2011年9月13日火曜日

長野オリンピックは

1998年2月7日から2月22日まで、日本の長野市とその周辺を会場にして開催された、20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックとしては、今までで最も南に位置する都市で開催された。日本ジャンプ陣(日の丸飛行隊)を初めとする日本選手代表勢が大活躍、日本代表は冬季五輪史上初の二桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得した。長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供たちが共演でテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」の歌声を披露した。選手入場はオリンピック憲章に則りギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。斎藤英四郎大会組織委員会会長の挨拶、サマランチIOC会長の挨拶の後、今上天皇が開会を宣言。

湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。オリンピック旗の入場では、往年の冬季オリンピック出場の日本人名選手8人(猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美)が登場した。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。その後、アテネ世界陸上10000m銅メダリスト・千葉真子から、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そしてアテネ世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、最後に、プッチーニ作、歌劇「蝶々夫人」の有名なアリア『ある晴れた日に』の曲が演奏される中、アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。オリンピック宣誓は、アルベールビルオリンピック・リレハンメルオリンピック両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、1998個の子供たちのメッセージカードとヘリウムが入った、市販品の1.5倍の大きさの、羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が、空に放たれた。

開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行った。この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。さらに演奏終了にあわせ航空自衛隊のブルーインパルスが会場上空で展示飛行を行い、開会式に花を添えた。志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるよう、スタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。

結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能となり、全種目を無事実施できた大きな要因の1つとなった。この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目された。多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーが長野のヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーのソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムにおいて、今上天皇・皇后臨席の下、行われた。主な内容としては、長野のお祭りが一堂に集結したほか、オリンピック旗がソルトレイクシティ市長に引き継がれた。

大会組織委員会副会長吉村午良長野県知事(当時)の挨拶の後、サマランチIOC会長の閉会宣言が、「アリガトウナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレは、花火5,000発(長野県は日本一の花火の産地である)とAGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)参加による「WAになっておどろう~イレアイエ~」で、期間中の選手待合室にも流れており選手たちに好評だったためか、選手たちがステージに上がったり、一緒に楽器を演奏したり、思い思いのダンスを踊ったりと、まさに国境を越えての盛り上がりを見せた。また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークした。1991年に長野オリンピック開催が決定したことにより、長野新幹線が、現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。

もともと長野新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが小諸市と佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については、小諸駅、佐久平駅を参照のこと。その他の影響として、1994年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化。また1997年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。長野新幹線では、200系新幹線が走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。