2011年9月10日土曜日

過去にはCATV局側に対し

在京キー局・長野県域民放側は「経営に悪影響が出る」「視聴率が悪化する」「民放は4局あり、情報格差は既に是正されている」などの意見を出し、区域外再送信をやめるように要請、中止に圧力を掛けた。しかし、CATV局のほとんどはこの要請には応じず、今までどおり区域外再送信を行うことになる(例外として、同時期に長野市をエリアとするCATV局INCはTBSを皮切りに、県内に系列局のないテレビ東京を除く在京キー局4局の区域外再送信を順次中止した)。しかし、テレビの2011年・地上デジタル放送完全移行により、この問題は大きな分岐点を迎えている。基本的にデジタル放送では、区域外再送信を中止する方針が出され、現在アナログ放送のみで放送されている区域外再送信をデジタル放送でも実施するのかどうかが、できるのかどうかが現在、長野県内では大きな問題となっている。今まで通りの立場で、区域外再送信を反対する県内民放側に対して、CATV側も「今まで見られていた東京のチャンネルが見られなくなることで、加入者離れが進む」「東京で見られても、深夜・早朝を中心に長野で見られない番組がたくさんある」などとして、対立している。

民放側とCATV側の協議も結果が芳しくなかったこともあり、2007年には県内CATV局である2局(LCV・テレビ松本)がこの問題をめぐって、在京キー局各局及び県域民放各局にデジタル放送でも区域外再送信の同意をしてもらうよう大臣裁定に持ち込んだこともあり、加入者の生活にも関わることで、今後もこの問題は更に注目を浴びことになるのは間違いないと思われる。さらには独立UHF局(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)のデジタル波の区域外再送信を求める声も少なからずある。田中康夫前知事が「長野県」から「信州県」へと改名するとした構想。特に観光面で「信州」呼ばれることが多いことから、観光産業への効果などがうたわれた。これには依然として長野市と松本市との対立意識が残ることがその根底にある。当初新聞紙上には載ったが、実際の動きがあったかは不明のまま立ち消えとなる。旧山口村(現岐阜県中津川市山口地区)の越県合併を合併告示当初より反対であった。

合併協議会の賛成を得ても、反対し続け、『山口村は長野に残るべき』と述べた。結果的には合併を承認し、越境合併は実現したが、田中自身は最後まで反対の意思を曲げることはなかった。山口村越県合併問題で、山口村村民、村役場、村議会、県議会と対立したことで、「反・田中派」の追い風に乗り、後任の知事である、村井県政が始まるきっかけのひとつになった。田中県政については独善・独裁的という見方もある一方で、それまでの長野県政の悪弊を打破したという点では評価する向きもあり、賛否は分かれる。長野県は沖縄県と同様に、公営競技場及び投票券場外発売場が1つもない県である。そのため、テレビ等ではローカルで「レースガイド」が放送されることはめったにない(しかし、NBSにおいて「みんなのKEIBA」・「うまプロ!」の競馬番組はネットしている)。また隣県の競馬・競輪・競艇場などのローカルCMが民放各局で流れる。伝統的にメディア・リテラシー教育を重視する考え方が強く、全国の都道府県で唯一、青少年保護育成条例を制定していない。

但し、長野市と佐久市は独自に条例を制定しているほか、東御市も長野県下初の淫行処罰規定を盛り込んだ条例が制定された。条例が制定されていない地域であっても、未成年者への淫行は児童福祉法、児童ポルノ・児童買春処罰法、刑法の未成年者略取及び誘拐罪での検挙実績がある。性風俗関連特殊営業については昭和59年12月24日長野県条例第34号により、店舗型性風俗特殊営業と店舗型電話異性紹介営業については長野市及び松本市の各一部が営業禁止地域から除外されているが、同条例及び風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律28条に定める施設との兼ね合いから、特殊浴場(店舗型性風俗特殊営業1号営業)は実質的に規制されている。2008年現在、都道府県別平均寿命で男性が1位であり、女性も毎回上位を占める長寿県となっている。長野市は、長野県北部の都市で、同県の県庁所在地、中核市である。旧:上水内郡・更級郡・埴科郡・上高井郡。善光寺の門前町として有名である。

門前町としてのみならず、周辺の観光地への前線としても重要な位置を占める。善光寺門前町を中心とする旧長野町などは上水内郡に属していたが、現在の市域はその外、旧更級郡、埴科郡、上高井郡にまたがる。交通政策では「交通セル方式」の採用やコミュニティバス(ぐるりん号)の積極展開など特徴的な政策を持つ。1998年の冬季オリンピック競技大会(長野オリンピック及び長野パラリンピック)の開催地である。長野村という地名は、中世末期から見られるようである。現在の長野市大字長野に上長野・下長野、また大字西長野に西長野・袖長野・中長野という小字が残されており、「長野」とは現在の信州大学教育学部付近から善光寺参道付近にかけての緩傾斜地を呼んだ地名だと思われる。中世末から近世にかけての水内郡長野村は、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する。1601年(慶長6年)に、同郡箱清水村、七瀬村、及び三輪村の一部(間もなく平柴村に変更)とともに善光寺領とされた。

箱清水村は、1875年(明治8年)に長野町と合併、七瀬村は1876年(明治9年)に鶴賀村の一部となり鶴賀町を経て長野町へ、三輪村は1889年(明治22年)に三輪村、平柴村は1889年に安茂里村を経て、いずれも現在は長野市に属する。長野村のうち、善光寺南の参道は門前町として、また北国街道のルートとされたことから宿場町としても発展して市街地化(町場化)した。こうして市街地化した区域、および松代藩領でこれに隣接して同様に市街地化した妻科村(現長野市大字南長野)および権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のそれぞれ一部も含めて、町場全体の総称として善光寺町(または「善光寺宿」)という呼称が行われるようになった。その結果「長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内を除いた北西部の農村区域を指すものと理解されていた。しかし、検地帳上の公的な村名は、善光寺町の区域も含めて「長野村」であり、そのまま明治維新後に至った。

すなわち、「善光寺町」とは本来「長野村」の一部であり、明治になってから「善光寺町」が「長野村」と改称されたわけでもなく、「善光寺町」が「長野村」の旧称であったわけでもない。長野盆地は、長野県長野市を中心とした盆地。古くから善光寺平と呼ばれ、県歌「信濃の国」に歌われる「四つの平」の一つである。範囲は必ずしも明確ではないが、南から千曲市、長野市、須坂市、小布施町、高山村、飯綱町、中野市にかけて広がる千曲川の流域一帯のこととする解釈が一般的である。この地域の河川敷から扇状地にかけてはりんごや桃、河川敷の砂地地域はナガイモの産地としても知られる。南縁の千曲市の傾斜地(約25ha)は姨捨の棚田として有名。イネ(水稲)の田植え時期は、盆地周囲の山間地では 5月上旬頃で、盆地底部の遅いところでは 6月中旬から6月末に行われる。広義には飯山盆地を含めた北信地方(北安曇地域を含まない)の中央部の盆地全体を指すこともあるが、通常は「高井富士」とも呼ばれる高社山(中野市・木島平村)を境に以北を飯山盆地として分け、高社山以南を長野盆地とする。

しかし、飯山盆地もその構造や成因は高社山以南の長野盆地と共通した性格を持つ。南部の千曲川上流側の境界は明確ではないが、千曲市屋代付近より上流の狭窄部以北を指すのが妥当と思われる。