民主党代議士天野久が擁立され、吉江知事を破り当選。天野「富める山梨」を掲げ、利水に乏しい甲府盆地西部の御勅使川扇状地を開発する野呂川総合開発に着手し、計画は国の援助を受け上水道や県営発電所の建設が行われた。また、新笹子トンネル建設による幹線道路の整備は高度経済成長期とも重なり、果樹農業や観光の振興にも繋がった。一方で、天野県政期には開発による災害があり、北富士演習場問題が発生する。1967年(昭和43年)に天野知事を破り3代知事となった田辺国男は「健康山梨」を掲げ、一村一工場誘致を方針に工業団地造成や幹線道路整備を行う一方で、開発により環境破壊が顕著となっていたため環境保護にも配慮したグリーン・プランを提唱する。一方で連峰スカイライン構想を具体化させると批判が相次ぎ、北富士演習場問題の膠着やオイルショックの影響による不況も重なった。文化事業では、1978年(昭和53年)にはフランスの画家ミレーの「種をまく人」を二億円で落札購入した山梨県立美術館を創設。
田辺県政は日本経済の好景気化も受け4期目をめざすが、中央政界で前天野知事を支持した自民党政治家金丸信が影響力を強めると県議会においても金丸派が最大派閥となり、これに社会党県連が4選阻止のため提携し副知事の望月幸明を擁立し、1979年(昭和54年)の県知事選では田辺知事を破り当選。望月県政は金丸信の後見を受けて県議会でのオール与党体制を確立し、北富士演習場問題の小康やバブル景気の後押しを受け、1986年(昭和61年)のかいじ国体の実施や県有林の高度活用、リゾート施設の造成、リニア実験線の建設などを実施。望月知事が4選を断念し、1992年(平成4年)に望月県政を批判し金丸派候補を破り当選した天野建知事(父は上記の天野久)は財政難の中公共工事の見直しを行いつつ「幸住県やまなし」事業を実施。山梨県立博物館の建設推進や排水路整備の推進をおこない、1996年(平成8年)には長年県民を苦しめてきた日本住血吸虫(地方病)の終息宣言を行う。
山梨県は中央高地式気候のため寒暖の差が大きく、農業に適した地域は甲府盆地を中心に水捌けの良い平坦地である。江戸時代には治水・用水路開発のにより新田開発が行われ農業生産力は向上したが、養蚕や果樹などの商品作物栽培を複合させた形態の農業を発達していた。養蚕は明治初期の殖産興業において特に力を入れられ日本有数の養蚕県であったが、化学繊維の台頭などにより昭和30年代をピークに養蚕の減少と果樹栽培の増加に転じており、桑畑から果樹園への転換による景観的変化や、年中行事など生活・文化面の変化をもたらしている。戦後の高度経済成長期において日本経済は農業の比重を低下させているが、工業の立ち後れていた山梨経済においても農業の役割は低下し、農家数や耕地面積は減少している。一方で経済成長により生じた国民生活の変化に対応して農業の形態を変化させており、国民の食生活が変化したことにより葡萄や桃、サクランボなどの果樹栽培の需要が高まり、葡萄からのワインの醸造も行われている。
また、首都圏や中京圏から近い地理的条件を活かして観光農園として観光客を集めているところも多い。1980年代から90年代にかけては果樹栽培への移行と農業の減退の傾向はさらに加速し、農業を主とする第一種兼業農家から農業を従とする第二種兼業農家への移行を示している。これに伴い中山間地域を中心に高齢化や農業後継者不足、過疎などが顕在化し、近年の課題となっている。また、ミネラルウォーターの生産量は52万9388キロリットル(2004年)であり、日本の総生産量の40%を占める。山がちな地形であることから帯水層の露出が多く、都市化が進んでいないため清澄な湧水が多く採取できる上、主要な消費地の東京圏に近く輸送コストが小さいため、大手メーカーの多くが採取地に山梨県を選んでいる。主な産地は南アルプス山麓と富士山および三ツ峠山麓である。甲府は近世の甲府城下町が商業的拠点として発達し、明治後に中央本線が開通すると甲府駅が開業し、山梨県庁舎をはじめ岡島百貨店や甲府西武などが駅前に軒を連ねたため戦後しばらくまでは甲府駅を中心に発展していった。
しかし高度経済成長を迎えると県内でもモータリゼーションが進行し、同時に公共交通機関が衰退した。このため旧城下町である甲府は道幅が狭く渋滞が顕著になった甲府駅前を避ける傾向が強まり、代わりに高速道路やバイパス道路が整備された郊外に大型商業施設が次々と進出したため、1990年代よりドーナツ化現象が進行している。また中央本線の高速化や高速バスの発展により県外へのストロー効果が起こり、山梨県の商業そのものに影響を与えている。戦前には『山梨日日新聞』、『山梨毎日新聞』はじめ6紙が発行されていたが、第二次世界大戦中の新聞統制によって県内の諸紙は山日に統合される。戦後には数紙が創刊され、昭和40年代まで富士急行が大株主である『山梨時事新報』(山時)が山日と部数を競った。昭和44年に富士急行が所有株式を売却すると山時は山日に吸収され、現在は、全国紙をのぞいて日刊紙は山日のみの状態となっている。全国紙は基本的には甲信越版であるが、地域により東京版も販売されている。NHKのテレビ放送は1953年(昭和28年)に開始されたが山梨の地理的条件のため契約数は少なく、NHK甲府放送局が1959年(昭和34年)に中継送信所を設置して以来普及した。
民間放送ではラジオ山梨が1959年(昭和34)12月に送信所を設置してテレビ局を開設し、山梨放送(YBS)(NNN系列)が開局。1968年(昭和43年)にUHF(極超短波放送)電波が割り当てられると、免許申請は一本化されて「山梨中央テレビ」として取得し、翌1969年(昭和44年)5月には株式会社テレビ山梨(UTY)(JNN系列)が発足。山梨県は首都圏に属しているが行政区分上、中部地方に分類されることから在京テレビ局の放送エリア外であり、しかもFNN系列、ANN系列、TXN系列のテレビ局がないため、首都圏でありながら民放2局状態が長く続いている(ただし後述のように一部地域、特に郡内で在京テレビ局の電波を受信可能な地域は存在する)。それゆえビデオリサーチによる視聴率調査が行なわれていない都道府県(他は福井県、徳島県、佐賀県、宮崎県)の1つとなっている(ただし下にもあるように、ケーブルテレビの普及率が極めて高いため、実質的にはアナログは5局地域であり、デジタルでも4局地域にまではなりつつある)。
山梨県のケーブルテレビ(自主放送)の世帯普及率は、2009年3月現在86%と全国第1位である。共同アンテナ受信なども含めると93%を数える。ただし、同県のケーブルテレビ局は他の都道府県それと用途が異なり、不足する地上波系列の補完が第一であるため、標準契約で視聴できるのは地上波とBSアナログ放送だけとなるのが普通である。CS系放送局用アナログコンバーターやデジタル放送用STBは別途オプション契約となる。山梨県地域のデジタルチャンネル割当て時に選定に係わった人々(山梨放送、テレビ山梨)の思惑により自局視聴率向上を図りたい為に東京キー局と同じチャンネル割当に決定した経緯がある。地上デジタル放送については日本民間放送連盟が区域外再送信を原則として認めない方針のため、県内局のデジタル放送開始時点では在京キー局の再送信は一切行われていなかった。独立UHF局は2004年にTOKYO MX(ただし一部の局の受信点で電波状況が不安定で再送信できないケースもある)の一部地域における区域外再送信開始を皮切りに順次開始している。また、在京キー局も、テレビ朝日は2007年7月から順次、フジテレビも同年10月から順次、区域外再送信が開始されている。