2011年10月31日月曜日

過去には臨時特急や臨時急行

ごく短期間ながら定期急行が2度設定されていた。また臨時特急は線内は京成津田沼と千葉中央以外は無停車であった。1921年(大正10年)に本線の船橋 - 津田沼間と同時に津田沼 - 千葉間が開業した。これは本線の津田沼 - 成田間よりも優先され早い開業となった(京成津田沼駅から京成本線が当線下をくぐり、大きく内陸方へカーブする形で分岐しているのはそのためである)。千葉線は県都である千葉への輸送、東京湾岸への観光客の輸送を目的として設置された。当時の千葉線はみどり台駅の開業時の駅名「浜海岸駅」、西登戸駅の開業時の駅名「千葉海岸駅」が示すとおり現在よりも遥かに海に近く(おおよそ現在の国道14号線が昭和30年代ごろまでの海岸線であると考えて相違ない)、海水浴客や、潮干狩りを楽しむ行楽客でにぎわった。また住環境が良かったため、京成稲毛駅や西登戸駅周辺は別荘地としても賑わいを見せた。1935年(昭和10年)に省線(国鉄)の千葉駅までの電化が完成する前までは、千葉線の方が圧倒的優位に立っていた。

1970年代以降、旧国鉄の「通勤五方面作戦」の一環としての、1972年(昭和47年)の東京駅と津田沼駅を結ぶ総武快速線開通(中央・総武緩行線と合わせ、総武線が津田沼まで複々線化)や1981年(昭和56年)の複々線区間の千葉駅までの延長、さらに1990年には海側に建設された新規路線である京葉線が東京駅まで開通したことで、京成千葉線は東京駅と千葉市を結ぶJRの両路線に挟まれた形となり、千葉線は都心アクセスの上で不利な状況となり、本線直通列車の本数も大幅に削減された。2006年(平成18年)からは松戸・鎌ケ谷方面へのアクセス強化を図るため、1955年(昭和30年)に約4か月ほど実施されただけであった新京成線との直通運転を再開する。新京成車両による片乗り入れで、千原線への直通運転は行わないものの、千葉への新たなアクセスルートが確立した。千葉弁、または房総弁は千葉県で話されている日本語の方言である。房総地域は西関東方言と東関東方言の移行地域であり、北西部では江戸言葉の影響を強く受けているなど、隣接地域と区別されるような特徴はほとんどなく、千葉県で話されている諸方言をまとめて指すときの便宜的な用法という面が強い。

千葉県の方言は文法も音韻も西関東方言と東関東方言の中間地帯である。地域ごとに差異も大きく、隣接する他方言と連続している。北西部の東京通勤圏では首都圏方言が広がって伝統的な方言は姿を消している。千葉弁は西関東方言とされることが多いが、実際は両者の中間地帯であり、東関東方言の影響の方が強い地域もある。千葉県で話されている方言は、茨城弁と連続する野田弁(埼玉県東部で話される葛飾方言に含まれることもある)、房総半島で話されている房州弁、房州弁と茨城弁の中間的な東総弁などがあり、方言の地域的なまとまりは薄い。銚子や浦安などの漁師町では、漁師たちが西日本から移住してきたため、方言に西日本方言の影響があった。アクセントは野田市付近が特殊アクセント~無アクセント、北東部と南部はは中輪東京式アクセント、中部は中輪東京式アクセントの変種である。北部ではイ段・ウ段の中舌母音、イとエの統合、カ行・タ行の濁音化等東北方言的特徴が見られる。

概ね西関東方言と共通するが、東関東方言(茨城弁)に共通する要素も多い。例えば推量は北西部を除き「だんべぇ」ではなく「だっぺ」や「だべ」を用いるほか、北東部では方向を表す「~へ」に「~さ」を用いることがあるなど東北方言~東関東方言と共通する。千葉市動物公園は、千葉県千葉市若葉区源町280番地にある動物公園である。遊園地の「ドリームワールド」を併設する。千葉市都市局公園緑地部が運営する。開園当初から、世界の霊長類の飼育、特に絶滅が危惧される希少種の繁殖に力を入れ、また、猛獣を避け、小動物・草食動物・鳥類などの動物を飼育する傾向にある。レッサーパンダの風太(後述)を飼育する。2006年放送のテレビドラマ『僕の歩く道』(関西テレビ)でロケに使われた。千葉市昭和の森公園は、千葉県千葉市緑区にある総合公園である。約100haの敷地は千葉市内の公園としては最大の規模で、ユースホステル、キャンプ場、野球場、テニスコート、サイクリングコース、ウォーキングコース、遊び場、自然公園などの施設がある。

公園の一部は県立九十九里自然公園に指定されている。日本の都市公園100選に選定されている。千葉県立富津公園は、千葉県富津市の富津岬内にある千葉県立公園。富津岬の先端部に位置する「明治百年記念展望塔」は、関東の富士見百景やちば眺望百景に選ばれており、「中の島公園展望塔」は、ヘリテージング100選に選ばれている。園内には東京湾要塞を構成した富津元洲堡塁砲台の遺構が残っている。かつては沖にある第一海堡まで干潮の時、陸続きとなった。千葉県野球場は、千葉県千葉市稲毛区天台町の千葉県総合スポーツセンター内にある野球場。所在地から県営天台球場という通称でも呼ばれる。施設は千葉県が所有し、千葉県体育協会・まちづくり公社グループが指定管理者として運営管理を行っている。1968年7月完成。1973年に千葉県で開催された第28回国民体育大会(千葉若潮国体)に合わせて整備された総合スポーツセンター内にある。1990年代中盤まで、夏の甲子園千葉県大会のメインスタジアムとして使用されたが、その後千葉マリンスタジアム(2011年3月より「QVCマリンフィールド」)で準々決勝以上の試合を行うようになった他、現在では開会式も同球場で行われており、県内の中心的な役割の野球場は既に千葉マリンスタジアムに譲った格好になっている。

但し千葉マリンスタジアムの開催日程はあくまでも千葉ロッテマリーンズの公式戦が中心となっており、夏の大会は例年準々決勝まで当球場を中心に開催されている。また社会人野球でも千葉県予選や南関東地区予選で多用されている他、千葉県大学野球連盟の公式戦も年間数試合程度であるが使用されている。かつてはプロ野球でも使用され、毎年3月にヤクルトスワローズなどがオープン戦を開催していたが千葉マリンスタジアムの開場以降、プロ野球の試合は専ら同球場での開催となっている。ロッテは1972年オフに当時本拠地だった東京スタジアムが閉鎖され、翌1973年から暫定的に県営宮城球場(現・日本製紙クリネックススタジアム宮城)を本拠地とした後、再び首都圏を本拠地とすることを画策した際に当球場を候補に挙げていた。また、1978年に川崎球場に落ち着いてからも同球場の老朽化や設備不備を理由に関東近県に本拠地を移転する事を画策し、この際にも当球場が候補に挙がった。

しかし当球場は夜間照明設備が無いことや収容人員が30,000人に満たないこと、更に当時はまだモノレールも未開通でアクセス条件に難があるなど問題点が多く、いずれも実現には至らなかった。しかし1990年、千葉市が海浜幕張地区に千葉マリンスタジアムを完成させたことで、ロッテの千葉市への本拠地誘致が実現する運びとなった。 1983年には第12回日米大学野球選手権大会の7試合のうち1試合が当球場で開催され、その模様が大学野球としては珍しくテレビ朝日の制作により全国31局ネット(北陸放送・南海放送など、系列外の局も含む)で生中継された。2005年12月3日、NPO千葉ふれあい野球連盟が主催する「プロ野球選手ふれあいチャリティー野球大会」に、ロッテの選手が参加。同連盟と親交がある初芝清の引退試合となった。軟式の草野球の試合だが、初芝はロッテ選抜チームの選手兼監督として出場。三塁手の他に二塁手や中堅手、更には高校時代以来、投手としてもマウンドに上がり、野茂英雄よろしく「トルネード投法」を披露した。

この試合で初芝は9回裏二死満塁の場面でフライを打ち上げ“選手生活”に幕を下ろした。試合はロッテ選抜が敗れた。なお、ロッテは同年のポストシーズンにおいてプレーオフ、日本シリーズ、アジアシリーズと負けなしで乗り切ってアジアNo.1に輝いただけに、初芝は“連勝を止めてしまった”ことに触れて「いい厄払いになったと思います」と話し、場内の笑いを誘った。

2011年10月30日日曜日

こうしたいわゆる役人の論理とは

異なる学問の論理に基づく博物館建設は、日本の行政機構上は困難であるというのが当時の常識であったが、当時の千葉県知事が日本の生態学界や千葉県の自然保護に関して大きな力を持っていた沼田眞の実弟沼田武であったという奇貨ともいえる組み合わせにより、当時としては常識はずれのこの事業が可能になったと言われている。これにより千葉県内では「沼田記念館」などと揶揄されている。ただし、実際には沼田眞が1948年に設立し、彼自身が40年間に渡り会長を勤めて育て上げた千葉県生物学会の研究活動がこの博物館建設の前史としてあり、この学会から1965年以来千葉県当局に出されてきた自然史博物館建設の要望と、会員による研究活動、資料収集活動が四半世紀近くの地道な活動を経て結実したものであることが、この博物館の設立の根底にあることを見逃してはならない。こうした、初動体制から実績ある学界の主導的立場にある学者を権限ある館長職に迎えて統率をとらせ、先端部分で注目されている若手研究者を大量採用して実働部隊とする手法は、豊富な研究成果と活発な社会教育活動につながり、先進事例として1980年代末から1990年代前半にかけて日本の各県で建設された多くの大型県立博物館に踏襲された。

こうした例は、兵庫県立人と自然の博物館と霊長類学の河合雅雄館長、滋賀県立琵琶湖博物館と動物生態学の川那部浩哉館長の組み合わせに、その典型例を見ることができる。しかし、バブル経済の崩壊とともに千葉県の財政が極度に悪化し、また沼田眞(植物生態学・1989年-1998年)、千原光雄(海藻学・1998年-2002年)といった初期の個性的な学者館長の時代が終わったこともあり、1990年代末から運営資金の大幅な削減やそれによる業績出版活動の停止、2004年からの常設展示の有料化およびそれに伴う来館者数の大幅な落ち込みなど、大きな転換点に立たされている。総合博物館ではあるものの、常設展示は設立の前史の経緯もあり、自然史的展示の比重が大きい。ナウマンゾウや鯨の骨格標本、清澄山の照葉樹林や東京湾の干潟のジオラマ、などが目立った展示物であるが、景観生態学的観点に立った谷津田の生態系や伝統的な農村生活の展示、千葉県産の主要な昆虫の標本を収めた標本箱を壁一面にはめ込むなど、膨大な主要分類群の標本を一室に集めた生物の分類展示などにこの館の特色を見出せる。

純人文分野の展示では千葉県の通史が解説されており、重要文化財の銚子市常灯寺の木造薬師如来座像の複製など各地で現地管理されている県内主要文化財のレプリカが多く展示されている。第65回国民体育大会は2010年(平成22年)に千葉県を中心に開催された国民体育大会である。千葉県開催分の愛称はゆめ半島千葉国体であり、マスコットキャラクターはチーバくんである。2年前の2008年に開催された「チャレンジ!おおいた国体」時にも台風15号により影響が出たが、ゆめ半島千葉国体においても、開催時期が秋雨時期による影響が発生した。屋外で行われるソフトボール、ゴルフ、ボート、高校野球(硬式野球、軟式野球)の開催に影響が出た。これは、主催者の協議により「大会の競技期間の短縮(例・4日間を3日間に短縮)は可能だが、期間延長(例・3日間を4日間に延長)は原則不可とする」という取り決めがあったためである。具体的には以下の措置が取られた。ソフトボール(成年男子、成年女子、少年男子、少年女子) - 1回戦(9月26日)のみ実施、9月27日・28日は中止。

準々決勝以降を打ち切り、ベスト8に進出したチーム全てを第1位とし、1回戦シードとなっていたチームは1戦も戦わずして第1位となった。ゴルフ(成年男子団体、成年男子個人、女子団体、女子個人、少年男子団体、少年男子個人) - 9月22日のみ実施し、23日は中止。そのため全競技2日間予定のところを、22日実施の1日間だけのラウンドで結果を決めることになった。ボート(成年男子、成年女子、少年男子、少年女子) - 9月26日は台風12号の影響で全競技中止。そのため、全区分で敗者復活戦は中止された。高校野球(軟式) - 1回戦(9月26日)及び準々決勝(9月26日・29日)のみ実施、9月27日・28日は中止。準決勝、決勝を打ち切り、ベスト4に進出したチーム全てを第1位とした。なお、29日の関西高校(岡山県)対作新学院高校(栃木県)の試合は引き分けで両校ベスト4となり、結果5校が第1位となった。高校野球(硬式) - 1回戦(9月26日・29日)及び準々決勝(9月29日)のみ実施、9月27日・28日・30日は中止。2回戦の一部試合と準決勝、決勝を打ち切った。

硬式については、ベスト4が出揃わなかったため、規定により2回戦を勝利したベスト4の高校2校は第1位とはならなかった。この年は興南高校(沖縄県)が春のセンバツ・夏の甲子園を制しており、国体も制すれば3冠達成と注目された大会でもあったが、天候に泣いた形となった。なお、高校野球については、公開競技であるため、天皇杯・皇后杯得点への影響は無かった。千葉県立図書館は、千葉県が運営する公共図書館である。千葉県内に3施設ある。2010年に千葉大学附属図書館と相互協力協定を締結し、同図書館の資料も利用可能となっている。隣接地域の公共図書館に比較し休館日が多いので(年間84日)、利用する際には開館日を確認する必要がある(参考:都立図書館の年間休館日は30日)。千葉県警察は。千葉県公安委員会の管理の下、千葉県が設置した警察行政機関。千葉県警と略称し、給与支払者は千葉県知事である。関東管区警察局管内。県庁に近接する千葉市中央区長洲1丁目9番1号に位置する。

旧本部庁舎老朽化に伴い、2009年6月1日に、隣接する旧千葉県庁南庁舎跡地に新築された庁舎に移転した。庁舎新築にあたっては、PFI方式が採用された。110番通報を受理する通信司令室や交通管制センターは、千葉みなと駅近くの本部分庁舎に入庁していたが、新本部庁舎落成に伴い、移転した。なお、千葉県警察出先機関、県内の各警察署庁舎は、狭隘及び老朽化が著しく、優先順の高い物から順次、整備建て替えが行われている。管内には成田国際空港、警察庁関連施設、観光地などが所在し、東京と隣接している首都圏警察であることから、警視庁との合同捜査も頻繁に行われる。 過去には、成田空港を抱える特殊事情から、新規採用されて警察学校を卒業した警察官は全員が機動隊にまず配属されていた時期があった。千葉線とは、千葉県習志野市の京成津田沼駅と千葉市中央区の千葉中央駅を結ぶ、京成電鉄の鉄道路線。京成津田沼駅で京成本線から分岐する路線で、同駅で本線・新京成電鉄新京成線、千葉中央駅で千原線と接続、直通運転を行っている。

東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線と京葉線の中間地帯の総武本線寄りを走り、京成千葉駅より南ではJR外房線と並走している。各駅に停車する普通のみの運行で、日中は京成津田沼 - ちはら台間の千原線直通列車と、松戸 - 千葉中央間の新京成線直通列車がそれぞれ20分間隔で運行されている。両列車が交互に運転するため、京成千葉線内は10分間隔の運行である。朝夜の一部に本線の京成上野まで直通する列車があるが、全区間が各駅停車の普通のみの設定である。朝は上り(京成津田沼方面)は日中と同じ10分間隔、下り(千葉中央方面)は幕張新都心への通勤利用が多いことを考慮して、6 - 10分間隔で設定されている。新京成線との直通運転においては、現在のところ新京成電鉄の6両編成の車両(8900形と800形を除く)のみが乗り入れている。新京成線内では「普通」の表示を出さない新京成車両も千葉線では「普通」の表示を出して運行している。表示の切り替えは京成津田沼駅で行われる。

千原線ちはら台行きの列車の方向幕・行き先表示は「(千葉)ちはら台」(ちはら台の前に改行)となっている。なお、運転実績はないが土曜・休日の夕方に1往復不定期特急の設定があり、試運転列車などでこのダイヤを使用していたこともあった。千葉線内の停車駅は京成稲毛と京成千葉のみである。このため千葉線内の速度標識には特急の速度表示も示してある。また、これとは別に1968年(昭和43年)6月より1974年(昭和49年)12月までは線内に通過駅がある快速が存在した。停車駅は、幕張・稲毛・黒砂(現・みどり台)・国鉄千葉駅前(現・京成千葉)。なお国鉄千葉駅前の停車は1968年(昭和43年)11月改正からである。

2011年10月29日土曜日

千葉ポートタワーは

日本国千葉県千葉市中央区に建つ塔(展望施設)である。高さ125.1m。千葉県民500万人を突破したことを記念して1984年6月に着工し、1986年(昭和61年)6月15日にオープンした。タワーは1階から4階からなる。来場者は、まずエレベータにより最初に最上階の4階の展望室にあがる。回覧順序としては、その後、階段を下りて(エレベータで降りることも可能)、3階の展望喫茶室でお茶を楽しんだり、さらに降りて、2階の展望室・アクアファンタジーを見ることになる。2階から1階にはまたエレベータで降りる。1階には売店があり、ポートタワーの記念品の他、千葉県の名産品を購入することができる。展望室からは、全面360度を見渡すことができる。北には幕張新都心や千葉マリンスタジアム。東には千葉市中心部。南にはJFEスチールの東日本製鉄所。西には、タンカーなどの船が行きかう海が見える。海の向うには、東京タワーや高層ビル群が見える。天気の良い日には富士山も見える。タワー下には千葉ポートタワー建設の碑がある。

この碑には「この「千葉ポートタワー」は、昭和58年9月に県民が500万人を突破したことを記念し、建設したものです。」と書かれている。毎秋の11月に国際都市・千葉を舞台に開催されるのが≪駅伝・世界一決定戦≫の青木半治杯・国際千葉駅伝。コース全体の初めと終わり辺りの急激な坂と中盤の海沿いの道路から吹く海風等とバラエティーに富んだ難しさが有る為に各国から「世界最強の駅伝コース」と言われておりこのレースを制したら≪駅伝・世界一≫と言う称号が付く。千葉ポートタワーは1回目の折り返し地点として本タワーの前のロータリーを一周する。千葉県東方沖地震は、1987年12月17日午前11時8分17秒に千葉県房総半島、九十九里浜付近を震源として発生した地震である。関東地方南部の地殻構造は、表層の北アメリカプレートに対し、相模湾(相模トラフ)からもぐりこむフィリピン海プレート、日本海溝からもぐりこむ太平洋プレートの3層からなる複雑なものであるが、この地震は2層目のフィリピン海プレートの内部で断層運動が発生したスラブ内地震であった。

震源の千葉県東方沖は、周期的な群発地震の発生源としても知られ、「地震の巣」でもある。千葉県の広範囲で震度5を記録し、死者2名、負傷者161名、建物全壊10棟、半壊93棟、一部破損6万3692棟を出した。被害の中心は千葉県であった。関東地方の比較的広い範囲で大きな被害が発生した地震としては1923年の関東地震およびその余震である1924年の丹沢地震以来であり、その点でも当時、注目を集めた地震である。道路の陥没や傾斜地の崩壊、屋根瓦の崩落やブロック塀の倒壊などの住宅被害が、千葉県九十九里浜沿岸地域を中心に発生。また、九十九里浜沿岸や東京湾沿岸、利根川流域沿岸などでは液状化現象により被害が発生した。当時は、各市町村に自動計測機器(計測震度計)が設置されていなかった為、最大震度5とされているが、震源地に近い自治体では、被害状況から、現在の震度階級で震度6弱以上の揺れを観測していたと思われる。NHKニュースでの発表によると、千葉市と成田市に設置された東京ガスの震度計では震度7を記録したと報じられ、この日に千葉県文化会館で予定されていたTM NETWORKのライブが機材と舞台の破損で翌年2月に延期された逸話がある。

2号線は、千葉県千葉市中央区の千葉駅から同市若葉区の千城台駅までを結ぶ千葉都市モノレールの鉄道路線である。千葉公園駅 - 穴川駅手前までは国道16号線に走行軌道が設置され、JR総武線とは500~800mほどの距離を置きながら並走する形態となる。密集した市街地の中を走行し、沿線には千葉競輪場がある千葉公園や、千葉大学・千葉経済大学・敬愛大学などの文教地区がある。しかしながら千葉競輪場へは千葉駅からの無料バスの利用が圧倒的で、文教地区の各大学はJR総武線西千葉駅・稲毛駅からの利用が主体となっており、モノレールによる利用者は非常に少ない。またこの区間の地域は西千葉・稲毛の各駅から路線バスが頻発しており、乗降の負担が圧倒的に少なく(ノンステップバスの普及がさらに後押しとなった)、東京方面のアクセスにおいてはモノレール利用では迂回となって遠回りとなるが、バスは短絡的に総武線の駅にアクセスするため、路線バスが有利な状況となっている。田畑が点在する宅地エリアで、広々とした土地空間を利用した千葉県総合スポーツセンターや千葉市動物公園などの公共施設が点在し、それらの施設名称を駅名に冠するものの、利用者は非常に少ない。

千葉駅及びJR総武線から距離があるエリアだが、稲毛駅からの路線バスが多数発着するため、モノレール利用者が伸びない要因となっている。千葉都市モノレールの路線の中で、利用率が高いエリアである。千葉中心部・東京都心部へ向かう際は、都賀駅でJR総武本線に乗り換えるのが主体となっている。沿線は新興住宅地が密集しているほか、東京情報大学のキャンパス(千城台駅からバス利用)があり、モノレール利用者獲得に恩恵をもたらしている。ほとんどの列車が、1号線の千葉みなと駅まで直通運転され、千葉みなと - 千葉 - 千城台間の運行である。日中は12分間隔で1時間あたり5本運転で、朝や夜間には車両基地所在駅である動物公園駅始発・終着の列車も設定されている。千葉県立中央博物館は、千葉県千葉市中央区の県立青葉の森公園内にある房総の自然誌と歴史に関する総合博物館である。1989年(平成元年)に開館した。常設展示のテーマは、「房総の自然と人間」である。房総の代表的な自然を再現した生態園が隣接しており、様々な動植物を身近に観察することができる。

分館として勝浦市に海の博物館が建設され、同様に山の分館も計画されたが、千葉県の財政悪化などもあり建設は延期されるに至った。また千葉県の県立博物館の再編によって2006年には大多喜町の千葉県立総南博物館が大多喜城分館に改組された。この館は、それまでに建設されていた千葉県の県立博物館群の中枢的機関として構築された。また、日本の植物生態学の草分け的学者であった千葉大学理学部名誉教授沼田眞を準備室段階から初代館長として迎え、当時日本の生態学や分類学の分野で際立った研究をしていた大学院博士課程や修士課程を修了直後の若手研究者を、学芸員や技師としてそれまでの公立博物館からは考えられない規模で大人数採用してしまい、その後一自治体としては経営維持困難な体制を作り上げてしまった。

2011年10月28日金曜日

2010年1月15日を締切に千葉市は

再公募を始め、締切日までに2社からの応募があった。しかし、2009年度より始まる予定だった再開発事業は当初予定より大幅に遅れる見込みである。JR東日本は駅ビル「ペリエ」の建て替えを検討していることが、千葉市の平成19年第1回定例会で明らかになった。JR側も2009年12月の定例社長会見(12月8日)で駅舎・駅ビルの立て替えを表明し、2015年度に駅舎を、2016 - 2017年度にかけて駅ビル・駅ナカを開業させる予定であることを明らかにした。千葉県営鉄道とは、千葉県がかつて運営した鉄道、および建設を予定していた鉄道である。運営されていた路線についてはいずれも戦前に建設され運営されていた。一時は千葉県各所に路線があり運営されていたが、その後いずれも他の鉄道事業者に引き継がれた。また、戦後に千葉ニュータウンの開発に伴って新線が計画されたが、現在は千葉県単独による建設は断念されている。有吉忠一第11代千葉県知事は、県下の道路事情の悪さおよび他県に比べて鉄道の敷設が著しく遅れていることから、地域開発のために県内各所を連絡する必要があるとして建設を推進した。

資金は国から借り県債を起こし、また建設には陸軍鉄道連隊を使い費用を抑えた。有吉は後に宮崎県知事となり、宮崎県営鉄道妻線・飫肥線(ともに後に国有化)を建設する。上記の運営された各線とは沿革が異なる路線として、戦後にも千葉県によって計画された鉄道路線があった。千葉ニュータウン開発のため計画された路線で北千葉線という名であったが、現在は方針転換され、名称も「東京10号線延伸新線」と変更されている。都営地下鉄新宿線本八幡駅(市川市)から延伸し、新鎌ヶ谷(鎌ケ谷市)・印旛松虫(印旛村、現在の印西市・印旛日本医大駅)にいたる路線として計画され、1972年(昭和47年)3月に都市交通審議会に答申、翌年10月に同区間の免許が交付された。また、当初は印旛松虫から成田ニュータウンを通り成田駅方面まで延伸する計画もあった。このうち第1期線として小室駅 - 千葉ニュータウン中央駅間は北総開発鉄道の第1期線(北初富駅 - 小室駅間)と接続及び同時開業することで当面の旅客輸送ルートを確保する関係から単線(軌間・1435mm)で先行して建設。

第2期線を建設するとともに、第1期線の残る一線に本来の軌間(1372mm)を敷設した上で全線開業(この時点で北総線との直通を中止)し、そののち先行開業区間を改軌して完成とする計画としていた。企業庁により一部区間で用地買収が行われたものの、千葉ニュータウンの事業計画が縮小された事もあり、1978年には事業が凍結された。また小室 - 印旛松虫間の免許は宅地開発公団へ譲渡され、この区間は後に住宅・都市整備公団により北総鉄道北総線の延長として建設された(現在、公団は都市再生機構へ承継され、鉄道事業財産は京成電鉄が新たに設立した千葉ニュータウン鉄道へ有償譲渡)。残区間は1985年(昭和60年)には運輸政策審議会答申第7号から削除され、1992年(平成4年)には本八幡 - 新鎌ヶ谷間を第三セクターによって将来事業化する方向で決定し、方針転換した。その後2000年(平成12年)には鉄道事業の廃止を運輸大臣に届出、鉄道建設は白紙に戻されたものの、翌年県議会において「東京10号線延伸新線」の名称で第三セクターによって将来事業化する方向で調査検討をする旨が表明されている。

しかし、本八幡 - 新鎌ヶ谷間は新線の需要が少ないこと、競合路線となる北総鉄道の利用者が伸び悩んでいること、また千葉ニュータウンの事業計画縮小などにより、今後の実現の可能性は薄い。株式会社千葉銀行は、千葉県千葉市中央区に本店を置く、千葉県内最大手、単独の地銀としては総資産で横浜銀行に次ぐ、第2位の地方銀行。略称はちばぎん。千葉県で栽培されるヒマワリをシンボルマークにしている。以前はチバの「チ」を図案化したものだった。千葉県、千葉市をはじめ千葉県内の多くの市町村の指定金融機関である。日経平均株価の銘柄の1つであり、地銀でありながら、ニューヨーク・ロンドン・香港に支店を、上海に駐在員事務所を持つ。成田空港では外貨両替と送金をメインに行う1支店・3出張所を保有する。また、Jリーグ2部(J2)に所属するジェフユナイテッド市原・千葉のオフィシャルスポンサーである。近年はリテール部門の強化を図っており、投資信託残高及び年金保険の販売額累計が地銀ではトップを誇る。

また東京23区東部や埼玉県東部(武蔵野線・東武野田線沿線)・茨城県南部(つくばエクスプレス沿線)、茨城県鹿行地域に支店や法人営業所を相次いで開設しており、新規開拓の動きが目立つ。前身の一つ総武銀行→千葉合同銀行は、旧川崎財閥系であり第百銀行と提携関係にあった。その経緯から現在でも、第百銀行を吸収合併した旧三菱銀行の後継銀行である三菱東京UFJ銀行は千葉銀行株を約5%保有しており、旧三菱銀行の地銀親睦会である火曜会結成当初からの会員である。だがほとんど営業面での提携は、旧三菱銀行系のDCカード以外無く、ATMの相互利用も当初から行っておらず経営面でも役員派遣等は無く独自色を出している。コンビニATMについては開始当初から積極的で、特にセブン銀行とはATMを共同管理するだけでなくセブン銀行のインストアブランチにて千葉銀行の口座開設等ができる銀行代理業務契約を結んでいる。(現在はイトーヨーカ堂蘇我店、八千代店、葛西店各出張所で実施)。

ただし、公式サイトからの口座開設申込書のメールオーダー請求の送付先は千葉県外では市区町村単位で限定されている。2007年5月7日より、横浜銀行と共同でJR東日本のビューアルッテと提携を開始した。千葉銀行のATMでは、常陽銀行・筑波銀行・武蔵野銀行・東京都民銀行・横浜銀行・イオン銀行のキャッシュカードは自行扱いとなる(ただしちばぎんのキャッシュカードをイオン銀行ATMにて利用した場合には、※にある条件に該当する場合を除き手数料がかかる)。ちなみに常陽・筑波相互間では無料にならない。 コンビニATM(セブン銀行・イーネット・ローソンATM)において、千葉銀行のキャッシュカードでの入出金が行えるが手数料が必要。※(注意・・・東京スター銀行は一部の時間帯が手数料0円であり、その他の時間帯は手数料105円である。) ゆうちょ銀行ATMにおいては、千葉銀行のキャッシュカードでの利用残高照会および出金のみが可能であり、入金については不可能である(2010年8月現在)。この点注意が必要。

JR東日本主要駅に設置のVIEW ALTTEのATMから出金が可能だが、手数料がかかる(ただし2010年7月31日までの間は手数料優遇期間中につき、一律105円ずつ割引されている(このため、平日8:45~18:00の間に出金した場合は引出手数料が無料で利用できる))。日本全国コンビニATM手数料無料でできる地方銀行は千葉銀行のみであり、すべての条件を満たした場合は三菱東京UFJ銀行やみずほ銀行並みに優遇される。いずれの場合も、ちばぎんスーパーカード(ICキャッシュ&クレジット一体型カード)に入会かつ利用代金決済口座に指定している場合や、ポイントサービス「ひまわり宣言」に加入している場合は、条件によっては完全無料または提携ATM手数料のみが無料となる場合がある。

2011年10月27日木曜日

埼玉県域の郡は

足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・那珂・児玉・賀美・秩父郡である。また郷の数は県域で75郷である(『和名類聚抄』)。県域内の郡衙所在地は不明なところが多い。769年(神護景雲3年)9月17日に正倉4倉が焼失し、穀類や人に死傷者が出ている。雷火による天災か神火(じんか)による人災か不明である。1590年(天正18年)には豊臣秀吉の天下統一における小田原の役において後北条氏は滅亡する。後北条氏の滅亡に際して東海五カ国を支配していた徳川家康が関東へ転封され、武蔵を含む関東地域には徳川氏の家臣団が配置された。関ヶ原の合戦を経て江戸幕府による支配が確立すると、埼玉県域には「武蔵三藩」と呼ばれる川越藩や忍藩・岩槻藩(それに武蔵国には知行地をほとんど持たなかった岡部藩など)が立藩。江戸に近く親藩・譜代の重臣が配されたが、川越藩を除き城下町の形成は小規模であった。川越は江戸北方の防衛拠点として、また武蔵国の商工業の中心地として「小江戸」と呼ばれ繁栄した。

江戸幕府により江戸を起点とした五街道の整備が進められ、埼玉県内には中山道に9つの宿場(蕨宿、浦和宿、大宮宿、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿、深谷宿、本庄宿)、日光街道(奥州街道)に6つの宿場(草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋宿)が置かれた。五街道に準ずる脇往還は、県内では川越往還、川越・児玉往還、千人同心街道、日光御成街道、関宿往還、秩父往還、秩父甲州往還が整備された。1868年(慶応4年) - 6月19日、旧幕府領を管轄する旧幕府代官の山田政則が武蔵知県事に就任。1869年(明治2年) - 1月10日、山田政則知県事が宮原忠英に交代。1月13日、宮原知県事の管轄地域に大宮県を設置。9月29日、大宮県が県庁の移転により浦和県に改称。1871年(明治4年) - 7月14日、廃藩置県を受けて藩領に川越県・忍県・岩槻県の3県が誕生。11月14日、忍県・岩槻県・浦和県の3県が合併して埼玉県が誕生(足立郡・埼玉郡・葛飾郡の一部。現在の東部地域に相当)。同日、川越県は品川県の一部を吸収して入間県となる(現在の西部地域・北部地域・秩父地域に相当)。

埼玉県の県庁所在地は埼玉郡岩槻町(現さいたま市岩槻区)とされたが、旧浦和県庁を流用する形で足立郡浦和宿(現さいたま市浦和区)を仮県庁とした。入間県の県庁は川越城に置かれた。1873年(明治6年) - 入間県が群馬県と合併し熊谷県となる。熊谷県の県庁は熊谷駅(現熊谷市)に置かれた。1876年(明治9年) - 熊谷県は解消され旧入間県の地域は埼玉県と合併、現在の埼玉県が成立。地元出身の渋沢栄一、福澤桃介、大川平三郎などが活躍、日本の近代化に貢献する。1883年(明治16年)7月28日 - 日本初の私鉄「日本鉄道」(東北本線・高崎線上野駅-熊谷駅間)が開業。1883年から1885年にかけて、秩父地方で松方財政の不況の中借金に苦しむ負債農民が困民党を結成して秩父事件とよばれる騒擾を起す。1922年(大正11年)12月1日 - 埼玉県で初めての市として川越市が市制施行。1934年(昭和9年)2月11日 - 県庁所在地・浦和市が市制施行。全国の都道府県庁所在地の中では最も遅く、県内でも川越市、熊谷市、川口市に次ぐ4番目の市制施行である。埼玉県には、39の市、23の町、1つの村がある。

市の数39は日本の都道府県で最多、市町村数63は北海道、長野県に次いで日本国内第3位である。なお、町はいずれも「まち」、村は「むら」と読む。埼玉県内では、区分が行われた時期や施策分野、広域行政の実績等に応じて、様々な地域区分の設定がなされている。この項では、そのうち代表的なものを記載し、うち最も区分数の少ない5地域ごとに、地域の概要を記述する。埼玉県には1896年以来、以下の9つの郡がおかれている。郡に含まれる地域は、市制施行や市町村合併に伴い次第に縮小しているが、現在属する郡、および過去に属していた郡による地域区分が、「○○地方」「○○地区」といった名称で、教育行政等の分野で用いられることがある。従来、埼玉県庁などにおいて広く用いられていた地域区分。「彩の国5か年計画21」(計画期間:2002年度-2006年度)など、数次にわたる5か年計画に用いられ、埼玉県庁のホームページ上でもこの地域区分が紹介されていた。また、2008年までは5地域それぞれに「地域創造センター」が置かれていた。

東部複合都市圏とも称する。おおむね、北埼玉郡、南埼玉郡、北葛飾郡およびこの3郡に属していた地域が該当する。東部地域創造センターは春日部市にあり、行田市に行田支所が置かれていた。旧日光街道の沿線を中心とする地域であり、中央地域と同様、南北に細長い地域である。江戸川・中川などの河川が南北に流れ、流域は低地となっておりその立地を生かした米を中心とした農業が盛んな地域である。そのような立地条件から東京との近接性の割に宅地化は遅れ気味であったが、高度経済成長期以降東武伊勢崎線沿線を中心に、草加市・越谷市・春日部市・久喜市などで急速な宅地化が進んだ。上記の5地域区分をより細分化する形で設けられていた地域区分。過去の「埼玉県中期計画」(計画期間:1982年度-1986年度、1987年度-1991年度)などに用いられており、広域行政圏もこの9地域を単位として設定されていた。また2010年3月までの二次保健医療圏も同じ名称で、一部を除きこの9地域区分を単位に設定されていた。

利根地域 - 東部地域の北側。おおむね、北埼玉郡および同郡に属していた地域と、南埼玉郡・北葛飾郡およびこの2郡に属していた地域の北部が該当。東部地域 -(5地域区分上での)東部地域の南側。南埼玉郡・北葛飾郡およびこの2郡に属していた地域の南部が該当。二次保健医療圏においては、利根地域の蓮田市が含まれる。埼玉県の指定金融機関は「サイギン」の通称で埼玉県民から愛されてきた旧埼玉銀行の伝統を継承する埼玉りそな銀行である。さいたま市など、埼玉県内の市町村のほぼ全ての指定金融機関は埼玉りそな銀行である。その他の埼玉県内に本店がある金融機関としては、「ぶぎん」の通称で県民から親しまれている武蔵野銀行、、「さいしん」の通称で県民から親しまれている埼玉縣信用金庫などがある。埼玉県はインターネット放送を通して知事記者会見、県議会中継などを映像配信し、県政の広報に務めている。

1908年(明治41年)の国語調査委員会報告以来、関東地方において京阪式アクセントに似たアクセントの使用地域(主として旧葛飾郡域にて。実態は東京式アクセントの一段階変化形特殊アクセントであった)として注目を集めたが、退潮著しく、高年層の発話に聞かれるだけになっている。他はほぼ全域にわたって東京式アクセントによる東部方言の西関東方言が用いられる。東京に近い上に県外からの転入者が多いことから共通語の影響が強く、西関東方言も衰退し、いわゆる「首都圏方言」が使われているところも多い。放送区域は関東広域圏に属する。テレビ埼玉のほかに、NHK放送センター(総合テレビ・教育テレビ)と在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBSテレビ・テレビ東京・フジテレビ)が県内全域で、またTOKYO MXテレビが県内東部の大抵の地域で映る。NHK・キー局ともに東京タワー波からの受信のみならず、秩父・児玉地域を中心に中継局を置いている。埼玉県内に本社があるAMラジオ局はないが、埼玉県内に送信所がある(後述)NHKラジオ(第1・第2)、TBSラジオ、文化放送を県内のほぼ全域で良好に受信できる。

さらに、主として南部ではニッポン放送を受信することができ、また他局よりは聴きにくいもののアール・エフ・ラジオ日本を受信できる地域もある。

2011年10月26日水曜日

千葉県立千葉中学校・高等学校は、

千葉県千葉市中央区葛城一丁目にある県立中学校・高等学校。併設型中高一貫制共学校。通称は「千葉中」、「千葉高」、「県千葉」。かつて千葉一高だった名残で「一高」と呼ぶ者もいる。千葉県立船橋高等学校、東葛飾高等学校と共に、「千葉県公立御三家」の一つで、2008年度には県内唯一の県立中学校が併設された。隣接県特例により、茨城県や群馬県など、他県からも一部の地域に在住している者に限り受験可能。高校の教育方針は、受験にとらわれない「重厚な教養主義」・「真の学問の追求」である。授業は内容を深めたレベルの高いものとなっており、3年次には理系・文系に分かれるものの、例えば文系においても数学IIIを履修するなどと、幅広い教養を身につけるカリキュラムとなっている。文理比は例年5:4程度で理系の方が多い。芸術科(美術・書道・音楽・工芸)の充実も、出身者の活躍によってよく証しされている。伝統的に「自主的精神」を大切にしており、旧制中学校時代以来の自由闊達・質実剛健な校風が生み出されて来た。

また、学生運動が盛んなころに、生徒達が図書館に立て篭り、県警機動隊が投入されるという事態になったことなどが原因で生徒会が解散させられ、今なお生徒会が存在しないのも本校の特徴である。入学試験(特色化選抜)では難度の高い独自の試験問題(5教科・応用)も利用されている。2006年度より普通教室に冷房設備が設置された。2008年度から私立中高一貫校と同様のカリキュラムで教育が行われる千葉県立千葉中学校が開校した(2学級80名)。中学受験に於ける人気・倍率とも高い。中学校の教育方針は、「互いに高め合う、系統化された一貫教育で豊かな人間力を培う。伝統、実績、真の学びで揺るぎない学力を育む」で、ただ授業の進度を速める「先取り」ではなく、必要に応じて発展的な学習を取り入れる「スパイラル学習」を行っている。 また、独自の教科「学びのリテラシー」や千葉高の卒業生などの講演を聞く「社会人講演会」など、総合学習にも力を入れている。

定時制は2007年度から募集停止となり、3部制定時制を設置している県立生浜高校に2008年統合された。大学進学者数のマスコミ公表はしていない。千葉縣師範學校構内(現NHK千葉支局敷地)に千葉中學校と称して創立。修業年限3ヶ年。千葉縣師範學校女子部の校舎(現教育会館敷地)に移転する。千葉縣尋常中學校と改称。千葉縣千葉中學校と改称、同年7月現在地に校舎を新築移転。同年11月1日新築落成式を挙行(創立記念日の由来)。木更津分校(現千葉県立木更津高等学校)を設置。松戸分校(1906年廃止)を現千葉大学園芸学部敷地に設置。千葉縣立千葉中學校と改称。千葉市立商業學校夜間部を本校第二部(3年制、旧制中学校)として移管設置する。新学制の実施に伴い、第4・第5学年生徒は千葉縣立千葉中學校の生徒、第2・第3学年生徒は千葉縣立千葉中學校併設中學校の生徒とし、第1学年の生徒募集を停止する。第二部は4年制の中学課程とする。学校教育法による高等学校となり、千葉県立千葉高等学校となる。

全日制修業年限3ヶ年生徒定員1,040名、定時制修業年限4ヶ年、生徒定員320名とする。男女共学制を実施する。千葉県立千葉第一高等学校と改称。千葉県立千葉高等学校と改称。新入学生から学校群制度を実施。千葉女子、千葉東、千葉南、千葉市立と第1学校群を組む。単独選抜制に改められる。千葉県内のほとんどの市町村に通学区域拡大。特色ある入学者選抜(学校独自問題)を開始。創立125周年記念事業 トレーニングルーム、ビオトープ、校歌碑、記念館改修竣工。千葉県立千葉中学校を併設。中高一貫校になる。生徒会が学生運動により廃止されているため、文化祭実行委員会が中心となる。まずは、当年度に文化祭を実施するかどうかから採決をとる。否決されれば文化祭自体行われない。文化祭の名称は毎年文実が行う生徒へのアンケートによって決定する。ここ数年文化祭の名称は「千秋祭(せんしゅうさい)」となっている。文化祭の収益は全額ユニセフへ募金される。また、DRP(Dish Return Project:食品販売の際に使用した皿を洗って再使用する。

アンケートで実施するか否か採決を取る)と呼ばれる企画が行われていた。(2009年から廃止) 他の行事と違って、中学と合同で行われる。総合で各自が調べた内容を発表する。中学校と高校で別々に行われている。 高校では、各自が入学後に決めたテーマで約2年間研究を行い、優れた研究には「千葉高ノーベル賞」として賞が与えられている。 中学では、何種類かある「ゼミ」に所属し、そのゼミのテーマに沿った個人テーマを設定して半年間研究を行い、その成果を年2回の総合発表会で発表する。基本として男子は黒色の学生服。前を5個の校章入り金ボタンで留める。男子の襟は中・高ともに詰襟とラウンドカラーとのどちらでもよく最近は多くの生徒がラウンドカラーを着用している。女子は明るい紺色のブレザーで中高ともに校章バッジを装着し中学生は襟元にリボンも着用する。高校ではリボンを着けないよう指導されているが大半の女子生徒が自主的にリボンを購入し着用している。

男子に校章バッジはなく旧制中学以来の伝統として学生服の向かって左襟にローマ数字の学年章、右襟にアルファベットの組章の、大きな襟文字バッジをそれぞれ装着するのが特徴である。襟文字の色は中学が黒色の七宝、高校が金色で区別してある。中学ではこれに加え男女とも胸にプラスチック製の名札を装着する。しかし高校では学年章、組章をはずしたままにしたり稀に制服を着用しないか変形学生服かで通学する生徒もいる。ただし男子は夏季、女子は通年、学年・組章の装着義務がない。高校の男子が制帽をかぶる場合にはいわゆる学帽に白の横一本線が入る。しかし現在ではかぶっている生徒は殆どいない。千葉駅は、千葉県千葉市中央区新千葉一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・千葉都市モノレールの駅である。千葉県の県庁所在地・千葉市の中心駅である。東京都心方面からの緩急分離運転区間の終点であり、千葉県内各地へ向かう各路線が集結するジャンクションでもある。

千葉市内を走る千葉都市モノレールも乗り入れており、千葉県内最大のターミナル駅となっている。JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は総武本線と外房線の2路線であり、このうち総武本線を当駅の所属線とし、外房線は当駅を起点としている。一方、当駅に乗り入れる運転系統は多岐にわたる。総武本線は当駅から東京方面は錦糸町駅までが複々線となっており、快速線を走行する総武快速線、緩行線を走行する中央・総武線各駅停車がそれぞれ運転されている。総武快速線は一部列車が後述の各線へ直通しているが、中央・総武線各駅停車は当駅を運転系統の起終点としている。房総地区各地への路線は次の4系統が発着する。成田駅経由で銚子まで伸びる。正式には当駅 - 佐倉駅間と松岸駅 - 銚子駅間は総武本線への乗り入れ区間。成田駅から成田空港駅へ向かう列車、香取駅から鹿島線へ直通する列車も発着する。千葉都市モノレールの駅は1号線と、当駅を起点とする2号線の乗換駅となっている。

モノレール同士の乗換駅は日本国内では当駅と大阪モノレールの万博記念公園駅のみである。島式ホームが5面10線と、貨物用の線路が1線(0番線、2009年3月14日ダイヤ改正より使用停止)ある。1 - 6番線と7 - 10番線は、東側で駅ビル(駅本屋を兼ね、デパート「ペリエ」ファッション館が入っている)に裂かれる様に分かれている。そのため、東側では5・6番線ホームと7・8番線ホームの距離が離れている。台地の斜面に位置しているため、西千葉駅・稲毛駅方向では地上であるが、本千葉駅・東千葉駅方向は高架となっている。

2011年10月25日火曜日

1979年に街開きが行われ

同時に駅が開業。計画面積199ha、計画戸数6,250戸、計画人口、19,000人。3つの住区で構成されている。千葉ニュータウンで最初に開発され、最も街として成熟されており、街開き当初より日本中央競馬会競馬学校が隣接する場所に立地する。駅前にはマルエツ西白井店がある。1979年、西白井エリア街開きから5か月後、街開きが行われた。計画面積197ha、計画戸数5,500戸、計画人口16,300人。2つの住区で構成されている。白井エリアには、白井市役所や運動公園、文化センターなど、白井市の行政が集中するエリアでもある。駅南側にはマルエツ白井店や、北側にはホームセンターなどが立地する。駅前には集合住宅が林立する。1979年に街開きが行われた。計画面積90ha、計画戸数2,190戸、計画人口8,500人。1つの住区で構成されている。小室エリアは、国道16号と国道464号が十字のように街を交差している。同地区では唯一駅前スーパーが存在しない(かつては小室ソシアルビルにマルエツなどが存在していた)。

1984年に街開きが行われた。計画面積764ha、計画戸数20,250戸、計画人口61,900人。8つの住区で構成される。千葉ニュータウン最大のエリアで、都市景観100選に選定されている。駅北側には、北総地区最大級のショッピングセンター「イオンモール千葉ニュータウン」や社会保険大学校、竹中技術研究所や三井住友海上などのオフィスビル群が林立し、ゴミ焼却処理施設の余熱を利用した温水センターなどがある。また、中央駅周辺では、ゴミ空気輸送システムを運用している。空気の力でゴミを輸送し、常時捨てられゴミ収集前のカラスや猫によるゴミのまき散らしや臭いなども発生しないのが利点のインフラ施設で、国と住宅・都市整備公団(現・UR都市機構)が約100億円を投じて建設した。しかし、収集量が当初予想を大幅に下回り、赤字改善は難しいとの判断から主要設備の耐用年数を迎える2010年3月31日をもって事業を中止した。駅南側には、東京電機大学千葉ニュータウンキャンパスや、東京基督教大学、計画面積50haの県立北総花の丘公園などがあり、大学などの文教施設と自然豊かな住環境が整備されている。

1995年に街開きが行われた。計画面積579ha、計画戸数13,110戸、計画人口40,700人。5つの住区から構成されている。千葉ニュータウンで1990年代に入って街開きが行われたエリア。近年、「ビッグホップガーデンモール印西」をはじめとする大型商業施設の進出が目覚ましいエリアでもあり、千葉県下においては東京ディズニーリゾートに匹敵する年間2,800万人が訪れる。また、ヒュンダイモータージャパンR&Dセンターや、マブチモーターの研究所なども立地する。今後は2011年の街びらきを目指し、駅北側のエリア(21住区)の開発が行われる予定である。なお、街の開発にあたっては国土交通省や環境省と連携し、低炭素推進事業のモデル地区として街づくりが行われている。2000年に街開きが行われた。旧・印旛村にあたる地域であり、いには野(イニワノ)地区と呼ばれている。計画面積104ha、計画戸数2,190戸、計画人口6,600人。1つの住区で構成されている。千葉ニュータウンで最後に街開きが行われたエリアである。

駅の名の由来でもある日本医科大学千葉北総病院が立地する。この病院は北総エリア最大の基幹病院であり、ドクターヘリの基地病院でもある。また、千葉ニュータウン周辺の国道464号、国道296号、千葉県道65号佐倉印西線において、信号機制御で交差点を優先的に通過させるFAST(現場急行支援システム)と、救急車の救急走行時の通過地点を医療機関に伝えるMOCS(車両通行管理システム)を統合したM-MOCS(救急搬送支援システム)が導入されている。また、2010年7月17日には京成成田スカイアクセス線が開業した。2010年代目途で並行する北千葉道路も開通する予定である。現在4線が乗り入れ、同じくUR千葉ニュータウン事業本部により開発されている新鎌ケ谷地区については千葉ニュータウンには含まれないが、千葉ニュータウンおよび新鎌ケ谷地区を含めたエリアの総称として「東京⇔成田 SKYGATEシティ」という名称のもとPRが行われている。千葉ニュータウン地区には、長らく高等学校が県立白井高等学校の1校だけだけだったが、高校配置の適正化として「千葉ニュータウン地区高校整備事業」が進められ、印西市木下地区にある県立印旛高等学校が印西牧の原地区へ移転し、2010年(平成22年)4月より県立印旛明誠高校として開校し、千葉ニュータウン地区内の高等学校は2校となった。

北総線経由で都心と成田空港を最速36分で結ぶ「成田スカイアクセス」が2010年(平成22年)7月17日開業。開業後はスカイライナーおよび空港アクセス列車も北総線を経由し、千葉ニュータウン中央駅にスカイライナーを除く空港アクセス列車が停車する。後述の北千葉道路とあわせ、中間地点に位置する千葉ニュータウンは大きな転機を迎えることになる。本来の計画では、北総線は京成高砂 - 小室のみで、北総線に平行して都営新宿線の延長となる千葉県営鉄道北千葉線(本八幡 - 新鎌ヶ谷 - 小室 - 印旛松虫)も建設予定であり、新鎌ケ谷 - 小室間は北総線の南側に沿う形で用地も確保されているが、その後のニュータウンの計画縮小もあり建設中止(未成線)となっている。県営北千葉線の当初の計画では、谷田(小室‐千葉ニュータウン中央間)、印西天王前(千葉ニュータウン中央‐印西牧の原間)、の2駅も予定されていた。1970年代には当時の国鉄により成田新幹線(東京 - 千葉ニュータウン - 成田空港)が計画されるも、都内の沿線住民の反対運動により建設中止となっている。

千葉ニュータウン中央駅 - 印旛日本医大間においては北総線の線路の北側に平行してこの新幹線用に確保された用地が残る。千葉県では、多極分散型国土形成促進法に基づく、成田・千葉ニュータウン業務核都市基本構想を作成し、2004年3月23日主務大臣(国土交通省、総務省、経済産業省、厚生労働省)の同意を得て、同年4月6日県報に告示した。今後は、本基本構想に基づき、成田地域(成田市、富里市(一部))と千葉ニュータウンの中央部・東部の地域(印西市(一部)、白井市(一部))を一体の業務核都市として国、県、地元市町村等と連携を図りながら、積極的に育成整備を推進していくことになる。北総線の運賃の高さ、近年の郊外型大型店舗の進出による交通渋滞、新住民と旧住民とのコミュニティー不足による不調和、また、近隣の谷津や里山などにおけるゴミの不法投棄など、街の拡大と時代の変化による問題が山積している。北総線の運賃問題は、1999年 - 2000年に国会で審議された。

当時の運輸省は「これ以上の値上げは長期間しない」との約束をし、「仮に値上げの申請があっても十分慎重に対応したい」との答弁をした。今後、成田空港への延伸により利用者が増え、北総鉄道の収入が増加し負債が減少すれば、将来値下げが行われる可能性もある。 国道464号線沿道に、ロードサイド型の大型ショッピングセンターが相次いでオープンしていることもあり、土曜・休日になると慢性的な渋滞が発生している。なお、これら渋滞緩和を目的とし、464号線の一部区間でバイパス道路を建設中である。

2011年10月24日月曜日

生産に関する技術的諸問題の

科学的総合研究ならびに研究成果の実用化試験を目的として設立された。現在は研究部門を5つ、客員部門を1つ、寄付研究部門を2つ、研究センターを8つ、千葉実験所を持つ研究所である。大学院生約600名、教員約110名、研究・技術職員約160名が在籍し、大学に附置された研究所としては日本最大級であり、世界でも屈指の規模を誇る。途中で分離した航空宇宙部門をのぞく広い分野を研究領域とする。1942年に、千葉県千葉市弥生町の敷地14.7万坪(48.5ha)に、生産技術研究所の前身東京帝国大学第二工学部は、戦時体制下の技術者不足を見込んで設立された。1949年に第二工学部の学生募集を停止。同年第二工学部の後身として第二工学部内に生研は設立された。1951年に第二工学部は廃止。1952年に生産技術研究所は東京大学の附置研究所となる。1962年に、六本木の旧歩兵第三連隊兵舎へ移転した。西千葉の生研跡地は千葉大学西千葉キャンパスとなり、一部、大規模実験施設を千葉実験所として残した。

1964年、東大宇宙航空研究所(現 宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所)創設のためロケットグループは東大航空研究所(駒場IIキャンパス)に移転した。2001年に、六本木キャンパスから駒場IIキャンパスへ移転した。現在は、駒場IIキャンパスには研究所の研究部、事務部、附属研究施設であるセンターおよび共通研究施設の試作工場・電子計算機室等をおき、千葉地区には大型研究のための附属研究施設である千葉実験所をおいているが、千葉実験場は柏へ移転予定である。千葉空襲は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた千葉市に対する空襲のうち、1945年(昭和20年)6月10日と7月6日、7月7日のものを一般的に指す。戦後半世紀経過し、被災者の高齢化や歴史の風化などによって、同空襲のことを知る人は減少している。1942年4月18日、空母発艦によるドーリットル隊の本土初空襲が行われたが、前線は依然遠かった。しかし、1944年7月、サイパンなどマリアナ群島をアメリカ軍が制圧したことによって、日本の主要都市や軍事拠点に対し戦略爆撃が加えられるようになり、1945年3月10日には東京に大規模な空襲が行われた。

6月10日の空襲は午前7時45分からB-29の編隊100機によって攻撃された。被害地域は蘇我の日立航空機千葉工場(跡地は現在JFEスチール東日本製鉄所の一部)、新宿町、富士見町付近で、同日の空襲によって千葉県立千葉高等女学校(現:千葉県立千葉女子高等学校)などの施設も被災した。被災面積は26ha、死傷者は391名。7月6日の空襲は午前1時39分から3時5分にかけての夜間空襲で、B29・124機によって行われた。この空襲によって、省線千葉駅、(旧)京成千葉駅のほか椿森や作草部等にあった鉄道第一連隊、気球聯隊、陸軍高射学校などの軍事施設に被害が出た。また、千葉市街地を目標にした129機のB29による焼夷弾などにより千葉市中心地のほとんどが焼け野原となった。 被災面積205Ha、死傷者は1204人。千葉都民とは、一般的に千葉県の新住民を指す。但し、定義は以下に挙げるように多義であり、使用する人によって意味が異なる。旧住民と新住民は、第二次世界大戦の前から代々居住しているか、後に移住してきたかで概ね区別される。

住所は千葉県内にあるが、東京都区部に通勤・通学し、住所のある千葉県には寝るために帰るだけの人々を指す。本来はこちらが原義と考えられる。千葉県内において、東京都区部近郊としての新興住宅地・ベッドタウンとして開発された所に転入して来た新住民全般を指す。狭義の千葉都民に加えて、その家族、及びその子孫までが含まれると見ていいだろう。新住民の内、取引先が地元中心の自営業者や地元勤務者は、新住民ではあるが千葉都民ではないと考える見方もある。千葉都民は、在来の旧住民との血縁や地縁が無い人々が多数派であり、戦後の主に高度経済成長期からバブル経済期に至るまで短期間に、大量に転入して来た。そのため、在来の旧住民の社会に同化せず、異なった生活文化を形成した。東京特別区郊外の住民の一部分という性質が強く、地元への密着性は低い。東京都区部にある会社や学校へ通っているため、千葉県民の日ではなく東京都民の日が休日になるといった現象も、この特徴である。

とは言えども、新住民の居住が長期化するに及んで、新住民の地方自治に関する関心が高まって来ており、時には旧住民と新住民の自治に対する考え方の違いが、対立を惹き起こす事もある。千葉都民はその成立過程ゆえ東京都区部のなかでも特に都心に通勤するホワイトカラー層というイメージがあり、このホワイトカラー層に属する者は東京都区部でも城東エリアに職場を持つ中小企業経営者・勤務者や工場労働者を千葉都民に含めることに違和感を覚える向きもある。上述の新住民の内、取引先が地元中心の自営業者や地元勤務者に性質が近いためである。その一方で、生粋の千葉県民は子どもを伝統的な県立高校に進学させたいと考えている一方、成績のよい子供をもつ千葉都民は県内外の有名私立中高に進学させたがる傾向が見られ、中学受験熱も盛んである。また、千葉大学に対する関心や評価も大きく異なる。これは裏を返せば、千葉都民は都心型、生粋の千葉県民は地域密着型のものの考えがその背景にあるといってもいいであろう。

政治意識の面において、(広義の)千葉都民は旧住民と明確に異なり、地元の事柄には無関心でかつ無党派が多いとされるため、その点を強調して解説するために、選挙報道では頻繁に使用される。類似語には、「神奈川都民」「埼玉都民」「茨城都民」などがある。いわゆる千葉都民を対象に、東京都心部のオフィス街で、千葉県の選挙の宣伝をしたりする事がある。県外で県の選挙の宣伝をするのは、東京近郊ではそれほど違和感はないが、それ以外の地方の人から見るとユニークな方法である。一般的には、千葉市に限らず、千葉県の都市部全体の新住民を指すことが多い。しかし、千葉市役所における行政文書などでは、近隣都市を「船橋都民」「市川都民」という風に区別し、千葉市民に限定して「千葉都民」の語を用いる場合もある。従って、使用された文脈で、千葉市か千葉県かを判断せねばならない。千葉ニュータウンとは、千葉県北部の北総地域にあるニュータウンの名称である。「千葉NT」のほか「チバニュー」と略されることもある。

千葉県北西部の3市(西から順に白井市、船橋市、印西市)にまたがり、首都圏においては多摩ニュータウンや港北ニュータウンに次ぐ大規模ニュータウンである。東西約18km・南北約3kmに広がり、総面積のうち約7割以上を印西市が占める。千葉県企業庁および都市再生機構(UR都市機構)による共同開発であり、計画当初は人口34万人と大規模な開発が予定されていたが、オイルショックやバブル崩壊、また少子化の影響もあり、当初の予定に比べて開発規模が縮小されている。 この影響で、十分な客を集められなかった北総鉄道北総線は多額の負債を抱え、運賃を高額に設定せざるを得なくなった。北総鉄道北総線の延伸によって沿線地域は開発され、ベッドタウン化により自治体の人口は増加し、印西市・白井市は開発当初は印旛郡印西町・同郡白井町であったが、それぞれ1996年(平成8年)4月1日・2001年(平成13年)4月1日に市制を施行している。2011年3月末現在の計画人口は14万3300人。居住人口は9万0684人。計画面積は約1,933ヘクタールである。千葉ニュータウンは大きく分けて6つの地区がある。

また千葉ニュータウン内には北総鉄道北総線6つ(うち2駅に成田スカイアクセス線の「アクセス特急」が停車)の駅が存在し、各地区に一駅ずつ位置している。駅は都心(品川・新橋方面)寄りから順に以下のとおりである。

2011年10月23日日曜日

山梨県立愛宕山こどもの国は

山梨県甲府市愛宕山にある公園施設。山梨県が管理・運営する幼児・児童用施設。山梨県営施設として甲府市内の愛宕山に1971年(昭和46年)に開設された。山の尾根から中腹にかけ、自然の地形を生かした構造になっており、敷地面積は454,000平方メートルである。様々なアスレチック遊具など児童向けの設備が設けられており、園内には同じく県営の宿泊施設山梨県立愛宕山少年自然の家がある。基本的には、山梨県内の保育園、幼稚園、小学校の学校外教育施設に位置づけられているが、一般にも開放されており、週末などを中心に親子連れの姿が目立つ。所在する愛宕山は甲府市街地に隣接しており、甲府盆地を一望する園内からは南アルプスや富士山を望むことが出来る。また夜景の名所でもある。山梨県小瀬スポーツ公園は、山梨県甲府市小瀬町にあるスポーツ施設群を有する公園。県内のスポーツの拠点となっている。施設は山梨県が所有し、山梨県体育協会が指定管理者として運営管理を行っている。

甲府市営の一般公園として1975年に開場。市営時代は普通の公園だったが、1986年に山梨県内で開催される国民体育大会(かいじ国体)について当初主会場になる予定だった山梨県営総合運動場(現在の甲府市緑が丘スポーツ公園)が施設の老朽化などによる問題が発生したため当公園を県営化した上で新たにスポーツ公園として整備することになり、急ピッチで陸上競技場、野球場、体育館などが建設され、1985年に県営公園として再開場した。南口バスターミナル8番のりばから山梨交通バス70系統「伊勢町経由 小瀬スポーツ公園」行きに乗車し、「小瀬スポーツ公園正門」、「陸上競技場入口」、「小瀬スポーツ公園」バス停で下車。車で10分。公園内に駐車場はあるがJリーグの試合日や陸上競技の主要大会、野球場でプロ野球の公式戦が行なわれる場合は満杯になる可能性もある。天皇杯を除くJリーグの試合がある日は甲府市環境センター、山梨日日新聞印刷センターなど周辺の施設や市立甲府病院が臨時駐車場になる。(山城小学校は2010年3月に体育館改修工事終了後に校庭の土を入れ替えたため、駐車場として利用することができなくなった。)

山梨県富士北麓公園は山梨県富士吉田市上吉田立石にあるスポーツ施設群を有する公園である。施設は山梨県が所有し、山梨県体育協会が指定管理者として運営管理を行っている。正式名称は山梨県富士北麓公園陸上競技場であるが、単に富士北麓競技場と呼ばれることがある。2000年のJリーグ公式戦でヴァンフォーレ甲府がホームゲームを開催し、Jサテライトリーグの試合でも利用された。正式名称は山梨県富士北麓公園野球場(やまなしけん・ふじほくろくこうえん・やきゅうじょう)であるが、単に富士北麓球場と呼ばれることがある。夏の高校野球など高校野球の試合も行なわれるが、上述の通り霧が発生しやすい気象条件ため試合が続行できないこともしばしばある。近年では2005年夏の高校野球にて、吉田高校対韮崎高校の試合は6回まで1-1の接戦だったが、濃霧によってノーゲームとなり、再試合は9-1で吉田が韮崎にコールド勝ちしたというエピソードがある。このため一時期は1~2日間のみ開催であったが、2008年より緑が丘球場で高校野球をはじめとする硬式野球の開催ができなくなった関係から小瀬球場とともに再び試合数が増加している。

山梨県営飯田野球場は、山梨県甲府市飯田にある野球場。施設は山梨県が所有し、株式会社富士グリーンテックが指定管理者として管理運営を行っている。主に少年野球、社会人野球の試合で使用されている。前身は1929年(昭和4年)5月に開設された県営飯田町グラウンドであり、施設は古く、スタンドも内野には存在するが、外野に観客席は存在しない。周囲には甲府市立西中学校、山梨県立中央高等学校、山梨県立大学飯田キャンパスの3校が建ち並んでいる。2005年、TBS系列ドラマ「H2~君といた日々」のロケーションに、明和第一高校野球部グラウンドとして使用された。山梨県企業局は、山梨県の地方公営企業。発電事業や温泉事業などの地域振興事業を行なっている。1964年(昭和39年)に供用を開始した富士山有料道路を皮切りに7つの有料道路を運営管理していた。1993年(平成5年)に山梨県道路公社が設立したことから1997年(平成9年)までにすべての有料道路が道路公社に移管された。

山梨県地域整備公社は山梨県にある公社である。2008年4月1日に山梨県土地開発公社、山梨県道路公社、山梨県住宅供給公社の3公社を統括する組織として設立。それまでは各公社に理事長および専務理事などの役員を置いていたが、それを地域整備公社に1本化することで人件費の削減をおこなっている。現在も法人格としての3公社は残っており、電話番号およびホームページも別々のものになっている。また地域整備公社自身に電話は設置されておらず、ホームページも簡略化されたものになっている。山梨県住宅供給公社は、山梨県にある地方住宅供給公社である。事業内容は土地の取得造成をおこなっているほか、分譲住宅の販売および県営住宅の賃貸である。同じ山梨県内の公社である山梨県土地開発公社と事業内容が重複している部分もあるが、土地開発公社は工業団地など多方面に渡る土地開発を行なっているのに対し、住宅供給公社はあくまで県営住宅などの宅地開発が中心である。

バブル景気時の宅地開発が祟り、土地開発公社同様財政状況が悪化していたため、2008年4月1日より山梨県地域整備公社の管理下に置かれている。株式会社山梨中央銀行は、山梨県甲府市に本店を置く県内唯一の地方銀行である。地元では中銀と呼ばれている。山梨県に本店を置く唯一の地方銀行であり、他業態も信用金庫や信用組合があるがいずれも中小規模であり、さらに都市銀行の支店も少ないことから実質独占状態とも指摘され、保守的とされる。三菱東京UFJ銀行との繋がりが太く、いくつかのサービスにおいて提携を結んでいる。また、三菱東京UFJ銀行は筆頭株主であり、三菱UFJフィナンシャル・グループとの関係が深い。なお、山梨県内に三菱東京UFJ銀行の支店はない。地元山梨県内には多数の支店をおき、また西東京を準地元としてとらえ、八王子支店に西東京推進部をおき、多摩地区には12か店を構えている。逆に、経済規模の大きい大阪府や愛知県、静岡県・長野県・神奈川県といった近隣地域には支店がない。

また、海外にも店舗を有しない。個人マーケットにおいては、2007年10月1日より郵貯民営化により、ゆうちょ銀行が営業開始し、県内の直営店は甲府中央郵便局の中にある甲府店1箇所のみであるが各郵便局に貯金窓口(ゆうちょ銀行の銀行代理店業務を取扱う)やATMがあるため各支店で競合する形となる。上述のとおり、西東京地区には山梨県から進出した企業も多く、それらの企業を足がかりとして個人ローンと並行して西東京地区の事業所への融資拡大を進めている。

2011年10月22日土曜日

冬ほどではないが夏の気候も

地域によって多少の差がある。内陸部は日中の気温が上がるが湿度は比較的低く、熱帯夜も少ない。一方、千葉測候所のある沿岸部では日中の気温はそれほど高くならないものの、湿度が非常に高く、ヒートアイランドの影響もあるため夜になっても気温が下がらず熱帯夜の日々が続き、県内の中でも非常に蒸し暑く過ごしにくい地域である。実際、夏季は勝浦や銚子のような涼しい海洋性気候とはならず、千葉市の8月の平均気温・最低気温共に県内の観測地点の中では最も高い。『日本後紀』大同元年正月癸巳(1月28日)条に、「千葉国造(ちはのくにのみやつこ)大私部直(おおきさいべのあたい、直はカバネ)善人」という人物が登場しており、大化改新以前より千葉に国造が置かれていた可能性が高く、律令制成立後も下総国千葉郡と呼ばれる郡が成立した。更に『倭名類聚鈔』には千葉郡にあった7つの郷の1つに「千葉郷」と呼ばれる郷があったことが記されており、同郷は現在の稲毛区穴川・黒砂付近を指していたと考えられている。

平安時代に千葉氏の祖、平常重が千葉郡千葉郷・池田郷一帯に千葉荘を開き、池田郷亥鼻に拠点を築いて千葉介を名乗る。以後子孫が室町時代まで下総国守護職として周辺を支配した。享徳の乱に乗じた原胤房と馬加康胤によって千葉胤宣が討たれ千葉氏宗家が滅びた後は、千葉妙見宮の小さな門前町となり、江戸時代には市域の大半が佐倉藩領(この他に市域に生実・曾我野の2小藩が置かれた)となるが、廃藩置県後木更津県と印旛県が廃止され千葉県が誕生、両県の境である千葉郡千葉町に県庁が設置されたことから、その後千葉県最大の都市となった。市制施行により千葉市が誕生したのは、1921年(大正10年)1月1日のことである。この時点での市域は、現在の中央区の北半分から稲毛区の南東部にわたり、これは1889年(明治22年)に設定された千葉町の町域をそのまま引き継いだものであった。その後、徐々に周辺の町村を合併するとともに、海面の埋め立てを進め、現在の広大な市域が成立した。

戦前、現在の川崎町の埋立地に日立航空機製作所と日立製作所などの軍施設が集中する軍都として発展したが、昭和20年6月10日と7月7日に連合国軍による大規模な空襲(千葉空襲・七夕空襲)に見舞われ、市域の7割が壊滅する甚大な被害を受けた。戦後、宮内三朗市長(名誉市民第1号)の元で大規模な埋め立てと市町村合併が行われ、京葉工業地域の中心都市として再建された。ちなみに現在の緑区のうち、旧土気町であった部分はかつては上総国山辺郡に属していた地域である。2003年2月、隣接する四街道市の住民の発議により、法定合併協議会が設置され、合併方式を千葉市への編入とし、行政区名を「四街道区」とする方針が決まったが、四街道市議会内で合併への賛否が拮抗し、賛成派・反対派双方による発議により2004年5月16日に行われた、合併の是非を問う住民投票の結果、反対意見が賛成を上回った為に合併は白紙となった。1126年(大治元年) - 千葉常重が猪鼻の地に居館を築く。

1455年(享徳4年) - 原胤房に千葉城を急襲され、千田庄(現在の香取郡多古町)に逃れた千葉胤宣が(元号が変わって康正元年)8月12日、原胤房に加担した馬加康胤に討たれ千葉氏宗家が滅亡した。1871年(明治4年)11月13日 - 廃藩置県により、木更津県、印旛県、新治県が設置される。1873年(明治6年)6月15日 - 木更津県と印旛県を廃止。千葉県が誕生。県庁を両県の境となる千葉郡千葉町(現・千葉市中央区本千葉町)に設置。(1874年(明治8年)5月7日 新治県の廃県に伴い、一部が千葉県に分割編入される。現在の千葉県が形成される。)1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、千葉町、寒川村、登戸村、千葉寺村、黒砂村が合併し、千葉郡千葉町が発足。1930年頃(昭和初頭)の千葉市周辺の地図。1921年(大正10年)1月1日 - 千葉町が市制を施行し千葉市となる。全国で66番目・県内初の市制施行。1937年(昭和12年)2月11日 - 千葉郡蘇我町、検見川町、都賀村、都村を編入。

1944年(昭和19年)2月11日 - 千葉郡千城村を編入。1954年(昭和29年)7月1日 - 千葉郡犢橋村を編入。しかし、このとき犢橋村が村内の軍施設を千葉市に報告しなかったため、1979年(昭和54年)に信管付き不発弾が見つかり、騒ぎになる。7月6日 - 千葉郡幕張町を編入。8月1日 - 千葉郡津田沼町が千葉市の一部(旧幕張町北部:実籾、愛宕、安生津、長作、天戸)を編入して習志野町と改称、即日市制を施行して習志野市となる。8月28日 - 習志野市の一部(旧幕張町北部:長作、天戸)を編入。1955年(昭和30年)2月1日 - 千葉郡生浜町、椎名村、誉田村を編入。1959年(昭和34年)2月1日 - 印旛郡四街道町(現・四街道市)大日の飛地を編入。1963年(昭和38年)4月1日 - 千葉郡泉町を編入。1969年(昭和44年)7月15日 - 山武郡土気町を編入。10月1日~1995年(平成7年)10月1日 - 公有水面埋立(海浜ニュータウン他)による編入。1985年 (昭和60年)6月1日 - 佐倉市の一部(下志津原、上志津原、上志津、下志津の各一部)を編入。

1992年 (平成4年) - ロッテオリオンズの本拠地が川崎から千葉へ移転。これを機に千葉ロッテマリーンズへ改称。1992年(平成4年)4月1日 - 政令指定都市に移行し、6区が発足。全国で12番目の移行。2009年(平成21年)4月22日 - 現職市長・鶴岡啓一が収賄容疑で逮捕。2010年(平成22年)5月20日 - 地域の福祉、健康等の増進及び人材の育成に貢献することを目的とし、淑徳大学と相互連携協定を締結。千葉市は農工商のバランスが取れた都市である。臨海部(中央区川崎町、新浜町、蘇我町、美浜区新港を中心とした地域)は千葉港を中心とした京葉工業地域の一角をなし、中央区部分にはJFEスチール東日本製鉄所(旧川崎製鉄千葉製鉄所)、東京電力千葉火力発電所などが所在し、美浜区新港には食品や金属加工関連の事業所が多い。また、北部地域(花見川区千種町、稲毛区六方町を中心とした地域)では、鉄鋼加工や機械工業が盛んである。戦前は旧・省線千葉駅、旧・京成千葉駅、県庁を結ぶ現・栄町通りがメインストリートとなっていたが、戦災を経て戦後の都市整備に伴い両千葉駅が移転したことで新駅周辺に商業集積が移動。

特に国鉄千葉駅前にはそごう千葉店、ニューナラヤ(現・千葉三越)といった大型小売店が店舗を構えたことから、千葉県最大・関東有数の商業拠点として栄えてきたが、平成に入り、幕張新都心や、蘇我地区などの臨海部に商業施設が建設され、また、郊外での大型ショッピングセンターなどが相次いで建設された。以来、中心市街地が衰退する傾向が大きい。概して、幕張新都心は大企業や多国籍企業が多く立地し、中心市街地(JR・千葉都市モノレール千葉駅、JR東千葉駅、JR本千葉駅、亥鼻城周辺)は古くからの地元商店街的な色彩が目立つ。また、一部の企業が支店や支社を千葉市に置いて千葉県と茨城県を管轄下に置いているケースも見られ、小さいながらも広義の東関東の拠点都市としての機能がある。首都圏の近郊農業地。畑作が中心だが、ブドウや梨などの果樹栽培もある。

2011年10月21日金曜日

田空港以東の下総台地を構成する地域は

東総と呼ばれており、「香取干潟八万石」といわれる所で、水田地帯が広がる。スポーツ界では、この地域出身のプロ野球選手が多く、千葉県立銚子商業高等学校、銚子市立銚子高等学校、横芝敬愛高等学校卒業生が目立つ。東京都区部に近い場所として近郊農業が盛んで、農業産出額(2002年(平成14年))は全国第2位。品目別産出額(2001年(平成13年)度)では大根・葱・蕪・里薯、さらに梨の生産出荷量(2002年(平成14年))が全国第1位。なお、二十世紀なしは1888年(明治21年)に松戸市のゴミ捨て場から発見された木が発祥とされている。南房総では暖かい気候を利用した花の栽培が盛んで、花の産出額(2001年(平成13年)度)は全国第2位。特産品としては落花生が全国的に有名である。千葉県の落花生栽培の先駆者として有名な金谷総蔵は、開墾したばかりの痩せた土地にも良く育つ作物を探していたところ、1878年(明治11年)、県令から勧められ落花生の栽培を始める。

その後栽培地域は干潟地方(匝瑳郡と海上郡にまたがる地域)から山武郡、香取郡、印旛郡など北総一帯へ瞬く間に広がり、千葉県を代表する作物となった。金谷総蔵の死後、その功績が認められ1906年(明治39年)農商務大臣、1968年(昭和43年)農林大臣より表彰される。また、旭市鎌数の伊勢大神宮に「落花生の碑」が建てられている。ちなみに千葉県で最初に落花生が栽培されたのは、1876年(明治9年)の牧野万右衛門が最初といわれている。東京内湾では海苔の養殖も盛ん。かつては遠浅の干潟が広がる千葉市など東京湾奥部でも養殖が盛んに行われていたが、沿岸の埋め立てに伴い、消滅した。現在は、木更津市や富津市、船橋市などの遠浅の海で養殖されている江戸前海苔は、最高級江戸前海苔として珍重されている。また、近年、香りや味の良いアサクサノリを復活させる試みが始まっている。現在は千葉港とその周辺埋め立て地を中心とした京葉工業地域の誕生によって、重化学工業が盛んとなった。

県の工業の特色として、化学工業と食料品工業の比重が高いことが挙げられる。茂原市周辺では豊富な天然ガスを利用した工業が盛ん。市原市では工業が盛んで、工場規模は県内でトップ。天然ガス鉱床(ガス田)から産出するヨウ素は世界でも有数の産出量で、日本が世界に輸出するほとんど唯一の鉱物資源である。千葉県の生産量は年間約5,700t(1999年(平成11年))で、全国の約87%を占めている。なおヨウ素の産出は世界の約35%を日本が占めているが、千葉県は世界一のヨウ素産出地でもある。放送区域は関東広域圏に属する。千葉県域放送の千葉テレビ放送のほかに、NHK放送センター(総合テレビ・教育テレビ)と在京キー局5局(日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビ)が県内全域で映る。またチバテレビのみならずNHK・キー局ともに県内東南部に中継局を置いている。 また、茨城県との県境を中心に一部でNHK筑波中継局を受信できる。

放送大学学園テレビ、東京メトロポリタンテレビジョン (TOKYO MX) は県北西部の一部が可聴範囲に入り、送信所のある東京タワーに向けてUHFアンテナを立てるか、CATVを通じて視聴している世帯も少なくない。MXは送信アンテナの位置が低いため、放送大学テレビと比べ可聴範囲が広くない。なお放送大学本部は千葉市美浜区にある県内に主たる事務所を置き、東京都内の東京タワーに送信所を置く放送局である。また北西部の一部のUR賃貸住宅などではテレビ埼玉(テレ玉)に、東京湾岸地域ではテレビ神奈川 (tvk) にもアンテナを向けている世帯がある。ただし北西部ではテレビ東京宇都宮中継局(デジタル)と混信してしまう地域がある。伝統的な方言(千葉弁)として、東総弁が東部で、房州弁が南部で話されているものの、若年層では衰退する傾向にある。他都県からの移住者が多い北西部や都市部では、主に首都圏方言が話されている。千葉県は東京都に隣接し、所在する成田国際空港と、東京湾アクアラインなどを通じて羽田国際空港により、内外の観光客にとって来訪しやすい環境となっている。

また、三方を海に面し広大な砂浜があり、多くの森林が残っているというため観光業が盛んである。北西部では東京ディズニーリゾートやショッピングセンター、博物館などの施設がにぎわう。成田山新勝寺や佐原など、歴史情緒の残る地域では成田空港を利用する外国人観光客でにぎわう。沿海部では広大な砂浜を生かした海水浴場や干潟を利用した潮干狩り場がある。またいすみ鉄道、銚子電鉄などのローカル線なども観光に利用される。観光客の誘致を主な目的として、富津市に海堡丼、鴨川市におらが丼が存在する。これらの丼は調理法などで分けたものはなく、店舗ごとに異なった丼に共同で同じ名前の付けアピールし、観光客の来店を促し消費につなげようとするものである。おらが丼はたびたび観光ガイドブックなどにも掲載され、県内では有名なご当地グルメである。千葉県は漁業および農業ともに発達しているため、梨や房州びわなどの果物を加工したものや、鯨肉を利用した鯨のたれ、あるいは落花生の加工品や鯛せんべいなどが土産物として販売されている。

一部地域の土産物としては、銚子電鉄などが販売するぬれせんべいが有名である。富津岬南端から犬吠埼などを中心に多くの海水浴が行楽に訪れる。鴨川市は日本のサーフィン発祥の地とされ、毎年多くのサーファーが訪れている。あさりなどの貝類をクマデなどを使用して採取する。木更津市・富津市を中心に、船橋市などでも行うことができる。主に木更津市と富津市で行われている追い込み漁法。浅瀬の海中に簀(す)と呼ばれるものを迷路のように立て、中に入った魚が逃げないようにする。市原市周辺を中心に千葉県内には100を超えるゴルフ場がある。なお千葉県におけるゴルフ場等開発計画の取扱い方針により新規のゴルフ場建設に対して大きな制限がかけられている。千葉県の高校野球は全国的に見て地方大会の参加校が非常に多く、群雄割拠の状態が続いている。全国高等学校野球選手権の記念大会においては西千葉地区と東千葉地区に分けられることもある。

硬式野球部の夏の全国高等学校野球選手権千葉大会では例年千葉マリンスタジアムで開会式・閉会式が行われ、予選の試合の多くは千葉県野球場や青葉の森野球場などで行われる。 船橋市立船橋高等学校や習志野市立習志野高等学校を中心として東葛はサッカーの強豪が多いという特徴がある。千葉市は、千葉県中北部の東京湾北東隅に面した市。同県の県庁所在地で政令指定都市及び業務核都市。面積も広いため地域によって気候は異なるが一般には、夏季はそれほど猛暑にはならず、冬季も暖かくて温和な太平洋側気候である。1月の平均気温は5.4℃、8月の平均気温は26.4℃、年平均気温は15.4℃である。千葉測候所のある場所は三方を海に囲まれている。そのため、海洋性気候の特色が強く出ていて、特に冬季の朝の冷え込みが市内内陸部とは大きく異なることがある。ヒートアイランドの影響も色濃い千葉測候所ではほとんど冬日を観測しない反面、若葉区、緑区などの内陸部では毎日のように冬日を観測し内陸性の特色を有している。

また、標高が高い緑区の土気などでは、中心部が雨でも気温が低いために大雪の時もある。過去の大雪の記録としては1951年の2月14日~15日にかけての南岸低気圧の影響により、市内内陸部の白井で133cm、二戸名で91cm、都で80cmの積雪を記録している。

2011年10月20日木曜日

平洋戦争が始まると

千葉県も重要な食料生産拠点として、食糧増産が各地で行なわれ、肥料の不足や徴兵による人手不足の中で、厳しい供出割当が組まれた。大戦末期になると、航空機燃料のための松根油の生産も北総地域を中心に盛んに行われた。一方、工業方面では、東京に近い市川市・船橋市・津田沼町、千葉市にかけて軍需工場が次々と移転、地域の中小企業も合併が進められ、その多くは、陸海軍関係の下請け工場として再編成された。1942年(昭和17年)には、東京湾の埋め立工事が進められ、日立航空機千葉工場が建設された。さらに大戦末期には、大網・茂原・興津・鴨川などに大規模な地下工場も造られ、千葉県の工業化比率は大きく進んだ。新たに東京大学第二工学部(現在の東京大学生産技術研究所千葉実験所)が千葉市に新設されると、造兵研究の拠点ともなった。1944年(昭和19年)、サイパン島・グアム島・テニアンが占領され、日本本土への空襲が本格化すると、房総半島はB-29爆撃機の進入ルートとなり、現在の成田市から習志野市の上空では激しい航空戦が行なわれるようになった。

しかし、県内の被害は軽微で、空母や硫黄島から飛来した航空機(F6Fヘルキャット・F4Uコルセア・P51ムスタングなど)が軍関係施設や港湾施設、工場や学校、集落に対して機銃掃射を加えたり、爆撃隊が帰還途中に不要爆弾破棄のため、投下するようなことはあったが、千葉空襲、銚子空襲以外に本格的な空襲が実施されることはなかった。1945年(昭和20年)9月3日敗戦に伴い、米軍が富津・館山に上陸県内各地に展開し、武装解除と日本軍施設及び一部の公共施設が進駐軍に接収された。同年10月に千葉市に進駐、千葉県庁本館2階に占領政策のため本部が設置された。翌年の1946年(昭和21年)7月には千葉軍政部に改称、1949年(昭和24年)11月まで、GHQの軍政下に置かれる。また、県内各地の特攻隊基地(震洋・桜花・回天・海竜・蛟竜・S特攻部隊等)や館山海軍砲術学校、陸軍習志野学校を始めとする旧日本軍関係施設が進駐軍によって調査される。県内各地で、食糧難から買い出し者が集まり、闇市が自然に発生する。

戦中から戦後にかけて東京方面などから多数の空襲被災者が千葉県(主に葛飾地域)に流入し、浮浪者が増加、都市部を中心に治安が一時、悪化する。また、住居不足が深刻化し、被災者用の住居建設や開拓農地開発営団習志野事業部による習志野開拓や下志津開墾などの救済事業が実施される。東京湾アクアライン1950年(昭和25年)以降、東京湾沿岸の埋め立てを始め、県内各地での開発が活発化し、県・国・民間が関わる大規模開発が続々推進された。東京湾沿いには、京葉工業地域が建設され、重化学工業が発展する。ベッドタウンの開発が進み、いわゆる『千葉都民』が急増する。県内の主なニュータウンとしては、海浜ニュータウン、成田ニュータウン、千葉ニュータウンなどがある(千葉県のニュータウン一覧)。また、東京に近い好立地を活かして、湾岸沿いを中心に谷津遊園(1925年(大正14年) - 1982年(昭和57年))、船橋ヘルスセンター(1955年(昭和30年) - 1977年(昭和52年))、マザー牧場(1960年(昭和35年) - )、東京ディズニーランド(1983年(昭和58年) - )などの大規模レジャー施設が数多く誕生した。

1978年(昭和53年)には新東京国際空港(現在の成田国際空港)が開港、1989年(平成元年)には幕張メッセがオープン。周辺地域は大きな発展を遂げた。しかし、その反面、房総固有の風致の多くが失われてしまった。1997年(平成9年)には、東京湾アクアライン(木更津 - 川崎間)が開通、半島の流動性が高まり、今後の発展のための布石となるかどうか注目されている。三番瀬埋め立て反対を掲げて当選した堂本暁子知事の時に臨海部の埋め立てが中止されたが、館山自動車道、首都圏中央連絡自動車道の建設など、道路建設は引き続き推進されている。経済発展の一方で、千葉県では急激な開発と行政の無策のため、生活排水や工業排水、農薬などが垂れ流しにされ、県内各地の河川や湖沼の水質は著しく悪化した。東京湾でも、水質汚染が一時、深刻な問題となり、漁業権を放棄する漁業協同組合が相次いだ。また、天然ガス採掘や地下水を過剰汲み上げしたことによる地盤沈下が深刻化し、船橋市では1974年(昭和49年)に「地盤沈下非常事態宣言」を発令する。

モータリゼーションによる排気ガスの増加や、工場などから排出される煙などによる、光化学スモッグ、ゴミ焼却によるダイオキシン問題等の大気汚染も深刻化した。近年においては、産業廃棄物や感染性医療廃棄物、硫酸ピッチなどが農地や山林に埋められるなど、不法投棄も問題になっている。このため、千葉県では、環境系のNPOや市民団体を積極的に支援したり、2008年(平成20年)に千葉県環境基本計画を制定するなど、環境方面に力を入れる傾向が見られる。近年の千葉県では、成田空港の存在と東京近郊の立地を生かし、『観光立県ちば推進ビジョン』を作成し、『花と海』をテーマにイメージアップを図ろうとしている。豊富な天然ガス資源の活用や、近年、注目されているバイオ燃料の生産のための研究も行われるなど、新たなエネルギー産業の育成も試みられている。また、市民ベースだが、エコツアーやアグリツーリズム、使用されなくなった農耕地を利用した市民農園やクラインガルテンを設置など、地域風土(自然環境や農業・漁業等の地場産業)を活かした新たな体験型観光ビジネスモデルに関しての模索も行われている。

そのほかにも従来の近郊農業に加え、農産物や酪農、林業などの分野に関する研究も行われており、新たなブランド品種の開発も試みられている。千葉県の公共下水道普及率は長年全国平均を下回っており、2009年(平成21年)3月末の調査では、全国よりも5%ほど低い67.2%である。千葉市や柏市など北西部の都市では普及率が軒並み80%を超えるが、館山市や旭市などでは10%を下回るなど低い状況にあり、南房総市やいすみ市など公共下水道事業が実施されていない地域も多い。また上水道給水人口比率は94.1%の全国26位、主要道路の舗装率は99.9%と全国1位だが、市町村道舗装率は81.1%と全国25位である。以上のように千葉県のインフラストラクチャは国内でも高い水準とはいえず、県庁の県土整備部などが改善に向けた活動を行っている。「千葉県インターネット放送局」は千葉県が運営するインターネットテレビ放送である。知事定例記者会見、ウィークリー千葉県、県立病院紹介など7系統のチャネルを用意して県政の広報に務めている。

県央地域、葛南地域、東葛飾、印旛地域を指す。東京都区部に近いため、宅地化が進んでいる。東京湾沿岸側の埋立地の多くは千葉港が占めており、港内は京葉工業地域となっており、臨海部には東京ディズニーリゾート、ららぽーとTOKYO-BAY、幕張新都心などの商業施設やレジャー施設が立ち並ぶ。いわゆる「千葉都民」の多い地域で、中でも浦安市は、住民の平均年齢が最も低い市である。内陸部側も同じく内陸工業団地の造成や宅地化が進み千葉ニュータウンや成田ニュータウンなどの大規模ニュータウンが造成されている。また年間約3100万人が利用する成田国際空港が位置し国際交通の足場となっている。内陸部側は、北総又は印旛と呼ばれている(ただし「北総」には東京湾岸や東総地域など旧下総国地域全体を指す場合もある)。狭義では、千葉市周辺を除いて、旧東葛飾郡(現在の船橋や我孫子など)の範囲を指す事もある。東葛は千葉市との繋がりが浅く、全国紙の地方版も、千葉市周辺版と東葛版に分けられている。

スポーツ界では、特に東葛は「サッカー王国」として有名である。アマ界を見ても、高校サッカーにおける激戦区の一つであり、船橋市立船橋高等学校、習志野市立習志野高等学校などが全国制覇を複数回成し遂げているほか、強豪校が私立・公立ともに多い。

2011年10月19日水曜日

石橋山の戦いに破れ、安房国へと落ち延びた源頼朝を

千葉氏を始めとする総州の諸侯(安西氏、和田氏、葛西氏など)が支援したことによって、わずか1ヶ月で関東武士の恭順と結束を固め、鎌倉幕府を築くための原動力となったことは著名である。この功績によって千葉氏当主だった千葉常胤は、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、総州の支配者としての確固たる地位を築くと共に、奥羽(後の奥州千葉氏)・九州(後の九州千葉氏)にも所領が与えられ、一族の一部が移住、勢力が拡大する。一方の上総氏は、頼朝の政権獲得の過程で、当主広常が謀殺され、領地も没収されてしまったため、以後の歴史書や系図で不当に扱われてきたという経緯がある。鎌倉時代前期には、千葉氏(上総の千葉常秀を除き)は、畠山氏や三浦氏のように北条氏とは争わず、千葉常胤の嫡男太郎胤正が千葉宗家(千葉介家)、次郎師常が下総国相馬郡、三男胤盛が武石郷、四郎胤信が大須賀保、五郎胤通が国分郷、六郎胤頼が東庄を本拠とし、世に千葉六党と称され最盛期を迎える。

鎌倉時代中期の蒙古来襲の際には、千葉氏も九州に所領を持っていたことから、当主の頼胤、宗胤がそれぞれ、文永の役、弘安の役に参加している。しかし、同時期から千葉介の継承を巡り、千田胤貞と千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、1333年(元弘3年、正慶2年)に鎌倉幕府を打倒すると、対立は表面化、それぞれ、足利尊氏と新田義貞双方に属し、1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)に胤貞が没するまで争いが繰り広げられた。また、1365年(南朝:正平20年、北朝:貞治4年)の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の筆頭家老の座を巡る原氏と円城寺氏の争いなど、千葉宗家・千葉六党・家臣(同族)間の対立や内紛が後も絶えずに起こる。さらに室町時代になると、関東では、鎌倉公方と室町幕府との対立が激化、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった争いが相次ぎ、長い戦乱が続いた。現在の県域も巻き込まれ、荒廃した。この一連の戦いは、関東管領・鎌倉公方(古河公方)を始め、関東の諸氏の勢力を衰えさせた。

千葉氏も例外ではなく、1455年(康正元年)の享徳の乱の際には、一族の重鎮である馬加康胤を擁した重臣原胤房によって千葉宗家が滅ぼされるなど、戦国時代には大きく勢力が衰退していた。この状況に乗じ、戦国時代になると小田原の北条氏が関東各地を次々と支配下に置き、台頭してきた。千葉氏は、北条氏に従属し、安房を本拠とする里見氏(詳細は国府台合戦を参照)や上杉氏(詳細は北条征伐を参照)との争いに巻き込まれていく。上総国では、上総武田氏が台頭、古河公方の分家筋である足利義明を小弓公方として擁立し勢力の拡大を目指した。安房国では、1440年(永享12年)の結城合戦に破れ、安房に上陸した里見義実が領主だった安西氏を追放し台頭する。里見氏は、戦国時代になると北条氏と房総の覇権を争うことになる。鴻の台とね川風景1590年(天正18年)、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原の役で北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。

一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、小田原の役の際の軍事行動が私的な戦闘行為とみなされて安房一国に削減された。北条氏滅亡後に徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から下総・上総を含む関八州に移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。上総・下総には、常陸佐竹氏と安房里見氏を警戒して、本多忠勝を始めとする徳川家の譜代家臣団が配置されるも、里見家は存続し、引き続き安房を領有する。だが、江戸時代初めに起きた大久保長安事件の余波を受けて改易、その後断絶することになる。江戸時代を通じて、県域各地は、幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われた。また、風土や立地に恵められていたことから、薬草や農産物などの栽培所が設置され、試験栽培などが行われた。有名な話としては、飢饉対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の馬加村(現千葉市花見川区幕張町)、上総国の九十九里浜の不動堂村(現九十九里町)において試験栽培が実施され、1735年(享保20年)関東地方でも栽培が可能であることを確認。

これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけを作ったことは有名である。なお、下総薬園台(現船橋市)では、朝鮮人参や黄蓮の栽培も試みられている。明治元年(慶応4年)9月(1868年10月)、明治と改元される。すでに政体書によって決まっていた府藩県三治の地方制度が、6月頃から関東地方で実施され始めた。幕末期の房総地方には17藩が所在したが、その間転封が命じられ、明治元年末(1869年初め)には23藩の多数にのぼった。そのため明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県が実施されると、26県という多数の県が並立することとなった。しかし、同年11月の全国的な県の廃合で新治県・木更津県・印旛県の3県に統合された。次いで、1873年(明治6年)6月15日、印旛県と木更津県の合併により千葉県が誕生、県庁が千葉町(千葉市街地)に開設された。千葉県権令には柴原和が就任した。1875年(明治8年)5月7日に新治県の茨城県編入に伴い、千葉県であった結城郡・猿島郡・岡田郡・豊田郡4郡と葛飾・相馬両郡の一部を茨城県に譲渡して、香取郡・匝瑳郡・海上郡を旧新治県から編入した。

次いで葛飾郡のうち江戸川以西を埼玉県に移管し(のち中葛飾郡を経て北葛飾郡の一部)、さらに1899年(明治32年)4月1日に香取郡の利根川以北が茨城県に編入されている。これにより、現在の県域がほぼ確定した。明治2年(1869年)には、明治政府によって、東京在住の旧士族出身者を始めとする失業者の救済のために旧幕府牧の開墾事業が計画され、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実、七栄、八街、九美上、十倉、十余一、十余二、十余三などの村が新しく作られた。東京に近かったことから、1873年(明治6年)に明治天皇が習志野原へ御幸して以来、首都防衛を名目に、習志野を始め千葉、市川、柏、松戸、佐倉、四街道、茂原、木更津、富津、館山のような多くの軍事拠点(軍郷)が造られた。太平洋戦争(大東亜戦争)の際には、風船爆弾によるアメリカ本土空襲のための前線基地も置かれた。なお、県や各市町村も、このような軍事拠点を造ることが重要な産業基盤につながると捉え、競って誘致を推進した。

その中でも千葉市は、千葉連隊区司令官を始め多くの軍学校や軍営施設が造られたことから、軍都千葉と呼ばれた。近代になると、官主導のもと近代産業の育成が行われたが、千葉県では地下資源に恵まれなかったことから、近代工業が育たず、開発から大きく取り残される形となった。だが、江戸時代以降の醤油・みりんといった醸造業は近代に入っても発展を続け、1928年(昭和3年)には戦前の労働争議でも最大規模の野田醤油労働争議が発生した。他の発達産業としては、従来の農業・水産・林業に加え、銚子の缶詰産業や旧幕府牧馬跡などを利用した酪農が有名である。1875年(明治8年)に旧佐倉牧の跡地(現・成田市)に下総牧羊場(後の宮内庁下総御料牧場)が設置されると、酪農に関する研究も盛んに行われ、県の主要産業の一つとなった。しかし、御料牧場は、1969年(昭和44年)に新東京国際空港の建設計画に伴い、栃木県高根沢町に移転することになる。

1904年(明治37年)に勃発した日露戦争では、習志野騎兵連隊の活躍は有名で、沙河会戦、黒溝台会戦・奉天会戦などで騎兵戦術を駆使して活躍、秋山好古少将と共に千葉県の知名度を高めた。また、映画「戦場に架ける橋」のモデルとなった鉄道連隊もよく知られており、県内では現在の東武野田線、久留里線、小湊鉄道などのインフラ整備に貢献している。

2011年10月18日火曜日

現存の文書中、千葉という地名が

もっとも古くに見えるのは、『万葉集』20巻の千葉郡出身の防人大田部足人の詠んだの一首だといわれている。地殻変動により隆起して半島が形成された。上総の山稜地帯はその名残である。今から約12万年前は、関東平野のほとんどは海面下で、現在の千葉県は房総半島南部の山脈と銚子周辺の高台が小島として水面上に出ていたのみと考えられる。約2万年前のヴュルム氷期になると、海岸線の大幅な後退と周辺山脈の活発な火山活動などに伴い海面は、現在より、80 - 100mも低くなり、東京湾は盆地(陸地)となっていたとされる。台地から流れ出た水は、最終的に古東京川(現東京湾沖にあった)と呼ばれる大河を形成し、古太平洋へと注いでいたという。富津沖の中ノ瀬は、当時の川中島であり、観音崎から急に水深が深くなっているのは、古東京川の流れがえぐったためではないかと考えられている。 縄文時代が始まる約1万年前から気温が上昇し、氷河が溶けると海水面は再び上昇し、現在よりも5 - 10mほど高くなり、関東平野には古東京湾と古鬼怒湾(後の香取海)の2つの湾が形成され、島状になっていたとされる。

千葉県の旧石器時代の人々は、古鬼怒川沿いに石器の原材料を求め北は高原山から南は房総半島の嶺岡山地の間約200km以上にも及ぶ長い領域の間を移動しながら生活を営み、主な狩場である常総台地ではナウマンゾウやオオツノシカなどを食料にした狩猟生活を営んでいたと考えられている。そのため、狩猟に使用するための石器などを使用した道具が進化した。石器は、黒曜石やサヌカイトを使用したものが著名で、千葉県最初の旧石器時代の黒曜石は、市川市国府台にある立川ローム層等から発見された。千葉県には、石器の原料となる産地が乏しく、高原山や甲信地方の中央高地などから運ばれたと考えられている。千葉県の旧石器時代の遺跡は、300数十箇所ほど発見されており、県北部の台地に多い。そして、印西市(旧・印旛村)では、日本初のナウマンゾウの全身骨格が発見され、成田市(旧・下総町)では、ナウマンゾウの頭骨が発見されている。縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。

縄文時代の貝塚は日本各地に約2300か所を数え、関東地方には、約1000か所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600か所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には644か所ほどの遺跡が見られる。千葉市にある加曽利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曽利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の堆積状態を観察することができる。また、縄文遺跡の落合遺跡(東京大学検見川総合運動場)から発掘されたハスの実は発芽に成功し、大賀ハス(古代ハス)と呼ばれ、世界中に株分けされた。県内では、成田市の荒海貝塚から縄文から弥生時代へ移り変わる頃の籾殻痕がついた土器が見つかっており、イネの栽培が行われていたと推定されている。ただ、千葉県内ではこれまで台地上の発掘調査が多いこともあって、水田跡はまだ見つかっていない。農耕社会に入ると、『ムラ』の形態が変化し、これまでの採集経済に代わり、生産経済が展開されていく。

この過程の中で環濠集落が出現するが、千葉県では1979年(昭和54年)から行われた佐倉市の六崎大崎台遺跡の発掘で発見されている。遺跡は台地にあり、周辺の低地には、水田が広がり、そこでは技術的に完成された農業が営まれていたと推測されている。環濠集落は、政治的施設や生産工房を府置した政治的軍事的な「城塞集落」で、佐賀県の吉野ヶ里遺跡は、前者の数十倍の規模があり、陸橋・門柱・柵列や物見櫓が見つかっている。また、環濠内には弥生墳丘墓や祭祀施設も備わっていたことがわかっている。遺跡の多くは山(標高20m - 30m程度の高台)側に多く分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」となっていたためで、この影響は、平安時代から鎌倉時代まで続いたとされる。

この影響は、日本武尊に関する説話など、各地の伝承や伝説などにも見受けられる。岩屋古墳6世紀後半になると、畿内では前方後円墳は姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では、7世紀初めまで前方後円墳が築造されていた。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町及び成田市にある龍角寺古墳群(古墳総数は111 - 124基)がある。遺跡は、印旛沼の東岸(印波国造の影響域と推定されている)にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。龍角寺古墳群は6世紀に始まったとされ、7世紀末までの200年間、複数の古墳と寺院が築造されたもので、東国における墳墓(古墳から寺院)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名である。浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は7世紀中葉までに及び、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳のひとつといわれる。この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。

安房・上総・下総の各国には、駅(駅家)が設置され、駅馬と伝馬が配備されていた。この三国が属した東海道は中路とされた。安房国には駅馬が白浜・川上各5頭が配備、上総国には駅馬が大前・藤潴(ふじぬま)・島穴・天羽の各郡に5頭、伝馬は海上・望陀・周淮・天羽の各郡に5頭、下総国には駅馬が井上10頭、浮嶋・河輪各5頭、茜津・於賦(おう)各10頭、伝馬が葛飾郡10頭、千葉・相馬の各郡5頭が配備されていた。この荒廃の中で台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫の千葉氏(上総氏も含む)である。千葉氏は下総国千葉荘を本拠とした豪族で、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる名門氏族として総州で栄えたといわれている。千葉氏系の氏族としては、相馬氏 、武石氏、大須賀氏、国分氏 、東氏、葛西氏、椎名氏、臼井氏、原氏、遠藤氏、円城寺氏、高城氏などの諸流がよく知られている。このうち、相馬氏と遠藤氏、高城氏は明治維新まで存続する。しかし、千葉氏も平安時代までは、俗に言う私営田領主(地方領主)で、国司が交代する度に荘園の認定を得なければならなかった。

そのため、平氏政権の影響が地方にも及ぶ頃には、下総国司だった藤原親通によって官物未進(租税滞納)を理由に相馬御厨や立花荘(東荘)が没収されるなど、困難な状況に追い込まれていた。千葉氏は、これらの荘園の回復のため、長期間奔走するが、懸命の努力にもかかわらず、源義朝を経て、藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張し、介入してきた常陸の佐竹義宗に奪われるなど、平家方の親通が土着する過程で、被害を受ける在地領主の一人にしか過ぎなかった。そのような困難な状況を打開する転機となったのが、平安時代末期の鎌倉幕府創設への貢献だった。

2011年10月17日月曜日

2011年3月11日に東日本大震災が発生した際

グラウンドは影響が無かったものの内野席の天井の一部が剥げ落ち、球場の外も内野席の屋根付近の外壁が一カ所破損して落下した。その為内野席の上部は立入禁止の措置をとり、都市対抗野球千葉県大会1・2次予選、高校野球では春季・選手権大会での使用を中止した(同年8月に使用制限は無くなった)。漫画家・江口寿史の連載デビュー作『すすめ!!パイレーツ』(1977年 - 80年、週刊少年ジャンプに連載)に登場する架空のプロ野球チーム「千葉パイレーツ」の本拠地・「千葉球場」のモデルであるとの説が一部であるが、作者の江口は言明していない。なお、作中には「千葉球場」の所在地には流山市にあることが示されている。 千葉マリンスタジアムは、日本の千葉県千葉市美浜区の県立幕張海浜公園内にある多目的野球場。日本プロ野球・千葉ロッテマリーンズが専用球場として使用している。地名を冠せずにマリンスタジアム、マリスタ、或いは千葉マリン、マリンといった形で略した通称も使用される。

球場施設は千葉市、駐車場などの土地部分は千葉県がそれぞれ所有し、千葉ロッテマリーンズが指定管理者として運営管理を行っており、管理業務は県・市・千葉ロッテ球団などが出資する第三セクター・株式会社千葉マリンスタジアムが受託している。千葉ロッテの本拠地球場として利用されている他、夏の全国高等学校野球選手権千葉大会の開会式と準々決勝以降の試合(ロッテの日程の兼ね合いで5回戦以下の試合で使用される場合もある)や社会人野球でも使用されている。コンサートでも数多く利用されており、1990年4月のマドンナのコンサートを始め、近年では都市型音楽フェスティバルのサマーソニックでお馴染みの会場となっている。JR東日本京葉線の海浜幕張駅から徒歩圏内にあり、隣接した場所に幕張メッセ、アパホテル&リゾート<東京ベイ幕張>(旧幕張プリンスホテル)、ホテルニューオータニ幕張、三井アウトレットパーク 幕張(旧ガーデンウォ〜ク幕張)、コストコ幕張店や大規模マンション等がある。

千葉県ではメインとなる野球場として千葉県総合スポーツセンター内の千葉県野球場(1968年完成)が使用されていた。しかし千葉県野球場はナイター設備が無い事や収容人数が30,000人に満たない事、更に当時はモノレールも未開通だった事など問題点が多く、プロ野球公式戦は長らく県内では行われていなかった。また老朽化しかつ狭隘な川崎球場を本拠地とし、観客動員が伸び悩んでいたロッテオリオンズは関東の他球場への本拠地移転を検討した際、候補の1つとして千葉県野球場が挙がっていたが同様の理由で断念している。千葉市は1980年代初頭に大規模野球場を建設する計画を立てたがこれは頓挫した。その後幕張新都心計画に組み込まれる形で計画が復活し、多目的野球場として建設されることになった。起工式は1988年2月22日に行われた。竣工を前にした1989年、県民・市民や県内政財界関係者によって結成された「千葉にプロ野球を誘致する県民会議」は、マリンスタジアムにプロ球団を誘致しようと活動を進め、陳情書を県・市に提出、いずれも採決された。

これを受け、県・市は首都圏に本拠を置く6球団に対し公式戦・オープン戦の開催を求めるなど誘致活動を進めた。竣工は1990年2月22日で同年3月に開場した。総建設費133億円。球場開きは社会人野球公式戦のJABA千葉市長杯争奪野球大会の第1回大会。同大会はマリンスタジアムの竣工を機に行われたもので、日立製作所が第1回の優勝チームとなった。千葉市長杯は現在も11月中旬に行われている。アマチュア野球ではこの他、高校野球も行われるようになる。プロ野球の誘致活動が実り、同年3月24日にはオープン戦・読売ジャイアンツ対ロッテオリオンズ(当時)戦が行われ、1991年にはヤクルト(その後2005年まで実施)とロッテ主催の公式戦も行われ始めた。プロ野球公式戦第1号の本塁打はヤクルト・荒井幸雄が放ったランニング本塁打だった。県・市は首都圏6球団の中で特に川崎球場へ不満を募らせ続けていたロッテに対して、千葉への本拠地移転を前提として誘致を進めた。その結果、ロッテは1991年夏に本拠地の千葉移転を決定。

ロッテ主催による千葉マリン初のパ・リーグ公式戦(対西武戦)が開催された7月31日、同日のオーナー会議で正式に移転が表明された。そして9月4日の実行委員会でロッテの保護地域の千葉県への移転が承認され、10月31日のオーナー会議での承認を経て、1992年からロッテは千葉マリンに本拠地を移す事が決定した。移転の際、当初球団名は地名を冠した「千葉ロッテオリオンズ」を予定していたが、一般公募を基に改称することとなり、選考の結果、新たな愛称は「千葉ロッテマリーンズ」と決まった(応募1位の愛称は「ドルフィンズ」だったが、中日ドラゴンズと被るという理由で採用されなかった。他にも「パイレーツ」などが上位だった)。ロッテの観客動員は移転初年度こそ移転景気で球団新記録を達成したが、その後はチーム成績・観客動員共々ジリ貧の闘いを強いられた。1990年代後半には県・市の政財界関係者の一部の間で、伸び悩むロッテの観客動員と、強風など気象条件に左右されやすい環境を改善する打開策として「千葉マリンのドーム化」を求める動きが起こった。

1999年にロッテがシーズン序盤好調だった際には、時の市長が「優勝した場合はドーム化を検討する」と表明したが、この構想にはファン・市民の多くが異議を唱えた。ロッテの観客動員の回復やファンや市民の反対意見、自治体による球場施設に対する各種規制による財政難などもあって、具体化するまでには至らなかった。ロッテは2004年から球団の営業戦略の一環として、千葉マリンをファンに親しみやすく、多くの観客がより快適に観戦できるよう改善を進めるべく「ボールパーク化構想」を方針付け、県・市に対し協力を要請した。球場は行政側が所有・管理するものであり、プロ野球だけでなくアマチュア野球や県内・市内在住者向けの一般利用にも供用される公共施設であることから様々な規制があり、行政側はこれを盾に球団から提出された様々な利用申請に対して認可を渋り続けてきた。同年プロ野球再編問題が勃発し、この中でロッテも、当時オーナー企業ダイエーの経営不振で球団の継続保持が困難といわれていた福岡ダイエーホークス(当時)と合併し「福岡ロッテホークス」とする構想が取り沙汰されたことから行政側にも危機感が生じ、これまで設けていた規制を大幅に緩和した上で2006年からロッテ球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して施設管理権を球団に委譲した。

こうして、球場場外での屋台・露店の営業が可能となり、場内で様々なサービスが開始された他、外野フェンスの広告掲出も開始されるなど、スタジアム内外でファンサービスの拡充や施設収益の改善を目的とした数多くの活動が実施されている。2010年に国民体育大会(ゆめ半島千葉国体)の開会式会場となった。野球場で国体の開会式をするのは初めて。2010年にロッテがクライマックスシリーズに進出した際には、ファーストステージならびにファイナルステージ全試合のパブリックビューイングが元ロッテの立川隆史をゲストに行われ、最終戦には公式戦並みの約1万3千人の観客を集めた。2010年末にQVCジャパンが施設命名権を取得し、2011年3月1日から呼称を「QVCマリンフィールド」としている。

2011年10月16日日曜日

現代標準語に対して茨城県内で使われる代表語を列挙

語源が判明または推定されるものについては、合わせて解説する。尚、厳密には、茨城全域で押しなべて使われる方言は決して多いとは言えないため、主に広域に使われる方言を紹介する。茨城弁には古語に由来するものや近世語が数多くあるが、使用頻度や使用地域が広いものを除きここではそれらを含めない(太字は代表語)。また全国各地の方言書とされるものには現代では使われなくなったやや古い言葉や近世語が含まれることが多いが本稿ではそれらは含まない。ここに紹介したわずかな言葉には茨城特有の方言があるが、過半の言葉は、関東あるいは東北各地の明治期等の古い方言書を調べると一致または類似しているものが多い。重ねての説明になるが、これは、現代の特に東京を中心とした視点で見た時、関東各地の言葉は、形式的に方言とみなされてしまうが、現代の標準語または共通語は明治期に政治的・政策的に定められたものであり、大半が関東にあった古い方言と考えて良いと思われる。

その中で茨城方言らしい言葉は東北方言の影響を受けたか、関東圏の中で唯一古い東国方言を残していると言える。また俗語の存在も無視できない。主に江戸に発祥したいわゆる「べらんめえことば」は、標準語ではないにしても実際は俗語として今も残っているのである。一方、関東各地だけでなく東北圏にまであることを考えるとどちらが先立ったかは疑問が残る。おはよう茨城は、1979年10月7日から2011年3月27日までフジテレビで放送されていた茨城県の広報番組。「茨城県では今どんな事が起こっているか」などをテーマに茨城県の今を考える。また、茨城県の行事や祭りなども紹介している。また、一部の回では手話放送を行っている。茨城県には地元民放テレビ放送局がない(全都道府県で唯一。独立UHF局も存在しない。)ため、テレビ放送を使った広報をキー局であるフジテレビの枠を購入して行っている。このため、茨城県だけでなく、首都圏を始めとしたフジテレビの電波が届く地域で視聴できる。第1回(1979年10月7日放送)は「動く県政教室」をテーマに放送。タイトル画とこの回の一部は最終回でも放送された。

番組開始以来数回タイトルロゴとテーマ曲を変えているが、最終回時点のタイトルロゴとテーマ曲は2009年10月から使用されている。また、数年前からはプレゼントコーナーも紹介される様になった。2011年3月27日を以って終了となり、31年半の歴史に幕を下ろした。後番組については、茨城県がスポンサーと交渉しながら決定するとしている。当番組の終了は東日本大震災(同3月11日)発生前にすでに決まっていたもので、日曜日早朝枠で視聴者層が固定され、また番組をホームページに二次利用できないなどの問題などの影響があったためとしている。茨城県立県民文化センターは、茨城県水戸市千波町にある茨城県立の文化施設。千波湖および千波公園に隣接する。茨城県の施設であるが、指定管理者制度の導入に伴い、財団法人いばらき文化振興財団が管理・運営を行っている。茨城県立カシマサッカースタジアムは、茨城県鹿嶋市にあるサッカー専用スタジアムである。Jリーグ・鹿島アントラーズがホームスタジアムとして使用している。

施設は茨城県が所有し、株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シーが指定管理者として運営管理を行っている。1993年の開場当初、カシマスタジアムの収容人員は15,000人だったが、その後立見席を設けたため収容人員は約16,000人となった。だが、茨城県は2002 FIFAワールドカップの開催地として立候補しており、カシマスタジアムを開催会場とすることも決まっていたことから、スタジアムの処遇を検討する必要に迫られた。既存のカシマスタジアムを継続使用しながら増築する場合、安全上の問題が生じ消防法に抵触する恐れがあることから、一時はスタジアムを新規に建設する事も検討していた。しかし新規建設の場合は建設コストが多額に及ぶことから、既存のカシマスタジアムを増築することとなった。改築事業は1999年から3年間に及び、アントラーズはこの間茨城県を離れ、ホームゲームを東京都新宿区の国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)などで行った。

当時、茨城県内でJリーグ1部(J1)の基準を充足する施設はカシマしかなく、また以前水戸ホーリーホックがホームゲームを行っていた那珂市の笠松運動公園陸上競技場は2002年に開催予定だった全国高等学校総合体育大会(インターハイ)に合わせ改修を行っていたため、使用できなかった。現在の水戸のホームスタジアムであるケーズデンキスタジアム水戸はJ2規格も満たしていなかった。鹿島アントラーズとの茨城ダービーを争う水戸ホーリーホックは、今までリーグ戦をカシマスタジアムで行ったことはない。ただし公式戦としては天皇杯全日本サッカー選手権大会で1回(第84回)、PSMでは「いばらきサッカーフェスティバル」として5回試合をしたが、全て鹿島に敗れている。逆に鹿島は、カシマスタジアム竣工前の1992年のJリーグカップなどでかつて水戸がホームスタジアムとしていた笠松運動公園陸上競技場で主催試合を行っている(当時の水戸は前身チームが土浦市で活動していた時期)。同スタジアムの駐車場は試合開催日以外は無料開放されている。そのため、茨城県が進めるパークアンドライド政策では輸送拠点と見なされ、試合の無い日でも東京駅と鹿嶋市内を結ぶ高速バス「かしま号」の一部が同スタジアムを始発・終着地として運行される。

茨城ゴールデンゴールズは、欽ちゃんことタレント・萩本欽一が2005年に創設し日本野球連盟へ加盟する、社会人硬式野球クラブチーム。萩本自らがオーナーを務め、萩本の所属事務所である佐藤企画代表取締役の佐藤宏栄が球団の代表を務める。プロ野球マスターズリーグ事務局の支援を受けている。別名「欽ちゃん球団」、略称「茨城GG」、「GG」。また、社会人野球版欽ちゃんファミリーとも言われる。本拠地は大半が農村部である茨城県稲敷市(旧:桜川村)に置いている。選手らは稲敷市に住み込み、野球と農業の両立を目指して、活動している。萩本は「社会人野球の実業団(企業)登録球団が相次いで廃部の傾向にあること、またプロ野球も再編の波に押されるなど、野球界全体が揺れ動いていることを憂い、少しでも野球界の活性につながれば」とこのチームを結成することを決心する。ヘッドコーチには元巨人・西武の投手やコーチを歴任した鹿取義隆を招聘している。チーム名称はコピーライターの糸井重里がつけたもの。

社会人野球の頂点(金メダル)を目指して取り組む姿勢、更に、萩本欽一が運営するチームということで「金の中の欽」という意味合いも兼ねて付けられる。なお、萩本は選手やコーチに自らを監督ではなく「欽督(きんとく)」と呼ばせている。また、農作業や地域のボランティア活動も練習の一環として捉え、「筋トレ」ならぬ「欽トレ(きんトレ)」と名づけて取り入れている。

2011年10月15日土曜日

茨城は県別で全国4位であった。

また八丈方言と関東の海岸部との共通性は多いのだが他の都県との関係は薄いことも解かった。また遠く離れた九州方言との意外な共通性が見られた。八丈方言は東北方言に最も近い一方で、東北の南端の宮城・福島より茨城の方が近いと言うことになる。橘正一は、この理由として古語が残っているか否かによると推論している。言い換えれば茨城には統計的に古語が良く残っていることが証明されたことになる。以上から、茨城方言すなわち東関東方言は、東北方言に近いだけでなく、関東圏では最も古い言葉を残していると言えよう。茨城弁の特徴は、東関東方言と一致する。東関東方言は、茨城県の大半と、栃木県の南西部を除く地域、千葉県の北部の一部で話されている日本語の方言群である。関東各県の方言は、時代の経過とともに、東京・神奈川の都市部の方言は、著しい速さで変化したと見られる。それが現代の方言分類にも現れている。一方、各地の方言のうち、動植物や生活文化・風習に関る語彙は種々雑多で使用範囲が限られる。

また、関東各県には各々独特の語彙が存在する。さらに関東以外の周辺域の影響を受けた言葉がある。それらを除いた各地の古い方言は、実は関東圏にほとんど共通に見られるものである。東京西部の青梅市・多摩地域などの方言や神奈川西部の方言は茨城弁に驚くほど良く似ているのである。方言の比較は時間軸が作用して今ではなかなか難しく、現代ではことさらに茨城弁が特別に扱われている傾向があるが、茨城方言は関東では決して特別な方言ではないことが解かる。一方、動植物方言の中に意外な共有性があることもある。これは、方言の発生の図式にも関ることであり、現代の若者言葉の発生と同じであり時代が生んだ言葉が残ったか否かに関るとも思える。こうして見た時、それでは茨城弁とは何かという事になる。これこそが茨城弁の特徴とも言え、またこれは東北方言の特徴と一致する。言い換えれば、関東方言に東北方言の要素が入ったものが茨城方言と言えよう。一方、茨城あるいはその周辺地域が起源と思われる語彙がある。

例えば、「べ」「べー」が変化した勧誘・推測の助動詞「ぺ」「ぺー」が上げられる。さらに霞ヶ浦周辺で使われる同じ意味の「へ」「へー」は、文献では1991年の調査報告(1991年玉造町史調査で口頭報告)で初めて現れるが、土浦市では、少なくとも昭和30年代にはすでに使われていた。ただしこれは、単純に「ぺ」「ぺー」が変化したと思われるほか、終助詞「や・よ」が変化した「い・え」に置き換えられた可能性もある言葉でもある。もう一つ茨城にしか無い言い方がある。関東圏では一律に殴ることを「ぶっとばす」と言うが、茨城では「ぷっとばす」とも言う。一般に文中のバ行音は促音化した言葉に続く場合半濁音化するが、語頭で半濁音化するのは茨城弁だけである。井上史雄がネット上に公開している『新方言辞典稿 増訂版』(新方言を中心に主に現代の若者語がどのように発生したかを解説するサイト)では、江戸言葉が単に上方語をベースにしながら漫然と生まれたのではなく、周辺地域の方言の影響を強く受けながら生まれた言葉であったと同じように、現代の若者言葉の発生のプロセスが丁寧に解説されている。

関東内の周辺域は明治以降標準語化の波に押されたが、一方では都心の言葉も周辺域の言葉の影響を数多く受けていることが解かる。それには茨城弁も一役買っている。現代の標準語は過去の長い歴史を背負いながら今も成長を続けており、不思議と思える若者言葉のうちの僅かなものは、いずれ将来の標準語となる可能性を持っている。例えば「違う」とは動詞であるが、現代日本語にはこれに当てられるべき形容詞形が無い。そのため、茨城では古くから使っていた「ちがくなる」という方言は、現代語の欠陥を補う言葉と言っても良く、今では都心の若者達が使うようになっている。つまり「ちがくなる」とは特殊形の形容詞と思ってさしつかえなく、「痛くなる」等と同じ表現なのである。近年発表された過去の文献の総編纂としての『分類神奈川方言辞典』に示された神奈川方言は、同じく古い文献による茨城方言とことごとく一致する。これは、東北方言をベースにした東関東方言とは別に、関東方言のベースとしての方言群の存在を感じさせる。

例えば「椀」を「わんこ」と言うのは、岩手の「わんこそば」に代表されるが、これは勿論茨城にもあり、神奈川の一部地域にも残る方言である。これから、関東方言には東日本方言としての東北方言と同じ古い言語文化があったことを思わせ、西関東方言はもともとは現代の東北方言と同じ方言郡をベースにされている可能性を思わせる。これは、言い換えれば、関東の方言は、古くから東北方言と縁が深く、互いに長く影響しあいながら成立した可能性がある。標準語は明治維新以降、国策として当時の山手言葉を基に作られたもので、特にラジオ・テレビの普及に伴い、現在の茨城弁に強い影響を与えてはいるが、明治以前の茨城弁の成立には関係ない。茨城方言に対して、次項のような研究報告は過去に無い。新説である。 茨城には、アクセントが無いのは諸学者の総意である。しかし、なぜそうなるのか、実際のイントネーションは尻上がりというだけで、新たな分析は過去に無かった。以降は、40年前の茨城弁話者が、標準語圏で生活したときに気が付いた、茨城方言の型を論じたものである。

茨城弁を話す人達が、いくら頑張っても茨城の領域を出られないと同じく、茨城弁を知らない人には茨城弁の本質やニュアンスは語れないのです。平板型アクセント:単語レベルでは、飴・雨(あめ)、箸・橋・端(はし)、柿・牡蛎(かき)、海・膿(うみ)、2時・虹(にじ)等全て平坦に区別無く発音される。東関東方言の特徴。イントネーション:会話になると、語尾が高めに発音されることが多いため、「水戸の尻上がり」などと呼ばれる。実際は最後に上がって下がるイントネーションになることが多い。一方、単語レベルでは平板だった単語は、文章になるとアクセントが発生することがあるがそれには一定のルールが見出せない。単語のアクセントが会話のイントネーションに支配されるのである。標準語の会話のイントネーションは、誰が話してもほぼ一定の形をとるが、茨城方言のイントネーションは、概ね五つのパターンに分類できる(尚、以下の名称は学会等で認知されたものではなく、筆者が仮につけた名称である)。

 有声音化:標準語ではi、uが無声子音(k、s、t、h、p)に挟まれた場合や、無声子音の後で語末に来た場合は、母音の無声化が起こり、声門の振動が起こらない発音になる。例えば「行きたくない」の「き」、「聞くとき」の「く」、「遣らして」の「し」、「増す時」の「す」、「ナチス」の「ち」は無声化する。小学校の国語の時間ではこのルールは教育対象になっていない。ところが関西でははっきりと無声化せずに発音される。日本語を東西に分ければ、母音の無声化は東部方言の特徴の一つとして位置づけられるものである。ところが、カ行音・タ行音は茨城ではしばしば濁音化するため、無声化しないことがある。東関東方言の特徴。清音化:濁音化は東北弁にもあり東関東方言の特徴でもあるが、茨城には、現代標準語をベースにすれば清音化する言葉が多い。八丈方言にも見出すことができる。主に「じ・ず・ど」が清音「ち・つ・と」になったりする。この場合の「ち・つ」は関西弁に似て有声音で発音されることが多い一方、濁音が無声音発音されたときに清音化するとも考えられる。

「ざ・ぜ」に限って清音化しにくい理由は無声音にならないためだろう。預かるを「あつかる」、同じを「おなし・おなち」、三時間を「さんちかん」、短いを「みちかい・みしかい」、静かを「しつか」、ほとんどを「ほとんと・ほどんと」、よっぽどを「よほと・よっぽと」などと言う。尚「短い」の最も有力な語源は、「身近し」であり、「殆ど」の語源は「ほとほと」で、清音化したのではなく語源を残した方言とも言える。「水海道」(現・常総市)が「みつかいどう」、下妻が「しもつま」など、地名にもこの傾向が反映されている。茨城の文法は基本的に標準語と同じである。しかし、茨城には現代標準語と異なる助詞や助動詞があり、これらは主に古語や近世語に由来するもので茨城方言ではないことが多い。また現代標準語の言い方とそれらが共存して使われるのも茨城方言の特長とも言える。また、現代標準語では可能動詞が一般化しているが、茨城では古語または文語の受身・可能・自発・尊敬の助動詞「れる・られる」が使われる。このうち自発形はやや特殊で、「行く」の自発形の「いけられた」は、「いつのまにか行けてしまった」というニュアンスを含む。これは栃木でも同じである。

2011年10月14日金曜日

ミュージアムパーク茨城県自然博物館は

茨城県の自然博物館である。「茨城の風土に根ざした自然に関する総合的な社会教育機関」として開館した。1994年(平成6年)11月13日開館。茨城県自然博物館進化基本計画第1章では「毎年40万人以上が来館する、日本を代表する自然史系博物館」と紹介している他、2004年(平成16年)の開館10周年にあたり、「茨城県自然博物館進化基本計画」と第した計画を推進し、その中で博物館の活動目標を「自然と共生し、市民と協働する博物館であること」と制定している。茨城県の博物館ではあるが、千葉県との県境付近に立地し、埼玉県や東京都からも10~20km圏内に位置する。また、つくばエクスプレス、常磐自動車道により都内等からのアクセスが良いことから、「通勤圏の大自然」と称してPRする看板がつくばエクスプレス六町駅ほか都内の駅で見られる。開館して以来、毎年約40万人が来館しており、2010年(平成22年)3月28日には入館者700万人を達成した。2006年に公表されたリピーター率は約65%である。

また、2007年度に要したコストは11億4,000万円であり、これは茨城県が所有する40の有料公共施設の中で最大であった。1997年(平成9年)から毎年1回『茨城県自然博物館研究報告』を発行している。北茨城市は、関東の北部、茨城県の北東端にある市。茨城県の最北端で、律令時代には東海道の最北端でもあった。20世紀頭になると、久原房之助が常磐炭田の運営に乗り出し、炭鉱町として発展した。炭鉱町の時期は、高度経済成長期まで続いた。常磐線・国道6号・常磐自動車道が縦断し、南の水戸市までは57km、日立市までは25km、北のいわき市平までは38km、いわき市小名浜までは25kmである。このため、県境を越えたいわき市との関係も親密であり、観光面でも、県内の他の市町村よりもいわき市と提携する傾向が大きい。又、いわき市の小名浜以南では、北茨城市の景勝案内が随所で見られる。商圏では、概して日立や平への傾斜が目立つ。野口雨情の出身地であり、岡倉天心が愛でた五浦海岸を抱えるなど、美的な景勝地が多い。1956年(昭和31年)3月31日 - 多賀郡磯原町、大津町、関南村、関本村、平潟村、南中郷村の6町村が合併・市制施行した。

当初は茨城市とすることになっていたが、県内の他の市町村からの反対により、同日付で北茨城市に改称した。理由には、県庁所在地と誤解を受けるおそれがあること、大阪府茨木市と同名になることも挙げられている。茨城都民とは、茨城県に居住し、東京都区部に通勤・通学する者のことを指す俗語。新聞の茨城面などでは一般的に見られる用語である。茨城都民は主につくばエクスプレスやJR常磐線・関東鉄道常総線沿線に居住しており、広義では守谷市・取手市・龍ケ崎市・牛久市・つくばみらい市・土浦市に住んでいる都区部通勤者を指して使われる。 また、都心回帰と通勤圏縮小、鉄道利便性の関係で、東京都心から40km圏の守谷市と取手市、守谷市と一体化した市街地(絹の台)を持つつくばみらい市を指して使われることが多い。つくば市も一定数の都区部通勤者がいるが、ベッドタウンとは一線を画した筑波研究学園都市という独立した都市であることからあまり茨城都民という言葉は使われない。

 また、県西地区の古河市からも東京都区部に通勤する者が龍ケ崎・牛久と同程度いるが、埼玉と栃木に挟まれた立地から広義にも「茨城都民」という言葉は使われない傾向が強い。茨城県南地区、県西地区の一部が東京のベッドタウンとして開発され、茨城県から東京都区部に通勤する者が増えたことに端を発する。茨城都民が多く居住する地域では、県庁所在地である水戸市に行くよりも東京都区部の方が近い。また、東京方面への方が交通至便であることからも水戸方面への関心が薄い傾向がある。 2005年のつくばエクスプレス線の開通により、沿線では住宅や高層マンションの建設が進んでおり、つくばエクスプレス、関東鉄道常総線沿線で「茨城都民」が増える傾向にある。茨城弁とは、茨城県内および福島県東南部で話されてきた日本語の方言の総称。東関東方言に分類される。茨城県は常陸国と下総国北部で構成されており、古くより統一的な方言として扱われていたわけではなく、現在の茨城県が構成されて以降の分類である。

ただし本稿では茨城県構成以前の方言も便宜上、茨城弁または茨城方言と総称する。茨城県の方言は、大きくみて東北方言に含むとする説と、関東方言に含むとする説がある。前者は都竹通年雄や金田一春彦などであり、後者は東條操や平山輝男などである。都竹通年雄の「季刊国語3の1:昭和24年」によれば、本土方言の本州東部方言の南奥羽方言に分類され、岩手県南部・宮城県・山形県東部・福島県・栃木県と同じ区分に含まれる。1955年(昭和30年)の金田一春彦の(第1次)「世界言語解説(下)」では、東日本方言の北部方言の南奥方言に分類され、ここでの南奥方言の該当地域は、都竹通年雄とほぼ同じである。1953年(昭和28年)の東條操の「日本方言学」によれば、茨城県の方言は栃木県大部分とともに、関東方言の東関東方言に含まれる。茨城弁は、関東地方のはずれにある一方言である。そのため、基本的な語彙は、関東地方に古くから伝わる方言に属しながら、特に東北地方との関係が深く、東北弁の南端をなす方言である。

実際、東北の一部である福島県いわき市周辺では、茨城弁に属する方言が話されている。北方言と茨城弁では、同じ言葉や類似語が数多く存在する。発音やアクセントに関しては西関東方言よりも東北方言に近く、福島県や宮城県とほぼ同じ発音・アクセントであるが、岩手県・青森県となると、茨城弁話者でもかなり注意深く聞かないと聞き取れない。ただし、以下の東北方言との相違がある。一方、『東京方言集』(斎藤秀一編)を見ると解かるように、東京にはかつて江戸時代に花開いた特殊な文化語もしくは民俗語が数多くあった。それは浪花言葉とも共通する現象である。それに対して明治以降横浜で花開いたいわゆる「横浜ことば」は英語を中心にした外国語と当時の横浜弁が混じったものである。船乗りを指す「マドロス」、酔っ払いの「どろんけん」、ちゃぶ台、ペケ等は横浜言葉に発すると言われる。これらは今では標準語化している。一方茨城弁はいわゆる江戸の下町言葉である「べらんめえ言葉」をよく残している。

関東圏の方言は概ねその影響を受けているが、茨城では著しい傾向がある。江戸期の滑稽本である『浮世風呂』を見ると、現代(昭和)の茨城弁と同じではないかと思ってさえしまう。ただし、滑稽本は前後関係を良く見ないと田舎者が語った言葉かどうかも判断しなければならないが、関東方言の一部であることは間違いない。古くから特別視されてきた八丈方言に関して橘正一は『方言学概論』の巻末で、特定の方言書に記載された八丈方言と他の方言との共通語の数を地域別にまとめた報告がある。これにより、八丈方言は、岩手を中心とした東北各県との関係が最も深く、次いで静岡、関東では唯一茨城との関係が最も深いことが解かった。

2011年10月13日木曜日

昭和後期まで、栃木県宇都宮市と茨城県水戸市の間には

国鉄バス(宇都宮)が国道123号経由で運行する路線バス、茂木線(その後、水都東線・水都西線に改称)があった。茂木線(水都西線・水都東線)の宇都宮 - 水戸直通便はその後一部便を茨城交通が運行した時期もあったが、1979年(昭和54年)に廃止され、以来30年間、この両県庁所在地間を直通する公共交通は無く、鉄道路線(JR宇都宮線と水戸線)を小山駅で乗り換える経路が最短ルートとなっていた。一方、茨城県企画部は2005年度(平成16年度)の政策調査で北関東3県と新潟県、福島県を含む5県間交流の実態を報告、立地的に中心部にある栃木県を交流拠点になり得るとし、その栃木県と茨城県間の流動が5県相互間最大でそれが自動車依存が大きいことを指摘した。2008年(平成20年)12月、北関東自動車道の真岡インターチェンジ - 桜川筑西インターチェンジ間が開通したことで宇都宮市と水戸市が高速道路で結ばれ、これを機に開設されたのが北関東ライナーである。茨城県と栃木県間に宇都宮からは水戸および大洗やひたちなかなど茨城県沿岸部への観光、水戸からはインターパーク宇都宮南や宇都宮市中心街へのショッピングや東北新幹線への乗り継ぎ利用、宇都宮市内観光、日光・那須等への観光の足がかり、そして両市相互間のビジネス需要が期待された。 北関東ライナー水戸 - 宇都宮線は、2009年(平成21年)7月に路線免許が申請され、同年9月17日に茨城交通(浜田営業所)・関東鉄道・関東自動車の3社による共同運行が開始された。2010年(平成22年)10月1日のダイヤ改正において一部運行経路が変更され、水戸市内では茨城大学前経由となり新原三差路停留所、自由ヶ丘停留所が廃止となったほか、宇都宮行は宇都宮駅西口を先に経由し東武宇都宮駅西口が終点となった。2011年(平成23年)3月31日の運行をもって関東鉄道が撤退。同年4月29日よりひたちなか市まで延伸されている。現在は1日6往復が運行され、茨城交通はうち3往復を担当している。路線バスの車両は、自社発注車は前後折戸車がほとんどである。日産ディーゼル・スペースランナーRM、日野・レインボーII、いすゞ・エルガのノンステップバスを新車導入した以外は中古車の導入が目立ち、西武バス、東京都交通局や関西方面など多くの地域からの中古車を受け入れている。2009年以降から中古導入での低床化も進行しており、横浜市交通局から日産ディーゼル・スペースランナーJPが、京成バスから三菱ふそう・エアロスターのワンステップバスが移籍している。また、高速バスは路線バスに比べて新車の導入が多く、高速バスしての導入例が少ない日産ディーゼル・フィリピン製車両(1999年導入)が導入されている。また、2007年に浜田営業所に3台導入された高速バスのうち、三菱ふそう・エアロバスには従来の高速・観光バス専用塗装をアレンジした新しい塗装の車両が導入された。茨城急行自動車は、東武鉄道系列のバス会社。社内・外共「茨急(いばきゅう)バス」の略称で呼ばれる事が多い。1950年に内山運輸として創業。1963年に東武グループ入りし、現在の社名に改称した。本社は埼玉県北葛飾郡松伏町にあり、同町の他、千葉県野田市及び茨城県古河市の3ヶ所に営業所を持つ。埼玉県東部、千葉県北西部及び茨城県南西部を中心に路線バスを運行し、一部路線は栃木県下都賀郡野木町にも乗り入れる。2001年9月の東武バス野田出張所閉所に伴い同所の路線を肩代わりし、営業エリアを拡大した。昭和末期の時点では、東武鉄道と同系の阪東自動車が折半という株主構成であった。かつて茨急で阪東からの譲渡車が多かった(そのほとんどは後述の「富士重車体の日野車」だった)のは、かかる資本関係も要因であった。しかし、平成に入り東武グループ全体の資本関係を見直す事となり、幾多の整理過程を経て、現在では東武鉄道グループ系の朝日自動車グループとしてバス事業を展開している。茨城港は、茨城県の北部に位置し、日立市、那珂郡東海村、ひたちなか市、東茨城郡大洗町にまたがる中核国際港湾、重要港湾。港湾管理者は茨城県。2008年12月25日、旧日立港・常陸那珂港・大洗港の3港を統合する形で発足した。茨城キリスト教大学は、茨城県日立市大みか町6-11-1に本部を置く日本の私立大学である。1967年に設置された。大学の略称はIC、茨キリ、シオン。第二次世界大戦後の1949年、茨城県日立市のクリスチャンとアメリカ人キリスト教宣教師たちにより設立された大学である。多賀キリストの教会の付属教育機関として設置されていた夜学校や幼稚園を前身に、シオンカレッジを開校。その後、茨城キリスト教学園と名称を変更、1967年大学文学部を設置し、単科大学としてスタートした。1995年に大学院文学研究科、2000年に生活科学部を、2004年に看護学部を、2011年には経営学部、大学院生活科学研究科及び看護学研究科を開設し、現在は4学部7学科と3研究科をもつ総合大学となっている。約13haの広大な面積を誇る大みかキャンパスには、幼・中・高・大・院の校舎が立ち並ぶ。以前は日立製作所所有のゴルフ場「大みか倶楽部」の敷地であり、キャンパス各所には、大きな松の木や芝生が広がり、一部にはホールであった穴を発見できるなど、ゴルフ場であった面影を見ることができる。現在も、隣接して大みか倶楽部は営業しているが、戦前18ホールあったコースは6ホールに減少している。面積は大みかキャンパス全体の広さとほぼ同じ。落葉広葉樹におおわれた標高50~100mの小高い丘陵地で、東に太平洋、西に阿武隈山地を臨むことができる。合宿所として利用できる。開講授業はない。2010年に、後方拠点として開設された。この他、付属聖児幼稚園地として、日立市と高萩市にキャンパスあり。茨城キリスト教大学(学園)は創立当初、シオンカレッジという名称であった。しかし、当時最盛期に達していたシオニズム運動が、国際社会から厳しい目で見られており、大学への理解にも誤解が生まれると考え、大学の理念が伝わるよう「キリスト」を入れた「茨城キリスト教~」に変更された。現在の大学名の英名は、「Ibaraki Christian University」であるが、略称を用いる場合「ICU」を使用すると「国際基督教大学(Internatonal Christian University)」とかぶるため、また、古くからの海外提携大学であるオクラホマクリスチャン大学(Oklahoma Christian University)が「OC」と称していることから、「IC」を使用している。

2011年10月12日水曜日

2010年12月時点で茨城空港を使用したチャーター便数は

春秋航空を除き、48往復84便である。百里基地は茨城県小美玉市にある航空自衛隊の基地。基地司令は第7航空団司令が兼務する。埼玉県にある入間基地は地域との協定により、アフターバーナー装備の飛行機を運用ができないことから航空自衛隊が関東地方で戦闘機の運用が可能な唯一の基地であり、「首都防空の要」ともいわれる。また、国家首脳を招いた各種行事も多数実施されている。飛行群は第7航空団(F-4部隊の第302飛行隊とF-15部隊の第305飛行隊)、偵察航空隊(第501飛行隊、RF-4Eを装備)がある。最寄駅はJR常磐線 石岡駅、または鹿島臨海鉄道大洗鹿島線 新鉾田駅である。両駅共に、空港から10km以上離れている。下記の石岡駅 - 茨城空港間のバスに乗継いだ場合、空港までの所要時間は土浦駅から約50分かかり上野駅からだと約2時間かかる。また、秋葉原駅からつくばエクスプレスを利用してつくば駅で下記のバスに乗換えた場合、空港までの所要時間は1時間50分から2時間程度である。水戸、いわき方面からは、北関東自動車道 茨城町JCT→東関東自動車道 茨城空港北IC→県道144号紅葉石岡線→県道359号茨城空港線。小菅JCT・東京方面からは、常磐自動車道 千代田石岡IC→国道6号→国道355号→県道144号紅葉石岡線→県道359号茨城空港線。この他、石岡小美玉SICから国道355号に接続する。東関東自動車道 : 2015年度には鉾田IC - 茨城空港北IC間が開通予定である。茨城空港公園 - 茨城県が建設を進めている都市公園。飛行機の離着陸を見られる公園の整備などが行われている。茨城空港テクノパーク - 茨城県が企業誘致のために整備した工業団地・産業団地。開港に合わせて分譲中である。『総理の密使~核密約42年目の真実~』 - TBSドキュメンタリードラマ(2011年2月21日放送:ドラマ内で茨城空港が1969年当時の羽田空港の設定として使われた)アシアナ航空は原因について「着陸する際に南側にずれてしまった」と説明しているが、同機パイロットは「雨で滑走路が濡れ、止まれなかった」と話している。また、国土交通省百里空港事務所は発表の遅れについて「事実関係の確認に時間がかかった」としているが、実際は自衛隊側から破損の事実を伝えられて、報告に至った。本件は茨城空港で初の運航トラブルとなった。空港開港から1周年となる2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、空港ターミナルビルでも天井落下などの被害が生じた。地震発生の翌12日・13日は全面閉鎖され、14日から営業を再開した。この震災の影響により、アシアナ航空・春秋航空は当面の間は欠航することにし、春秋航空については同年4月1日から運航を再開したものの、1週間あたりの便数を大幅に減らして運航することになった。一方、アシアナ航空は6月30日まで運休するとしていたが、さらに10月30日まで運休することを決めた。これに合わせ、茨城空港内にあるアシアナ航空茨城支店を一時閉鎖し、東京支店で全ての業務を行っている。茨城郡は、古代律令制下の常陸国に存在した郡。大化の改新以前は茨城国造の領域であり、明治以降の東茨城郡・西茨城郡よりも広く、おおよそ現在の茨城県の中央部に当たる筑波山の東側から霞ヶ浦の北側、北浦の西側に及んだ。律令制下の郡編成が進む過程で、南部が行方郡および河内郡の一部として分立し、常陸国茨城郡となる。郡の中心は現在の石岡市にあったとされ、当郡に常陸国の国府が置かれた。律令制による国郡支配が解体された結果、平安時代末期以降、当郡でも荘園の分立や郡の分割が進んだ。近世初期の検地の際に近代に続く「茨城郡」の領域が確定したが、那珂郡の一部が当郡の北部に加えられる一方で、南部の常陸府中(現・石岡市)周辺は新治郡に属するものとされた。この結果、近世以降の茨城郡は律令時代の茨城郡よりも領域が北に移動している。茨城大学は、茨城県水戸市文京二丁目1番1号に本部を置き、茨城県水戸市、茨城県日立市、茨城県稲敷郡阿見町にキャンパスを置く総合大学、国立大学である。茨城交通株式会社は、茨城県で乗合バス、貸切バス、旅行業、不動産業を営む会社である。略称茨交。過去には鉄道事業も行っていた。「茨城交通」は登録商標である。戦時体制下の交通統合に伴い、第二次世界大戦中の1944年8月1日に茨城県内の交通事業者を統合して成立発足した。統合は水浜電車とその系列下の茨城鉄道・湊鉄道・袋田温泉自動車の現物出資によってなされ、同時に、個人経営を含む中小バス事業者を買収し、日立電鉄・東武鉄道からはバス路線の譲渡を受けている。水浜電車は地元の豪商竹内権兵衛が創設。竹内は常北地区の私鉄各社の経営に携わり、上記各社のほか、日立電鉄の前身である常北電気鉄道にも深く関わっていた。統合の実施にあたっては、当初、茨城県下を常総地区・鹿行(ろっこう)地区・常北地区の3ブロックに分け、常北地区は竹内系の企業で統合しようとしたが、常北電気鉄道は1941年に日立製作所の系列下に入り竹内の手を離れたため、常北地区は水戸地区と日立地区とに分割され、実際の統合は県下4ブロック体制で行われた。以降、竹内家から代々就任した社長のもと、公共交通のみならず多角事業に進出を果たすが、1990年代以降本業の鉄道・バスの利用者減少や不動産関連の事業の失敗などで経営状態が悪化。そのため取引金融機関の支援下で不採算部門の整理や借入金の債権放棄の実施などで経営再建を試みたが状況は好転せず自主再建を断念、2008年11月11日、水戸地方裁判所に民事再生法の適用を申請し、同日同庁より監督命令が発せられた。2008年11月19日の再生手続の開始決定を受け司法の監督下で再建開始。経営共創基盤がスポンサーとなり翌2009年3月27日には新会社としての茨城交通が設立され、7月1日に旧茨城交通の事業を継承した(新旧分離)。またグループ会社も含めた経営陣も一新され、これにより創業時から関わっていた竹内家は経営の第一線から退くこととなった。分割された旧茨城交通はアイ管理と社名を変え債権の管理や整理を行うこととなる。1921年設立。電気軌道の運営と電力の供給事業を目的としていた。1922年に電力供給事業と電気軌道事業(浜田 - 磯浜)を開業した。軌道は小刻みに路線延長を繰り返し、合併の時点で 袴塚 - 湊(うち 大洗 - 湊 は1938年6月以降休止)を開業していた。電力事業は1942年に電力統合に伴い関東配電に譲渡されている。茨城交通の成立後は水浜線となったが、1966年に全廃された。1923年設立。1926年 - 1927年にかけて開業した 赤塚 - 御前山間の鉄道線を保有していた。茨城交通の成立後は茨城線となったが1971年に全廃された。通称「茨鉄」と呼ばれた。1907年設立。1913年 - 1928年にかけて開業した 勝田 - 阿字ヶ浦間の鉄道線を保有していた。茨城交通の成立後は湊線となったが、2008年にひたちなか海浜鉄道に分社化された。旧社名から、現在でも湊線が湊鉄道線と呼ばれることもある。路線バスは主に水戸市内を中心に、ひたちなか市、常陸太田市、常陸大宮市方面へも運行している。茨城県内では関東鉄道に次ぐ路線規模であり、水戸市周辺では最も路線が多い。このほか、県北の町村にも路線があるが赤字路線が多い。また、一部に栃木県内を運行する路線もある。1992年10月、経営合理化のために大子営業所を分社化し茨交県北バスを設立したが、2010年2月のグループ再編に伴う会社分割によりバス・旅行事業部門を茨城交通に再統合したほか、タクシー事業はグループの茨城オートに譲渡し、茨交県北バスは清算される。また、2010年6月1日をもって、茨城オートのバス事業を茨城交通に統合している。

2011年10月11日火曜日

北部と南部では地域色が異なっている

北部で人口が減少し、南部で人口が増加傾向にある状態を「南北格差」または「南北問題」と呼ぶことがある。旧新治県でも、国道51号沿線と国道6号(常磐線)沿線、旧印旛県でも国道6号(常磐線)沿線、つくばエクスプレス沿線、県西地域とでは、経済的基盤も異なっている。県外からの転入者が多くを占めている外に、古くからの地元民にも、東京都内や千葉県などへ通勤・通学する人が多い。逆に、千葉県東葛地域などから茨城県南部への昼間人口移動も活発である。このために、千葉県と相互に強い影響を及ぼしあっている茨城県の地域という意味で、「ちばらき」とも言われ、またときに揶揄されている。1970年代以降に茨城県南西部に転入して来た住民は、ニュータウンの造成などによる転入が特徴的で、東京都内に通勤・通学する住民が多い。消費活動も通勤・通学先で行われる傾向があり、特に東京都区部に通勤・通学する住民は、「茨城都民」と諷刺されることもある。そのため、場合によっては茨城県南西部も南関東に含まれることがある。

古河市・五霞町・境町および坂東市の一部はNTT東日本栃木支店の管轄地域であり、電気通信上栃木県扱いとなる。同地域では、2010年1月をもってフレッツ光の全面供用が開始されたが、他の県西地域では現在も一部の市街地での提供に留まる。このため、例えば坂東市旧猿島町域では、栃木支店管轄の農村地帯で利用できるフレッツ光が茨城支店管轄の沓掛市街地では利用できないなど、同じ地域内や市内で情報格差が生じている。茨城県は常陸国と下総国北西部によって形成され、歴史的にそれらの地域全体が東関東方言地域に属する。下総国であった県南地域の一部・県西地域の大部分は千葉県より移管された経緯があるが、現在の茨城県内で使われる東関東方言は総称して茨城弁と呼ばれる。現在では関東地方に多く見られる流れとして共通語化が進み、南部を中心に伝統的な方言が衰退し、南部では首都圏方言が主に使われるようになった。また、東京都心からの距離の割に標準語とは大きく異なる方言であることから、伝統的な方言を解さない住民も多い。

また、地域によってはチバテレビ・テレ玉・TOKYO MX(スカイツリー移転まではNHK水戸放送局と混信しない地域に限られる)を直接受信やCATVで視聴することができる。特に千葉県の県域独立局である千葉テレビ放送(チバテレ)は地デジではほとんどの地域で高性能アンテナ利用を含めて直接視聴することが可能であり、チバテレも茨城県の視聴者に配慮した番組を組むことがある。実際東日本大震災発生当時も茨城県の視聴者に対する哀悼のコメントが放送されたことがあった。また茨城新聞・常陽新聞の県域2紙をはじめ、茨城県向けの新聞の番組表にもチバテレの番組が収録されている。AMラジオもほぼ全域がNHKラジオ第1・第2、TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送の聴取エリアとなっている。かつては民放テレビ局、民放FM局開局の動きがあったが、テレビ放送を計画していた茨城放送はテレビ放送を断念。民放FM局は「スポンサーが付くかどうか不安」「現在の放送局で充分」との声も多く、周波数の空きも十分になく周波数の割り当てができず、実現に至らなかった。

現在、全都道府県で唯一民放テレビ局が存在しない県である。2011年3月11日に発生した東日本大震災で県内の被災状况がなかなかテレビで報道されなかったのは、県内に民放テレビ局が存在しないことが理由だと指摘する声もある。1979年10月7日から2011年3月27日まではフジテレビの放送枠を借りて茨城県の広報番組である『おはよう茨城』が放送されていた。百里飛行場は、茨城県小美玉市にある航空自衛隊百里飛行場を共用化した飛行場である。通称および民間施設の名称は茨城空港。滑走路は航空自衛隊百里基地との共用(ただし、滑走路は2本ある)であるため、航空自衛隊および在日アメリカ空軍機も利用する。茨城県では、首都圏の第三空港として位置付けようとしている。橋本昌茨城県知事は、国際線の就航が決まった韓国向け対外的な名称として「Tokyo Metropolitan Ibaraki Airport」とする可能性が強いと述べていた。総事業費は約540億円、そのうち空港本体の事業費は約250億円を見込んでいる。

航空自衛隊との共用飛行場のため、他の第三種空港に比べ県の負担は抑えられている。茨城空港が2010年3月11日に国内98番目、関東地方3番目の空港として開港。航空自衛隊との共用飛行場となった。国土交通省試算の需要予測は開港時年間80.7万人で、開港数年後で年間69万人と下方修正された。開港時に就航している2路線の定期便の搭乗率が仮に100%だったとしても年間の利用者は約25万人である(実際には、定期便だけでなくチャーター便の利用者が加わる)。2010年4月の実績はわずか10,358人であり、これから単純に推定すると年間利用者数は12万人程度にすぎなかった。ところが、開港から半年後には、スカイマークにより新千歳空港・中部国際空港への路線開設も表明され、また春秋航空が上海への定期チャーター便を開設したため、開港2年目には国内線3路線・国際線2路線を擁する見込みとなった。そもそもは、百里飛行場は最寄駅である石岡駅・新鉾田駅からは10km以上の距離がある交通不便の地にあり、商業施設等もほとんど存在しないため、百里基地に勤務する航空自衛官からも「陸の孤島」と呼ばれていた。

無料駐車場が確保されているため、自家用車利用者にはメリットがあるものの、東京都心から車でのアクセスにも1時間半程度かかることなど、都心との行き来にも時間がかかり、開港時の国内定期便はスカイマークの神戸線(1日1往復)のみに留まっていた。これらのことから、空港近隣在住者以外の利用者にとってこの空港を利用する利点は少なく赤字は必至であり、「税金の無駄遣いである」との指摘が各方面からなされた。しかし実際には、半年経過時点でスカイマーク神戸線の搭乗率は75~87%と同社線全体でも高い水準に達し、7月末に運航を開始した春秋航空による上海線についても平均80%という予想を上回る利用状況となり、東京駅と茨城空港を500円(搭乗者の大人)で結ぶ関東鉄道と茨城県の共同運行による高速バスも盛況となった。後には、前述の通り新千歳空港・中部国際空港への路線開設表明も行われるに至り、開港直前の分析との乖離がみられる状況となっている。

2011年2月のこれらの新路線開設に合わせ、水戸駅・つくば駅・東京駅からの既存連絡バス(高速及び路線バス)の増便のほか、新たに常陸太田市・ひたちなか市方面からは「茨城空港ライナー」の乗り入れが発表されたほか、石岡駅とを結ぶバス専用道路の開通とその後の増便などの状況変化も生まれている。民間供用開始時の就航路線は神戸とソウルの2路線のみであるが、発着料金は成田、羽田と比較して3割ほど安く抑えられていることもあり、国際線、特に格安航空会社 (LCC) の乗り入れを誘致している。LCCの首都圏のターミナルとしての役割も期待されているものの、比較的短時間で行ける成田国際空港もLCC専用ターミナルの建設を検討していることから、これらの近隣の空港との競争にもさらされている。また、春秋航空による上海便が、中国籍航空機と航空自衛隊の訓練との兼ね合いから一部成田への発着を余儀なくされるという問題も生じていたが、11月より全便茨城発着となった。

2011年10月10日月曜日

茨城県は日本の県の一つ。

関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市。都道府県人口は全国11位、面積は全国24位である。茨城県は、関東地方の北東部に位置する県で、もとの常陸国全域と下総国北部にあたる。県の人口は2,956,098人(2011年9月1日)で、総人口の約2.3%を占め、面積は6,094km²(霞ヶ浦・北浦・牛久沼・涸沼などを含めない場合は5,874.20 km²)で、国土の約1.6%を占める。県内の市町村数は44で、うち市は32、郡は7で、その下に10の町と2の村がある。2008年度の県内総生産は11兆5157億円。県北部は日立市・ひたちなか市で工業化が進むほか、太平洋や八溝山地のある緑豊かな地域を形成する。県中央部は水戸市に茨城県の県庁が置かれ、小美玉市に茨城空港がある。県東部の鹿嶋市・神栖市では鹿島臨海工業地帯を形成し、工業化が進んでいる。県西部は関東平野の中央部にあたり、農業を中心とした内陸の地域となっており、県南部は筑波研究学園都市や首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの整備で特別区のベッドタウンとしての開発が進められた地域となっている。

県名は廃藩置県後、間もなくに行われた県の統合の際に、茨城郡(1878年から東茨城郡)の水戸に県庁が置かれたためその郡名が採用された。茨城という名は、一説に、賊を討つために茨の城(柵)を築いたことに由来し、『常陸国風土記』の茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。また、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があり、この故事にちなむ茨城(うばらき)という地名がみられる。かつて常陸国の国府があった石岡市が県名の発祥地という説もある。律令時代の茨城郡は近世・近代の茨城郡(東茨城郡・西茨城郡)よりも南まで広がっており、常陸国府は茨城郡に所属していた。「茨城」(むばらき、うばらき)という郡名自体が国府周辺の地名だったとされる。それを示唆するものとして、石岡市に「茨城」(ばらき)という地名がある。

逆に水戸の周辺は律令時代には那賀郡(那珂郡)に属していた。水戸が茨城郡に属するようになるのは16世紀末以降である。また、「茨城県」の「茨」の字は都道府県としては唯一表外漢字字体となっている。読みについては、「いばらぎ」と読まれることも多いが、正式には廃藩置県以来「いばらき」と読むのが正しいと定めている。「茨城」を一文字で表す場合、「茨」の読みに「いば」はないものの、茨城県内では「茨」の一文字で「いば」と読む略称を使うことがある(例:茨城大学→茨大(いばだい)、茨城交通→茨交(いばこう)、茨城急行→茨急(いばきゅう)など。現茨城県域には水戸藩を筆頭に14藩と県域外諸大名の飛び地、幕領・旗本領などが錯綜していた。1868年(慶応4年、明治元年)、幕府の解体により旧幕領・旗本領は新政府の直轄地とされ、6月に粥川満明(三上藩士)が常陸知県事に、8月には佐々府貞之丞(肥後藩士)が下総知県事に任命され、常総の民政を担当した。翌1869年(明治2年)1月に下総知県事の管轄地が葛飾県、2月に常陸知県事の管轄地が若森県になった。

こうした動きの中で、同年6月に版籍奉還が行われ、1871年(明治4年)7月の廃藩置県を経て、同年11月、現在の県域は茨城県および新治県、印旛県のそれぞれ一部に統合された。1875年(明治8年)5月に新治県が分割されてそのうちの常陸国分6郡が茨城県と合併し、同時に千葉県(1873年(明治6年)に印旛県と木更津県が合併)から概ね利根川以北に当たる区域を編入して現在の茨城県が成立した。人口は1920年(大正9年)に135万人と関東地方では東京府(現在の東京都)に次ぐ人口であったが、その後は緩やかに増加傾向が続き、1950年(昭和25年)に204万人、1999年(平成11年)に300万人になり、その後は緩やかに減少傾向にある。また、現在の人口は政令指定都市を持たない県で最大である。合計特殊出生率は1.37と全国平均の1.37と同じであり(平成20年)、総人口は山間部の多い北部(平野部のひたちなか市・那珂市・東海村を除く)での減少が著しく、つくばエクスプレスの沿線開発が進む南部での増加が著しい。

茨城県は5つの地域区分に対して人口の3分の1が東京通勤圏に位置する南部に集中し、その一方で北部や西部などでは定住者に奨励金を交付する定住化促進制度を導入するなど人口減少を食い止める施策が行われている。茨城県は農協幹部の背任に関する実名での内部告発者に対し、その内部告発の内容と実名を漏らした。一方茨城県警はこの内部告発に対し、背任の幹部を不起訴とした。茨城県議会議員選挙は、統一地方選挙では実施されない数少ない都県の一つ(他は東京都と沖縄県)である。これは1966年(昭和41年)、県議会議長ポストをめぐって汚職事件が発生したことにより同年12月21日に茨城県議会が解散したことによる。「保守王国」や「自民王国」と言われるほど、自民党が長年に渡り県議会の圧倒的多数を占めている。しかし、2006年12月10日に投票が行なわれた県議選では、自民党候補の一部が落選(水戸市選挙区・土浦市選挙区)、民主党が水戸市選挙区・土浦市選挙区などで初の議席を獲得し、日立市・水戸市両選挙区でトップ当選した上、共産党候補(つくば市選挙区)が1000票余の票を上乗せして再当選するなど票の動向に少し変化が起きた。

一方で国政与党陣営ではつくば市選挙区でトップ当選するなど公明党の高い得票が目立つものでもあった。茨城県全体では、国政選挙・県政選挙ともに投票率が低い傾向があり、参議院議員通常選挙をとってみると、第16回参院選(36.62%)・第17回参院選(36.94%)・第18回参院選(50.99%)・第19回参院選(50.18%)・第20回参院選(50.07%)と、選挙区の投票率が3回連続全国最低やワースト2位となっている他、知事選挙では1997年9月14日が31.87%、2001年9月16日が29.93%。衆議院議員総選挙でも年々下がり続け50%台で推移、県議選も2002年は40%台まで落ち込んだ。茨城県選挙管理委員会では、投票率を向上させる施策を県民から公募し、銀行やコンビニATMに投票を呼びかける案などを実行したりしているが、特に大きな変化は見られない。選挙区の投票率を予想して応募し、ぴったり当てると特産のメロンや常陸牛がもらえたり、県内の中学生からメッセージを募集し、ラジオCMで流したりするキャンペーンを行った第21回参院選では、全国ワースト2位であった。

茨城県には32市7郡10町2村がある(町は「ちょう」ではなくすべて「まち」と読む)。それらは、茨城県庁によって以下の5つの地域に区分されている。以下、地域内人口と、都市圏等を記載する(地域内人口は2005年国勢調査の値、都市圏の人口は2000年国勢調査に基づく都市雇用圏の値)。茨城県は、全国47都道府県の内、11番目に人口の多い県である。総面積は全国24番目であるが、可住地面積では全国第4位である。これらの統計で見ると、特定の都市に一極集中せず、全体に広く人口が分布しているとも言えるが、地域圏でみると、人口約300万人のうち、1/3が東京圏(列びにつくば都市圏)に含まれ、残りの200万人がそれぞれの地域で農業や小規模な商工業を基盤とした地域圏を形成している。水戸地方気象台が気象情報や注意報と警報などを発表する区分は、県北地域、県央地域、鹿行地域、県南地域、県西地域に分けられている。これらに分類される市町村は県庁が定める地域区分と同じである。

また、県北地域と県央地域を合わせて茨城県北部、鹿行地域、県南地域、県西地域を合わせて茨城県南部と表す場合がある(水戸地方気象台が気象予報や注意報と警報などを発表する場合など。)。旧新治県のうち現在茨城県の部分を、国道51号沿線の南東部(鹿行地域)と、国道6号沿線の南西部に分ける。この場合旧印旛県のうち現在茨城県の部分は南西部となる。

2011年10月9日日曜日

至仏山は

群馬県の北東部、みなかみ町と片品村との境界に位置する標高2,228.1mの山。二等三角点「至仏山」が設置されている。日本百名山の1つに数えられており、尾瀬国立公園に属する。山体は太平洋側と日本海側の分水嶺ではあるが、県境ではなく群馬県内に位置する。至仏山は、オゼソウ・ホソバヒナウスユキソウ・タカネバラ等の高山植物が有名で、尾瀬一帯を眼下に見下ろすことができる。山体が蛇紋岩でできているため、特殊な蛇紋岩植物と呼ばれる植物群が生育することで植物ファンに名高い。同様に蛇紋岩植物が多い花の山として、北海道のアポイ岳や岩手県の早池峰山などがある。白水の滝は、群馬県多野郡神流町を流れる神流川支流にかかる滝である。高津戸峡は、群馬県みどり市大間々町高津戸にある渓谷である。足尾山地から流れ出る渡良瀬川の中流に位置する。群馬県北西部の吾妻峡とともに「関東の耶馬渓」と称される景勝地である。伊勢が淵、はね滝、ポットホール、また近年になって名付けられたゴリラ岩、スケルトン岩などの奇勝が見られる。

橋上から絶景を見おろす高津戸橋、高津戸峡のシンボルといえるはねたき橋などの橋が架かる。高津戸橋からはねたき橋にかけて遊歩道が整備されており、東毛地域を代表する新緑・紅葉の名所となっている。棚下不動滝は、群馬県渋川市赤城町棚下にある滝。日本の滝百選の一つ。棚下不動雄滝と雌滝の2滝からなる。雄滝はいわゆる裏見の滝で、滝裏の通行が可能。大きく抉られた崖下には不動院奥院があり、不動明王が祀られている。この雄滝単独を指して「棚下不動滝」と呼ぶことも多い。雌滝は雄滝の北に位置する落差40mの滝。年間を通し水量は少ない。雌滝へ近づくルートは整備されておらず、棚下不動尊駐車場から棚下不動尊に至る坂道より遠景で望むことができる。東日本大地震の影響で、雄滝への参道が通行止めと案内されている。頼母子のシダレザクラは、群馬県板倉町大字海老瀬に位置する板倉町指定天然記念物の桜である。弘法大師が諸国行脚の折この地を訪れ、手にした杖を地面にさしておいたところ、不思議にも根が張り見事な花を咲かせたという伝説がある。

3月下旬~4月上旬頃の開花の時期には、勇壮であでやかな桜を楽しむことができる。開花期間中は地元の方々によりライトアップされ、夜のシダレも格別である。箱島湧水は、群馬県吾妻郡東吾妻町大字箱島にある湧水である1985年(昭和60年)名水百選に選定された。榛名山山麓、箱島不動尊のお堂脇にある、樹齢400年~500年とも言われる町指定の天然記念物「箱島不動堂の大杉」の根元から湧き出る量約3万(t/日)の湧水量をである。 一帯はホタルの生息地である。湧水の水は鳴沢川と名を変え、直近の利根川水系吾妻川へと注ぐ。早滝は、群馬県多野郡神流町を流れる塩沢川にかかる滝である。氷瀑で有名。本滝は、赤久縄山を流れる塩沢川にかかる直瀑である。落差30〜40m程度。標高が900m程度と高く寒いため、冬期に結氷し氷瀑となる。氷瀑は12月末頃より成長をはじめ、2月頃が最盛期。最も凍った場合は滝全体が結氷する。周辺の植生は主に落葉広葉樹林からなり、一部にスギ等の人工林がある。滝がある標高900m前後では主にコナラやカエデ、マツなどの雑木林様であるが、より標高が高くなるとカラマツ、ミズナラ、シラカンバなどが主な樹種となる。

本滝周辺の地質はジュラ紀のメランジュ基質であり、白色の珪質岩、緑色および赤色の変成岩などが複雑に入り組む。このため、色とりどりの岩石が河床を彩る。榛名湖は、群馬県西部、高崎市榛名山山頂に位置する湖。古名、伊香保沼。夏季は湖畔ではキャンプ場になり、また、バスフィッシングのメッカとまで言われている。湖上は遊覧船が就航し、貸しボート、また、スワンボートなどで楽しめる。湖畔は高峰三枝子唄の湖畔の宿のモデルになったこと、及び伊香保温泉から近いことから避暑地としては人気があり、テニスコートやキャンプ場、トテ車による湖畔の遊覧、ロープウェイによる榛名富士参りなどの行楽がある。 周辺にはユウスゲ群生地があり、夏には美しい花を咲かせる。 冬季は結氷しワカサギ釣りやスケートなどが楽しめる。 榛名の名称は、ワカサギを意味する春の肴(春菜)からといわれている。榛名山は、関東地方の北部の群馬県にある上毛三山の一つであり、古来山岳信仰を受けてきた山である。山の南西麓に榛名神社が祀られている。

吹割の滝は、群馬県沼田市利根町にある滝。高さ7メートル、幅30メートル。奇岩が1.5キロメートルに渡って続く片品渓谷にかかる。河床を割くように流れ、そこから水しぶきが吹き上げる様子からこの名が付けられた。2000年のNHK大河ドラマ『葵徳川三代』のオープニングにも登場した。1936年12月16日に旧文部省より、天然記念物および名勝に指定されている。900万年前に起こった火山の噴火による大規模な火砕流が冷固した溶結凝灰岩が片品川の流れによって侵食されてできたV字谷にかかり、そこに向かって三方から河川が流れ落ちるその姿から「東洋のナイアガラ」とも呼ばれる。近くには「鱒飛の滝」がある。高さ8メートル、幅6メートルの滝で、遡上してきた鱒がここを越えることができずに止まってしまうことから、かつては「鱒止の滝」と呼ばれていた。不二洞は、群馬県多野郡上野村にある鍾乳洞。川和自然公園内にある。県天然記念物。洞窟の全長約2.2kmと、関東一の規模を誇る。洞内にある縦穴を公開ルートに組み込んだ全国でも珍しい観光洞である。

今から約1200年前に発見されたとされ、約400年前には修行の場として利用されていた時代もあった。有料で内部を見学できる。入口から120mの人工トンネルをへて、洞奥に直接アクセスできる。約40mの縦穴、空穴(からあな)に設置された螺旋階段を登って、横穴型の主洞に至り、本来の自然の洞口から出洞する。洞窟内は夏、冬を通じ11℃で、夏は涼しく、冬は暖かい別天地である。御荷鉾山系は、群馬県南西部にある山系であり、上武山地の群馬県側を形成する。山中を御荷鉾スーパー林道が東西に貫く。御荷鉾山系は群馬県の南西部に位置する山系である。南を神流川、北を鏑川および支流の南牧川に挟まれた山域をさす。十石峠付近で関東山地の上信国境から分岐し、東へ延びる。南西部〜南部にかけて1000m以上の尾根が続き、本山系の主軸となる。最高峰は赤久縄山(1522.3m)だが、平野部からよく目立つのは東西御荷鉾山である。全般になだらかな山容であるが、一部に切り立った崖が見られる。

本山系は林業が盛んであり、群馬県内でも有数の林業地帯である、御荷鉾林業地帯および鏑川林業地帯を有す。御荷鉾林業地帯は、藤岡市の日野地区、鬼石地区および神流町にまたがる。藤岡市の県産材センター内に原木市場を有し、群馬県内最大の取扱量となっている。鏑川林業地帯は下仁田町、富岡市、南牧村にまたがる。鏑川林業地帯はその麓に製材工場群を有し、木材の高付加価値化に取り組んでいる。妙義山は、群馬県下仁田町・富岡市・安中市にまたがる標高1,104メートルの山である。群馬県内の小学校では、運動会の組分けを上毛三山の名前を用いて、「赤城団」「榛名団」「妙義団」の3組とし、対抗させる例が多数存在する(地域によって異なり、また人数が少ないと紅組、白組とする場合もある)。妙義山北麓を流れる中木川に建設された中木ダムのダム湖は、妙義山にちなみ妙義湖と名付けられた。龍神の滝は、群馬県多野郡上野村を流れる野栗沢川にかかる二段の滝である。

落差20m程度(上段15m、下段5m程度)。滝の右岸の崖の上に登ることができ、観瀑台となっている。大蛇が棲むという伝承がある。

2011年10月8日土曜日

木道の設置、更新工事は

現在は福島県域では福島県によって、群馬県域では群馬県と東京電力によって、新潟県域では東京電力によって行われている。木道の表面には設置年を示す焼印が木道一本ずつに押されている。この焼印はたとえば2007年(平成19年)設置のものなら群馬県設置のものは「群H19」、福島県設置のものは「福H19」、東京電力設置のものは「(東京電力のマーク)H19」と記されており、設置者と設置年が明らかになっており、更新の参考になっている。木道の単線あたりの幅は、ほとんどの場所で約50cmで、幅広の木材を2枚使ったものから、幅の狭い木材4枚を使ったもの、その中間の3枚の木材を使ったものまである。群馬県側の大清水の湿原と、福島県側の御池登山口の湿原には車椅子対応の幅150cmのものが設置されている。段差をなくし、車いすが落ちないように両端に車止めを付けるなどの配慮がなされている。歩行者の少ない地域では単線の木道だけの場所や、幅30cm程度の狭い木道が設置されている場所もある。

なお、複線木道整備のきっかけになったアヤメ平は1966年から群馬県が復元事業を開始、また1969年からは東京電力(尾瀬林業)も復元事業を実施している。採取した種子をまき、高山植物を現地で栽培するという方式をとり、2008年現在も、復元作業は継続されている。2010年10月23日に、NHK総合テレビジョンの番組小さな旅で、木道の修復の様子が放送された。主な登山口には種子落しマットが設置され、外来植物が極力尾瀬に持ち込まれない努力がなされている。山の鼻と尾瀬沼畔にはビジターセンターが設置され、尾瀬の自然の紹介と、自然保護活動の啓蒙を行っている。スライドショーや観察会等も行われる。なお、山の鼻ビジターセンターは群馬県が、尾瀬沼ビジターセンターは環境省が設置しているが、両センターの運営管理とも現在は尾瀬関係3県によって設立された財団法人尾瀬保護財団が運営管理を行っている。近年、ニホンジカが増加し、ニッコウキスゲなどの花芽が食べ尽くされ、極端に開花が少なくなる場所が増えるなどの影響が起こり始めている。

1995年ごろから尾瀬に現れたニホンジカは2008年には約300頭にまで増加し、頭数の調整のため環境省は特別保護地域内での捕獲を認める方針を示している。2009年4-11月には、福島県の特別保護区などで駆除に乗り出したが、捕獲数は16頭にとどまった。これは面積が広いことと、現地におけるシカの処理、搬出などが重労働であるため効率があがらないためという。2003年、長蔵小屋が周辺に廃材などの廃棄物を不法投棄していたことが判明。2004年、従業員2名に執行猶予付きの有罪判決が下され、山小屋には罰金120万円が命じられた。群馬県と福島県との間には尾瀬を経由して「会津沼田街道」が通っており、1600年頃は交易が盛んに行われていた。現地には自動車道は通っていないため、登山口からは徒歩で行くことになる。主な登山口は群馬県側が鳩待峠・富士見峠・大清水(三平峠)の3ヶ所で、福島県側が御池・沼山峠の2ヶ所。このほか新潟県側からの入山口(越後口)がある。

バス停から尾瀬までの行程が短い鳩待峠と沼山峠の2つの入山口からの入山者が多く、これら2箇所では前記のように自家用車乗り入れ規制がある。特に東京方面からの便が良く峠まで自動車が上がるため体力的に楽な鳩待峠からの入山が半数以上を占めている。自家用車の場合、群馬県側は、片品村戸倉の尾瀬第一駐車場(有料)、尾瀬第二駐車場(並木駐車場)(有料)に止め、そこから路線バスまたは乗合タクシーで登山口である鳩待峠に向かう。乗車券はバスと乗り合いタクシーは共通であり、頻発運転により利便性を確保している。福島県側からは、御池駐車場(有料、規制期間によっては使用不可のことあり)、七入駐車場(無料)に止め、同様に路線バスなどを利用する。これらの駐車場のほか、大清水駐車場(有料)、鳩待峠駐車場(規制時は使用不可)、富士見下駐車場(無料)がある。このうち、鳩待峠駐車場は狭いため規制期間中は使用できず、また規制期間外でも満車の時が多い。

しかも自然保護を理由として周辺よりも高い駐車料金となっている。電車・バスを利用する場合、群馬県側は上越新幹線上毛高原駅または上越線沼田駅から鳩待峠行バス連絡所行きまたは大清水行きのバスを利用。福島県側からは、野岩鉄道・会津鉄道会津高原尾瀬口駅から沼山峠行きバスを利用する。なお、東武鉄道がシーズン中の週末を中心に浅草駅から会津高原尾瀬口駅まで夜行列車(尾瀬夜行)を走らせている(沼山峠行きの連絡バスに接続する)ほか、関越交通も新宿駅および東京駅から大清水行き高速バスを走らせている。(戸倉で鳩待峠行きのシャトルバスに乗り換えられる) このほかに、上越線浦佐駅から奥只見行きのバスに乗り、そこから定期船で尾瀬口、尾瀬口から定期バス(予約制)で小沢平・御池・沼山峠まで行く方法があるが、バスの本数が非常に少ない(1日2本(繁忙期のみ3本))こと、積雪のために開通が6月上旬になることから、このルートを利用する場合は、関係各機関に問い合わせるなど、事前の準備を十分に行う必要がある。

鬼押出し・浅間園は、群馬県吾妻郡嬬恋村大字鎌原にある公園であり、隣接する長野原町によって運営されている。一帯は1783年8月5日(天明3年7月8日)におきた浅間山の噴火の際に流れ出た溶岩である。浅間山の前掛山噴火口から短時間に流出した大量の溶岩が火口から5.5km(水平距離)、広さ6.8km2(分布面積)、推定体積1.7×108m3の規模で広がり、末端部では50m以上の厚さに達する塊状溶岩(主として安山岩)で構成されている。その姿がまるで鬼が押し出して作ったようだと言われた事から「鬼押出し」と命名されたといわれている。なお、英語でも「Onioshidashi lava flow」と表記されている。鬼押出し園は、群馬県吾妻郡嬬恋村にある公園であり、一帯は1783年(天明3年)におきた浅間山の噴火の際に流れ出た溶岩である。園内には東京上野の寛永寺の別院である浅間山観音堂が設置されている。草津白根山は、群馬県吾妻郡草津町に位置する、標高2,160mの活火山。本来は白根山が正式名称であるが、他の白根山と区別するため、草津を配して呼ばれる。

また、近隣の逢ノ峰と本白根山を含めた三山の総称とすることもあり、この場合は標高2,171mの本白根山が最高峰となる。一つの火山の山体として捉える際は後者の考え方をとる。漣岩は、群馬県多野郡神流町にある崖である。崖の表面に大小50ほどの恐竜の足跡が残されている。三波石峡は、神流川上流に位置し、群馬県から埼玉県に跨る景勝地である。行政上では埼玉県児玉郡神川町、群馬県藤岡市に属する。

2011年10月7日金曜日

赤城山は

関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置し、太平洋プレートがオホーツクプレートに沈み込んでできた弧島型火山である。また、赤城山はカルデラ及びカルデラ湖を持つ関東地方で有数の複成火山である。約50万年前、足尾山地と古利根川の間の低湿地、柏崎千葉構造線の群馬県東部部分(利根川構造線)の割れ目で火山活動が開始される。安山岩質(Sio2 54 - 60%)の溶岩とスコリアから成る成層火山を形成した。最大時の標高は2,500m程度と推定される。約20万年前ごろから二酸化ケイ素の量が増えて溶岩がデイサイト質になり、それに伴い爆発的噴火が多発し、火砕流や山体崩壊による岩屑なだれが山麓に流下して現在の広い山麓を形成した。標高が1500mほどになったとみられる。南西側へは赤城橘山岩屑なだれがあり、赤城西側にある孤立丘群(橘山・箱田山・十二山など)、上毛大橋東側にあるカール状地形を形成した。一説には、群馬県昭和町の岩神飛石や敷島公園のお艶が岩はこの岩屑なだれによるものだという。

南東麓側では梨木泥流が発生している。山体崩落に伴う大規模な岩屑なだれであり、大胡・大間々方面へ流れ、伊勢崎市北部(権現山・華蔵寺周辺)まで到達した。その後、いったん火山活動は休止した。上毛かるたの読み札に『裾野は長し赤城山』とあるように、群馬県民の間では「あかぎやま」と呼ばれ、親しまれている。地元の道路案内標識での表記は「赤城山Mt.Akagi」のほかは、「赤城山Akagiyama」または「赤城山Mt.Akagiyama」である。また、昭和時代の郷土力士である赤城山晃(藤岡市出身)の四股名の読み方も「あかぎやま」である。赤城山は国土地理院の地図ではあかぎさんと記載されていた。これは「山」を「さん」と読むと規定されていたからだが、群馬県、特に前橋市周辺であかぎやまと呼ばれて親しまれていたため、群馬側がこれに異議を申し立て、あかぎやまへの改称を求めた。国土地理院はこれを受け入れ、現在発行の地図はあかぎやまとなっている。一方、国土地理院サイトの山の紹介では「あかぎさん」を第一とし、「あかぎやま」は備考として扱われている。

また、赤城山周辺にいくつかある「赤城山」という地名は、江戸時代の入会地が宮内庁管轄の御料地を経て1950年代頃に大字となったとき初めて付けられたもので、すべて「あかぎさん」と読む。地名の呼び方は「やま」と「さん」が混在しているともされる。このほか、日本酒の銘柄である「赤城山」は、どちらの読みでも構わないという蔵元の考えから、ラベル等にはあえて振り仮名を記していない。冬期の関東平野に吹く特有の北風「空っ風」を、群馬県平地部や埼玉県北西部では赤城颪(あかぎおろし)と呼ぶ。この語源は赤城山の方角から吹くため。上毛かるたの読み札には『雷(らい)と空風(からっかぜ) 義理人情』とあり、群馬県を語る上で空っ風の存在は外せない。東武鉄道が長年「赤城山大洞」「赤城青年の家」「畜産試験場」の路線を運行していたが、東武鉄道の群馬県撤退を機に関越交通が継承し、行き先を変更した。吾妻峡は、群馬県を流れる吾妻川上流の吾妻渓谷のうち、東吾妻町から長野原町に至る区間をさす。

地理学者である志賀重昂から「関東の耶馬渓」と称された景勝地で、1935年(昭和10年)12月には国の名勝に指定された。安山岩を中心とした火山砕屑層が長年の浸食を受けて形成されたもので、非常に変化に富む。一帯には奇岩、断崖が覗かせ、無数の瀑布、深淵が連続する区間である。吾妻渓谷は、群馬県吾妻郡を流れる吾妻川の渓谷である。国指定名勝となっている八丁暗がり付近を特に吾妻峡と呼ぶ。「関東の耶馬溪」の異名をとっており、群馬県では上毛かるたの「耶馬渓しのぐ吾妻峡」の札でも知られる。また、若山牧水がこよなく愛した景勝としても有名である。建設の進む八ッ場ダムは渓谷の中途に作られ、完成の際は一部がダム湖に沈むこととなる。妹ヶ谷不動の滝は、群馬県藤岡市を流れる三波川上流部にかかる滝である。東御荷鉾山の石神峠付近を源とする沢が三波川本流に合流する付近にかかる。付近は緑色の変成岩である三波石の産地であり、本滝もその露頭を滑り落ちるように流れる。

本滝の上流にも1~2m程度の滝が数段かかる。本滝のすぐ上には妹ヶ谷不動尊があり、毎年4月28日に氏子による獅子舞が奉納される。これに併せて本滝の上にしめ縄が張られる。入沢の滝は、群馬県多野郡神流町を流れる入沢川支流にかかる滝である。裏見の滝となっている。本滝は、愛宕山を流れる入沢川にかかる滝である。 標高600m付近にあり、落差30〜40m程度。 滝の下1/4程度が硬いチャート層となっているため二段になっており、上段の下部が侵食され裏見の滝となっている。滝を超えた奥に小さな祠があり、不動明王が祀られている。尾瀬は、福島県・栃木県・群馬県・新潟県の4県にまたがる高地にある盆地状の高原であり、阿賀野川水系最大の支流只見川の源流域となっている。中心となる尾瀬ヶ原は約 1万年前に形成されたと考えられる湿原である。尾瀬国立公園に指定され、日本百景に選定されている。尾瀬はほとんどの場所に木道が整備されており、湿原だけを回る場合は標高差は最大でも260m程度であり、歩行はそれほど困難ではない。

登山道から木道があることから、軽装の観光客も多いが、現地は山岳地帯であり、同じ群馬県内の高崎などの平野部と比べて気温も10℃以上差がある。多くの人が訪れる初夏のミズバショウの季節は残雪も多く、気象の変化により急激に気温が低下することもある。東京電力が発電所建設や分水路建設計画を正式に断念するのは1996年になってのことである。ただし現在でも尾瀬地域の群馬県側は全てが東京電力の所有地である。現在の東京電力や子会社の尾瀬林業は、木道の建設や浄化槽式トイレの建設、湿原の復元など、環境省や各自治体と並び尾瀬を守る活動の主体のひとつとなっており、尾瀬林業は尾瀬地域の5つの山小屋の経営母体でもある。1999年には自然保護を理由に、乗合自動車以外の自動車の乗り入れが一部禁止された。規制は数年かけて徐々に強化されており、2008年現在、群馬県側の鳩待峠口では5月中旬から7月末および10月初めから中旬の全日と8・9月の週末は自家用車の乗り入れができなくなっている。

また、福島県の沼山峠口では通年自家用車の乗り入れができなくなっている。その他、かつて唯一峠まで自動車で登ることができ、1960年代は最も多くの登山者が利用した富士見峠は、後述するアヤメ平の保護のために、富士見下から富士見峠間について通年許可車以外の通行はできなくなっている。

2011年10月6日木曜日

群馬県立ぐんま天文台

群馬県立ぐんま天文台は、群馬県吾妻郡高山村中山に位置する公開天文台である。群馬県の人口が1993年に200万人に達したこと、及び日本人女性初の宇宙飛行士である向井千秋(同県館林市出身)が宇宙に旅立ったことを記念し、県民に宇宙に対する関心を高め、次世代をになう子供たちのための教育のために建設された。本館1階には、受付、売店、映像ホール、事務室等が設置されている。映像ホールは、天文講演会等のイベント、学校利用、学術研究会などに使用される(収容人数:約100名)。本館2階には、太陽展示コーナー、恒星進化の展示パネル、観測機器の説明模型、データ解析についての説明展示などが設置されている。太陽展示コーナーでは、晴れていれば、直径約1メートルの直接投影像や長さ約1メートルの太陽スペクトル(虹)、Hα像などを観察することができる。 大きな直接投影像が見られる施設は、全国でもきわめて数が少ない。屋外には、18世紀のインドの天体観測施設ジャンタル・マンタルや約4000年前のイングランドのストーンサークルを縮小して再現した展示が設けてあり、実際に星々の位置観察ができるようになっている。

また、車のサーチライト等の灯りによる光害や、大面積の舗装面に蓄積された熱の発散による空気の揺らぎを避けるために、駐車場を天文台本体から離れた場所に設置してある。そのため駐車場から本館までは標高差約70メートル、距離約600メートルの遊歩道が設けてある。群馬県立土屋文明記念文学館は歌人、土屋文明を顕彰して設立された文学施設。群馬県高崎市の土屋文明の生地近くに1996年7月に開館した。短歌を中心に、群馬県関連の文学資料の収集や、詩歌文学・近代文学の展示を行う。群馬県文学全集や紀要、企画展の図録などの出版も行っている。所在地:群馬県高崎市保渡田2000番地。開館時間:9:30~17:00(入館は16:30まで)休館日:火曜日(祝日の場合は翌日)常設展示入館料:一般200円、大学生・高校生100円、中学生以下は無料、身体障害者手帳、療育手帳または精神障害者手帳の交付を受けた者及びその介護者1名は無料。アクセス:関越自動車道・前橋ICから約10分。JR高崎駅からタクシーで約30分、バスで約25分。JR前橋駅からバスで約30分。

群馬サイクルスポーツセンターとは、群馬県利根郡みなかみ町に所在する観光施設である。群馬サイクルスポーツセンターは1983年に開園した。かつては自転車競技者の育成を目的として、日本自転車振興会(当時)などからの補助を受けた財団により運営が行われていた。しかし経営難に陥ったことにより、2002年に民間企業に譲渡され運営されてる。冬季は降雪により閉鎖となるため、モータースポーツ使用コース以外が休園となる。群馬サファリパークは、群馬県富岡市岡本1番地にある動物園である。日本国内5番目の1979年5月1日にオープンした東日本では初の本格的サファリパーク。1986年5月5日には、日本で初めてアフリカゾウの繁殖に成功し、タンゴ(雄)というゾウが誕生した。ホワイトタイガーがいる。動物以外にもジェットコースターなどのテーマパークがある。タマンサファリインドネシアと姉妹園提携している。 運営は、群馬サファリワールド株式会社。2009年6月に急逝した世界的エンターテイナー、マイケル・ジャクソンも1988年12月のBADツアー日本公演来日中に訪れたことがある。

群馬の森は群馬県高崎市にある県立の都市公園である。公園の土地の一部は国有地である。公園内には、群馬県立近代美術館や群馬県立歴史博物館などの施設がある。群馬の森は、住民が緑を通じて人間性の確保と都市公園の整備促進を図る目的から計画された公園で、1968年に明治百年記念事業の一環として、大規模に樹木を導入した地域の気候風土文化を活かした都市公園である。自然豊かな公園で、多くの主な樹木が植えられている。主なものとしては、シラカシやクヌギ、オニグルミ、エノキ、コナラがあり、四季折々の姿が楽しめる。公園内には、約4ヘクタールある芝生広場やあそびの広場、わんぱくの丘、かたらいの丘などの設備があるほか、ウォーキングコースやサイクリングロード(高崎伊勢崎自転車道)などの運動設備がある。また、群馬県立近代美術館や群馬県立歴史博物館といった文化施設もあり、本来の都市公園機能を担うほか、歴史や文化を楽しむ文化施設機能も担っている。

現在の「群馬の森」がある一帯は、烏川と井野川に沿って舟運の便が良く、水車の動力も得やすいという理由から「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」と称した黒色火薬の製造所が1882年11月より設置されていた。その後、1923年4月に「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」へ、1940年4月に「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」へとそれぞれ改称し、1945年の終戦を迎えるまで、黒色火薬やダイナマイト、軍用火薬、民間用の産業火薬の生産・供給を行なっていた。そのような歴史的背景もあり、公園内には爆風避けの土塁や当時の建物・壁が残されている。群馬県立近代美術館は、1974年10月に開館した県立美術館である。「群馬の森」の付属施設として、群馬県立歴史博物館とともに整備された。美術館名の通り国内外の近現代美術の収集・展示を行うとともに、群馬県唯一(開館当時)の県立美術館として群馬県出身の画家の美術品の収集・展示にも力を入れている。群馬県立歴史博物館は、1979年に開館した県立の歴史博物館である。

原始から現代までの群馬県の様子などの展示活動のほか、調査・研究や教育普及に努めている。展示活動は、常設展のほか年数回の企画展を催している。「群馬の森」一帯には、かつて陸軍の岩鼻火薬製造所があった。そのような歴史的背景から製造所の従業員・遺族ら関係者の有志が設置した「ダイナマイト碑」などの様々な記念碑が設置されている。群馬弁は、群馬県で話されている日本語の方言である。群馬県はかつての上州であることから上州弁とも呼ばれる。房総弁や埼玉弁、多摩弁や神奈川弁と同じ西関東方言に属する。同じ北関東の茨城弁や栃木弁(足利市周辺を除く)は東関東方言に属しており、群馬弁とは大きく異なる。群馬県で話される方言をまとめて群馬弁や上州弁というが、群馬県内でも地域によって変化し、東毛・中毛・西毛・北毛に大きく分けられる。栃木県の足利弁を群馬弁に含んだり、板倉町や館林市の一部の方言を東関東方言としたりすることもある。西関東方言に分類されているが、埼玉弁と同じく鼻濁音はない。

また、江戸言葉のべらんめえ調のような母音の転訛が存在する。県北部では東関東方言や越後方言と同様、「イ」と「エ」の混同があるのに加えて、ラ行音の脱落もある。群馬ダイヤモンドペガサスは、プロ野球独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグに所属する群馬県のプロ野球チーム。2008年加盟。球団名の由来:「群馬」を象徴する「馬」から、「ペガサス」(天馬)を採用。また、野球において内野の4つの塁を結ぶ正方形を意味する「ダイヤモンド」を冠した。チームマスコットは白い天馬の「球馬くん(きゅうまくん)」、黒い天馬の「雷馬くん(らいまくん)」の2頭。このうち「雷」は群馬でよく発生することから、地域を表すものとして採用している。本拠地球場についてはリーグの他のチーム同様特に定めないが、群馬県立敷島公園野球場・高崎市城南野球場・前橋市民球場・伊勢崎球場・太田市民球場・桐生球場・藤岡総合運動公園市民球場で試合が開催される。2008年のスケジュールで最も開催が多いのは群馬県立敷島公園野球場である。

2011年10月5日水曜日

同「文字ニュース」は2000年頃まで

読売新聞東京本社内と上毛新聞本社とをISDN回線で結んだ専用回線でデータが送られ、群馬テレビ側に設置された端末(マッキントッシュ(PC))でデータから画像を生成して放送していた。独立UHF局としては唯一、高校野球選手権大会群馬県代表の地元校応援実況を実施している。県内の公立高校の入学試験合格者発表日に朝10時から夕方まで、全合格者名(手書き文字)を放送していた。その時の音声は各高校の校歌であった。開局は1971年4月で、関東圏の独立UHF局で最も早い。これは、60年代に民放AMラジオの開局を断念した経緯から、テレビ周波数割当て及び免許申請の一本化に際して県政財界が一丸となって働きかけを行ったことが影響している。資金面では群馬銀行の果たした役割が大きく、会社設立後まもなくの増資(第1回1億4,100万円・第2回2億5,900万円)は会社設立~開局まで初代社長を務めた諸田幸一(第8代群馬銀行頭取・第6代全国地方銀行協会会長)の功績によるところが大きい。

開局当初は埼玉県北部の視聴促進も行っており、テレビ埼玉開局までは「本庄市政ガイド」の制作、「本庄まつり」の録画中継も行っていた。埼玉県北部から群馬県東部へ延びる超高圧送電線(新岡部線など)の敷設工事が1978~79年ごろ始まる関係で、FM波やVHF(特に1ch〜3ch)の影響が出るため本庄、上里、岡部地域などでVHF(東京タワー)からUHF(榛名山の前橋中継局=群馬県)へ切り替える大規模なアンテナ切り替え工事(費用は東京電力負担)が1978年にあり、同地域のほとんどの世帯に榛名向けUHFアンテナが敷設された。このため同地域では結果的に群馬テレビの視聴の促進がなされたことになり、当該工事終了後「テレビ埼玉は映りが悪いが群馬テレビはきれいに映る」世帯がほとんどとなった。当時は陣見山の児玉中継局にはテレビ埼玉のみ中継局が予定され、在京局の中継局設置予定がなかったことが災いし、このときテレビ埼玉受信は考慮されなかった。

このことが2009年現在でも同地域で群馬テレビを見る世帯が多い原因でもある(ちなみにテレビ埼玉の開局が1979年と遅かった事もあるだろう。また、地上波デジタル放送の関係によるエリア是正が行われる可能性もあったが、デジタル放送では在京局の前橋中継局も群馬テレビとほぼ同じ出力になっていることもあり行われていない)。 逆に群馬県太田市の一部地域では埼玉の児玉中継局のみにアンテナを向けて群馬テレビを見ていない(見られない)世帯もある。前橋中継局(榛名山)や桐生中継局(茶臼山)が太田金山や唐沢山に阻まれ受信できないため。2007年10月31日に公式サイトが全面リニューアルされた。株式会社エフエム群馬は、群馬県を放送対象地域とするFMラジオ放送局である。1985年10月1日開局。JFN系列局。コールサインはJORU-FM。FM文字多重放送「見えるラジオ」(JORU-FCM)実施局。関東地方では、1970年にエフエム東京が開局して以来の民間放送FM局(ただし、群馬県にFM局を作るという構想は1961年からあった)。

群馬県では唯一の県域ラジオ局であるため、FM局にありがちな音楽一辺倒の放送ではなく、バラエティ豊かな編成が特徴。開局当初は予算の制約が大きく、聴取エリアも系列のTOKYO FMと重複しており、地方向けのBラインネットが多いために苦戦を強いられたが、近年は、在京局と遜色のない自主制作番組が放送出来るようになった。CM出稿も増加傾向にある。経験豊かなスタッフが増え、県域エフエム局には珍しい報道部も設置されるなど組織も充実している。またAM局がないため、毎年夏に開かれる全国高等学校野球選手権大会群馬県大会実況中継がJFN系列で唯一放送され、さらにインターネットでサッカー・Jリーグ2部ザスパ草津の主催試合実況中継も放送されている。送信所は高崎市吉井町の牛伏山にある前橋局(エフエム群馬ではこの周波数をメイン周波数としている)である。その他、山間部をカバーするために多くの中継局がある。エリアは、人口の多くを占めるほぼ関東平野にある群馬県南部地域では県外局(NACK5、TOKYO FM、J-WAVEなど)の聴取が可能な地域が多い反面、人口は少ないが多くの面積を占める北部や山間部では、県外局の難聴取地域が多い。どちらの地域をメインターゲットとするか難しい舵取りを迫られているとも言える。

なお他県では、埼玉県の面積43%、栃木県の面積34%、民放FMのない茨城県の面積13%にあたる地域も良好聴取エリアとなっている。また、千葉県・東京都の一部でも聴取可能である。現在では1994年開局のRADIO BERRYと、両毛地域などでエリアが重複している。また、同局開局前はNHKFM宇都宮放送局の周波数割当の影響で受信困難であったTOKYO FMの受け皿として受信を試みる聴取者もいた。 開局10周年の1995年頃、ステーションネーム(エフエム栃木における「RADIO BERRY」のようなもの)を制定するという計画があったが、立ち消えになった。FM群馬の新聞ラジオ欄における番組表表記は掲載する新聞によって 『FM群馬』『エフエム群馬』『FMぐんま』『FM GUNMA』と異なっている(いずれも群馬県及び関東一部の新聞ラジオ欄)。CLUB AIRは通常9:00-19:30まで開いている。

しかし、19:30以降まで放送する公開生放送時は、閉場時間が延長される。また、TFMやJFNの番組がエフエム群馬に出張放送する場合では、通常時間外でもCLUB AIRが開いていることもある。1日1ガッツキャンペーンがスタートした直後にラジアンリミテッドDXがエフエム群馬へ出張放送した際に、コーナー仕切りのジングル代わりとしてエフエム群馬の1日1ガッツのジングル(ガッツ石松出演)が全国ネットで流れた。開局当初から十数年は、営業部と放送部だけであり、情報源として新聞社配信のニュースとJFN、ボランタリーネットワーク(事前に契約を結んだ特定視聴者による無償情報提供)に頼っていたが、現在は報道部があり県内の話題を中心に独自の取材も積極的に行われている。他の県域FM局には先発のAM局が報道部を持っていることを考慮した経営効率により報道部を持っていない場合が多い。しかし、群馬県には県域中波放送が無いため群馬県内のニュースに関する同報性、速報性をという面で報道部の設置が必要であったと考えられる。なお、埼玉県にあるNACK5にも報道部(報道情報センター)がある。

報道部があるため、他のローカルFM局よりもニュース、情報番組が多めということもこの局の特徴で、毎時55分(深夜を除く)~数分程度FM群馬ニュースを流すことでも有名。近年、TOKYO FMが選挙特番を積極的に放送しているため、エフエム群馬は21時台に通常番組から切り替えて選挙特番を放送する。全国ネットの選挙特番が23:30で終了する場合も独自に放送する。自局の報道記者が全国ネットの選挙特番にも出演している。県域ラジオ局としては珍しくラジオショッピングがない。

2011年10月4日火曜日

1991年3月までは、青地の静止画数枚程

電波発射のアニメ静止画(青地に白色で電波鉄塔をシンボル化したオブジェと、鉄塔から電波が発射される様を表現する数個の直径が異なる円を描画した、2色刷り)表示、BGMはヨハン・シュトラウスの「皇帝円舞曲」のサビ部分が流れる→島崎浩アナウンサーの声で神妙に「JOML-TV,JOML-TV」ナレーション→前述のアニメ画にもうひとつ別の円が追加されたアニメ静止画に切り替わる→同じ男性アナで「こちらは、群馬テレビです」→チャンネル・周波数・出力紹介→中継局一覧。1991年4月からは、前橋市内の一望→群馬テレビの社屋、「JOML-TV 群馬テレビ」の表示→前橋市内、中継局(縦スクロール表示)2006年からは、榛名山に有る群馬テレビの中継所の空撮映像をバックに群馬テレビのコールサイン『JOML-TV』(デジタルは『JOML-DTV』)から『映像周波数・音声周波数・映像出力・音声出力』という順でテロップを表記しナレーション読みをしている。コールサインのナレーションのみ1回繰り返して読む、ナレーターは同局の根岸麻衣子アナウンサー(すでに退社)が担当している。

1991年3月までは、静止画で『本日も群馬テレビを御覧いただき、ありがとうございました。これで本日の放送は全て終了したします』のナレーション(静止画に使用された写真は日替わりで五月人形、電灯、だるま等)。その後、文字のみによるチャンネル・周波数・出力紹介→中継局一覧。BGMはエレクトーンで演奏された、ショパンの「別れの曲」。2006年からは、榛名山に有る群馬テレビの中継所の空撮映像をバックに群馬テレビのコールサイン『JOML-TV』(デジタルは『JOML-DTV』)から『映像周波数・音声周波数・映像出力・音声出力』という順でテロップを表記しナレーション読みをしている。以上の事を終えた後に画面の左上に『おやすみなさい。』とテロップが出される、オープニングでの『おはようございます。』のテロップ表示はされていない。コールサインのナレーションのみ1回繰り返して読む、ナレーターは同局の根岸麻衣子アナウンサー(すでに退社)が担当している。

2005年11月1日より、NHK放送センターと在京キー局、放送大学学園の前橋中継局と同時に試験電波を発射、2006年7月よりアナログ放送とのサイマル放送を開始した(デジタルにおいてはあくまで簡易的にアナログ放送をデジタルでも送出していただけに過ぎない)。主調整室(マスター)のみが地上デジタル対応設備(ハイビジョン対応)に更新され、2006年9月1日をもって本格的に地上デジタルテレビジョン放送を開始した。時刻表示は4:3位置だった。時刻変移は横回転。この当時はデータ放送やワンセグの送出装置が無く、同時開始とはならなかった。ワンセグとデータ放送は、2008年6月23日より同時に開始された。2010年10月1日より、スタジオがハイビジョン化された。同日のスタジオハイビジョン化により、時刻表示が16:9位置に変更となった。基本的に、放送番組センターなどの番組や過去のキー局発の番組をする事が多い。また通販番組は特に深夜に多いことがあり、午前・全日帯・プライムタイムは独立UHF局の中では比較的少ない。

平日23時台はおもに地方局制作のバラエティ番組が放送されている。その一方で中央競馬などのギャンブル、スポーツ中継を除き、これまでマイクロ回線受け同時ネットはなかったが、2009年4月改編で、初めてレギュラー番組に於ける同時ネット番組「5時に夢中!」の放送が開始された。かつて群馬テレビのホームページにはBBSがあり、局や番組への意見が書き込めた。同掲示板において、キー局が放送していない番組のネット、特にバラエティ番組や独立U局で放送しているアニメ番組のネット要請が見受けられた。そのため、2004年4月より人気が高かった「どうでしょうリターンズ」や同年10月より『アニメ魂』のネットを開始した(2008年9月まで)。その他のUHFアニメの放映は、もっぱら放送局の拡大があった時のみであったが、2011年4月からは東京メトロポリタンテレビジョン・とちぎテレビとの同時放送でアニプレックス製作やA-1 Pictures制作の作品(新作に加え再放送を含む)を放送する枠が作られた。

他は旧作のアニメの再放送が多いが、2000年代以降の準新作の再放送も行われている。「どうでしょうリターンズ」放送の際、大泉洋拉致事件の関係で他局では放送見送りになった「十勝二十番勝負」が放送され、予告にチラッと大泉洋拉致事件が入った「サイコロ5」が放送見送られ、3週連続の総集編も2週目だけカットするなど、不可解な編成をする事が少なからずある。この他、東海テレビ制作の昼ドラ枠(フジテレビ系列で平日13:30-14:00に放送)で2-3年前に制作された作品を平日の13:00-13:30に放送している。なにわ人情コメディ 横丁へよ~こちょ!の群馬テレビ用オリジナル番宣CMがあり、出演している石田靖が「群馬テレビをご覧の皆さん!」と挨拶する。なお、番組は一時期ニューカラオケ大賞が開始されたため休止されていたが、2006年5月より毎週土曜20:00~20:55の枠にて再開された。 1989年の昭和天皇崩御の際は群馬テレビとして予定されていた放送をCM含めすべて休止し、オブザーバー加盟していた日本テレビ系列(NNS)が制作した特別編成番組を同年1月7日午前から1月8日(正確には9日未明)まで同時ネットした(テレビ神奈川、テレビ埼玉、千葉テレビも同様)。

東京都北多摩地区をエリアとするJCOM西東京局が、開局から2001年まで再送信していた。ノイズが多かったものの、当時同局では千葉テレビも再送信しており(こちらも2001年に中止)、とちぎテレビを除く関東地方のすべてのUHF局が視聴可能であった。なお、現在はいちかわケーブルネットワークがアナログ放送で再送信を行っているほか、豊島ケーブルネットワークでは地上デジタル放送のみ再送信されており、こちらもとちぎテレビを除く関東地方のすべてのUHF局が視聴可能になっている。番組ソフト不足などもあって開局から1980年代中ごろまでは主として夕方から夜間のみの放送であった。(朝~夕まではテストパターン映像と音楽放送を実施)その後文字ニュース(読売新聞・上毛新聞記事提供)を開始し放送時間を段階的に拡大したが、1994年3月まで長らく平日の放送開始は朝10時からであった。(独立UHFが発足した当初はこのような短時間の放送を行うテレビ局は珍しくなかった)。

2011年10月3日月曜日

楽団の運営をめぐり一部の理事と楽団員達の間に軋轢が生じ

7月13日には楽団員32名のうち21名が退職届を提出する事態に発展した。これに対して会長(高崎市市長)は「去るものは追わない」として提出された退職届をそのまま受理するなどした。1968年に、群馬県の依頼で制作された、群馬県の歌の演奏し、現在でも群馬テレビの毎日放送開始時と放送終了時に放送されている。1994年には「プラハの春国際音楽祭」、 「ウィーン芸術週間」 から同時に招待を受け、 音楽監督 高関健指揮のもと4ヶ国を巡る海外公演を実現。翌1995年の創立50周年には 東京及び群馬県内各地でベートーヴェン交響曲連続演奏会を行った他、50周年記念委嘱作品「オーケストラのための遠景Ⅱ」(細川俊夫作曲)を東京・群馬で初演し、高い評価を得た。2001年からは、日本の音楽界を牽引している楽団として、文化庁の「芸術創造推進事業(アーツプラン21)」支援団体に指定されている。2003年には、5月に定期演奏会が400回を数えるとともに、同年10月のNHKテレビ番組「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」で団の草創期が紹介され、全国的に注目された。

群馬県を舞台として2005年に放送されたNHK連続テレビ小説「ファイト」では、テーマ曲を演奏している。最近では、定期演奏会、移動音楽教室など地域に根ざした活動や、レコーディング、文化庁の本物の舞台芸術体験事業をはじめとして全国各地での演奏活動も積極的に行っている。群馬ヘリポートとは、群馬県前橋市下阿内町にある公共用ヘリポートである。1988年(昭和63年)3月に群馬県条例により設置。同年8月25日に開港した。建設費は土地代も含め14億6000万円。消防・警察等の行政用途のヘリコプターのほか、民間用ヘリコプターの格納庫も備える。開港に合わせて設立された財団法人群馬県航空振興公社が管理運営をしていた(1999年度に財団法人群馬県企業公社に統合)。2006年4月から指定管理者制度によってジャパン・エアクラフト・サービス(2006年5月1日に上毛航空に名称変更)が管理運営を行っていたが、業務縮小により2006年10月31日をもって管理業務契約を解除。

11月1日より群馬県の直接の管理運営となった。群馬県が実施している指定管理者制度では期間中の解除は初の事態であった。雄飛航空が2006年10月29日から『成田ヘリ・エクスプレス』の名称で成田国際空港まで所要時間40分で結ぶヘリコプター路線を運航している。株式会社群馬銀行は、群馬県前橋市に本店を置く地方銀行。通称は「群銀」、「ぐんぎん」、「GB」。総資産では、八十二銀行に次ぐ地方銀行11位。株式会社群馬銀行は、群馬県前橋市に本店を置く地方銀行。通称は「群銀」、「ぐんぎん」、「GB」。群馬県外では、埼玉県・栃木県・東京都・長野県・大阪府に加え、明治期の生糸貿易の名残で、横浜にも支店がある(逆に同様の理由で横浜銀行も群馬県内に支店がある)。歴代頭取は日本銀行出身者が多い(2007年現在の現任も同様である)。東京証券取引所一部上場企業である。基本手数料無料、群馬銀行本支店宛振込手数料は無料、他行宛手数料3万円未満210円・3万円以上420円である。

 口座情報照会、資金移動取引(振替・定期預金取引・振込)、投資信託取引、各種ローンの仮申込受付、住所変更受付等の利用ができる。なお、開発は自行で行っているが、2011年3月22日に全面的にAnswer Webに移行する。群馬銀行は自身でジェーシービーのフランチャイジーになり、VJAに加入している。群馬銀行iD NTTドコモのポストペイドおさいふケータイのiDでも利用できるクレジットカード。東京支店・横浜支店・大阪支店等の一部の県外支店では、法人向け店舗としての位置付けをされている為、個人の新規口座開設は非常にハードルが高くなっている。但しハードルが高くなる前に預金口座を保有している個人はそのまま利用可能。四谷支店(旧・新宿四谷支店)及び横浜支店は別の拠点に支店を移転した為、ATM(現金自動預金支払機)の取扱時間が大幅に変更になった。(従来は八王子支店と同様の時間帯だったが、移転後は窓口営業時間帯の取扱に切り替わった) 稼働時間は平日のみ午前9時から午後3時まで 逆に八王子支店のATMの稼働時間が延長された。

2000年よりイーネットと、2004年よりセブン銀行と提携してコンビニATMを展開している。また、群馬県内に限り@BANKにも提携している。但しイーネットとセブン銀行については2008年4月6日までは、手数料有料だったが、4月7日以降に無料化された。2010年7月5日からはローソン・エイティエム・ネットワークス(LANs)と提携し、群馬県内のローソン店舗へのローソンATMの展開を開始した。ぐんま経済新聞は、群馬県前橋市の群馬経済新聞社が発行する新聞である。群馬県内の企業動向、行政施策、研究機関の情報やビジネスに直結する各種データを満載した法人向け専門紙。毎週木曜日に発刊される。また、毎月第4土曜日、読売新聞に折り込んで発行している「ダイジェスト版」も存在している。専門誌「ぐんま経済新聞」のエッセンスを家庭向けにまとめた月刊フリーペーパーとして需要が高い。群馬テレビ株式会社は、群馬県を放送対象地域とする放送局である。同局のマスコットの名前は『ポチっと君』。

名前の由来は『ポチッ・・・と群馬テレビをつけてほしい』。群馬県内が主な視聴エリアだが、埼玉県北部の深谷市、本庄市付近や栃木県西部の足利市付近ではNHKと東京キー局を群テレの送信所と同じ位置にある榛名の前橋中継局(足利市は茶臼山の桐生中継局にも)にUHFアンテナを向けて見ている世帯が多いので、それらの世帯でも群馬テレビが視聴可能である(エリア図)。なお、東京都北部や千葉県北西部の一部でも大型の高性能アンテナと増幅器(受信ブースター)を設置する事によって、遠距離受信が可能であるとされる。かつて地元紙の上毛新聞と共に読売新聞の文字ニュースを流したり、開局25周年記念自主制作ドラマに読売巨人軍・長嶋茂雄監督(当時)が参加したりするなど、何かと読売新聞社との関係が深い。ちなみに、高校サッカー中継への参加は関東など他の独立U局でも行われている(いた)ことであり、昭和天皇崩御に際してのNNNネット受けについては、当時の関東エリア独立局がNNSへオブザーバー加盟していたことがその理由となっている。

2011年10月2日日曜日

加齢年齢にも影響を受けない練達技巧である。

いわゆる「かかあ天下(でんか)と空っ風」である。「かかあ天下」は、「女性(妻)に頭が上がらない男性(夫)」とか「妻の尻に敷かれている夫」と取られがちだが、そうではなく、上州の男が自分の妻を感謝・尊敬し、自慢する意味で「ウチの母(かかあ)は天下一」という意味を持っている。養蚕業は原始的ながら複雑な工程を経るため、群馬県(埼玉県北部上武地域を含む)では養蚕業に由来する社会行事が多く残っている。民俗学的に優れた材料の宝庫ともいえ、評価が高い。往々にして写真美術の題材になるなど、養蚕業の深奥はいまだに尽きるところがない。養蚕製糸業は当然製造工学的な技術発展をうながしており、これを背景に大正時代には日本最大の飛行機会社となった中島飛行機が設立された。人口は県庁所在地の前橋市が約34万人、隣接する高崎市が約37万人であり、(群馬県内では太田市(約22万人)、伊勢崎市(約21万人)も同様)実質的に双子都市となっているが、行政面では別々の地域とされることがほとんどである。

岡山県の岡山市と倉敷市、埼玉県の旧浦和市と旧大宮市(現さいたま市)の関係に似ている。平成17年度以前は、県内を4つの地域に区分するのが一般的に受け入れられてきた。以下、その地区ごとに県下12市7郡15町8村を記載する(市制施行が可能な町はなし、町制施行が可能な村は2村で、榛東村と嬬恋村)。なお、地域名は正式呼称ではない。「町」の読み方はすべて「まち」。「村」の読み方はすべて「むら」。群馬郡は、群馬県中部にあった郡である。人口22,303人、面積93.59km²。消滅前日となる2006年9月30日の時点で、以下の1町を含んでいた。飛鳥藤原宮出土の木簡に、「上毛野国車評」と書かれたものが見つかっている。群馬はもともと、上毛野国(後の上野国)の評(後の郡)としてある「車(くるま)」という地名であった。後、評が郡に変わって車郡になってから、713年(和銅6年)に好字二字で地名を表すことになったとき、群馬郡(くるまのこおり、くるまぐん)に改名されたと推測されている。

字の選択にあたっては、この辺りが馬産地であったことが考慮されたと思われる。「ぐんま」の読みは後になって生まれたもので、「くるま」は江戸時代まで使われていた。「ぐんま」に確定したのは明治時代からである。1878年(明治11年)に、利根川を境に東群馬郡と西群馬郡に分割された。東群馬郡の面積は小さく、1896年(明治29年)に南勢多郡に統合され勢多郡となった。このとき同時に西群馬郡と片岡郡が統合して群馬郡と改称した。1949年(昭和24年)に、群馬郡から北群馬郡が分立した。2006年10月1日、榛名町が高崎市に編入したため群馬郡は消滅した。尚、1878年以前の郡域で行くと北群馬郡と吾妻郡高山村の区域しか残っていない。群馬用水は、群馬県中央部の赤城山南麓・榛名山東麓を流れ、利根川の水を取水する灌漑用水路である。赤城・榛名山麓へ灌漑するため2幹線で構成されている。疏水百選にも選ばれている。水源は矢木沢ダム及び奈良俣ダムなど群馬県北部のダム。取水地は沼田市岩本の綾戸ダム付近の利根川西岸に存在する。

はじめは1流路の導水幹線だが、渋川市上白井の赤榛分水工で東西に分流し、西側の子持山南麓・榛名山東麓に向かう榛名幹線と、東の赤城山南麓を流れる赤城幹線の2本の用水路に分かれる。榛名幹線は約24kmで、子持南麓を通って吾妻川サイホン水管橋で吾妻川横断を行い、榛東村・高崎市へと流れ鳴沢湖へ至る。赤城幹線は約33kmで、渋川市内で利根川サイホン水管橋で利根川を横断、利根川東岸側へ流れて前橋市北部から桐生市(旧新里村)の早川池へ至っている。赤城、榛名両幹線の総延長約17kmが開水路になっている。また幹線水路の標高は約270m付近にある。農業用水が計画時の主な目的であったが、昭和55年(1980年)9月に計画変更を図り、水道用水にも利用されている。赤城榛名幹線に3箇所ずつ計6箇所の揚水機場が設置され、県央の前橋市など6市町村の標高140m~500mにある耕地約7,500haを灌漑する。水道用水利用は、同じく県央域の前橋市、高崎市、渋川市、伊勢崎市など9市町村である。

独立行政法人水資源機構の群馬用水総合事業所が管理を行っている。群馬県の赤城・榛名・子持山麓は水源に乏しく、農業経営が不安定だった。このため戦時中の昭和13年(1938年)から開田計画が策定されたが戦争激化で実行されなかった。 戦後、食糧不足もあって農林省が食糧増産対策事業を推進し、土地改良事業が全国的に行われた。この一環として赤城・榛名・子持山麓における灌漑用水路建設が企図されたのである。昭和27年(1952年)の初期計画では現在の2幹線は取水口が独立しており、取水地は現在と変わらないものの、赤城幹線が利根川東岸から取水するものだった。しかし昭和30年から農林省などで本格的な実地調査が行われた結果、昭和32年に大幅な計画変更がなされた。灌漑面積が減少したほか、利根川東岸に既存の発電所取水口があるため西岸からの一括取水・その後の分水が計画されることになったのである。 昭和37年(1962年)10月、水源となる矢木沢ダム建設を水資源開発公団が行うこととなり、群馬用水も昭和38年(1963年)8月、利根川水系における水資源開発基本計画に群馬用水が加えられ、翌年着工した。

当初は昭和43年(1968年)完成予定だったが、昭和40年(1965年)に揚水機場・支線工事か追加され、昭和44年(1969年)幹線水路が完成した。最終総事業費は115億円であった。しかし末梢工事が終了し最終的に完成したのは昭和47年(1972年)のことである。群馬師範学校は新制群馬大学学芸学部 (現・教育学部) の前身の一つとなった師範学校である。前身の群馬県師範学校から引き継いだ前橋市日吉町の校地を廃止まで使用した。日吉町校地は後身の群馬大学学芸学部に引き継がれた。群馬大学学芸学部は1966年に教育学部と改称後、1970年に市内荒牧町の校地 (現・荒牧キャンパス) に移転し、現在に至っている。旧日吉町校地には、現在は群馬県民会館などが建てられている。前身の群馬県女子師範学校から引き継いだ前橋市若宮町の校地を廃止まで使用した。若宮町の校地は後身の群馬大学学芸学部に引き継がれた。旧若宮町校地には現在、群馬大学教育学部附属小学校・附属幼稚園などが存在する。

群馬交響楽団は、群馬県にある常設の管弦楽団である。日本の地方管弦楽団の草分け的存在で、高崎市を本拠地として活動する。「群響」の愛称で多くのクラシック音楽愛好家に親しまれている。日本オーケストラ連盟正会員。1945年、「高崎市民オーケストラ」として創設した。翌1946年に「群馬フィルハーモニーオーケストラ」と改称、翌1947年にプロ化した後、1949年に財団法人が設立され、1963年に現在の名称に改められた。1955年、群馬交響楽団をモデルに制作された映画「ここに泉あり」(監督:今井正、出演:小林桂樹、岡田英次、岸惠子)が公開され、全国的に注目を集め、翌年には文部省により群馬県が全国初の「音楽モデル県」に指定された。さらに1961年、高崎市民の全面的な支援を受けて同市に群馬音楽センターが建設され、これを拠点としてさらに幅広い活動が展開された。また、1947年5月に始めた移動音楽教室では、2004年度までに延べ570万人以上の児童・生徒が鑑賞しているのをはじめ、県内各地での演奏活動の展開により、群馬県の文化の象徴として県民から幅広く支持されている。

2011年10月1日土曜日

群馬県は

日本の都道府県の一つで、関東地方北西部に位置する。県庁所在地は前橋市。県中北部に広大な山地を有する自然豊かな県である。上代においては栃木県域とともに「毛野国」(毛の国)を形成し、これを上下に分かち「上毛野国(かみつけぬのくに)」とされ、のちに上野国となる。現在の県域はほぼ上野国と一致し、今でも異称として「上州(じょうしゅう)」「上毛(じょうもう、かみつけ)」を用いることがある。県名は、前橋が属していた群馬郡から採用された。

群馬郡は元は「くるまのこおり」と言い、藤原京木簡では「車」の一字で表記されていたが、奈良時代の初めに全国の郡や郷の名を二文字の好字で表記することとなり「群馬」と書くようになった(群馬郡#歴史も参照)。群馬は「馬が群れる」という意味であり、貴重な馬が群れている豊かな土地であり、また、そうなりたいという願いがあったのであろう。この地方が古くから馬に関係あったことはよく知られている。「空っ風」「雷」「かかあ天下」が名物。海洋国家である日本において、内陸部に位置する数少ない県である。

かかあ天下の由来としては、富岡製糸場などの「おかいこさん」による婦人方の稼ぎがあったことが考えられる。また、群馬県は一世帯当たりの自動車保有台数、女性の運転免許保有数が日本一多い。平成20年度の県内総生産は7兆2214億円であり、世界の過半数の国の国内総生産 (GDP) より大きな規模を有している。一人当たり県民所得は269.2万円である。関東の西北部に位置し、北は福島県と新潟県、西は長野県、南は埼玉県、東は栃木県に囲まれた内陸県である。

群馬県と福島県の県境地域は立ち入りが厳しく制限された自然・環境保護の象徴である尾瀬国立公園となっており、福島県へ自動車で直接行くことは出来ない。福島県との県境は会津沼田街道が通っている。県域東南部は関東平野となっているが、県域西部から北部にかけては関東山地、三国山脈などの山地が連なり、日本でも桜島と並ぶ最も活発な活火山の一つである浅間山を始め、榛名山、赤城山、妙義山の上毛三山、草津温泉を抱く草津白根山など全国的に著名な山が多く、前出の草津温泉を始め伊香保温泉、水上温泉など温泉も豊富である。

また県内の諸河川を集め利根川となり、東流して太平洋及び東京湾に注ぐ。分水嶺を挟んだ県域である信濃川流域の野反湖と阿賀野川流域の尾瀬の水は日本海へ注ぎ、関東地方で日本海側河川の集水域になっているのは群馬県だけである。また、利根川流域の一つ鏑川の源流は長野県佐久市となり長野県域を源流に持つ。県の形が羽を広げた鶴のように見えるため、上毛かるたでは「つる舞う形の群馬県」という札がある(県東端の板倉町を鶴の頭とする)。

県域北部は北毛と呼ばれ、赤城山や谷川岳などの山岳部となっている。豪雪地帯に指定されている地域が多く、冬季のスキーリゾート地として知られる。この地域には草津・伊香保・水上・四万などの温泉も多く、神奈川県西部や栃木県北部とともに関東有数の温泉地である。県域南部は関東平野の北端に当たり、中毛・西毛・東毛の三地域に分けられる。他の関東地方平地部と同様に夏季多雨、冬季少雨を呈する。中毛地域の前橋市は畜産業などの農業が盛んである。

西毛地域の高崎市は商工業を中心に発展しており、群馬県における交通の要衝である。前橋市や高崎市周辺は県の施設が多数設置され県の中心地域となっている。東毛地域北部の桐生市は織物(桐生織)の生産が盛んであり、鋸屋根の織物工場や蔵造りの商家など歴史的建築物が多く残る関東有数の機業都市である。中毛地域南部の伊勢崎市は絣(かすり:伊勢崎銘仙)の産地として、東武伊勢崎線の終点として有名である。

東毛地域南部の太田市や大泉町は、東北自動車道に近いことから内陸型の組立工業が発達しており、富士重工業を中心に発達してきた北関東屈指の工業都市である。食物は板倉町のきゅうり、下仁田町のねぎ、嬬恋村のキャベツ、富岡市や下仁田町のこんにゃく、前橋市と桐生市のソースカツ丼、館林市と渋川市伊香保町水沢地区(旧・伊香保町)のうどん、桐生市のひもかわうどん、太田市の焼きそばなどが有名である。

県の人口の7割ほどが南部平野部に集中しているが、県内の地域ごとに拠点都市が分散していることから、明確な首位都市が存在しない。平野部に位置する前橋市・高崎市・桐生市・太田市は、それぞれ「県都」・「商都」・「織都」・「工都」と称され、歴史・行政・農業・工業・商業といった機能を分担している。律令制の下では東山道上野国で、国司が国を治める国府の所在地は現在の前橋市元総社町付近であったと推定されているが、その遺跡は確認されていない。

周辺に国分寺・国分尼寺の跡がある。10世紀の郡は、碓氷(うすい)・片岡・甘楽(かんら)・多胡・緑野(みとの)・那波・群馬(くるま)・吾妻(あがつま)・利根・勢多・佐位・新田・山田(やまた)・邑楽(おうら)の14、郷は102(『和名類聚抄』)。和銅4年(711)、多胡郡は片岡・緑野・甘楽の3郡から300戸を割いて設けられた。延喜式神名帳に記載される名神大社としては後に一ノ宮となった貫前神社(富岡市)や赤城神社(前橋市に論社3社)、伊香保神社(伊香保町)があり、高崎市の辛科神社は渡来系の神社として知られている。

この辺りには古くから渡来人が多かったようで、8世紀始めに甘楽、緑野、片岡各郡から6郷を割き、多胡郡が成立した。多胡郡建郡を記念する多胡碑など上野三碑が古代の金石文として知られる。荘園や御厨、国衙領が成立し、それを基盤として中小武士団が勃興した。県東部の邑楽・新田・佐位郡と北部の利根・吾妻、西部の碓氷・多胡郡は郡域が荘園化し、一方で群馬郡・甘楽郡はほぼ全域が国衙領として渋川郷(保)・桃井郷・白井保・長野郷・和田郷・岡本郷などが成立した。他は混在している。

このため武士団の出自に地域傾向がある。まず県北部から東部にかけては秀郷流藤原氏(佐位・那波・林・薗田・大胡・山上氏)が入り、続いて東部の新田荘に新田氏一族(新田本家・里見 ・山名・得河・世良田・岩松)が入り拡大した。県南部は秩父党系(小幡・飽間・小林氏)が武蔵から入った。多胡郡は荘園として源義賢が開発し、のちに多胡氏が拠った。一方国衙領がほとんどの群馬郡・甘楽郡では、在庁官人系と推測される諸氏(渋川・桃井・長野・和田・岡本氏など)が勃興した。

これらの武士団は、新田一族を除き中世の騒乱のなかで力を失っていった。まず治承・寿永の乱で、源義仲が多胡郡から県西部に影響力を持ち、東部では新田荘の新田義重が自立した。隣接する足利には秀郷流藤原氏の惣領・藤原姓足利氏が平家側にあった。一方秀郷流藤原氏の一族・新田氏の分家(里見・山名)や多くの武士は源頼朝に従った。その後、最終的に源頼朝の勝利に終わった結果、義仲についた佐位氏・那波氏・桃井氏、平家についた藤原姓足利氏が没落、新田義重も地位が低下した。

頼朝についた武士団は鎌倉御家人となった。鎌倉期には和田合戦で渋川氏が没落した。在地領主が没落したのちには、新たに領主が入り、同じ名の氏族を名乗った。藤姓那波氏旧領には大江氏系の那波氏が、渋川氏・桃井氏は源姓足利氏の一族が入った。

2011年9月30日金曜日

麹町区有楽町に

ドイツ・ルネサンス様式の鉄骨レンガ造2階建の東京市役所が完成する。同地は現在の千代田区丸の内三丁目に当たる。このときの建物は戦災で焼失し、戦後に新庁舎に建て替えられ、現在はさらに東京国際フォーラムに建て替えられている。1898年(明治31年)10月1日、東京・大阪両市有志同盟の請願が結実し「市制特例撤廃法」が成立、東京市に一般市制が施行され、東京府庁内に市役所が開かれた。府知事の市長兼務は廃止されて東京市長は官選となり、初代市長には松田秀雄が任命された。1926年(大正15年)からは市議の互選により市長が選出されるようになった。大正期に入ると東京市への人口流入はさらに進み、1920年(大正9年)の人口は370万人になった。また、大正年間に入る頃から大東京という表現が見られるようになった。多くの場合それは従来の東京市(15区)と隣接5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)に、しばしば北多摩郡砧村・千歳村を加えた地域を指していた。

これは現在の東京都区部(東京23区)の区域に相当する。1922年(大正11年)4月24日には旧都市計画法に基づき、東京市と上記6郡84町村が「東京都市計画区域」として定められた。1923年(大正12年)9月1日、東京市は関東大震災にみまわれ、特に下町が大打撃を受けた。この影響で1928年(昭和3年)から1932年(昭和7年)の近隣町村編入までの間、大阪市に人口規模で抜かれることになった(→都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位)。1932年(昭和7年)10月1日、近隣の5郡82町村(荏原郡・豊多摩郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡の各全域)を編入して新たに20区を置き東京35区となった。1936年(昭和11年)10月1日、北多摩郡砧村・千歳村を世田谷区に編入し現在の東京都区部の範囲が確定した。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日に内務省主導で東京都制が施行され、地方自治体としての東京市と東京府は廃止されて東京都が設置された。それまでの東京市役所の機能は、以後は東京都庁に移された。

旧東京市35区は従来どおり議会(区会)をもつ自治体としての性格を保ちながらも東京都の直轄下の区とされ、従来東京市の吏員が任命されていた区長には官吏が任命されることとなり、東京都長官の指揮監督を通じて内務省による統制が強化された。35区は1947年(昭和22年)3月15日に東京22区に再編され、同年5月3日の地方自治法施行により同法の定める特別区となった。同年8月1日、旧練馬町ほか4村の区域が板橋区から分離して練馬区となって東京23区となり、現在に至っている。東京都章及び東京都旗は旧東京市章を継承したものである。ただし、現在では1989年(平成元年)に制定されたTの字を図案化したシンボルマークの方がよく使われる。「都民の日」に当たる10月1日は、一般市制による東京市発足の日に因んでいる。東京都知事は、日本の首都とされる東京都の首長である。東京都は第二次世界大戦中の1943年に行政の効率化を図るために東京府と東京市の統合によって設置され、現在も市町村の事務の一部を管掌している。

東京都は千代田区を管轄に含んでおり、なおかつその立場から日本の首都であるとされる。そのため地方自治体の首長の中でも注目度が高く、知事選挙の時も特に注目される。かつては、東京都制(1943年~1947年)による東京都の首長は官選の東京都長官(親任官)であり、閣議に出席することもできた。現在でもその名残があり、知事の給与は国務大臣とほぼ同額である(ただし石原慎太郎の知事就任時から10%カット中)。東京府は大阪府、京都府と同格であったが東京都はカナダの旧自治領であるトロント・ドミニオン(Toronto Dominion)に倣って制定され、地方自治法上は他の県と同格でありつつも制度の運用面において特別な扱いを講じた自治体である。首府の東京市の行政区は東京都の発足とともに東京都の行政区となるが、1947年に22区、さらに23区に再編され、同年の地方自治法の施行により特別地方公共団体である東京特別区(通称:"東京23区")となった。これにより制度上は東京という名称で一体として統治される都市は消滅し、都市としての自治権は各区へ移管・委譲されたことになる。

現在の東京都はそのような歴史的経緯から、“東京県”としての性質と自治的都市の連合体としての性質を併せ持ち、旧神奈川県域である東京都下にはユニークな市町村が多い。中でも随一の繁華街吉祥寺を擁する武蔵野市や、都市公団(旧:住宅都市整備公団)による郊外住宅街開発により成立した多摩ニュータウンの中心である多摩市、八王子市などは全国的にみても優良な自治体である。最近の東京都知事は鈴木俊一(無所属)、青島幸男(無所属)、石原慎太郎(無所属)で、1991年以降政党の推薦を受けた知事は誕生していない。東京都の自治体としての性質から、他の道府県知事に比較すると、パフォーマンス能力にも長けた人選がなされる傾向もみられる。また、公選になって以降は「東京の顔」にふさわしい人物が東京都知事に就任していると評されている。東京都は東京府と東京市が合わさって成立したため、旧東京市地域を管轄する地方自治体として公的に位置づけられる性格もあり、オリンピックの招致活動などでは東京都知事が東京の市長として扱われる。

これはロンドン(グレーター・ロンドン)と似た構造となっている。これは前述の東京都区部と同じ範囲である。東京都は、府県制時代の東京府の性格も有している。したがって、東京都は日本の47都道府県のひとつでもある。東京府の行政区域を受け継いだため、多摩地域や伊豆諸島・小笠原諸島までの広大な海域・島嶼も含まれる。府県制から都制へ移行した1943年(昭和18年)まで、東京府には東京市・八王子市・立川市の3市があったが、都制施行と共に東京市が23区へ解体されたため、東京都下の市は八王子市と立川市の2市に減った。その後、新憲法施行に伴い地方自治法が施行され、東京都三多摩地区には2市以外にも多くの市が誕生した。東京圏は、東京都区部を中心とする都市圏である。法令上は、東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県及び茨城県の都県域のうち、東京都区部及びこれと社会的経済的に一体である「多極分散型国土形成促進法施行令」第6条で定める広域をいう。

ここでは様々な法令が引用されているため難解であるが、まとめると次の区域となる。一般的には、東京都心から50kmから70km程度の圏内を首都圏とみなす定義、あるいは、利根川以南の島嶼部を除く南関東1都3県(東京都・埼玉県・神奈川県・千葉県)を首都圏とみなす定義が多く見られる。近年は新幹線などの交通網の発達により首都圏の範囲は広がっているととらえて、北関東や甲信越地方、静岡県、福島県浜通り・中通りなどを含める論議もある。ただし定義によっては、市街地の連続性や交通網の発達度などの要素が見落とされていたり、科学的かつ厳密なものとは言い切れない場合もある。