東京府から分立して市制を施行し東京市としたが市制特例により東京市長は府知事が兼ねた(府知事の市長兼務は1898年(明治31年)10月1日に廃止)。1896年(明治29年)、東京市を「都」に改めて官選都長を置く「東京都制案」、府郡部を県とする「武蔵県設置法案」ともに帝国議会不成立。1897年(明治30年)、市長を公選とする「東京市制案」、府郡部を県とする「千代田県設置法案」ともに帝国議会不成立。日本が日中戦争に突入すると戦時体制構築のため、政府は東京府地域の政治・経済の統制強化を要求するようになった。1938年(昭和13年)6月、内務省は「東京都制案要綱」を発表したが東京市35区は内務省案反対を決議した。しかし1943年(昭和18年)1月、政府が帝国議会に提出した「東京都制案」が可決され同年7月1日、東京都制によって東京府・東京市が廃止されて「東京都」が設置された。都制により東京府東京市は廃止され、旧市域は東京都35区となった。一方、東京府下で市制を施行していた東京府八王子市と東京府立川市はそれぞれ東京都八王子市と東京都立川市となった。
江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書とは、明治元年7月17日(西暦では1868年9月3日)に、明治天皇が発した詔勅である。天皇が江戸で政務を執ることを宣言し、江戸を東京と改称することを内容とする。車駕東幸の詔書、東京遷都ノ詔、東京奠都の詔とも呼ばれるが、公式な略称・呼称ではない。一般の詔書と同様、この詔書にも正式名称はない。便宜的に付された名称は、太政官の編纂による『詔勅録』では「江戸ヲ東京ト改称ノ詔」とし、内閣官報局『法令全書』は目録や索引で「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」とし、国立公文書館では件名を「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔」(一字違い)としている。また、通称の「東京奠都の詔」は、後年に至って用いられたものと思われる。1940年(昭和15年)に文部省が明治維新の歴史を詳細に記した『概観維新史』(文部省維新史料編纂会編)では、この詔を「東京奠都の詔」と称し、1872年(明治5年)に英照皇太后が東京に移るに至って事実上の東京遷都となったとした。
その翌年の本編『維新史』第五巻では「車駕東幸の詔書」と称し、この詔を奠都の旨を公表するものではないと解釈し、皇城を宮城と改称するに至って東京が事実上の皇都の地位を得たとしている。なお、太政官あるいは内閣記録局が、1885年(明治18年)頃に編纂した『太政官沿革志』(親政体制一)では、「車駕東幸、十月十三日ヲ以テ東京城ニ抵リ、本城ヲ以テ奠メテ皇居ト為シ、踰ヘテ一日先ツ親政ノ令ヲ布ク。是ヲ奠都以還親政ノ始トス。」として、10月17日の「布告」(『詔勅録』によれば「東幸親政正議直諌セシムルノ詔」)に先立つ、天皇の東京入城を「奠都」の契機としており、「奠都」の語自体は早くから用いられていた。。この詔書は、本文と副書から成る。本文は、端的に天皇が江戸で政務を執ることと、江戸を東京に改称する旨を述べている。副書は、天皇が東京で政務を執ることの意義を述べている。東京15区(とうきょう15く)とは、明治11年(1878年)から昭和7年(1932年)まで東京に存在した行政区域群のことである。
昭和7年(1932年)に東京市が周辺町村を合併して「大東京市」を構成する以前の、いわゆる旧市域に含まれる15区を指す。その内訳は、麹町区、神田区、日本橋区、京橋区、芝区、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区、下谷区、浅草区、本所区、深川区である。この配置順は皇居のある麹町区を起点に、「の」の字型を描くように指定されたものであり、公式には必ずこの順番で並べられた。また近郊6郡についても、荏原郡、南豊島郡、東多摩郡(1896年に南豊島郡・東多摩郡は豊多摩郡に統合)、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡と西南から時計回りで東南に弧を描くように配された。なお、パリにおける1区から20区までの順序も、中心から時計回りの渦巻きを描く点で、東京15区の順序と同様である。明治7年(1874年)3月8日に東京に導入された大区小区制が定着せず、4年後の明治11年(1878年)11月2日に施行された郡区町村編制法によって、東京15区は初めて画定された。当初の区域は旧朱引内であり、且つ墨引き(江戸においては町奉行管轄の地)の土地であった(「明治11年(1878年)の15区」の節参照)。明治22年(1889年)4月1日の市制・町村制施行と共にその区域は変更が加えられ、拡大しつつも一部は府下6郡の各町村に合併されることとなった。
このときの区域が東京市となる。昭和7年(1932年)10月1日には周辺町村を東京市に編入していわゆる大東京市が成立し、東京市内の区は全部で35区となった。東京35区になって以降、それまでの15区を旧市域、新たな20区を新市域といって区別することもあった。1947年(昭和22年)3月15日に東京都の35区が22区に再編された際、旧市域15区のそれぞれは他の区と統合された。このため、15区の名称は現在の23区の名称には引き継がれなかった。他方、現在の千代田区(麹町税務署、神田税務署)、中央区(日本橋税務署、京橋税務署)、文京区(小石川税務署、本郷税務署)などに置かれた税務署の名称とその管轄区域は、旧15区の名残と見受けられる。東京都区部とは、東京都で23の特別区から構成される地域である。1943年(昭和18年)6月までの東京市に相当する地域で、東京23区または東京特別区とも呼ばれる。各区の事務のうち、清掃・職員採用・競馬事業は、23区で一部事務組合(特別地方公共団体)を設置し共同処理している。
東京都区部は、東京都のうち旧東京市に該当する。東京都区部の人口は、1920年(大正9年)に台東区が上野桜木、池之端をはじめ都心の高級住宅街として人口第1位の439,596人。世田谷区は39,952人。1965年(昭和40年)に約889万人(国勢調査人口)で最大となった後、郊外化で減少に転じ、特にバブル景気に伴う地価の高騰によって1990年代には800万人を割り込んだ(参照)。その後は都心回帰現象などにより、約872万人(2008年6月1日現在の推計人口)にまで再び増加し、東京都の人口の約67.7%を占めるまでに至った。東京都区部を一つの自治体と見なした場合の人口は日本で最も多く、2位の横浜市と比較しても約2.5倍もの人口規模である。なお、昼間人口では、1980年代末のバブル景気期に約1129万人で最大となり、失われた10年の間は減少していたが、その後は増加してバブル期並みとなっている(参照)。周囲が巨大なベッドタウンとなっていることもあり、昼間人口に比べ夜間人口の方がずっと少ない。
都心の区は、主に中心業務地区に利用されているため、居住地が少なく人口も少ない。また、地価が高いだけでなく、面積が狭いことも人口の少ない要因のひとつである。周辺の区ほど人口が多いが、面積最大の大田区より面積第2位の世田谷区の方が人口は多く(大田区は羽田空港の沖合展開による埋め立ての結果、世田谷区を抜き最大の区となった)、面積第4位の練馬区は人口第2位である。東京湾沿岸の区は、東京港港湾施設や広大な工場・流通地区を持つため、内陸の周辺区よりも人口密度が低いが、江東区などは超高層住宅の建設が進められており、一部そうでもない場所もある。