2011年9月21日水曜日

山梨郡は

かつて甲斐国(山梨県)に存在した郡である。巨麻郡(巨摩郡)、八代郡、都留郡とともに甲斐四郡のひとつで、都留郡を除いて国中三郡と総称される。明治11年(1878年)に郡区町村編制法によって東山梨郡と西山梨郡に分割され、山梨県の県名はこの山梨郡に由来している。郡域はおおむね甲府盆地東部にあたり、現在の甲府市(荒川以東)、笛吹市(旧石和町の一部と旧春日居町全域)、山梨市と甲州市にあたると推定されており、西に巨摩郡、南に八代郡、東に都留郡が隣接する。古代の郡域には東八代郡一宮町、御坂町、石和町も含まれている。『和名類聚抄』国郡部では甲斐四郡のうちはじめに記載され、「夜萬奈之」と訓じられている。於曾郷(おぞごう)、能呂郷(のろごう)、林部郷(はやしごう)、井上郷(いのえごう)、玉井郷(たまのいごう)、石禾郷(いさわごう)、表門郷(うわとごう)、山梨郷(やまなしごう)、加美郷(かみごう)、大野郷(おおのごう)の10の管郷を持ち、前者5郷が山梨東郡に、後者5郷が山梨西郡に含まれている。

平安時代に成立した『和名抄』では管郷が二分されており、柏尾山経塚(甲州市、旧勝沼町)出土の康和5年(1103年)銘経筒にも山梨東郡の略称と考えられている「山東郡」の語が見られる。後期古墳時代の甲府盆地では東西に加牟那塚古墳を築造した盆地北西部勢力と姥塚古墳を築造した盆地東部の御坂勢力が対峙し、中間に春日居古墳群や寺本廃寺を築造した新興勢力が進出する状況が想定されているが、山梨郡では建郡当初から春日居勢力と御坂勢力が対峙する構造があったと考えられている。また、郡域には巨摩郡の飛び地も含まれている。史料上の初見は『正倉院宝物』の調庸白あしぎぬ金青袋の墨書銘(和銅7年)や平城宮跡出土木簡の墨書銘(天平宝字6年、同8年)のほか、一宮町坪井の大原遺跡から出土した墨書土器や甲府市の大坪遺跡出土の刻書土器など、郷名が記された考古遺物も出土している。『和名抄』では「夜萬奈之」、「山無瀬」と訓じられている。和銅6年(713年)の「各地の地名は好字(縁起の良い漢字)二字で表せ」とする和銅官命の後から「山梨」の名前が定着し、使われ始めた。

そのため、巷間に通説だとして流布している「山梨の由来はヤマナシ(山梨)の木が多かったから」というものはいささか単純すぎるものであり、語源としては「山ならす(山平らす)」が「やまなし」へと転化してゆき、それに好字としての「梨」の字を当てたと見るのが有力である。「山ならす」とは、甲府盆地の東部に位置し、盆地を囲む山々を除けば高低の少ない平坦な土地であった当郡を表した言葉である。『和名抄』では甲斐国府は八代郡に所在していたと記載され、『和名抄』の成立した後期国府は山梨・八代郡境にあたる御坂町国衙の地に想定されているが、山梨郡域にあたる旧春日居町域には「国府(こう)」や「鎮目」などの地名や県内最古の古代寺院である寺本廃寺や官衙遺跡または郡家遺跡と考えられている国府遺跡など『和名抄』成立以前の初期国府が所在していたと考えられている。また、一宮町域には甲斐国分寺・国分尼寺跡が創建されているなど、山梨郡は古代甲斐国における政治的中心地であったと考えられている。

古代には在庁官人の三枝氏が勢力基盤とし、中世には甲斐守護武田氏の守護所が置かれた。戦国時代には甲府の地に(躑躅ヶ崎館)が築かれ、甲府は城下町として整備され近世に至るまで国中地域や甲斐国の中心となった。山梨県立美術館は、山梨県甲府市貢川の「芸術の森公園」内にある美術館である。同公園は同市中西部の甲斐市寄りに位置し、前を国道52号(美術館通り)が通る。また、同公園内には山梨県立文学館もある。「文化不毛の地」と評されていた山梨において、戦後は博物館構想など文化事業振興の気運が存在し、1975年(昭和50年)に3期目の当選を果たした田辺国男知事は、山梨県立県民文化ホールとともにかねてより懸案であった同美術館の設置事業に着手。翌1976年(昭和51年)には美術資料取得基金を設立し、山梨県農事試験場跡地に美術館の建設を着工。田辺知事と初代館長千澤テイ治によりコレクションの中心をバルビゾン派の画家とする方針が定められ、置県100周年記念事業として19世紀のフランス画家ミレーの代表作『種まく人』の購入が山梨県議会で承認され、山梨県企業局が通商産業省から電気事業固定資産内の事業外固定資産として絵画購入が許可された。

1977年(昭和52年)4月に飯田画廊の仲介でニューヨークのオークションにおいて『種まく人』と『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』を落札した。その他に山梨放送社長野口英史の資金援助や山梨中央銀行からの資金寄付を受け、飯田画廊からミレー3作品を購入し、1978年(昭和53年)11月3日に開館した。『種まく人』、『落ち穂拾い、夏』をはじめとするミレーコレクションやバルビゾン派の画家の作品を収蔵し、「ミレーの美術館」として親しまれている。ミレーコレクションは油絵のほか、水彩画、素描、版画を含め41点を収蔵。その他にクールベ、ターナー、シャガール、ヴラマンクらの作品、山梨県出身の画家や山梨ゆかりの画家の作品なども数多く収蔵している。同公園内にはロダン、ヘンリー・ムーアらのヨーロッパ近代彫刻家の作品も設置されている。また、1988年(昭和63年)から2002年(平成12年)まで行われた「郷土作家シリーズ」をはじめ、山梨県出身の画家に関する多くの企画展が開催されているほか、一般展示室を貸し出して美術振興も行っている。

開館前に、『種をまく人』を2億円で落札購入したことや、同基金以外に山梨県営発電所の売電収益からの購入費支出などに対し山梨県議会で反対意見もあったが、一方で山梨の風土とミレー作品の調和が支持され、好意的に受け入れられている。1988年(昭和63年)には開館10周年記念事業として、ロイスダールの『ベントハイム城の見える風景』を購入した。2002年(平成14年)に萩原英雄コレクションの一括寄贈を受けて施設の増築工事が行われた。重要文化財の『紙本淡彩陶道明聴松図』や山梨県指定文化財の『絹本著色法然上人絵伝』、『絹本着色五代目大木喜右衛門夫婦像』、『木版丹絵武田二十四将図』などを収蔵していたが、2005年(平成17年)に山梨県笛吹市に山梨県立博物館が開館し、それに伴い担当学芸員の異動とともに大木コレクションなど江戸時代以前の美術資料は同博物館に移管された。また、同美術館は全国各地から多くの来館者が訪れることも特徴で、1983年度(昭和58年度)の年間入館者数は12万人にのぼり、2006年(平成18年)10月15日には総入館者数1000万人を達成した。

中央自動車道甲府昭和インターチェンジより、料金所を昇仙峡・湯村方面へ出て、200m先を左折、徳行立体南交差点左折、アルプス通りを約2km上り、貢川交番前交差点を左折、国道52号を約1km左側。山梨県立博物館は、山梨県笛吹市御坂町成田にある総合博物館である。2005年(平成17年)10月15日に開館した。愛称は甲斐とミュージアムをかけた「かいじあむ」。現館長は平川南。基本テーマは「山梨の自然と人」であり、自然系展示と歴史系展示を分けずに展示や資料の収集、調査研究活動、社会教育活動を行っている。常設展示は原始時代から現代という時系列に沿った展示であるが「水に取り組む」、「信仰の足跡」といったテーマを設定した展示になっている。山梨県は公共文化施設が未整備で「文化不毛の地」と評されていたが、戦後には郷土研究が活発化し1961年(昭和36年)には山梨郷土研究会が発足し、郷土研究や史跡や文化財の保存活動、市町村史の編纂事業などを行い、博物館構想も早くから存在していた。