いわゆる「かかあ天下(でんか)と空っ風」である。「かかあ天下」は、「女性(妻)に頭が上がらない男性(夫)」とか「妻の尻に敷かれている夫」と取られがちだが、そうではなく、上州の男が自分の妻を感謝・尊敬し、自慢する意味で「ウチの母(かかあ)は天下一」という意味を持っている。養蚕業は原始的ながら複雑な工程を経るため、群馬県(埼玉県北部上武地域を含む)では養蚕業に由来する社会行事が多く残っている。民俗学的に優れた材料の宝庫ともいえ、評価が高い。往々にして写真美術の題材になるなど、養蚕業の深奥はいまだに尽きるところがない。養蚕製糸業は当然製造工学的な技術発展をうながしており、これを背景に大正時代には日本最大の飛行機会社となった中島飛行機が設立された。人口は県庁所在地の前橋市が約34万人、隣接する高崎市が約37万人であり、(群馬県内では太田市(約22万人)、伊勢崎市(約21万人)も同様)実質的に双子都市となっているが、行政面では別々の地域とされることがほとんどである。
岡山県の岡山市と倉敷市、埼玉県の旧浦和市と旧大宮市(現さいたま市)の関係に似ている。平成17年度以前は、県内を4つの地域に区分するのが一般的に受け入れられてきた。以下、その地区ごとに県下12市7郡15町8村を記載する(市制施行が可能な町はなし、町制施行が可能な村は2村で、榛東村と嬬恋村)。なお、地域名は正式呼称ではない。「町」の読み方はすべて「まち」。「村」の読み方はすべて「むら」。群馬郡は、群馬県中部にあった郡である。人口22,303人、面積93.59km²。消滅前日となる2006年9月30日の時点で、以下の1町を含んでいた。飛鳥藤原宮出土の木簡に、「上毛野国車評」と書かれたものが見つかっている。群馬はもともと、上毛野国(後の上野国)の評(後の郡)としてある「車(くるま)」という地名であった。後、評が郡に変わって車郡になってから、713年(和銅6年)に好字二字で地名を表すことになったとき、群馬郡(くるまのこおり、くるまぐん)に改名されたと推測されている。
字の選択にあたっては、この辺りが馬産地であったことが考慮されたと思われる。「ぐんま」の読みは後になって生まれたもので、「くるま」は江戸時代まで使われていた。「ぐんま」に確定したのは明治時代からである。1878年(明治11年)に、利根川を境に東群馬郡と西群馬郡に分割された。東群馬郡の面積は小さく、1896年(明治29年)に南勢多郡に統合され勢多郡となった。このとき同時に西群馬郡と片岡郡が統合して群馬郡と改称した。1949年(昭和24年)に、群馬郡から北群馬郡が分立した。2006年10月1日、榛名町が高崎市に編入したため群馬郡は消滅した。尚、1878年以前の郡域で行くと北群馬郡と吾妻郡高山村の区域しか残っていない。群馬用水は、群馬県中央部の赤城山南麓・榛名山東麓を流れ、利根川の水を取水する灌漑用水路である。赤城・榛名山麓へ灌漑するため2幹線で構成されている。疏水百選にも選ばれている。水源は矢木沢ダム及び奈良俣ダムなど群馬県北部のダム。取水地は沼田市岩本の綾戸ダム付近の利根川西岸に存在する。
はじめは1流路の導水幹線だが、渋川市上白井の赤榛分水工で東西に分流し、西側の子持山南麓・榛名山東麓に向かう榛名幹線と、東の赤城山南麓を流れる赤城幹線の2本の用水路に分かれる。榛名幹線は約24kmで、子持南麓を通って吾妻川サイホン水管橋で吾妻川横断を行い、榛東村・高崎市へと流れ鳴沢湖へ至る。赤城幹線は約33kmで、渋川市内で利根川サイホン水管橋で利根川を横断、利根川東岸側へ流れて前橋市北部から桐生市(旧新里村)の早川池へ至っている。赤城、榛名両幹線の総延長約17kmが開水路になっている。また幹線水路の標高は約270m付近にある。農業用水が計画時の主な目的であったが、昭和55年(1980年)9月に計画変更を図り、水道用水にも利用されている。赤城榛名幹線に3箇所ずつ計6箇所の揚水機場が設置され、県央の前橋市など6市町村の標高140m~500mにある耕地約7,500haを灌漑する。水道用水利用は、同じく県央域の前橋市、高崎市、渋川市、伊勢崎市など9市町村である。
独立行政法人水資源機構の群馬用水総合事業所が管理を行っている。群馬県の赤城・榛名・子持山麓は水源に乏しく、農業経営が不安定だった。このため戦時中の昭和13年(1938年)から開田計画が策定されたが戦争激化で実行されなかった。 戦後、食糧不足もあって農林省が食糧増産対策事業を推進し、土地改良事業が全国的に行われた。この一環として赤城・榛名・子持山麓における灌漑用水路建設が企図されたのである。昭和27年(1952年)の初期計画では現在の2幹線は取水口が独立しており、取水地は現在と変わらないものの、赤城幹線が利根川東岸から取水するものだった。しかし昭和30年から農林省などで本格的な実地調査が行われた結果、昭和32年に大幅な計画変更がなされた。灌漑面積が減少したほか、利根川東岸に既存の発電所取水口があるため西岸からの一括取水・その後の分水が計画されることになったのである。 昭和37年(1962年)10月、水源となる矢木沢ダム建設を水資源開発公団が行うこととなり、群馬用水も昭和38年(1963年)8月、利根川水系における水資源開発基本計画に群馬用水が加えられ、翌年着工した。
当初は昭和43年(1968年)完成予定だったが、昭和40年(1965年)に揚水機場・支線工事か追加され、昭和44年(1969年)幹線水路が完成した。最終総事業費は115億円であった。しかし末梢工事が終了し最終的に完成したのは昭和47年(1972年)のことである。群馬師範学校は新制群馬大学学芸学部 (現・教育学部) の前身の一つとなった師範学校である。前身の群馬県師範学校から引き継いだ前橋市日吉町の校地を廃止まで使用した。日吉町校地は後身の群馬大学学芸学部に引き継がれた。群馬大学学芸学部は1966年に教育学部と改称後、1970年に市内荒牧町の校地 (現・荒牧キャンパス) に移転し、現在に至っている。旧日吉町校地には、現在は群馬県民会館などが建てられている。前身の群馬県女子師範学校から引き継いだ前橋市若宮町の校地を廃止まで使用した。若宮町の校地は後身の群馬大学学芸学部に引き継がれた。旧若宮町校地には現在、群馬大学教育学部附属小学校・附属幼稚園などが存在する。
群馬交響楽団は、群馬県にある常設の管弦楽団である。日本の地方管弦楽団の草分け的存在で、高崎市を本拠地として活動する。「群響」の愛称で多くのクラシック音楽愛好家に親しまれている。日本オーケストラ連盟正会員。1945年、「高崎市民オーケストラ」として創設した。翌1946年に「群馬フィルハーモニーオーケストラ」と改称、翌1947年にプロ化した後、1949年に財団法人が設立され、1963年に現在の名称に改められた。1955年、群馬交響楽団をモデルに制作された映画「ここに泉あり」(監督:今井正、出演:小林桂樹、岡田英次、岸惠子)が公開され、全国的に注目を集め、翌年には文部省により群馬県が全国初の「音楽モデル県」に指定された。さらに1961年、高崎市民の全面的な支援を受けて同市に群馬音楽センターが建設され、これを拠点としてさらに幅広い活動が展開された。また、1947年5月に始めた移動音楽教室では、2004年度までに延べ570万人以上の児童・生徒が鑑賞しているのをはじめ、県内各地での演奏活動の展開により、群馬県の文化の象徴として県民から幅広く支持されている。