茨城県の自然博物館である。「茨城の風土に根ざした自然に関する総合的な社会教育機関」として開館した。1994年(平成6年)11月13日開館。茨城県自然博物館進化基本計画第1章では「毎年40万人以上が来館する、日本を代表する自然史系博物館」と紹介している他、2004年(平成16年)の開館10周年にあたり、「茨城県自然博物館進化基本計画」と第した計画を推進し、その中で博物館の活動目標を「自然と共生し、市民と協働する博物館であること」と制定している。茨城県の博物館ではあるが、千葉県との県境付近に立地し、埼玉県や東京都からも10~20km圏内に位置する。また、つくばエクスプレス、常磐自動車道により都内等からのアクセスが良いことから、「通勤圏の大自然」と称してPRする看板がつくばエクスプレス六町駅ほか都内の駅で見られる。開館して以来、毎年約40万人が来館しており、2010年(平成22年)3月28日には入館者700万人を達成した。2006年に公表されたリピーター率は約65%である。
また、2007年度に要したコストは11億4,000万円であり、これは茨城県が所有する40の有料公共施設の中で最大であった。1997年(平成9年)から毎年1回『茨城県自然博物館研究報告』を発行している。北茨城市は、関東の北部、茨城県の北東端にある市。茨城県の最北端で、律令時代には東海道の最北端でもあった。20世紀頭になると、久原房之助が常磐炭田の運営に乗り出し、炭鉱町として発展した。炭鉱町の時期は、高度経済成長期まで続いた。常磐線・国道6号・常磐自動車道が縦断し、南の水戸市までは57km、日立市までは25km、北のいわき市平までは38km、いわき市小名浜までは25kmである。このため、県境を越えたいわき市との関係も親密であり、観光面でも、県内の他の市町村よりもいわき市と提携する傾向が大きい。又、いわき市の小名浜以南では、北茨城市の景勝案内が随所で見られる。商圏では、概して日立や平への傾斜が目立つ。野口雨情の出身地であり、岡倉天心が愛でた五浦海岸を抱えるなど、美的な景勝地が多い。1956年(昭和31年)3月31日 - 多賀郡磯原町、大津町、関南村、関本村、平潟村、南中郷村の6町村が合併・市制施行した。
当初は茨城市とすることになっていたが、県内の他の市町村からの反対により、同日付で北茨城市に改称した。理由には、県庁所在地と誤解を受けるおそれがあること、大阪府茨木市と同名になることも挙げられている。茨城都民とは、茨城県に居住し、東京都区部に通勤・通学する者のことを指す俗語。新聞の茨城面などでは一般的に見られる用語である。茨城都民は主につくばエクスプレスやJR常磐線・関東鉄道常総線沿線に居住しており、広義では守谷市・取手市・龍ケ崎市・牛久市・つくばみらい市・土浦市に住んでいる都区部通勤者を指して使われる。 また、都心回帰と通勤圏縮小、鉄道利便性の関係で、東京都心から40km圏の守谷市と取手市、守谷市と一体化した市街地(絹の台)を持つつくばみらい市を指して使われることが多い。つくば市も一定数の都区部通勤者がいるが、ベッドタウンとは一線を画した筑波研究学園都市という独立した都市であることからあまり茨城都民という言葉は使われない。
また、県西地区の古河市からも東京都区部に通勤する者が龍ケ崎・牛久と同程度いるが、埼玉と栃木に挟まれた立地から広義にも「茨城都民」という言葉は使われない傾向が強い。茨城県南地区、県西地区の一部が東京のベッドタウンとして開発され、茨城県から東京都区部に通勤する者が増えたことに端を発する。茨城都民が多く居住する地域では、県庁所在地である水戸市に行くよりも東京都区部の方が近い。また、東京方面への方が交通至便であることからも水戸方面への関心が薄い傾向がある。 2005年のつくばエクスプレス線の開通により、沿線では住宅や高層マンションの建設が進んでおり、つくばエクスプレス、関東鉄道常総線沿線で「茨城都民」が増える傾向にある。茨城弁とは、茨城県内および福島県東南部で話されてきた日本語の方言の総称。東関東方言に分類される。茨城県は常陸国と下総国北部で構成されており、古くより統一的な方言として扱われていたわけではなく、現在の茨城県が構成されて以降の分類である。
ただし本稿では茨城県構成以前の方言も便宜上、茨城弁または茨城方言と総称する。茨城県の方言は、大きくみて東北方言に含むとする説と、関東方言に含むとする説がある。前者は都竹通年雄や金田一春彦などであり、後者は東條操や平山輝男などである。都竹通年雄の「季刊国語3の1:昭和24年」によれば、本土方言の本州東部方言の南奥羽方言に分類され、岩手県南部・宮城県・山形県東部・福島県・栃木県と同じ区分に含まれる。1955年(昭和30年)の金田一春彦の(第1次)「世界言語解説(下)」では、東日本方言の北部方言の南奥方言に分類され、ここでの南奥方言の該当地域は、都竹通年雄とほぼ同じである。1953年(昭和28年)の東條操の「日本方言学」によれば、茨城県の方言は栃木県大部分とともに、関東方言の東関東方言に含まれる。茨城弁は、関東地方のはずれにある一方言である。そのため、基本的な語彙は、関東地方に古くから伝わる方言に属しながら、特に東北地方との関係が深く、東北弁の南端をなす方言である。
実際、東北の一部である福島県いわき市周辺では、茨城弁に属する方言が話されている。北方言と茨城弁では、同じ言葉や類似語が数多く存在する。発音やアクセントに関しては西関東方言よりも東北方言に近く、福島県や宮城県とほぼ同じ発音・アクセントであるが、岩手県・青森県となると、茨城弁話者でもかなり注意深く聞かないと聞き取れない。ただし、以下の東北方言との相違がある。一方、『東京方言集』(斎藤秀一編)を見ると解かるように、東京にはかつて江戸時代に花開いた特殊な文化語もしくは民俗語が数多くあった。それは浪花言葉とも共通する現象である。それに対して明治以降横浜で花開いたいわゆる「横浜ことば」は英語を中心にした外国語と当時の横浜弁が混じったものである。船乗りを指す「マドロス」、酔っ払いの「どろんけん」、ちゃぶ台、ペケ等は横浜言葉に発すると言われる。これらは今では標準語化している。一方茨城弁はいわゆる江戸の下町言葉である「べらんめえ言葉」をよく残している。
関東圏の方言は概ねその影響を受けているが、茨城では著しい傾向がある。江戸期の滑稽本である『浮世風呂』を見ると、現代(昭和)の茨城弁と同じではないかと思ってさえしまう。ただし、滑稽本は前後関係を良く見ないと田舎者が語った言葉かどうかも判断しなければならないが、関東方言の一部であることは間違いない。古くから特別視されてきた八丈方言に関して橘正一は『方言学概論』の巻末で、特定の方言書に記載された八丈方言と他の方言との共通語の数を地域別にまとめた報告がある。これにより、八丈方言は、岩手を中心とした東北各県との関係が最も深く、次いで静岡、関東では唯一茨城との関係が最も深いことが解かった。