関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置し、太平洋プレートがオホーツクプレートに沈み込んでできた弧島型火山である。また、赤城山はカルデラ及びカルデラ湖を持つ関東地方で有数の複成火山である。約50万年前、足尾山地と古利根川の間の低湿地、柏崎千葉構造線の群馬県東部部分(利根川構造線)の割れ目で火山活動が開始される。安山岩質(Sio2 54 - 60%)の溶岩とスコリアから成る成層火山を形成した。最大時の標高は2,500m程度と推定される。約20万年前ごろから二酸化ケイ素の量が増えて溶岩がデイサイト質になり、それに伴い爆発的噴火が多発し、火砕流や山体崩壊による岩屑なだれが山麓に流下して現在の広い山麓を形成した。標高が1500mほどになったとみられる。南西側へは赤城橘山岩屑なだれがあり、赤城西側にある孤立丘群(橘山・箱田山・十二山など)、上毛大橋東側にあるカール状地形を形成した。一説には、群馬県昭和町の岩神飛石や敷島公園のお艶が岩はこの岩屑なだれによるものだという。
南東麓側では梨木泥流が発生している。山体崩落に伴う大規模な岩屑なだれであり、大胡・大間々方面へ流れ、伊勢崎市北部(権現山・華蔵寺周辺)まで到達した。その後、いったん火山活動は休止した。上毛かるたの読み札に『裾野は長し赤城山』とあるように、群馬県民の間では「あかぎやま」と呼ばれ、親しまれている。地元の道路案内標識での表記は「赤城山Mt.Akagi」のほかは、「赤城山Akagiyama」または「赤城山Mt.Akagiyama」である。また、昭和時代の郷土力士である赤城山晃(藤岡市出身)の四股名の読み方も「あかぎやま」である。赤城山は国土地理院の地図ではあかぎさんと記載されていた。これは「山」を「さん」と読むと規定されていたからだが、群馬県、特に前橋市周辺であかぎやまと呼ばれて親しまれていたため、群馬側がこれに異議を申し立て、あかぎやまへの改称を求めた。国土地理院はこれを受け入れ、現在発行の地図はあかぎやまとなっている。一方、国土地理院サイトの山の紹介では「あかぎさん」を第一とし、「あかぎやま」は備考として扱われている。
また、赤城山周辺にいくつかある「赤城山」という地名は、江戸時代の入会地が宮内庁管轄の御料地を経て1950年代頃に大字となったとき初めて付けられたもので、すべて「あかぎさん」と読む。地名の呼び方は「やま」と「さん」が混在しているともされる。このほか、日本酒の銘柄である「赤城山」は、どちらの読みでも構わないという蔵元の考えから、ラベル等にはあえて振り仮名を記していない。冬期の関東平野に吹く特有の北風「空っ風」を、群馬県平地部や埼玉県北西部では赤城颪(あかぎおろし)と呼ぶ。この語源は赤城山の方角から吹くため。上毛かるたの読み札には『雷(らい)と空風(からっかぜ) 義理人情』とあり、群馬県を語る上で空っ風の存在は外せない。東武鉄道が長年「赤城山大洞」「赤城青年の家」「畜産試験場」の路線を運行していたが、東武鉄道の群馬県撤退を機に関越交通が継承し、行き先を変更した。吾妻峡は、群馬県を流れる吾妻川上流の吾妻渓谷のうち、東吾妻町から長野原町に至る区間をさす。
地理学者である志賀重昂から「関東の耶馬渓」と称された景勝地で、1935年(昭和10年)12月には国の名勝に指定された。安山岩を中心とした火山砕屑層が長年の浸食を受けて形成されたもので、非常に変化に富む。一帯には奇岩、断崖が覗かせ、無数の瀑布、深淵が連続する区間である。吾妻渓谷は、群馬県吾妻郡を流れる吾妻川の渓谷である。国指定名勝となっている八丁暗がり付近を特に吾妻峡と呼ぶ。「関東の耶馬溪」の異名をとっており、群馬県では上毛かるたの「耶馬渓しのぐ吾妻峡」の札でも知られる。また、若山牧水がこよなく愛した景勝としても有名である。建設の進む八ッ場ダムは渓谷の中途に作られ、完成の際は一部がダム湖に沈むこととなる。妹ヶ谷不動の滝は、群馬県藤岡市を流れる三波川上流部にかかる滝である。東御荷鉾山の石神峠付近を源とする沢が三波川本流に合流する付近にかかる。付近は緑色の変成岩である三波石の産地であり、本滝もその露頭を滑り落ちるように流れる。
本滝の上流にも1~2m程度の滝が数段かかる。本滝のすぐ上には妹ヶ谷不動尊があり、毎年4月28日に氏子による獅子舞が奉納される。これに併せて本滝の上にしめ縄が張られる。入沢の滝は、群馬県多野郡神流町を流れる入沢川支流にかかる滝である。裏見の滝となっている。本滝は、愛宕山を流れる入沢川にかかる滝である。 標高600m付近にあり、落差30〜40m程度。 滝の下1/4程度が硬いチャート層となっているため二段になっており、上段の下部が侵食され裏見の滝となっている。滝を超えた奥に小さな祠があり、不動明王が祀られている。尾瀬は、福島県・栃木県・群馬県・新潟県の4県にまたがる高地にある盆地状の高原であり、阿賀野川水系最大の支流只見川の源流域となっている。中心となる尾瀬ヶ原は約 1万年前に形成されたと考えられる湿原である。尾瀬国立公園に指定され、日本百景に選定されている。尾瀬はほとんどの場所に木道が整備されており、湿原だけを回る場合は標高差は最大でも260m程度であり、歩行はそれほど困難ではない。
登山道から木道があることから、軽装の観光客も多いが、現地は山岳地帯であり、同じ群馬県内の高崎などの平野部と比べて気温も10℃以上差がある。多くの人が訪れる初夏のミズバショウの季節は残雪も多く、気象の変化により急激に気温が低下することもある。東京電力が発電所建設や分水路建設計画を正式に断念するのは1996年になってのことである。ただし現在でも尾瀬地域の群馬県側は全てが東京電力の所有地である。現在の東京電力や子会社の尾瀬林業は、木道の建設や浄化槽式トイレの建設、湿原の復元など、環境省や各自治体と並び尾瀬を守る活動の主体のひとつとなっており、尾瀬林業は尾瀬地域の5つの山小屋の経営母体でもある。1999年には自然保護を理由に、乗合自動車以外の自動車の乗り入れが一部禁止された。規制は数年かけて徐々に強化されており、2008年現在、群馬県側の鳩待峠口では5月中旬から7月末および10月初めから中旬の全日と8・9月の週末は自家用車の乗り入れができなくなっている。
また、福島県の沼山峠口では通年自家用車の乗り入れができなくなっている。その他、かつて唯一峠まで自動車で登ることができ、1960年代は最も多くの登山者が利用した富士見峠は、後述するアヤメ平の保護のために、富士見下から富士見峠間について通年許可車以外の通行はできなくなっている。