれた。翌年には県令藤村紫朗が発行権を内藤に譲り、「甲府新聞」と改称。活版となり、論説も加わる。1876年(明治9年)には「甲府日日新聞」と改称、中村敬宇(正直)門下の野口英夫を迎え、内藤から経営権を取得し、社内改革を行う。
しばしば新聞紙条例違反に問われ発行停止に陥り、野口が県庁派で山梨保守党に属していたため、民権派の「峡中新報」に押されることもあったが、しだいに政争からは遠ざかり、有志の支援により経営を維持した。第1822号で一時終刊し、1881年(明治14年)1月から現題字へ改変、大正期には『山梨毎日新聞』を引き離し発行部数第1位となった。昭和初期には中央線短縮により中央紙が伸び苦境に立たされた。1922年(大正11年)に社長に就任した野口二郎は、文化・スポーツ事業にも熱心で自らも山梨郷土学会会長も務め、昭和11年8月から昭和42年まで連載された「夏草道中」は現地でのフィールドワークを行い郷土の史跡を調査するもので、発見された文化財も多く郷土史研究に貢献した。また、大正12年には紙面に投稿文芸を選評する「サンデー文壇」(のち「学芸欄」)を設けた。県内には6紙の新聞が発行されていたが、昭和15年には新聞統制で「峡中日報」「山梨民報」などを統合し、翌昭和16年には『山梨毎日新聞』も合併。
昭和20年の甲府空襲では社屋と印刷所を焼失し、資材や人員不足もあり発行困難となったが、『毎日新聞』と協力して東京での発行を続ける。終戦後には東八代郡石和町(笛吹市)に疎開させていた輪転機を運用し、外観が残った甲府市内の松林軒デパートで自社印刷に復帰する。社長の野口は甲府市長も兼任しており公職追放を受ける。戦後には統制令も解除されて自由発行となり、一時は富士急行が大株主で天野久知事を支持する『山梨時事新聞』と部数を競うが、昭和42年の山梨県知事選で支持する田辺国男が当選すると、同年3月には富士急行から所有株式を拾得し『山時』を吸収した。以後、県内日刊紙は『山梨日日新聞』1紙が独占している。このような『山日』一社による地元新聞の独占状況には、山梨県民の多くから「山梨に地元紙が1紙だけというのは好ましくない。」と懸念する声が挙がっている。
2007年1月31日、社説の盗用が外部からの指摘で発覚した。その後の調査で盗用がさらに2001年から15件もあったことが発覚し、野口英一社長は引責辞任したが、しばらくして社長職に復帰した。毎日4ページ立て。新聞休刊日は2日分がそれぞれ分冊される。ただし分冊されない場合もあり、その場合は外側2ページ,内側2ページで分けて2日分掲載する。1ページはその日の山梨・東京の地上波とNHK BS1、BSプレミアム番組欄(独立U局は県内のほとんどのケーブルテレビでデジタル放送が再送信されているtvkのみ掲載。グループ会社・山梨放送は黄色地バックで自社番組は番組名のみ太字。なお山梨県にYBS=NNN・NNSとテレビ山梨=JNN系列があることを配慮し、日本テレビとTBSテレビの番組表は2005年春季以後ハーフサイズに変更されたが、2011年7月24日より掲載なし)。地上波の掲載順は2011年4月1日よりNHK甲府総合、NHK教育、YBS山梨放送、テレビ朝日、UTYテレビ山梨、テレビ東京、フジテレビの順。
フジテレビの右側にハーフサイズの4局の欄が載せてある(上段にはNHK BS1とBSプレミアム。下段にはtvkとNNSを掲載)。2010年7月1日から2011年3月31日まではNHK総合、NHK教育、YBS、テレ朝、UTY、フジ、テレ東の順であった。これは県内のほとんどのケーブルテレビでデジタル放送が再送信されていなかったテレ東を除いた、リモコンキーID順となっていたが、2011年4月以降、テレ東が県内ケーブルテレビ各社でデジタル放送の再送信が順次開始されたことから、2011年4月1日より上記のチャンネル順となった。テレ東の右側にハーフサイズの4局は上段には日テレとTBSテレビ、下段にはNHK BS1とNHK BS2が掲載されていた。2010年6月30日までは長らく、NHK総合、NHK教育、YBS、UTY、フジ、テレ朝、テレ東の順であった。これは県内局(開局順)→東京キー局という順であり、またキー局におけるアナログ放送のチャンネル順でもある。
2ページはラジオと衛星デジタルテレビ放送、第2テレビ面としてCATV富士五湖、静岡県内の地上波テレビ(民放のみ)の番組表。ラジオ番組表はYBSラジオのみ他の放送局よりスペースが広く取られている。また、2006年4月から地上デジタル放送の教育サブチャンネル(NHK教育)も掲載。現在ラジオ番組表については県内の放送局のみ掲載しているが、衛星デジタルテレビ放送が始まる前までは東京の放送局も掲載されていた。新聞休刊日の対応については休刊日のテレビ欄を別刷りで発行し、休刊日の前日に届けている。休刊日当日はWEB版の更新もニュース速報を除き行なわれないが、2008年1月より休刊日限定でPDF形式による電子版を公開。電子版は全面フルカラーであり、動画配信や、山梨放送のニュースキャスターによる朗読での音声ニュースへのリンクもされていた。2011年4月から休刊日の号外を廃止する代わりとして、ニュースオアシスと銘打って朝刊紙面の電子新聞配信(山梨県内利用不可)と、夕刊電子新聞の発行を開始した。
2007年1月31日の山梨日日新聞社説で、当時厚生労働大臣の柳沢伯夫の発言に関する内容について、同紙論説委員長(当時)が、神戸新聞と西日本新聞の社説から内容を盗用したことが、外部からの指摘で発覚した。盗用した社説は、2社のホームページに掲載されていた1月30日付の社説からの盗用で、同論説委員長は今回の盗用問題について、「考えが甘かった。盗用と言われても仕方ない」と話し、また「『新聞社は同志』のような意識になっていた。盗用の認識はなかった」と弁解したが、一方で「著作権の点で気になっていた」とも述べ、著作権の侵害を認識して盗用を行っていたことを認めた。山梨日日新聞によると、神戸新聞社説が、「大臣は「すぐに取り消し、言い換えた」と弁明しているが、もちろんそれで済まされる失言ではない。こともあろうに、少子化対策や子育て支援を先頭に立って推進すべき厚労相が、こうした発言をしたことにあきれる。大臣の適格性を疑われても仕方ない」と記述している部分を、山梨日日新聞の社説は「厚労相は「すぐに取り消し言い換えた」と弁明しているが、それで済む失言ではない。
厚労相は少子化対策・子育て支援の先頭に立ち推進するのが仕事だ。発言のような認識では、大臣としての適格性を疑われても仕方がない」と盗用して記載し、さらに、西日本新聞社説が、「少子化によって社会保障制度が揺らぐことを懸念しての発言だったかもしれない。だが、社会保障政策を財政面だけで考えて、子どもの数を増やすことしか念頭になかったのではないか」と記述している部分を、山梨日日新聞が「少子化が進むことによって社会保障制度が揺らぐことを懸念しての発言だったかもしれない。財政面を中心に考え、子どもの数を増やすことしか念頭になかったら寂しい」と盗用して記載した。
山梨日日新聞社幹部らは謝罪し、調査報告を掲載した。2007年2月20日にこの論説委員長を懲戒解雇処分、常務を降格処分、取締役編集局長を減給処分とし、当時社長の野口英一も引責辞任することが決定したが、山梨日日新聞の調査報告には盗用記事の紹介に留まっており、論説委員長の盗用の経緯については一切明かされていない。処分を発表した同日、この論説委員長による北朝鮮の核実験や防衛省の省昇格、地方分権などについて述べられた社説の盗用が、さらに15件もあったことを公表した。社説の盗用は2004年1月から行われていたことも発覚した。盗用に利用した報道機関は、全国紙から読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞が。地方紙からは信濃毎日新聞の計5紙の社説ばかりでなく、記事まで盗用していた。また『フォーリン・プレスセンター・ジャパン』からも盗用を行っていた。いずれもホームページからの盗用であった。今回の盗用問題は、読者である山梨県民から「県民を愚弄している」といった厳しい批判の声が挙がった。
社説を盗用された毎日新聞などからも批判された。「社説」は2007年2月21日付から休止することを発表したが、わずか数ヵ月後には「論説」という形で復活し、現在も続けられている。「論説」の実態は「社説」と全く変わらなかったほか、「論説」として再開される際の読者への説明は一切なかった。なお、引責辞任した野口英一だがしばらくして社長職に復帰している。取材用ヘリコプターは山梨県内ではなく、隣県である静岡県静岡市葵区にある静岡ヘリポートに駐機されており(静岡エアコミュータが委託を受け運航している)、ヘリ取材の必要があると、静岡市から離陸して甲府市の本社を経由してフライトする。 山梨百名山は、1997年、山梨県によって選定された県内の名山100選である。一般公募と市町村推薦であがった候補の中から、選考委員会によって、県民に親しまれている・全国的な知名度がある・歴史や民俗との関わりあるなどの基準で選ばれたとされる。
しばしば新聞紙条例違反に問われ発行停止に陥り、野口が県庁派で山梨保守党に属していたため、民権派の「峡中新報」に押されることもあったが、しだいに政争からは遠ざかり、有志の支援により経営を維持した。第1822号で一時終刊し、1881年(明治14年)1月から現題字へ改変、大正期には『山梨毎日新聞』を引き離し発行部数第1位となった。昭和初期には中央線短縮により中央紙が伸び苦境に立たされた。1922年(大正11年)に社長に就任した野口二郎は、文化・スポーツ事業にも熱心で自らも山梨郷土学会会長も務め、昭和11年8月から昭和42年まで連載された「夏草道中」は現地でのフィールドワークを行い郷土の史跡を調査するもので、発見された文化財も多く郷土史研究に貢献した。また、大正12年には紙面に投稿文芸を選評する「サンデー文壇」(のち「学芸欄」)を設けた。県内には6紙の新聞が発行されていたが、昭和15年には新聞統制で「峡中日報」「山梨民報」などを統合し、翌昭和16年には『山梨毎日新聞』も合併。
昭和20年の甲府空襲では社屋と印刷所を焼失し、資材や人員不足もあり発行困難となったが、『毎日新聞』と協力して東京での発行を続ける。終戦後には東八代郡石和町(笛吹市)に疎開させていた輪転機を運用し、外観が残った甲府市内の松林軒デパートで自社印刷に復帰する。社長の野口は甲府市長も兼任しており公職追放を受ける。戦後には統制令も解除されて自由発行となり、一時は富士急行が大株主で天野久知事を支持する『山梨時事新聞』と部数を競うが、昭和42年の山梨県知事選で支持する田辺国男が当選すると、同年3月には富士急行から所有株式を拾得し『山時』を吸収した。以後、県内日刊紙は『山梨日日新聞』1紙が独占している。このような『山日』一社による地元新聞の独占状況には、山梨県民の多くから「山梨に地元紙が1紙だけというのは好ましくない。」と懸念する声が挙がっている。
2007年1月31日、社説の盗用が外部からの指摘で発覚した。その後の調査で盗用がさらに2001年から15件もあったことが発覚し、野口英一社長は引責辞任したが、しばらくして社長職に復帰した。毎日4ページ立て。新聞休刊日は2日分がそれぞれ分冊される。ただし分冊されない場合もあり、その場合は外側2ページ,内側2ページで分けて2日分掲載する。1ページはその日の山梨・東京の地上波とNHK BS1、BSプレミアム番組欄(独立U局は県内のほとんどのケーブルテレビでデジタル放送が再送信されているtvkのみ掲載。グループ会社・山梨放送は黄色地バックで自社番組は番組名のみ太字。なお山梨県にYBS=NNN・NNSとテレビ山梨=JNN系列があることを配慮し、日本テレビとTBSテレビの番組表は2005年春季以後ハーフサイズに変更されたが、2011年7月24日より掲載なし)。地上波の掲載順は2011年4月1日よりNHK甲府総合、NHK教育、YBS山梨放送、テレビ朝日、UTYテレビ山梨、テレビ東京、フジテレビの順。
フジテレビの右側にハーフサイズの4局の欄が載せてある(上段にはNHK BS1とBSプレミアム。下段にはtvkとNNSを掲載)。2010年7月1日から2011年3月31日まではNHK総合、NHK教育、YBS、テレ朝、UTY、フジ、テレ東の順であった。これは県内のほとんどのケーブルテレビでデジタル放送が再送信されていなかったテレ東を除いた、リモコンキーID順となっていたが、2011年4月以降、テレ東が県内ケーブルテレビ各社でデジタル放送の再送信が順次開始されたことから、2011年4月1日より上記のチャンネル順となった。テレ東の右側にハーフサイズの4局は上段には日テレとTBSテレビ、下段にはNHK BS1とNHK BS2が掲載されていた。2010年6月30日までは長らく、NHK総合、NHK教育、YBS、UTY、フジ、テレ朝、テレ東の順であった。これは県内局(開局順)→東京キー局という順であり、またキー局におけるアナログ放送のチャンネル順でもある。
2ページはラジオと衛星デジタルテレビ放送、第2テレビ面としてCATV富士五湖、静岡県内の地上波テレビ(民放のみ)の番組表。ラジオ番組表はYBSラジオのみ他の放送局よりスペースが広く取られている。また、2006年4月から地上デジタル放送の教育サブチャンネル(NHK教育)も掲載。現在ラジオ番組表については県内の放送局のみ掲載しているが、衛星デジタルテレビ放送が始まる前までは東京の放送局も掲載されていた。新聞休刊日の対応については休刊日のテレビ欄を別刷りで発行し、休刊日の前日に届けている。休刊日当日はWEB版の更新もニュース速報を除き行なわれないが、2008年1月より休刊日限定でPDF形式による電子版を公開。電子版は全面フルカラーであり、動画配信や、山梨放送のニュースキャスターによる朗読での音声ニュースへのリンクもされていた。2011年4月から休刊日の号外を廃止する代わりとして、ニュースオアシスと銘打って朝刊紙面の電子新聞配信(山梨県内利用不可)と、夕刊電子新聞の発行を開始した。
2007年1月31日の山梨日日新聞社説で、当時厚生労働大臣の柳沢伯夫の発言に関する内容について、同紙論説委員長(当時)が、神戸新聞と西日本新聞の社説から内容を盗用したことが、外部からの指摘で発覚した。盗用した社説は、2社のホームページに掲載されていた1月30日付の社説からの盗用で、同論説委員長は今回の盗用問題について、「考えが甘かった。盗用と言われても仕方ない」と話し、また「『新聞社は同志』のような意識になっていた。盗用の認識はなかった」と弁解したが、一方で「著作権の点で気になっていた」とも述べ、著作権の侵害を認識して盗用を行っていたことを認めた。山梨日日新聞によると、神戸新聞社説が、「大臣は「すぐに取り消し、言い換えた」と弁明しているが、もちろんそれで済まされる失言ではない。こともあろうに、少子化対策や子育て支援を先頭に立って推進すべき厚労相が、こうした発言をしたことにあきれる。大臣の適格性を疑われても仕方ない」と記述している部分を、山梨日日新聞の社説は「厚労相は「すぐに取り消し言い換えた」と弁明しているが、それで済む失言ではない。
厚労相は少子化対策・子育て支援の先頭に立ち推進するのが仕事だ。発言のような認識では、大臣としての適格性を疑われても仕方がない」と盗用して記載し、さらに、西日本新聞社説が、「少子化によって社会保障制度が揺らぐことを懸念しての発言だったかもしれない。だが、社会保障政策を財政面だけで考えて、子どもの数を増やすことしか念頭になかったのではないか」と記述している部分を、山梨日日新聞が「少子化が進むことによって社会保障制度が揺らぐことを懸念しての発言だったかもしれない。財政面を中心に考え、子どもの数を増やすことしか念頭になかったら寂しい」と盗用して記載した。
山梨日日新聞社幹部らは謝罪し、調査報告を掲載した。2007年2月20日にこの論説委員長を懲戒解雇処分、常務を降格処分、取締役編集局長を減給処分とし、当時社長の野口英一も引責辞任することが決定したが、山梨日日新聞の調査報告には盗用記事の紹介に留まっており、論説委員長の盗用の経緯については一切明かされていない。処分を発表した同日、この論説委員長による北朝鮮の核実験や防衛省の省昇格、地方分権などについて述べられた社説の盗用が、さらに15件もあったことを公表した。社説の盗用は2004年1月から行われていたことも発覚した。盗用に利用した報道機関は、全国紙から読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞が。地方紙からは信濃毎日新聞の計5紙の社説ばかりでなく、記事まで盗用していた。また『フォーリン・プレスセンター・ジャパン』からも盗用を行っていた。いずれもホームページからの盗用であった。今回の盗用問題は、読者である山梨県民から「県民を愚弄している」といった厳しい批判の声が挙がった。
社説を盗用された毎日新聞などからも批判された。「社説」は2007年2月21日付から休止することを発表したが、わずか数ヵ月後には「論説」という形で復活し、現在も続けられている。「論説」の実態は「社説」と全く変わらなかったほか、「論説」として再開される際の読者への説明は一切なかった。なお、引責辞任した野口英一だがしばらくして社長職に復帰している。取材用ヘリコプターは山梨県内ではなく、隣県である静岡県静岡市葵区にある静岡ヘリポートに駐機されており(静岡エアコミュータが委託を受け運航している)、ヘリ取材の必要があると、静岡市から離陸して甲府市の本社を経由してフライトする。 山梨百名山は、1997年、山梨県によって選定された県内の名山100選である。一般公募と市町村推薦であがった候補の中から、選考委員会によって、県民に親しまれている・全国的な知名度がある・歴史や民俗との関わりあるなどの基準で選ばれたとされる。
2011年9月24日土曜日
古代の律令制下においては
甲斐国山梨郡に属する。市域に関する最古の文献資料は正倉院宝物の白あしぎぬ金青袋端書の墨書で、市域にあたる「山梨郡可美里」の日下部某があしぎぬを貢進していたことが記されている。また、奈良・平安遺跡としては日下部遺跡があり、学史上においても重要視された遺跡としても知られる。中世には牧荘、小原荘、大八幡荘などの荘園が記録に残っている。平安時代後期には甲斐源氏の一族が甲府盆地の各地へ進出して勢力を拡大するが、市域を含む安田郷は甲斐源氏の一族である安田氏が本拠とし、小原(山梨市小原)には館跡がある。鎌倉時代から戦国時代にかけて甲斐国は守護である武田氏の支配下にあったとされるが、牧荘については鎌倉時代後期に他氏の支配が確認されている。室町・戦国期には武田信昌の隠棲地で菩提寺である永昌院の存在や武田信縄の館跡があり、武田氏が本拠を甲府に移転する以前の政治的中心地に属していたと考えられている。近世には甲府藩領を経て幕府直轄領となる。
また、市域には御三卿領である田安家領、清水家領が含まれ、両家領の陣屋も存在している。近世には甲州街道や青梅街道、秩父往還などの諸街道が整備され、市域では甲州街道の栗原宿を中心に交通の要衝地となる。また、近世には『甲斐名勝志』を記した萩原元克や小島蕉園、早川漫々などの文人も出現する。明治期には藤村県政における差出の磯の道路開削で青梅街道の開削や亀甲橋の架橋が行われ、市域には東山梨郡役所が設置され東山梨郡行政の中心地となる。1903年(明治36年)には中央線日下部駅(山梨市駅)が開業。また、正徳寺出身の根津嘉一郎は甲州財閥の一人として財界で影響力を持ち、地元においても根津橋の架橋を行っている。戦後には米麦栽培や養蚕を中心とする農業から果樹栽培へと転換する。昭和29年には古屋俊一郎が初代市長に就任し昭和61年まで8期連続で市長を務め、古屋市政では財政健全化や社会資本整備、市有林の設置などが行われる。
山梨市 (-2005年3月21日)は、山梨県の中部に位置する市。2006年3月22日に、東山梨郡牧丘町・三富村との新設合併により、新山梨市 (2005年3月22日-)の一部となった。現在の山梨市(新山梨市)は新設合併によって設置された自治体であり、それ以前に存在した山梨市(旧山梨市)は廃止されている。新山梨市(2005年3月22日以降)と旧山梨市(2005年3月21日まで)は同名別人の自治体であり、国勢調査などのデータは、2005年3月22日の合併前と合併後とでは、別々のものとして扱われている。旧山梨市の市役所本庁舎は新山梨市役所本庁舎として引き継がれていたが、2008年11月にセレスティカジャパン山梨サイト跡地に移転している。郡の所属については、旧山梨市の市域は、山梨郡を経て、郡区町村編制法施行後は東山梨郡に属していた。山梨大学は、山梨県甲府市武田4-4-37に本部を置く日本の国立大学である。2002年に設置された。大学の略称は梨大(なしだい)。日本で唯一のワイン専門研究所である「ワイン科学研究センター」を擁する。
環境サークル、演劇部、酒類研究会、映画・漫画研究会、現代音楽文化研究会、ピアノサークル、山梨大学管弦楽団、山梨大学吹奏楽団、山梨大学医学部交響楽団、山梨大学合唱団、フリーミュージック(軽音楽サークル)、山梨大学ギタークラブ、IFMSA-Yamanashi(国際医学生連盟山梨支部)、電子計算機研究会、飲んだくれサークル。山梨県立大学は、山梨県甲府市飯田5-11-1に本部を置く日本の公立大学である。2005年に設置された。大学の略称は県立大。 山梨県立看護大学と山梨県立女子短期大学が2005年4月に統合してできた。山梨学院大学は、山梨県甲府市酒折2-4-5に本部を置く日本の私立大学である。1962年に設置された。大学の略称は山学(やまがく)、山学大、山梨学大もしくはYGU。山梨学院大学の建学の精神(教育理念)は「本学は、徳を樹つることを理想とする。」などからなる建学理想を基に、「本学は、日本文化への深い理解と広い国際的視野をもって社会に貢献する人間の育成を目指し、豊かな教養と創造力を備えた人格の形成を図る。」となっている。
経営情報学部の専門科目「経営実践」で企画・制作した「山梨学院大学ハローキティ」の携帯ストラップ(根付け)が2006年に商品化され、数量限定でキャンパス内の「購買センター」などで販売された。また、2007年には、「山梨学院大学駅伝キューピー」も同科目の企画・制作により発売された。1946年に古屋眞一によって創立された山梨実践女子高等学院が前身。これを母体として1951年に山梨学院短期大学(栄養科〈現・食物栄養科〉設置)を開学し、1953年には法経科を増設した。1962年に短期大学法経科を4年制大学に改組し、山梨学院大学(法学部法学科設置)として開学した。陸上競技部は箱根駅伝に1987年の第63回大会以来連続出場していることで全国的によく知られ、総合優勝も現在3回(第68・70・71回大会)果たしている。また、総合タイムにおいて11時間の壁を最初に破った(第70回大会:10時間59分13秒)大学でもある(現コースとは一部異なる)。ちなみに、同駅伝には2011年現在25年連続25回目の出場を果たしている。
なお、「山梨学院大学箱根駅伝物語」(佐藤眞佐美 著・山梨ふるさと文庫1993年刊)が出版されている。山翡翠の会は毎年9月に東京都内で開催される首都圏在住のOB・OGを中心とした懇親会である。また、長野・静岡の各地区でも開催されている。梶法会は法科大学院の在学生・修了生が一体となって、同大学院出身の合格者や山梨県弁護士会所属弁護士等の協力を得て、新司法試験合格を目指す勉強会である。 山梨学院大学は2001年に英国で日本文化を紹介する「JAPAN2001」が開催された時に行なわれた「国際交流と和解の森」計画に賛同・協力した経緯から、日英グリーン同盟への参加を通じて英国や英国人への理解と共感を深めるための植樹式が催され、イングリッシュ・オークが同大学キャンパス内の21世紀広場に植樹された。また、この植樹式には英国大使館からコリン・ロバーツ政治参事官が参加した。
なお、英国の国立記念森林公園内にある和解の森には、同大学から贈られた桜の木が植樹されている。原則毎月1回程度、日曜日朝8時30分から9時にYBSラジオで放送されている「YGU山梨学院大学ラジオセミナー」は、四半世紀近く続く一般社会人向け講座で、毎回山梨学院大学の教授らが出演し、最近の社会情勢などについてそれぞれの専門分野の立場から解説する番組である。山梨学院短期大学は、山梨県甲府市酒折2-4-5に本部を置く日本の私立大学である。1951年に設置された。大学の略称は山学短大。山梨学院短期大学は1951年に設置された山梨県甲府市に所在する私立短期大学であり、系列校の山梨学院大学と同じキャンパスにある。現在は食物栄養科、保育科の2学科を擁する。通称は学短。物栄養科は、開学当初からある学科で、食文化と健康・栄養についての専門的知識を学ぶ。栄養実習先の一つに山梨学院大学附属幼稚園がある。保育科は、幼児教育・児童教育のエキスパートを養成する。
保育実習・幼稚園教育実習・小学校教育実習のほか児童館実習がある。幼稚園教育実習・小学校教育実習は、山梨学院大学附属幼稚園及び山梨学院大学附属小学校での実習も行われている。山梨学院短期大学は、2006年に財団法人短期大学基準協会の第三者評価の結果、「適格」認定を受けている。山梨学院大学と合同で実施している奨励金制度として「学生チャレンジ制度」がある。クラブ活動は短期大学独自のクラブと山梨学院大学と合同のクラブを含めると以下のものがある。学園祭は「樹徳祭」と呼ばれ、毎年10月下旬から11月上旬頃に山梨学院大学と合同で開催される。過去には漫画家の山咲トオルなども来学している。
また、市域には御三卿領である田安家領、清水家領が含まれ、両家領の陣屋も存在している。近世には甲州街道や青梅街道、秩父往還などの諸街道が整備され、市域では甲州街道の栗原宿を中心に交通の要衝地となる。また、近世には『甲斐名勝志』を記した萩原元克や小島蕉園、早川漫々などの文人も出現する。明治期には藤村県政における差出の磯の道路開削で青梅街道の開削や亀甲橋の架橋が行われ、市域には東山梨郡役所が設置され東山梨郡行政の中心地となる。1903年(明治36年)には中央線日下部駅(山梨市駅)が開業。また、正徳寺出身の根津嘉一郎は甲州財閥の一人として財界で影響力を持ち、地元においても根津橋の架橋を行っている。戦後には米麦栽培や養蚕を中心とする農業から果樹栽培へと転換する。昭和29年には古屋俊一郎が初代市長に就任し昭和61年まで8期連続で市長を務め、古屋市政では財政健全化や社会資本整備、市有林の設置などが行われる。
山梨市 (-2005年3月21日)は、山梨県の中部に位置する市。2006年3月22日に、東山梨郡牧丘町・三富村との新設合併により、新山梨市 (2005年3月22日-)の一部となった。現在の山梨市(新山梨市)は新設合併によって設置された自治体であり、それ以前に存在した山梨市(旧山梨市)は廃止されている。新山梨市(2005年3月22日以降)と旧山梨市(2005年3月21日まで)は同名別人の自治体であり、国勢調査などのデータは、2005年3月22日の合併前と合併後とでは、別々のものとして扱われている。旧山梨市の市役所本庁舎は新山梨市役所本庁舎として引き継がれていたが、2008年11月にセレスティカジャパン山梨サイト跡地に移転している。郡の所属については、旧山梨市の市域は、山梨郡を経て、郡区町村編制法施行後は東山梨郡に属していた。山梨大学は、山梨県甲府市武田4-4-37に本部を置く日本の国立大学である。2002年に設置された。大学の略称は梨大(なしだい)。日本で唯一のワイン専門研究所である「ワイン科学研究センター」を擁する。
環境サークル、演劇部、酒類研究会、映画・漫画研究会、現代音楽文化研究会、ピアノサークル、山梨大学管弦楽団、山梨大学吹奏楽団、山梨大学医学部交響楽団、山梨大学合唱団、フリーミュージック(軽音楽サークル)、山梨大学ギタークラブ、IFMSA-Yamanashi(国際医学生連盟山梨支部)、電子計算機研究会、飲んだくれサークル。山梨県立大学は、山梨県甲府市飯田5-11-1に本部を置く日本の公立大学である。2005年に設置された。大学の略称は県立大。 山梨県立看護大学と山梨県立女子短期大学が2005年4月に統合してできた。山梨学院大学は、山梨県甲府市酒折2-4-5に本部を置く日本の私立大学である。1962年に設置された。大学の略称は山学(やまがく)、山学大、山梨学大もしくはYGU。山梨学院大学の建学の精神(教育理念)は「本学は、徳を樹つることを理想とする。」などからなる建学理想を基に、「本学は、日本文化への深い理解と広い国際的視野をもって社会に貢献する人間の育成を目指し、豊かな教養と創造力を備えた人格の形成を図る。」となっている。
経営情報学部の専門科目「経営実践」で企画・制作した「山梨学院大学ハローキティ」の携帯ストラップ(根付け)が2006年に商品化され、数量限定でキャンパス内の「購買センター」などで販売された。また、2007年には、「山梨学院大学駅伝キューピー」も同科目の企画・制作により発売された。1946年に古屋眞一によって創立された山梨実践女子高等学院が前身。これを母体として1951年に山梨学院短期大学(栄養科〈現・食物栄養科〉設置)を開学し、1953年には法経科を増設した。1962年に短期大学法経科を4年制大学に改組し、山梨学院大学(法学部法学科設置)として開学した。陸上競技部は箱根駅伝に1987年の第63回大会以来連続出場していることで全国的によく知られ、総合優勝も現在3回(第68・70・71回大会)果たしている。また、総合タイムにおいて11時間の壁を最初に破った(第70回大会:10時間59分13秒)大学でもある(現コースとは一部異なる)。ちなみに、同駅伝には2011年現在25年連続25回目の出場を果たしている。
なお、「山梨学院大学箱根駅伝物語」(佐藤眞佐美 著・山梨ふるさと文庫1993年刊)が出版されている。山翡翠の会は毎年9月に東京都内で開催される首都圏在住のOB・OGを中心とした懇親会である。また、長野・静岡の各地区でも開催されている。梶法会は法科大学院の在学生・修了生が一体となって、同大学院出身の合格者や山梨県弁護士会所属弁護士等の協力を得て、新司法試験合格を目指す勉強会である。 山梨学院大学は2001年に英国で日本文化を紹介する「JAPAN2001」が開催された時に行なわれた「国際交流と和解の森」計画に賛同・協力した経緯から、日英グリーン同盟への参加を通じて英国や英国人への理解と共感を深めるための植樹式が催され、イングリッシュ・オークが同大学キャンパス内の21世紀広場に植樹された。また、この植樹式には英国大使館からコリン・ロバーツ政治参事官が参加した。
なお、英国の国立記念森林公園内にある和解の森には、同大学から贈られた桜の木が植樹されている。原則毎月1回程度、日曜日朝8時30分から9時にYBSラジオで放送されている「YGU山梨学院大学ラジオセミナー」は、四半世紀近く続く一般社会人向け講座で、毎回山梨学院大学の教授らが出演し、最近の社会情勢などについてそれぞれの専門分野の立場から解説する番組である。山梨学院短期大学は、山梨県甲府市酒折2-4-5に本部を置く日本の私立大学である。1951年に設置された。大学の略称は山学短大。山梨学院短期大学は1951年に設置された山梨県甲府市に所在する私立短期大学であり、系列校の山梨学院大学と同じキャンパスにある。現在は食物栄養科、保育科の2学科を擁する。通称は学短。物栄養科は、開学当初からある学科で、食文化と健康・栄養についての専門的知識を学ぶ。栄養実習先の一つに山梨学院大学附属幼稚園がある。保育科は、幼児教育・児童教育のエキスパートを養成する。
保育実習・幼稚園教育実習・小学校教育実習のほか児童館実習がある。幼稚園教育実習・小学校教育実習は、山梨学院大学附属幼稚園及び山梨学院大学附属小学校での実習も行われている。山梨学院短期大学は、2006年に財団法人短期大学基準協会の第三者評価の結果、「適格」認定を受けている。山梨学院大学と合同で実施している奨励金制度として「学生チャレンジ制度」がある。クラブ活動は短期大学独自のクラブと山梨学院大学と合同のクラブを含めると以下のものがある。学園祭は「樹徳祭」と呼ばれ、毎年10月下旬から11月上旬頃に山梨学院大学と合同で開催される。過去には漫画家の山咲トオルなども来学している。
2011年9月23日金曜日
ゆうちょ銀行や
都市銀行、全国地方銀行協会に加盟している地方銀行のATMからの現金預入れや引き出しはできるが、受けられないサービスもある。基本的には全国地方銀行協会に加盟している地方銀行のカードでの入金は、64ある地銀のカード入金を開始している提携銀行は一切ない。また、他地銀ATMが取扱時間内であっても、山梨中央銀行のATM営業時間外となる午後9時以降(現金振込みは午後6時以降)は一切の取引ができない。なお、東日本旅客鉄道管内の主要駅構内に設置されているビューアルッテからの入出金は2010年2月1日より休止している(再開時期未定)。「スーパーマーケットや役所にATMを充分設置している」との姿勢からコンビニATMの設置に消極的であり、他の関東甲信越では全都県でサービスインしていた2005年の段階でも山梨県内では設置の目処がたたなかった。この状況に県外観光客などから苦情が殺到したセブン銀行では要望に応えるため、8月に郡内地方にあるセブン-イレブンにコンビニATMを独自に設置した。
但し使用できるキャッシュカードは都市銀行と県外に拠点を持つ提携地方銀行や金融機関などであり、山梨中央銀行や県内の金融機関のキャッシュカードは使用できなかった。その後山梨中央銀行はセブン銀行と提携に踏み切り、国中地方のセブン-イレブンとイトーヨーカ堂にもセブン銀行のコンビニATMを設置。2006年1月23日より県内全域のセブン-イレブンおよびイトーヨーカ堂内に設置されているATMでサービスを開始した。また、2008年11月17日にはイーネット・ローソンATM(LANs)にも提携を始め、イーネットについてはこれまで都市銀行が管理していた10機のATMを移管。提携の段階で県内のローソンに設置されていなかったローソンATMについても順次設置され、2009年8月10日にサービスが開始された。なお、ローソン河口湖店にはローソンATMではなく山梨中央銀行のATMが設置されている。さらに2011年6月22日には、山梨中央銀行はイオン銀行とのATM相互提携を開始し、これで全てのコンビニATMと提携したことになる。
現在では県内の主要コンビニにATMが設置されているが、利用可能時間が他行ATM利用時と同様時間制限があるほか、全時間帯において手数料を徴収される。山梨中央銀行側のニュースリリースには発表されなかったが、2010年2月22日より、当行ATMにおける、山梨県民信用組合のキャッシュカードによる引出手数料無料提携(片提携)を開始している。2007年7月9日よりICキャッシュカードを採用しているが、既に甲府信用金庫や山梨信用金庫が採用していることから対応が遅れたといえる。さらに磁気カードから切り替える場合の手数料は信用金庫が無料なのに対し中銀は有料である。曽根丘陵公園は山梨県甲府市(旧東八代郡中道町)にある公園。甲斐風土記の丘の愛称がある。曽根丘陵は甲府盆地の南西縁、笛吹川左岸の旧境川村から旧三珠町にかけての広がる9キロにわたる丘陵地域で、旧石器時代からの遺跡が数多く分布している。特に旧中道町域の東山地域は弥生後期の方形周溝墓群がある上の平遺跡や、甲斐銚子塚古墳や大丸山古墳を中心とする前期古墳群が密集する地域で、銚子塚古墳の史跡整備に伴い公園が建設された。
園内には遺跡や古墳群のほかに山梨県立考古博物館や研修センター、広場などがある。公園部分の運営管理は山梨公園公社が行っている。山梨県立考古博物館は曽根丘陵公園内にある博物館。1982年(昭和52年)に開館。歴代館長に磯貝正義、大塚初重、渡辺誠らがいる。展示室は常設展示室・特別展示室の2つ。企画展示室はなく、年1回の秋期企画展に際しては常設展示の移動を行う。常設展示は旧石器時代のナイフ形石器をはじめ、縄文時代では国の重要文化財に指定されている一の沢遺跡の出土品や殿林遺跡出土土器をはじめ有孔鍔付土器、人面装飾付土器、埋甕など各種土器群、ヒスイの装身具や金生遺跡の配石遺構のジオラマなど。弥生時代では農耕具や弥生土器、古墳時代では甲斐銚子塚古墳や大丸山古墳から出土した青銅鏡や短甲の複製品のほか実物資料では武具や近年出土した木製品、土師器・須恵器などが展示され、竪穴・横穴の石室構造が可動式の模型で展示されている。
そのほか、古代の墨書土器や甲府城から出土した輪宝、鰍沢河岸跡の出土品などが展示されている。その他多目的室や学習・閲覧コーナー、山梨県埋蔵文化財センターの発掘調査報告書や研究紀要、博物館のグッズなどを販売しているミュージアムショップが設置されている。初代館長の磯貝正義以来考古学関係の文献を数多く収集し、「大塚文庫」として集成されている。風土記の丘研修センターは曽根丘陵公園内にある山梨県立の研修所。1989年開館。縄文土器作りや石器時代の火起こし体験などが体験できるほか、各種講演会場としても使用されている。山梨県立フラワーセンター ハイジの村とは山梨県にある、『アルプスの少女ハイジ』をイメージした花と星のテーマパークである。2005年、施設運営会社・株式会社ハイジの村を立ち上げる。同時期にアニメーション作品『アルプスの少女ハイジ』について正式に契約を結び、施設の建築、改築を行ったとみられる。2006年4月1日、オープン。5月、ブライダルフェア開催。
以後、結婚式会場として利用可能となった。また、コスプレイベントが2007年4月より計6回開催され、秋葉原から特別バスが運行されるなど多くの参加者が集まり、テーマパーク側も当初は知名度の向上に繋がるとしてイベントの開催を歓迎していた。しかし2008年6月、1本の苦情の電話をきっかけに2008年度は開催されないこととなった。なお、2009年度は通常通りの開催となる。「山梨県立フラワーセンター」とは山梨県が建設したテーマパーク施設である。オープン後、数年間は認知度、営業力の不足により入場者数は低迷、赤字が続く。民間企業の力を借りた立て直しのため2005年、指定管理者の募集を開始する。施設建設の資金は数十億円とも言われ、また県内随一の天下り先とも指摘されていた。数社の応募があった中、以下の3点が評価され、桔梗信玄餅などの菓子を製造販売する県内企業である株式会社桔梗屋に運営委託された。山梨県笛吹川フルーツ公園は、山梨県山梨市に位置する公園。
山梨市フルーツパークが運営・管理を行なっている。公園敷地内で営業しているフルーツパーク富士屋ホテルについても併せて記述する。傾斜地にあり、眼下に広がる甲府盆地の眺めが美しく、晴れた日には富士山も望むことができる。新日本三大夜景のひとつ。 園内の「フルーツセンター」には物産館があるほか、景色を眺めながら足湯が利用できる。天然温泉「赤松の湯ぷくぷく」でも、露天風呂、内風呂、食堂・大広間から眺望を楽しむことができる。山梨市は、山梨県の東部に位置する市。甲州ワインの産地として知られる。 国宝の仏殿を有する清白寺、古今和歌集「しほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とぞなく」を代表に多くの歌人にも詠まれた名勝地差出の磯、武田信玄の隠し湯ともいわれる県内最古の温泉である岩下温泉などがある。牧丘町、三富村と合併以前の旧山梨市域は県中央部、甲府盆地の北東縁にあたる副盆地上に位置する。方形市域で、北西部から南西部にかけては山地で、南部は平地。市内南部を笛吹川や重川、日川などの支流が南北に縦貫し、氾濫原や複合扇状地を形成している。気候は冬夏でやや寒暖の差が激しい。
但し使用できるキャッシュカードは都市銀行と県外に拠点を持つ提携地方銀行や金融機関などであり、山梨中央銀行や県内の金融機関のキャッシュカードは使用できなかった。その後山梨中央銀行はセブン銀行と提携に踏み切り、国中地方のセブン-イレブンとイトーヨーカ堂にもセブン銀行のコンビニATMを設置。2006年1月23日より県内全域のセブン-イレブンおよびイトーヨーカ堂内に設置されているATMでサービスを開始した。また、2008年11月17日にはイーネット・ローソンATM(LANs)にも提携を始め、イーネットについてはこれまで都市銀行が管理していた10機のATMを移管。提携の段階で県内のローソンに設置されていなかったローソンATMについても順次設置され、2009年8月10日にサービスが開始された。なお、ローソン河口湖店にはローソンATMではなく山梨中央銀行のATMが設置されている。さらに2011年6月22日には、山梨中央銀行はイオン銀行とのATM相互提携を開始し、これで全てのコンビニATMと提携したことになる。
現在では県内の主要コンビニにATMが設置されているが、利用可能時間が他行ATM利用時と同様時間制限があるほか、全時間帯において手数料を徴収される。山梨中央銀行側のニュースリリースには発表されなかったが、2010年2月22日より、当行ATMにおける、山梨県民信用組合のキャッシュカードによる引出手数料無料提携(片提携)を開始している。2007年7月9日よりICキャッシュカードを採用しているが、既に甲府信用金庫や山梨信用金庫が採用していることから対応が遅れたといえる。さらに磁気カードから切り替える場合の手数料は信用金庫が無料なのに対し中銀は有料である。曽根丘陵公園は山梨県甲府市(旧東八代郡中道町)にある公園。甲斐風土記の丘の愛称がある。曽根丘陵は甲府盆地の南西縁、笛吹川左岸の旧境川村から旧三珠町にかけての広がる9キロにわたる丘陵地域で、旧石器時代からの遺跡が数多く分布している。特に旧中道町域の東山地域は弥生後期の方形周溝墓群がある上の平遺跡や、甲斐銚子塚古墳や大丸山古墳を中心とする前期古墳群が密集する地域で、銚子塚古墳の史跡整備に伴い公園が建設された。
園内には遺跡や古墳群のほかに山梨県立考古博物館や研修センター、広場などがある。公園部分の運営管理は山梨公園公社が行っている。山梨県立考古博物館は曽根丘陵公園内にある博物館。1982年(昭和52年)に開館。歴代館長に磯貝正義、大塚初重、渡辺誠らがいる。展示室は常設展示室・特別展示室の2つ。企画展示室はなく、年1回の秋期企画展に際しては常設展示の移動を行う。常設展示は旧石器時代のナイフ形石器をはじめ、縄文時代では国の重要文化財に指定されている一の沢遺跡の出土品や殿林遺跡出土土器をはじめ有孔鍔付土器、人面装飾付土器、埋甕など各種土器群、ヒスイの装身具や金生遺跡の配石遺構のジオラマなど。弥生時代では農耕具や弥生土器、古墳時代では甲斐銚子塚古墳や大丸山古墳から出土した青銅鏡や短甲の複製品のほか実物資料では武具や近年出土した木製品、土師器・須恵器などが展示され、竪穴・横穴の石室構造が可動式の模型で展示されている。
そのほか、古代の墨書土器や甲府城から出土した輪宝、鰍沢河岸跡の出土品などが展示されている。その他多目的室や学習・閲覧コーナー、山梨県埋蔵文化財センターの発掘調査報告書や研究紀要、博物館のグッズなどを販売しているミュージアムショップが設置されている。初代館長の磯貝正義以来考古学関係の文献を数多く収集し、「大塚文庫」として集成されている。風土記の丘研修センターは曽根丘陵公園内にある山梨県立の研修所。1989年開館。縄文土器作りや石器時代の火起こし体験などが体験できるほか、各種講演会場としても使用されている。山梨県立フラワーセンター ハイジの村とは山梨県にある、『アルプスの少女ハイジ』をイメージした花と星のテーマパークである。2005年、施設運営会社・株式会社ハイジの村を立ち上げる。同時期にアニメーション作品『アルプスの少女ハイジ』について正式に契約を結び、施設の建築、改築を行ったとみられる。2006年4月1日、オープン。5月、ブライダルフェア開催。
以後、結婚式会場として利用可能となった。また、コスプレイベントが2007年4月より計6回開催され、秋葉原から特別バスが運行されるなど多くの参加者が集まり、テーマパーク側も当初は知名度の向上に繋がるとしてイベントの開催を歓迎していた。しかし2008年6月、1本の苦情の電話をきっかけに2008年度は開催されないこととなった。なお、2009年度は通常通りの開催となる。「山梨県立フラワーセンター」とは山梨県が建設したテーマパーク施設である。オープン後、数年間は認知度、営業力の不足により入場者数は低迷、赤字が続く。民間企業の力を借りた立て直しのため2005年、指定管理者の募集を開始する。施設建設の資金は数十億円とも言われ、また県内随一の天下り先とも指摘されていた。数社の応募があった中、以下の3点が評価され、桔梗信玄餅などの菓子を製造販売する県内企業である株式会社桔梗屋に運営委託された。山梨県笛吹川フルーツ公園は、山梨県山梨市に位置する公園。
山梨市フルーツパークが運営・管理を行なっている。公園敷地内で営業しているフルーツパーク富士屋ホテルについても併せて記述する。傾斜地にあり、眼下に広がる甲府盆地の眺めが美しく、晴れた日には富士山も望むことができる。新日本三大夜景のひとつ。 園内の「フルーツセンター」には物産館があるほか、景色を眺めながら足湯が利用できる。天然温泉「赤松の湯ぷくぷく」でも、露天風呂、内風呂、食堂・大広間から眺望を楽しむことができる。山梨市は、山梨県の東部に位置する市。甲州ワインの産地として知られる。 国宝の仏殿を有する清白寺、古今和歌集「しほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とぞなく」を代表に多くの歌人にも詠まれた名勝地差出の磯、武田信玄の隠し湯ともいわれる県内最古の温泉である岩下温泉などがある。牧丘町、三富村と合併以前の旧山梨市域は県中央部、甲府盆地の北東縁にあたる副盆地上に位置する。方形市域で、北西部から南西部にかけては山地で、南部は平地。市内南部を笛吹川や重川、日川などの支流が南北に縦貫し、氾濫原や複合扇状地を形成している。気候は冬夏でやや寒暖の差が激しい。
2011年9月22日木曜日
山梨県立図書館では
「甲州文庫」をはじめとする郷土資料が保管されており、1978年に山梨県立美術館が開館し近代以前の美術資料を収集し、1982年(昭和57年)には山梨県立考古博物館が開館し考古資料収集の中心施設となり、これらが郷土研究の中心施設となっていた。こうした中で同博物館の基本構想は、御坂町(現・笛吹市)出身の歴史学者で館長に就任が予定されていた網野善彦が中心となって作られている。網野は開館前年に死去したが同博物館のコンセプトは“網野史観”を反映したものとなっており、山梨に暮らした民衆が、どのように自然と付き合ってきたかという部分に主眼が置かれている。収蔵品は山梨県に関する考古資料や歴史資料、美術工芸資料や民俗資料を中心に収集している。また、山梨県立図書館に収蔵されていた「甲州文庫」などの郷土資料や山梨県立美術館に収蔵されていた大木コレクションなど江戸期までの美術資料も移管され、歴史・美術工芸・民俗など分野別や低湿度収蔵庫など大小8つの収蔵庫がある。
また、地域博物館として、収蔵品や企画展に関するツアーや年中行事に関するイベント、民俗芸能の実演などを実施している。開館初年度の企画展「やまなしの道祖神祭り」は山梨県内各地域の協力を得て多様な道祖神祭りの飾り物を展示し、道祖神祭りや芸能保存会への参加者が増加し、演目の復活など祭りの活性化にも繋がり、博物館活動が地域の民俗へも関わる試みとなった。古代甲斐国の交通・交易の様相に関して考古学・文献史学の両面から検討を行う。古代甲斐国における交通路の確定や、『山梨県史』において指摘された古代甲斐国が東山道と東海道の結節点にあたるとする平川南の指摘を受け各種論考が提言される。また、報告書では古代甲斐国の交通・交易に関する史料を集成している。 常設展示は「山梨の風土とくらし」「甲斐を往き交う群像」「共生する社会」の三部構成。「山梨の風土とくらし」において、「山に生きる」「里に暮らす」「城下町の賑わい」ではジオラマ展示が行われており、古文書や絵図資料、考古資料や民俗資料、聞き取り調査などに基づいて建物の模型や小道具、デフォルメされた人形が作成され配置されている。
「山に生きる」では、黒川金山での粉成の様子や「佐野山小屋見取図」に基づいた山中のそま小屋の様子、『甲斐叢記』に基づいた市川大門の紙漉小屋の様子、奈良田の焼畑農耕の様子などが再現されている。「里に暮らす」では近世のムラの営みと歳時記をテーマに、東部地域の養蚕民家がジオラマで再現されており、ノラのジオラマでは畑や水車小屋などが再現された情景模型で、米麦二毛作や綿花、煙草、果樹、里芋栽培など甲斐国の諸産業や四季の移ろいが表現されている。「城下町の賑わい」では甲府城下町のジオラマが三台配置されている。甲府八日町(甲府市中央五丁目)札の辻にあった高札場のジオラマは『裏見寒話』や『甲府買物独案内』所載の「甲府繁栄之図」に基き城下町の入り口である高札場の番所や木戸、火の見櫓などが再現されており、同じく八日町にあった菓子商である升屋・若松屋前のジオラマでは、『甲斐廻手振』『甲府八日町初売之景』に基いて初売りの様子が再現され、初荷が積み上げられ人々が押し掛ける正月の様子が再現されている。
柳町三丁目(甲府市若松町)の甲府道祖神祭りのジオラマでは、軒先に飾られた幕絵や辻に立てられたオヤマなど道祖神飾りが再現され、道祖神祭りの様子が復元されている。また、各ジオラマには甲府城下町の地下を流れていた甲府上水も再現されている。山梨の風土とくらし - 原始から現代に至る山梨の自然と人との関わりに関する展示。 鎌倉時代後期の作。甲斐国における浄土真宗の拠点寺院であった等々力山万福寺の旧蔵品で、2幅の大画面に浄土宗開祖法然の生涯が描かれている。画面寸法は各縦153.7センチメートル、横110.5センチメートル。掛幅形式の絵伝が成立した初期の作例。初期の浄土真宗では布教の際の念仏勧化法として「絵解き」を行っており、万福寺を再興した源誓坊光寂により甲斐での布教に用いられたものであると考えられている。万福寺は江戸時代に転宗問題で寺勢が衰えて寺宝の多くが散逸し、本図をはじめ西本願寺所蔵の親鸞聖人絵伝や東京藝術大学・シアトル美術館所蔵の源誓上人絵伝などが旧万福寺所蔵品として現存している。
平成17年5月2日、山梨県指定有形文化財に指定され、平成22年国の重要文化財に指定された。野外には、身延町小原島で発見された化石を含む古富士川海峡の砂岩や鰍沢河岸に植えられていた松、甲府市上石田自治会所有であった道祖神などの展示物がある。ほか、敷地内にはシンボルツリーのヤマナシの木をはじめ、明治以前から山梨県内に生息していた約4万種の草木が植えられているほか、「みのりの里」では山梨県の特産品で「甲州八珍果」と総称されたモモやブドウなどの果樹林があり、県指定天然記念物の果樹を接木により保存する試みが行われている。地方独立行政法人山梨県立病院機構 山梨県立中央病院は、山梨県甲府市富士見にある医療機関である。山梨県の災害拠点病院の中心である基幹災害医療センターに指定されているほか、山梨県唯一の総合周産期母子医療センターを持つなど、多様な機能を有する。2010年4月1日より、特定地方独立行政法人である地方独立行政法人山梨県立病院機構の運営に移管。
山梨県における中心的な医療機関であり、救急医療(山梨県内では唯一、三次救急医療の指定を受けている)は勿論がん患者や結核患者、さらにはエイズ患者も受け入れている。近年施設の老朽化と受け入れ体制の強化を目的に改築工事が行われ、同時に増床されている。駐車場など一部施設においてPFI方式が取り入れられ、民間業者が運営・管理している。4番乗り場より山梨交通バスにて15分、県立中央病院下車。県立中央病院行きまたは県立中央病院経由のバスは全て病院内のバス停まで乗り入れる。待ち時間があいてしまう場合は、飯田経由のバスに乗り、県立中央病院入口で降りて5分ほど歩いて行くこともできる。 竜王駅より山梨交通バス77系統「中央病院・伊勢町経由市立甲府病院行き」にて10分、県立中央病院下車。中央自動車道甲府昭和インターチェンジより車で10分。
また、地域博物館として、収蔵品や企画展に関するツアーや年中行事に関するイベント、民俗芸能の実演などを実施している。開館初年度の企画展「やまなしの道祖神祭り」は山梨県内各地域の協力を得て多様な道祖神祭りの飾り物を展示し、道祖神祭りや芸能保存会への参加者が増加し、演目の復活など祭りの活性化にも繋がり、博物館活動が地域の民俗へも関わる試みとなった。古代甲斐国の交通・交易の様相に関して考古学・文献史学の両面から検討を行う。古代甲斐国における交通路の確定や、『山梨県史』において指摘された古代甲斐国が東山道と東海道の結節点にあたるとする平川南の指摘を受け各種論考が提言される。また、報告書では古代甲斐国の交通・交易に関する史料を集成している。 常設展示は「山梨の風土とくらし」「甲斐を往き交う群像」「共生する社会」の三部構成。「山梨の風土とくらし」において、「山に生きる」「里に暮らす」「城下町の賑わい」ではジオラマ展示が行われており、古文書や絵図資料、考古資料や民俗資料、聞き取り調査などに基づいて建物の模型や小道具、デフォルメされた人形が作成され配置されている。
「山に生きる」では、黒川金山での粉成の様子や「佐野山小屋見取図」に基づいた山中のそま小屋の様子、『甲斐叢記』に基づいた市川大門の紙漉小屋の様子、奈良田の焼畑農耕の様子などが再現されている。「里に暮らす」では近世のムラの営みと歳時記をテーマに、東部地域の養蚕民家がジオラマで再現されており、ノラのジオラマでは畑や水車小屋などが再現された情景模型で、米麦二毛作や綿花、煙草、果樹、里芋栽培など甲斐国の諸産業や四季の移ろいが表現されている。「城下町の賑わい」では甲府城下町のジオラマが三台配置されている。甲府八日町(甲府市中央五丁目)札の辻にあった高札場のジオラマは『裏見寒話』や『甲府買物独案内』所載の「甲府繁栄之図」に基き城下町の入り口である高札場の番所や木戸、火の見櫓などが再現されており、同じく八日町にあった菓子商である升屋・若松屋前のジオラマでは、『甲斐廻手振』『甲府八日町初売之景』に基いて初売りの様子が再現され、初荷が積み上げられ人々が押し掛ける正月の様子が再現されている。
柳町三丁目(甲府市若松町)の甲府道祖神祭りのジオラマでは、軒先に飾られた幕絵や辻に立てられたオヤマなど道祖神飾りが再現され、道祖神祭りの様子が復元されている。また、各ジオラマには甲府城下町の地下を流れていた甲府上水も再現されている。山梨の風土とくらし - 原始から現代に至る山梨の自然と人との関わりに関する展示。 鎌倉時代後期の作。甲斐国における浄土真宗の拠点寺院であった等々力山万福寺の旧蔵品で、2幅の大画面に浄土宗開祖法然の生涯が描かれている。画面寸法は各縦153.7センチメートル、横110.5センチメートル。掛幅形式の絵伝が成立した初期の作例。初期の浄土真宗では布教の際の念仏勧化法として「絵解き」を行っており、万福寺を再興した源誓坊光寂により甲斐での布教に用いられたものであると考えられている。万福寺は江戸時代に転宗問題で寺勢が衰えて寺宝の多くが散逸し、本図をはじめ西本願寺所蔵の親鸞聖人絵伝や東京藝術大学・シアトル美術館所蔵の源誓上人絵伝などが旧万福寺所蔵品として現存している。
平成17年5月2日、山梨県指定有形文化財に指定され、平成22年国の重要文化財に指定された。野外には、身延町小原島で発見された化石を含む古富士川海峡の砂岩や鰍沢河岸に植えられていた松、甲府市上石田自治会所有であった道祖神などの展示物がある。ほか、敷地内にはシンボルツリーのヤマナシの木をはじめ、明治以前から山梨県内に生息していた約4万種の草木が植えられているほか、「みのりの里」では山梨県の特産品で「甲州八珍果」と総称されたモモやブドウなどの果樹林があり、県指定天然記念物の果樹を接木により保存する試みが行われている。地方独立行政法人山梨県立病院機構 山梨県立中央病院は、山梨県甲府市富士見にある医療機関である。山梨県の災害拠点病院の中心である基幹災害医療センターに指定されているほか、山梨県唯一の総合周産期母子医療センターを持つなど、多様な機能を有する。2010年4月1日より、特定地方独立行政法人である地方独立行政法人山梨県立病院機構の運営に移管。
山梨県における中心的な医療機関であり、救急医療(山梨県内では唯一、三次救急医療の指定を受けている)は勿論がん患者や結核患者、さらにはエイズ患者も受け入れている。近年施設の老朽化と受け入れ体制の強化を目的に改築工事が行われ、同時に増床されている。駐車場など一部施設においてPFI方式が取り入れられ、民間業者が運営・管理している。4番乗り場より山梨交通バスにて15分、県立中央病院下車。県立中央病院行きまたは県立中央病院経由のバスは全て病院内のバス停まで乗り入れる。待ち時間があいてしまう場合は、飯田経由のバスに乗り、県立中央病院入口で降りて5分ほど歩いて行くこともできる。 竜王駅より山梨交通バス77系統「中央病院・伊勢町経由市立甲府病院行き」にて10分、県立中央病院下車。中央自動車道甲府昭和インターチェンジより車で10分。
2011年9月21日水曜日
山梨郡は
かつて甲斐国(山梨県)に存在した郡である。巨麻郡(巨摩郡)、八代郡、都留郡とともに甲斐四郡のひとつで、都留郡を除いて国中三郡と総称される。明治11年(1878年)に郡区町村編制法によって東山梨郡と西山梨郡に分割され、山梨県の県名はこの山梨郡に由来している。郡域はおおむね甲府盆地東部にあたり、現在の甲府市(荒川以東)、笛吹市(旧石和町の一部と旧春日居町全域)、山梨市と甲州市にあたると推定されており、西に巨摩郡、南に八代郡、東に都留郡が隣接する。古代の郡域には東八代郡一宮町、御坂町、石和町も含まれている。『和名類聚抄』国郡部では甲斐四郡のうちはじめに記載され、「夜萬奈之」と訓じられている。於曾郷(おぞごう)、能呂郷(のろごう)、林部郷(はやしごう)、井上郷(いのえごう)、玉井郷(たまのいごう)、石禾郷(いさわごう)、表門郷(うわとごう)、山梨郷(やまなしごう)、加美郷(かみごう)、大野郷(おおのごう)の10の管郷を持ち、前者5郷が山梨東郡に、後者5郷が山梨西郡に含まれている。
平安時代に成立した『和名抄』では管郷が二分されており、柏尾山経塚(甲州市、旧勝沼町)出土の康和5年(1103年)銘経筒にも山梨東郡の略称と考えられている「山東郡」の語が見られる。後期古墳時代の甲府盆地では東西に加牟那塚古墳を築造した盆地北西部勢力と姥塚古墳を築造した盆地東部の御坂勢力が対峙し、中間に春日居古墳群や寺本廃寺を築造した新興勢力が進出する状況が想定されているが、山梨郡では建郡当初から春日居勢力と御坂勢力が対峙する構造があったと考えられている。また、郡域には巨摩郡の飛び地も含まれている。史料上の初見は『正倉院宝物』の調庸白あしぎぬ金青袋の墨書銘(和銅7年)や平城宮跡出土木簡の墨書銘(天平宝字6年、同8年)のほか、一宮町坪井の大原遺跡から出土した墨書土器や甲府市の大坪遺跡出土の刻書土器など、郷名が記された考古遺物も出土している。『和名抄』では「夜萬奈之」、「山無瀬」と訓じられている。和銅6年(713年)の「各地の地名は好字(縁起の良い漢字)二字で表せ」とする和銅官命の後から「山梨」の名前が定着し、使われ始めた。
そのため、巷間に通説だとして流布している「山梨の由来はヤマナシ(山梨)の木が多かったから」というものはいささか単純すぎるものであり、語源としては「山ならす(山平らす)」が「やまなし」へと転化してゆき、それに好字としての「梨」の字を当てたと見るのが有力である。「山ならす」とは、甲府盆地の東部に位置し、盆地を囲む山々を除けば高低の少ない平坦な土地であった当郡を表した言葉である。『和名抄』では甲斐国府は八代郡に所在していたと記載され、『和名抄』の成立した後期国府は山梨・八代郡境にあたる御坂町国衙の地に想定されているが、山梨郡域にあたる旧春日居町域には「国府(こう)」や「鎮目」などの地名や県内最古の古代寺院である寺本廃寺や官衙遺跡または郡家遺跡と考えられている国府遺跡など『和名抄』成立以前の初期国府が所在していたと考えられている。また、一宮町域には甲斐国分寺・国分尼寺跡が創建されているなど、山梨郡は古代甲斐国における政治的中心地であったと考えられている。
古代には在庁官人の三枝氏が勢力基盤とし、中世には甲斐守護武田氏の守護所が置かれた。戦国時代には甲府の地に(躑躅ヶ崎館)が築かれ、甲府は城下町として整備され近世に至るまで国中地域や甲斐国の中心となった。山梨県立美術館は、山梨県甲府市貢川の「芸術の森公園」内にある美術館である。同公園は同市中西部の甲斐市寄りに位置し、前を国道52号(美術館通り)が通る。また、同公園内には山梨県立文学館もある。「文化不毛の地」と評されていた山梨において、戦後は博物館構想など文化事業振興の気運が存在し、1975年(昭和50年)に3期目の当選を果たした田辺国男知事は、山梨県立県民文化ホールとともにかねてより懸案であった同美術館の設置事業に着手。翌1976年(昭和51年)には美術資料取得基金を設立し、山梨県農事試験場跡地に美術館の建設を着工。田辺知事と初代館長千澤テイ治によりコレクションの中心をバルビゾン派の画家とする方針が定められ、置県100周年記念事業として19世紀のフランス画家ミレーの代表作『種まく人』の購入が山梨県議会で承認され、山梨県企業局が通商産業省から電気事業固定資産内の事業外固定資産として絵画購入が許可された。
1977年(昭和52年)4月に飯田画廊の仲介でニューヨークのオークションにおいて『種まく人』と『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』を落札した。その他に山梨放送社長野口英史の資金援助や山梨中央銀行からの資金寄付を受け、飯田画廊からミレー3作品を購入し、1978年(昭和53年)11月3日に開館した。『種まく人』、『落ち穂拾い、夏』をはじめとするミレーコレクションやバルビゾン派の画家の作品を収蔵し、「ミレーの美術館」として親しまれている。ミレーコレクションは油絵のほか、水彩画、素描、版画を含め41点を収蔵。その他にクールベ、ターナー、シャガール、ヴラマンクらの作品、山梨県出身の画家や山梨ゆかりの画家の作品なども数多く収蔵している。同公園内にはロダン、ヘンリー・ムーアらのヨーロッパ近代彫刻家の作品も設置されている。また、1988年(昭和63年)から2002年(平成12年)まで行われた「郷土作家シリーズ」をはじめ、山梨県出身の画家に関する多くの企画展が開催されているほか、一般展示室を貸し出して美術振興も行っている。
開館前に、『種をまく人』を2億円で落札購入したことや、同基金以外に山梨県営発電所の売電収益からの購入費支出などに対し山梨県議会で反対意見もあったが、一方で山梨の風土とミレー作品の調和が支持され、好意的に受け入れられている。1988年(昭和63年)には開館10周年記念事業として、ロイスダールの『ベントハイム城の見える風景』を購入した。2002年(平成14年)に萩原英雄コレクションの一括寄贈を受けて施設の増築工事が行われた。重要文化財の『紙本淡彩陶道明聴松図』や山梨県指定文化財の『絹本著色法然上人絵伝』、『絹本着色五代目大木喜右衛門夫婦像』、『木版丹絵武田二十四将図』などを収蔵していたが、2005年(平成17年)に山梨県笛吹市に山梨県立博物館が開館し、それに伴い担当学芸員の異動とともに大木コレクションなど江戸時代以前の美術資料は同博物館に移管された。また、同美術館は全国各地から多くの来館者が訪れることも特徴で、1983年度(昭和58年度)の年間入館者数は12万人にのぼり、2006年(平成18年)10月15日には総入館者数1000万人を達成した。
中央自動車道甲府昭和インターチェンジより、料金所を昇仙峡・湯村方面へ出て、200m先を左折、徳行立体南交差点左折、アルプス通りを約2km上り、貢川交番前交差点を左折、国道52号を約1km左側。山梨県立博物館は、山梨県笛吹市御坂町成田にある総合博物館である。2005年(平成17年)10月15日に開館した。愛称は甲斐とミュージアムをかけた「かいじあむ」。現館長は平川南。基本テーマは「山梨の自然と人」であり、自然系展示と歴史系展示を分けずに展示や資料の収集、調査研究活動、社会教育活動を行っている。常設展示は原始時代から現代という時系列に沿った展示であるが「水に取り組む」、「信仰の足跡」といったテーマを設定した展示になっている。山梨県は公共文化施設が未整備で「文化不毛の地」と評されていたが、戦後には郷土研究が活発化し1961年(昭和36年)には山梨郷土研究会が発足し、郷土研究や史跡や文化財の保存活動、市町村史の編纂事業などを行い、博物館構想も早くから存在していた。
平安時代に成立した『和名抄』では管郷が二分されており、柏尾山経塚(甲州市、旧勝沼町)出土の康和5年(1103年)銘経筒にも山梨東郡の略称と考えられている「山東郡」の語が見られる。後期古墳時代の甲府盆地では東西に加牟那塚古墳を築造した盆地北西部勢力と姥塚古墳を築造した盆地東部の御坂勢力が対峙し、中間に春日居古墳群や寺本廃寺を築造した新興勢力が進出する状況が想定されているが、山梨郡では建郡当初から春日居勢力と御坂勢力が対峙する構造があったと考えられている。また、郡域には巨摩郡の飛び地も含まれている。史料上の初見は『正倉院宝物』の調庸白あしぎぬ金青袋の墨書銘(和銅7年)や平城宮跡出土木簡の墨書銘(天平宝字6年、同8年)のほか、一宮町坪井の大原遺跡から出土した墨書土器や甲府市の大坪遺跡出土の刻書土器など、郷名が記された考古遺物も出土している。『和名抄』では「夜萬奈之」、「山無瀬」と訓じられている。和銅6年(713年)の「各地の地名は好字(縁起の良い漢字)二字で表せ」とする和銅官命の後から「山梨」の名前が定着し、使われ始めた。
そのため、巷間に通説だとして流布している「山梨の由来はヤマナシ(山梨)の木が多かったから」というものはいささか単純すぎるものであり、語源としては「山ならす(山平らす)」が「やまなし」へと転化してゆき、それに好字としての「梨」の字を当てたと見るのが有力である。「山ならす」とは、甲府盆地の東部に位置し、盆地を囲む山々を除けば高低の少ない平坦な土地であった当郡を表した言葉である。『和名抄』では甲斐国府は八代郡に所在していたと記載され、『和名抄』の成立した後期国府は山梨・八代郡境にあたる御坂町国衙の地に想定されているが、山梨郡域にあたる旧春日居町域には「国府(こう)」や「鎮目」などの地名や県内最古の古代寺院である寺本廃寺や官衙遺跡または郡家遺跡と考えられている国府遺跡など『和名抄』成立以前の初期国府が所在していたと考えられている。また、一宮町域には甲斐国分寺・国分尼寺跡が創建されているなど、山梨郡は古代甲斐国における政治的中心地であったと考えられている。
古代には在庁官人の三枝氏が勢力基盤とし、中世には甲斐守護武田氏の守護所が置かれた。戦国時代には甲府の地に(躑躅ヶ崎館)が築かれ、甲府は城下町として整備され近世に至るまで国中地域や甲斐国の中心となった。山梨県立美術館は、山梨県甲府市貢川の「芸術の森公園」内にある美術館である。同公園は同市中西部の甲斐市寄りに位置し、前を国道52号(美術館通り)が通る。また、同公園内には山梨県立文学館もある。「文化不毛の地」と評されていた山梨において、戦後は博物館構想など文化事業振興の気運が存在し、1975年(昭和50年)に3期目の当選を果たした田辺国男知事は、山梨県立県民文化ホールとともにかねてより懸案であった同美術館の設置事業に着手。翌1976年(昭和51年)には美術資料取得基金を設立し、山梨県農事試験場跡地に美術館の建設を着工。田辺知事と初代館長千澤テイ治によりコレクションの中心をバルビゾン派の画家とする方針が定められ、置県100周年記念事業として19世紀のフランス画家ミレーの代表作『種まく人』の購入が山梨県議会で承認され、山梨県企業局が通商産業省から電気事業固定資産内の事業外固定資産として絵画購入が許可された。
1977年(昭和52年)4月に飯田画廊の仲介でニューヨークのオークションにおいて『種まく人』と『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』を落札した。その他に山梨放送社長野口英史の資金援助や山梨中央銀行からの資金寄付を受け、飯田画廊からミレー3作品を購入し、1978年(昭和53年)11月3日に開館した。『種まく人』、『落ち穂拾い、夏』をはじめとするミレーコレクションやバルビゾン派の画家の作品を収蔵し、「ミレーの美術館」として親しまれている。ミレーコレクションは油絵のほか、水彩画、素描、版画を含め41点を収蔵。その他にクールベ、ターナー、シャガール、ヴラマンクらの作品、山梨県出身の画家や山梨ゆかりの画家の作品なども数多く収蔵している。同公園内にはロダン、ヘンリー・ムーアらのヨーロッパ近代彫刻家の作品も設置されている。また、1988年(昭和63年)から2002年(平成12年)まで行われた「郷土作家シリーズ」をはじめ、山梨県出身の画家に関する多くの企画展が開催されているほか、一般展示室を貸し出して美術振興も行っている。
開館前に、『種をまく人』を2億円で落札購入したことや、同基金以外に山梨県営発電所の売電収益からの購入費支出などに対し山梨県議会で反対意見もあったが、一方で山梨の風土とミレー作品の調和が支持され、好意的に受け入れられている。1988年(昭和63年)には開館10周年記念事業として、ロイスダールの『ベントハイム城の見える風景』を購入した。2002年(平成14年)に萩原英雄コレクションの一括寄贈を受けて施設の増築工事が行われた。重要文化財の『紙本淡彩陶道明聴松図』や山梨県指定文化財の『絹本著色法然上人絵伝』、『絹本着色五代目大木喜右衛門夫婦像』、『木版丹絵武田二十四将図』などを収蔵していたが、2005年(平成17年)に山梨県笛吹市に山梨県立博物館が開館し、それに伴い担当学芸員の異動とともに大木コレクションなど江戸時代以前の美術資料は同博物館に移管された。また、同美術館は全国各地から多くの来館者が訪れることも特徴で、1983年度(昭和58年度)の年間入館者数は12万人にのぼり、2006年(平成18年)10月15日には総入館者数1000万人を達成した。
中央自動車道甲府昭和インターチェンジより、料金所を昇仙峡・湯村方面へ出て、200m先を左折、徳行立体南交差点左折、アルプス通りを約2km上り、貢川交番前交差点を左折、国道52号を約1km左側。山梨県立博物館は、山梨県笛吹市御坂町成田にある総合博物館である。2005年(平成17年)10月15日に開館した。愛称は甲斐とミュージアムをかけた「かいじあむ」。現館長は平川南。基本テーマは「山梨の自然と人」であり、自然系展示と歴史系展示を分けずに展示や資料の収集、調査研究活動、社会教育活動を行っている。常設展示は原始時代から現代という時系列に沿った展示であるが「水に取り組む」、「信仰の足跡」といったテーマを設定した展示になっている。山梨県は公共文化施設が未整備で「文化不毛の地」と評されていたが、戦後には郷土研究が活発化し1961年(昭和36年)には山梨郷土研究会が発足し、郷土研究や史跡や文化財の保存活動、市町村史の編纂事業などを行い、博物館構想も早くから存在していた。
2011年9月20日火曜日
1951年(昭和26年)の知事選では
民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。1967年(昭和43年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なった。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札購入した山梨県立美術館を創設。
田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目をめざすが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し副知事の望月幸明を擁立し、1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り当選。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の実施や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の建設などを実施。望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判し金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫(地方病)の終息宣言を行う。
山梨県は中央高地式気候のため寒暖の差が大きく、農業に適した地域は甲府盆地を中心に水捌けの良い平坦地である。江戸時代には治水・用水路開発のにより新田開発が行われ農業生産力は向上したが、養蚕や果樹などの商品作物栽培を複合させた形態の農業を発達していた。養蚕は明治初期の殖産興業において特に力を入れられ日本有数の養蚕県であったが、化学繊維の台頭などにより昭和30年代をピークに養蚕の減少と果樹栽培の増加に転じており、桑畑から果樹園への転換による景観的変化や、年中行事など生活・文化面の変化をもたらしている。戦後の高度経済成長期において日本経済は農業の比重を低下させているが、工業の立ち後れていた山梨経済においても農業の役割は低下し、農家数や耕地面積は減少している。一方で経済成長により生じた国民生活の変化に対応して農業の形態を変化させており、国民の食生活が変化したことにより葡萄や桃、サクランボなどの果樹栽培の需要が高まり、葡萄からのワインの醸造も行われている。
また、首都圏や中京圏から近い地理的条件を活かして観光農園として観光客を集めているところも多い。1980年代から90年代にかけては果樹栽培への移行と農業の減退の傾向はさらに加速し、農業を主とする第一種兼業農家から農業を従とする第二種兼業農家への移行を示している。これに伴い中山間地域を中心に高齢化や農業後継者不足、過疎などが顕在化し、近年の課題となっている。また、ミネラルウォーターの生産量は52万9388キロリットル(2004年)であり、日本の総生産量の40%を占める。山がちな地形であることから帯水層の露出が多く、都市化が進んでいないため清澄な湧水が多く採取できる上、主要な消費地の東京圏に近く輸送コストが小さいため、大手メーカーの多くが採取地に山梨県を選んでいる。主な産地は南アルプス山麓と富士山および三ツ峠山麓である。甲府は近世の甲府城下町が商業的拠点として発達し、明治後に中央本線が開通すると甲府駅が開業し、山梨県庁舎をはじめ岡島百貨店や甲府西武などが駅前に軒を連ねたため戦後しばらくまでは甲府駅を中心に発展していった。
しかし高度経済成長を迎えると県内でもモータリゼーションが進行し、同時に公共交通機関が衰退した。このため旧城下町である甲府は道幅が狭く渋滞が顕著になった甲府駅前を避ける傾向が強まり、代わりに高速道路やバイパス道路が整備された郊外に大型商業施設が次々と進出したため、1990年代よりドーナツ化現象が進行している。また中央本線の高速化や高速バスの発展により県外へのストロー効果が起こり、山梨県の商業そのものに影響を与えている。戦前には『山梨日日新聞』、『山梨毎日新聞』はじめ6紙が発行されていたが、第二次世界大戦中の新聞統制によって県内の諸紙は山日に統合される。戦後には数紙が創刊され、昭和40年代まで富士急行が大株主である『山梨時事新報』(山時)が山日と部数を競った。昭和44年に富士急行が所有株式を売却すると山時は山日に吸収され、現在は、全国紙をのぞいて日刊紙は山日のみの状態となっている。全国紙は基本的には甲信越版であるが、地域により東京版も販売されている。NHKのテレビ放送は1953年(昭和28年)に開始されたが山梨の地理的条件のため契約数は少なく、NHK甲府放送局が1959年(昭和34年)に中継送信所を設置して以来普及した。
民間放送ではラジオ山梨が1959年(昭和34)12月に送信所を設置してテレビ局を開設し、山梨放送(YBS)(NNN系列)が開局。1968年(昭和43年)にUHF(極超短波放送)電波が割り当てられると、免許申請は一本化されて「山梨中央テレビ」として取得し、翌1969年(昭和44年)5月には株式会社テレビ山梨(UTY)(JNN系列)が発足。山梨県は首都圏に属しているが行政区分上、中部地方に分類されることから在京テレビ局の放送エリア外であり、しかもFNN系列、ANN系列、TXN系列のテレビ局がないため、首都圏でありながら民放2局状態が長く続いている(ただし後述のように一部地域、特に郡内で在京テレビ局の電波を受信可能な地域は存在する)。それゆえビデオリサーチによる視聴率調査が行なわれていない都道府県(他は福井県、徳島県、佐賀県、宮崎県)の1つとなっている(ただし下にもあるように、ケーブルテレビの普及率が極めて高いため、実質的にはアナログは5局地域であり、デジタルでも4局地域にまではなりつつある)。
山梨県のケーブルテレビ(自主放送)の世帯普及率は、2009年3月現在86%と全国第1位である。共同アンテナ受信なども含めると93%を数える。ただし、同県のケーブルテレビ局は他の都道府県それと用途が異なり、不足する地上波系列の補完が第一であるため、標準契約で視聴できるのは地上波とBSアナログ放送だけとなるのが普通である。CS系放送局用アナログコンバーターやデジタル放送用STBは別途オプション契約となる。山梨県地域のデジタルチャンネル割当て時に選定に係わった人々(山梨放送、テレビ山梨)の思惑により自局視聴率向上を図りたい為に東京キー局と同じチャンネル割当に決定した経緯がある。地上デジタル放送については日本民間放送連盟が区域外再送信を原則として認めない方針のため、県内局のデジタル放送開始時点では在京キー局の再送信は一切行われていなかった。独立UHF局は2004年にTOKYO MX(ただし一部の局の受信点で電波状況が不安定で再送信できないケースもある)の一部地域における区域外再送信開始を皮切りに順次開始している。また、在京キー局も、テレビ朝日は2007年7月から順次、フジテレビも同年10月から順次、区域外再送信が開始されている。
田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目をめざすが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し副知事の望月幸明を擁立し、1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り当選。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の実施や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の建設などを実施。望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判し金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫(地方病)の終息宣言を行う。
山梨県は中央高地式気候のため寒暖の差が大きく、農業に適した地域は甲府盆地を中心に水捌けの良い平坦地である。江戸時代には治水・用水路開発のにより新田開発が行われ農業生産力は向上したが、養蚕や果樹などの商品作物栽培を複合させた形態の農業を発達していた。養蚕は明治初期の殖産興業において特に力を入れられ日本有数の養蚕県であったが、化学繊維の台頭などにより昭和30年代をピークに養蚕の減少と果樹栽培の増加に転じており、桑畑から果樹園への転換による景観的変化や、年中行事など生活・文化面の変化をもたらしている。戦後の高度経済成長期において日本経済は農業の比重を低下させているが、工業の立ち後れていた山梨経済においても農業の役割は低下し、農家数や耕地面積は減少している。一方で経済成長により生じた国民生活の変化に対応して農業の形態を変化させており、国民の食生活が変化したことにより葡萄や桃、サクランボなどの果樹栽培の需要が高まり、葡萄からのワインの醸造も行われている。
また、首都圏や中京圏から近い地理的条件を活かして観光農園として観光客を集めているところも多い。1980年代から90年代にかけては果樹栽培への移行と農業の減退の傾向はさらに加速し、農業を主とする第一種兼業農家から農業を従とする第二種兼業農家への移行を示している。これに伴い中山間地域を中心に高齢化や農業後継者不足、過疎などが顕在化し、近年の課題となっている。また、ミネラルウォーターの生産量は52万9388キロリットル(2004年)であり、日本の総生産量の40%を占める。山がちな地形であることから帯水層の露出が多く、都市化が進んでいないため清澄な湧水が多く採取できる上、主要な消費地の東京圏に近く輸送コストが小さいため、大手メーカーの多くが採取地に山梨県を選んでいる。主な産地は南アルプス山麓と富士山および三ツ峠山麓である。甲府は近世の甲府城下町が商業的拠点として発達し、明治後に中央本線が開通すると甲府駅が開業し、山梨県庁舎をはじめ岡島百貨店や甲府西武などが駅前に軒を連ねたため戦後しばらくまでは甲府駅を中心に発展していった。
しかし高度経済成長を迎えると県内でもモータリゼーションが進行し、同時に公共交通機関が衰退した。このため旧城下町である甲府は道幅が狭く渋滞が顕著になった甲府駅前を避ける傾向が強まり、代わりに高速道路やバイパス道路が整備された郊外に大型商業施設が次々と進出したため、1990年代よりドーナツ化現象が進行している。また中央本線の高速化や高速バスの発展により県外へのストロー効果が起こり、山梨県の商業そのものに影響を与えている。戦前には『山梨日日新聞』、『山梨毎日新聞』はじめ6紙が発行されていたが、第二次世界大戦中の新聞統制によって県内の諸紙は山日に統合される。戦後には数紙が創刊され、昭和40年代まで富士急行が大株主である『山梨時事新報』(山時)が山日と部数を競った。昭和44年に富士急行が所有株式を売却すると山時は山日に吸収され、現在は、全国紙をのぞいて日刊紙は山日のみの状態となっている。全国紙は基本的には甲信越版であるが、地域により東京版も販売されている。NHKのテレビ放送は1953年(昭和28年)に開始されたが山梨の地理的条件のため契約数は少なく、NHK甲府放送局が1959年(昭和34年)に中継送信所を設置して以来普及した。
民間放送ではラジオ山梨が1959年(昭和34)12月に送信所を設置してテレビ局を開設し、山梨放送(YBS)(NNN系列)が開局。1968年(昭和43年)にUHF(極超短波放送)電波が割り当てられると、免許申請は一本化されて「山梨中央テレビ」として取得し、翌1969年(昭和44年)5月には株式会社テレビ山梨(UTY)(JNN系列)が発足。山梨県は首都圏に属しているが行政区分上、中部地方に分類されることから在京テレビ局の放送エリア外であり、しかもFNN系列、ANN系列、TXN系列のテレビ局がないため、首都圏でありながら民放2局状態が長く続いている(ただし後述のように一部地域、特に郡内で在京テレビ局の電波を受信可能な地域は存在する)。それゆえビデオリサーチによる視聴率調査が行なわれていない都道府県(他は福井県、徳島県、佐賀県、宮崎県)の1つとなっている(ただし下にもあるように、ケーブルテレビの普及率が極めて高いため、実質的にはアナログは5局地域であり、デジタルでも4局地域にまではなりつつある)。
山梨県のケーブルテレビ(自主放送)の世帯普及率は、2009年3月現在86%と全国第1位である。共同アンテナ受信なども含めると93%を数える。ただし、同県のケーブルテレビ局は他の都道府県それと用途が異なり、不足する地上波系列の補完が第一であるため、標準契約で視聴できるのは地上波とBSアナログ放送だけとなるのが普通である。CS系放送局用アナログコンバーターやデジタル放送用STBは別途オプション契約となる。山梨県地域のデジタルチャンネル割当て時に選定に係わった人々(山梨放送、テレビ山梨)の思惑により自局視聴率向上を図りたい為に東京キー局と同じチャンネル割当に決定した経緯がある。地上デジタル放送については日本民間放送連盟が区域外再送信を原則として認めない方針のため、県内局のデジタル放送開始時点では在京キー局の再送信は一切行われていなかった。独立UHF局は2004年にTOKYO MX(ただし一部の局の受信点で電波状況が不安定で再送信できないケースもある)の一部地域における区域外再送信開始を皮切りに順次開始している。また、在京キー局も、テレビ朝日は2007年7月から順次、フジテレビも同年10月から順次、区域外再送信が開始されている。
2011年9月19日月曜日
山梨県は
本州の内陸部に位置する、日本の県の一つ。県庁所在地は甲府市。令制国の甲斐国に相当する。南に富士山、西に赤石山脈(南アルプス)、北に八ヶ岳、東に奥秩父山地など、海抜2000mを超す山々に囲まれる。海洋国家といわれる日本において、内陸側に位置する数少ない県である。都道府県面積は全国32位だが、山梨県はその8割を山が占めるため可住地面積は全国45位である。箱根峠より西の内陸に位置するため、明治以来の日本を八つの地方に分ける方法(北海道地方・東北地方・関東地方・中部地方・近畿地方・中国地方・四国地方・九州地方)では、中部地方(中央高地、俗に言う甲信地方)として区分されている。しかし、国土整備行政上は中部圏には含まれておらず、首都圏整備法施行令において首都圏と規定されている。また、国機関の管轄などでは関東地方と一緒に扱われる。往来が比較的容易で、交通路も整備されている。東京都(除島嶼)、神奈川県津久井地区、長野県中・南信地方、静岡県大井川以東の三方との交流が、古くから盛んである。
又、埼玉県秩父地方との境は奥秩父山塊に隔てられているが、1998年の国道140号雁坂トンネル開通により、自動車やバスでの直接往来が可能となった。なお、山梨県と静岡県を併称する場合は、山静(さんせい、やましず)や甲駿(こうすん)という。「山梨」の県名は律令制下の甲斐四郡のひとつである「山梨郡」に由来し、県名は1871年(明治4年)7月の廃藩置県に際して旧甲斐国一国が甲府県を経て「山梨県」に改称された。山梨郡は県庁所在である甲府が属している郡域であるが県名の改称理由は不明で、新政府による幕藩時代との断絶が意図されていた可能性が考えられている。「山梨郡」は本来甲斐一国を意味する呼称ではないため明治初期には新県名が浸透せず、政治団体やその機関誌等では県域を指す地域呼称として「峡中」が用いられた。現在では「山梨」が県域全体を指す呼称として定着している。県域は、中西部の甲府盆地を中心とする国中(くになか)と、東部の相模川と多摩川の上流域および富士山北麓からなる郡内(ぐんない)に分けられ、両者は方言(郡内は西関東方言に分類)など、自然や文化においても大きく異なっている。
また、7年連続で自殺者が300人を突破した県であり、その数は全国でNo.1である。ただし、そのうち3分の1以上は、山梨県外から富士山麓の青木ヶ原樹海に来訪した自殺者が占めている。東日本に分類されていて、行政上の分類は関東地方又は首都圏。地理上の分類では中部地方(甲信地方又は甲信越地方)。日本政府によって公式に2つの地方に跨って分類されているのは三重県と山梨県のみである。山梨県南都留郡山中湖村と静岡県駿東郡小山町の籠坂峠付近と山梨県南都留郡鳴沢村及び富士吉田市と静岡県富士宮市及び駿東郡小山町の富士山山頂付近(県境)には2ヶ所未定区間がある。(御殿場市は、小山町の間に境界未定部分が有るため、富士吉田市及び鳴沢村と接する可能性もある)古代には律令制下において甲斐国が成立するが、『日本後紀』延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐっては隣接する相模国との間で総論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立し、郡郷は『和名類聚抄』に31郷が記載されている。
山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日井町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。官道は東海道横走宿から分岐して都留郡を経て甲府盆地に入り甲斐国府に至る甲斐路が存在していた。四郡のうち甲斐西部の巨摩郡は渡来人の入植により成立した郡であると考えられている。一方、『古事記』『日本書紀』(記紀)に記される日本神話においてはヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の東征において足柄山から甲斐へ入り、酒折宮(甲府市酒折)において老人と歌を交わす説話を記している。記紀に記される日本神話には両書が成立した奈良時代の歴史認識が反映されているものと考えられているが、考古学的にも甲斐においては古墳後期の4世紀後半代から畿内の影響下にあったと考えられており、酒折宮伝承にもヤマト王権と甲斐の在地豪族との関係が反映されているものと考えられているほか、足柄山から甲斐国へ至ったヤマトタケルの遠征ルートは古代の交通体系を明らかにする上でも注目されている。
同年10月19日(旧暦9月4日)、甲斐国内に府中県(県庁所在地は山梨郡甲府)、市川県、石和県が設置され、12月11日(旧暦10月28日)にこれら3県を統合して甲斐府が設置された。明治2年(1869年)8月27日(旧暦7月20日)、「府」の呼称が京都府・東京府・大阪府に限定されたことから、甲斐府は甲府県と改称した。明治3年(1870年)5月に田安領を併合し、明治4年(1871年)8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して12月31日(旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。明治6年(1873年)に着任した藤村紫朗の殖産興業政策により、製糸業の勧業や道路整備、金融機関の整備が行われた。特に青梅街道の改築など道路整備を推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。
明治42年(1909年)には甲府連隊(歩兵第49連隊)が設置された。第二次大戦中には疎開地でもあったが、昭和20年(1945年)7月には、甲府空襲によって甲府は灰燼と帰した。日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。 終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。
又、埼玉県秩父地方との境は奥秩父山塊に隔てられているが、1998年の国道140号雁坂トンネル開通により、自動車やバスでの直接往来が可能となった。なお、山梨県と静岡県を併称する場合は、山静(さんせい、やましず)や甲駿(こうすん)という。「山梨」の県名は律令制下の甲斐四郡のひとつである「山梨郡」に由来し、県名は1871年(明治4年)7月の廃藩置県に際して旧甲斐国一国が甲府県を経て「山梨県」に改称された。山梨郡は県庁所在である甲府が属している郡域であるが県名の改称理由は不明で、新政府による幕藩時代との断絶が意図されていた可能性が考えられている。「山梨郡」は本来甲斐一国を意味する呼称ではないため明治初期には新県名が浸透せず、政治団体やその機関誌等では県域を指す地域呼称として「峡中」が用いられた。現在では「山梨」が県域全体を指す呼称として定着している。県域は、中西部の甲府盆地を中心とする国中(くになか)と、東部の相模川と多摩川の上流域および富士山北麓からなる郡内(ぐんない)に分けられ、両者は方言(郡内は西関東方言に分類)など、自然や文化においても大きく異なっている。
また、7年連続で自殺者が300人を突破した県であり、その数は全国でNo.1である。ただし、そのうち3分の1以上は、山梨県外から富士山麓の青木ヶ原樹海に来訪した自殺者が占めている。東日本に分類されていて、行政上の分類は関東地方又は首都圏。地理上の分類では中部地方(甲信地方又は甲信越地方)。日本政府によって公式に2つの地方に跨って分類されているのは三重県と山梨県のみである。山梨県南都留郡山中湖村と静岡県駿東郡小山町の籠坂峠付近と山梨県南都留郡鳴沢村及び富士吉田市と静岡県富士宮市及び駿東郡小山町の富士山山頂付近(県境)には2ヶ所未定区間がある。(御殿場市は、小山町の間に境界未定部分が有るため、富士吉田市及び鳴沢村と接する可能性もある)古代には律令制下において甲斐国が成立するが、『日本後紀』延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐっては隣接する相模国との間で総論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立し、郡郷は『和名類聚抄』に31郷が記載されている。
山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日井町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。官道は東海道横走宿から分岐して都留郡を経て甲府盆地に入り甲斐国府に至る甲斐路が存在していた。四郡のうち甲斐西部の巨摩郡は渡来人の入植により成立した郡であると考えられている。一方、『古事記』『日本書紀』(記紀)に記される日本神話においてはヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の東征において足柄山から甲斐へ入り、酒折宮(甲府市酒折)において老人と歌を交わす説話を記している。記紀に記される日本神話には両書が成立した奈良時代の歴史認識が反映されているものと考えられているが、考古学的にも甲斐においては古墳後期の4世紀後半代から畿内の影響下にあったと考えられており、酒折宮伝承にもヤマト王権と甲斐の在地豪族との関係が反映されているものと考えられているほか、足柄山から甲斐国へ至ったヤマトタケルの遠征ルートは古代の交通体系を明らかにする上でも注目されている。
同年10月19日(旧暦9月4日)、甲斐国内に府中県(県庁所在地は山梨郡甲府)、市川県、石和県が設置され、12月11日(旧暦10月28日)にこれら3県を統合して甲斐府が設置された。明治2年(1869年)8月27日(旧暦7月20日)、「府」の呼称が京都府・東京府・大阪府に限定されたことから、甲斐府は甲府県と改称した。明治3年(1870年)5月に田安領を併合し、明治4年(1871年)8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して12月31日(旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。明治6年(1873年)に着任した藤村紫朗の殖産興業政策により、製糸業の勧業や道路整備、金融機関の整備が行われた。特に青梅街道の改築など道路整備を推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。
明治42年(1909年)には甲府連隊(歩兵第49連隊)が設置された。第二次大戦中には疎開地でもあったが、昭和20年(1945年)7月には、甲府空襲によって甲府は灰燼と帰した。日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。 終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。
2011年9月18日日曜日
2009年、JR東日本は
「現在まで長野新幹線として稼働してきた功績も十分にあり、名称に長野の文字を残す事は大いに検討する余地のあること」とし、長野県側に対して歩み寄るような形をとっている。また東海道・山陽新幹線(歴史的経緯から新大阪駅を境に会社と路線名が異なる)のように上越駅を境に会社ごとに路線名を変えることについても検討されているが、現時点では未定である。なお、東京駅と大宮駅以遠の各駅との間の特急料金は、東京駅発着の営業キロは使用せず、上野駅発着の営業キロで算出した特急料金に200円を加算した額となっている。軽井沢午前7時5分発長野行き「あさま599号」、平日のみの運行の列車に限り、運賃と特急料金を合わせて、軽井沢駅発が1800円(通常料金は3070円)、佐久平駅発1500円(同2740円)、上田駅発は1000円(1410円)。割引幅は45%から29%となる「朝イチあさま切符」を2005年夏から発売している。尚、群馬県と長野県との県境付近は並行在来線が廃止されたため、鉄道での県境越えは普通列車が無く特急料金が必要な当新幹線のみとなっている。
しかし、上越線支線・博多南線と同様に特急料金不要の特例は無い。待避線がない安中榛名駅・佐久平駅・上田駅には、ホームドアが設置されている。安中榛名駅から長野駅までの各駅はホームの長さが12両分 (310m) あり、1998年2月の長野オリンピックの臨時輸送用に200系F80編成(12両編成)が長野駅乗り入れを行ったときに使用された部分であるが、2008年現在の長野新幹線乗り入れ車両はE2系、一部のE4系ともに8両編成のため、長野駅では前の4両分が、それ以外の駅では前後の2両分ずつが使用されていない。すべての駅において使用されてない部分については柵と立ち入り禁止の札が設置されており、立ち入ることができない。東京駅 - 長野駅間(一部列車は東京駅 - 軽井沢駅間)に「あさま」号が運転されている。車両はE2系N編成が使用される。多客期にはE4系による「Maxあさま」も運転される。Maxあさまは軽井沢駅 - 東京駅間上りのみの運転。なお、E4系には長野駅まで乗り入れ可能な車両がある(P81、P82編成が該当)。
長野新幹線用のE2系N編成は、東北新幹線の「はやて」などで使用されるE2系J編成と同一のように見えるが、帯の色、エンブレム、編成両数などの差異があるため、現在では基本的に運用は分離されている。長野電鉄株式会社は、長野県北部地域に路線を持つ中規模地方私鉄で、ながでんグループの中核企業である。須坂や中野といった千曲川東岸地域(河東地区)と国鉄線の接続による産業輸送近代化を目的とした「河東鉄道」を発祥とし、その後県都である長野との接続を図るべく「長野電気鉄道」を設立し須坂駅 - 長野駅間を開業、両社を統合して発足したのが現在の長野電鉄である。山の内線開業により湯田中・渋温泉や志賀高原の開発を進めるなど観光開発にも注力し、スキーブームの先鞭となった。長野線は開業当初から長野市内・近郊で複線区間を有し(当時は権堂駅 - 信濃吉田駅間・その後長野駅および朝陽駅まで複線延伸)、複線区間では20 - 30分毎の高頻度運転を続けており、都市内鉄道としての性格も強かった。
戦後は長野市の都市計画において長野都市圏の大動脈として位置付けられ沿線の開発も進み、また長野市と須坂市・中野市を結ぶ都市間路線としての機能も強くなったことから観光色は若干弱くなっていたが、新型特急用車両の導入により観光輸送にも改めて取り組んでいる。開業線のほかに木島から野沢温泉、湯田中から渋・安代までの具体的な延伸計画や「善光寺平環状線構想」と称された河東線 - 飯山鉄道(現JR飯山線) - 千曲川西岸線(豊野・長野 - 屋代)の直通運転という雄大な構想もあったが、ともに実現せず今に至る。かつては直営でバス事業も行っていたが1987年(昭和62年)3月より一部路線を順次、長電グループの子会社に移管し、1995年(平成7年)10月には残るバス事業を長電バスに分社した。2002年(平成14年)4月1日に河東線の一部区間(信州中野駅 - 木島駅間、通称「木島線」)が廃線となるなど、他の地方鉄道同様、厳しい状況下にある。2007年(平成19年)7月には志賀高原の開発事業のうち、奥志賀高原の事業が投資会社のユニファイド・パートナーズへ譲渡された。
列車無線に誘導無線を採用していた。これは空間波無線では、長野 - 本郷間の地下線内において支障が生じる懸念があったためで、現在は空間波無線に変更されている。イトーヨーカドー長野店と提携して権堂駅からの「お帰り切符」、イオンリテールが運営するジャスコ須坂店と提携して須坂駅からの「楽々切符」を、買い上げ金額の1割を上限に買い物客に進呈するサービスを実施している。長野日報は長野県諏訪市に本社を置き、南信地方の諏訪地域・上伊那地域を主な配布地域とする地方新聞。そのルーツは1901年創刊の月刊「諏訪新報」で、これは1902年「信濃新聞」と合併「南信評論」となり、後に旬刊→週刊→月6回刊行とサイクルを変更していった。その後太平洋戦争に伴う新聞の統廃合(1つの都道府県につき地方新聞は1紙とする)で1939年に南信毎日新聞を存続新聞とし、各地のローカル紙と統合される。1942年に太平洋戦争の激化に伴う新聞社の統合令で、信濃毎日新聞と統合され南信毎日は廃刊となった。
戦後は南信日日新聞として1945年に復刊。当初は週刊だったが、同年12月に隔日刊(1日おき発行)を経て1946年元日から日刊発行による夕刊専売に移行する。1987年9月1日付を持って朝刊専売紙に変更される。1992年にそれまで同社が展開してきた長野県中・南部のローカル紙9社(伊那日報、駒ヶ根日報、南箕輪日報など)を合併・統合し現在の題字に改める。前身の題字の名残から長野県南信地方(下伊那を除く)の話題が中心となっている。2000年9月22日に日本の新聞社として初めて環境ISO14001の資格を得た。全国郷土紙連合加盟社。2005年、発行部数の低迷等を理由に、塩尻版・木曽版の発行を休止した。なお木曽支局が入居していた建物には、長野日報の撤退直後に、市民タイムスが木曽支局を新たに設置し、市民タイムス木曽版の発行を開始した。紙面の特徴として、地域の行政や人々の暮らし、年中行事などの細かな話題を中心に掲載し、政治的な主義主張の展開はあまりみられない。「お悔やみ欄」は詳細な記述で、本人の顔写真、来歴は、配偶者や子どもの来歴や現在の仕事の内容に至るまで紹介される。
しかし、上越線支線・博多南線と同様に特急料金不要の特例は無い。待避線がない安中榛名駅・佐久平駅・上田駅には、ホームドアが設置されている。安中榛名駅から長野駅までの各駅はホームの長さが12両分 (310m) あり、1998年2月の長野オリンピックの臨時輸送用に200系F80編成(12両編成)が長野駅乗り入れを行ったときに使用された部分であるが、2008年現在の長野新幹線乗り入れ車両はE2系、一部のE4系ともに8両編成のため、長野駅では前の4両分が、それ以外の駅では前後の2両分ずつが使用されていない。すべての駅において使用されてない部分については柵と立ち入り禁止の札が設置されており、立ち入ることができない。東京駅 - 長野駅間(一部列車は東京駅 - 軽井沢駅間)に「あさま」号が運転されている。車両はE2系N編成が使用される。多客期にはE4系による「Maxあさま」も運転される。Maxあさまは軽井沢駅 - 東京駅間上りのみの運転。なお、E4系には長野駅まで乗り入れ可能な車両がある(P81、P82編成が該当)。
長野新幹線用のE2系N編成は、東北新幹線の「はやて」などで使用されるE2系J編成と同一のように見えるが、帯の色、エンブレム、編成両数などの差異があるため、現在では基本的に運用は分離されている。長野電鉄株式会社は、長野県北部地域に路線を持つ中規模地方私鉄で、ながでんグループの中核企業である。須坂や中野といった千曲川東岸地域(河東地区)と国鉄線の接続による産業輸送近代化を目的とした「河東鉄道」を発祥とし、その後県都である長野との接続を図るべく「長野電気鉄道」を設立し須坂駅 - 長野駅間を開業、両社を統合して発足したのが現在の長野電鉄である。山の内線開業により湯田中・渋温泉や志賀高原の開発を進めるなど観光開発にも注力し、スキーブームの先鞭となった。長野線は開業当初から長野市内・近郊で複線区間を有し(当時は権堂駅 - 信濃吉田駅間・その後長野駅および朝陽駅まで複線延伸)、複線区間では20 - 30分毎の高頻度運転を続けており、都市内鉄道としての性格も強かった。
戦後は長野市の都市計画において長野都市圏の大動脈として位置付けられ沿線の開発も進み、また長野市と須坂市・中野市を結ぶ都市間路線としての機能も強くなったことから観光色は若干弱くなっていたが、新型特急用車両の導入により観光輸送にも改めて取り組んでいる。開業線のほかに木島から野沢温泉、湯田中から渋・安代までの具体的な延伸計画や「善光寺平環状線構想」と称された河東線 - 飯山鉄道(現JR飯山線) - 千曲川西岸線(豊野・長野 - 屋代)の直通運転という雄大な構想もあったが、ともに実現せず今に至る。かつては直営でバス事業も行っていたが1987年(昭和62年)3月より一部路線を順次、長電グループの子会社に移管し、1995年(平成7年)10月には残るバス事業を長電バスに分社した。2002年(平成14年)4月1日に河東線の一部区間(信州中野駅 - 木島駅間、通称「木島線」)が廃線となるなど、他の地方鉄道同様、厳しい状況下にある。2007年(平成19年)7月には志賀高原の開発事業のうち、奥志賀高原の事業が投資会社のユニファイド・パートナーズへ譲渡された。
列車無線に誘導無線を採用していた。これは空間波無線では、長野 - 本郷間の地下線内において支障が生じる懸念があったためで、現在は空間波無線に変更されている。イトーヨーカドー長野店と提携して権堂駅からの「お帰り切符」、イオンリテールが運営するジャスコ須坂店と提携して須坂駅からの「楽々切符」を、買い上げ金額の1割を上限に買い物客に進呈するサービスを実施している。長野日報は長野県諏訪市に本社を置き、南信地方の諏訪地域・上伊那地域を主な配布地域とする地方新聞。そのルーツは1901年創刊の月刊「諏訪新報」で、これは1902年「信濃新聞」と合併「南信評論」となり、後に旬刊→週刊→月6回刊行とサイクルを変更していった。その後太平洋戦争に伴う新聞の統廃合(1つの都道府県につき地方新聞は1紙とする)で1939年に南信毎日新聞を存続新聞とし、各地のローカル紙と統合される。1942年に太平洋戦争の激化に伴う新聞社の統合令で、信濃毎日新聞と統合され南信毎日は廃刊となった。
戦後は南信日日新聞として1945年に復刊。当初は週刊だったが、同年12月に隔日刊(1日おき発行)を経て1946年元日から日刊発行による夕刊専売に移行する。1987年9月1日付を持って朝刊専売紙に変更される。1992年にそれまで同社が展開してきた長野県中・南部のローカル紙9社(伊那日報、駒ヶ根日報、南箕輪日報など)を合併・統合し現在の題字に改める。前身の題字の名残から長野県南信地方(下伊那を除く)の話題が中心となっている。2000年9月22日に日本の新聞社として初めて環境ISO14001の資格を得た。全国郷土紙連合加盟社。2005年、発行部数の低迷等を理由に、塩尻版・木曽版の発行を休止した。なお木曽支局が入居していた建物には、長野日報の撤退直後に、市民タイムスが木曽支局を新たに設置し、市民タイムス木曽版の発行を開始した。紙面の特徴として、地域の行政や人々の暮らし、年中行事などの細かな話題を中心に掲載し、政治的な主義主張の展開はあまりみられない。「お悔やみ欄」は詳細な記述で、本人の顔写真、来歴は、配偶者や子どもの来歴や現在の仕事の内容に至るまで紹介される。
2011年9月17日土曜日
長野新幹線は
高崎駅から長野駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の高速鉄道路線の通称およびその列車(新幹線)である。正式には北陸新幹線の一部ではあるが、正式名称の「北陸新幹線」では旅客案内上の混乱を招く可能性があったため便宜的に開業当初は「長野行新幹線」、後に「長野新幹線」と案内するようにした。東京 - 大宮間は東北新幹線、大宮 - 高崎間は上越新幹線が正式な路線名となるが、利用者に対しては列車の運行区間に応じた路線名で案内されるため、東京 - 長野間を走行する列車については「長野新幹線」と呼称されている。1997年10月1日、北陸新幹線の高崎駅 - 長野駅間 (117.4km) を先行開業。1998年2月の長野オリンピックの開催に合わせて開業したことで、アクセス輸送機関としての役割も担った。1985年の工事実施計画認可申請および1987年の閣議決定においては北陸新幹線の高崎 - 小松間をフル規格で先行建設する計画であったが、1988年に建設費の節減を目的として当時の運輸省によって発表された、いわゆる「運輸省案」では長野以南を優先し、碓氷峠の急勾配区間を含む高崎 - 軽井沢間のみフル規格、軽井沢 - 長野間はミニ新幹線とする計画に変更となった。
1989年に、まず高崎 - 軽井沢間が着工されたが、1991年に1998年の長野オリンピックの開催が決定したことから、軽井沢 - 長野間も当初の計画通りフル規格にて着工されることに変更となった。なお、フル規格への変更については、1982年に公表された基本ルートで「佐久駅」(当時の仮称。現在の佐久平駅)が設置されることになっていた佐久市は積極的であったのに対し、在来線特急の停車駅を擁しており、かつフル規格新幹線では停車駅から外れることになる小諸市が強硬に反対していた(佐久平駅の名称紛争はこれに端を発する)。また、北陸新幹線として長野駅以遠も延長することや、周波数変更装置が小型化・軽量化されたことにより、必ずしも地上側で周波数を統一する必要が無くなったことから、工事費用の削減も兼ねて、軽井沢駅 - 佐久平駅間(軽井沢駅から約5kmの地点)に新幹線として初めて異周波数の電源を突き合わせたき電区分所(切替セクション)を設け、50Hz(東京電力)/60Hz(中部電力)の周波数切換を行っている。
開業と同時に並行在来線にあたる信越本線は、急勾配のため特殊な運転方式をとっていた横川駅 - 軽井沢駅が廃止、軽井沢駅 - 篠ノ井駅間が第三セクターのしなの鉄道に転換され、並行在来線経営分離の最初の例となった。この新幹線の開業により、軽井沢駅や佐久平駅周辺の商業施設の集積が進んだ一方、小諸駅は新幹線ルートから外れたことにより、近辺の大規模商業施設が相次いで閉鎖され、地元商店街もシャッター通り化するなど、大きく明暗を分ける結果となった。長野市においても、以前は宿泊が必要な旅程の出張者・旅行者が日帰り可能となった一方、松本市に代わって、白馬・大町方面への玄関口として機能しており、地元経済に対しては功罪相半ばする形となった。交通需要について国土交通省が2000年に調査した都道府県間鉄道旅客流動データによると、東京都から鉄道で他道府県に移動した年間旅客のうち、長野新幹線沿線各県(長野県のみ)への年間旅客数は294.0万人であった。
さらに東京圏(東京都+神奈川県+埼玉県+千葉県)から長野県への年間旅客数は499.7万人であった。また、沿線各都県間を流動する出発鉄道旅客数は、長野県出発客が334.3万人と最も多く、次いで東京都の294.0万人であり、同じく目的地旅客数は、長野県を目的地とする客が363.6万人、東京都が267.4万人であった。沿線各都県間の旅客流動状況(2000年)は以下のとおり。東海道・山陽新幹線が全線にわたり高需要が期待され、また東北新幹線は栃木・宮城という東京 - 仙台間に高需要が期待される一方、長野新幹線の場合は東京 - 高崎間で並行運行する上越新幹線と同様、全線にわたって平坦な需要となっている。行き先が長野であるため、正式名称の「北陸新幹線」を名乗ることは、乗客の混乱を招く恐れもあることから、目的地が長野であることを表現することになった。しかし、延伸事業計画が不確定であった北陸地域の人々に対して、長野までで建設が打ち切られるという印象を与えないために、JR東日本では、駅構内の掲示や案内放送などで下り列車を「長野行新幹線」(「行」は小書き)と呼ぶことに決定した。
東京行上り列車については、単に「新幹線」と案内することとされたが、東京駅に同居する東海旅客鉄道(JR東海)の東海道新幹線ホームにあった構内掲示は「長野新幹線」とされるなど、グループ社間で呼称が異なるという状態になった。しかし、上り列車と下り列車で案内上の呼称が違うことは紛らわしく、「長野行新幹線」という呼称も定着しなかったため、次第に「長野新幹線」という呼称が一般的になっていった。その後、北陸新幹線が新潟県上越地方ならびに富山・金沢方面への延伸が正式に決定したことで抵抗感も無くなったことから、この呼称が通称として定着し、長野新幹線の車内放送でも全面的に「長野新幹線」の表現が使われるようになった。マスコミでは開業当日から「長野新幹線」の名称を使っている。「長野行新幹線」表記の残る高崎駅新幹線ホーム(2007年7月21日撮影)交通新聞社(当時は弘済出版社)の『JR時刻表』、JTBパブリッシング(当時は日本交通公社出版事業局)『JTB時刻表』では、1998年6月号よりそれまでの「長野行新幹線」から「長野新幹線」の表記へ切り替わっている。
しかし、東海道新幹線東京駅の乗り換え案内の看板や、八高線のワンマン列車が高崎駅到着時に行う自動車内アナウンスなど、「長野行新幹線」と案内している例が一部ではまだ残っている(八高線の場合、放送のテープの更新時期がまだ来ていないため)。なお2014年度に北陸新幹線が金沢まで延伸開業した時点で、全区間の呼称を「北陸新幹線」で統一するか、JR東日本管内のみで引き続き「長野新幹線」という通称を継続使用するかについて、2008年時点では公式の発表はなされていない。長野県の商工団体などは「長野新幹線という呼称は利用客に浸透しており、名称を変えれば利用者が混乱する」などとして、全線開通後は「長野北陸新幹線」という名称にするようJR東日本に要望し、長野県の村井仁知事も記者会見で「長野県の気持ちというのをご理解いただけるよう一所懸命努力したい」と述べて、「長野」の維持に意欲を見せている。
1989年に、まず高崎 - 軽井沢間が着工されたが、1991年に1998年の長野オリンピックの開催が決定したことから、軽井沢 - 長野間も当初の計画通りフル規格にて着工されることに変更となった。なお、フル規格への変更については、1982年に公表された基本ルートで「佐久駅」(当時の仮称。現在の佐久平駅)が設置されることになっていた佐久市は積極的であったのに対し、在来線特急の停車駅を擁しており、かつフル規格新幹線では停車駅から外れることになる小諸市が強硬に反対していた(佐久平駅の名称紛争はこれに端を発する)。また、北陸新幹線として長野駅以遠も延長することや、周波数変更装置が小型化・軽量化されたことにより、必ずしも地上側で周波数を統一する必要が無くなったことから、工事費用の削減も兼ねて、軽井沢駅 - 佐久平駅間(軽井沢駅から約5kmの地点)に新幹線として初めて異周波数の電源を突き合わせたき電区分所(切替セクション)を設け、50Hz(東京電力)/60Hz(中部電力)の周波数切換を行っている。
開業と同時に並行在来線にあたる信越本線は、急勾配のため特殊な運転方式をとっていた横川駅 - 軽井沢駅が廃止、軽井沢駅 - 篠ノ井駅間が第三セクターのしなの鉄道に転換され、並行在来線経営分離の最初の例となった。この新幹線の開業により、軽井沢駅や佐久平駅周辺の商業施設の集積が進んだ一方、小諸駅は新幹線ルートから外れたことにより、近辺の大規模商業施設が相次いで閉鎖され、地元商店街もシャッター通り化するなど、大きく明暗を分ける結果となった。長野市においても、以前は宿泊が必要な旅程の出張者・旅行者が日帰り可能となった一方、松本市に代わって、白馬・大町方面への玄関口として機能しており、地元経済に対しては功罪相半ばする形となった。交通需要について国土交通省が2000年に調査した都道府県間鉄道旅客流動データによると、東京都から鉄道で他道府県に移動した年間旅客のうち、長野新幹線沿線各県(長野県のみ)への年間旅客数は294.0万人であった。
さらに東京圏(東京都+神奈川県+埼玉県+千葉県)から長野県への年間旅客数は499.7万人であった。また、沿線各都県間を流動する出発鉄道旅客数は、長野県出発客が334.3万人と最も多く、次いで東京都の294.0万人であり、同じく目的地旅客数は、長野県を目的地とする客が363.6万人、東京都が267.4万人であった。沿線各都県間の旅客流動状況(2000年)は以下のとおり。東海道・山陽新幹線が全線にわたり高需要が期待され、また東北新幹線は栃木・宮城という東京 - 仙台間に高需要が期待される一方、長野新幹線の場合は東京 - 高崎間で並行運行する上越新幹線と同様、全線にわたって平坦な需要となっている。行き先が長野であるため、正式名称の「北陸新幹線」を名乗ることは、乗客の混乱を招く恐れもあることから、目的地が長野であることを表現することになった。しかし、延伸事業計画が不確定であった北陸地域の人々に対して、長野までで建設が打ち切られるという印象を与えないために、JR東日本では、駅構内の掲示や案内放送などで下り列車を「長野行新幹線」(「行」は小書き)と呼ぶことに決定した。
東京行上り列車については、単に「新幹線」と案内することとされたが、東京駅に同居する東海旅客鉄道(JR東海)の東海道新幹線ホームにあった構内掲示は「長野新幹線」とされるなど、グループ社間で呼称が異なるという状態になった。しかし、上り列車と下り列車で案内上の呼称が違うことは紛らわしく、「長野行新幹線」という呼称も定着しなかったため、次第に「長野新幹線」という呼称が一般的になっていった。その後、北陸新幹線が新潟県上越地方ならびに富山・金沢方面への延伸が正式に決定したことで抵抗感も無くなったことから、この呼称が通称として定着し、長野新幹線の車内放送でも全面的に「長野新幹線」の表現が使われるようになった。マスコミでは開業当日から「長野新幹線」の名称を使っている。「長野行新幹線」表記の残る高崎駅新幹線ホーム(2007年7月21日撮影)交通新聞社(当時は弘済出版社)の『JR時刻表』、JTBパブリッシング(当時は日本交通公社出版事業局)『JTB時刻表』では、1998年6月号よりそれまでの「長野行新幹線」から「長野新幹線」の表記へ切り替わっている。
しかし、東海道新幹線東京駅の乗り換え案内の看板や、八高線のワンマン列車が高崎駅到着時に行う自動車内アナウンスなど、「長野行新幹線」と案内している例が一部ではまだ残っている(八高線の場合、放送のテープの更新時期がまだ来ていないため)。なお2014年度に北陸新幹線が金沢まで延伸開業した時点で、全区間の呼称を「北陸新幹線」で統一するか、JR東日本管内のみで引き続き「長野新幹線」という通称を継続使用するかについて、2008年時点では公式の発表はなされていない。長野県の商工団体などは「長野新幹線という呼称は利用客に浸透しており、名称を変えれば利用者が混乱する」などとして、全線開通後は「長野北陸新幹線」という名称にするようJR東日本に要望し、長野県の村井仁知事も記者会見で「長野県の気持ちというのをご理解いただけるよう一所懸命努力したい」と述べて、「長野」の維持に意欲を見せている。
2011年9月16日金曜日
過去にはCATV局側に対し
在京キー局・長野県域民放側は「経営に悪影響が出る」「視聴率が悪化する」「民放は4局あり、情報格差は既に是正されている」などの意見を出し、区域外再送信をやめるように要請、中止に圧力を掛けた。しかし、CATV局のほとんどはこの要請には応じず、今までどおり区域外再送信を行うことになる(例外として、同時期に長野市をエリアとするCATV局INCはTBSを皮切りに、県内に系列局のないテレビ東京を除く在京キー局4局の区域外再送信を順次中止した)。しかし、テレビの2011年・地上デジタル放送完全移行により、この問題は大きな分岐点を迎えている。基本的にデジタル放送では、区域外再送信を中止する方針が出され、現在アナログ放送のみで放送されている区域外再送信をデジタル放送でも実施するのかどうかが、できるのかどうかが現在、長野県内では大きな問題となっている。今まで通りの立場で、区域外再送信を反対する県内民放側に対して、CATV側も「今まで見られていた東京のチャンネルが見られなくなることで、加入者離れが進む」「東京で見られても、深夜・早朝を中心に長野で見られない番組がたくさんある」などとして、対立している。
民放側とCATV側の協議も結果が芳しくなかったこともあり、2007年には県内CATV局である2局(LCV・テレビ松本)がこの問題をめぐって、在京キー局各局及び県域民放各局にデジタル放送でも区域外再送信の同意をしてもらうよう大臣裁定に持ち込んだこともあり、加入者の生活にも関わることで、今後もこの問題は更に注目を浴びことになるのは間違いないと思われる。さらには独立UHF局(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)のデジタル波の区域外再送信を求める声も少なからずある。アンテナ受信では県東部・北部の一部の地域で関東広域圏(含:独立UHF局)を放送エリアとする局のチャンネルが受信できる。県南部の一部では、東海3県(含テレビ愛知)を放送エリアとする局のチャンネルが受信可能。他、新潟県・静岡県の民放なども場所により一部地域では受信可能。いずれの場合も本来の放送範囲からは外れているため、場所によりノイズやゴーストなどが入る(現在デジタル放送では放送エリアが十分でないため受信不可能)。
田中康夫前知事が「長野県」から「信州県」へと改名するとした構想。特に観光面で「信州」呼ばれることが多いことから、観光産業への効果などがうたわれた。これには依然として長野市と松本市との対立意識が残ることがその根底にある。当初新聞紙上には載ったが、実際の動きがあったかは不明のまま立ち消えとなる。旧山口村(現岐阜県中津川市山口地区)の越県合併を合併告示当初より反対であった。合併協議会の賛成を得ても、反対し続け、『山口村は長野に残るべき』と述べた。結果的には合併を承認し、越境合併は実現したが、田中自身は最後まで反対の意思を曲げることはなかった。山口村越県合併問題で、山口村村民、村役場、村議会、県議会と対立したことで、「反・田中派」の追い風に乗り、後任の知事である、村井県政が始まるきっかけのひとつになった。田中県政については独善・独裁的という見方もある一方で、それまでの長野県政の悪弊を打破したという点では評価する向きもあり、賛否は分かれる。
長野県文化振興事業団は、長野県の文化施設管理運営のため設立された、長野県100%出資の法人(外郭団体)である。1979年に設立された。県が学識経験者4人で組織した「県出資等外郭団体見直し専門委員会」が、2003年11月の中間報告で指定管理者制度導入により、事業団に限定して施設の管理運営を委託する必要はもはやないものと事業団廃止を打ち出した。それを受けた県民のパブリックコメントには、一般市民から施設の利用に当たっては、舞台専門職員によるきめ細かな助言やサービスが必要であると、事業団の存続を求める声が多く寄せられたため、その存在意義が大きく問われた事業団の専門職員がこれまで培ってきた文化行政における独自のノウハウが認められ、2004年廃止団体から存続団体と転換した。以前、管理職はすべてOBか休職派遣職員であり、事業団採用のプロパー職員を育成し文化振興を担う団体として存続させるという概念はなかったようである。 そのため、長野県に準じるとされた処遇面においては、県派遣職員と事業団採用のプロパー職員との差は歴然である。
県派遣職員に比べると昇任昇格は10年近い遅れがあり、また退職金に関しては長野県の他公社公団は運用として利用している中小企業退職金共済をそのまま支給額としている。 中小企業退職金共済は現在、低金利での運用であるため、県派遣職員に比較し1/2程度の支給となっている等問題が多い。これら問題に関しては、2002年結成となった労働組合が当初の採用条件と著しく異なる、と長野県に団体交渉を行うものの解決に至っていない。なお、県の人的関与を抜本的に見直すよう求めた点に対し、長野県は人員補填もないまま性急な県派遣職員の引き上げを行ったために2007年「県出資等外郭団体見直し検証専門部会」では、業務に混乱をきたしているとして是正するように求めた。また、文化政策に対する長野県の姿勢が示されていないことは問題であると断じた。2007年6月の長野県議会での議員質問に対し「管理職にプロパー職員を登用した」と所管部長が答弁しているが、実態は権限のない「名だけ管理職」である。
長野県の指定管理者制度導入に伴い、かつて管理していた松本文化会館、佐久創造館は民間事業者との競争に敗れ、残る4文化施設の管理を3年間の短い指定期間の中で民間事業者と苦しい競争を強いられた。 2008年12月の長野県議会で2009年以降、3年から5年間の2巡目となる文化施設の指定管理者候補として承認された。長野地域は、長野県北信地方の長野市を中心とした地域のことを指す名称で、県を10地域に分けるときに用いられる。長野地方とも呼ばれる。発足当時の埴科郡、更級郡、上高井郡、上水内郡の範囲と一致。県の定義(狭義)では中野市、山ノ内町は長野地域に入らないが、長野地域という言葉が俗に使われる場合(広義)では中野市、山ノ内町も該当する。両市町が入らない場合は長野広域連合の範囲に一致する。人口は県の定義(狭義)の場合は570,384人(2005年8月1日現在)、俗に言う長野地域(広義)の場合は632,669人。
民放側とCATV側の協議も結果が芳しくなかったこともあり、2007年には県内CATV局である2局(LCV・テレビ松本)がこの問題をめぐって、在京キー局各局及び県域民放各局にデジタル放送でも区域外再送信の同意をしてもらうよう大臣裁定に持ち込んだこともあり、加入者の生活にも関わることで、今後もこの問題は更に注目を浴びことになるのは間違いないと思われる。さらには独立UHF局(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)のデジタル波の区域外再送信を求める声も少なからずある。アンテナ受信では県東部・北部の一部の地域で関東広域圏(含:独立UHF局)を放送エリアとする局のチャンネルが受信できる。県南部の一部では、東海3県(含テレビ愛知)を放送エリアとする局のチャンネルが受信可能。他、新潟県・静岡県の民放なども場所により一部地域では受信可能。いずれの場合も本来の放送範囲からは外れているため、場所によりノイズやゴーストなどが入る(現在デジタル放送では放送エリアが十分でないため受信不可能)。
田中康夫前知事が「長野県」から「信州県」へと改名するとした構想。特に観光面で「信州」呼ばれることが多いことから、観光産業への効果などがうたわれた。これには依然として長野市と松本市との対立意識が残ることがその根底にある。当初新聞紙上には載ったが、実際の動きがあったかは不明のまま立ち消えとなる。旧山口村(現岐阜県中津川市山口地区)の越県合併を合併告示当初より反対であった。合併協議会の賛成を得ても、反対し続け、『山口村は長野に残るべき』と述べた。結果的には合併を承認し、越境合併は実現したが、田中自身は最後まで反対の意思を曲げることはなかった。山口村越県合併問題で、山口村村民、村役場、村議会、県議会と対立したことで、「反・田中派」の追い風に乗り、後任の知事である、村井県政が始まるきっかけのひとつになった。田中県政については独善・独裁的という見方もある一方で、それまでの長野県政の悪弊を打破したという点では評価する向きもあり、賛否は分かれる。
長野県文化振興事業団は、長野県の文化施設管理運営のため設立された、長野県100%出資の法人(外郭団体)である。1979年に設立された。県が学識経験者4人で組織した「県出資等外郭団体見直し専門委員会」が、2003年11月の中間報告で指定管理者制度導入により、事業団に限定して施設の管理運営を委託する必要はもはやないものと事業団廃止を打ち出した。それを受けた県民のパブリックコメントには、一般市民から施設の利用に当たっては、舞台専門職員によるきめ細かな助言やサービスが必要であると、事業団の存続を求める声が多く寄せられたため、その存在意義が大きく問われた事業団の専門職員がこれまで培ってきた文化行政における独自のノウハウが認められ、2004年廃止団体から存続団体と転換した。以前、管理職はすべてOBか休職派遣職員であり、事業団採用のプロパー職員を育成し文化振興を担う団体として存続させるという概念はなかったようである。 そのため、長野県に準じるとされた処遇面においては、県派遣職員と事業団採用のプロパー職員との差は歴然である。
県派遣職員に比べると昇任昇格は10年近い遅れがあり、また退職金に関しては長野県の他公社公団は運用として利用している中小企業退職金共済をそのまま支給額としている。 中小企業退職金共済は現在、低金利での運用であるため、県派遣職員に比較し1/2程度の支給となっている等問題が多い。これら問題に関しては、2002年結成となった労働組合が当初の採用条件と著しく異なる、と長野県に団体交渉を行うものの解決に至っていない。なお、県の人的関与を抜本的に見直すよう求めた点に対し、長野県は人員補填もないまま性急な県派遣職員の引き上げを行ったために2007年「県出資等外郭団体見直し検証専門部会」では、業務に混乱をきたしているとして是正するように求めた。また、文化政策に対する長野県の姿勢が示されていないことは問題であると断じた。2007年6月の長野県議会での議員質問に対し「管理職にプロパー職員を登用した」と所管部長が答弁しているが、実態は権限のない「名だけ管理職」である。
長野県の指定管理者制度導入に伴い、かつて管理していた松本文化会館、佐久創造館は民間事業者との競争に敗れ、残る4文化施設の管理を3年間の短い指定期間の中で民間事業者と苦しい競争を強いられた。 2008年12月の長野県議会で2009年以降、3年から5年間の2巡目となる文化施設の指定管理者候補として承認された。長野地域は、長野県北信地方の長野市を中心とした地域のことを指す名称で、県を10地域に分けるときに用いられる。長野地方とも呼ばれる。発足当時の埴科郡、更級郡、上高井郡、上水内郡の範囲と一致。県の定義(狭義)では中野市、山ノ内町は長野地域に入らないが、長野地域という言葉が俗に使われる場合(広義)では中野市、山ノ内町も該当する。両市町が入らない場合は長野広域連合の範囲に一致する。人口は県の定義(狭義)の場合は570,384人(2005年8月1日現在)、俗に言う長野地域(広義)の場合は632,669人。
2011年9月15日木曜日
北信、東信、中信、南信の4地域は
自然地理や歴史や交通などの各面で、特徴が全く異なっている。これは、「信濃の国」(県歌)における「松本、伊那、佐久、善光寺」の4区分にも象徴されている。 大まかに分けると、北信、東信、中信、南信は、それぞれ長野県の北部、東部、西部、南部の地域となっており、北信と南信を除いて、4地域は互いに接している。長野新幹線・信越本線・飯山線・小海線や国道18号・上信越自動車道の沿線である北信と東信は、千曲川流域で主に中山道と北国街道沿線に当たる。北信は、新潟県・群馬県に接しており、戦国時代には村上氏・武田氏・織田氏・上杉氏の支配圏に置かれて来た。善光寺街道沿いであった経緯や長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、新潟県、群馬県、東京との繋がりが深い。近年では、首都圏からの観光客も多く訪れている。また、中信とは長野自動車道・篠ノ井線により接続している。北信は、長野盆地を中心とした地域であり、新潟県に近いことから、海水浴で日本海へ行く者も多い。
一方の東信は、群馬県・埼玉県・山梨県に接しており、戦国時代には武田氏・織田氏・徳川氏・北条氏・真田氏の支配権に置かれてきた。中山道と北国街道の合流点であった歴史的経緯や北信と同様に長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、浅間山や碓氷峠を越えた群馬県、東京との交流も深い。 また、野辺山高原を経由する国道141号・小海線により繋がる山梨県との交流も深い。山梨県との間には、現在、中部横断自動車道が整備中である。 三国峠 (長野県・埼玉県)を経由して、埼玉県とも接しているが、道路事情が悪いため物流はほとんどない。 道路で雁坂峠の国道140号が開通する前には、碓氷峠 - 東信 - 山梨県 - 静岡県大井川以東のルートが、国道16号圏内を経由せずに関東地方内を迂回する最短ルートとなっていたために、関東志向が最も強い地域になっている。これらに対して、中央本線・飯田線・大糸線や中央自動車道・長野自動車道の沿線である中信と南信は、中山道、甲州街道、千国(ちくに)街道(糸魚川街道、松本街道)、北国西街道、三州街道沿線に当たる。
中信は、新潟県・富山県・岐阜県に接しており、戦国時代には小笠原氏・仁科氏・木曾氏を経て、武田氏・織田氏の支配権に置かれてきた。中山道、甲州街道、千国街道(糸魚川街道、松本街道)、三州街道の沿線であったことから、新潟県、岐阜県、山梨県、愛知県、東京都との交流が深い。北国西街道沿線には、長野自動車道が整備されており、長野地域と接続している。 中信地域の北部に位置する大北地域は、飛騨山脈のすぐ東側に位置しており、登山・スキーなどの観光が盛んで、日本最大規模の八方尾根スキー場があり、長野オリンピックの会場にもなった。観光客としては、関東地方からだけでなく関西地方からの観光客も多い。 また、国道147号・国道148号を経由して繋がる新潟県との交流もあり、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートにより富山県とも接している。 また、中信地域の中部に位置する松本地域(中信)は、諏訪地域(南信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃、飛騨)との交流が深い。
中信地域の南部に位置する木曽地域(中信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、歴史的に中世以前は美濃国に属し江戸時代には尾張藩領であったことや、国道19号(中山道)を通して、岐阜県・愛知県と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。一方、南信は、山梨県、静岡県、愛知県に接しており、戦国時代には諏訪氏・武田氏・織田氏・徳川氏の支配圏に置かれてきた。中山道、甲州街道、三州街道の沿線であったことから、山梨県、東京都、静岡県、愛知県との交流が深い。諏訪地域は、松本地域(中信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃)との交流が深い。 また、飯伊地域(南信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、中央自動車道・国道153号(三州街道、足助街道)を通して、岐阜県東濃地方・愛知県尾張・西三河地方と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。さらに、飯伊地域では、静岡県・愛知県東三河地方とも隣接しているが、道路事情が悪いため、物流が発達していない。
現在、三遠南信自動車道(飯田市 - 浜松市)を建設中であるが、全通するかは未定である。また、JR飯田線、国道151号線で、新城市・豊川市を経て豊橋市に出られる。水系は、北信・中信(松本地域、大北地域)・東信(一部を除く)が日本海側水系に属するのに対して、南信・中信(木曽地域)・東信(佐久市・立科町・南牧村の一部)は太平洋側水系に属している。長野県は古くから、中山道、北国街道、甲州街道など、国内を東西南北を結ぶ交通の交差点に位置し、その流れから現在においても主要幹線交通が交わる。また、広く山国の長野県において、県内各地を結ぶ交通網は重要な機能を担っている。関東地方や近畿地方からの距離があり、広大な面積を持つ県なので、JR本州3社全ての管轄路線が存在している。特に伊那谷と木曽郡は、首都圏(東京・鎌倉)と畿内(大阪・京都・奈良)から等距離に位置している。1990年代前半までは高速道路(長野自動車道・上信越自動車道)や新幹線(長野新幹線)が開通する前までは、地理的事情等で他県や関東等へのアクセスのしづらさから『陸の孤島』と呼ばれた時期があった。
長野県は以前は教育に熱心で「教育県」と呼ばれていたが、戦後数十年はそのイメージが薄れつつあった。しかし2002年度(平成14年度)より田中県政下において、公立小学校の30人規模学級が進められ、2005年度(平成17年度)には、小学校1 - 4年生の4学年にまたがる完全30人学級が、全額県の費用負担により全国で初めて実現した。また小学校5、6年生に関しては、市町村と共同で行われている。長期休みに関しては、長野県の気候の関係による「寒中休み」も一部の学校で実施されているが、冬休みや夏休みなどの長期休業が短いため、他の都道府県よりも年間休日数が少なく、その分多く学校に通っている。長野県の県立高校の正式名称は、高等学校設置条例(昭和39年12月28日長野県条例第64号)第2条により「長野県○○高等学校」となっており、「長野県立○○高等学校」といった「県立」の名称は用いない。長野県の県立普通科高校は私服通学(私服校)が多い。
中学時代には、高山登山行事が長らく続いており、伝統がある。教育における女性の発言力が強く、女子小・中・高生の体育でのブルマー採用を全国でいち早く廃止した。また現在は男子の短パンも姿を消し、県内の全ての小・中・高でハーフパンツを体操着に採用している。一方で女性の学校教員は少ない。長野県内のCATV局の数は山梨県・徳島県・佐賀県と同じく、全国平均から見てもとても多く、それに伴ってCATV加入者も長野県全世帯の半数を超え、局数も20局を優に超えている。これは、地理的な理由から長野県には山地が多く、このことによって難視聴地域が多く存在していたために、ケーブルテレビが発達したからである。民放が4局ある地域で、このように加入者が過半数に達することは珍しい。現在、長野県には民放が4局あるものの、長野県にCATVが発達して間もない当時は、民放の数が少なかった。そのために、難視聴地域解消という目的以外にも、県内における情報格差是正を目的に県内主要CATV各局は長野県域民放局の再送信に加え、在京民放キー局(木曽地域・下伊那地域では在名民放基幹局)の再送信(いわゆる区域外再送信)を実施。結局、この在京キー局の区域外再送信は、県内に民放が4局開局した現在も続けられることになる。
長野県のCATV加入者の大半は現在でも県域民放4局に加え、在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)または在名基幹局5局(東海テレビ・中京テレビ・CBC・メ〜テレ・テレビ愛知)の視聴が常時可能な状態になっている。ちなみに、CATV局によってはこの区域外再送信を30年以上も続けているところもある。
一方の東信は、群馬県・埼玉県・山梨県に接しており、戦国時代には武田氏・織田氏・徳川氏・北条氏・真田氏の支配権に置かれてきた。中山道と北国街道の合流点であった歴史的経緯や北信と同様に長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、浅間山や碓氷峠を越えた群馬県、東京との交流も深い。 また、野辺山高原を経由する国道141号・小海線により繋がる山梨県との交流も深い。山梨県との間には、現在、中部横断自動車道が整備中である。 三国峠 (長野県・埼玉県)を経由して、埼玉県とも接しているが、道路事情が悪いため物流はほとんどない。 道路で雁坂峠の国道140号が開通する前には、碓氷峠 - 東信 - 山梨県 - 静岡県大井川以東のルートが、国道16号圏内を経由せずに関東地方内を迂回する最短ルートとなっていたために、関東志向が最も強い地域になっている。これらに対して、中央本線・飯田線・大糸線や中央自動車道・長野自動車道の沿線である中信と南信は、中山道、甲州街道、千国(ちくに)街道(糸魚川街道、松本街道)、北国西街道、三州街道沿線に当たる。
中信は、新潟県・富山県・岐阜県に接しており、戦国時代には小笠原氏・仁科氏・木曾氏を経て、武田氏・織田氏の支配権に置かれてきた。中山道、甲州街道、千国街道(糸魚川街道、松本街道)、三州街道の沿線であったことから、新潟県、岐阜県、山梨県、愛知県、東京都との交流が深い。北国西街道沿線には、長野自動車道が整備されており、長野地域と接続している。 中信地域の北部に位置する大北地域は、飛騨山脈のすぐ東側に位置しており、登山・スキーなどの観光が盛んで、日本最大規模の八方尾根スキー場があり、長野オリンピックの会場にもなった。観光客としては、関東地方からだけでなく関西地方からの観光客も多い。 また、国道147号・国道148号を経由して繋がる新潟県との交流もあり、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートにより富山県とも接している。 また、中信地域の中部に位置する松本地域(中信)は、諏訪地域(南信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃、飛騨)との交流が深い。
中信地域の南部に位置する木曽地域(中信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、歴史的に中世以前は美濃国に属し江戸時代には尾張藩領であったことや、国道19号(中山道)を通して、岐阜県・愛知県と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。一方、南信は、山梨県、静岡県、愛知県に接しており、戦国時代には諏訪氏・武田氏・織田氏・徳川氏の支配圏に置かれてきた。中山道、甲州街道、三州街道の沿線であったことから、山梨県、東京都、静岡県、愛知県との交流が深い。諏訪地域は、松本地域(中信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃)との交流が深い。 また、飯伊地域(南信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、中央自動車道・国道153号(三州街道、足助街道)を通して、岐阜県東濃地方・愛知県尾張・西三河地方と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。さらに、飯伊地域では、静岡県・愛知県東三河地方とも隣接しているが、道路事情が悪いため、物流が発達していない。
現在、三遠南信自動車道(飯田市 - 浜松市)を建設中であるが、全通するかは未定である。また、JR飯田線、国道151号線で、新城市・豊川市を経て豊橋市に出られる。水系は、北信・中信(松本地域、大北地域)・東信(一部を除く)が日本海側水系に属するのに対して、南信・中信(木曽地域)・東信(佐久市・立科町・南牧村の一部)は太平洋側水系に属している。長野県は古くから、中山道、北国街道、甲州街道など、国内を東西南北を結ぶ交通の交差点に位置し、その流れから現在においても主要幹線交通が交わる。また、広く山国の長野県において、県内各地を結ぶ交通網は重要な機能を担っている。関東地方や近畿地方からの距離があり、広大な面積を持つ県なので、JR本州3社全ての管轄路線が存在している。特に伊那谷と木曽郡は、首都圏(東京・鎌倉)と畿内(大阪・京都・奈良)から等距離に位置している。1990年代前半までは高速道路(長野自動車道・上信越自動車道)や新幹線(長野新幹線)が開通する前までは、地理的事情等で他県や関東等へのアクセスのしづらさから『陸の孤島』と呼ばれた時期があった。
長野県は以前は教育に熱心で「教育県」と呼ばれていたが、戦後数十年はそのイメージが薄れつつあった。しかし2002年度(平成14年度)より田中県政下において、公立小学校の30人規模学級が進められ、2005年度(平成17年度)には、小学校1 - 4年生の4学年にまたがる完全30人学級が、全額県の費用負担により全国で初めて実現した。また小学校5、6年生に関しては、市町村と共同で行われている。長期休みに関しては、長野県の気候の関係による「寒中休み」も一部の学校で実施されているが、冬休みや夏休みなどの長期休業が短いため、他の都道府県よりも年間休日数が少なく、その分多く学校に通っている。長野県の県立高校の正式名称は、高等学校設置条例(昭和39年12月28日長野県条例第64号)第2条により「長野県○○高等学校」となっており、「長野県立○○高等学校」といった「県立」の名称は用いない。長野県の県立普通科高校は私服通学(私服校)が多い。
中学時代には、高山登山行事が長らく続いており、伝統がある。教育における女性の発言力が強く、女子小・中・高生の体育でのブルマー採用を全国でいち早く廃止した。また現在は男子の短パンも姿を消し、県内の全ての小・中・高でハーフパンツを体操着に採用している。一方で女性の学校教員は少ない。長野県内のCATV局の数は山梨県・徳島県・佐賀県と同じく、全国平均から見てもとても多く、それに伴ってCATV加入者も長野県全世帯の半数を超え、局数も20局を優に超えている。これは、地理的な理由から長野県には山地が多く、このことによって難視聴地域が多く存在していたために、ケーブルテレビが発達したからである。民放が4局ある地域で、このように加入者が過半数に達することは珍しい。現在、長野県には民放が4局あるものの、長野県にCATVが発達して間もない当時は、民放の数が少なかった。そのために、難視聴地域解消という目的以外にも、県内における情報格差是正を目的に県内主要CATV各局は長野県域民放局の再送信に加え、在京民放キー局(木曽地域・下伊那地域では在名民放基幹局)の再送信(いわゆる区域外再送信)を実施。結局、この在京キー局の区域外再送信は、県内に民放が4局開局した現在も続けられることになる。
長野県のCATV加入者の大半は現在でも県域民放4局に加え、在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)または在名基幹局5局(東海テレビ・中京テレビ・CBC・メ〜テレ・テレビ愛知)の視聴が常時可能な状態になっている。ちなみに、CATV局によってはこの区域外再送信を30年以上も続けているところもある。
2011年9月14日水曜日
1998年のオリンピック開催にはほかに
旭川や盛岡、山形が名乗りを上げていた。1988年6月1日、JOC総会で他候補地を破って長野が候補地に内定した。森の守り神であり、知恵者の代名詞でもあるフクロウを抽象的にデザインした物で、「スノーレッツ (SNOWLETS)」という名前の由来は冬季オリンピックをイメージした「SNOW」、「フクロウの子供たち」という意味の「OWLETS」、「さあ、一緒に!」と元気よく呼びかけることば「LET'S」を掛け合わせた造語と言われている。また1羽ずつそれぞれに、スッキー、ノッキー、レッキー、ツッキーという名前もつけられていた。4羽はスッキーとノッキーが男の子、レッキーとツッキーが女の子という位置づけがなされ、それぞれが火の中、水の中、風の中、土の中から生まれたと設定された。また4羽の中でも人気、不人気のキャラクターが分かれ、最も不人気だったスッキーについてはNHKが「なぜスッキーは人気が出ないのか?」というインタビュー番組を制作するほどだったが、当初は斜めを向いていたスッキーの顔のデザインをオリンピック直前になって正面から見たデザインに“整形”するなどてこ入れがなされた甲斐もあって、オリンピック本番では4羽とも大人気だった。
スノーレッツは長野オリンピック開催前年の1997年の第48回NHK紅白歌合戦にも出場している。ギリシャから日本に着いた聖火は三手に分かれ、全都道府県を巡ったのちに長野県内の全ての市町村をリレーされて長野市に集結した。聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。これはトーチの欠陥により、トーチを傾けすぎると燃料供給が途絶えてしまうことによる。後に改良され、消えることはなくなった。国際的イベントと市民との融和、そして一過性ではなく継続的な「国際理解・親善」につなげる工夫として「一校一国運動」「一店一国運動」が展開された。「一校一国運動」は、広島アジア大会の際に行われた地区公民館単位での活動を参考に考案され、市内の小中学校各校が長野オリンピック参加の特定一国について深い研究・国際交流を図る形で展開され、市民と参加各国、そしてオリンピックというイベントを強く結びつけ、大会運営にも市民文化活動にも好影響を与えた運動。
その後のオリンピックの際にも導入され、今ではIOCのプログラムに取り込まれている。一店一国運動は同じような活動を商店に置き換えたもので、長野市街地を訪れる選手や観戦客に対してのホスピタリティを意識した運動で好評を持って迎え入れられた。屋外競技場が長野県内各地に拡散していたことから、ベースシティである長野市の中心市街地にあるセントラルスクゥエアに「市街地表彰式場」を設け、競技場まで足を運べなかった市民や観戦客への配慮を行った。これも市民とオリンピックを結びつける仕掛けとして有効で、日本選手の活躍が目立った開催期間後半においては屋内競技でも目立った成績を残した選手を改めて表彰した。長野市が行っていた一校一国運動・一店一国運動とも相まって長野大会の「付加価値」、そして「NAGANO CITY」の評価を高めたものである。長野パラリンピックとは、1998年3月5日~14日に行われた第7回冬季パラリンピックである。アジアで初めて開催された冬季パラリンピックでもあった。
今大会は長野オリンピックの後に、長野県長野市を主会場として開催された。知的障害者が初めてノルディックスキー距離競技に参加を認められた。しかし次期の夏季大会(シドニー)においてスペインが知的障害者のバスケットボールチームに健常の選手を潜り込ませて金メダルをさらったことが露見した。銀メダルのロシアチームにも不正が認められたため、以後は障害者のスポーツ祭典であるパラリンピックから知的障害者は再び排除されてしまうこととなった。また聴覚障害者、精神障害者についてもパラリンピックの埒外におかれたままになっている。1996年に行われたアトランタパラリンピックでは、日本のメディアの扱いが小さかった。しかし、長野パラリンピックは、メディアが積極的に報道したパラリンピックだった。競技の様子は、新聞では社会面などではなくスポーツ面報道でされるようになり、NHKは閉会式も生放送で放送した。そして、長野パラリンピック以降ではパラリンピックが積極的に報道されるようになった。
また、オリンピック選手団並びにパラリンピック選手団が着用する日本選手団の公式ユニフォームが統一デザインとなったのは、1998年の長野オリンピック及び長野パラリンピックからである。長野県議会は、長野県に設置されている地方議会である。長野県は就業率が高く、2005年度の国勢調査では(全)就業率 (61.3%) と高齢者就業率 (29.9%) がともに全国一であり、女性就業率 (51.1%) も全国第2位である。県内総生産は2005年度時点で名目が8兆1,992億円、実質(連鎖方式)が9兆4,066億円。精密機械(かつては時計や光学機器が主体であったが、1980年代以降情報通信機械器具、電子部品・デバイスなどに変化している。) 諏訪地域を中心に精密機械や電子産業が盛んであり、高地で気候が類似し、高級ブランド時計の本場であるスイスになぞらえ、「東洋のスイス」の異名を取ったこともある。法令系の企業が集積し、地方としては出版、印刷が多いことも特徴である。日本酒、ワインや味噌の醸造、飲料をはじめとする食料品製造業、農業では、高原野菜の栽培が盛んである。全域が中部電力のエリアになっている。
中部電力を初め、東京電力、東北電力、関西電力、電源開発などの水力発電所がある。60Hzの電源周波数の区域が大半であるが、小諸市高峰高原、大町市の一部、小谷村の一部、松本市奈川、松本市安曇の一部、安曇野市穂高の中房温泉、飯山市の一部、栄村の一部などでは50Hzの区域もある。県企業局による発電事業として14の発電所があり、伊那市に南信発電管理事務所、長野市に北信発電管理事務所が設置されている。長野県内の都市ガス事業はこれまで長野県営によるものと、東京ガスによるものが規模の大きなものとされてきたが、2006年に長野県営のガス事業(長野県企業局)が民営化され、新たに設立された長野都市ガスに事業が移管された。その後2006年7月1日をもって、東京ガスが長野県内で行っていた事業(同社長野支社の業務も含む)がすべて長野都市ガスに統合された。ちなみに、長野都市ガスは東京ガスグループに属している。平成の市町村大合併は、他県ほど進捗せず、中小自治体が乱立する状況に変わりない。
ただし、広域連合制度が県内全市町村で活用されており、一部事務組合による広域行政も活発で、長野県においては特に合併推進をすべき事由はない。2005年には長野県から岐阜県へ越県合併の事例もあった。
スノーレッツは長野オリンピック開催前年の1997年の第48回NHK紅白歌合戦にも出場している。ギリシャから日本に着いた聖火は三手に分かれ、全都道府県を巡ったのちに長野県内の全ての市町村をリレーされて長野市に集結した。聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。これはトーチの欠陥により、トーチを傾けすぎると燃料供給が途絶えてしまうことによる。後に改良され、消えることはなくなった。国際的イベントと市民との融和、そして一過性ではなく継続的な「国際理解・親善」につなげる工夫として「一校一国運動」「一店一国運動」が展開された。「一校一国運動」は、広島アジア大会の際に行われた地区公民館単位での活動を参考に考案され、市内の小中学校各校が長野オリンピック参加の特定一国について深い研究・国際交流を図る形で展開され、市民と参加各国、そしてオリンピックというイベントを強く結びつけ、大会運営にも市民文化活動にも好影響を与えた運動。
その後のオリンピックの際にも導入され、今ではIOCのプログラムに取り込まれている。一店一国運動は同じような活動を商店に置き換えたもので、長野市街地を訪れる選手や観戦客に対してのホスピタリティを意識した運動で好評を持って迎え入れられた。屋外競技場が長野県内各地に拡散していたことから、ベースシティである長野市の中心市街地にあるセントラルスクゥエアに「市街地表彰式場」を設け、競技場まで足を運べなかった市民や観戦客への配慮を行った。これも市民とオリンピックを結びつける仕掛けとして有効で、日本選手の活躍が目立った開催期間後半においては屋内競技でも目立った成績を残した選手を改めて表彰した。長野市が行っていた一校一国運動・一店一国運動とも相まって長野大会の「付加価値」、そして「NAGANO CITY」の評価を高めたものである。長野パラリンピックとは、1998年3月5日~14日に行われた第7回冬季パラリンピックである。アジアで初めて開催された冬季パラリンピックでもあった。
今大会は長野オリンピックの後に、長野県長野市を主会場として開催された。知的障害者が初めてノルディックスキー距離競技に参加を認められた。しかし次期の夏季大会(シドニー)においてスペインが知的障害者のバスケットボールチームに健常の選手を潜り込ませて金メダルをさらったことが露見した。銀メダルのロシアチームにも不正が認められたため、以後は障害者のスポーツ祭典であるパラリンピックから知的障害者は再び排除されてしまうこととなった。また聴覚障害者、精神障害者についてもパラリンピックの埒外におかれたままになっている。1996年に行われたアトランタパラリンピックでは、日本のメディアの扱いが小さかった。しかし、長野パラリンピックは、メディアが積極的に報道したパラリンピックだった。競技の様子は、新聞では社会面などではなくスポーツ面報道でされるようになり、NHKは閉会式も生放送で放送した。そして、長野パラリンピック以降ではパラリンピックが積極的に報道されるようになった。
また、オリンピック選手団並びにパラリンピック選手団が着用する日本選手団の公式ユニフォームが統一デザインとなったのは、1998年の長野オリンピック及び長野パラリンピックからである。長野県議会は、長野県に設置されている地方議会である。長野県は就業率が高く、2005年度の国勢調査では(全)就業率 (61.3%) と高齢者就業率 (29.9%) がともに全国一であり、女性就業率 (51.1%) も全国第2位である。県内総生産は2005年度時点で名目が8兆1,992億円、実質(連鎖方式)が9兆4,066億円。精密機械(かつては時計や光学機器が主体であったが、1980年代以降情報通信機械器具、電子部品・デバイスなどに変化している。) 諏訪地域を中心に精密機械や電子産業が盛んであり、高地で気候が類似し、高級ブランド時計の本場であるスイスになぞらえ、「東洋のスイス」の異名を取ったこともある。法令系の企業が集積し、地方としては出版、印刷が多いことも特徴である。日本酒、ワインや味噌の醸造、飲料をはじめとする食料品製造業、農業では、高原野菜の栽培が盛んである。全域が中部電力のエリアになっている。
中部電力を初め、東京電力、東北電力、関西電力、電源開発などの水力発電所がある。60Hzの電源周波数の区域が大半であるが、小諸市高峰高原、大町市の一部、小谷村の一部、松本市奈川、松本市安曇の一部、安曇野市穂高の中房温泉、飯山市の一部、栄村の一部などでは50Hzの区域もある。県企業局による発電事業として14の発電所があり、伊那市に南信発電管理事務所、長野市に北信発電管理事務所が設置されている。長野県内の都市ガス事業はこれまで長野県営によるものと、東京ガスによるものが規模の大きなものとされてきたが、2006年に長野県営のガス事業(長野県企業局)が民営化され、新たに設立された長野都市ガスに事業が移管された。その後2006年7月1日をもって、東京ガスが長野県内で行っていた事業(同社長野支社の業務も含む)がすべて長野都市ガスに統合された。ちなみに、長野都市ガスは東京ガスグループに属している。平成の市町村大合併は、他県ほど進捗せず、中小自治体が乱立する状況に変わりない。
ただし、広域連合制度が県内全市町村で活用されており、一部事務組合による広域行政も活発で、長野県においては特に合併推進をすべき事由はない。2005年には長野県から岐阜県へ越県合併の事例もあった。
2011年9月13日火曜日
長野オリンピックは
1998年2月7日から2月22日まで、日本の長野市とその周辺を会場にして開催された、20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックとしては、今までで最も南に位置する都市で開催された。日本ジャンプ陣(日の丸飛行隊)を初めとする日本選手代表勢が大活躍、日本代表は冬季五輪史上初の二桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得した。長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供たちが共演でテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」の歌声を披露した。選手入場はオリンピック憲章に則りギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。斎藤英四郎大会組織委員会会長の挨拶、サマランチIOC会長の挨拶の後、今上天皇が開会を宣言。
湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。オリンピック旗の入場では、往年の冬季オリンピック出場の日本人名選手8人(猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美)が登場した。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。その後、アテネ世界陸上10000m銅メダリスト・千葉真子から、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そしてアテネ世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、最後に、プッチーニ作、歌劇「蝶々夫人」の有名なアリア『ある晴れた日に』の曲が演奏される中、アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。オリンピック宣誓は、アルベールビルオリンピック・リレハンメルオリンピック両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、1998個の子供たちのメッセージカードとヘリウムが入った、市販品の1.5倍の大きさの、羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が、空に放たれた。
開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行った。この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。さらに演奏終了にあわせ航空自衛隊のブルーインパルスが会場上空で展示飛行を行い、開会式に花を添えた。志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるよう、スタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。
結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能となり、全種目を無事実施できた大きな要因の1つとなった。この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目された。多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーが長野のヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーのソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムにおいて、今上天皇・皇后臨席の下、行われた。主な内容としては、長野のお祭りが一堂に集結したほか、オリンピック旗がソルトレイクシティ市長に引き継がれた。
大会組織委員会副会長吉村午良長野県知事(当時)の挨拶の後、サマランチIOC会長の閉会宣言が、「アリガトウナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレは、花火5,000発(長野県は日本一の花火の産地である)とAGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)参加による「WAになっておどろう~イレアイエ~」で、期間中の選手待合室にも流れており選手たちに好評だったためか、選手たちがステージに上がったり、一緒に楽器を演奏したり、思い思いのダンスを踊ったりと、まさに国境を越えての盛り上がりを見せた。また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークした。1991年に長野オリンピック開催が決定したことにより、長野新幹線が、現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。
もともと長野新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが小諸市と佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については、小諸駅、佐久平駅を参照のこと。その他の影響として、1994年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化。また1997年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。長野新幹線では、200系新幹線が走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。
湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。オリンピック旗の入場では、往年の冬季オリンピック出場の日本人名選手8人(猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美)が登場した。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。その後、アテネ世界陸上10000m銅メダリスト・千葉真子から、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そしてアテネ世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、最後に、プッチーニ作、歌劇「蝶々夫人」の有名なアリア『ある晴れた日に』の曲が演奏される中、アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。オリンピック宣誓は、アルベールビルオリンピック・リレハンメルオリンピック両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、1998個の子供たちのメッセージカードとヘリウムが入った、市販品の1.5倍の大きさの、羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が、空に放たれた。
開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行った。この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。さらに演奏終了にあわせ航空自衛隊のブルーインパルスが会場上空で展示飛行を行い、開会式に花を添えた。志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるよう、スタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。
結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能となり、全種目を無事実施できた大きな要因の1つとなった。この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目された。多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーが長野のヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーのソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムにおいて、今上天皇・皇后臨席の下、行われた。主な内容としては、長野のお祭りが一堂に集結したほか、オリンピック旗がソルトレイクシティ市長に引き継がれた。
大会組織委員会副会長吉村午良長野県知事(当時)の挨拶の後、サマランチIOC会長の閉会宣言が、「アリガトウナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレは、花火5,000発(長野県は日本一の花火の産地である)とAGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)参加による「WAになっておどろう~イレアイエ~」で、期間中の選手待合室にも流れており選手たちに好評だったためか、選手たちがステージに上がったり、一緒に楽器を演奏したり、思い思いのダンスを踊ったりと、まさに国境を越えての盛り上がりを見せた。また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークした。1991年に長野オリンピック開催が決定したことにより、長野新幹線が、現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。
もともと長野新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが小諸市と佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については、小諸駅、佐久平駅を参照のこと。その他の影響として、1994年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化。また1997年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。長野新幹線では、200系新幹線が走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。
2011年9月12日月曜日
演奏終了にあわせ航空自衛隊のブルーインパルスが
会場上空で展示飛行を行い、開会式に花を添えた。志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるよう、スタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能となり、全種目を無事実施できた大きな要因の1つとなった。また、コース整備において陸上自衛隊の協力は非常に大きな力となり、降雪によりコースが埋没した際の排雪は「自衛隊がいなければ絶対に間に合わなかった」との声も聞かれた。この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目された。
多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーが長野のヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーのソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムにおいて、今上天皇・皇后臨席の下、行われた。主な内容としては、長野のお祭りが一堂に集結したほか、オリンピック旗がソルトレイクシティ市長に引き継がれた。大会組織委員会副会長吉村午良長野県知事(当時)の挨拶の後、サマランチIOC会長の閉会宣言が、「アリガトウナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。
聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレは、花火5,000発(長野県は日本一の花火の産地である)とAGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)参加による「WAになっておどろう~イレアイエ~」で、期間中の選手待合室にも流れており選手たちに好評だったためか、選手たちがステージに上がったり、一緒に楽器を演奏したり、思い思いのダンスを踊ったりと、まさに国境を越えての盛り上がりを見せた。また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークした。1991年に長野オリンピック開催が決定したことにより、長野新幹線が、現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと長野新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。
軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが小諸市と佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については、小諸駅、佐久平駅を参照のこと。その他の影響として、1994年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化。また1997年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。長野新幹線では、200系新幹線が走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。森の守り神であり、知恵者の代名詞でもあるフクロウを抽象的にデザインした物で、「スノーレッツ (SNOWLETS)」という名前の由来は冬季オリンピックをイメージした「SNOW」、「フクロウの子供たち」という意味の「OWLETS」、「さあ、一緒に!」と元気よく呼びかけることば「LET'S」を掛け合わせた造語と言われている。
また1羽ずつそれぞれに、スッキー、ノッキー、レッキー、ツッキーという名前もつけられていた。4羽はスッキーとノッキーが男の子、レッキーとツッキーが女の子という位置づけがなされ、それぞれが火の中、水の中、風の中、土の中から生まれたと設定された。また4羽の中でも人気、不人気のキャラクターが分かれ、最も不人気だったスッキーについてはNHKが「なぜスッキーは人気が出ないのか?」というインタビュー番組を制作するほどだったが、当初は斜めを向いていたスッキーの顔のデザインをオリンピック直前になって正面から見たデザインに“整形”するなどてこ入れがなされた甲斐もあって、オリンピック本番では4羽とも大人気だった。スノーレッツは長野オリンピック開催前年の1997年の第48回NHK紅白歌合戦にも出場している。ギリシャから日本に着いた聖火は三手に分かれ、全都道府県を巡ったのちに長野県内の全ての市町村をリレーされて長野市に集結した。聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。
これはトーチの欠陥により、トーチを傾けすぎると燃料供給が途絶えてしまうことによる。後に改良され、消えることはなくなった。システムオペレーションセンター (SOC) は本大会時は、長野オリンピック組織委員会 (NAOC) 本部に設けられたが、システムの拠点は前記の公共施設内であった。国際的イベントと市民との融和、そして一過性ではなく継続的な「国際理解・親善」につなげる工夫として「一校一国運動」「一店一国運動」が展開された。「一校一国運動」は、広島アジア大会の際に行われた地区公民館単位での活動を参考に考案され、市内の小中学校各校が長野オリンピック参加の特定一国について深い研究・国際交流を図る形で展開され、市民と参加各国、そしてオリンピックというイベントを強く結びつけ、大会運営にも市民文化活動にも好影響を与えた運動。その後のオリンピックの際にも導入され、今ではIOCのプログラムに取り込まれている。 一店一国運動は同じような活動を商店に置き換えたもので、長野市街地を訪れる選手や観戦客に対してのホスピタリティを意識した運動で好評を持って迎え入れられた。
屋外競技場が長野県内各地に拡散していたことから、ベースシティである長野市の中心市街地にあるセントラルスクゥエアに「市街地表彰式場」を設け、競技場まで足を運べなかった市民や観戦客への配慮を行った。これも市民とオリンピックを結びつける仕掛けとして有効で、日本選手の活躍が目立った開催期間後半においては屋内競技でも目立った成績を残した選手を改めて表彰した。長野市が行っていた一校一国運動・一店一国運動とも相まって長野大会の「付加価値」、そして「NAGANO CITY」の評価を高めたものである。
多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーが長野のヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーのソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムにおいて、今上天皇・皇后臨席の下、行われた。主な内容としては、長野のお祭りが一堂に集結したほか、オリンピック旗がソルトレイクシティ市長に引き継がれた。大会組織委員会副会長吉村午良長野県知事(当時)の挨拶の後、サマランチIOC会長の閉会宣言が、「アリガトウナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。
聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレは、花火5,000発(長野県は日本一の花火の産地である)とAGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)参加による「WAになっておどろう~イレアイエ~」で、期間中の選手待合室にも流れており選手たちに好評だったためか、選手たちがステージに上がったり、一緒に楽器を演奏したり、思い思いのダンスを踊ったりと、まさに国境を越えての盛り上がりを見せた。また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークした。1991年に長野オリンピック開催が決定したことにより、長野新幹線が、現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと長野新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。
軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが小諸市と佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については、小諸駅、佐久平駅を参照のこと。その他の影響として、1994年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化。また1997年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。長野新幹線では、200系新幹線が走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。森の守り神であり、知恵者の代名詞でもあるフクロウを抽象的にデザインした物で、「スノーレッツ (SNOWLETS)」という名前の由来は冬季オリンピックをイメージした「SNOW」、「フクロウの子供たち」という意味の「OWLETS」、「さあ、一緒に!」と元気よく呼びかけることば「LET'S」を掛け合わせた造語と言われている。
また1羽ずつそれぞれに、スッキー、ノッキー、レッキー、ツッキーという名前もつけられていた。4羽はスッキーとノッキーが男の子、レッキーとツッキーが女の子という位置づけがなされ、それぞれが火の中、水の中、風の中、土の中から生まれたと設定された。また4羽の中でも人気、不人気のキャラクターが分かれ、最も不人気だったスッキーについてはNHKが「なぜスッキーは人気が出ないのか?」というインタビュー番組を制作するほどだったが、当初は斜めを向いていたスッキーの顔のデザインをオリンピック直前になって正面から見たデザインに“整形”するなどてこ入れがなされた甲斐もあって、オリンピック本番では4羽とも大人気だった。スノーレッツは長野オリンピック開催前年の1997年の第48回NHK紅白歌合戦にも出場している。ギリシャから日本に着いた聖火は三手に分かれ、全都道府県を巡ったのちに長野県内の全ての市町村をリレーされて長野市に集結した。聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。
これはトーチの欠陥により、トーチを傾けすぎると燃料供給が途絶えてしまうことによる。後に改良され、消えることはなくなった。システムオペレーションセンター (SOC) は本大会時は、長野オリンピック組織委員会 (NAOC) 本部に設けられたが、システムの拠点は前記の公共施設内であった。国際的イベントと市民との融和、そして一過性ではなく継続的な「国際理解・親善」につなげる工夫として「一校一国運動」「一店一国運動」が展開された。「一校一国運動」は、広島アジア大会の際に行われた地区公民館単位での活動を参考に考案され、市内の小中学校各校が長野オリンピック参加の特定一国について深い研究・国際交流を図る形で展開され、市民と参加各国、そしてオリンピックというイベントを強く結びつけ、大会運営にも市民文化活動にも好影響を与えた運動。その後のオリンピックの際にも導入され、今ではIOCのプログラムに取り込まれている。 一店一国運動は同じような活動を商店に置き換えたもので、長野市街地を訪れる選手や観戦客に対してのホスピタリティを意識した運動で好評を持って迎え入れられた。
屋外競技場が長野県内各地に拡散していたことから、ベースシティである長野市の中心市街地にあるセントラルスクゥエアに「市街地表彰式場」を設け、競技場まで足を運べなかった市民や観戦客への配慮を行った。これも市民とオリンピックを結びつける仕掛けとして有効で、日本選手の活躍が目立った開催期間後半においては屋内競技でも目立った成績を残した選手を改めて表彰した。長野市が行っていた一校一国運動・一店一国運動とも相まって長野大会の「付加価値」、そして「NAGANO CITY」の評価を高めたものである。
2011年9月11日日曜日
長野盆地は
フォッサマグナと呼ばれる地溝帯の一部を占める低地の一つで、新生代第四紀になって形作られたものである。盆地底は千曲川とこれに合流する各河川によってもたらされた新しい時代の堆積物によって埋積されている。盆地を南から北へ貫流する千曲川自体には扇状地の発達が見られないが、これに合流する犀川や裾花川、百々川(どどかわ)、松川、夜間瀬川(よませがわ)などの河川が扇状地を発達させている。千曲川はこれらの扇状地の末端を縫うように盆地底を流路を変えながら曲流し、新旧の流路に沿って自然堤防と後背湿地が分布する。盆地の東西は隣接する山地と非常に明瞭な境界をもって接するが、東側と西側とではその様相を大きく異にする。東側では、盆地底を海水面に見立てるとあたかもリアス式海岸の岬と入江のように尾根筋と谷が入り組み、入江に当たる谷の出口に前述のように各支川による扇状地が発達する。南東では坂城町から千曲市戸倉(旧戸倉町)にかけての狭隘部(地名:岩鼻、半過)を経て上流の上田盆地に続く。
盆地の西側に広がる水内丘陵(犀川丘陵)は地すべりの活動的な山地であり、善光寺地震の際には各所で地すべりや崩壊を生じた。近年でも1985年に長野市上松の地附山で発生した地すべりが大きな被害を出しており、長野市篠ノ井岡田の茶臼山では明治以来継続して滑動が続いている。裾花凝灰岩は陸上での火砕流堆積物によって出来たことが確認されている。盆地西側の山地の隆起と千曲川と流入する小河川の双方による浸食と堆積により形成され、堆積物は非常に厚く1988年長野市権堂町で行われた温泉掘削に伴う地下の扇状地堆積物層の厚み調査では、765m まで掘削したが盆地底まで到達していない、これは他の地域とも比べ非常に深い。善光寺地震の周期はボーリング調査などにより1,000年に一度とされているので、盆地西側の地盤は、善光寺地震の際に 2m程度隆起した。1年あたりの変動量は、2000mm÷1000年で 2mmである。地下の遺構として約4,000年前の縄文土器が、長野市街地では 6mの地下から、盆地南部の千曲市は 4m地下から出土している。
このことから長野盆地での年間埋め立て量は、4000mm÷4000年で、1mm/年間の速さで進行している事になる。この隆起と埋め立て量の差から、 1mm/年間の速度で相対的に西山地区が隆起している、現在の長野盆地と西山地区との高低差は 300m前後であるから、長野盆地の発生は(300000mm÷1mm/年間) つまり、300000年(30万年)と言うことになる。山地側も隆起量と比例し風化などで削られるため、実際の開始時期はもっと早い時期であったと考えられる。長野盆地付近から信濃川に沿って、新潟県に延びる活断層帯の信濃川断層帯(長野盆地西縁断層)がある。盆地の西側では戸狩から飯山(以上、飯山市)、豊野、吉田、城山(じょうやま)・善光寺、妻科(長野県庁付近)、安茂里、篠ノ井(以上、長野市)と続く直線的な急崖によって区切られる。この急崖は盆地西縁に連続する活断層の集合体であり、断層は北西側が隆起、南東側が沈降を続け千曲川が東側に追いやられている。
長野市の中心市街地は裾花川と、市街地北側の大峰山西側から流れ出す湯福川、大峰山北東側から流れ出す浅川、の作る扇状地上に展開するが、この活断層群の存在によって段丘状の地形をなしている。1847年(弘化4年)に発生し善光寺平一帯に大きな被害をもたらした善光寺地震はこの長野盆地西縁断層(小松原断層)を震源として起きた地震であり、地震による断層の変位が篠ノ井から飯山までの50kmにわたって見られたと言われる。活断層の活動は東側で新しく、中野市西部で千曲川の右岸に高丘丘陵と長丘丘陵を形成して、千曲川の河谷と長野盆地とを分けている。すなわち、ここでは千曲川の流路がほぼ現在の位置に固定した後、活断層の動きの蓄積によって高丘・長丘の両丘陵が隆起した結果、千曲川が長野盆地を外れてわざわざ丘陵西側の峡谷を選んで流れているように見えるのである。高丘丘陵南側の延徳低地(中野市)は、活断層の沈降側に当たり、千曲川本流の狭窄部への入口となっている事と北東側を夜間瀬川扇状地に遮られるために排水が悪く、古来水害常襲地となっている。
R山がちな長野県では、現在上田市・松本市となった地域にある美ヶ原がテレビ・FMの親局となっており、長野市内からは遠く離れている。こうしたこともあり、NHK長野放送局がテレビ放送を始める前から、この地に市内向けの中継局を開設していた。現在でも長野市内では、美ヶ原局ではなく善光寺平局の放送が視聴されている。また松本市内でも、美ヶ原の山陰となる関係から、別途市内向けに中継局が設けられている。尚、正式な中継局名は、NHKで『善光寺平テレビジョン・FM中継放送所』、民放テレビで『善光寺平テレビジョン中継放送所』、FM長野で『善光寺平FM中継放送所』である。長野オリンピックは、1998年2月7日から2月22日まで、日本の長野市とその周辺を会場にして開催された、20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックとしては、今までで最も南に位置する都市で開催された。日本ジャンプ陣を初めとする日本選手代表勢が大活躍、日本代表は冬季五輪史上初の二桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得した。
長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供たちが共演でテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」の歌声を披露した。選手入場はオリンピック憲章に則りギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。斎藤英四郎大会組織委員会会長の挨拶、サマランチIOC会長の挨拶の後、今上天皇が開会を宣言。湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。オリンピック旗の入場では、往年の冬季オリンピック出場の日本人名選手8人(猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美)が登場した。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。
その後、アテネ世界陸上10000m銅メダリスト・千葉真子から、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そしてアテネ世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、最後に、プッチーニ作、歌劇「蝶々夫人」の有名なアリア『ある晴れた日に』の曲が演奏される中、アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。オリンピック宣誓は、アルベールビルオリンピック・リレハンメルオリンピック両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、1998個の子供たちのメッセージカードとヘリウムが入った、市販品の1.5倍の大きさの、羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が、空に放たれた。開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。
指揮は小澤征爾が行った。この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。
盆地の西側に広がる水内丘陵(犀川丘陵)は地すべりの活動的な山地であり、善光寺地震の際には各所で地すべりや崩壊を生じた。近年でも1985年に長野市上松の地附山で発生した地すべりが大きな被害を出しており、長野市篠ノ井岡田の茶臼山では明治以来継続して滑動が続いている。裾花凝灰岩は陸上での火砕流堆積物によって出来たことが確認されている。盆地西側の山地の隆起と千曲川と流入する小河川の双方による浸食と堆積により形成され、堆積物は非常に厚く1988年長野市権堂町で行われた温泉掘削に伴う地下の扇状地堆積物層の厚み調査では、765m まで掘削したが盆地底まで到達していない、これは他の地域とも比べ非常に深い。善光寺地震の周期はボーリング調査などにより1,000年に一度とされているので、盆地西側の地盤は、善光寺地震の際に 2m程度隆起した。1年あたりの変動量は、2000mm÷1000年で 2mmである。地下の遺構として約4,000年前の縄文土器が、長野市街地では 6mの地下から、盆地南部の千曲市は 4m地下から出土している。
このことから長野盆地での年間埋め立て量は、4000mm÷4000年で、1mm/年間の速さで進行している事になる。この隆起と埋め立て量の差から、 1mm/年間の速度で相対的に西山地区が隆起している、現在の長野盆地と西山地区との高低差は 300m前後であるから、長野盆地の発生は(300000mm÷1mm/年間) つまり、300000年(30万年)と言うことになる。山地側も隆起量と比例し風化などで削られるため、実際の開始時期はもっと早い時期であったと考えられる。長野盆地付近から信濃川に沿って、新潟県に延びる活断層帯の信濃川断層帯(長野盆地西縁断層)がある。盆地の西側では戸狩から飯山(以上、飯山市)、豊野、吉田、城山(じょうやま)・善光寺、妻科(長野県庁付近)、安茂里、篠ノ井(以上、長野市)と続く直線的な急崖によって区切られる。この急崖は盆地西縁に連続する活断層の集合体であり、断層は北西側が隆起、南東側が沈降を続け千曲川が東側に追いやられている。
長野市の中心市街地は裾花川と、市街地北側の大峰山西側から流れ出す湯福川、大峰山北東側から流れ出す浅川、の作る扇状地上に展開するが、この活断層群の存在によって段丘状の地形をなしている。1847年(弘化4年)に発生し善光寺平一帯に大きな被害をもたらした善光寺地震はこの長野盆地西縁断層(小松原断層)を震源として起きた地震であり、地震による断層の変位が篠ノ井から飯山までの50kmにわたって見られたと言われる。活断層の活動は東側で新しく、中野市西部で千曲川の右岸に高丘丘陵と長丘丘陵を形成して、千曲川の河谷と長野盆地とを分けている。すなわち、ここでは千曲川の流路がほぼ現在の位置に固定した後、活断層の動きの蓄積によって高丘・長丘の両丘陵が隆起した結果、千曲川が長野盆地を外れてわざわざ丘陵西側の峡谷を選んで流れているように見えるのである。高丘丘陵南側の延徳低地(中野市)は、活断層の沈降側に当たり、千曲川本流の狭窄部への入口となっている事と北東側を夜間瀬川扇状地に遮られるために排水が悪く、古来水害常襲地となっている。
R山がちな長野県では、現在上田市・松本市となった地域にある美ヶ原がテレビ・FMの親局となっており、長野市内からは遠く離れている。こうしたこともあり、NHK長野放送局がテレビ放送を始める前から、この地に市内向けの中継局を開設していた。現在でも長野市内では、美ヶ原局ではなく善光寺平局の放送が視聴されている。また松本市内でも、美ヶ原の山陰となる関係から、別途市内向けに中継局が設けられている。尚、正式な中継局名は、NHKで『善光寺平テレビジョン・FM中継放送所』、民放テレビで『善光寺平テレビジョン中継放送所』、FM長野で『善光寺平FM中継放送所』である。長野オリンピックは、1998年2月7日から2月22日まで、日本の長野市とその周辺を会場にして開催された、20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックとしては、今までで最も南に位置する都市で開催された。日本ジャンプ陣を初めとする日本選手代表勢が大活躍、日本代表は冬季五輪史上初の二桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得した。
長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供たちが共演でテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」の歌声を披露した。選手入場はオリンピック憲章に則りギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。斎藤英四郎大会組織委員会会長の挨拶、サマランチIOC会長の挨拶の後、今上天皇が開会を宣言。湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。オリンピック旗の入場では、往年の冬季オリンピック出場の日本人名選手8人(猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美)が登場した。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。
その後、アテネ世界陸上10000m銅メダリスト・千葉真子から、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そしてアテネ世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、最後に、プッチーニ作、歌劇「蝶々夫人」の有名なアリア『ある晴れた日に』の曲が演奏される中、アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。オリンピック宣誓は、アルベールビルオリンピック・リレハンメルオリンピック両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、1998個の子供たちのメッセージカードとヘリウムが入った、市販品の1.5倍の大きさの、羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が、空に放たれた。開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。
指揮は小澤征爾が行った。この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。
2011年9月10日土曜日
過去にはCATV局側に対し
在京キー局・長野県域民放側は「経営に悪影響が出る」「視聴率が悪化する」「民放は4局あり、情報格差は既に是正されている」などの意見を出し、区域外再送信をやめるように要請、中止に圧力を掛けた。しかし、CATV局のほとんどはこの要請には応じず、今までどおり区域外再送信を行うことになる(例外として、同時期に長野市をエリアとするCATV局INCはTBSを皮切りに、県内に系列局のないテレビ東京を除く在京キー局4局の区域外再送信を順次中止した)。しかし、テレビの2011年・地上デジタル放送完全移行により、この問題は大きな分岐点を迎えている。基本的にデジタル放送では、区域外再送信を中止する方針が出され、現在アナログ放送のみで放送されている区域外再送信をデジタル放送でも実施するのかどうかが、できるのかどうかが現在、長野県内では大きな問題となっている。今まで通りの立場で、区域外再送信を反対する県内民放側に対して、CATV側も「今まで見られていた東京のチャンネルが見られなくなることで、加入者離れが進む」「東京で見られても、深夜・早朝を中心に長野で見られない番組がたくさんある」などとして、対立している。
民放側とCATV側の協議も結果が芳しくなかったこともあり、2007年には県内CATV局である2局(LCV・テレビ松本)がこの問題をめぐって、在京キー局各局及び県域民放各局にデジタル放送でも区域外再送信の同意をしてもらうよう大臣裁定に持ち込んだこともあり、加入者の生活にも関わることで、今後もこの問題は更に注目を浴びことになるのは間違いないと思われる。さらには独立UHF局(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)のデジタル波の区域外再送信を求める声も少なからずある。田中康夫前知事が「長野県」から「信州県」へと改名するとした構想。特に観光面で「信州」呼ばれることが多いことから、観光産業への効果などがうたわれた。これには依然として長野市と松本市との対立意識が残ることがその根底にある。当初新聞紙上には載ったが、実際の動きがあったかは不明のまま立ち消えとなる。旧山口村(現岐阜県中津川市山口地区)の越県合併を合併告示当初より反対であった。
合併協議会の賛成を得ても、反対し続け、『山口村は長野に残るべき』と述べた。結果的には合併を承認し、越境合併は実現したが、田中自身は最後まで反対の意思を曲げることはなかった。山口村越県合併問題で、山口村村民、村役場、村議会、県議会と対立したことで、「反・田中派」の追い風に乗り、後任の知事である、村井県政が始まるきっかけのひとつになった。田中県政については独善・独裁的という見方もある一方で、それまでの長野県政の悪弊を打破したという点では評価する向きもあり、賛否は分かれる。長野県は沖縄県と同様に、公営競技場及び投票券場外発売場が1つもない県である。そのため、テレビ等ではローカルで「レースガイド」が放送されることはめったにない(しかし、NBSにおいて「みんなのKEIBA」・「うまプロ!」の競馬番組はネットしている)。また隣県の競馬・競輪・競艇場などのローカルCMが民放各局で流れる。伝統的にメディア・リテラシー教育を重視する考え方が強く、全国の都道府県で唯一、青少年保護育成条例を制定していない。
但し、長野市と佐久市は独自に条例を制定しているほか、東御市も長野県下初の淫行処罰規定を盛り込んだ条例が制定された。条例が制定されていない地域であっても、未成年者への淫行は児童福祉法、児童ポルノ・児童買春処罰法、刑法の未成年者略取及び誘拐罪での検挙実績がある。性風俗関連特殊営業については昭和59年12月24日長野県条例第34号により、店舗型性風俗特殊営業と店舗型電話異性紹介営業については長野市及び松本市の各一部が営業禁止地域から除外されているが、同条例及び風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律28条に定める施設との兼ね合いから、特殊浴場(店舗型性風俗特殊営業1号営業)は実質的に規制されている。2008年現在、都道府県別平均寿命で男性が1位であり、女性も毎回上位を占める長寿県となっている。長野市は、長野県北部の都市で、同県の県庁所在地、中核市である。旧:上水内郡・更級郡・埴科郡・上高井郡。善光寺の門前町として有名である。
門前町としてのみならず、周辺の観光地への前線としても重要な位置を占める。善光寺門前町を中心とする旧長野町などは上水内郡に属していたが、現在の市域はその外、旧更級郡、埴科郡、上高井郡にまたがる。交通政策では「交通セル方式」の採用やコミュニティバス(ぐるりん号)の積極展開など特徴的な政策を持つ。1998年の冬季オリンピック競技大会(長野オリンピック及び長野パラリンピック)の開催地である。長野村という地名は、中世末期から見られるようである。現在の長野市大字長野に上長野・下長野、また大字西長野に西長野・袖長野・中長野という小字が残されており、「長野」とは現在の信州大学教育学部付近から善光寺参道付近にかけての緩傾斜地を呼んだ地名だと思われる。中世末から近世にかけての水内郡長野村は、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する。1601年(慶長6年)に、同郡箱清水村、七瀬村、及び三輪村の一部(間もなく平柴村に変更)とともに善光寺領とされた。
箱清水村は、1875年(明治8年)に長野町と合併、七瀬村は1876年(明治9年)に鶴賀村の一部となり鶴賀町を経て長野町へ、三輪村は1889年(明治22年)に三輪村、平柴村は1889年に安茂里村を経て、いずれも現在は長野市に属する。長野村のうち、善光寺南の参道は門前町として、また北国街道のルートとされたことから宿場町としても発展して市街地化(町場化)した。こうして市街地化した区域、および松代藩領でこれに隣接して同様に市街地化した妻科村(現長野市大字南長野)および権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のそれぞれ一部も含めて、町場全体の総称として善光寺町(または「善光寺宿」)という呼称が行われるようになった。その結果「長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内を除いた北西部の農村区域を指すものと理解されていた。しかし、検地帳上の公的な村名は、善光寺町の区域も含めて「長野村」であり、そのまま明治維新後に至った。
すなわち、「善光寺町」とは本来「長野村」の一部であり、明治になってから「善光寺町」が「長野村」と改称されたわけでもなく、「善光寺町」が「長野村」の旧称であったわけでもない。長野盆地は、長野県長野市を中心とした盆地。古くから善光寺平と呼ばれ、県歌「信濃の国」に歌われる「四つの平」の一つである。範囲は必ずしも明確ではないが、南から千曲市、長野市、須坂市、小布施町、高山村、飯綱町、中野市にかけて広がる千曲川の流域一帯のこととする解釈が一般的である。この地域の河川敷から扇状地にかけてはりんごや桃、河川敷の砂地地域はナガイモの産地としても知られる。南縁の千曲市の傾斜地(約25ha)は姨捨の棚田として有名。イネ(水稲)の田植え時期は、盆地周囲の山間地では 5月上旬頃で、盆地底部の遅いところでは 6月中旬から6月末に行われる。広義には飯山盆地を含めた北信地方(北安曇地域を含まない)の中央部の盆地全体を指すこともあるが、通常は「高井富士」とも呼ばれる高社山(中野市・木島平村)を境に以北を飯山盆地として分け、高社山以南を長野盆地とする。
しかし、飯山盆地もその構造や成因は高社山以南の長野盆地と共通した性格を持つ。南部の千曲川上流側の境界は明確ではないが、千曲市屋代付近より上流の狭窄部以北を指すのが妥当と思われる。
民放側とCATV側の協議も結果が芳しくなかったこともあり、2007年には県内CATV局である2局(LCV・テレビ松本)がこの問題をめぐって、在京キー局各局及び県域民放各局にデジタル放送でも区域外再送信の同意をしてもらうよう大臣裁定に持ち込んだこともあり、加入者の生活にも関わることで、今後もこの問題は更に注目を浴びことになるのは間違いないと思われる。さらには独立UHF局(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)のデジタル波の区域外再送信を求める声も少なからずある。田中康夫前知事が「長野県」から「信州県」へと改名するとした構想。特に観光面で「信州」呼ばれることが多いことから、観光産業への効果などがうたわれた。これには依然として長野市と松本市との対立意識が残ることがその根底にある。当初新聞紙上には載ったが、実際の動きがあったかは不明のまま立ち消えとなる。旧山口村(現岐阜県中津川市山口地区)の越県合併を合併告示当初より反対であった。
合併協議会の賛成を得ても、反対し続け、『山口村は長野に残るべき』と述べた。結果的には合併を承認し、越境合併は実現したが、田中自身は最後まで反対の意思を曲げることはなかった。山口村越県合併問題で、山口村村民、村役場、村議会、県議会と対立したことで、「反・田中派」の追い風に乗り、後任の知事である、村井県政が始まるきっかけのひとつになった。田中県政については独善・独裁的という見方もある一方で、それまでの長野県政の悪弊を打破したという点では評価する向きもあり、賛否は分かれる。長野県は沖縄県と同様に、公営競技場及び投票券場外発売場が1つもない県である。そのため、テレビ等ではローカルで「レースガイド」が放送されることはめったにない(しかし、NBSにおいて「みんなのKEIBA」・「うまプロ!」の競馬番組はネットしている)。また隣県の競馬・競輪・競艇場などのローカルCMが民放各局で流れる。伝統的にメディア・リテラシー教育を重視する考え方が強く、全国の都道府県で唯一、青少年保護育成条例を制定していない。
但し、長野市と佐久市は独自に条例を制定しているほか、東御市も長野県下初の淫行処罰規定を盛り込んだ条例が制定された。条例が制定されていない地域であっても、未成年者への淫行は児童福祉法、児童ポルノ・児童買春処罰法、刑法の未成年者略取及び誘拐罪での検挙実績がある。性風俗関連特殊営業については昭和59年12月24日長野県条例第34号により、店舗型性風俗特殊営業と店舗型電話異性紹介営業については長野市及び松本市の各一部が営業禁止地域から除外されているが、同条例及び風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律28条に定める施設との兼ね合いから、特殊浴場(店舗型性風俗特殊営業1号営業)は実質的に規制されている。2008年現在、都道府県別平均寿命で男性が1位であり、女性も毎回上位を占める長寿県となっている。長野市は、長野県北部の都市で、同県の県庁所在地、中核市である。旧:上水内郡・更級郡・埴科郡・上高井郡。善光寺の門前町として有名である。
門前町としてのみならず、周辺の観光地への前線としても重要な位置を占める。善光寺門前町を中心とする旧長野町などは上水内郡に属していたが、現在の市域はその外、旧更級郡、埴科郡、上高井郡にまたがる。交通政策では「交通セル方式」の採用やコミュニティバス(ぐるりん号)の積極展開など特徴的な政策を持つ。1998年の冬季オリンピック競技大会(長野オリンピック及び長野パラリンピック)の開催地である。長野村という地名は、中世末期から見られるようである。現在の長野市大字長野に上長野・下長野、また大字西長野に西長野・袖長野・中長野という小字が残されており、「長野」とは現在の信州大学教育学部付近から善光寺参道付近にかけての緩傾斜地を呼んだ地名だと思われる。中世末から近世にかけての水内郡長野村は、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する。1601年(慶長6年)に、同郡箱清水村、七瀬村、及び三輪村の一部(間もなく平柴村に変更)とともに善光寺領とされた。
箱清水村は、1875年(明治8年)に長野町と合併、七瀬村は1876年(明治9年)に鶴賀村の一部となり鶴賀町を経て長野町へ、三輪村は1889年(明治22年)に三輪村、平柴村は1889年に安茂里村を経て、いずれも現在は長野市に属する。長野村のうち、善光寺南の参道は門前町として、また北国街道のルートとされたことから宿場町としても発展して市街地化(町場化)した。こうして市街地化した区域、および松代藩領でこれに隣接して同様に市街地化した妻科村(現長野市大字南長野)および権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のそれぞれ一部も含めて、町場全体の総称として善光寺町(または「善光寺宿」)という呼称が行われるようになった。その結果「長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内を除いた北西部の農村区域を指すものと理解されていた。しかし、検地帳上の公的な村名は、善光寺町の区域も含めて「長野村」であり、そのまま明治維新後に至った。
すなわち、「善光寺町」とは本来「長野村」の一部であり、明治になってから「善光寺町」が「長野村」と改称されたわけでもなく、「善光寺町」が「長野村」の旧称であったわけでもない。長野盆地は、長野県長野市を中心とした盆地。古くから善光寺平と呼ばれ、県歌「信濃の国」に歌われる「四つの平」の一つである。範囲は必ずしも明確ではないが、南から千曲市、長野市、須坂市、小布施町、高山村、飯綱町、中野市にかけて広がる千曲川の流域一帯のこととする解釈が一般的である。この地域の河川敷から扇状地にかけてはりんごや桃、河川敷の砂地地域はナガイモの産地としても知られる。南縁の千曲市の傾斜地(約25ha)は姨捨の棚田として有名。イネ(水稲)の田植え時期は、盆地周囲の山間地では 5月上旬頃で、盆地底部の遅いところでは 6月中旬から6月末に行われる。広義には飯山盆地を含めた北信地方(北安曇地域を含まない)の中央部の盆地全体を指すこともあるが、通常は「高井富士」とも呼ばれる高社山(中野市・木島平村)を境に以北を飯山盆地として分け、高社山以南を長野盆地とする。
しかし、飯山盆地もその構造や成因は高社山以南の長野盆地と共通した性格を持つ。南部の千曲川上流側の境界は明確ではないが、千曲市屋代付近より上流の狭窄部以北を指すのが妥当と思われる。
2011年9月9日金曜日
東信は、群馬県、埼玉県・山梨県に接しており
戦国時代には武田氏・織田氏・徳川氏・北条氏・真田氏の支配権に置かれてきた。中山道と北国街道の合流点であった歴史的経緯や北信と同様に長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、浅間山や碓氷峠を越えた群馬県、東京との交流も深い。 また、野辺山高原を経由する国道141号・小海線により繋がる山梨県との交流も深い。山梨県との間には、現在、中部横断自動車道が整備中である。 三国峠 (長野県・埼玉県)を経由して、埼玉県とも接しているが、道路事情が悪いため物流はほとんどない。 道路で雁坂峠の国道140号が開通する前には、碓氷峠 - 東信 - 山梨県 - 静岡県大井川以東のルートが、国道16号圏内を経由せずに関東地方内を迂回する最短ルートとなっていたために、関東志向が最も強い地域になっている。これらに対して、中央本線・飯田線・大糸線や中央自動車道・長野自動車道の沿線である中信と南信は、中山道、甲州街道、千国(ちくに)街道(糸魚川街道、松本街道)、北国西街道、三州街道沿線に当たる。
中信は、新潟県・富山県・岐阜県に接しており、戦国時代には小笠原氏・仁科氏・木曾氏を経て、武田氏・織田氏の支配権に置かれてきた。中山道、甲州街道、千国街道(糸魚川街道、松本街道)、三州街道の沿線であったことから、新潟県、岐阜県、山梨県、愛知県、東京都との交流が深い。北国西街道沿線には、長野自動車道が整備されており、長野地域と接続している。 中信地域の北部に位置する大北地域は、飛騨山脈のすぐ東側に位置しており、登山・スキーなどの観光が盛んで、日本最大規模の八方尾根スキー場があり、長野オリンピックの会場にもなった。観光客としては、関東地方からだけでなく関西地方からの観光客も多い。 また、国道147号・国道148号を経由して繋がる新潟県との交流もあり、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートにより富山県とも接している。 また、中信地域の中部に位置する松本地域(中信)は、諏訪地域(南信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃、飛騨)との交流が深い。
中信地域の南部に位置する木曽地域(中信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、歴史的に中世以前は美濃国に属し江戸時代には尾張藩領であったことや、国道19号(中山道)を通して、岐阜県・愛知県と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。一方、南信は、山梨県、静岡県、愛知県に接しており、戦国時代には諏訪氏・武田氏・織田氏・徳川氏の支配圏に置かれてきた。中山道、甲州街道、三州街道の沿線であったことから、山梨県、東京都、静岡県、愛知県との交流が深い。諏訪地域は、松本地域(中信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃)との交流が深い。 また、飯伊地域(南信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、中央自動車道・国道153号(三州街道、足助街道)を通して、岐阜県東濃地方・愛知県尾張・西三河地方と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。さらに、飯伊地域では、静岡県・愛知県東三河地方とも隣接しているが、道路事情が悪いため、物流が発達していない。
現在、三遠南信自動車道(飯田市 - 浜松市)を建設中であるが、全通するかは未定である。また、JR飯田線、国道151号線で、新城市・豊川市を経て豊橋市に出られる。水系は、北信・中信(松本地域、大北地域)・東信(一部を除く)が日本海側水系に属するのに対して、南信・中信(木曽地域)・東信(佐久市・立科町・南牧村の一部)は太平洋側水系に属している。長野県は古くから、中山道、北国街道、甲州街道など、国内を東西南北を結ぶ交通の交差点に位置し、その流れから現在においても主要幹線交通が交わる。また、広く山国の長野県において、県内各地を結ぶ交通網は重要な機能を担っている。関東地方や近畿地方からの距離があり、広大な面積を持つ県なので、JR本州3社全ての管轄路線が存在している。特に伊那谷と木曽郡は、首都圏(東京・鎌倉)と畿内(大阪・京都・奈良)から等距離に位置している。1990年代前半までは高速道路(長野自動車道・上信越自動車道)や新幹線(長野新幹線)が開通する前までは、地理的事情等で他県や関東等へのアクセスのしづらさから『陸の孤島』と呼ばれた時期があった。
長野県は以前は教育に熱心で「教育県」と呼ばれていたが、戦後数十年はそのイメージが薄れつつあった。しかし2002年度(平成14年度)より田中県政下において、公立小学校の30人規模学級が進められ、2005年度(平成17年度)には、小学校1 - 4年生の4学年にまたがる完全30人学級が、全額県の費用負担により全国で初めて実現した。また小学校5、6年生に関しては、市町村と共同で行われている。長期休みに関しては、長野県の気候の関係による「寒中休み」も一部の学校で実施されているが、冬休みや夏休みなどの長期休業が短いため、他の都道府県よりも年間休日数が少なく、その分多く学校に通っている。長野県の県立高校の正式名称は、高等学校設置条例(昭和39年12月28日長野県条例第64号)第2条により「長野県○○高等学校」となっており、「長野県立○○高等学校」といった「県立」の名称は用いない。長野県の県立普通科高校は私服通学(私服校)が多い。中学時代には、高山登山行事が長らく続いており、伝統がある。
教育における女性の発言力が強く、女子小・中・高生の体育でのブルマー採用を全国でいち早く廃止した。また現在は男子の短パンも姿を消し、県内の全ての小・中・高でハーフパンツを体操着に採用している。一方で女性の学校教員は少ない。長野県内のCATV局の数は山梨県・徳島県・佐賀県と同じく、全国平均から見てもとても多く、それに伴ってCATV加入者も長野県全世帯の半数を超え、局数も20局を優に超えている。これは、地理的な理由から長野県には山地が多く、このことによって難視聴地域が多く存在していたために、ケーブルテレビが発達したからである。民放が4局ある地域で、このように加入者が過半数に達することは珍しい。現在、長野県には民放が4局あるものの、長野県にCATVが発達して間もない当時は、民放の数が少なかった。そのために、難視聴地域解消という目的以外にも、県内における情報格差是正を目的に県内主要CATV各局は長野県域民放局の再送信に加え、在京民放キー局(木曽地域・下伊那地域では在名民放基幹局)の再送信(いわゆる区域外再送信)を実施。
結局、この在京キー局の区域外再送信は、県内に民放が4局開局した現在も続けられることになる。長野県のCATV加入者の大半は現在でも県域民放4局に加え、在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)または在名基幹局5局(東海テレビ・中京テレビ・CBC・メ〜テレ・テレビ愛知)の視聴が常時可能な状態になっている。ちなみに、CATV局によってはこの区域外再送信を30年以上も続けているところもある。
中信は、新潟県・富山県・岐阜県に接しており、戦国時代には小笠原氏・仁科氏・木曾氏を経て、武田氏・織田氏の支配権に置かれてきた。中山道、甲州街道、千国街道(糸魚川街道、松本街道)、三州街道の沿線であったことから、新潟県、岐阜県、山梨県、愛知県、東京都との交流が深い。北国西街道沿線には、長野自動車道が整備されており、長野地域と接続している。 中信地域の北部に位置する大北地域は、飛騨山脈のすぐ東側に位置しており、登山・スキーなどの観光が盛んで、日本最大規模の八方尾根スキー場があり、長野オリンピックの会場にもなった。観光客としては、関東地方からだけでなく関西地方からの観光客も多い。 また、国道147号・国道148号を経由して繋がる新潟県との交流もあり、山岳観光ルートの立山黒部アルペンルートにより富山県とも接している。 また、中信地域の中部に位置する松本地域(中信)は、諏訪地域(南信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃、飛騨)との交流が深い。
中信地域の南部に位置する木曽地域(中信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、歴史的に中世以前は美濃国に属し江戸時代には尾張藩領であったことや、国道19号(中山道)を通して、岐阜県・愛知県と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。一方、南信は、山梨県、静岡県、愛知県に接しており、戦国時代には諏訪氏・武田氏・織田氏・徳川氏の支配圏に置かれてきた。中山道、甲州街道、三州街道の沿線であったことから、山梨県、東京都、静岡県、愛知県との交流が深い。諏訪地域は、松本地域(中信)とともに中山道と甲州街道の沿線として発展した地域で、山梨県、東京都、岐阜県(東濃)との交流が深い。 また、飯伊地域(南信)は、広域の名古屋圏(中京圏)であり、中央自動車道・国道153号(三州街道、足助街道)を通して、岐阜県東濃地方・愛知県尾張・西三河地方と接続しているため、経済や文化の面で繋がりが深い。さらに、飯伊地域では、静岡県・愛知県東三河地方とも隣接しているが、道路事情が悪いため、物流が発達していない。
現在、三遠南信自動車道(飯田市 - 浜松市)を建設中であるが、全通するかは未定である。また、JR飯田線、国道151号線で、新城市・豊川市を経て豊橋市に出られる。水系は、北信・中信(松本地域、大北地域)・東信(一部を除く)が日本海側水系に属するのに対して、南信・中信(木曽地域)・東信(佐久市・立科町・南牧村の一部)は太平洋側水系に属している。長野県は古くから、中山道、北国街道、甲州街道など、国内を東西南北を結ぶ交通の交差点に位置し、その流れから現在においても主要幹線交通が交わる。また、広く山国の長野県において、県内各地を結ぶ交通網は重要な機能を担っている。関東地方や近畿地方からの距離があり、広大な面積を持つ県なので、JR本州3社全ての管轄路線が存在している。特に伊那谷と木曽郡は、首都圏(東京・鎌倉)と畿内(大阪・京都・奈良)から等距離に位置している。1990年代前半までは高速道路(長野自動車道・上信越自動車道)や新幹線(長野新幹線)が開通する前までは、地理的事情等で他県や関東等へのアクセスのしづらさから『陸の孤島』と呼ばれた時期があった。
長野県は以前は教育に熱心で「教育県」と呼ばれていたが、戦後数十年はそのイメージが薄れつつあった。しかし2002年度(平成14年度)より田中県政下において、公立小学校の30人規模学級が進められ、2005年度(平成17年度)には、小学校1 - 4年生の4学年にまたがる完全30人学級が、全額県の費用負担により全国で初めて実現した。また小学校5、6年生に関しては、市町村と共同で行われている。長期休みに関しては、長野県の気候の関係による「寒中休み」も一部の学校で実施されているが、冬休みや夏休みなどの長期休業が短いため、他の都道府県よりも年間休日数が少なく、その分多く学校に通っている。長野県の県立高校の正式名称は、高等学校設置条例(昭和39年12月28日長野県条例第64号)第2条により「長野県○○高等学校」となっており、「長野県立○○高等学校」といった「県立」の名称は用いない。長野県の県立普通科高校は私服通学(私服校)が多い。中学時代には、高山登山行事が長らく続いており、伝統がある。
教育における女性の発言力が強く、女子小・中・高生の体育でのブルマー採用を全国でいち早く廃止した。また現在は男子の短パンも姿を消し、県内の全ての小・中・高でハーフパンツを体操着に採用している。一方で女性の学校教員は少ない。長野県内のCATV局の数は山梨県・徳島県・佐賀県と同じく、全国平均から見てもとても多く、それに伴ってCATV加入者も長野県全世帯の半数を超え、局数も20局を優に超えている。これは、地理的な理由から長野県には山地が多く、このことによって難視聴地域が多く存在していたために、ケーブルテレビが発達したからである。民放が4局ある地域で、このように加入者が過半数に達することは珍しい。現在、長野県には民放が4局あるものの、長野県にCATVが発達して間もない当時は、民放の数が少なかった。そのために、難視聴地域解消という目的以外にも、県内における情報格差是正を目的に県内主要CATV各局は長野県域民放局の再送信に加え、在京民放キー局(木曽地域・下伊那地域では在名民放基幹局)の再送信(いわゆる区域外再送信)を実施。
結局、この在京キー局の区域外再送信は、県内に民放が4局開局した現在も続けられることになる。長野県のCATV加入者の大半は現在でも県域民放4局に加え、在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)または在名基幹局5局(東海テレビ・中京テレビ・CBC・メ〜テレ・テレビ愛知)の視聴が常時可能な状態になっている。ちなみに、CATV局によってはこの区域外再送信を30年以上も続けているところもある。
2011年9月8日木曜日
長野県は
本州内陸部に位置する日本の県の一つ。海に面しておらず内陸県である。面積は全国第4位だが、盆地・山が多いため、可住地面積では千葉県や愛知県と大差ない。かつての信濃国にほぼ相当する(旧神坂村・旧山口村が岐阜県中津川市に編入される等の微妙な差異はある)ので、「信州」(しんしゅう)と呼ばれることも多く、特に観光ガイドでは「信州」と呼ぶ。古代は、科野(しなの)と書いた。県庁所在地は長野市で、善光寺の門前町として発展し、第18回冬季オリンピックの開催地となった都市である。本州の中部に位置し、周囲8県に隣接する東西約128km、南北約220km、面積13,560.55km²、東西に短く南北に長い地形である。面積は、北海道を除く46都府県のうち、岩手県、福島県に次ぐ面積を持つ。これは東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の面積の合計に近い。長野県は群馬県・埼玉県・山梨県・静岡県・愛知県・岐阜県・富山県・新潟県と接し、日本で最も多くの都道府県と隣接する県でもある。中央部を高地が占める山地型の地形ではなく、むしろ北西の県境の飛騨山脈、南東の県境の赤石山脈の標高が高く、間の幾つかの盆地(伊那谷、松本盆地、佐久盆地、長野盆地など)を中心とした地域が形成されている。
大半は内陸部の気候(中央高地式気候)であるが、北部(長野盆地、白馬岳麓など)は日本海側の気候(日本海側気候)の特徴も有する。分水嶺が県の中央を走っているために、県内の南半分は太平洋側に近く飯伊地域の多くは東京都(伊豆諸島、小笠原諸島を除く)よりも南であり、県の最北端は那須塩原市やいわき市とほぼ同緯度である。自然が豊富であり、地域医療への関心も高いことから平均寿命も長く、世界一の長寿国日本の都道府県で一番の長寿を誇る。「日本の屋根」と呼ばれ、県境に標高2000m - 3000m級の高山が連なり、内部にも山岳が重なりあう急峻で複雑な地形である。数多の水源を擁し、天竜川(南信、諏訪湖を水源とし伊那谷を通る)、木曽川(中信)は南下して太平洋へ、千曲川(東信、北信)、犀川(中信)は長野市で合流して北上し、県境を越えて信濃川と名称を変えて日本海へ、姫川(中信)も日本海に流れている。長野県に流域をもつ一級河川としては、信濃川水系・天竜川水系・木曽川水系・姫川水系・矢作川水系・富士川水系・関川水系・利根川水系がある。
本州を縦断する糸魚川静岡構造線(糸静線)が県下を南北に走る。糸静線の東側は第三紀層が分布している。糸静線沿線の諏訪湖から中央構造線が南に走る。内陸側なので、気象など自然地理学では、中部地方の中央高地として分類される。長野県は内陸に位置するため、概ね内陸性気候だが、南北に長く、各都市の標高が異なり、更に山脈や盆地の形状などの気候修飾を受けるため、同じ県内であっても気候の違いがあるものの、全体的に冬の冷え込みは他の内陸県と比較しても厳しい。また夏は、長野市や松本市などの盆地部においては日中の気温は東京とほとんど変わらず、時には猛暑日になることもあるが、朝晩は涼しく、熱帯夜の発生する日は皆無に等しい。軽井沢、信濃町、志賀高原、菅平高原、八ヶ岳山麓、開田高原、野辺山高原、上高地などの標高が高い地域は、ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候 (Df) であり、通年で北海道なみの気候である。北信地方の大半と、中信地方・東信地方の一部は日本海側気候。
それ以外の地域は中央高地式気候である。降水量も地域差が大きく、県の東信から北信にかけては年間1000mm前後と少なめだが、中信から南信にかけては年間1500mmに達する。北信地方、中信地方、東信地方の一部地域は豪雪地帯または特別豪雪地帯である。県の南北で降雪条件が異なり、北部では西高東低の冬型、中部および南部は関東・東海地方で雪を降らせる南岸低気圧が通過する際に大雪を降らせ、県内では「かみゆき」と呼ばれている。南信地方の伊那谷は飯田市の旧南信濃村地域を除き雪は少ないが寒暖の差が激しい。長野県は就業率が高く、2005年度の国勢調査では(全)就業率 (61.3%) と高齢者就業率 (29.9%) がともに全国一であり、女性就業率 (51.1%) も全国第2位である。県内総生産は2005年度時点で名目が8兆1,992億円、実質(連鎖方式)が9兆4,066億円。精密機械(かつては時計や光学機器が主体であったが、1980年代以降情報通信機械器具、電子部品・デバイスなどに変化している。)
諏訪地域を中心に精密機械や電子産業が盛んであり、高地で気候が類似し、高級ブランド時計の本場であるスイスになぞらえ、「東洋のスイス」の異名を取ったこともある。法令系の企業が集積し、地方としては出版、印刷が多いことも特徴である。日本酒、ワインや味噌の醸造、飲料をはじめとする食料品製造業、農業では、高原野菜の栽培が盛んである。全域が中部電力のエリアになっている。中部電力を初め、東京電力、東北電力、関西電力、電源開発などの水力発電所がある。60Hzの電源周波数の区域が大半であるが、小諸市高峰高原、大町市の一部、小谷村の一部、松本市奈川、松本市安曇の一部、安曇野市穂高の中房温泉、飯山市の一部、栄村の一部などでは50Hzの区域もある。県企業局による発電事業として14の発電所があり、伊那市に南信発電管理事務所、長野市に北信発電管理事務所が設置されている。平成の市町村大合併は、他県ほど進捗せず、中小自治体が乱立する状況に変わりない。
ただし、広域連合制度が県内全市町村で活用されており、一部事務組合による広域行政も活発で、長野県においては特に合併推進をすべき事由はない。2005年には長野県から岐阜県へ越県合併の事例もあった。北信(北信地域、長野地域)、東信(佐久地域、上小地域)、中信(松本地域、木曽地域、大北地域)、南信(上伊那地域、飯伊地域、諏訪地域)の4地域は、自然地理や歴史や交通などの各面で、特徴が全く異なっている。これは、「信濃の国」(県歌)における「松本、伊那、佐久、善光寺」の4区分にも象徴されている。 大まかに分けると、北信、東信、中信、南信は、それぞれ長野県の北部、東部、西部、南部の地域となっており、北信と南信を除いて、4地域は互いに接している。長野新幹線・信越本線・飯山線・小海線や国道18号・上信越自動車道の沿線である北信と東信は、千曲川流域で主に中山道と北国街道沿線に当たる。北信は、新潟県・群馬県に接しており、戦国時代には村上氏・武田氏・織田氏・上杉氏の支配圏に置かれて来た。
善光寺街道沿いであった経緯や長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、新潟県、群馬県、東京との繋がりが深い。近年では、首都圏からの観光客も多く訪れている。また、中信とは長野自動車道・篠ノ井線により接続している。北信は、長野盆地を中心とした地域であり、新潟県に近いことから、海水浴で日本海へ行く者も多い。
大半は内陸部の気候(中央高地式気候)であるが、北部(長野盆地、白馬岳麓など)は日本海側の気候(日本海側気候)の特徴も有する。分水嶺が県の中央を走っているために、県内の南半分は太平洋側に近く飯伊地域の多くは東京都(伊豆諸島、小笠原諸島を除く)よりも南であり、県の最北端は那須塩原市やいわき市とほぼ同緯度である。自然が豊富であり、地域医療への関心も高いことから平均寿命も長く、世界一の長寿国日本の都道府県で一番の長寿を誇る。「日本の屋根」と呼ばれ、県境に標高2000m - 3000m級の高山が連なり、内部にも山岳が重なりあう急峻で複雑な地形である。数多の水源を擁し、天竜川(南信、諏訪湖を水源とし伊那谷を通る)、木曽川(中信)は南下して太平洋へ、千曲川(東信、北信)、犀川(中信)は長野市で合流して北上し、県境を越えて信濃川と名称を変えて日本海へ、姫川(中信)も日本海に流れている。長野県に流域をもつ一級河川としては、信濃川水系・天竜川水系・木曽川水系・姫川水系・矢作川水系・富士川水系・関川水系・利根川水系がある。
本州を縦断する糸魚川静岡構造線(糸静線)が県下を南北に走る。糸静線の東側は第三紀層が分布している。糸静線沿線の諏訪湖から中央構造線が南に走る。内陸側なので、気象など自然地理学では、中部地方の中央高地として分類される。長野県は内陸に位置するため、概ね内陸性気候だが、南北に長く、各都市の標高が異なり、更に山脈や盆地の形状などの気候修飾を受けるため、同じ県内であっても気候の違いがあるものの、全体的に冬の冷え込みは他の内陸県と比較しても厳しい。また夏は、長野市や松本市などの盆地部においては日中の気温は東京とほとんど変わらず、時には猛暑日になることもあるが、朝晩は涼しく、熱帯夜の発生する日は皆無に等しい。軽井沢、信濃町、志賀高原、菅平高原、八ヶ岳山麓、開田高原、野辺山高原、上高地などの標高が高い地域は、ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候 (Df) であり、通年で北海道なみの気候である。北信地方の大半と、中信地方・東信地方の一部は日本海側気候。
それ以外の地域は中央高地式気候である。降水量も地域差が大きく、県の東信から北信にかけては年間1000mm前後と少なめだが、中信から南信にかけては年間1500mmに達する。北信地方、中信地方、東信地方の一部地域は豪雪地帯または特別豪雪地帯である。県の南北で降雪条件が異なり、北部では西高東低の冬型、中部および南部は関東・東海地方で雪を降らせる南岸低気圧が通過する際に大雪を降らせ、県内では「かみゆき」と呼ばれている。南信地方の伊那谷は飯田市の旧南信濃村地域を除き雪は少ないが寒暖の差が激しい。長野県は就業率が高く、2005年度の国勢調査では(全)就業率 (61.3%) と高齢者就業率 (29.9%) がともに全国一であり、女性就業率 (51.1%) も全国第2位である。県内総生産は2005年度時点で名目が8兆1,992億円、実質(連鎖方式)が9兆4,066億円。精密機械(かつては時計や光学機器が主体であったが、1980年代以降情報通信機械器具、電子部品・デバイスなどに変化している。)
諏訪地域を中心に精密機械や電子産業が盛んであり、高地で気候が類似し、高級ブランド時計の本場であるスイスになぞらえ、「東洋のスイス」の異名を取ったこともある。法令系の企業が集積し、地方としては出版、印刷が多いことも特徴である。日本酒、ワインや味噌の醸造、飲料をはじめとする食料品製造業、農業では、高原野菜の栽培が盛んである。全域が中部電力のエリアになっている。中部電力を初め、東京電力、東北電力、関西電力、電源開発などの水力発電所がある。60Hzの電源周波数の区域が大半であるが、小諸市高峰高原、大町市の一部、小谷村の一部、松本市奈川、松本市安曇の一部、安曇野市穂高の中房温泉、飯山市の一部、栄村の一部などでは50Hzの区域もある。県企業局による発電事業として14の発電所があり、伊那市に南信発電管理事務所、長野市に北信発電管理事務所が設置されている。平成の市町村大合併は、他県ほど進捗せず、中小自治体が乱立する状況に変わりない。
ただし、広域連合制度が県内全市町村で活用されており、一部事務組合による広域行政も活発で、長野県においては特に合併推進をすべき事由はない。2005年には長野県から岐阜県へ越県合併の事例もあった。北信(北信地域、長野地域)、東信(佐久地域、上小地域)、中信(松本地域、木曽地域、大北地域)、南信(上伊那地域、飯伊地域、諏訪地域)の4地域は、自然地理や歴史や交通などの各面で、特徴が全く異なっている。これは、「信濃の国」(県歌)における「松本、伊那、佐久、善光寺」の4区分にも象徴されている。 大まかに分けると、北信、東信、中信、南信は、それぞれ長野県の北部、東部、西部、南部の地域となっており、北信と南信を除いて、4地域は互いに接している。長野新幹線・信越本線・飯山線・小海線や国道18号・上信越自動車道の沿線である北信と東信は、千曲川流域で主に中山道と北国街道沿線に当たる。北信は、新潟県・群馬県に接しており、戦国時代には村上氏・武田氏・織田氏・上杉氏の支配圏に置かれて来た。
善光寺街道沿いであった経緯や長野新幹線・上信越自動車道で接続していることから、新潟県、群馬県、東京との繋がりが深い。近年では、首都圏からの観光客も多く訪れている。また、中信とは長野自動車道・篠ノ井線により接続している。北信は、長野盆地を中心とした地域であり、新潟県に近いことから、海水浴で日本海へ行く者も多い。
2011年9月7日水曜日
JR東日本がスポンサーであるため
JR東日本管轄地域でのアウェーゲームにおいて、団体臨時列車「ジェフ千葉応援号」を運行することがある。これは往復の指定席乗車券と観戦チケットをセットとした旅行商品として販売される。まず千葉市にかけあったが断られたため、JR東日本の関係から仙台市に話を持っていったがまた断られた。そして、習志野市を本拠地にすることを計画し、ホームスタジアムは習志野市秋津公園サッカー場を予定していた。そのためホームタウンが決定する以前の1991年からクラブ事務所と練習場は、距離的にも習志野市に近く、古河電工の事業所が置かれていた浦安市舞浜地区に置いていた。ところが秋津サッカー場周辺の住民が騒音の問題などを危惧してホームタウンとすることに反対したため、習志野市議会の同意を得る事が不可能となり、ホームスタジアム探しは振り出しに戻った。千葉県下において次の候補地となったのが同じく古河電工の事業所が設置されており、古河電工の社宅など関連施設が多く存在していた市原市である。
市原市議会からの賛同を得て、正式にホームタウンとしてJリーグに登録できたのは締め切り直前の1992年5月だった。ホームスタジアムはそれまで市営の陸上競技場としてこじんまりと使用されていた市原臨海競技場を突貫工事で改修して使用することになった。なお、1992年のJリーグカップでは千葉県内での主催は1試合も無く、群馬県の太田市陸上競技場、平塚競技場、及び国立西が丘サッカー場で開催された。2009年シーズンは、J1残留の立役者、ミラー監督の続投が正式に発表され、深井も鹿島から完全移籍で獲得し、他チームへの移籍も噂された巻も残留。新たな戦力として、柏からアレックスを、清水から和田拓三を完全移籍で獲得。さらに、鹿島から中後雅喜を、大分から福元洋平を期限付き移籍で獲得するなど、前年とは違い積極的な補強を行ったが、登録選手数はJ1最少。またクラブ事務所・練習所も市原市から千葉市に完全集約され、前述どおり法人名を「東日本JR古河サッカークラブ」からチーム名と同じ「ジェフユナイテッド」に変更された。
リーグ戦開幕後、勝ち切れない試合が多く、また前述の選手層の薄さと怪我人の続出でベンチメンバーさえ不足したことも。そのため、ブラジルのECヴィトーリアからFWネット・バイアーノ、柏レイソルから太田圭輔をシーズン半ばに獲得・補強した。また、同年7月27日に成績不振を理由にミラー監督を解任。後任には生え抜きの江尻篤彦が就任するとともに、コーチ陣が一新された。しかし、守備が少しずつ改善した半面、攻撃が巻頼みで、期待のFWネットバイアーノも、プレースタイルが巻と重複するという理由でレギュラー起用にはならず、得点力が低下。その後も成績不振が続き、ついに11月8日の川崎戦で敗れてJ2降格が決定し、前身の日本リーグ時代を含めて初となる2部リーグ落ちとなった。なおこの後11月28日に柏がJ2降格となったため、千葉勢はJリーグ創設18年でJ1から姿を消すことになった。同一都道府県のチームが2チーム降格するのはJリーグ史上初である。また、ジェフの降格をもって、丸の内御三家は全てJ2降格を経験することとなった。
2002年のシーズン開幕の直前、クラブは千葉市蘇我地区の川崎製鉄(現・JFEスチール)工場跡地に建設される千葉市総合スポーツ公園球技場(現在のフクダ電子アリーナ)を完成後市原臨海競技場と併用してホームスタジアムとして使用する方針である旨発表した。これには、蘇我地区の目玉となる施設を建設したいためそれを継続して使用してくれる団体を求めていた千葉市と、スタジアム環境の改善を図って観客増を狙いたいジェフユナイテッド市原との間の利害の一致があった。クラブは2003年から「千葉」を加えた新クラブ名のあり方の検討を始めた。この年にサポーターを対象としたアンケートを実施し、その結果、2004年に次のシーズンから新クラブ名を「ジェフユナイテッド市原・千葉」、呼称を「ジェフユナイテッド千葉」とリリースした。一方、新名称が検討されるのに前後して、市原市はホームタウンの軸足が完全に千葉市にシフトされる事を懸念し始めた。市原市も2003年の春頃から市原臨海競技場のサイドスタンド及びバックスタンドの改修工事を検討し始め、そのプランも発表されたが、後にこのプランはバックスタンドのみに縮小された。
市原臨海競技場の改修工事は2003年シーズンの終了直前から始められ、2004年シーズンの1stステージ中盤まで続けられた。しかしこのシーズンの開幕直前に新チーム名の呼称を「ジェフユナイテッド千葉」に変更する意向であることを市原市との事前協議の約束を反故にし、突如通告。市原市はクラブ側のやり方を批判し、クラブへ抗議文書を送付。呼称に「市原・千葉」の併記を要望した。市原市では態度の硬化がはじまり呼称も「ジェフユナイテッド市原・千葉」にするように求めて2万人の署名が集められた。結局、呼称問題についてはJリーグ側からの留保期間が設けられたものの、2004年5月18日に最終的にJリーグ理事会から承認され、新チーム名と呼称については2005年2月1日より使用が開始された。改称後、マスコミ等による呼称に関しては市原市が危惧した通り、専ら「千葉」のみが使われる傾向にある。サポーターが唄う応援ソングの中にも「千葉」とコールするものがある。ホームタウンを構成する市原市と千葉市でもそれぞれで呼称の使い方が異なり、広報資料などでも市原市は「ジェフユナイテッド市原・千葉」の表記で統一しているのに対し、千葉市では「ジェフユナイテッド千葉」で統一している。
KAIENTAI-DOJOとは、プロレスラーのTAKAみちのくがWWF(現:WWE)から凱旋帰国したのを期に千葉県に発足させた日本のプロレス団体、および団体の常設会場である「千葉Blue Field」の旧名称である。道場も兼ねている。主に「K-DOJO」と略記される。KAIENTAI-DOJOの道場兼、常設会場。リングはもちろん音響や照明、映像設備、シャワー室、トイレ、トレーニング装置を完備し、選手寮も兼ねており道場犬大鉄は会場横の犬小屋に住んでいる。一般レンタルも行われており主に他団体の興行等に利用されているが、テレビ番組の撮影やNHKのラジオの収録なども行われたことがある。尚、2008年に同会場で発生した金村キンタローの強制猥褻事件の現場となった影響で、同年から2010年8月1日(FREEDOMS千葉大会)に再開されるまでプロレス他団体への貸出を中止していた。会場へはJR千葉駅下車、東口バスターミナルよりNo.1大宮団地行きもしくはNo.10「成東・中野操車場方面」行きバスに乗車し「旭町」バス停下車。
KAIENTAI-DOJOから徒歩1分の中華料理屋。試合終了後の味方冬樹とトミー茨城の「ときわ苑集会」が行われていた。店内には数多くのプロレスラーのポートレートが貼られており、伝説のレスラー「カウボーイビリー」の貴重なサインを見る為にここを訪れるファンは後を絶たない。TAKAみちのくは五目チャーハンや天津飯が好みである(ラーメンに関しては「マズイ」とコメントしていたが、蝶野正洋と対談した際に蝶野がラーメンを食べていた際には「気に入ってくれてよかった」と発言していた)。同団体パンフレットでも紹介され、KAZMAの専門誌でのインタビューの際は同店前での写真が掲載された。2010年4月19日にJR稲毛海岸駅前にオープンしたKAIENTAI-DOJOプロデュースの飲食店。店長にはマリーンズマスクが就任。主にKAIENTAI-DOJO所属のレスラーがイベントを行うほか、千葉ロッテマリーンズの試合日には関連イベントが開催されることもある。 期間限定営業だったため、現在は閉店。
千葉ジェッツは、2011年より日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)に参加するプロバスケットボールチーム。千葉県初のプロバスケットボールチーム。運営会社は株式会社ASPE(ARENA SPORTS PROMOTION & EDUCATIONの略)である。チーム名の千葉ジェッツ(CHIBA JETS)とは、成田国際空港の象徴とも言えるジェット機に由来しており、世界に向けて飛躍するチームになるという想いも込められている。それまで県内では、千葉エクスドリームスがbjリーグ参入を目指してきたが、今後はジェッツのサテライトチームとして活動する。2010年3月1日、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)参入を目指して、千葉プロバスケットボールチーム準備委員会を設立。3月31日、bjリーグへ正式に参入申請を行う。その後、リーグの審査を経て、8月26日に2011-12シーズンよりのbjリーグ新規参入が正式決定する。9月17日、チーム運営会社「株式会社ASPE」を設立。11月25日、一般公募により決定したチーム名の「千葉ジェッツ」(命名、鎌ケ谷市の会社員)やチームロゴなどを発表する。
市原市議会からの賛同を得て、正式にホームタウンとしてJリーグに登録できたのは締め切り直前の1992年5月だった。ホームスタジアムはそれまで市営の陸上競技場としてこじんまりと使用されていた市原臨海競技場を突貫工事で改修して使用することになった。なお、1992年のJリーグカップでは千葉県内での主催は1試合も無く、群馬県の太田市陸上競技場、平塚競技場、及び国立西が丘サッカー場で開催された。2009年シーズンは、J1残留の立役者、ミラー監督の続投が正式に発表され、深井も鹿島から完全移籍で獲得し、他チームへの移籍も噂された巻も残留。新たな戦力として、柏からアレックスを、清水から和田拓三を完全移籍で獲得。さらに、鹿島から中後雅喜を、大分から福元洋平を期限付き移籍で獲得するなど、前年とは違い積極的な補強を行ったが、登録選手数はJ1最少。またクラブ事務所・練習所も市原市から千葉市に完全集約され、前述どおり法人名を「東日本JR古河サッカークラブ」からチーム名と同じ「ジェフユナイテッド」に変更された。
リーグ戦開幕後、勝ち切れない試合が多く、また前述の選手層の薄さと怪我人の続出でベンチメンバーさえ不足したことも。そのため、ブラジルのECヴィトーリアからFWネット・バイアーノ、柏レイソルから太田圭輔をシーズン半ばに獲得・補強した。また、同年7月27日に成績不振を理由にミラー監督を解任。後任には生え抜きの江尻篤彦が就任するとともに、コーチ陣が一新された。しかし、守備が少しずつ改善した半面、攻撃が巻頼みで、期待のFWネットバイアーノも、プレースタイルが巻と重複するという理由でレギュラー起用にはならず、得点力が低下。その後も成績不振が続き、ついに11月8日の川崎戦で敗れてJ2降格が決定し、前身の日本リーグ時代を含めて初となる2部リーグ落ちとなった。なおこの後11月28日に柏がJ2降格となったため、千葉勢はJリーグ創設18年でJ1から姿を消すことになった。同一都道府県のチームが2チーム降格するのはJリーグ史上初である。また、ジェフの降格をもって、丸の内御三家は全てJ2降格を経験することとなった。
2002年のシーズン開幕の直前、クラブは千葉市蘇我地区の川崎製鉄(現・JFEスチール)工場跡地に建設される千葉市総合スポーツ公園球技場(現在のフクダ電子アリーナ)を完成後市原臨海競技場と併用してホームスタジアムとして使用する方針である旨発表した。これには、蘇我地区の目玉となる施設を建設したいためそれを継続して使用してくれる団体を求めていた千葉市と、スタジアム環境の改善を図って観客増を狙いたいジェフユナイテッド市原との間の利害の一致があった。クラブは2003年から「千葉」を加えた新クラブ名のあり方の検討を始めた。この年にサポーターを対象としたアンケートを実施し、その結果、2004年に次のシーズンから新クラブ名を「ジェフユナイテッド市原・千葉」、呼称を「ジェフユナイテッド千葉」とリリースした。一方、新名称が検討されるのに前後して、市原市はホームタウンの軸足が完全に千葉市にシフトされる事を懸念し始めた。市原市も2003年の春頃から市原臨海競技場のサイドスタンド及びバックスタンドの改修工事を検討し始め、そのプランも発表されたが、後にこのプランはバックスタンドのみに縮小された。
市原臨海競技場の改修工事は2003年シーズンの終了直前から始められ、2004年シーズンの1stステージ中盤まで続けられた。しかしこのシーズンの開幕直前に新チーム名の呼称を「ジェフユナイテッド千葉」に変更する意向であることを市原市との事前協議の約束を反故にし、突如通告。市原市はクラブ側のやり方を批判し、クラブへ抗議文書を送付。呼称に「市原・千葉」の併記を要望した。市原市では態度の硬化がはじまり呼称も「ジェフユナイテッド市原・千葉」にするように求めて2万人の署名が集められた。結局、呼称問題についてはJリーグ側からの留保期間が設けられたものの、2004年5月18日に最終的にJリーグ理事会から承認され、新チーム名と呼称については2005年2月1日より使用が開始された。改称後、マスコミ等による呼称に関しては市原市が危惧した通り、専ら「千葉」のみが使われる傾向にある。サポーターが唄う応援ソングの中にも「千葉」とコールするものがある。ホームタウンを構成する市原市と千葉市でもそれぞれで呼称の使い方が異なり、広報資料などでも市原市は「ジェフユナイテッド市原・千葉」の表記で統一しているのに対し、千葉市では「ジェフユナイテッド千葉」で統一している。
KAIENTAI-DOJOとは、プロレスラーのTAKAみちのくがWWF(現:WWE)から凱旋帰国したのを期に千葉県に発足させた日本のプロレス団体、および団体の常設会場である「千葉Blue Field」の旧名称である。道場も兼ねている。主に「K-DOJO」と略記される。KAIENTAI-DOJOの道場兼、常設会場。リングはもちろん音響や照明、映像設備、シャワー室、トイレ、トレーニング装置を完備し、選手寮も兼ねており道場犬大鉄は会場横の犬小屋に住んでいる。一般レンタルも行われており主に他団体の興行等に利用されているが、テレビ番組の撮影やNHKのラジオの収録なども行われたことがある。尚、2008年に同会場で発生した金村キンタローの強制猥褻事件の現場となった影響で、同年から2010年8月1日(FREEDOMS千葉大会)に再開されるまでプロレス他団体への貸出を中止していた。会場へはJR千葉駅下車、東口バスターミナルよりNo.1大宮団地行きもしくはNo.10「成東・中野操車場方面」行きバスに乗車し「旭町」バス停下車。
KAIENTAI-DOJOから徒歩1分の中華料理屋。試合終了後の味方冬樹とトミー茨城の「ときわ苑集会」が行われていた。店内には数多くのプロレスラーのポートレートが貼られており、伝説のレスラー「カウボーイビリー」の貴重なサインを見る為にここを訪れるファンは後を絶たない。TAKAみちのくは五目チャーハンや天津飯が好みである(ラーメンに関しては「マズイ」とコメントしていたが、蝶野正洋と対談した際に蝶野がラーメンを食べていた際には「気に入ってくれてよかった」と発言していた)。同団体パンフレットでも紹介され、KAZMAの専門誌でのインタビューの際は同店前での写真が掲載された。2010年4月19日にJR稲毛海岸駅前にオープンしたKAIENTAI-DOJOプロデュースの飲食店。店長にはマリーンズマスクが就任。主にKAIENTAI-DOJO所属のレスラーがイベントを行うほか、千葉ロッテマリーンズの試合日には関連イベントが開催されることもある。 期間限定営業だったため、現在は閉店。
千葉ジェッツは、2011年より日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)に参加するプロバスケットボールチーム。千葉県初のプロバスケットボールチーム。運営会社は株式会社ASPE(ARENA SPORTS PROMOTION & EDUCATIONの略)である。チーム名の千葉ジェッツ(CHIBA JETS)とは、成田国際空港の象徴とも言えるジェット機に由来しており、世界に向けて飛躍するチームになるという想いも込められている。それまで県内では、千葉エクスドリームスがbjリーグ参入を目指してきたが、今後はジェッツのサテライトチームとして活動する。2010年3月1日、日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)参入を目指して、千葉プロバスケットボールチーム準備委員会を設立。3月31日、bjリーグへ正式に参入申請を行う。その後、リーグの審査を経て、8月26日に2011-12シーズンよりのbjリーグ新規参入が正式決定する。9月17日、チーム運営会社「株式会社ASPE」を設立。11月25日、一般公募により決定したチーム名の「千葉ジェッツ」(命名、鎌ケ谷市の会社員)やチームロゴなどを発表する。
2011年9月6日火曜日
JR千葉硬式野球部は
千葉県千葉市に本拠地を置き、日本野球連盟に所属する社会人野球チームである。チームの歴史は古く、1921年には千葉鉄道管理局硬式野球部が存在していた(ただし、連盟への登録は1927年)。1987年の国鉄民営化に伴い、全国に点在していた鉄道管理局チームは各会社ごとのチームに吸収されていき、千葉チームも日本野球連盟から脱退している。しかし、2002年に、純粋な社内のクラブ活動として続けられてきた野球部を、公式戦につなげたいとの機運が高まり、クラブチームとして日本野球連盟に「JR千葉支社硬式野球クラブ」として新規登録された。その一方で、本社支援を受けられなくとも企業チームとして活動している盛岡、秋田、水戸の3チームの活動に刺激を受け、千葉でも企業チーム登録を、との声が上がり、2007年シーズンからチーム名を「JR千葉支社硬式野球クラブ」から「JR千葉硬式野球部」に改称し、登録もクラブチームから企業チームに変更された。かつて千葉県内ではJFE東日本、かずさマジックに次ぐ3番手として活躍していたが、最近では新興チームであるサウザンリーフ市原、千葉熱血MAKINGにその座を脅かされている。
千葉熱血MAKINGは、千葉県市川市を本拠地とし、日本野球連盟に登録する社会人野球のクラブチームである。俳優で元国会議員の森田健作が、2005年12月にクラブチーム設立を発表、2006年1月に選抜を行い、同2月に日本野球連盟への加盟が認められ、YBCフェニーズとともに千葉県野球連盟第8(第9)のチームとして正式に誕生した。森田は総監督に就任(後に名誉監督)、常設の応援団長に千葉県に本籍を持つテレビ演出家のテリー伊藤(後に横浜ベイブルース総監督に就任)、マスコットガールに千葉県出身のタレントの小野真弓、総監督付特別補佐官に森田と交友がある俳優の京本政樹を起用したチームとなっている。加盟初年度の都市対抗・クラブ選手権千葉県1次予選で4位となり、クラブ2位でクラブ選手権南関東2次予選に進出する快進撃を見せたが、そのさなかに若生監督・本西ヘッドコーチらがチーム運営の意見の食い違いから退団、またチームの柱として期待された中村隼人投手(元日本ハムほか)も台湾プロ野球挑戦のため退団するなど、チームの今後が不安視される事態となった。
2008年、森田は名誉監督に就任。監督として河野和洋(明徳義塾高~専修大学~サムライ・ベアーズ)が就任し、チームの編成・指導を行っている。背番号は55番である。ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッドいちはら・ちば、JEF United Ichihara Chiba)は、日本の千葉県市原市および千葉市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。略称は「ジェフユナイテッド千葉」、または「ジェフ千葉」、「千葉」である。旧呼称は、「ジェフユナイテッド市原」または「ジェフ市原」。1993年の開幕時からJリーグに参加。ホームタウンは千葉県市原市、2003年から千葉市が加わった。ホームスタジアムはリーグ開幕時から2005年シーズン途中まで市原緑地運動公園臨海競技場、2005年シーズンの途中からフクダ電子アリーナに代わった。練習場は2000年から市原市の姉崎公園サッカー場を使用していたが、2009年10月よりフクダ電子アリーナに隣接するユナイテッドパークに移動した。またクラブハウスも同地に新築している。
クラブの運営会社はジェフユナイテッド株式会社(株式会社 東日本ジェイアール古河サッカークラブより2009年10月1日改名)。東日本旅客鉄道(JR東日本)と古河電気工業(古河電工)が50%ずつ出資(資本金:4.9億円)。なお、2008年までは1億円であったが、2009年秋に完成予定のクラブハウス建設費調達などの関係から、2009年に増額された。クラブ名のJEFは、クラブの母体となったJR East(=JR東日本) Furukawa(=古河)の略称からとられ、UNITED(ユナイテッド=結束した)はクラブとホームタウンの結びつき、結束力を示し、2005年から千葉市を含めた地域との結びつきも含むようになった。1991年に公募により決定される。マスコットは秋田犬の兄弟。背番号2を付けているのがジェフィ(兄)、背番号9を付けているのがユニティ(弟)である。ちなみに両マスコットの背番号は足すと11で、1つのチームを示すものである。2011年9月には雌のミックス犬「みなちゃん」がマスコットに加わった(背番号は12)。
チームスローガンは2001年以来「WIN BY ALL!」。ほとんどの他クラブが1年ごとにチームスローガンを設定しなおす中、このスローガンを使用し続けている。 「WIN BY ALL!」は、千葉テレビ放送で2009年4月-2010年3月に放送されていた応援番組のタイトルでもあった(現在は「ジェフ魂12Returns」)。ジュニアユースチームは市原市の辰巳台地区と習志野市の茜浜地区にあったが、2010年より統合された、その代わり前述の2か所のほか千葉市、浦安市でサッカースクールを運営している。千葉県外ではこの他に、栃木県宇都宮市、青森県八戸市にサッカースクールを所有している。また宮城県名取市の東北電力名取スポーツパーク(NASPA)と提携してNASPAスクールの運営も行っている。これはジェフがJリーグ発足当初、市原市を中心とし、JR東日本沿線の東北、関東、甲信越の各地域を広域的にネットワークする構想を持っていたことの名残りである。実際、秋田、仙台、山形、新潟と、古河電工の事業所がある福井でホームゲームを開催した実績がある。
またスクールのデリバリー版として「サッカーおとどけ隊」が主に市原市、千葉市内の保育園・幼稚園・小学校・中学校くらいまでを範囲として訪問している。また千葉大学と提携して指導者向けの講習も行っている。下部・関連組織としてアマチュアチームとなる「ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ」がある。このチームは市原市民が1995年に立ち上げ、元々人材交流のあったアマチュアクラブチームの「市原スポーツ・クラブ」を2000年よりジェフの普及部付けとして改組したもので、2003年からはクラブの名称を冠して「ジェフユナイテッド市原アマチュア」(当時)を名乗っている。こうした下部チームの形態はヨーロッパでは珍しくはない。アマチュアチームの立ち上げ以降日本フットボールリーグへの参加を目指し、2005年に関東サッカーリーグ1部で準優勝、さらに全国地域リーグ決勝大会では準優勝を果たし、日本フットボールリーグへの昇格を果たした。女子チームとしてジェフユナイテッド市原・千葉レディースがある。
レディースチームは当初(1992年)からジェフの下部組織として運営されている。廃部される例が少なくない日本の女子サッカーチームとしては、かなり息の長い存在となっている。
千葉熱血MAKINGは、千葉県市川市を本拠地とし、日本野球連盟に登録する社会人野球のクラブチームである。俳優で元国会議員の森田健作が、2005年12月にクラブチーム設立を発表、2006年1月に選抜を行い、同2月に日本野球連盟への加盟が認められ、YBCフェニーズとともに千葉県野球連盟第8(第9)のチームとして正式に誕生した。森田は総監督に就任(後に名誉監督)、常設の応援団長に千葉県に本籍を持つテレビ演出家のテリー伊藤(後に横浜ベイブルース総監督に就任)、マスコットガールに千葉県出身のタレントの小野真弓、総監督付特別補佐官に森田と交友がある俳優の京本政樹を起用したチームとなっている。加盟初年度の都市対抗・クラブ選手権千葉県1次予選で4位となり、クラブ2位でクラブ選手権南関東2次予選に進出する快進撃を見せたが、そのさなかに若生監督・本西ヘッドコーチらがチーム運営の意見の食い違いから退団、またチームの柱として期待された中村隼人投手(元日本ハムほか)も台湾プロ野球挑戦のため退団するなど、チームの今後が不安視される事態となった。
2008年、森田は名誉監督に就任。監督として河野和洋(明徳義塾高~専修大学~サムライ・ベアーズ)が就任し、チームの編成・指導を行っている。背番号は55番である。ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッドいちはら・ちば、JEF United Ichihara Chiba)は、日本の千葉県市原市および千葉市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。略称は「ジェフユナイテッド千葉」、または「ジェフ千葉」、「千葉」である。旧呼称は、「ジェフユナイテッド市原」または「ジェフ市原」。1993年の開幕時からJリーグに参加。ホームタウンは千葉県市原市、2003年から千葉市が加わった。ホームスタジアムはリーグ開幕時から2005年シーズン途中まで市原緑地運動公園臨海競技場、2005年シーズンの途中からフクダ電子アリーナに代わった。練習場は2000年から市原市の姉崎公園サッカー場を使用していたが、2009年10月よりフクダ電子アリーナに隣接するユナイテッドパークに移動した。またクラブハウスも同地に新築している。
クラブの運営会社はジェフユナイテッド株式会社(株式会社 東日本ジェイアール古河サッカークラブより2009年10月1日改名)。東日本旅客鉄道(JR東日本)と古河電気工業(古河電工)が50%ずつ出資(資本金:4.9億円)。なお、2008年までは1億円であったが、2009年秋に完成予定のクラブハウス建設費調達などの関係から、2009年に増額された。クラブ名のJEFは、クラブの母体となったJR East(=JR東日本) Furukawa(=古河)の略称からとられ、UNITED(ユナイテッド=結束した)はクラブとホームタウンの結びつき、結束力を示し、2005年から千葉市を含めた地域との結びつきも含むようになった。1991年に公募により決定される。マスコットは秋田犬の兄弟。背番号2を付けているのがジェフィ(兄)、背番号9を付けているのがユニティ(弟)である。ちなみに両マスコットの背番号は足すと11で、1つのチームを示すものである。2011年9月には雌のミックス犬「みなちゃん」がマスコットに加わった(背番号は12)。
チームスローガンは2001年以来「WIN BY ALL!」。ほとんどの他クラブが1年ごとにチームスローガンを設定しなおす中、このスローガンを使用し続けている。 「WIN BY ALL!」は、千葉テレビ放送で2009年4月-2010年3月に放送されていた応援番組のタイトルでもあった(現在は「ジェフ魂12Returns」)。ジュニアユースチームは市原市の辰巳台地区と習志野市の茜浜地区にあったが、2010年より統合された、その代わり前述の2か所のほか千葉市、浦安市でサッカースクールを運営している。千葉県外ではこの他に、栃木県宇都宮市、青森県八戸市にサッカースクールを所有している。また宮城県名取市の東北電力名取スポーツパーク(NASPA)と提携してNASPAスクールの運営も行っている。これはジェフがJリーグ発足当初、市原市を中心とし、JR東日本沿線の東北、関東、甲信越の各地域を広域的にネットワークする構想を持っていたことの名残りである。実際、秋田、仙台、山形、新潟と、古河電工の事業所がある福井でホームゲームを開催した実績がある。
またスクールのデリバリー版として「サッカーおとどけ隊」が主に市原市、千葉市内の保育園・幼稚園・小学校・中学校くらいまでを範囲として訪問している。また千葉大学と提携して指導者向けの講習も行っている。下部・関連組織としてアマチュアチームとなる「ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ」がある。このチームは市原市民が1995年に立ち上げ、元々人材交流のあったアマチュアクラブチームの「市原スポーツ・クラブ」を2000年よりジェフの普及部付けとして改組したもので、2003年からはクラブの名称を冠して「ジェフユナイテッド市原アマチュア」(当時)を名乗っている。こうした下部チームの形態はヨーロッパでは珍しくはない。アマチュアチームの立ち上げ以降日本フットボールリーグへの参加を目指し、2005年に関東サッカーリーグ1部で準優勝、さらに全国地域リーグ決勝大会では準優勝を果たし、日本フットボールリーグへの昇格を果たした。女子チームとしてジェフユナイテッド市原・千葉レディースがある。
レディースチームは当初(1992年)からジェフの下部組織として運営されている。廃部される例が少なくない日本の女子サッカーチームとしては、かなり息の長い存在となっている。
2011年9月5日月曜日
2007年にも1シーズンに2度の胴上げを許した例がある。
9月29日、首位の北海道日本ハムファイターズがロッテを対象にマジック「2」として迎えた直接対決(千葉マリン)は、試合中盤までは両先発が投げ合う投手戦だったものの、9回には日本ハムに打者一巡の猛攻を浴びて大量6点を献上するなど結局1-9と大敗し、日本ハムの2年連続リーグ優勝が決定、胴上げ阻止はならなかった。レギュラーシーズンは日本ハム以下、2位がロッテ、3位が福岡ソフトバンクという結果に終わり、ロッテはクライマックスシリーズ(CS)第1ステージ(千葉マリン)で1勝1敗から第3戦を制してソフトバンクを下し、同第2ステージに進出、リベンジを期すべく再び日本ハムと対戦した。その第2ステージ(札幌ドーム)も2勝2敗の五分として、10月18日の第5戦にもつれ込む展開となった。先発は日本ハムがダルビッシュ有、ロッテが成瀬善久の両エースとあって投手戦が予想されたものの、成瀬は前半4失点と不調で4回で降板。対照的にダルビッシュは7回途中まで1失点と好投した。ロッテは中盤以降1点ずつ返したものの及ばず、結局2-6で敗戦。ロッテはレギュラーシーズンに続いてCSでもファイターズの前に散り、胴上げを1シーズンに2度も見る結果に終わっている。だが胴上げや一連のセレモニーの後、両チームがフィールド上で互いに健闘を讃え合うシーンがあり、大きな反響を呼んだ。ロッテは1992年11月29日に千葉マリンスタジアムで行われたファン感謝デーで、たけし軍団と草野球の親善試合で対戦した。たけし軍団は前年の1991年11月23日に阪神甲子園球場で行われた阪神のファン感謝デーで、草野球の親善試合で対戦し4-2で勝利し、大きく話題となる。翌年1992年の阪神はシーズン終盤にヤクルト、巨人と激しい優勝争いを繰り広げるなど2位に躍進した。2005年の開幕2連戦、ロッテは同年新規参入した新球団東北楽天ゴールデンイーグルスを地元・千葉マリンに迎えて対戦した。開幕戦となった3月26日の1回戦は0-1の完封負けを喫し、東北楽天に球団初白星を献上。だが翌3月27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては東北楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。ロッテはファンサービスの一環として、2007年シーズンに本拠地・千葉マリンスタジアムでの試合中(主に8回裏の攻撃前)、シンガーソングライター・渡辺真知子の『かもめが翔んだ日』を場内で演奏していた。ロッテは前日の6月10日、広島先発のコルビー・ルイスに苦しめられるなど11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに、試合後のボビー・バレンタイン監督は「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。一方、大量失点を喫して敗れた広島のマーティ・ブラウン監督は「まるでラグビーだね」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だ」と悔しさをにじませていた。球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、8月1日から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。前述の記録のうち、1イニング連続打数安打はこのわずか3日後、6月14日に東京ヤクルトスワローズが対オリックス・バファローズ4回戦(京セラドーム大阪)の5回表に11打数連続安打を記録して更新している。なお、前者のロッテは連続打数安打は10だが、連続打席では6者連続(この他四死球を挟んで2者連続が2度)。後者の東京ヤクルトも連続打数安打はプロ野球記録の11だが、連続打席では当時プロ野球タイ記録(通算8度目)の9者連続で、いずれも四死球を挟んで記録されたものである。また交流戦におけるチーム20以上の得点は、同じくロッテが2010年5月12日の対東京ヤクルトスワローズ2回戦(千葉マリン)で20得点、オリックス・バファローズが同年6月7日の対広島東洋カープ4回戦(福山市民球場)で21得点を挙げており、通算3回記録されている。パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦が出来る状況になっている。各球団が様々な形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た(なお、GyaOでの放送は、日本国外からは視聴不能)。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。また、NTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。JCN千葉制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内のJCNグループのケーブルテレビ局(千葉・船橋習志野・市川・コアラ葛飾のJCNプラスチャンネルで放送されている。千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「ロッテレビ~マリーンズフリークス~」。タイトルの由来は、"マリーンズ一筋""マリーンズ命"などの意味から生まれた『マリーンズ狂』を示す。番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する『ロングインタビュー』や『マークンファミリーの取材』『球団主催行事取材』など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。またゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子。2010年4月10日からTwellVにて放映されている、少年野球向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年4月4日からフジテレビジョンにて東京ヤクルトスワローズが制作協力にあたっている「スワローズキッズアカデミー」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている武藤一邦・高沢秀昭・園川一美・平井光親の他、現役のロッテ選手も登場を予定している。 司会進行はこなつ。
2011年9月4日日曜日
千葉ロッテマリーンズとなった1992年に
チームのイメージカラーとしてピンクが登場、球団旗・ペットマーク・ユニフォームに採用された。明るいパステル調のこのピンクは「サンライズピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義づけられた。ところが、1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、先述の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』221ページに、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。
また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるため更なる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題。この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れた事が判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、2軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。ロッテはその後1991年までの14年間に亘って川崎を本拠地として使用したが、観客動員の面では終始苦戦を強いられた。
優勝争いに絡んだ1981年の854,300人をピークに、1986年までの観客動員数は平均60万人台と営業面で低迷し続けていた。また首都圏もしくは関東の他地区への本拠地移転も何度か検討されたものの、いずれも頓挫。千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、候補地は浮かんでは消えていった。またロッテは前身の毎日、大毎、東京時代を含め、当時の12球団で唯一最下位を経験した事がないチームだった(前後期制の1975年前期、1982年前期は最下位となっているが、シーズンを通算した年間最下位の経験はなし)。ところが、パ・リーグが再び1シーズン制となった1983年は43勝76敗11分と大きく負け越し、5位の南海にも8ゲームの大差を付けられて遂に球団史上初の年間最下位に沈むと、1986年以降は優勝争いどころかAクラスにも浮上できず、下位の常連に成り下がった。またこの間、千葉県千葉市が千葉マリンスタジアムを1990年に竣工させ、ロッテ側に対して本拠地誘致を積極的に進めていた。
ロッテはこれを受けて6月の段階で千葉への移転を方針付け、そして7月31日(この日パ初の千葉マリンでの公式戦、ロッテ対西武戦が行われた)、重光球団社長代行は同日のオーナー会議の席上、翌1992年から本拠地を千葉マリンスタジアムに移転する意向を公式に表明した。重光は「千葉には現在フランチャイズがなく、野球ファンの底辺拡大にも繋がる」と理解を求め、出席者の了解を得た。また球団名についてはこの時点では「ニックネームのオリオンズは変えないが、地元意識を高めるため『千葉』を入れたい」とし、「ロッテオリオンズ」を移転後の仮称とした。但しこれまでの川崎市との関係も考慮して「今後も年間5 - 10試合程度開催したい」とし、川崎でも継続して公式戦を行う考えであった。しかし川崎市側は川崎球場を改修したばかりであったことから、この移転発表には猛反発。市はロッテに対し千葉移転に関する収入補償を求める方針を決定したが、ロッテはこれまで市側に対し、何度となく川崎球場の改修もしくは新球場の整備を求めてきたのを拒否し続けられた過去の経緯からこれを拒否。
予定していた川崎での試合開催数も削減することになった。結局9月4日、実行委員会でロッテの保護地域の千葉県への移転が承認された。10月17日、川崎の本拠地としての最終戦・対福岡ダイエー25・26回戦ダブルヘッダーが行われ、第1試合は7-3、第2試合は7回雨天コールドで5-4とロッテが連勝し、“川崎劇場”に幕を下ろした。ロッテの同年の観客動員数は1,021,000人。球団史上初、12球団ではしんがりとなる“夢の”100万人突破を川崎最終年にしてようやく達成した。球団名は一般公募により改称することになり、11月21日、新たな球団名は「千葉ロッテマリーンズ」と決まった(応募1位の愛称は上記の通り「ドルフィンズ」だった)。千葉移転初年の1992年、ロッテは7月3日・7月4日に川崎で対近鉄バファローズ2連戦を開催。3日は18,000人、4日は23,000人を集め、これがロッテが川崎で主催する最後の公式戦、そしてプロ野球一軍最後の公式戦となった(翌1993年には横浜対阪神戦が予定されていたが雨天中止となった)。
落語家・ヨネスケ(桂米助)は、川崎時代には前述の通り、当時の不入りぶりをネタにした新作落語を発表したが、ロッテが千葉に移転した1992年には古典落語「寝床」をアレンジした「ロッテグループの社長たちが、千葉マリンでの観戦会に嫌々集まってくる」というストーリーの新作落語「野球寝床」を発表している。この「野球寝床」にはその後も現在に至るまでアレンジが加えられ続けており、その年の球団やプロ野球界の動向に因んだフレーズが織り込まれている。また、2000年代以降、この川崎時代のロッテに因んだイベントやパフォーマンスが何度か行われている。2005年7月4日に東京ドームで開催された対日本ハム戦で、両チームのマスコットキャラクターが、開放されていない2階席を利用して流しそうめんをするというパフォーマンスが行われた。2007年5月25日に千葉マリンで開催された対横浜ベイスターズ1回戦で、ロッテはかつて同じ川崎球場を本拠地とした両球団の対戦に因んで、川崎時代をモチーフにしたイベントを実施した。
当時球場内で販売されていた「肉うどん」や「パインジュース」、東京都大田区の弁当店「鳥久」の弁当などの復刻販売が行われ、試合前の始球式には村田兆治が登板、球速135kmを記録して喝采を呼んだ。なお、このイベントは翌5月26日の同カードでも予定していたものの当日は雨天中止、6月25日の同4回戦に振り替えられた。また、このうち肉うどん、鳥久の弁当の復刻販売は2008年以降も、交流戦の対横浜2連戦で実施されている。2003年9月30日、ロッテはリーグ優勝のマジックを「1」とした福岡ダイエーホークスと千葉マリンで対戦した。試合はダイエーが先制したものの、ロッテは4回、リーグ最多タイ記録の1イニング5二塁打を放って6-3と逆転。しかし6回、ダイエーに一挙7点の猛攻を受けて再逆転を許した。そして7回裏のロッテの攻撃中、マジック対象の西武ライオンズがYahoo!BBスタジアムでオリックス・ブルーウェーブに3-6で敗戦し、この時点でダイエーの優勝が決まった。ロッテは最終回に4点を挙げて追い上げたものの及ばず、結局10-13で敗戦。ホークスにとって最善の形である「自力胴上げ(試合に勝利して胴上げ)」を許す結果に終わった。
また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるため更なる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題。この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れた事が判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、2軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。ロッテはその後1991年までの14年間に亘って川崎を本拠地として使用したが、観客動員の面では終始苦戦を強いられた。
優勝争いに絡んだ1981年の854,300人をピークに、1986年までの観客動員数は平均60万人台と営業面で低迷し続けていた。また首都圏もしくは関東の他地区への本拠地移転も何度か検討されたものの、いずれも頓挫。千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、候補地は浮かんでは消えていった。またロッテは前身の毎日、大毎、東京時代を含め、当時の12球団で唯一最下位を経験した事がないチームだった(前後期制の1975年前期、1982年前期は最下位となっているが、シーズンを通算した年間最下位の経験はなし)。ところが、パ・リーグが再び1シーズン制となった1983年は43勝76敗11分と大きく負け越し、5位の南海にも8ゲームの大差を付けられて遂に球団史上初の年間最下位に沈むと、1986年以降は優勝争いどころかAクラスにも浮上できず、下位の常連に成り下がった。またこの間、千葉県千葉市が千葉マリンスタジアムを1990年に竣工させ、ロッテ側に対して本拠地誘致を積極的に進めていた。
ロッテはこれを受けて6月の段階で千葉への移転を方針付け、そして7月31日(この日パ初の千葉マリンでの公式戦、ロッテ対西武戦が行われた)、重光球団社長代行は同日のオーナー会議の席上、翌1992年から本拠地を千葉マリンスタジアムに移転する意向を公式に表明した。重光は「千葉には現在フランチャイズがなく、野球ファンの底辺拡大にも繋がる」と理解を求め、出席者の了解を得た。また球団名についてはこの時点では「ニックネームのオリオンズは変えないが、地元意識を高めるため『千葉』を入れたい」とし、「ロッテオリオンズ」を移転後の仮称とした。但しこれまでの川崎市との関係も考慮して「今後も年間5 - 10試合程度開催したい」とし、川崎でも継続して公式戦を行う考えであった。しかし川崎市側は川崎球場を改修したばかりであったことから、この移転発表には猛反発。市はロッテに対し千葉移転に関する収入補償を求める方針を決定したが、ロッテはこれまで市側に対し、何度となく川崎球場の改修もしくは新球場の整備を求めてきたのを拒否し続けられた過去の経緯からこれを拒否。
予定していた川崎での試合開催数も削減することになった。結局9月4日、実行委員会でロッテの保護地域の千葉県への移転が承認された。10月17日、川崎の本拠地としての最終戦・対福岡ダイエー25・26回戦ダブルヘッダーが行われ、第1試合は7-3、第2試合は7回雨天コールドで5-4とロッテが連勝し、“川崎劇場”に幕を下ろした。ロッテの同年の観客動員数は1,021,000人。球団史上初、12球団ではしんがりとなる“夢の”100万人突破を川崎最終年にしてようやく達成した。球団名は一般公募により改称することになり、11月21日、新たな球団名は「千葉ロッテマリーンズ」と決まった(応募1位の愛称は上記の通り「ドルフィンズ」だった)。千葉移転初年の1992年、ロッテは7月3日・7月4日に川崎で対近鉄バファローズ2連戦を開催。3日は18,000人、4日は23,000人を集め、これがロッテが川崎で主催する最後の公式戦、そしてプロ野球一軍最後の公式戦となった(翌1993年には横浜対阪神戦が予定されていたが雨天中止となった)。
落語家・ヨネスケ(桂米助)は、川崎時代には前述の通り、当時の不入りぶりをネタにした新作落語を発表したが、ロッテが千葉に移転した1992年には古典落語「寝床」をアレンジした「ロッテグループの社長たちが、千葉マリンでの観戦会に嫌々集まってくる」というストーリーの新作落語「野球寝床」を発表している。この「野球寝床」にはその後も現在に至るまでアレンジが加えられ続けており、その年の球団やプロ野球界の動向に因んだフレーズが織り込まれている。また、2000年代以降、この川崎時代のロッテに因んだイベントやパフォーマンスが何度か行われている。2005年7月4日に東京ドームで開催された対日本ハム戦で、両チームのマスコットキャラクターが、開放されていない2階席を利用して流しそうめんをするというパフォーマンスが行われた。2007年5月25日に千葉マリンで開催された対横浜ベイスターズ1回戦で、ロッテはかつて同じ川崎球場を本拠地とした両球団の対戦に因んで、川崎時代をモチーフにしたイベントを実施した。
当時球場内で販売されていた「肉うどん」や「パインジュース」、東京都大田区の弁当店「鳥久」の弁当などの復刻販売が行われ、試合前の始球式には村田兆治が登板、球速135kmを記録して喝采を呼んだ。なお、このイベントは翌5月26日の同カードでも予定していたものの当日は雨天中止、6月25日の同4回戦に振り替えられた。また、このうち肉うどん、鳥久の弁当の復刻販売は2008年以降も、交流戦の対横浜2連戦で実施されている。2003年9月30日、ロッテはリーグ優勝のマジックを「1」とした福岡ダイエーホークスと千葉マリンで対戦した。試合はダイエーが先制したものの、ロッテは4回、リーグ最多タイ記録の1イニング5二塁打を放って6-3と逆転。しかし6回、ダイエーに一挙7点の猛攻を受けて再逆転を許した。そして7回裏のロッテの攻撃中、マジック対象の西武ライオンズがYahoo!BBスタジアムでオリックス・ブルーウェーブに3-6で敗戦し、この時点でダイエーの優勝が決まった。ロッテは最終回に4点を挙げて追い上げたものの及ばず、結局10-13で敗戦。ホークスにとって最善の形である「自力胴上げ(試合に勝利して胴上げ)」を許す結果に終わった。
2011年9月3日土曜日
開幕戦が降雨コールドで引き分けに終わり
パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事となる。翌日も延長12回で引き分け。開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被る為に、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連は無い。
なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉に因んで有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。FAによる選手の補強には消極的である。1995年オフに仲田幸司が阪神からFAで加入しているのみ。また、球団からFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっている。交流戦は2005年、2006年と2年連続優勝。セントラル・リーグの各球団が千葉マリンスタジアムの特色である強風に不慣れである等の要因が大きいとは言え、セ・リーグに対し強い得意意識を持っており、特に2005年から2007年にかけては、巨人に対して13勝3敗と完全にカモにしていた(2006年は6戦全勝、しかし2008年は4戦全敗)。
交流戦はマリーンズ上昇のきっかけになっているが2006年度は一度は浮上したもののその後失速、低迷した。ちなみに、対巨人は2011年現在でも18勝11敗3分と勝ち越しを続けているが、巨人に通算成績で勝ち越しているのはロッテだけである。瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また、京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。
一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、県立幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。
2004年のプロ野球再編問題における10球団構想では、ロッテと福岡ダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、更に2006年度からは指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたスカイマークスタジアムと、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のクリネックス(旧フルキャスト)スタジアム宮城での例がある。
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。地元千葉県の地方銀行である千葉興業銀行が、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0.026パーセント加算、リーグ優勝で0.26パーセント加算)「マリーンズ応援団定期預金」を販売している。
2010年のクライマックスシリーズでは全試合において千葉マリンスタジアムでパブリックビューイングが行われた。入場無料ながら特別ゲストに立川隆史を迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市の熊谷俊人市長も応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。1992年〜1994年 - 本拠地が千葉市に移転し、球団名が千葉ロッテマリーンズとなり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。帽子マークはCLMで真ん中に波模様が入ったもの。
なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉に因んで有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。FAによる選手の補強には消極的である。1995年オフに仲田幸司が阪神からFAで加入しているのみ。また、球団からFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっている。交流戦は2005年、2006年と2年連続優勝。セントラル・リーグの各球団が千葉マリンスタジアムの特色である強風に不慣れである等の要因が大きいとは言え、セ・リーグに対し強い得意意識を持っており、特に2005年から2007年にかけては、巨人に対して13勝3敗と完全にカモにしていた(2006年は6戦全勝、しかし2008年は4戦全敗)。
交流戦はマリーンズ上昇のきっかけになっているが2006年度は一度は浮上したもののその後失速、低迷した。ちなみに、対巨人は2011年現在でも18勝11敗3分と勝ち越しを続けているが、巨人に通算成績で勝ち越しているのはロッテだけである。瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また、京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。
一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、県立幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。
2004年のプロ野球再編問題における10球団構想では、ロッテと福岡ダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、更に2006年度からは指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたスカイマークスタジアムと、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のクリネックス(旧フルキャスト)スタジアム宮城での例がある。
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。地元千葉県の地方銀行である千葉興業銀行が、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0.026パーセント加算、リーグ優勝で0.26パーセント加算)「マリーンズ応援団定期預金」を販売している。
2010年のクライマックスシリーズでは全試合において千葉マリンスタジアムでパブリックビューイングが行われた。入場無料ながら特別ゲストに立川隆史を迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市の熊谷俊人市長も応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。1992年〜1994年 - 本拠地が千葉市に移転し、球団名が千葉ロッテマリーンズとなり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。帽子マークはCLMで真ん中に波模様が入ったもの。
2011年9月2日金曜日
売却先の公募には締切日までに
4社が応募した。市は応募企業名を非公表としたが、球場近隣の美浜区・幕張新都心に本社を置きファッション通販サイト「ZOZOTOWN」を運営するスタートトゥデイは11月17日、公募に申し込んだ旨を自ら公表し、同日から11月23日に掛けて同社サイトで取得に向けた署名活動を実施し15,977名の署名を集めた他、署名と同時に募集した命名案では「ZOZOマリンスタジアム」が664件と最も多かった。市は応募した4社について審査した結果、テレビ通販業「QVC」の日本法人で、幕張新都心に本社を置くQVCジャパンを交渉先に選定した旨を12月7日に発表した。同社は契約期間10年と、新名称の一部に「マリン」を残したものを提案したのに加え、社員の幕張周辺への在住支援やイベントの実施などといった地域貢献策も提示した。選定理由について、熊谷市長は定例記者会見で「金額面を一番重視した。地元への貢献など様々な提案があったが、大きな差はなかった。命名権を持つオーナー企業として、幕張全体の活性化をリードする役割も市と一緒に担って頂きたい」と述べた。
応募した4社はいずれも、市の提示条件をクリアしていたといい「いろんな要素が絡み合って、予想していたよりも遥かにいい条件で応募してもらった。何よりロッテが(リーグ3位から日本シリーズ制覇などで)頑張ってくれた」と安堵した表情を見せた。優先交渉権獲得に対し、QVCジャパンのクリス・ホロビンCEOは「命名権は日本や千葉へのQVCの長期的コミットメントを強化するきっかけとなるでしょう」とコメントした。選定から漏れたスタートトゥデイの前澤友作代表取締役は結果に関し「当社、僕自身の地元愛がなんら揺らぐことはございません」と引き続き地域貢献策を進めるとし、選定が決まったQVCジャパンに対しては「一緒に幕張を盛り上げましょうね」と共闘を誓い、その上で前掲の「千葉マリンスタジアム基金」にふるさと納税制度を利用して寄付した旨を表明した。市および千葉ロッテ球団はQVCジャパンとの間で交渉を進めた結果、12月24日までに基本合意に達し、3者は12月27日にマリンスタジアムで合同記者会見を行った。
契約金額は年額2億7500万円の10年間契約で総額27億5000万円と、日本のプロ野球本拠地球場の施設命名権としては過去最長の契約期間となった。呼称は「QVCマリンフィールド」とすることも決定した。QVCジャパンの佐々木迅社長は契約期間について「海浜幕張地区と共に歩み、末永く根を下ろしてやっていくという決意の表れ」と話し、呼称については同年「和」をスローガンに日本シリーズを制した千葉ロッテと、映画『フィールド・オブ・ドリームス』をイメージしたと述べた上で「日本のプロ本拠地で『フィールド』が付く球場は初めて。闘いの場、夢を育む場という意味で敢えて使うことにした」と説明した。熊谷市長は呼称に対し「県民の9割が『マリン』を残してほしいと言っていた心情に配慮してくれた。一ファンとしても嬉しい」と評価した。その後3者は更に交渉を進め、契約内容の細部調整を図った上で2011年2月28日付で正式契約を締結し、新名称は3月1日から採用された。QVCジャパンは今後10年間、市と千葉ロッテ球団に対し契約額のそれぞれ半額となる年額1億3750万円ずつを支払う予定で、収益の一部は前述の人工芝張り替えなどの施設改修に充当される。
千葉市の条例上の施設名称や、スタジアムを運営する第三セクターの商号などは「千葉マリンスタジアム」のまま変更しない。東京ヤクルトスワローズ主催のセ・リーグ公式戦は1991年に始まり、ロッテが本拠地を置いてからも2005年まで主に5月下旬の週末に年間1カード2、3試合行われていた。この時期にはヤクルトが本拠地としている明治神宮野球場で東京六大学野球春季リーグの最終節である早慶戦があり、多くの来場者が見込まれ同日に共用した場合には周辺の混雑や観客の入れ替え時の混乱が予想される為、それらを避けるという意味で行われていた。当時、ヤクルトが首都圏で開催する唯一のデーゲームによる公式戦だったが、2005年は5月上旬から6月中旬にかけてセ・パ交流戦が行われるのに伴い、必ずもし早慶戦を考慮する必要が少なくなったことから千葉マリンでの主催公式戦は開催時期を7月にずらして行った。2006年からは大学野球側との調整の結果、神宮でもデーゲーム開催が可能となったことなどからヤクルト主催では千葉マリンの公式戦を開催していない。
交流戦ではビジターで対ロッテ戦があるため、ヤクルト戦そのものは現在も年間2試合が開催されている。海浜幕張駅にあるプレナ幕張からは、千葉ロッテマリーンズ主催試合時に限り京成バスによる直通バスや連節バスが運行される(運賃は現金で大人100円後払い。車内では選手によるマナー喚起等の車内放送が流される)。試合終了時には海浜幕張駅、幕張本郷駅行、稲毛駅行(検見川浜駅、稲毛海岸駅経由)のバスが京成バス・千葉海浜交通によってそれぞれ運行される。このうち海浜幕張駅行と幕張本郷駅発着便にはノンストップ便もある(幕張本郷駅発着便は、幕張新都心地区を通らず、免許センター交差点からメッセ大橋交差点に出て県道千葉船橋海浜線を経由して幕張海浜公園交差点に出る順路)。2007年7月の千葉シーサイドバスダイヤ改正により花島公園 - JR幕張駅 - 千葉マリンスタジアムが開通した。千葉ロッテマリーンズは、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるQVCマリンフィールドを専用球場(本拠地)としている。
なお、二軍(イースタン・リーグ)の本拠地はさいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。1991年9月4日、翌1992年から保護地域を千葉県、専用球場を千葉県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに変更することが承認された。球団名は一般公募により改称されることになり、同年11月21日、新名称は千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。1992年、千葉移転初年度は最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人をマークするなど順調な滑り出しを思わせた。しかし1993年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。1994年、当時の原野和夫パ・リーグ会長は、ロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
2005年は今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートをきる。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、「マリンガン打線」と呼ばれた。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦)では初代チャンピオンとなる(毎日時代の初代パ・リーグ優勝、初代日本一に続いて3つ目の初代王者の称号を得た)。この交流戦で獲得した賞金の一部は公約どおりファンに還元され、スタジアムへの送迎バス(京成バス)のラッピング(ユニフォームと同一のカラーリングに“ファン”を表す背番号26のマーキングを施し、「栄光が俺たちを必要としている」「集え! 26番目の戦士たち」「俺たちと伝説を作らないか!」「No magic! そう、俺たちは強い」のフレーズ入り)などに使われた。このアジアシリーズも初回大会ということで毎日時代のパ・リーグ、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの初代王者の称号を手に入れた事になる。
11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。
応募した4社はいずれも、市の提示条件をクリアしていたといい「いろんな要素が絡み合って、予想していたよりも遥かにいい条件で応募してもらった。何よりロッテが(リーグ3位から日本シリーズ制覇などで)頑張ってくれた」と安堵した表情を見せた。優先交渉権獲得に対し、QVCジャパンのクリス・ホロビンCEOは「命名権は日本や千葉へのQVCの長期的コミットメントを強化するきっかけとなるでしょう」とコメントした。選定から漏れたスタートトゥデイの前澤友作代表取締役は結果に関し「当社、僕自身の地元愛がなんら揺らぐことはございません」と引き続き地域貢献策を進めるとし、選定が決まったQVCジャパンに対しては「一緒に幕張を盛り上げましょうね」と共闘を誓い、その上で前掲の「千葉マリンスタジアム基金」にふるさと納税制度を利用して寄付した旨を表明した。市および千葉ロッテ球団はQVCジャパンとの間で交渉を進めた結果、12月24日までに基本合意に達し、3者は12月27日にマリンスタジアムで合同記者会見を行った。
契約金額は年額2億7500万円の10年間契約で総額27億5000万円と、日本のプロ野球本拠地球場の施設命名権としては過去最長の契約期間となった。呼称は「QVCマリンフィールド」とすることも決定した。QVCジャパンの佐々木迅社長は契約期間について「海浜幕張地区と共に歩み、末永く根を下ろしてやっていくという決意の表れ」と話し、呼称については同年「和」をスローガンに日本シリーズを制した千葉ロッテと、映画『フィールド・オブ・ドリームス』をイメージしたと述べた上で「日本のプロ本拠地で『フィールド』が付く球場は初めて。闘いの場、夢を育む場という意味で敢えて使うことにした」と説明した。熊谷市長は呼称に対し「県民の9割が『マリン』を残してほしいと言っていた心情に配慮してくれた。一ファンとしても嬉しい」と評価した。その後3者は更に交渉を進め、契約内容の細部調整を図った上で2011年2月28日付で正式契約を締結し、新名称は3月1日から採用された。QVCジャパンは今後10年間、市と千葉ロッテ球団に対し契約額のそれぞれ半額となる年額1億3750万円ずつを支払う予定で、収益の一部は前述の人工芝張り替えなどの施設改修に充当される。
千葉市の条例上の施設名称や、スタジアムを運営する第三セクターの商号などは「千葉マリンスタジアム」のまま変更しない。東京ヤクルトスワローズ主催のセ・リーグ公式戦は1991年に始まり、ロッテが本拠地を置いてからも2005年まで主に5月下旬の週末に年間1カード2、3試合行われていた。この時期にはヤクルトが本拠地としている明治神宮野球場で東京六大学野球春季リーグの最終節である早慶戦があり、多くの来場者が見込まれ同日に共用した場合には周辺の混雑や観客の入れ替え時の混乱が予想される為、それらを避けるという意味で行われていた。当時、ヤクルトが首都圏で開催する唯一のデーゲームによる公式戦だったが、2005年は5月上旬から6月中旬にかけてセ・パ交流戦が行われるのに伴い、必ずもし早慶戦を考慮する必要が少なくなったことから千葉マリンでの主催公式戦は開催時期を7月にずらして行った。2006年からは大学野球側との調整の結果、神宮でもデーゲーム開催が可能となったことなどからヤクルト主催では千葉マリンの公式戦を開催していない。
交流戦ではビジターで対ロッテ戦があるため、ヤクルト戦そのものは現在も年間2試合が開催されている。海浜幕張駅にあるプレナ幕張からは、千葉ロッテマリーンズ主催試合時に限り京成バスによる直通バスや連節バスが運行される(運賃は現金で大人100円後払い。車内では選手によるマナー喚起等の車内放送が流される)。試合終了時には海浜幕張駅、幕張本郷駅行、稲毛駅行(検見川浜駅、稲毛海岸駅経由)のバスが京成バス・千葉海浜交通によってそれぞれ運行される。このうち海浜幕張駅行と幕張本郷駅発着便にはノンストップ便もある(幕張本郷駅発着便は、幕張新都心地区を通らず、免許センター交差点からメッセ大橋交差点に出て県道千葉船橋海浜線を経由して幕張海浜公園交差点に出る順路)。2007年7月の千葉シーサイドバスダイヤ改正により花島公園 - JR幕張駅 - 千葉マリンスタジアムが開通した。千葉ロッテマリーンズは、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるQVCマリンフィールドを専用球場(本拠地)としている。
なお、二軍(イースタン・リーグ)の本拠地はさいたま市南区にあるロッテ浦和球場である。1991年9月4日、翌1992年から保護地域を千葉県、専用球場を千葉県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに変更することが承認された。球団名は一般公募により改称されることになり、同年11月21日、新名称は千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。1992年、千葉移転初年度は最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人をマークするなど順調な滑り出しを思わせた。しかし1993年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。1994年、当時の原野和夫パ・リーグ会長は、ロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
2005年は今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートをきる。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、「マリンガン打線」と呼ばれた。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦)では初代チャンピオンとなる(毎日時代の初代パ・リーグ優勝、初代日本一に続いて3つ目の初代王者の称号を得た)。この交流戦で獲得した賞金の一部は公約どおりファンに還元され、スタジアムへの送迎バス(京成バス)のラッピング(ユニフォームと同一のカラーリングに“ファン”を表す背番号26のマーキングを施し、「栄光が俺たちを必要としている」「集え! 26番目の戦士たち」「俺たちと伝説を作らないか!」「No magic! そう、俺たちは強い」のフレーズ入り)などに使われた。このアジアシリーズも初回大会ということで毎日時代のパ・リーグ、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの初代王者の称号を手に入れた事になる。
11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、阪神の18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。
2011年9月1日木曜日
東北地方太平洋沖地震による影響で
スタジアム自体には大きな被害はなかったが駐車場や海浜幕張駅との間で液状化が発生、観客の安全に配慮して同月15日、16日のオープン戦が中止となった。サッカーコートが収まる大きさにしていたがスライド式可動席を採用しなかったため、同クラスのフェアグラウンドを持つ野球場よりかなりファウルグラウンドが大きくなっている。千葉ロッテが本拠地としてからフィールドウイングシートが増設されるまで、NPBの球団が一軍本拠地とする球場の中でグラウンド面積が最も広かった(公式発表では阪神甲子園球場がより広かったが訂正されている)。フィールドウイングシート設置後のグラウンド面積は公表されていない。アメリカンフットボールはフィールドシート増設後でも使用可能で、社会人リーグであるXリーグの公式戦も行われている(オービックシーガルズが本拠地のように表現している)。使われるのは外野部分で、その際にはライト側とレフト側にゴールポストが設置される。グラウンドは全面人工芝で、2003年初めにアストロ製のショートパイル人工芝「ネクストターフ」(パイル長30mm)に張り替えられた。
張替え当時はいわゆる「ハイテク人工芝」と称された高機能型であった。2009年頃からパイル硬化などの劣化が指摘され、千葉ロッテは同年オフ、千葉市に対し人工芝の張替えを求める要望書を提出した。千葉市は慢性的な財政難のため、張替え費用を捻出することが困難としたため、約5億円の工費は千葉ロッテ球団が立て替え、市が2011年度から6か年かけて返済する形で費用を工面することが決定した。2010年オフから張替えに着手し、同年末に着工して2011年2月下旬に竣工。アストロ製のショートパイル型「アストロステージMJ〔マリンヴァージョン〕」(パイル長32mm)が採用された。基本は西武ドームなどに敷設されているものと同品種だが、マリンスタジアムでは千葉ロッテ選手会の要望などを踏まえ、芝の下に敷設するアンダーパッドの下部に緩衝材を敷き、足腰への衝撃を軽減する工夫が施されている。パイル一本一本には芯が入っており、より天然芝の感触に近付けて仕上げている。
施工したアストロの関係者は「選手の要望にいかに応えられるかが醍醐味。選手が最高のプレーをして、勝ってくれるのが一番嬉しい」と話している。市はこの人工芝張り替えに関する問題を契機に、築20年を経過して老朽化が進んでいる球場全体の施設改修などを計画的に進めるため、市民をはじめ全国のファンから寄せられた募金・寄付金や「ふるさと納税制度」を活用して広く協力を求める「千葉マリンスタジアム基金」を創設し、2010年9月1日から受付を開始している。開場当初、スコア表示部は白色電光式で、千葉ロッテの本拠地となった1992年に高輝度放電管の大型映像装置を増設した(松下電器産業製 アストロビジョン、H 7.844 × W 9.911 m)。老朽化のため2002年に全面改修を行った際はスコア表示部にLEDを採用した。さらに2008年の改修において映像装置が従来よりやや大きな三菱電機製のLED式オーロラビジョンに更新された。映像装置には1992年の設置当初から「マリンビジョン」の愛称が付いている。
ライト側に風速表示、レフト側にサッカー用と思われる45分計とアメフト用と思われる経過時間計がある。風速表示の真上に風車型風速計が設けられている。2011年からボールカウントの表示方式を、従来の「SBO(上からストライク・ボール・アウト)」順から、国際ルールに則った「BSO」順に変更している。また球場命名権の設置に伴い、マリンビジョン上部の電光表示広告を、前年までの「LOTTERIA」に代えて「QVCマリンフィールド」に電光表示を変更、下部の「JR東海」の看板広告に変えて、「CHIBA LOTTE MARINES」の看板を掲げるようにした。2006年にオープンした「マリーンズ・ミュージアム」では、千葉ロッテにまつわる様々な資料が展示されている。支配下登録選手一覧、写真パネルで見る優勝パレード、2005年に日本一を含めた6冠となった際に贈られた4つのトロフィーの受賞者保存用レプリカ。実際に使用されていたミニカーを使ったリリーフカー。球場で実際に使われているダッグアウトや芝および照明灯、ファウルポール周辺部分の実物大外野フェンス、実際に操作出来るボールカウント表示器。
2010年9月から11年7月までストライクのカウントは作動するがボールは壊れて反応しなかった。四球を出すとバレンタイン監督の喝が飛ぶ仕組み。切り出した形でのマウンドとホームベースエリアの再現。ロッカールームの再現。選手から寄贈を受けた使用済みのスパイクやグローブ、バット他が置かれており、里崎智也がワールド・ベースボール・クラシックに出場した際に着用した日本代表ユニフォーム、成瀬善久が北京オリンピック野球日本代表として出場した際に着用したベースボールキャップとグラウンドコートも飾られている。前身「毎日オリオンズ」以来の千葉ロッテマリーンズの歴史。入り口すぐ脇の屋外にマリンスタジアム竣工当時に敷かれていた初代の人工芝のマット。1994年6月には、当時未開発であった周辺地域から大量の赤トンボが襲来。6月28日の西武戦は公式には雨天のため中止されたのだが、一部で今なお「トンボ中止事件」として語り継がれている。翌29日の試合はトンボの飛び交う中で開催された。
2005年10月22日に行われた日本シリーズ第1戦(千葉ロッテ対阪神)では濃霧により7回裏途中(一死無走者)でコールドゲームになるという珍事もあった。日本シリーズ史上初の出来事である。千葉マリンスタジアムを所有・管理する市・マリンスタジアム社・千葉ロッテ球団の3者は2005年から、マリンスタジアムに対する施設命名権(ネーミングライツ)の売却について検討を開始。数社から買収に関する問い合わせがあったものの、正式契約には至らなかった。2006年2月には、同年4月から千葉ロッテ球団が施設の指定管理者になるのに合わせ、命名権をロッテ本社が買収した上で、球団がファンの背番号として「26」を欠番にしているのに因み、呼称を「ロッテ26スタジアム」とする構想が一部で報道されたものの、当時ロッテ本社が命名権の売却・取得ともに消極的だったこともあって、実現には至らなかった。施設全体への命名権売却は見送られたものの、前述の3者はゲートや座席など球場内の設備に対する命名権売却を引き続き検討した。
座席については2009年シーズン前、内野スタンド1層三塁側上段のグループ向け個室「ボールパークルーム」を千葉ロッテと東日本電信電話(NTT東日本)千葉支社との共同事業で改修し「フレッツ光 バルコニースイート」と改称した例がある他、イベントスペースにスポンサー名を冠する等の試みも行われている。市の財政難はこの間にも悪化の一途をたどり、2009年秋には2010年度の予算編成において約270億円の収支不足が見込まれたため、千葉市の熊谷俊人市長が10月21日付で「『脱・財政危機』宣言」を発出し、収支バランスの安定化に向けて施策の方針転換が図られることになった。一環として、施設命名権導入の是非が長らく棚上げされていた千葉マリンスタジアムについても、市はロッテ側に対しスタジアムの施設全体の命名権売却を強く要望し続け、2010年10月、市と千葉ロッテ球団は2011年シーズンから命名権を導入することで合意し、これを受けて市は売却先の募集要項を11月4日に発表した。
11月5日から11月25日にかけて売却先の公募を実施し、売却条件は原則として契約期間3年以上、年額2億円以上に設定し、地域貢献に関する提案などを考慮して優先交渉権を決定した上で、12月上旬を目途に売却先を選定、2011年1月に新呼称を公表し、同年シーズン開幕時から採用する旨が発表された。市の担当者は「マリンスタジアムの名前は浸透しているし、思い入れがある方も多い。相手先の自由だが、残してもらえるとありがたい」と新呼称に対する意向を話した。
張替え当時はいわゆる「ハイテク人工芝」と称された高機能型であった。2009年頃からパイル硬化などの劣化が指摘され、千葉ロッテは同年オフ、千葉市に対し人工芝の張替えを求める要望書を提出した。千葉市は慢性的な財政難のため、張替え費用を捻出することが困難としたため、約5億円の工費は千葉ロッテ球団が立て替え、市が2011年度から6か年かけて返済する形で費用を工面することが決定した。2010年オフから張替えに着手し、同年末に着工して2011年2月下旬に竣工。アストロ製のショートパイル型「アストロステージMJ〔マリンヴァージョン〕」(パイル長32mm)が採用された。基本は西武ドームなどに敷設されているものと同品種だが、マリンスタジアムでは千葉ロッテ選手会の要望などを踏まえ、芝の下に敷設するアンダーパッドの下部に緩衝材を敷き、足腰への衝撃を軽減する工夫が施されている。パイル一本一本には芯が入っており、より天然芝の感触に近付けて仕上げている。
施工したアストロの関係者は「選手の要望にいかに応えられるかが醍醐味。選手が最高のプレーをして、勝ってくれるのが一番嬉しい」と話している。市はこの人工芝張り替えに関する問題を契機に、築20年を経過して老朽化が進んでいる球場全体の施設改修などを計画的に進めるため、市民をはじめ全国のファンから寄せられた募金・寄付金や「ふるさと納税制度」を活用して広く協力を求める「千葉マリンスタジアム基金」を創設し、2010年9月1日から受付を開始している。開場当初、スコア表示部は白色電光式で、千葉ロッテの本拠地となった1992年に高輝度放電管の大型映像装置を増設した(松下電器産業製 アストロビジョン、H 7.844 × W 9.911 m)。老朽化のため2002年に全面改修を行った際はスコア表示部にLEDを採用した。さらに2008年の改修において映像装置が従来よりやや大きな三菱電機製のLED式オーロラビジョンに更新された。映像装置には1992年の設置当初から「マリンビジョン」の愛称が付いている。
ライト側に風速表示、レフト側にサッカー用と思われる45分計とアメフト用と思われる経過時間計がある。風速表示の真上に風車型風速計が設けられている。2011年からボールカウントの表示方式を、従来の「SBO(上からストライク・ボール・アウト)」順から、国際ルールに則った「BSO」順に変更している。また球場命名権の設置に伴い、マリンビジョン上部の電光表示広告を、前年までの「LOTTERIA」に代えて「QVCマリンフィールド」に電光表示を変更、下部の「JR東海」の看板広告に変えて、「CHIBA LOTTE MARINES」の看板を掲げるようにした。2006年にオープンした「マリーンズ・ミュージアム」では、千葉ロッテにまつわる様々な資料が展示されている。支配下登録選手一覧、写真パネルで見る優勝パレード、2005年に日本一を含めた6冠となった際に贈られた4つのトロフィーの受賞者保存用レプリカ。実際に使用されていたミニカーを使ったリリーフカー。球場で実際に使われているダッグアウトや芝および照明灯、ファウルポール周辺部分の実物大外野フェンス、実際に操作出来るボールカウント表示器。
2010年9月から11年7月までストライクのカウントは作動するがボールは壊れて反応しなかった。四球を出すとバレンタイン監督の喝が飛ぶ仕組み。切り出した形でのマウンドとホームベースエリアの再現。ロッカールームの再現。選手から寄贈を受けた使用済みのスパイクやグローブ、バット他が置かれており、里崎智也がワールド・ベースボール・クラシックに出場した際に着用した日本代表ユニフォーム、成瀬善久が北京オリンピック野球日本代表として出場した際に着用したベースボールキャップとグラウンドコートも飾られている。前身「毎日オリオンズ」以来の千葉ロッテマリーンズの歴史。入り口すぐ脇の屋外にマリンスタジアム竣工当時に敷かれていた初代の人工芝のマット。1994年6月には、当時未開発であった周辺地域から大量の赤トンボが襲来。6月28日の西武戦は公式には雨天のため中止されたのだが、一部で今なお「トンボ中止事件」として語り継がれている。翌29日の試合はトンボの飛び交う中で開催された。
2005年10月22日に行われた日本シリーズ第1戦(千葉ロッテ対阪神)では濃霧により7回裏途中(一死無走者)でコールドゲームになるという珍事もあった。日本シリーズ史上初の出来事である。千葉マリンスタジアムを所有・管理する市・マリンスタジアム社・千葉ロッテ球団の3者は2005年から、マリンスタジアムに対する施設命名権(ネーミングライツ)の売却について検討を開始。数社から買収に関する問い合わせがあったものの、正式契約には至らなかった。2006年2月には、同年4月から千葉ロッテ球団が施設の指定管理者になるのに合わせ、命名権をロッテ本社が買収した上で、球団がファンの背番号として「26」を欠番にしているのに因み、呼称を「ロッテ26スタジアム」とする構想が一部で報道されたものの、当時ロッテ本社が命名権の売却・取得ともに消極的だったこともあって、実現には至らなかった。施設全体への命名権売却は見送られたものの、前述の3者はゲートや座席など球場内の設備に対する命名権売却を引き続き検討した。
座席については2009年シーズン前、内野スタンド1層三塁側上段のグループ向け個室「ボールパークルーム」を千葉ロッテと東日本電信電話(NTT東日本)千葉支社との共同事業で改修し「フレッツ光 バルコニースイート」と改称した例がある他、イベントスペースにスポンサー名を冠する等の試みも行われている。市の財政難はこの間にも悪化の一途をたどり、2009年秋には2010年度の予算編成において約270億円の収支不足が見込まれたため、千葉市の熊谷俊人市長が10月21日付で「『脱・財政危機』宣言」を発出し、収支バランスの安定化に向けて施策の方針転換が図られることになった。一環として、施設命名権導入の是非が長らく棚上げされていた千葉マリンスタジアムについても、市はロッテ側に対しスタジアムの施設全体の命名権売却を強く要望し続け、2010年10月、市と千葉ロッテ球団は2011年シーズンから命名権を導入することで合意し、これを受けて市は売却先の募集要項を11月4日に発表した。
11月5日から11月25日にかけて売却先の公募を実施し、売却条件は原則として契約期間3年以上、年額2億円以上に設定し、地域貢献に関する提案などを考慮して優先交渉権を決定した上で、12月上旬を目途に売却先を選定、2011年1月に新呼称を公表し、同年シーズン開幕時から採用する旨が発表された。市の担当者は「マリンスタジアムの名前は浸透しているし、思い入れがある方も多い。相手先の自由だが、残してもらえるとありがたい」と新呼称に対する意向を話した。
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