本州の内陸部に位置する、日本の県の一つ。県庁所在地は甲府市。令制国の甲斐国に相当する。南に富士山、西に赤石山脈(南アルプス)、北に八ヶ岳、東に奥秩父山地など、海抜2000mを超す山々に囲まれる。海洋国家といわれる日本において、内陸側に位置する数少ない県である。都道府県面積は全国32位だが、山梨県はその8割を山が占めるため可住地面積は全国45位である。箱根峠より西の内陸に位置するため、明治以来の日本を八つの地方に分ける方法(北海道地方・東北地方・関東地方・中部地方・近畿地方・中国地方・四国地方・九州地方)では、中部地方(中央高地、俗に言う甲信地方)として区分されている。しかし、国土整備行政上は中部圏には含まれておらず、首都圏整備法施行令において首都圏と規定されている。また、国機関の管轄などでは関東地方と一緒に扱われる。往来が比較的容易で、交通路も整備されている。東京都(除島嶼)、神奈川県津久井地区、長野県中・南信地方、静岡県大井川以東の三方との交流が、古くから盛んである。
又、埼玉県秩父地方との境は奥秩父山塊に隔てられているが、1998年の国道140号雁坂トンネル開通により、自動車やバスでの直接往来が可能となった。なお、山梨県と静岡県を併称する場合は、山静(さんせい、やましず)や甲駿(こうすん)という。「山梨」の県名は律令制下の甲斐四郡のひとつである「山梨郡」に由来し、県名は1871年(明治4年)7月の廃藩置県に際して旧甲斐国一国が甲府県を経て「山梨県」に改称された。山梨郡は県庁所在である甲府が属している郡域であるが県名の改称理由は不明で、新政府による幕藩時代との断絶が意図されていた可能性が考えられている。「山梨郡」は本来甲斐一国を意味する呼称ではないため明治初期には新県名が浸透せず、政治団体やその機関誌等では県域を指す地域呼称として「峡中」が用いられた。現在では「山梨」が県域全体を指す呼称として定着している。県域は、中西部の甲府盆地を中心とする国中(くになか)と、東部の相模川と多摩川の上流域および富士山北麓からなる郡内(ぐんない)に分けられ、両者は方言(郡内は西関東方言に分類)など、自然や文化においても大きく異なっている。
また、7年連続で自殺者が300人を突破した県であり、その数は全国でNo.1である。ただし、そのうち3分の1以上は、山梨県外から富士山麓の青木ヶ原樹海に来訪した自殺者が占めている。東日本に分類されていて、行政上の分類は関東地方又は首都圏。地理上の分類では中部地方(甲信地方又は甲信越地方)。日本政府によって公式に2つの地方に跨って分類されているのは三重県と山梨県のみである。山梨県南都留郡山中湖村と静岡県駿東郡小山町の籠坂峠付近と山梨県南都留郡鳴沢村及び富士吉田市と静岡県富士宮市及び駿東郡小山町の富士山山頂付近(県境)には2ヶ所未定区間がある。(御殿場市は、小山町の間に境界未定部分が有るため、富士吉田市及び鳴沢村と接する可能性もある)古代には律令制下において甲斐国が成立するが、『日本後紀』延暦16年条によれば甲斐東部の都留郡の帰属をめぐっては隣接する相模国との間で総論があったという。甲斐国は五畿七道では東海道に属し、山梨・八代・巨摩・都留の甲斐四郡が成立し、郡郷は『和名類聚抄』に31郷が記載されている。
山梨・八代両郡は古代甲斐国の政治的中心地で、国府は山梨郡笛吹市春日井町に前期国府が存在し、八代郡の笛吹市御坂町に移転されたと考えられている。官道は東海道横走宿から分岐して都留郡を経て甲府盆地に入り甲斐国府に至る甲斐路が存在していた。四郡のうち甲斐西部の巨摩郡は渡来人の入植により成立した郡であると考えられている。一方、『古事記』『日本書紀』(記紀)に記される日本神話においてはヤマトタケル(倭建命、日本武尊)の東征において足柄山から甲斐へ入り、酒折宮(甲府市酒折)において老人と歌を交わす説話を記している。記紀に記される日本神話には両書が成立した奈良時代の歴史認識が反映されているものと考えられているが、考古学的にも甲斐においては古墳後期の4世紀後半代から畿内の影響下にあったと考えられており、酒折宮伝承にもヤマト王権と甲斐の在地豪族との関係が反映されているものと考えられているほか、足柄山から甲斐国へ至ったヤマトタケルの遠征ルートは古代の交通体系を明らかにする上でも注目されている。
同年10月19日(旧暦9月4日)、甲斐国内に府中県(県庁所在地は山梨郡甲府)、市川県、石和県が設置され、12月11日(旧暦10月28日)にこれら3県を統合して甲斐府が設置された。明治2年(1869年)8月27日(旧暦7月20日)、「府」の呼称が京都府・東京府・大阪府に限定されたことから、甲斐府は甲府県と改称した。明治3年(1870年)5月に田安領を併合し、明治4年(1871年)8月29日(旧暦7月14日)の廃藩置県後も甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により、旧韮山代官所を引き継いだ韮山県の甲斐国内管轄区域などを統合して12月31日(旧暦11月20日)に甲斐国全域を管轄区域とする山梨県が発足した。県庁所在地は引き続き山梨郡甲府、初代県令には土肥実匡が任ぜられた。明治6年(1873年)に着任した藤村紫朗の殖産興業政策により、製糸業の勧業や道路整備、金融機関の整備が行われた。特に青梅街道の改築など道路整備を推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。
明治42年(1909年)には甲府連隊(歩兵第49連隊)が設置された。第二次大戦中には疎開地でもあったが、昭和20年(1945年)7月には、甲府空襲によって甲府は灰燼と帰した。日本の占領時代については「連合国軍占領下の日本」を参照。 終戦後、1945年(昭和20年)9月にはアメリカ軍第8軍の部隊が甲府へ進駐。年末には戦闘部隊は引き上げ、少数の山梨県軍政部が県庁周辺の洋風建築を接収して県内の監視を行う。県内人口は復員兵や疎開者の帰還で増加し、戦時期の山林荒廃から災害被害もあり食糧事情は悪化。当局により新潟県からの移入米の配給や米軍の食糧放出など対策を講じるが食糧難はしばらく続き、ヤミ米が流通した。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革を受け県内でも政党活動や新聞の発行などが再開される。1946年には内務省官僚による地方支配に代わり公選知事が導入され、1947年の第一回県知事選では保守派合同の推薦で吉江勝保が当選し、初代公選知事となる。吉江は1948年2月に食料増産や山林復旧など10大政策を掲げるが、財政難などの制約もあり産業基盤の復興もままならず、社会福祉制度も構想のみに留まった。