2011年9月4日日曜日

千葉ロッテマリーンズとなった1992年に

チームのイメージカラーとしてピンクが登場、球団旗・ペットマーク・ユニフォームに採用された。明るいパステル調のこのピンクは「サンライズピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義づけられた。ところが、1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、先述の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』221ページに、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。

また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるため更なる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題。この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れた事が判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、2軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。ロッテはその後1991年までの14年間に亘って川崎を本拠地として使用したが、観客動員の面では終始苦戦を強いられた。

優勝争いに絡んだ1981年の854,300人をピークに、1986年までの観客動員数は平均60万人台と営業面で低迷し続けていた。また首都圏もしくは関東の他地区への本拠地移転も何度か検討されたものの、いずれも頓挫。千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、候補地は浮かんでは消えていった。またロッテは前身の毎日、大毎、東京時代を含め、当時の12球団で唯一最下位を経験した事がないチームだった(前後期制の1975年前期、1982年前期は最下位となっているが、シーズンを通算した年間最下位の経験はなし)。ところが、パ・リーグが再び1シーズン制となった1983年は43勝76敗11分と大きく負け越し、5位の南海にも8ゲームの大差を付けられて遂に球団史上初の年間最下位に沈むと、1986年以降は優勝争いどころかAクラスにも浮上できず、下位の常連に成り下がった。またこの間、千葉県千葉市が千葉マリンスタジアムを1990年に竣工させ、ロッテ側に対して本拠地誘致を積極的に進めていた。

ロッテはこれを受けて6月の段階で千葉への移転を方針付け、そして7月31日(この日パ初の千葉マリンでの公式戦、ロッテ対西武戦が行われた)、重光球団社長代行は同日のオーナー会議の席上、翌1992年から本拠地を千葉マリンスタジアムに移転する意向を公式に表明した。重光は「千葉には現在フランチャイズがなく、野球ファンの底辺拡大にも繋がる」と理解を求め、出席者の了解を得た。また球団名についてはこの時点では「ニックネームのオリオンズは変えないが、地元意識を高めるため『千葉』を入れたい」とし、「ロッテオリオンズ」を移転後の仮称とした。但しこれまでの川崎市との関係も考慮して「今後も年間5 - 10試合程度開催したい」とし、川崎でも継続して公式戦を行う考えであった。しかし川崎市側は川崎球場を改修したばかりであったことから、この移転発表には猛反発。市はロッテに対し千葉移転に関する収入補償を求める方針を決定したが、ロッテはこれまで市側に対し、何度となく川崎球場の改修もしくは新球場の整備を求めてきたのを拒否し続けられた過去の経緯からこれを拒否。

予定していた川崎での試合開催数も削減することになった。結局9月4日、実行委員会でロッテの保護地域の千葉県への移転が承認された。10月17日、川崎の本拠地としての最終戦・対福岡ダイエー25・26回戦ダブルヘッダーが行われ、第1試合は7-3、第2試合は7回雨天コールドで5-4とロッテが連勝し、“川崎劇場”に幕を下ろした。ロッテの同年の観客動員数は1,021,000人。球団史上初、12球団ではしんがりとなる“夢の”100万人突破を川崎最終年にしてようやく達成した。球団名は一般公募により改称することになり、11月21日、新たな球団名は「千葉ロッテマリーンズ」と決まった(応募1位の愛称は上記の通り「ドルフィンズ」だった)。千葉移転初年の1992年、ロッテは7月3日・7月4日に川崎で対近鉄バファローズ2連戦を開催。3日は18,000人、4日は23,000人を集め、これがロッテが川崎で主催する最後の公式戦、そしてプロ野球一軍最後の公式戦となった(翌1993年には横浜対阪神戦が予定されていたが雨天中止となった)。

落語家・ヨネスケ(桂米助)は、川崎時代には前述の通り、当時の不入りぶりをネタにした新作落語を発表したが、ロッテが千葉に移転した1992年には古典落語「寝床」をアレンジした「ロッテグループの社長たちが、千葉マリンでの観戦会に嫌々集まってくる」というストーリーの新作落語「野球寝床」を発表している。この「野球寝床」にはその後も現在に至るまでアレンジが加えられ続けており、その年の球団やプロ野球界の動向に因んだフレーズが織り込まれている。また、2000年代以降、この川崎時代のロッテに因んだイベントやパフォーマンスが何度か行われている。2005年7月4日に東京ドームで開催された対日本ハム戦で、両チームのマスコットキャラクターが、開放されていない2階席を利用して流しそうめんをするというパフォーマンスが行われた。2007年5月25日に千葉マリンで開催された対横浜ベイスターズ1回戦で、ロッテはかつて同じ川崎球場を本拠地とした両球団の対戦に因んで、川崎時代をモチーフにしたイベントを実施した。

当時球場内で販売されていた「肉うどん」や「パインジュース」、東京都大田区の弁当店「鳥久」の弁当などの復刻販売が行われ、試合前の始球式には村田兆治が登板、球速135kmを記録して喝采を呼んだ。なお、このイベントは翌5月26日の同カードでも予定していたものの当日は雨天中止、6月25日の同4回戦に振り替えられた。また、このうち肉うどん、鳥久の弁当の復刻販売は2008年以降も、交流戦の対横浜2連戦で実施されている。2003年9月30日、ロッテはリーグ優勝のマジックを「1」とした福岡ダイエーホークスと千葉マリンで対戦した。試合はダイエーが先制したものの、ロッテは4回、リーグ最多タイ記録の1イニング5二塁打を放って6-3と逆転。しかし6回、ダイエーに一挙7点の猛攻を受けて再逆転を許した。そして7回裏のロッテの攻撃中、マジック対象の西武ライオンズがYahoo!BBスタジアムでオリックス・ブルーウェーブに3-6で敗戦し、この時点でダイエーの優勝が決まった。ロッテは最終回に4点を挙げて追い上げたものの及ばず、結局10-13で敗戦。ホークスにとって最善の形である「自力胴上げ(試合に勝利して胴上げ)」を許す結果に終わった。