2011年9月12日月曜日

演奏終了にあわせ航空自衛隊のブルーインパルスが

会場上空で展示飛行を行い、開会式に花を添えた。志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるよう、スタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能となり、全種目を無事実施できた大きな要因の1つとなった。また、コース整備において陸上自衛隊の協力は非常に大きな力となり、降雪によりコースが埋没した際の排雪は「自衛隊がいなければ絶対に間に合わなかった」との声も聞かれた。この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目された。

多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーが長野のヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーのソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムにおいて、今上天皇・皇后臨席の下、行われた。主な内容としては、長野のお祭りが一堂に集結したほか、オリンピック旗がソルトレイクシティ市長に引き継がれた。大会組織委員会副会長吉村午良長野県知事(当時)の挨拶の後、サマランチIOC会長の閉会宣言が、「アリガトウナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。

聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレは、花火5,000発(長野県は日本一の花火の産地である)とAGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)参加による「WAになっておどろう~イレアイエ~」で、期間中の選手待合室にも流れており選手たちに好評だったためか、選手たちがステージに上がったり、一緒に楽器を演奏したり、思い思いのダンスを踊ったりと、まさに国境を越えての盛り上がりを見せた。また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークした。1991年に長野オリンピック開催が決定したことにより、長野新幹線が、現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅~長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと長野新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の高崎駅~軽井沢駅のみが建設されていた。

軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが小諸市と佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については、小諸駅、佐久平駅を参照のこと。その他の影響として、1994年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線)北須坂駅と延徳駅が交換駅化。また1997年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。長野新幹線では、200系新幹線が走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。森の守り神であり、知恵者の代名詞でもあるフクロウを抽象的にデザインした物で、「スノーレッツ (SNOWLETS)」という名前の由来は冬季オリンピックをイメージした「SNOW」、「フクロウの子供たち」という意味の「OWLETS」、「さあ、一緒に!」と元気よく呼びかけることば「LET'S」を掛け合わせた造語と言われている。

また1羽ずつそれぞれに、スッキー、ノッキー、レッキー、ツッキーという名前もつけられていた。4羽はスッキーとノッキーが男の子、レッキーとツッキーが女の子という位置づけがなされ、それぞれが火の中、水の中、風の中、土の中から生まれたと設定された。また4羽の中でも人気、不人気のキャラクターが分かれ、最も不人気だったスッキーについてはNHKが「なぜスッキーは人気が出ないのか?」というインタビュー番組を制作するほどだったが、当初は斜めを向いていたスッキーの顔のデザインをオリンピック直前になって正面から見たデザインに“整形”するなどてこ入れがなされた甲斐もあって、オリンピック本番では4羽とも大人気だった。スノーレッツは長野オリンピック開催前年の1997年の第48回NHK紅白歌合戦にも出場している。ギリシャから日本に着いた聖火は三手に分かれ、全都道府県を巡ったのちに長野県内の全ての市町村をリレーされて長野市に集結した。聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。

これはトーチの欠陥により、トーチを傾けすぎると燃料供給が途絶えてしまうことによる。後に改良され、消えることはなくなった。システムオペレーションセンター (SOC) は本大会時は、長野オリンピック組織委員会 (NAOC) 本部に設けられたが、システムの拠点は前記の公共施設内であった。国際的イベントと市民との融和、そして一過性ではなく継続的な「国際理解・親善」につなげる工夫として「一校一国運動」「一店一国運動」が展開された。「一校一国運動」は、広島アジア大会の際に行われた地区公民館単位での活動を参考に考案され、市内の小中学校各校が長野オリンピック参加の特定一国について深い研究・国際交流を図る形で展開され、市民と参加各国、そしてオリンピックというイベントを強く結びつけ、大会運営にも市民文化活動にも好影響を与えた運動。その後のオリンピックの際にも導入され、今ではIOCのプログラムに取り込まれている。 一店一国運動は同じような活動を商店に置き換えたもので、長野市街地を訪れる選手や観戦客に対してのホスピタリティを意識した運動で好評を持って迎え入れられた。

屋外競技場が長野県内各地に拡散していたことから、ベースシティである長野市の中心市街地にあるセントラルスクゥエアに「市街地表彰式場」を設け、競技場まで足を運べなかった市民や観戦客への配慮を行った。これも市民とオリンピックを結びつける仕掛けとして有効で、日本選手の活躍が目立った開催期間後半においては屋内競技でも目立った成績を残した選手を改めて表彰した。長野市が行っていた一校一国運動・一店一国運動とも相まって長野大会の「付加価値」、そして「NAGANO CITY」の評価を高めたものである。