2011年10月1日土曜日

群馬県は

日本の都道府県の一つで、関東地方北西部に位置する。県庁所在地は前橋市。県中北部に広大な山地を有する自然豊かな県である。上代においては栃木県域とともに「毛野国」(毛の国)を形成し、これを上下に分かち「上毛野国(かみつけぬのくに)」とされ、のちに上野国となる。現在の県域はほぼ上野国と一致し、今でも異称として「上州(じょうしゅう)」「上毛(じょうもう、かみつけ)」を用いることがある。県名は、前橋が属していた群馬郡から採用された。

群馬郡は元は「くるまのこおり」と言い、藤原京木簡では「車」の一字で表記されていたが、奈良時代の初めに全国の郡や郷の名を二文字の好字で表記することとなり「群馬」と書くようになった(群馬郡#歴史も参照)。群馬は「馬が群れる」という意味であり、貴重な馬が群れている豊かな土地であり、また、そうなりたいという願いがあったのであろう。この地方が古くから馬に関係あったことはよく知られている。「空っ風」「雷」「かかあ天下」が名物。海洋国家である日本において、内陸部に位置する数少ない県である。

かかあ天下の由来としては、富岡製糸場などの「おかいこさん」による婦人方の稼ぎがあったことが考えられる。また、群馬県は一世帯当たりの自動車保有台数、女性の運転免許保有数が日本一多い。平成20年度の県内総生産は7兆2214億円であり、世界の過半数の国の国内総生産 (GDP) より大きな規模を有している。一人当たり県民所得は269.2万円である。関東の西北部に位置し、北は福島県と新潟県、西は長野県、南は埼玉県、東は栃木県に囲まれた内陸県である。

群馬県と福島県の県境地域は立ち入りが厳しく制限された自然・環境保護の象徴である尾瀬国立公園となっており、福島県へ自動車で直接行くことは出来ない。福島県との県境は会津沼田街道が通っている。県域東南部は関東平野となっているが、県域西部から北部にかけては関東山地、三国山脈などの山地が連なり、日本でも桜島と並ぶ最も活発な活火山の一つである浅間山を始め、榛名山、赤城山、妙義山の上毛三山、草津温泉を抱く草津白根山など全国的に著名な山が多く、前出の草津温泉を始め伊香保温泉、水上温泉など温泉も豊富である。

また県内の諸河川を集め利根川となり、東流して太平洋及び東京湾に注ぐ。分水嶺を挟んだ県域である信濃川流域の野反湖と阿賀野川流域の尾瀬の水は日本海へ注ぎ、関東地方で日本海側河川の集水域になっているのは群馬県だけである。また、利根川流域の一つ鏑川の源流は長野県佐久市となり長野県域を源流に持つ。県の形が羽を広げた鶴のように見えるため、上毛かるたでは「つる舞う形の群馬県」という札がある(県東端の板倉町を鶴の頭とする)。

県域北部は北毛と呼ばれ、赤城山や谷川岳などの山岳部となっている。豪雪地帯に指定されている地域が多く、冬季のスキーリゾート地として知られる。この地域には草津・伊香保・水上・四万などの温泉も多く、神奈川県西部や栃木県北部とともに関東有数の温泉地である。県域南部は関東平野の北端に当たり、中毛・西毛・東毛の三地域に分けられる。他の関東地方平地部と同様に夏季多雨、冬季少雨を呈する。中毛地域の前橋市は畜産業などの農業が盛んである。

西毛地域の高崎市は商工業を中心に発展しており、群馬県における交通の要衝である。前橋市や高崎市周辺は県の施設が多数設置され県の中心地域となっている。東毛地域北部の桐生市は織物(桐生織)の生産が盛んであり、鋸屋根の織物工場や蔵造りの商家など歴史的建築物が多く残る関東有数の機業都市である。中毛地域南部の伊勢崎市は絣(かすり:伊勢崎銘仙)の産地として、東武伊勢崎線の終点として有名である。

東毛地域南部の太田市や大泉町は、東北自動車道に近いことから内陸型の組立工業が発達しており、富士重工業を中心に発達してきた北関東屈指の工業都市である。食物は板倉町のきゅうり、下仁田町のねぎ、嬬恋村のキャベツ、富岡市や下仁田町のこんにゃく、前橋市と桐生市のソースカツ丼、館林市と渋川市伊香保町水沢地区(旧・伊香保町)のうどん、桐生市のひもかわうどん、太田市の焼きそばなどが有名である。

県の人口の7割ほどが南部平野部に集中しているが、県内の地域ごとに拠点都市が分散していることから、明確な首位都市が存在しない。平野部に位置する前橋市・高崎市・桐生市・太田市は、それぞれ「県都」・「商都」・「織都」・「工都」と称され、歴史・行政・農業・工業・商業といった機能を分担している。律令制の下では東山道上野国で、国司が国を治める国府の所在地は現在の前橋市元総社町付近であったと推定されているが、その遺跡は確認されていない。

周辺に国分寺・国分尼寺の跡がある。10世紀の郡は、碓氷(うすい)・片岡・甘楽(かんら)・多胡・緑野(みとの)・那波・群馬(くるま)・吾妻(あがつま)・利根・勢多・佐位・新田・山田(やまた)・邑楽(おうら)の14、郷は102(『和名類聚抄』)。和銅4年(711)、多胡郡は片岡・緑野・甘楽の3郡から300戸を割いて設けられた。延喜式神名帳に記載される名神大社としては後に一ノ宮となった貫前神社(富岡市)や赤城神社(前橋市に論社3社)、伊香保神社(伊香保町)があり、高崎市の辛科神社は渡来系の神社として知られている。

この辺りには古くから渡来人が多かったようで、8世紀始めに甘楽、緑野、片岡各郡から6郷を割き、多胡郡が成立した。多胡郡建郡を記念する多胡碑など上野三碑が古代の金石文として知られる。荘園や御厨、国衙領が成立し、それを基盤として中小武士団が勃興した。県東部の邑楽・新田・佐位郡と北部の利根・吾妻、西部の碓氷・多胡郡は郡域が荘園化し、一方で群馬郡・甘楽郡はほぼ全域が国衙領として渋川郷(保)・桃井郷・白井保・長野郷・和田郷・岡本郷などが成立した。他は混在している。

このため武士団の出自に地域傾向がある。まず県北部から東部にかけては秀郷流藤原氏(佐位・那波・林・薗田・大胡・山上氏)が入り、続いて東部の新田荘に新田氏一族(新田本家・里見 ・山名・得河・世良田・岩松)が入り拡大した。県南部は秩父党系(小幡・飽間・小林氏)が武蔵から入った。多胡郡は荘園として源義賢が開発し、のちに多胡氏が拠った。一方国衙領がほとんどの群馬郡・甘楽郡では、在庁官人系と推測される諸氏(渋川・桃井・長野・和田・岡本氏など)が勃興した。

これらの武士団は、新田一族を除き中世の騒乱のなかで力を失っていった。まず治承・寿永の乱で、源義仲が多胡郡から県西部に影響力を持ち、東部では新田荘の新田義重が自立した。隣接する足利には秀郷流藤原氏の惣領・藤原姓足利氏が平家側にあった。一方秀郷流藤原氏の一族・新田氏の分家(里見・山名)や多くの武士は源頼朝に従った。その後、最終的に源頼朝の勝利に終わった結果、義仲についた佐位氏・那波氏・桃井氏、平家についた藤原姓足利氏が没落、新田義重も地位が低下した。

頼朝についた武士団は鎌倉御家人となった。鎌倉期には和田合戦で渋川氏が没落した。在地領主が没落したのちには、新たに領主が入り、同じ名の氏族を名乗った。藤姓那波氏旧領には大江氏系の那波氏が、渋川氏・桃井氏は源姓足利氏の一族が入った。