2011年10月24日月曜日

生産に関する技術的諸問題の

科学的総合研究ならびに研究成果の実用化試験を目的として設立された。現在は研究部門を5つ、客員部門を1つ、寄付研究部門を2つ、研究センターを8つ、千葉実験所を持つ研究所である。大学院生約600名、教員約110名、研究・技術職員約160名が在籍し、大学に附置された研究所としては日本最大級であり、世界でも屈指の規模を誇る。途中で分離した航空宇宙部門をのぞく広い分野を研究領域とする。1942年に、千葉県千葉市弥生町の敷地14.7万坪(48.5ha)に、生産技術研究所の前身東京帝国大学第二工学部は、戦時体制下の技術者不足を見込んで設立された。1949年に第二工学部の学生募集を停止。同年第二工学部の後身として第二工学部内に生研は設立された。1951年に第二工学部は廃止。1952年に生産技術研究所は東京大学の附置研究所となる。1962年に、六本木の旧歩兵第三連隊兵舎へ移転した。西千葉の生研跡地は千葉大学西千葉キャンパスとなり、一部、大規模実験施設を千葉実験所として残した。

1964年、東大宇宙航空研究所(現 宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所)創設のためロケットグループは東大航空研究所(駒場IIキャンパス)に移転した。2001年に、六本木キャンパスから駒場IIキャンパスへ移転した。現在は、駒場IIキャンパスには研究所の研究部、事務部、附属研究施設であるセンターおよび共通研究施設の試作工場・電子計算機室等をおき、千葉地区には大型研究のための附属研究施設である千葉実験所をおいているが、千葉実験場は柏へ移転予定である。千葉空襲は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた千葉市に対する空襲のうち、1945年(昭和20年)6月10日と7月6日、7月7日のものを一般的に指す。戦後半世紀経過し、被災者の高齢化や歴史の風化などによって、同空襲のことを知る人は減少している。1942年4月18日、空母発艦によるドーリットル隊の本土初空襲が行われたが、前線は依然遠かった。しかし、1944年7月、サイパンなどマリアナ群島をアメリカ軍が制圧したことによって、日本の主要都市や軍事拠点に対し戦略爆撃が加えられるようになり、1945年3月10日には東京に大規模な空襲が行われた。

6月10日の空襲は午前7時45分からB-29の編隊100機によって攻撃された。被害地域は蘇我の日立航空機千葉工場(跡地は現在JFEスチール東日本製鉄所の一部)、新宿町、富士見町付近で、同日の空襲によって千葉県立千葉高等女学校(現:千葉県立千葉女子高等学校)などの施設も被災した。被災面積は26ha、死傷者は391名。7月6日の空襲は午前1時39分から3時5分にかけての夜間空襲で、B29・124機によって行われた。この空襲によって、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅のほか椿森や作草部等にあった鉄道第一連隊、気球聯隊、陸軍高射学校などの軍事施設に被害が出た。また、千葉市街地を目標にした129機のB29による焼夷弾などにより千葉市中心地のほとんどが焼け野原となった。 被災面積205Ha、死傷者は1204人。千葉都民とは、一般的に千葉県の新住民を指す。但し、定義は以下に挙げるように多義であり、使用する人によって意味が異なる。旧住民と新住民は、第二次世界大戦の前から代々居住しているか、後に移住してきたかで概ね区別される。

住所は千葉県内にあるが、東京都区部に通勤・通学し、住所のある千葉県には寝るために帰るだけの人々を指す。本来はこちらが原義と考えられる。千葉県内において、東京都区部近郊としての新興住宅地・ベッドタウンとして開発された所に転入して来た新住民全般を指す。狭義の千葉都民に加えて、その家族、及びその子孫までが含まれると見ていいだろう。新住民の内、取引先が地元中心の自営業者や地元勤務者は、新住民ではあるが千葉都民ではないと考える見方もある。千葉都民は、在来の旧住民との血縁や地縁が無い人々が多数派であり、戦後の主に高度経済成長期からバブル経済期に至るまで短期間に、大量に転入して来た。そのため、在来の旧住民の社会に同化せず、異なった生活文化を形成した。東京特別区郊外の住民の一部分という性質が強く、地元への密着性は低い。東京都区部にある会社や学校へ通っているため、千葉県民の日ではなく東京都民の日が休日になるといった現象も、この特徴である。

とは言えども、新住民の居住が長期化するに及んで、新住民の地方自治に関する関心が高まって来ており、時には旧住民と新住民の自治に対する考え方の違いが、対立を惹き起こす事もある。千葉都民はその成立過程ゆえ東京都区部のなかでも特に都心に通勤するホワイトカラー層というイメージがあり、このホワイトカラー層に属する者は東京都区部でも城東エリアに職場を持つ中小企業経営者・勤務者や工場労働者を千葉都民に含めることに違和感を覚える向きもある。上述の新住民の内、取引先が地元中心の自営業者や地元勤務者に性質が近いためである。その一方で、生粋の千葉県民は子どもを伝統的な県立高校に進学させたいと考えている一方、成績のよい子供をもつ千葉都民は県内外の有名私立中高に進学させたがる傾向が見られ、中学受験熱も盛んである。また、千葉大学に対する関心や評価も大きく異なる。これは裏を返せば、千葉都民は都心型、生粋の千葉県民は地域密着型のものの考えがその背景にあるといってもいいであろう。

政治意識の面において、(広義の)千葉都民は旧住民と明確に異なり、地元の事柄には無関心でかつ無党派が多いとされるため、その点を強調して解説するために、選挙報道では頻繁に使用される。類似語には、「神奈川都民」「埼玉都民」「茨城都民」などがある。いわゆる千葉都民を対象に、東京都心部のオフィス街で、千葉県の選挙の宣伝をしたりする事がある。県外で県の選挙の宣伝をするのは、東京近郊ではそれほど違和感はないが、それ以外の地方の人から見るとユニークな方法である。一般的には、千葉市に限らず、千葉県の都市部全体の新住民を指すことが多い。しかし、千葉市役所における行政文書などでは、近隣都市を「船橋都民」「市川都民」という風に区別し、千葉市民に限定して「千葉都民」の語を用いる場合もある。従って、使用された文脈で、千葉市か千葉県かを判断せねばならない。千葉ニュータウンとは、千葉県北部の北総地域にあるニュータウンの名称である。「千葉NT」のほか「チバニュー」と略されることもある。

千葉県北西部の3市(西から順に白井市、船橋市、印西市)にまたがり、首都圏においては多摩ニュータウンや港北ニュータウンに次ぐ大規模ニュータウンである。東西約18km・南北約3kmに広がり、総面積のうち約7割以上を印西市が占める。千葉県企業庁および都市再生機構(UR都市機構)による共同開発であり、計画当初は人口34万人と大規模な開発が予定されていたが、オイルショックやバブル崩壊、また少子化の影響もあり、当初の予定に比べて開発規模が縮小されている。 この影響で、十分な客を集められなかった北総鉄道北総線は多額の負債を抱え、運賃を高額に設定せざるを得なくなった。北総鉄道北総線の延伸によって沿線地域は開発され、ベッドタウン化により自治体の人口は増加し、印西市・白井市は開発当初は印旛郡印西町・同郡白井町であったが、それぞれ1996年(平成8年)4月1日・2001年(平成13年)4月1日に市制を施行している。2011年3月末現在の計画人口は14万3300人。居住人口は9万0684人。計画面積は約1,933ヘクタールである。千葉ニュータウンは大きく分けて6つの地区がある。

また千葉ニュータウン内には北総鉄道北総線6つ(うち2駅に成田スカイアクセス線の「アクセス特急」が停車)の駅が存在し、各地区に一駅ずつ位置している。駅は都心(品川・新橋方面)寄りから順に以下のとおりである。