フォッサマグナと呼ばれる地溝帯の一部を占める低地の一つで、新生代第四紀になって形作られたものである。盆地底は千曲川とこれに合流する各河川によってもたらされた新しい時代の堆積物によって埋積されている。盆地を南から北へ貫流する千曲川自体には扇状地の発達が見られないが、これに合流する犀川や裾花川、百々川(どどかわ)、松川、夜間瀬川(よませがわ)などの河川が扇状地を発達させている。千曲川はこれらの扇状地の末端を縫うように盆地底を流路を変えながら曲流し、新旧の流路に沿って自然堤防と後背湿地が分布する。盆地の東西は隣接する山地と非常に明瞭な境界をもって接するが、東側と西側とではその様相を大きく異にする。東側では、盆地底を海水面に見立てるとあたかもリアス式海岸の岬と入江のように尾根筋と谷が入り組み、入江に当たる谷の出口に前述のように各支川による扇状地が発達する。南東では坂城町から千曲市戸倉(旧戸倉町)にかけての狭隘部(地名:岩鼻、半過)を経て上流の上田盆地に続く。
盆地の西側に広がる水内丘陵(犀川丘陵)は地すべりの活動的な山地であり、善光寺地震の際には各所で地すべりや崩壊を生じた。近年でも1985年に長野市上松の地附山で発生した地すべりが大きな被害を出しており、長野市篠ノ井岡田の茶臼山では明治以来継続して滑動が続いている。裾花凝灰岩は陸上での火砕流堆積物によって出来たことが確認されている。盆地西側の山地の隆起と千曲川と流入する小河川の双方による浸食と堆積により形成され、堆積物は非常に厚く1988年長野市権堂町で行われた温泉掘削に伴う地下の扇状地堆積物層の厚み調査では、765m まで掘削したが盆地底まで到達していない、これは他の地域とも比べ非常に深い。善光寺地震の周期はボーリング調査などにより1,000年に一度とされているので、盆地西側の地盤は、善光寺地震の際に 2m程度隆起した。1年あたりの変動量は、2000mm÷1000年で 2mmである。地下の遺構として約4,000年前の縄文土器が、長野市街地では 6mの地下から、盆地南部の千曲市は 4m地下から出土している。
このことから長野盆地での年間埋め立て量は、4000mm÷4000年で、1mm/年間の速さで進行している事になる。この隆起と埋め立て量の差から、 1mm/年間の速度で相対的に西山地区が隆起している、現在の長野盆地と西山地区との高低差は 300m前後であるから、長野盆地の発生は(300000mm÷1mm/年間) つまり、300000年(30万年)と言うことになる。山地側も隆起量と比例し風化などで削られるため、実際の開始時期はもっと早い時期であったと考えられる。長野盆地付近から信濃川に沿って、新潟県に延びる活断層帯の信濃川断層帯(長野盆地西縁断層)がある。盆地の西側では戸狩から飯山(以上、飯山市)、豊野、吉田、城山(じょうやま)・善光寺、妻科(長野県庁付近)、安茂里、篠ノ井(以上、長野市)と続く直線的な急崖によって区切られる。この急崖は盆地西縁に連続する活断層の集合体であり、断層は北西側が隆起、南東側が沈降を続け千曲川が東側に追いやられている。
長野市の中心市街地は裾花川と、市街地北側の大峰山西側から流れ出す湯福川、大峰山北東側から流れ出す浅川、の作る扇状地上に展開するが、この活断層群の存在によって段丘状の地形をなしている。1847年(弘化4年)に発生し善光寺平一帯に大きな被害をもたらした善光寺地震はこの長野盆地西縁断層(小松原断層)を震源として起きた地震であり、地震による断層の変位が篠ノ井から飯山までの50kmにわたって見られたと言われる。活断層の活動は東側で新しく、中野市西部で千曲川の右岸に高丘丘陵と長丘丘陵を形成して、千曲川の河谷と長野盆地とを分けている。すなわち、ここでは千曲川の流路がほぼ現在の位置に固定した後、活断層の動きの蓄積によって高丘・長丘の両丘陵が隆起した結果、千曲川が長野盆地を外れてわざわざ丘陵西側の峡谷を選んで流れているように見えるのである。高丘丘陵南側の延徳低地(中野市)は、活断層の沈降側に当たり、千曲川本流の狭窄部への入口となっている事と北東側を夜間瀬川扇状地に遮られるために排水が悪く、古来水害常襲地となっている。
R山がちな長野県では、現在上田市・松本市となった地域にある美ヶ原がテレビ・FMの親局となっており、長野市内からは遠く離れている。こうしたこともあり、NHK長野放送局がテレビ放送を始める前から、この地に市内向けの中継局を開設していた。現在でも長野市内では、美ヶ原局ではなく善光寺平局の放送が視聴されている。また松本市内でも、美ヶ原の山陰となる関係から、別途市内向けに中継局が設けられている。尚、正式な中継局名は、NHKで『善光寺平テレビジョン・FM中継放送所』、民放テレビで『善光寺平テレビジョン中継放送所』、FM長野で『善光寺平FM中継放送所』である。長野オリンピックは、1998年2月7日から2月22日まで、日本の長野市とその周辺を会場にして開催された、20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックとしては、今までで最も南に位置する都市で開催された。日本ジャンプ陣を初めとする日本選手代表勢が大活躍、日本代表は冬季五輪史上初の二桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得した。
長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出は劇団四季の浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱曙の土俵入りが行われ、森山良子と子供たちが共演でテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」の歌声を披露した。選手入場はオリンピック憲章に則りギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。斎藤英四郎大会組織委員会会長の挨拶、サマランチIOC会長の挨拶の後、今上天皇が開会を宣言。湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。オリンピック旗の入場では、往年の冬季オリンピック出場の日本人名選手8人(猪谷千春、笠谷幸生、金野昭次、北沢欣浩、長久保初枝、大高優子、橋本聖子、山本宏美)が登場した。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。
その後、アテネ世界陸上10000m銅メダリスト・千葉真子から、アルベールビル・リレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典、阿部雅司、三ヶ田礼一の3人へ、そしてアテネ世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、最後に、プッチーニ作、歌劇「蝶々夫人」の有名なアリア『ある晴れた日に』の曲が演奏される中、アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。オリンピック宣誓は、アルベールビルオリンピック・リレハンメルオリンピック両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、1998個の子供たちのメッセージカードとヘリウムが入った、市販品の1.5倍の大きさの、羽ばたいているように見える3種類の鳩の形の紙風船が、空に放たれた。開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京・ベルリン・ケープタウン・ニューヨーク・シドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。
指揮は小澤征爾が行った。この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。