2011年4月30日土曜日

滋賀県では突出して盛んなスポーツはなく

2008年にバスケットボールbjリーグの滋賀レイクスターズが設立されるまでは滋賀県に本拠地を置くプロスポーツチームは存在しなかった。高校野球でも近畿勢で唯一優勝経験がない(高校野球#滋賀県の甲子園制覇参照)。一方で近年サッカーのレベルが向上しており、2005年に滋賀県立野洲高等学校が全国高等学校サッカー選手権大会で優勝を果たしている。滋賀県本拠地のサッカークラブとして、日本フットボールリーグ(JFL)に、強豪SAGAWA SHIGA FC(本拠:守山市)と、Jリーグ参入を目指すMIOびわこ草津(本拠:草津市)が存在する。他に、栗東市には日本中央競馬会の栗東トレーニングセンターが所在する。滋賀県ではびわ湖環境ビジネスメッセや滋賀ビジネスパートナーといった経済イベントが開催されている。滋賀郡は、近江国・滋賀県にあった郡。消滅直前となる2006年3月19日の時点で、以下の1町のみで構成されていた。2006年3月20日に志賀町が大津市に編入したため消滅した。

滋賀の地名の由来については諸説があり、「石の多いところ」を意味する「シカ(石処)」に由来するという説や、砂州または低湿地を意味する「スカ(砂処)」に由来するという説がある。他地域の「シガ」という地名も石の多いところを指していることが多いことから、滋賀は「石の多いところ」を意味する「シカ(石処)」に由来するという説が有力と考えられている。砂州または低湿地を意味する「スカ(砂処)」に由来するという説は、琵琶湖沿岸の低湿地を指しているとされるが、滋賀県以外の全国各地の「シガ」の地名で「スカ」から転じたと考えられるものはなく、滋賀だけが特別な例となるために考えがたいという意見もある。明治維新により幕府領・旗本領に大津県が設置された後、廃藩置県によって各藩は県に移行し、1871年11月22日、大津県(滋賀郡・蒲生郡以南)と長浜県(高島郡・神崎郡以北)に統合された。翌1872年、1月19日、大津県が滋賀県に、2月27日に長浜県が犬上県にそれぞれ改称され、9月28日に両県が合併し、近江国と領域を同じくする滋賀県が改めて成立した。

本庁舎は大津に置かれたが、西に偏在しているため、近江国最大の城下町である彦根も候補に上がった。1891年と1936年の2度、大津から彦根への本庁舎移転運動が起こったことがある。なお1876年8月21日から1881年2月7日までの4年半には、現在の福井県嶺南地方を編入し、滋賀県が若狭湾に面していた時期もあった。以下の13市3郡6町がある。(町はすべて「ちょう」と読む)江戸時代には江南(現在の湖南)・江西(現在の湖西)・江東(現在の湖東・湖北)に3区分されていたが、明治時代以降、琵琶湖を中心に湖南・湖東・湖北・湖西に4区分するのが一般的となった。この4区分以外に区分される場合もあり、例えば滋賀県では7地域に細分化している。各々に属する自治体は以下の通り。なお郡は、1878年の浅井郡の東西分割と1897年の西浅井郡の伊香郡編入以外は、大宝律令以来の郡名・区画が昭和の大合併期までほぼ踏襲されていた。京阪に近い交通の要衝であり、平野部も多いため古くから開発が進んだ。

京阪とのつながりが強く、現在は通勤圏として「滋賀府民」の多い地域となっている。甲賀は忍者と製薬、信楽焼の里として有名。滋賀県庁とは、地方公共団体である滋賀県の執行機関としての事務を行う役所である。面積の6分の1が琵琶湖で占められている滋賀県では琵琶湖との共生を目指した環境政策を推進しており、県庁部局に「琵琶湖環境部」を設置して環境保全政策に取り組んでいる。行財政改革の一環で2009年3月31日付けで各地域に設置されていた地域振興局(出先機関)を廃止し、各分野の事務所を主要地域に設置している。滋賀県立びわ湖フローティングスクールは、滋賀県在住の小学5年生などを対象にした学習船「うみのこ」を運営する県の機関。事業主体は滋賀県教育委員会。滋賀県内の全ての小学5年生が学習船「うみのこ」(湖の子)に乗船・航海し、宿泊をともなう教育を実施している。郷土への理解や対人・協調関係を養う「ふれあい体験学習」のほか、琵琶湖を教育の場所としていることから、同湖の環境を主なテーマとした「びわ湖環境学習」を行っている。

なお、複数の学校が同時に乗船・航海し、他校の児童と混合したグループ分けを行った上で体験学習を行う。このほか、「琵琶湖・淀川流域小学生交流航海」として、他府県の小学生を含めた航海を行うこともある。運営はびわ湖フローティングスクールのスタッフのほか、「湖の子」サポーターや食育「湖の子」守り隊など、市民ボランティアが組織され支援を行っている。船内の旅客施設は、主たる利用者である小学5年生を基準としたサイズで設置されている。各室定員20名の宿泊室(大部屋)、学習室、食堂(定員110名)、会議室、見学室など船内設備のほか、カッターボートを搭載。また、バリアフリー設備として車椅子用の搭乗リフターやエレベーターが設置されている。運航は琵琶湖汽船が受託している。当船は就航25年を経過したことから船舶の代替が検討され、基金が設けられているほか、ふるさと納税を活用した寄付のための条例を設けている。滋賀レイクスターズは、滋賀県を本拠地として2008年より日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)に加盟しているプロバスケットボールチームである。

運営母体は株式会社滋賀レイクスターズ。滋賀県に本拠地を置いた初めてのプロスポーツチームであり、同県では現在なお唯一のプロスポーツチームである。チームスローガンはShoot for the starsで、コンセプトは「勝利のために、湖国の星を目指し、そしてブースターのためにシュート!」である。チームカラーは琵琶湖を象徴する青(レイクス・ブルー)で、マスコットキャラクターも漫画家の長田悠幸が応募した作品で、ビワコオオナマズがモチーフの「マグニー」である。背番号は2008年8月8日生まれで、最大マグニチュード88のエネルギーを持つことから88。試合会場に現れるほか、滋賀県内の保育園、幼稚園を訪問したりもしている。アリーナDJはガンバ大阪と兼任している仙石幸一で、日程が重なった場合はガンバ大阪を優先する。この場合、西田育弘が担当する。チアダンスチームはレイクスチアリーダーズ。結成以降、地元テレビ局のバックアップ等もあって、経営収入および入場者数は安定して増加しており、リーグ加入3年目で球団経営が初の黒字化の見通しとなった。2010-2011年シーズン終了現在、協賛企業が286社とリーグ1の規模を誇る。

2011年4月29日金曜日

滋賀県は

琵琶湖を擁する日本国近畿地方北東部の内陸県。本庁舎は大津市に所在する。令制国の近江国(江州)と完全に一致する。県名は大津が属していた郡名「滋賀郡」から採用された。「滋賀」自体の語源については滋賀郡を参照。「滋賀」の発音は、共通語では「し」にアクセントを置く頭高型アクセントであるが、地元では「が」にアクセントを置く尾高型アクセントである(「滋賀県」とする場合は共通語も地元方言も同じアクセント)。「近江」が「近つ淡海」に由来し、現在も滋賀県が「湖国」と呼ばれるように、琵琶湖は県のシンボルである。産業用水、近隣府県約1,400万人の飲用水の源、観光資源としてその存在は大きく、地域性も琵琶湖を挟んで異なる(後述「#地域」参照)。琵琶湖があるために内陸県で唯一漁港を持ち、その数も20港と、海に面する5府県より多い。水運交易が盛んだった中世や近世には若狭湾と京・大坂をつなぐ中継地として、大津や堅田など内水系の重要港湾が数多く発展した。東海道・東山道(中山道)・北陸道が合流する陸上交通の要衝でもあり、「近江を制する者は天下を制す」として度々戦乱の舞台となった。

交通利便のよさは人材の流出をもたらし、戦前まで滋賀県は流入人口よりも流出人口の方が多かった。中世から近代にかけては多くの出身者が近江商人として全国各地に進出し、「琵琶湖の鮎は外に出て大きくなる」という諺まで生まれた。太平洋戦争後、高速道路の整備やトラック流通の興隆に伴って交通利便のよさが再認識され、流通拠点や工場が相次いで進出、近年はJR西日本のアーバンネットワーク拡大に伴って京阪神のベッドタウンとしても注目されるようになり、首都圏以外の地方では数少ない人口増加県へと転じた。ただし開発が進むのは京阪神に近い南部であり、以前からあった北部との経済格差が広がる事態となっている。滋賀県は近畿地方に分類され、文化的・経済的に京都・大阪との結びつきが強いが、中部地方との交流も盛んである。近畿圏整備法で定める「近畿圏」と中部圏開発整備法で定める「中部圏」の両方に含まれ、滋賀県知事は近畿ブロック知事会と中部圏知事会議の両方に出席している(福井県と三重県も同様)。

また福井県・岐阜県・三重県とともに「日本まんなか共和国」を設立し、知事サミットや文化交流事業などを行っている。愛知万博で中部8県とともに「中部千年共生村」を共同出展した。北部は近畿・中京・北陸の交点であり、工場や物流センターの設置計画も進むなど、中部圏の一角としての発展も期待されている。滋賀県はその地理的特性から、奈良・京・大坂への物資や人材の供給源および中継地、あるいは畿内と東国・北国とを結ぶ要衝として発展し、日本の中央史に大きく関わっている。白洲正子は随筆『近江山河抄』のなかで「近江は日本の楽屋裏」と述べている。国造が分立した時代には、滋賀県はヤマト王権の領土に入っていた。飛鳥時代には近江大津宮、奈良時代には紫香楽宮や保良宮が置かれた。壬申の乱や藤原仲麻呂の乱といった戦乱の舞台となることも度々あった。平安中期より佐々木氏が近江に起こった。佐々木氏は源頼朝が関東地方で勃興するとこれに積極的に加わり、近江一国の守護職を得た。

以降、六角氏や京極氏に分かれながら、佐々木一族は戦国時代に至るまで近江国を支配した。南北朝期にはばさら大名で有名な佐々木道誉(高氏)が出て京極家の勢威を伸ばした。明治維新により幕府領・旗本領に大津県が設置された後、廃藩置県によって各藩は県に移行し、1871年11月22日、大津県(滋賀郡・蒲生郡以南)と長浜県(高島郡・神崎郡以北)に統合された。翌1872年、1月19日、大津県が滋賀県に、2月27日に長浜県が犬上県にそれぞれ改称され、9月28日に両県が合併し、近江国と領域を同じくする滋賀県が改めて成立した。本庁舎は大津に置かれたが、西に偏在しているため、近江国最大の城下町である彦根も候補に上がった。1891年と1936年の2度、大津から彦根への本庁舎移転運動が起こったことがある。なお1876年8月21日から1881年2月7日までの4年半には、現在の福井県嶺南地方を編入し、滋賀県が若狭湾に面していた時期もあった。以下の13市3郡6町がある。(町はすべて「ちょう」と読む)

江戸時代には江南(現在の湖南)・江西(現在の湖西)・江東(現在の湖東・湖北)に3区分されていたが、明治時代以降、琵琶湖を中心に湖南・湖東・湖北・湖西に4区分するのが一般的となった。この4区分以外に区分される場合もあり、例えば滋賀県では7地域に細分化している。各々に属する自治体は以下の通り。なお郡は、1878年の浅井郡の東西分割と1897年の西浅井郡の伊香郡編入以外は、大宝律令以来の郡名・区画が昭和の大合併期までほぼ踏襲されていた。京阪に近い交通の要衝であり(大津市中心部と京都市中心部は10kmほどの距離で、JR西日本大津駅-京都駅間は所要9分である)、平野部も多いため古くから開発が進んだ。京阪とのつながりが強く、現在は通勤圏として「滋賀府民」の多い地域となっている。甲賀は忍者と製薬、信楽焼の里として有名。京都・大阪の文化圏に属し、滋賀県で話される方言(近江弁)も京言葉との共通点が多い。岐阜県関ケ原から滋賀県にかけては東西文化の境界線をなす(アホかタワケか、雑煮が丸餅か角餅か、など)。

湖北地方などは北陸や東海の文化との緩衝地帯でもあり、例えば中京地方のブロック紙である中日新聞は滋賀県でも配達されており、特に米原市では6割強のシェアを占める。県民性としては、『角川日本地名大辞典』では「温和で、一徹ではなく、計数に明るく利害に敏感で、蓄財に長じている。文にたけるが武はそれほどでもない。」「地味で着実、おとなしく粘り強く努力する。」としている。社寺(浄土真宗が多い)を中心とする伝統的な地縁社会であることから、保守的・閉鎖的であるとの指摘もある。祖父江孝男は、滋賀県の県民性イメージは近江商人に関するステレオタイプから生み出された部分が大きいとしている。滋賀県では1件の世界文化遺産、55件の国宝、806件の重要文化財が指定されており、国宝の指定件数は京都府・東京都・奈良県・大阪府に次ぐ5位、重要文化財の指定件数は東京都・京都府・奈良県に次ぐ4位である(2009年7月1日時点)。多くの大学が集まる京阪神に隣接するため、かつては大学の少ない県であった。

しかし県が活発に大学を誘致した結果、2009年時点で10大学3短期大学が立地している。小学校では京都府とともにランリック(ランリュック)がよく普及している。また児童の交通安全のための飛び出し坊やの設置が多く、飛び出し坊や愛好家のみうらじゅんからも注目されている。滋賀県独自の教育事業として、小学校5年生などを対象に琵琶湖上で行われる滋賀県立びわ湖フローティングスクールがある。

2011年4月28日木曜日

福井の球団創設時の運営法人であった

「スポーツコミュニティ福井」(以下「コミュニティ社」)の設立時の資本金は当初8000万円が目標だったものの、実際にはBCリーグ6球団最少額の5670万円にとどまった。またスポンサー収入も他5球団が平均5000 - 6000万円を確保しているのに対し、福井の初年度のスポンサー収入額は4020万円と著しく少額で、さらに2009年は2910万円にまで落ち込んだ。他球団では大口スポンサーを確保するなどして収支の安定化を図ったり、地元財界や自治体から金銭面や運営面で協力を得るなどといった経営努力が図られているが、福井にはそうした動きが少なく、球団の県民への浸透度の低さ、企業・行政のスポーツ文化に対する意識の未熟さなどが指摘されていた。その結果、福井が抱える2009年5月末時点の累積赤字は約5300万円にまで及び、資金繰りもままならなくなるなどし、一時は「今季の継続も困難」(元コミュニティ社社長・清水昌勝)となる状況にまで追い込まれた。このため同年6月23日、コミュニティ社は地元紙である福井新聞社に対して支援の要請を行うことを発表した。

福井新聞はニュースを伝えた記事の中で「球団発足以来、報道や協賛協力などチームへの応援を重ねてきた。シーズン途中での破たんは避けなければならず、各界各層の協力も得てこれまで以上の支援の在り方を検討したい」と記した。そして7月2日に行われた臨時株主総会と取締役会において、前球団社長の清水をはじめとする旧経営陣3名が責任を取って退任(但し、3名とも引き続き参与として経営には継続して参加する)。代わって新たな経営陣が選任され、球団社長に福井新聞社専務の吉田真士、球団代表兼専務に同社前事業局長の新谷隆美(同社より出向)、取締役に同社社長の吉田哲也、BCリーグ代表の村山哲二ら4名の計6名が就任。このうち福井新聞社からは5名が占め、同社が中心となって経営再建に乗り出すこととなった。球団社長に就任した吉田は経営継承にあたって「福井の将来を考えたことが一番の理由。あくまでも『県民球団』であり、決して福井新聞社だけで支えられるものではない。

県民にこれまで以上の関心を持ってもらいたい」と訴え、今後の経営体制について「さまざまな課題を整理した上で、経費抑制や新たなスポンサー探しなどこれから効果的な策を具体的に検討し、収支の均衡を図れるようにしていきたい」と述べた。またBCリーグからも職員が派遣され、球団運営のノウハウを伝えるなど球団とリーグとの連携を密にし、経営改善が図られることになった。しかし、同年12月末の段階で約8000万円の累積赤字を計上するなど、経営危機を完全に払拭するまでには至らず、スポンサーからは財務体質の改善を求められるなど、球団の存続を危ぶむ声もあった。このため2010年2月10日、コミュニティ社は福井新聞社本社で記者会見を行い、経営基盤の強化や健全な運営を目的に、新会社に事業を譲渡する方針を明らかにした。

吉田は席上、新会社は福井新聞社の全額出資によって設立し、選手・コーチとの契約や後援会、スポンサー企業との関係をそのまま継承した上でコミュニティ社を解散し、新会社の経営を安定化させた上で県内から広く他の出資者を募っていく方針を示した上で「不健全な経営状態では銀行からの借り入れや増資も受けられず、球団の存続もままならない」と、あくまでも球団存続のための事業譲渡である旨を説明し、理解を求めた。そして2月25日に福井市で行われたコミュニティ社の株主総会で、球団運営を新会社「福井県民球団」に全面譲渡し、コミュニティ社を解散する方針が全会一致で承認され、新社長には福井新聞社常務の伊東博之が、コミュニティ社の清算人には前社長の吉田がそれぞれ就任。また取締役には引き続き福井新聞社の吉田哲也社長、BCリーグの村山代表が就任した。県民球団社は福井新聞社が300万円を出資し、今後県内を中心に幅広く出資者を募ることになった。

伊東は新会社の商号について「県民に最も分かりやすく、まさに球団が目指すところ」と説明し「選手強化はもちろん、県民により身近に親しんでもらえるチームづくりを行いたい。できるだけ早い段階で、経営の黒字化を目指したい」と運営方針を強調。観客動員も前年約38,000人(1試合平均1,050人)から40,000人超(同1,200人)まで引き上げる目標も示された。私設応援団「福井牙闘会(がとうかい)」のリード(笛、太鼓、トランペット)により、メガホンと声を使っての応援が主となる。ナイターでの主催試合の場合は21時以降の応援は鳴り物の使用を禁止し、太鼓、トランペット、メガホンの代わりに手拍子に変更となる。(ビジターの場合も基本的には21時を原則として鳴り物を禁止とするが、小松末広野球場のように球場側独自の応援ルールがある場合はそれに従う)主催試合の場合7回裏攻撃前に球団イメージソングであるナナ・イロの「YELL(エール)」に乗せて黄色いジェット風船を飛ばす。

(2008年後期リーグ戦より)チャンステーマは3種類あり、一つはJITTERIN'JINN(Whiteberry)の『夏祭り』を使用したチャンステーマ (東京ヤクルトスワローズの応援団チャンステーマでも夏祭りが以前より使われており、その応援を流用している)もう一つは2010年より使用されている「全開福井」(社会人野球の本田技研工業の共通応援歌「全開HONDA」の流用)。さらに、2011年より新チャンステーマとして、福井市民の歌「わたしのまちときめきのまち」のサビ部分を流用したものが使用されている。選手別応援歌が作られているのは一部の選手のみだったが、2010年より野手全員に応援歌が作られた。この応援歌はほとんどが過去に埼玉西武ライオンズで使っていた曲の流用である。(エレファンツ応援団内にも旧ライオンズ応援団員が何人か在籍している)最終回の攻撃には「LOVESONG探して」(ファミコン版ドラゴンクエストIIのふっかつのじゅもん入力画面が原曲)の替え歌を合唱する。

 これは千葉ロッテマリーンズの応援「俺たちの誇り」を流用したものである。得点時、勝利時には「イッチョライ節」が演奏される。

2011年4月27日水曜日

1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌によって

「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」のから「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名される。(改名の経緯に関しては諸説有り。)明治中期に松平康荘により、城内に農業試験場(松平農試場)が設立、運営された。現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されている。石垣の一部崩壊に関して、これら施設の重量のせいではないか、と議論されたことがある。本丸御殿の一部は(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築されている。また、天守台のそばには「福の井」という井戸が残っており、この井戸が「福井」の語源由来となったという説がある。この井戸には城外へ通じる抜け道があるとの言い伝えがあり、過去に調査がなされた。福井市足羽5丁目の足羽山麓にある高照山瑞源寺(臨済宗妙心寺派)は、第5代、第7代藩主昌親(吉品)とその母親の高照院の墓所である。

 寺伝に従い平成3年に調査された結果、この寺の本堂と書院が福井城本丸御殿の移築遺構であることが判明した。幕末の万延元年(1860年)「御本丸の御小座敷を以って本堂を再建する」と寺伝にある通り、後世に増改築されてはいるが、『福井城本丸御殿の図』(松平文庫蔵)にみられる天保2年(1831年)に14代斉承が造営した御小座敷(おこざしき)と呼ばれる建物と一致した。 また併設されている書院は、同年同時に作られた、斉承の正妻浅姫(11代将軍家斉の娘)のための御殿「大奥御座之間」であることも建材の墨書などから確認された。1910年(明治43年)8月に福井城址にあった農業試験場(松平農試場)で撲殺されたイヌ科動物が日本最後のニホンオオカミであった」との論文が発表された。だが、この個体は標本が現存していない(福井空襲により焼失。写真のみ現存。)ため、最後の例と認定するには学術的には不確実である。福井弁は、福井県嶺北で話される日本語の方言で、北陸方言の一種である。

同じ福井県内の嶺南地方(敦賀市と旧若狭国)で話される方言(嶺南方言)は福井弁とは大きく異なり、近畿方言に分類される。福井弁には北陸方言特有の間投イントネーションがある。例としては「〜のお」、「〜ざあ」、「〜わあ」、「〜しい」などである。単音節の単語を発音する時は、「目え」「手え」のように、長く伸ばす。これは北陸や関西およびその周辺で見られる特徴である。また、「が」は鼻濁音になることが多い。古い日本語の発音であるシェ・ジェが老年層の福井弁では現在も残っている。「先生」を「しぇんしぇえ」、「千円札」を「しぇんえんさつ」、「全部」を「じぇんぶ」、「全然」を「じぇんじぇん」など。ただし、「臭い→くせ」「遅い→おせ」など、「〜さい・〜ざい」「〜そい・〜ぞい」が変化した「せ」「ぜ」は「しぇ」「じぇ」とは発音されない。奥越では、1円を「いっちぇん」、50円を「ごっじぇん」、100円を「ひゃっけん」と発音することもある。福井市・旧武生市などの嶺北地方中心部は、アクセントで語の区別を行わない無アクセント地帯である(範囲は、さらに広く坂井市・あわら市を含むとも言われる)。

無アクセントは、「箸・橋・端」などの同音異義語を全て同じ高低で発音するもので、北陸地方のなかでは異質なアクセントである。無アクセント地帯を取り囲むようにして、旧三国町などには「三国式アクセント」と呼ばれるアクセントがある。三国式アクセントは、音の下がり目の有無だけを区別するアクセントであり、拍数に関わらずアクセントの型(パターン)が2種類ある二型アクセントである。二拍名詞でいうと、「風」「肩」「雨」などの一・四・五類は下がり目を持ち、助詞なしでは「かぜ」、助詞付きでは「かぜが」(または「かぜが」)になる。また、「川」「花」などの二・三類は下がり目がなく、助詞なしでは「かわ」(または「かわ」)、助詞付きでは「かわが」(または「かわが」「かわが」)になる。ただし、三国式アクセントは型の区別が曖昧で、発音が安定せず揺れのあるアクセントである。福井市内でも三国式アクセントが報告されているが、一方で、福井市・三国町ともに被調査者全員が無アクセントと判定されたこともある。

また旧今庄町付近には、また別体系のアクセントがある。二拍名詞でいうと一・二・三類(風・川・花など)が頭高型(かぜが)、四・五類(肩・雨など)が平板型(あめが)というアクセントである。大野市・勝山市には明瞭な垂井式アクセントが分布し、大野市東部の旧和泉村地区は東京式アクセントである。若者の間では、福井弁よりも共通語を使う傾向が強まっている。加藤和夫らの調査によると、「のくてー(=あほ)」や「だんね(=大丈夫)」や「むだかる(=絡まる)」など、関西弁や共通語で言い換えができる言葉は世代が低くなるにつれて使用が減っており、石川県や富山県よりも共通語化が進んでいるという。一方、しつけで多用される「おちょきん」や、共通語で言い換えられない「かぜねつ」などは根強く使われている。加藤は、福井弁の平板なアクセントは他県の出身者から「訛っている」と指摘されやすく、そのことが方言コンプレックスにつながり、共通語化の一因になっていると分析している。

福井ミラクルエレファンツは、プロ野球独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグに所属する福井県のプロ野球チーム。2008年加盟。球団名の由来、地図で見た福井県の形は象の横顔に似ていること、日本で初めて象が渡来したのが福井県であることなどから、「象」(エレファント)を採用。また、「奇跡」を呼び込むチームとなることを願い、「ミラクル」を冠した。福井県内の野球愛好者を通じて藤田平に監督の選考、紹介を依頼したところ「野球界の底辺を広げるベースボール・チャレンジ・リーグのような活動は、本来我々プロ野球OBが行なうべきもので、大いに協力したい」と自らが監督就任を快諾した。チームカラーは黄色(山吹色)、サブカラーは濃紺。福井大学美術教育サブコース西畑敏秀教育地域科学部准教授の協力を得て、ロゴマーク・マスコットキャラクターなどのデザインが決定された。本拠地について。ベースボール・チャレンジ・リーグでは地域密着を目指し、特に本拠地を定めていないが、主にホーム主催球場は福井フェニックススタジアム、福井県営球場、敦賀市総合運動公園野球場、三国運動公園野球場、美浜町民野球場などを使用する。

福井は球団創設以来、スポンサー収入が予測を大幅に下回った上、チームの成績不振もあって入場料収入やファンクラブの会員数も伸び悩むなどし、2009年春になって経営が逼迫する事態に陥った。BCリーグの加盟球団で経営難が公式に表面化したのは初めてのことである。

2011年4月26日火曜日

福井エフエム放送株式会社は

福井県を主な放送対象地域とする民間放送ラジオ局である。通称はFM福井。JFN系列。とりわけ福井新聞・福井テレビとの関係が強い。開局当初は、福井テレビから社員が出向で派遣されていた。『FM福井ニュース』で福井新聞ニュースを配信する回数は11:55と17:55の1日2回。また、FM福井ホームページでは福井新聞ニュースのオンデマンド配信を実施している。『FM福井ニュース』では、福井新聞のほかに読売新聞・朝日新聞・中日新聞のニュースを配信している。また、土曜・日曜は『JFNニュース』のみを放送している。北陸地方で一番早く開局した民間のFMラジオ放送局であり、平日の自社制作番組の比率が高い。特に、金曜日においては、12時間近くも自社制作番組が連続して放送されている。2009年4月の番組改編で日中の自社制作番組が増えたが、『OH! HAPPY MORNING』(2009年4月から2011年3月までは非ネット)などのJFNC制作番組が打ち切りになったり、非ネットの番組(『デイリーフライヤー』など)があるなど独自編成色も強い。

石川県・滋賀県・京都府の一部でも受信可能。FM福井ではポッドキャスト配信の実施を早くから導入するだけでなく、様々なサイトを展開するなどのインターネットを積極的に活用している。2010年4月からはTwitterも始めている。CMにおいては、ACジャパンのCMが『FM福井ニュース』でスポンサーが付かない場合フィラーとして多く放送されている。また、様々なアーティストが「いい音楽に出会える場所、それがFM福井」とナレーションするCMも放送される(最近では西野カナ、AKB48の高橋みなみ、KAT-TUNの亀梨和也などのバージョンが放送されている)。日曜日に放送されている『福井市政ガイド』では、ダ・カーポが歌う「わたしのまち ときめきのまち」がBGMとして流れている。福井県立歴史博物館は、福井県福井市大宮にある博物館。1984年(昭和59年)に福井県立博物館として開館。当初は総合博物館として自然、歴史、民俗、産業に関する展示などを行なっていたが、自然分野に関する展示は2000年(平成12年)に開館した福井県立恐竜博物館に移管している。

2002年4月から休館して展示内容の全てを入れ替え、2003年(平成15年)3月12日に改めて開館した。『ふくいのモノとモノづくり』をテーマにした「歴史ゾーン」や「トピックゾーン」による展示のほか、博物館の収蔵庫をイメージした展示を行ない資料の整理や調査などの様子を見ることが出来る「オープン収蔵庫」や、映像資料などが見られる情報ライブラリーを備える。福井県立恐竜博物館は、福井県勝山市村岡町にある恐竜を主たるテーマとした自然史博物館である。展示内容の量・質共に極めて高く、日本における恐竜博物館の代表といっても過言ではない。かつて勝山市にある中生代の地層から恐竜の全身骨格が発掘されたことがきっかけとなり、この地に恐竜博物館を建設しようという気運が高まった。限られた予算の地方都市にあって、「恐竜」専門の博物館が必要なのかどうかと県議会では激論がかわされたすえ、当地に博物館がつくられることが決定された。2000年夏に長尾山総合公園内で開催された恐竜エキスポふくい2000のメイン会場として、同年7月に開館した。

敷地面積は約30,000m²で日本最大級。建築設計は黒川紀章。広大な無柱空間には、所狭しと恐竜骨格や化石・標本、ジオラマ、復元模型などが展示されており、恐竜をはじめとする古生物の世界を堪能することができる。人々を魅了する壮大な建築様式や、化石発掘調査の多大なる成果ゆえんに、世界でも数少ない恐竜博物館を代表してカナダにあるロイヤル・ティレル古生物学博物館、中国にある自貢恐竜博物館と並んで、世界三大恐竜博物館と称される。現在でも毎年化石の発掘作業とクリーニング作業が継続して行われている。また、恐竜出前授業など学校教育活動をしており、教育に対しても非常に熱心な博物館といえる。2000年11月23日にはカナダのロイヤル・ティレル古生物学博物館と、2004年3月12日には中華人民共和国の浙江自然博物館と、2010年3月17日にはアメリカ合衆国のカーネギー自然史博物館と姉妹館提携を結んだ。2007年4月26日、同県勝山市長尾山総合公園内の「どきどき恐竜発掘ランド」に運び込まれていた発掘体験用の岩石の中から恐竜の皮膚の痕の化石が発見された。

これは日本国内では初めてのことで、世界でも30例ほどしか知られてない。同年10月、同園の園長から県立恐竜博物館に、化石のようなものが見つかったと連絡があり、同博物館が調査していた。この化石は約1億2千万年前(白亜紀)の手取層群と呼ばれる地層から採取されたもので、幅約23cm、長さ約24cm、厚さ約7cmの細粒砂岩の表面の6割ほどに、細かな多角形や円形などが多数集まった模様がみられる。湿った地面に恐竜が触れた際についた痕が型となって固まり、化石となって残ったと考えられている。エドモントサウルスやパラサウロロフスなど、ハドロサウルス科の植物食恐竜の皮膚に類似しているが、特定はされていない。福井城は、福井県福井市に一部が現存する城である。形式は平城。本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされる。江戸時代には福井藩主越前松平家の居城、城下町として栄える。織田信長配下の軍勢によって朝倉氏が滅亡した後、明智光秀が北ノ庄城に入城し戦後処理にあたったと記録されるが、当時この地に城が存在したかは判然としない。

存在したとしても、簡易な前線基地か砦程度の物であったと推定されている。後、柴田氏が天正3年(1575年)に築城した「柴田氏北ノ庄城」と、後、その跡地に結城氏によって慶長6年(1601年)に築城または改築を受けた「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とがあるため、北ノ庄城は大きく2期に分けられている。現在見られる福井城の遺構は第2期のものである。柴田氏北ノ庄城と結城氏北ノ庄城との関係について、柴田氏のものを結城氏が改築したもの、柴田氏のものの跡に結城氏によってまったく別の城として築かれたものという解釈がある。現状では前者の調査がほとんど進んでいないため不明である。そのため前者と後者を区別しないこともある。1600年に家康の次男である結城秀康が68万石で北ノ庄に入封されると、翌1601年より天下普請による築城を開始する。1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する。

完成した城は2km四方に及んだ。5重の水堀が囲む本丸には4重5階の天守が建てられていたが1669年に焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。幕府から再建の許可が下りなかったとの説あり。

2011年4月25日月曜日

公共事業の抜本的見直しに関する三党合意による公共事業の見直し

福井空港拡張整備計画は地元住民の意見が醸成されていないとの理由で唯一「保留」扱いとされた。翌2001年には全国的な公共事業の見直しの気運もあり、当時の福井県知事栗田幸雄が福井空港拡張整備計画の凍結を表明。事実上、ジェット化の構想は白紙となった。2003年6月27日、県議会で福井県知事の西川一誠が福井空港拡張整備計画の断念を表明。「北陸新幹線・小松空港重視」に政策を転換し、現滑走路の利用を軸に有効活用を模索することになった。2006年9月30日、国土交通省大阪航空局福井空港出張所と気象庁東京航空地方気象台福井空港出張所が閉鎖。同年10月、空港管制業務が中部国際空港からの遠隔管制 (RAG) に移行した。英『インデペンデント』紙が2009年6月18日に発表した「世界で最もおかしい空港名」(World's funniest airport names) の「最も野蛮な名前」(The rudest) 部門で、福井空港は第1位に選ばれている。その理由としては、2008年に大リーグに移籍した福留孝介の名前が「FUCK YOU DO ME」と聞こえるとして論議が巻き起こったのと同様に、英語圏の人々にとって「Fukui」という単語も際どい発音であると見られている。

なお、「Fukui」に近い発音のものでは「Fak Fak空港」(インドネシア)も選ばれている。福井鉄道株式会社は、福井県でバス、鉄道などを運営している企業である。商号は福井鉄道株式会社としているが、総売上の75.1%を自動車運送事業が占め、鉄軌道事業の割合は16.7%に過ぎない。鉄軌道事業は1963年以降赤字が続き、バス事業や不動産事業などの利益で補填してきたが、支えきれなくなってきている。2006年度決算で累積損失約22億円、借入金約30億7000万円。2007年8月には、このままでは鉄軌道部門の存続が難しいとして、沿線各自治体に支援を要請した。福井県や親会社の名古屋鉄道(名鉄)、福井銀行など取引金融機関の支援協議が難航するなどの紆余曲折を経て、2008年12月29日、名鉄が増資(1株を10億円で引き受け)した上で、増資された1株を含む保有全株を地元自治体の出資する第三セクターや地元支援団体へ1株1円で全面譲渡し、経営から撤退した。これを受け、沿線3市は「法定協議会」を設置し、県および支援団体の支援により存続させることが決まった。

2008年11月25日には、臨時株主総会で、福井銀行出身者(元福井鉄道顧問)が新社長に選任された。2009年2月24日に国土交通省に申請していた「鉄道事業再構築実施計画」が地域公共交通活性化法に基づき全国初の認定を受け、10年間で10億の国庫補助が設備更新に充てられるほか、固定資産税の優遇措置を受けられることとなった。一般路線バス、高速路線バスおよび貸切バス事業を運営。福鉄バス及び福鉄観光の通称も用いられている。一般路線は越前市、鯖江市など福井県嶺北南部、および敦賀市など同嶺南東部を中心に運行しているが、鉄道事業の福武線と並行して福井市中心部へ乗り入れているほか、大飯郡おおい町にも路線がある。また、当該地域の一部自治体よりコミュニティバスの運行を受託している。鉄軌道事業では、福武電気鉄道により開業した越前武生 - 福井市内間の福武線のほか、鯖浦電気鉄道により開業した水落 - 織田間の鯖浦線(せいほせん)や、武岡軽便鉄道(後に武岡鉄道、南越鉄道と改称し福武電気鉄道に合併)により開業した社武生 - 粟田部 - 戸ノ口間の南越線の2路線を擁していたが、1973年に鯖浦線が廃止された後、1981年に南越線が廃止されて以降は福武線だけを営業路線としている。

福井港は、福井県北部の坂井市、九頭竜川河口部に位置する港湾。福井県が管理する地方港湾である。港則法上の特定港に指定されている。三国港地区と本港地区からなる。もともと九頭竜川河口の三国港がこの地区の中心港であった。後に日本海側の三里浜砂丘に大型港湾を整備し、あわせて福井港と称するようになった。2009年には、大型港湾地区を本港地区と称している。本港地区では年間180万トン程度の貨物を扱う。古くから三津七湊の1つでもあって日本を回航する北前船、及び福井城下はじめ九頭竜川水系の水運拠点として繁栄した三国港(みくにこう)(別名:三国湊(みくにみなと)、坂井港)がその前身。港内には越前がにとアマエビの水揚げで有名な魚市場(坂井市三国町宿)がある。旧来の港である九頭竜川右岸地区は、食品流通業界や市場向かいにあるえちぜん鉄道三国芦原線の終着駅名として旧称の三国港を用いており、一般的にも工業地区と区別する意味を含め三国港と呼ばれている。福井港の本港を中心とする地域には、テクノポートふくいという大規模な工業団地が建設されている。

福井新聞は、福井県で発行している県域新聞。株式会社福井新聞社が発行する朝刊専売紙である。発行部数は210,096部で、普及率は78%と高率。創刊。1940年から1942年にかけて戦時報道統制により、県下すべての新聞が統廃合され「福井新聞」一紙体制となる。福井市大和田町(福井放送の斜向かい)に新社屋を完成させた。福井市春山の旧社屋を「福井新聞 さくら通りビル」としてリニューアルオープン。福井CSKなどが入居。当時社長であった吉田耿介が急逝。後任に実弟の吉田哲也が社長就任。はじめに嶺南版を印刷し、嶺北版に差し替えた後に再び印刷を行う。ちなみに、その際に他の紙面についても事件事故の発生や進展で差し替えられることがある。NHKの地上波テレビ、ラジオはNHK福井放送局の番組編成。NHK BSの再編により2011年4月1日から番組表の構成が変わっている。福井文化テレビジョンは福井県を放送対象地域とする民放テレビ第3局として開局準備を進めていた放送局(放送会社)である。

福井県への民放テレビ局第3局用の周波数が割り当てられた際に、12件の申請があったが、1998年11月までにすべての免許申請が取り下げられ、1999年1月18日付にて、第3局用の周波数の割り当てそのものが取り消された。なお、送信所は福井市足羽山、周波数は(アナログ)UHF23chを予定していた(この周波数は現在、石川県の北陸朝日放送親局デジタル放送用として割り当てられている)。開局断念の理由として、ネットワークサービス福井(現・福井ケーブルテレビ、1988年10月開始)、嶺南ケーブルネットワーク(1989年11月開始)など、福井県内に相次いでケーブルテレビ局が開局したことや、(福井県に単独の系列局を持っていなかった)TBS・テレビ朝日両局が経費の関係上、系列局開局を拒否したことなどが挙げられている。特に当時のTBSの社長磯崎洋三が、福井県内の新局設置を断念すると明言していた。なお、福井県内のケーブルテレビ局では、TBS系列が嶺北で北陸放送(福井市に支局あり。

ただし、南越前町は除く)、嶺南で毎日放送(南越前町を含む)、大野市東部(旧・和泉村)でCBCテレビが放送(再送信)されている。また、テレビ朝日系列も嶺北では北陸朝日放送、嶺南ではABCテレビ、大野市東部(旧・和泉村)では名古屋テレビ放送(メ~テレ)が放送(再送信)されている。また、中日新聞福井版のテレビ欄などにも、系列局がないTBS系列のCBCや毎日新聞福井版のテレビ欄にもMBSの広告も現在も掲載され、現在に至っている。なお、福井県におけるJNNのニュース取材担当は、現在は嶺北が北陸放送、嶺南が毎日放送が担っている。

2011年4月24日日曜日

北北西-南南東方向の左横ズレで

従来から把握されていた断層の活動ではなく、200m以上の厚い堆積層に埋もれて地表に現れていない活断層が活動した。当時、地表には断続的に福井県坂井郡芦原町北部から、金津町、坂井町、丸岡町、松岡町を通り福井市南東部付近まで続く総延長約25kmの地割れが生じ、のちに福井地震断層と命名された。後年の調査により福井平野東縁断層帯の西部の活動が関与している事が判明している。上下方向の移動量は、1000年で0.1-0.2m程度と推定されているが、活動間隔は不明である。発生当時戦後最多となる死者を出し、大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)などと並ぶ、日本の災害史上最悪クラスの震災となった。2011年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ戦後3番目の規模の震災である。死者のほとんどが、当時あわせて人口20万余りにすぎなかった福井市・坂井郡(現坂井市)に集中しており、その被害率(死者は人口の1%超)は甚大なものであった。

福井平野では、全壊率が60%を超えるなど被害は甚大だった。九頭竜川の堆積物により福井平野の地盤が弱いことと、福井市中心部では人口が密集しており、戦後復興期、建物はバラックが多く、不安定な構造だったためにかなりの建物が倒壊している。震源地直近の丸岡城(丸岡町)も倒壊した。大和百貨店福井店も1階が潰れて全壊する被害を受け、福井地震の象徴として有名になったが、一方で隣接していた福井銀行は全く被害を受けなかった。地中の基礎となる鉄骨の差が、両者の被害に対照的な違いを生んだとも言える。福井銀行は地下10mまで90cm間隔で500本の杭をびっしりと打ってあった。頭取が元技術者であり強固に建てさせていたという。発生時刻が16時過ぎで、夕食の支度をしている家庭が多かったため、福井市中心部では、24件の火災が発生した。地震のため、道路が通行不能となったり、水道が破損したことにより、消火に時間を要したため被害が拡大した。

農業地区でもほぼ全ての家屋が倒壊したものの、住民が屋外で農作業をしていたためか死者は少なかった。この地震による混乱に対処するため、福井市で戦後初の公安条例である「災害時公安維持に関する条例」が制定された。福井地震を契機に、気象庁は震度階級に「震度7(激震)」を新たに設定した。地震から50周年となる1998年6月26日、27日、28日の3日間にわたり、福井市で市主催の世界震災都市会議が開かれ、福井地震の教訓を元に各都市が防災について話し合った。建築基準法に地域別の設計震度を導入。1945年の福井大空襲、1948年の福井地震、九頭竜川堤防決壊と、短い期間に3度も福井市は壊滅的な被害を受けてその度に復興を遂げてきた。このことから、福井市は「不死鳥の町」を合言葉にしている。『福井青春物語』は、森川陽一郎監督による日本映画。2005年5月1日映画祭公開、同年10月22日ロードショー公開。2007年11月14日に著作権フリー宣言された。ご当地映画。

全キャスト、全スタッフ、全ロケ地が福井県内という福井尽くしの青春映画。登場人物の全員がコテコテの福井弁を話す為、共通語の字幕が付いている。福井を代表する食べ物のいくつかが登場するが、女子高生が水ようかんを食べながら町を歩いているシーンなど、明らかに大げさな表現もある。福井に住む津田寛治は映画監督を夢見て、友人の小野寺昭憲、穴田行央と共に、自主製作映画を撮っていた。 ある日、津田に転機が訪れる。同じ福井出身で有名俳優の山本ヒロシが津田の映画に出演してくれることが決まったのだ。友人は皆協力的で、は音楽を、服屋オーナーの辻本は衣装を提供すると言ってくれている。しかし津田は、なかなか脚本が書けない。やがて福井で本当にいい映画が撮れるのかという疑問を抱き始める。そんなとき、津田は祖父に怪しげな呪文をかけられ、タイムスリップする。──高校時代、人生の分岐点が訪れる。彼女だった和歌子は女優になるために上京したが、津田は悩んだ挙句、小野寺と穴田と共に福井に残って映画を続けることを決めていた。

タイムスリップによって人生の分岐点を目の当たりにした津田は、人生をやり直したいという願望から、和歌子と共に上京する道を選ぶ。 上京から数年が経ったが、津田の映画は成功していなかった。山本ヒロシを主演にした映画の企画書を持って山本の事務所を訪れたが、山本に会うことはできなかった。 その頃、福井に残っていた小野寺と穴田の映画に、山本が出演することが決まっていた。津田は福井に帰り、自分の企画を小野寺たちに提案するが、かつての親友たちとは確執が生まれていた。──ここで津田は目が覚めた。祖父に呪文をかけられた時に眠っていて、タイムスリップは夢の中の出来事だった。すぐに津田は脚本を書き始めた。 台詞を福井弁にして完成した脚本を見た山本ヒロシは驚いた。ある日の夜、福井駅前。津田の映画の撮影現場に、山本の姿があり、多くのエキストラが集まっていた。有名俳優の演技に熱狂する人々。歓声はいつまでも続いた。常備消防の広域化を目的に、福井市、足羽郡美山町及び丹生郡越廼村・清水町の1市2町1村で、一部事務組合の福井地区消防組合を設立。

福井市消防本部は組合消防本部に移行。南消防署を新設、従来の消防署を中消防署に改称。中消防署併設であった消防本部を同署隣接地に移転。東消防署を新設。臨海消防署を新設し、現在の4消防署体制となる。東消防署隣接地に福井市総合防災センター完成、消防本部を同所に移転。美山町・越廼村・清水町の福井市編入に伴い、福井地区消防組合を編入前日限りで解散し、福井市は直轄する消防組織として福井市消防局を設置。管轄区域は旧組合の区域と同一であり、市は内部組織及び資産をそのまま継承した。福井空港は、福井県坂井市春江町江留中に位置する地方管理空港である。定期便の発着はないが、自家用プロペラ機、グライダーなどの発着が行われている。年間着陸回数は5,000回程度。福井県警察のヘリコプター「くずりゅう」、県の防災ヘリ「Blue Arrow」の基地にもなっている。1964年に工事が開始され、1966年開港した。全日本空輸がフォッカー F27を投入(1972年4月1日からはYS-11)し、東京国際空港(羽田)線を1日1~2便就航させた。

しかし、1973年に近隣の小松空港がジェット化された影響で乗客数が減少。滑走路が短く機体を大型化できない福井空港の発着便は採算が悪化し、1974年12月1日からは名古屋乗継となり、1976年3月限りで定期航路が廃止された。これに対し、1985年、福井県が滑走路の延長を2,000 mに拡張する計画を決定。調査が行われるものの、地元住民からの強硬な反対運動に遭う。1986年の第5次空港整備5箇年計画に福井空港が組み入れられ、滑走路延長へ向けた動きもあったが、依然住民の反対は根強く、具体的な取り組みができないまま計画は事実上放置された。一方で小松空港へは空港連絡バスの整備が行われ、アクセス改善が進んだ。

2011年4月23日土曜日

編入区域の地名は

原則として従来の大字名に「町」を付した名称となった。例外として「丁目」の区域は従来通りの名称、旧字体漢字を用いている大字は新字体の町名に変更、従来の福井市域にある町名と重複する大字には旧町名・地区名または方角を冠した町名となっている。なお、美山町役場(現・美山総合支所)所在地の同町朝谷島では、地名に「美山」の文字を残す地元合意が行なわれた結果、福井市美山町に変更となった。旧町村議会の議員は合併時に失職。市議会では従来からの議員任期と同じ2007年5月まで定数3増、編入した各地区を選挙区とし、2006年3月5日にそれぞれ1名を選出する増員選挙を実施(市全域において任期満了の迫る市長の選挙、及び合併前の市域において欠員のあった市議会議員の補欠選挙も同日実施)。次期選挙(2007年4月22日実施)で議員定数を合併前の36に戻し、市全域を一選挙区とした。郊外立地の商業施設が目立つが、1977年11月市街地北部に開業した施設、ショッピングタウンピアは大手スーパーマーケットジャスコと、70を超える地元専門店が同居する福井方式と呼ばれ、その後の全国各地の大型商業施設設立に影響を与えた。

なお同施設は近隣に同種の施設が誕生するなどして業績が悪化、2003年5月に閉鎖となっている。百貨店は駅前の西武福井店(旧だるまや西武)のみである。福井市には市職員だけで結成した和太鼓団体『不死鳥太鼓』が存在している。本格的に太鼓チーム化されたのは、地元の和太鼓奏者である高山正行を指導者に招いてからであり、以降、「福井フェニックスまつり」「100万人のためのマーチング」など活動の場が大いに広がった。2003年、市がごみ分別周知のため制作し福井ケーブルテレビで放送された啓発ビデオの主人公、リサイクル戦隊ワケルンジャーがローカルヒーローとして地域のみならず全国報道に採り上げられるなど大きな反響を呼んだ。福井市民の歌はダ・カーポの歌う「わたしのまちときめきのまち」。市政100周年を記念して1989年に制作された。毎週日曜にFM福井で放送される「福井市政ガイド」ではBGMとして流れる。ゴミ収集車もこの音楽を流しながら現れるので市民にとってはメロディーだけは馴染み深い。

また、17時の時報ミュージックサイレンとしての使用されている。千葉県松戸市の生活ゴミを委託で処分していた。現在も委託を受けているかどうかは不明。福井市の市外局番は0776となっており、市内及びあわら市、坂井市、吉田郡永平寺町との通話には市外局番不要、かつ市内通話料金適用。また美山地区の市外局番は福井市への編入時点では07797であったが、2007年4月1日に市内他地区などが使用してきた0776へ統合され、それまで市内通話料金であった大野市・勝山市(市外局番0779)との通話は隣接区域通話料金適用となった。現時点では市内局番の3桁化の予定はないが、NTTによれば、3桁化された場合は(077)6xx-ooooと、一桁繰り上がる形となる。市外局番077は滋賀県の大津市、草津市等の京都近郊で使用されているが、MAが異なるため、3桁化されても滋賀県の077エリアとの間での通話はこれまで通り077からダイヤルすることとなる。隣の丹生郡は基本的に0778だったが、後に福井市と合併する清水町と越廼村だけはなぜか福井市と同じ0776だった。

福井藩は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。 越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の松平(結城)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称する事がある。翌年の寛永元年(1624年)4月、越後高田藩で別家25万9千石を与えられていた忠直弟(秀康の次男)の松平忠昌が50万石で福井藩の主な家臣(幕府に選ばれた百余名を主とする)、藩領を継承する。忠直の嫡男松平光長には越後高田26万石が与えられ、高田藩を立藩した。「7月の忠昌入部ののち、居城周辺の街・北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められる。またこのとき、越前国は複数の藩に分割されることになる。その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、貞享3年(1686年)第6代藩主綱昌は発狂を理由に強制隠居処分され、前藩主昌親が領地半減の上で再襲(松平吉品)した。

吉品が就封の際、領地宛行状が城地名の福井侍従となり、松平忠昌が大坂の役で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられた。また、この時藩邸の格式も下がり、江戸城の詰間が将軍家の親族が詰める大廊下から、外様の国持大名と同じ大広間へ異動した。ただしこの間もこれ以降も歴代藩主は当代将軍の偏諱の一字を拝領する「特別な家」であり続けた。享保6年(1721年)には支藩松岡藩(福井県吉田郡永平寺町)の再併合により30万石に復し、文政2年(1819年)にさらに2万石を加増されるなど、徐々に家格は回復した。内政では領地の激減や複数回の天災に見舞われたことなどにより、藩財政を大いに逼迫させ、度重なる一揆に見舞われて困難を極めた。田安徳川家から養子に入った幕末の藩主慶永(春嶽)は、橋本左内らを登用し、また熊本藩から横井小楠を招聘して藩政改革をおこなった。安政の大獄により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与している。

福井藩領は明治4年(1871年)廃藩置県により福井県ついで足羽県となり、さらに敦賀県を経て石川県に併合されるがのち旧越前および若狭が福井県として分立した際にその中心部となった。福井地震は、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震ともいう。震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震。規模はM7.1。

2011年4月22日金曜日

福井県は

日本海や若狭湾に面する、日本の県の一つである。県庁所在地は福井市。山中峠・木ノ芽峠・栃ノ木峠を通る稜線を境にして、北側の嶺北(越前地方)と、南側の嶺南(若狭地方および敦賀市)より構成される。また日本海及び若狭湾の福井県海域には周囲0.1km以上の島が58あるが全て無人島で、常神半島沖の岩礁である千島で約3kmの距離しか離れていない。越前の緑豊かな山々と、若狭の清らかな水の流れに代表されるように、自然が美しい場所であり、それを代表する語に越山若水(えつざんじゃくすい)がある。地理上は北陸地方または中部地方と分類されるが、一部の行政管轄区分において近畿地方とされる場合もある。7世紀後半頃には律令制の導入に伴い「若狭国」が成立したと見られ、7世紀末には「越前国」が成立したと考えられる。若狭国は若狭湾で精製した塩を調(地方特産物を納税)として都に納めていた。現在も製塩遺跡が残る。また調とは別に贄(にえ)と呼ばれる海産物を直接天皇家に貢いだことが平城京の木簡や延喜式から分かっている。

これにより若狭国は万葉集にでてくる「御食国」の一つと推定されている。749年、東大寺が越前国の豪族から土地の寄進を受け、また墾田を買収して、福井平野に多くの荘園を獲得する。この頃には条里制が布かれる。現在でも福井平野には条里遺構が存在する。8世紀になると渤海との交流が盛んになり、若狭国や越前国は渤海使の来航や遣渤海使の派遣の拠点となる。8世紀後半には交易が中心になる。764年、クーデターに失敗した恵美押勝(藤原仲麻呂)が越前国に逃れようとするも愛発関が閉じられたため失敗する(恵美押勝の乱)。1336年、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が金ケ崎城(敦賀)に入るが、越前国守護斯波高経の軍勢により翌年落城する。義貞は脱出するも、1338年に越前国藤島燈明寺畷(福井市新田塚)にて戦死する。この後も越前国内は戦乱が続き1341年、北朝方が平定する。この後、主に斯波氏が越前国の守護となる。しかし、実質的に越前国を統治していたのは守護代甲斐氏であった。

1623年、秀康の長男松平忠直は狼藉を理由に豊後国荻原に配流された。かわりに秀康次男の越後高田藩主松平忠昌が幕命により相続し、忠直の長男松平光長には越後国高田(上越市)に新たに領地が与えられた。このとき北ノ庄藩は規模を縮小し、余地をもって越前勝山藩、大野藩、丸岡藩などの複数の小藩が成立。また、敦賀郡はいったん幕府領(天領)となった後、小浜藩領となり、後に小浜藩支藩の敦賀藩などが成立した。このように、越前は複数の藩に分割統治されることとなった。江戸幕府八代将軍徳川吉宗が若かりし頃、領地を持っていたこともあった。交代寄合旗本の陣屋としては白崎陣屋の金森氏がある。忠昌の越前入部の際、北ノ庄は福居(後に福井)に改称された。これが福井市および県名の由来とされている。その後、鯖江藩などが成立する。その他越前には福井藩の支藩や幕府領、旗本領、国外の大名の領地もあり、多数の領主によって分割統治される状態が明治まで続いた。

忠昌の子孫である越前松平家は紆余曲折を経ながらも福井藩主として幕末まで残った。出雲松江藩主家や播磨明石藩主家、上野前橋藩主家などの大藩の藩主家は忠昌の弟達から始まる越前松平家傍流にあたり、津山松平家は忠直の息子光長に関係する傍流である。幕末期には福井藩主である松平春嶽や福井藩士橋本左内、元小浜藩士の梅田雲浜らが活躍する。また、丸岡藩や小浜藩などが台場を建設する。廃藩置県に先立って1871年1月22日(旧暦明治3年12月26日)に本保県(越前市)が設置された。1871年8月29日(旧暦明治4年7月14日)の廃藩置県によって、丸岡藩・福井藩・勝山藩・大野藩・鯖江藩・小浜藩の各藩が廃止され、現在の福井県域に7つの県が設置された。福井市は、福井県北部(嶺北)の都市で、同県の県庁所在地である。国から特例市に指定されている。旧足羽郡。戦国時代の武将柴田勝家の北ノ庄城から城下町として形成しはじめ、江戸時代に福居、福井と地名を変えた親藩統治を経て、現在もなお県政の中心として福井城天守のあった場所に福井県庁がそびえ立つ。

また江戸時代福井は日本屈指の大都市で朝倉氏滅亡後一乗谷から移転した文化人の影響もあり華やかな文化や行事が行われていた。1945年(昭和20年)7月19日の福井空襲、1948年(昭和23年)6月に発生し気象庁が震度7を設定するきっかけとなった福井地震、9月九頭竜川堤防決壊の短期間3度にわたり当時の市のほぼ全域が受けた壊滅的被害から復興し、不死鳥のまちを宣言している。市内中心部を流れる足羽川の堤防上は河川敷として日本最長の桜並木となっており、春には花見客で賑わう。2002年(平成14年)の「21世紀を拓く創造プラン」(第5次福井市総合計画)策定より、「人、街、自然、文化の『交・響・楽・彩 ふくい』」をスローガンに街づくりを進めている。西から日本海、丹生山地、福井平野、両白山地(越美山地)と並ぶ。海岸部は鷹巣港付近を境に北側が三里浜の名を持つ砂浜、南側は岩場が続き、その海岸から約100m先にその形から名前が付いた亀島が浮かぶ。

総面積の約半分を山林が占め、市西側の丹生山地には国見岳(656m)、その中腹に五太子の滝がある。海岸部を除く全域が九頭竜川水系流域にあり、本流を含む三大河川が合流する地点から東側の南北に平野が広がるが、その中例外として市中心部のすぐ南側に足羽山(117m)、兎越山(89m)、八幡山(139m)の足羽三山が連なる。南東部には一乗谷など、足羽川及びその支流に沿った谷間の小盆地が点在し、東端付近には市最高地点の飯降山(884m)がそびえる。いわゆる平成の大合併において、福井市は2006年2月1日に、隣接する足羽郡美山町、丹生郡越廼村・清水町の3町村を編入合併している。他30市とともに日本最初の市制を施行した1889年当時、平野部の旧福井城下のみであった市域は南東の足羽郡、北東の吉田郡、南西の丹生郡および北西の坂井郡にあった周辺町村との合併による拡大が度重なることで山地や海岸に達し、3町村の編入によって当初の約120倍の面積となっている。また、旧美山町には旧大野郡の地域が含まれているため、3町村編入後の市域には丹生、坂井、吉田、足羽、大野の5郡にあった地域を含むこととなった。

2011年4月21日木曜日

総務省はエフエム石川が

放送法第7条第2項第4号に基づく総務省令(放送局の開設の根本的基準第9条、いわゆる「マスメディア集中排除原則」)に定める出資制限の上限に違反するとして公表し、エフエム石川は総務省情報通信政策局長名で厳重注意処分を受けた(同様の事例において、北陸地方の放送局では他に石川テレビ放送、エフエムとなみも厳重注意処分を受けている)。2011年10月3日にインターネットIPサイマルラジオ「radiko」に参加、実用化試験配信が同日12時から北陸地方のFMラジオ局としては初めて実施された。石川県ではエフエム石川と北陸放送が実用化試験配信を行っており、「radiko」による配信対象地域は石川県のみとなる。なお、北陸地方においては石川県のコミュニティ放送局のえふえむ・エヌ・ワンが2008年6月から、FMかほくが2010年6月からインターネットラジオのサービスを実施している。放送局名の表記は新聞によってバラつきがあり、北國新聞・富山新聞・日本経済新聞・スポーツ報知では「エフエム石川」であるが、その他は「FM石川」(資本関係のある中日新聞社の発行紙北陸中日新聞や中日スポーツなどでも同様)。

また、愛称である「HELLO FIVE」も使用されているが、呼称があまり統一されていない。番組表の掲載サイズは、毎日新聞・産経新聞・日本経済新聞(いずれも石川・富山・福井)、読売新聞・北陸中日新聞(いずれも石川・富山、読売新聞の福井県版は非掲載)、朝日新聞(石川・福井)はハーフサイズ、朝日新聞(富山)・中日新聞(福井)・日刊県民福井・中日スポーツ(石川・富山)は3分の1サイズ、北國新聞・富山新聞・スポーツ報知(富山・石川)は4分の1サイズとなっている。なお、北日本新聞・福井新聞、中日スポーツ・スポーツ報知以外のスポーツ紙では番組表を掲載していない。2010年にブライダル事業に参入し、6月18日に「ハローファイブ・ブライダルステーション ラブハピ」(金沢市藤江北)をオープンさせた。自社制作の番組内で、この事業と連動した企画も行われている。放送開始時のナレーションは日本語で行っているが、放送終了時のナレーションはBGM(曲名「Don't It Make My Brown Eyes Blue」)に乗せてカマサミ・コングが英語で行っている。

2005年の開局15周年の時にはLOVE PSYCHEDELICOがオリジナルのジングル制作に関わっている。4月~10月の間はクリーン・ビーチいしかわ(石川県全域の海岸清掃活動)のキャンペーンCMが頻繁に放送されている。20秒CM(協賛社読み上げあるいは参加者募集告知)または60秒CM(60秒CMのナレーションは磯部弘。かつては小野田英一がナレーションしたものが放送されていた)の2バージョンがある。なお、協賛社において北國新聞社と北陸中日新聞においては特別協賛の名目となっている。前述のとおりインターネット配信「radiko」は、北陸地方では最初に開始されたが、ポッドキャスト配信は現在に至るまで実施されていない(近隣のFMとやまやFM福井は既に実施)。また、ブログやtwitter(2011年4月より開始)の開始が近隣放送局より出遅れたり、ホームページを開設されていない番組が多いなどネット活用が生かされていないところが多い。金沢市内にエフエム石川の所在地を示す周辺案内地図が設置されている(表記は「FM石川」)。

石川ミリオンスターズ(Ishikawa Million Stars)は、プロ野球独立リーグ・ベースボール・チャレンジ・リーグに所属する石川県のプロ野球チーム。2007年加盟。略して「ミリスタ」と呼ばれる。チーム名は同県を象徴する「加賀百万石」(百万=ミリオン・million)にちなんでいる。チームカラーは紺色(日本海の色)。マスコットキャラクターは「スタ坊」。本拠地は定めていないが、金沢市内の石川県立野球場、金沢市民野球場を主に使用する。それ以外でも加賀市の「中央公園野球場」・七尾市の「城山野球場」・珠洲市の「珠洲市営野球場」・小松市の「小松運動公園末広野球場」(2008年夏より)でも主催試合が開催されている。ユニフォームの胸部は自球団名である(石川、福井以外の球団はスポンサーロゴなどが入っている)。2007年リーグ初年度開幕時のチームの選手編成については、「地元枠入団選手」が富山とともに少数にとどまっている。石川ブルースパークスは、NPO法人石川籠球クラブが石川県金沢市で運営する男子バスケットボールチームである。

日本バスケットボールリーグ2部機構所属。北陸電力石川体育館をホームコートとしている。なお、かつての名門「住友金属スパークス」とは関係ない。2004年、石川県バスケットボール協会が中心となってクラブ「石川籠球クラブ」を設立。北陸電力からチーム愛称「ブルースパークス」とともに譲渡を受ける。その年からの日本リーグも継続して参戦。その後、石川県からNPO認証を受ける。2006年にはbjリーグ参戦を控えた富山グラウジーズとも交流戦を行っている。2009-10シーズンは準優勝に輝いた。石川県立美術館は、石川県金沢市に所在する美術館。1945年(昭和20年)10月、石川県美術館として金沢市本多町の旧北陸海軍館を改装して開館するが、同年末占領軍によって接収される。 1959年(昭和34年)谷口吉郎の設計により同名で開館。1983年(昭和58年)に近接する現在地に移転と共に現在の名称に改称。石川県にゆかりのある作品を中心に収集。1997年石川県文化財保存修復工房が附属され、文化財の修復にも力を入れている。

館長の嶋崎丞は昭和34年開館当時からの学芸員であり全国の公立美術館学芸員としては最古参の部類に入る。石川県立伝統産業工芸館は、石川県金沢市兼六町に所在する、主として石川県の伝統工芸品を収集した博物館である。石川県立美術館の新築移転に伴い旧館を利用して開館した。館内から隣接する兼六園へ直接入園する事が可能。経済産業省指定の伝統的工芸品10種を含む36業種が、展示紹介され、九谷焼等いくつかの業種では、製作工程がわかる展示になっている。石川県立歴史博物館は、石川県金沢市出羽町に所在する、おもに石川県の歴史を扱う博物館である。本多の森公園内に位置している。2007年度より文化功労者である脇田晴子が館長を務める。常設展の他に、通常年間に特別展3回と企画展3回が開かれる。1968年金沢市広坂2丁目で、旧制第四高等学校(現在の近代文学館)の旧校舎を用いて、石川県立郷土資料館として開館したのが始まり。収蔵品で手狭になったため、先に移転していた金沢美術工芸大学の建物を、金沢市から譲り受け、1986年に開館した。

2011年4月20日水曜日

めざましテレビの放送開始時間が

5:55からの途中飛び乗りである。ちなみに、5:25~5:55はテレビショッピングや天気予報などを放送している。ただし、緊急でフルネットする場合がある。石川県の視聴者から『めざましテレビ』の放送開始時間に関する要望(フルネットを希望する声と思われる)が寄せられることもある。反面、土曜日版の『めざましどようび』は6:00スタートのフルネットとなっている。北陸3県で唯一フジテレビの10時台の情報番組をネットしていない。2008年4月7日からはこの枠で、自社制作のローカルワイド『石川さん情報Live リフレッシュ』の放送がスタートしていることから、今後もこの番組がネットされる可能性は極めて低い。ただし、2011年3月14日から16日までの間は東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)関連の内容に変更したため臨時ネットを行った。また、『スパイスTV どーも☆キニナル!』で放送されていた『キッチン de SHOW』などのコーナーも関西テレビと同様に一切放送していなかったが、2009年4月より『キッチン de SHOW』のみ同番組が終了した現在でも毎週水曜・木曜日に放送している。

月曜19時台はフジテレビ系列におけるゴールデンタイムでのローカルセールス枠である。2005年度には自社制作番組(『千客万来!ほのぼのマンデー』)を放送していたが、2006年度から当該2番組間で枠交換することにより、月曜19時台のフジテレビ同時ネットを再開した。自社制作番組(2006年7月から2007年6月に月1回『石川テレビハイビジョンスペシャル「時をつなぐ」』を放送)が放送されたことがあったが、現在は原則差し替え放送をしていない。 『めざましテレビ』、『めざましどようび』、『ニュースJAPAN』、『ニュース&すぽると!』、『FNN石川テレビ朝刊』、日曜夜の『FNNニュース』の6番組においては、ローカルニュース枠は設定されておらず、これらの時間帯は通常は東京からのニュースをそのまま流しているが、突発的な事件や首長選挙があった場合はローカルニュースを放送する場合がある。その場合はニューステロップが通常のローカルニュースと一部違うものが使用される。

石川県の民間放送局では自社制作番組の比率が一番高く、不定期の特別番組も多く制作されている。石川テレビでは中日新聞社との関係が強いため、東海地方を地盤とする企業からのCM出稿が多い。また、特徴としては結婚式場、ブライダル事業関連(ブライダルサロンなど)のCMが多い点にある。また、徳島製粉のCMが時間帯を問わず放送されている。ACジャパンのCMが石川県のテレビ局の中で、フィラーCMとして最も多く放送されている。なお、2007年の新潟県中越沖地震の際には、報道特別番組放送後に、ACのCMが2分以上放送されたことがある。かつて、同局の自社制作番組である『歌のホームラン』で使用された着ぐるみの名前は「ユーちゃん」。同局のマスコットキャラクターでもあった。当時は石川県内唯一のUHF局であり、チャンネルがダイヤル式のテレビで視聴している家庭がほとんどで、県内の多くの視聴者は同局のことをITCや石川テレビではなく「Uチャン」と呼んでいたことがある。

このためか、『ザテレビジョン』などの一部テレビ雑誌やニュース速報の表示などを除き、略称であるITCを使う機会はほとんどない。中央競馬の場外馬券売り場のない石川県において西日本地域限定の競馬番組『競馬beat』をネットしている(ネット開始当初は『ドリーム競馬』。富山テレビおよび福井テレビも同時期にネットを開始)。なお、放送されるレースは原則として関西テレビに準ずる。アーティストのPVは著作権保護のためにウォーターマークを入れて放送することが通例だが、石川テレビの音楽番組などでは番組名などのウォーターマークを挿入しないで放送されることがほとんどである(なお、北陸放送の『プッチM』では番組名と放送局名のウォーターマークが二重に入っている)。それ故、同局で放送された映像がYouTubeなどの動画投稿サイトに投稿され、悪用されるケースが少なくない。株式会社エフエム石川は、石川県を主な放送対象地域とする放送局である。北國新聞社・中日新聞社が出資していることから、ローカルニュースは『北國新聞ニュース』と『北陸中日新聞ニュース』の2本が『FM石川ニュース』として放送されている。

通常ローカルニュースを優先するため、世間の関心が高い全国ニュースは後回しにされることが大半であった(例としてはライブドア事件や村上ファンドに関連した事例)。なお、2008年7月より原則全国ニュースをトップニュースにする形態に変更した。1970年代の後半に、当時の郵政省は北海道・宮城・静岡・広島の各地域に当初割り当てられていたFM放送のチャンネルプランを修正し、1979年(昭和54年)5月16日、愛媛・長崎の各地域とともに石川県にFM放送用周波数が割り当てられた。石川県以外の道県では、割当てがあってから順調に県域FM局が開局されたが、石川県は3局目民放テレビ局(現在のテレビ金沢)の調整に難航した他に、長年石川県のマスメディアにおいて対立関係にある北國新聞社と北陸中日新聞(中日新聞社北陸本社)との主導権争いも影響して(同様の例としては、岐阜エフエム放送での設立をめぐって岐阜新聞社と中日新聞社との対立も挙げられる)、県域FM放送局開局は約10年先送りとなった。

また、開局時期で隣県の福井・富山両県よりも5年後塵を拝した。そのため、エフエム石川開局の1990年4月1日まで、石川県ではFM福井、FMとやまなどを聴取するリスナーが多かった。開局後も聴取できなくなったわけではないのでエフエム石川がネットしない番組あるいはエフエム石川で流れない楽曲を聴くため等の選択肢として使い分けられている。逆に富山・福井両県でも同じ事が言える。長年、対立関係にある北國新聞と北陸中日新聞は新聞販売の面だけでなく、イベントの主催や放送局の設立にまで確執があるとされている。 放送局においては、このエフエム石川では互いにニュースの配信を受けるだけでなく、両新聞のイベントに関わりを持っていることが多い。また、両新聞のコマーシャルや両新聞のカルチャーセンターの宣伝も多く放送されている。エフエム石川は、北國新聞社のホームページには北國新聞グループの友好法人として掲載されている。また、中日新聞社も北國新聞社と同比率で出資(2009年4月時点での出資は両社とも10.0%)しており、北國新聞系列の学校法人金沢学院、中日新聞社系列の石川テレビ放送と共に筆頭株主となっている。

これまで北國新聞系列ではテレビ金沢の番組宣伝や『24時間テレビ』の開催告知を行う反面、北陸中日新聞系列では石川テレビの新作ドラマ(『月9ドラマ』や『木曜劇場』など)が開始になる場合は編成担当者が出演して宣伝していた。なお、最近は両局とも表立った宣伝は行わず、北陸放送(ラジオ部門では競合関係にある)の番組宣伝が不定期に放送されている。隣県のFMとやまやFM福井と比較するとCMの放送量は少ない。また、石川県内のコミュニティ放送局と比較しても放送量は少ないのが現状である。番組提供する企業がエフエム石川から撤退して北陸放送に移行するケースも少なくない。

2011年4月19日火曜日

石川県消防防災航空隊は

石川県庁の組織。石川県の防災組織であり、消防防災ヘリコプター1機を保有・運用し、防災・救助活動等を任務としている。1997年4月1日に設立された。小松飛行場を基地とし、ベル 412を運用している。機体カラーは赤を基調とし、青のストライプが入ったもので、機体愛称は「はくさん」。運航は中日本航空に委託している。石川線は、石川県金沢市の野町駅から同県白山市の鶴来駅間を結ぶ北陸鉄道の鉄道路線。かつては、鶴来駅で分岐していた能美線や加賀一の宮駅以南の金名線と直通運転を行い、3線をまとめて石川総線と呼んでいたが、その名残で、それらが1980年代に廃止された後も石川線のことを指して「石川総線」と言うことがある。なお、野町駅前に乗り入れる北陸鉄道のバスでは「鶴来方面電車」と案内される。またかつて石川線は白菊町駅 - 加賀一の宮駅間を結ぶ路線であったが、白菊町駅 - 野町駅間が1972年(昭和47年)9月20日に廃止され、1929年(昭和4年)に金名線の前身の金名鉄道から編入した鶴来駅 - 加賀一の宮駅間が2009年(平成21年)11月1日に廃止された。

後者の廃止区間内は既存の加賀白山バス白峰・瀬女方面バスで代替している。元は現在のJR飯田線の一部区間の前身である伊那電気鉄道のデ120形で、国有化を経て末期は富山港線で使用されていたものを1956年(昭和31年)に譲り受けている。当初はモハ3100形を名乗り、3101, 3102が浅野川線に、3103, 3104が石川総線に配属されていたが、浅野川線では出力が強すぎるためモーターが4個から2個に減らされていた。1961年(昭和36年)に石川総線所属の2両はモハ3150形3151, 3152と改称・改番され、浅野川線所属の2両については1965年(昭和40年)から1966年(昭和41年)にかけて石川総線へ転属したが、その際電装解除・制御車化されてクハ1150形1151, 1152と改称・改番された。その後1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)にかけて廃車され、台車や主要機器はモハ3770形とクハ1720形に転用された。なお、モハ3151・クハ1151の車体は魚礁として松任沖の日本海に沈められている。ところが才賀電機商会の破綻により才賀関係者が手を引き資金の目処がたたなくなった。

急遽他の出資をもとめた結果、愛知県の建設業栗田末松(栗田組)が参加することとなり、株式の過半は栗田関係者がもち、社長も愛知県在住の笹原辰太郎が就任し、1914年石川電気鉄道株式会社が設立された。その間には鉄道用地の買収難、野々市村の路線誘致運動や松金馬車鉄道と並行線問題がおこり、路線の経路は二転三転したが最終的に国鉄野々市駅(現:西金沢駅)に接続するように変更した。また不況の影響と資材の高騰から軌間1067mmと電化は断念し、軌間762mm蒸気機関車による方式にあらため、1915年6月に中古の蒸気機関車3両、日本車輌の新製の客車4両と貨車6両で新野々市駅(現:新西金沢駅) - 鶴来駅間を開業し社名を石川鉄道と改めた。石川テレビ放送株式会社は、石川県を放送対象地域とする放送局である。通称は石川テレビ、略称はITC。サービスエリアは石川県内と富山県西部ほぼ全域、福井県嶺北と富山県東部の一部に及ぶ。天気予報テロップ(天気ループ)は放送開始時、『めざましテレビ』・『めざましどようび』・『FNN石川テレビスーパーニュース』(17:54以降)の時間帯に加賀地方、能登地方の天気を表示。

なお、『めざまし』2番組ではローカル枠の提供クレジット表示中は表示が消える。また、『スーパーニュース』の天気コーナー(18:50頃)でも表示されない。地上デジタル放送では2008年7月24日よりウォーターマークの表示を開始した。石川テレビのウォーターマークは『FNN石川テレビスーパーニュース』などで使用されている「石川テレビ」のロゴマークである。ウォーターマークの字体は白色をベースとしている。現在は2代目であり、2009年4月29日までは石川の石が「石川さん」になっているもので(石川さんが登場するCMで流れている石川テレビのロゴマーク)、ウォーターマークの字体は黒色をベースとしていた。「石川さん」のロゴマークは2003年以降、主力的に使われているが、実際は現在のウォーターマークに使われている開局当時からのロゴマークが正式の社名ロゴであることから、社内外で見直しがされた結果変更された。画面隅に表示される時計スーパーの一部やウォーターマーク等のテロップ表示位置は、電波産業会が定める地上デジタル放送運用規定を考慮したものにはなっていないため、一部のモニターで他局視聴時では生じないテロップが切れてしまうなどの現象が起こる。

2010年10月4日からは、レターボックスの黒帯部分でのアナログ放送終了告知スーパーの常時表示を開始している。また、同年12月24日からは地上デジタル放送への移行を強調する文章も付け加えられた。石川さんは2003年、開局35周年にあたって制作された石川テレビのキャラクター。髪型が石川の「石」の字を模したデザインとなっている。年齢・性別ともに明らかになっていない。その独特のキャラクターからゆるキャラとしてみうらじゅんの著書で紹介され、全国放送の番組にも着ぐるみで登場するようになる。また、局のPRコマーシャル『石川さんだね』篇では、平成15年日本民間放送連盟賞テレビCM部門の最優秀賞を受賞している。 その後、キャラクター商品の販売(石川さんショップ)や冠番組『石川さんのお気に入りII』(終了)などでも登場する。2006年4月からは1日の放送のオープニングやクロージングにも登場している。2008年7月には石川さんのテーマ曲「石川サンバ」のDVDが発売された。

夜景の後にOPと同じフォーマットの石川県地図の静止画・中継局表示。最後はITCの文字が出てきて石川テレビのロゴとマークで終了。2004年8月1日より七尾灘浦局のアナアナ変換のため中継局のクレジットがこれまでの写植体による紙焼きテロップから、電子テロップに変更されている。さらに、これまで砂嵐状態のテレビにズームインしたところで終了していたものが、その後ロゴが出るようになったのだが、これはマイナーチェンジの形にすぎないことから、「石川テレビ・JOIH-TV/映像出力10kw・音声出力2.5kw」の表示が出て終了する形に変更。白バックにて表示。イメージキャラクターの『石川さん』が登場し、マスタールーム、カメラ機材を掃除し(その後、カメラのレンズに蓋をかけ、カメラ機材に保護シートがかけられる)、カメラに向かって挨拶を行う。地上アナログ放送終了告知画面はクロージング前に放送される。

2011年4月18日月曜日

石川県は

日本の北陸地方の県。県域は令制国の加賀国と能登国にまたがる。県庁所在地は金沢市。日本海のほぼ中央部に位置しており、石川県の多くを形成している能登半島の北端から白山周辺の南端まで南北約200kmの細長い県土を持つ。南東部の岐阜県境には白山があり、福井県境を含めた両白山地・加越山地を構成する。白山から富山県境には倶利伽羅峠、宝達山、医王山などが連なる。河川は手取川、梯川、大聖寺川、犀川、浅野川などが流れている。特に、手取川は県内大半の上水道の水源となっており、県北部の能登半島までパイプによって給水されている。明治維新後、廃藩置県で1871年(明治4年)7月14日、第1次府県統合により金沢県(第1次)と大聖寺県が成立した。同年11月20日に両県を廃止し、旧金沢県より射水郡以外の越中国新川郡、婦負郡、礪波郡を分けて新川県(当時は新川郡魚津が県庁所在地)を設置、能登国と越中国射水郡に七尾県を、加賀地方に金沢県(第2次)を置いた。

明けて1872年(明治5年)2月2日、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市美川南町)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し、石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓18か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し、翌1873年に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。その後、1876年(明治9年)8月21日、第2次府県統合により、当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)、敦賀県(現・福井県)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。

しかし、1881年(明治13年)2月7日に福井県が、1883年(明治15年)5月9日に富山県が、それぞれ分離して現在の県域となる。石川県の企業はニッチ市場で活躍する製造業が多いのが特色である。金沢市内に本社を置く津田駒工業は織機で世界シェア1位、澁谷工業はボトリングシステムで国内シェア1位、石野製作所も回転寿司用コンベアの国内シェアの大半を生産している。また、加賀市の大同工業は二輪車用チェーン、月星製作所は二輪車用スポークで、いずれも国内シェアの大部分を占める。電気機器分野では白山市のナナオはコンピュータ用ディスプレイ、金沢市のアイ・オー・データ機器はコンピュータの周辺機器の生産を行っている。かほく市に本社を置くPFUは富士通の完全子会社であり、イメージスキャナの生産では世界トップシェアである。また、金沢村田製作所など村田製作所の関連企業も多く、電子部品の生産も盛んである。2008年発表統計データでは、石川県の商業年間商品販売額は4兆1,576億円であり、北陸3県では最も大きい。

金沢市は比較的大きな商圏をもつ商業都市であり、百貨店やファッションビル、大型ショッピングセンターが集中している。県内一の繁華街である香林坊、片町では路面店や飲食店といった商業施設の集積がみられる。石川県内の市町では、小字の地番にイロハや甲乙丙などを組み合わせたものが使用されている(白山市の旧松任市区域および野々市町を除く)。これは明治時代に行われた土地区画整理事業の名残で、石川県の多くの地域では現在も使用されている。このため、住居表示制度が隣県の富山県や福井県よりも導入されている割合が低い。石川県は、隣接する富山、石川、福井3県の中で唯一4系列の民放テレビ局がある。そのためなのか、石川県のケーブルテレビ局は3県で一番少ない。また、区域外再送信を行っているケーブルテレビ局も非常に少ない。また、民放が4局ある地域の中で一番人口が少ない県でもある。加賀市の一部では福井放送、福井テレビを、金沢市周辺の一部世帯では北日本放送を、能登半島の地域では北日本放送に加えて富山テレビやチューリップテレビ、新潟県の放送を受信している世帯がある。

石川郡は、石川県の郡。郡としての人口密度は全国2位である。なお、2010年に実施された国勢調査で、野々市町の人口が5万人を突破した。これに伴い、野々市町は2011年11月に市制移行に向けた準備に入る予定。野々市町の市制移行に伴い、石川郡は消滅する予定である。石川県警察は、石川県が設置した警察組織。石川県全域を管轄区域とする警察組織で、石川県警と略称する。警察法上、石川県公安委員会の管理を受けるが、給与支払権者は石川県知事である。中部管区警察局管内。本部所在地は金沢市鞍月1-1。平成の大合併後も警察署の名称は金沢市内の3署と能登警察署を除き、石川県警察が発足してから一度も改称していない(なお、他県では名称変更が通例となっている)。1991年2月、金沢市内で石川県警察交通機動隊の巡査が、交通事故を起こした車に乗っていた建設作業員の当時40歳の男に事情聴取をした後、その男の膝を蹴って死亡させた。遺族が起こした民事裁判で、石川県に多額の損害賠償の支払いを命じる判決が出された。

2006年8月、石川県警察の警察官8人が白山市内の男性からの依頼で定期預金口座の名義貸しをしていたことを発表。同年3月から4月にかけて警部2人を本部長注意、他の6人を所属長注意の処分にした。2007年5月23日朝、金沢市鞍月のアパートで警部補(当時44歳)が男にナイフで刺された殺人未遂事件が発生。通報の内容や証言では「部屋を訪ねてきた見知らぬ男に突然刺された。」と証言した。しかし、周辺の住民証言や目撃情報が少なく警部補に問いただしたところ、自作自演であることを証言した。警部補は同年3月の人事異動で配属が変わり能登半島地震での警備等を担当し、「担当が変わり仕事に行きたくなかった。」と証言した。2008年12月、松任警察署地域課の巡査部長(当時52歳)が2000年4月から2008年8月にかけて、別居中の妻子と同居しているように賃貸契約書を偽造し、住居手当約280万円を騙し取った疑いで書類送検(詐欺罪および有印私文書偽造・行使罪)した。同時に巡査部長を懲戒免職処分とした。

 裏金問題。2003年から2008年にかけての経理で不正が判明。2011年2月、当時の警察本部長歴代4人を始め131人懲戒処分。

2011年4月17日日曜日

移行期間中は岡崎市から西の愛知県西部では

テレビ愛知アナログ波と重なる為受信不可能であった。その他、浜松中継局の他のデジタル放送も瀬戸デジタルタワーと重なる為、豊川市から東の愛知県内で無いと受信困難。静岡第一テレビ開局のちょうど1年前に開局した静岡朝日テレビ(当時は静岡県民放送)は、東京などでの音声多重試験放送の開始直前に開局したため、モノラル設備での開局となった。開局時期があと半年遅ければ、静岡県民放送が静岡県内で初の音声多重放送実施局になっていたかもしれない。なお、このことから静岡県民放送における音声多重放送の開始は1990年となり、テレビ新広島に次いで遅い開始となってしまった。NHKも含めて在静の放送局では最初の導入例となる。2010年4月現在は在静のNHK・民放全局が静岡ヘリポートを拠点としてハイビジョン対応の取材ヘリコプターを保持している。ただし、局の所有ではなくヘリコプター会社と年間契約を結び、専用機を確保して使用している。1978年7月1日、静岡県内で3局目(アナログUHFでは2局目)の民放テレビ局として開局。

系列新聞は朝日新聞と中日新聞。テレビ朝日をキー局とするANN系列に属する。旧社名は静岡県民放送(SKT・けんみんテレビ)。1993年10月1日に現社名に変更。社名に「○○朝日テレビ」「○○朝日放送」と付くテレビ朝日系列の地方局では、テレビ朝日・朝日放送(ABC)・九州朝日放送(KBC)の基幹局以外は平成新局に多く付けられているが、昭和期に開局したテレビ朝日系列のアナログUHFを親局とする局で「朝日」を冠する放送局では唯一の例である。開局から1年間はANN系列と日本テレビ(NNN)系列のクロスネット局だったが、静岡第一テレビ(SDT・だいいちテレビ)開局以降はANN系列に一本化。わずかながらテレビ東京の番組も番販扱いで放送されている。コールサインはJOSI-DTV。リモコンキーIDは5である。本社は静岡市葵区東町(あずまちょう)。2008年に開局30周年を迎えた。キャッチコピーは「家族の中にあさひテレビ」。1980年に放送が開始された土曜早朝の情報ワイド番組「おはようしずおか」以来、地元密着の情報番組制作に力を入れている。

この流れは2000年に放送を開始した夕方の情報ワイド番組「とびっきり!しずおか」に引き継がれ、現在に至っている。テレビ朝日系列局のない山梨県南巨摩郡でも視聴者が多い。一方で静岡県内でも関東広域圏波を受信可能な熱海市・伊東市や、中京広域圏波を受信可能な湖西市等では本局を含む在静各局を視聴しない世帯も多い。愛知県豊橋市の一部でも受信している家庭もある。1966年以降、朝日新聞社は全国朝日系テレビネットワークを構築すべく、全国各地にUHF新局の開局申請を行い、その結果他系列と相乗り(クロスネット。当時のテレビ朝日系列地方局にはそれが多かった)となる形ながらも、一応全国に朝日系のテレビ局が開局した。しかしながら1970年前後の大量開局時でも静岡県ではとうとう朝日系のテレビ局を開局せず、取り残された者同士の朝日新聞・テレビ朝日陣営と読売新聞・日本テレビ陣営が1975年以降の新局開設申請に動く事となった。朝日は中日新聞や浜松財界などを味方につけ、浜松市に本社を置く新局の開局を目指した。

浜松財界がテレビ局の開局に動いた理由のひとつに、テレビの父と呼ばれる高柳健次郎の出身地であることがあった。一方の読売陣営は地元静岡新聞や県漁協連、林業団体などを味方につけて、静岡市に本社を置く新局の開局を目指した。1973年10月5日にチャンネルプランの修正案に静岡に新しいテレビ局を設置することが盛り込まれてからは、朝日、読売を応援する陣営が次々に開局の申請書を提出するなど、互いに足の引っ張り合いが激しさを増し、出口が見えない「泥仕合」の様相を呈したため、静岡県知事や県議会も介入せざるを得なくなり、結果として朝日陣営が静岡に本社を置き、読売陣営がこれに協力する形をひとまずとる事として、静岡県民放送がクロスネットの形で開局する事となった。(なお、第3局、第4局の開局の経緯は、「静岡朝日テレビ20年史」、「静岡第一テレビ10年史」において詳細が記されている。)しかし、静岡県民放送開局当初から、新設する第4局(静岡第一テレビ)が日本テレビ系列に内定していたことから、結局クロスネットは僅か1年で終了した。

この一件を契機として、まず相乗りで新局を開局させ、その局の経営が軌道に乗った所で別途新局を開局させて袂を分かつ開局手法が、以降開局の長野県のテレビ信州(TSB。現在は日本テレビ系列のフルネット局)をはじめとして、朝日・読売両グループ間で多く行われたが、その発端はこの静岡県民放送開局に至る一連の流れであり、この手法は「静岡方式」とも呼ばれていた。なお、静岡民放第3局の開局に当たっては、中央の意向もあり結局静岡市に本社が置かれたことで、浜松市をはじめとした西部地方ではそれに対する感情的しこり(浜松市に本社を置く新局設置に動いた当事者が朝日だったため「ハシゴを外された」との思いが強かったとされる)がしばらく残ったため、1年後に開局した静岡第一テレビとともに、静岡県民放送は県西部での営業活動にかなり苦労したという。クロージング 夜の静岡市内の空撮(静岡駅周辺と東名高速道路静岡IC周辺)~(アナログ放送はアナログ放送終了のお知らせ)

アナログは途中で中継局紹介のスクロールテロップが入る。クロージングはデジタルとアナログで、映像の色調に若干の違いがある。2010年7月5日のアナログ放送レターボックス化に合わせ本編・アナログ放送終了のお知らせともに、レターボックスで放送するようになった。かつてクロージングの中継局紹介の間、空撮映像は小さな枠の中に収まるようになっていたが、レターボックス化に合わせデジタル放送と同じく背景にフルサイズで表示するようになった。また、空撮映像後半にもデジタル放送同様に冒頭表示したコールサインなどが再度表示するようになった。アナログ放送では2011年7月1日から7月24日まで、オープニングをアナログ放送終了の告知に差し替えた(従前から放送されていたものとは別の映像)。基本的にカスタム表示とセットで時刻表示右に天気ループも表示。地域の表示順は浜松、佐久間、静岡、川根本町、三島、御殿場、網代。(地域+天気+午前/午後降水確率→地域+天気+最高気温)アナログ放送の通常表示は2011年7月24日の終了まで興和フォントを使用していた。

これは既存のマスター(東芝製)をアナログ送出の機能を残したままデジタル放送対応に改修しただけであるため。また、デジタル放送は通常・カスタムともに東芝ゴシックである。以前は日曜日は10時前まで時刻表示がされていた。本社およびスタジオの所在地が在静の民放局(浜松市に本社を構える静岡エフエム放送を除く)においては唯一、JR東海道線の北側にあり、なおかつ政令市移行後は唯一葵区にある。ちなみにNHK静岡放送局も葵区に立地しているが、静岡朝日テレビを除く在静の民放他社はすべて駿河区に本社が立地している。国道1号沿いに本社がある放送局も同局のみである。本社社屋内には、同社メーンスタジオであるAスタジオと、報道専用のNスタジオの2つがある。また、在静民放他局には設置されている社員食堂が、同社に限っては設置されていない。静岡市葵区七間町に存在した旧社屋(本社移転後は「静岡朝日テレビ・青葉ビル」と改称)には、社名変更後にトリックアートを集めた美術館「アーサー美術館」が開館した。

本社移転後もしばらく開館していたが、後に入館者数の伸び悩み等の事情により閉館している。映画「もののけ姫」のプロモーション活動中の宮崎駿監督が来訪したというエピソードも残されている。同ビルにはテナントとしてTSUTAYA等も入居していたが、本社移転理由のひとつに「同ビルの老朽化、耐震性がない」という問題もあったため、ビル解体の方向性が示されていたこともあり、テナントの退去が緩やかに続いた。ビル閉鎖直前にはほとんどのテナントが退去していた。ちなみに新社屋(=現社屋)はテレビ局としての機能のみを持たせていることから、外部のテナントは存在しない。本社の壁面には自社制作番組のロゴやココマルが描かれており、東海道新幹線の車内から見ることができる。かつてはドラえもんが描かれていた。本社が静岡市葵区七間町から移転した際、それを告知するCMを制作したが、そのCMには聖飢魔IIがノーギャラで出演している。

2011年4月16日土曜日

なおクロージングの前は

1990年頃までは静岡市内の夜景(フィルム映像)をバックに注意喚起のナレーションの映像が流れていたが、その後は一時期の間、浜松駅前の夜景→浜名湖をバックに中継局紹介の映像(VTR映像:楽曲名YOUR EYES)に変更されて使用されていた。また、1990年代後半の一時期にはオープニング映像の後、中継局紹介(水色バックで、隅にダイちゃん・あいちゃんのVTR映像)の映像を流していたことがあった。どちらも1世代前の末期には見られなくなった。一時期、オープニングの後の中継局紹介時にジョニー・ピアソンの「二人の出会い (Today I Met My Love) 」という曲の一部が流されていた事があった。(バックは水色1色。)日テレNEWS24休止の際は静岡市内の中継カメラのフィラーを流している。これは、日テレNEWS24が放送されてなかった2001年3月以前も放送していた。又、中継カメラの中では、BGMも流れ、松たか子や大塚愛等の曲がBGMで流れている。天気ループは時刻表示の右に表示。朝の時間帯は基本的にカスタム表示とセットで表示。夕方の時間帯は「あす」用として「静岡○ごとワイド」「FRONT ZERO」内で表示。

地域の表示順は静岡、浜松、沼津、下田、東京、名古屋、大阪(地域+天気+午前/午後降水確率→地域+天気+最高気温。夕方に表示されるものは予想最低気温の表示も加わる)。2009年5月15日までは、「おもいッきりDON!」内で13:10前後まで時刻を表示していたが、左上にテロップが表示されるようになり時刻表示と被る事が多くなったためか、5月18日分より表示されなくなった。これにより、当局は静岡県内の民放で唯一平日昼に時刻表示をしない局となった。同局では当時試験放送中だったデジタル放送を利用して、2005年6月から同年8月まで、土曜日・日曜日・祝日の10:00~18:00の間、自社制作番組やBS日テレ制作の番組などを放送した(この時間帯以外はサイマル放送)。デジタル放送限定の別編成で放送された。特に2005年7月30日には、静岡市の夏の一大イベント・安倍川花火大会の生中継を同年限定で実施した(同日のみ19:00~21:00を臨時のHDトライアル枠とした)。実際にアナウンサーが会場から司会進行をするなど、テスト番組ながら制作などの面では通常の番組と同等の扱いの力の入れようだった。

この試験放送のために宣伝チラシまで制作され、静岡県内の電器店で配布された。試験放送のために多くのデジタル放送専用番組を用意して放送したのは全国でも同局だけである。1999年2月、匿名の告発文と1997年6月の「テレビスポット放送通知書」「放送運行表」のコピーが広告主5社に送られた。この5社から広告代理店を通じ事実確認を要求された静岡第一テレビは「CM調査委員会」を設置、調査にあたった結果、調査した1996年4月~1997年6月までの15か月間で受注した5社計7,132本中711本の未放送が判明した。CM未放送問題により、毎年8月開催の「24時間テレビ」では、1999年のチャリティー活動に参加できず、ローカルニュースとチャリティー告知の一部を差し替える以外はあくまで「ひとつの番組」として日本テレビ発の内容をネットするのみだった。同局舎前で毎年開催されるイベントなども一切自粛され、県内各地での街頭募金も規模を縮小して行われた。また募金の告知コマーシャルも、予め録画した物に差し替えられる等局としての対応を取った。

「ズームイン!!朝!」と「ズームイン!!サタデー」における静岡からの中継についても、日本テレビ側でスタッフを用意し、あくまで日本テレビが静岡から中継を入れるというスタンスであった。ただし事件取材についてはNNNの資格停止にはなっていなかったこともあり、SDTのアナウンサーや記者が顔出しリポートすることもあったが、取材局名は出ず「静岡」とだけ表示された。本社社屋には3つのスタジオが存在する。開局時から稼動していたAスタジオ(技術棟)、増改築により拡張された事務棟1階に作られた「半オープン形式」の情報センター(Jスタジオ)、そして開局20周年を記念して本社社屋裏手の旧駐車場に建設されたBスタジオである。Bスタジオについては地上デジタル放送関連設備投資の見通しが立つまでの間、Aスタジオの機材をBスタジオに移設(サブ=副調整室はAサブを使用)して対応していた(この時点でAスタジオは通常使用を中止)。その後、デジタル放送関連設備投資の中でBスタジオ内およびBサブの機材がHD対応に更新され、Bスタジオは完全な形で運用されている。

なお、AスタジオおよびAサブは現在休眠状態になっている模様である。もっとあぶない刑事の静岡ロケ(第18話「魅惑」、第21話「傷口」)に特別協力し、旧静岡市内及び旧清水市内にてロケを行った。また第21話ではSDT社内でのロケも行い、劇中に登場するローカルニュースのシーンに当時同社アナウンサーだった嬉須海加奈子を(エキストラ扱いで)出演させた。火曜サスペンス劇場で静岡を舞台としたドラマが放送されたことがあり、その際キャストの1人がSDT社員という設定が組まれ、当時のAスタジオなどSDT社内でのロケもあった。平成ガメラ3部作「ガメラ・大怪獣空中決戦」に特別協力、アナウンサー田辺稔が劇中ニュースに「地元局のニュースキャスター」役で出演。また映画「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」(2001年)にも協力し、田辺稔、細野俊晴、竹内朱実のアナ3名がガメラ同様「地元局のニュースキャスター」として出演している。箱根駅伝中継では毎年芦ノ湖のゴール地点の放送機材を担当していたが、2006年に固定中継点映像(2007年より中継映像すべて)のHD化により東京の技術会社(テレテック)の中継車を使い中継技術を担当している。

子会社にはSDTエンタープライズ(旧:静岡第一ビデオ)、DIプロ(SDTエンタープライズからSDT社内技術部門を分離)がある。そのSDTエンタープライズは、テレビ静岡をネット局に持つフジテレビジョン系列の情報番組「エチカの鏡」で技術協力を行っている。ニュース速報(地震速報・気象情報も同様)は「SDT」で表示され、「NNN」は使用されない(但し、日テレNEWS24放送中は除く)。速報テロップは、他のNNN系列局とは異なり同局独自のフォント(特に地震速報)が使用され、速報音は無い。在静の民放各局は、各ニュースネットワークに対して、海外支局の運営(テレビ静岡、静岡朝日テレビ)や、既存支局への記者派遣(静岡放送)を行っているが、静岡第一テレビに限っては、定期的な記者派遣や支局運営などを行っていない。これはもともとNNNには古参・先発局が多く、同局が活動・協力する余地が少ないことも関係していると思われる。

2011年4月15日金曜日

天気予報が表示される地域は

静岡県に加え、愛知県東部、長野県南部、山梨県東部・富士五湖、神奈川県西部、東京地方、伊豆諸島となっている。2000年頃から伊豆諸島南部の天気予報が追加されている。2010年5月27日に実施された注意報・警報の細分化により隣接地域の注意報・警報は扱っていない。東京のNHK放送センターから送信される関東甲信越地域向けのローカルニュースでは、天気予報の中で静岡県内の予報も表示されている(天気マークのみ全県、気温や波・風予報などは県東部および伊豆に限る)。これはこの地域の視聴者が東京の放送を受信できるためで、NHK静岡との2局が視聴可能となっている。静岡が名古屋局の管轄下に置かれているため、東京の放送センターからまず、拠点局である名古屋局を経由して静岡局へ配信される仕組み。これによって例えば名古屋管内においては、通常の管内ローカル枠で東京の映像をカットして名古屋局が割り込むことが可能となり、東京からの映像はその時点で強制的に断ち切られる。

ただし、東京からの映像も別回線で常に配信されており、かつてのゆうどきネットワークで行われていたマルチ編成や、小さな旅の放送についてはこちらの「別回線」を直受けして放送していた(る)。基本的には静岡県内での空撮取材が主となるが、地理的条件から近接する山梨県や神奈川県西部、長野県南部、愛知県東部での応援取材も行うことがあるという。これは在静の民放テレビ各局も同様である。NHKが自ら所有している訳ではなく、オールニッポンヘリコプターが保有するヘリコプターを年間契約で占有使用している。なお、NHKが使用しているヘリコプターはすべてオールニッポンヘリコプターの保有であるとされている。言い方を変えると、現在の所管官庁である総務省が静岡県の管轄を名古屋から東京に戻さない限り、NHKの管轄再変更もあり得ないと言える。NHK静岡放送会館の建て替え・移転計画については、2010年春、JR静岡駅北口に完成した再開発ビルの「葵タワー」へ入居・移転との噂も出ていた。

また七間町への移転計画については、同地にある興行会社静活が運営する映画館の新静岡駅ビルへの移転(新築される新静岡駅ビルにシネマ・コンプレックス形式で開業させ、七間町で同社が運営していたすべてのスクリーンを閉鎖させる)計画を受け、移転(閉鎖)予定である「オリオン座」と周辺の土地を新たな局舎用地とする案を地元有志グループがNHKをはじめ関係各所に働きかけたものの、色よい返事を得られず頓挫したという経緯もある。静岡ガス・エネリア静岡ショールームとして現在営業中の建物がある土地。NHK静岡放送会館の当社所有地への移転に関する協議についてなお、今回の静岡ガスとの移転協議に合意できれば、NHKの局舎所在地が駿河区へと移ることとなり、葵区に本社・スタジオを構える在静放送局は静岡朝日テレビのみとなる。熱海の情報カメラは東京の放送センターでも常時モニターしており、地震などの災害時には静岡局を経由せず直ちに映像を放送することが可能である。

余談であるが、在京局はNHK・民放問わず在静局が熱海市内に設置している情報カメラは常時モニターしているという。もともと在京局の放送エリアであることに加え、比較的地震が多い伊豆半島での初動対応のひとつとして使われているという。2010年春まで、全県の予報が表示されるのは『ゆうどきネットワーク』のローカル枠(17:54?56、関東甲信越エリアのみ。静岡は名古屋発をネットのため未放送)であったが、2010年春から予報のみ全県を表示するように改められた。伊豆半島東岸および神奈川県と隣接した東部地域は直接受信可能。それ以外の西伊豆や中伊豆、県東部の富士市や富士宮市などではCATVを通じて受信可能。2011年時点では、正職員としての女性アナウンサーは在籍していない。過去には結城さとみ、膳場貴子、久保田祐佳などを輩出した。ここ最近は、地方局→拠点局→東京の順で異動していくパターンが定着しているが、この放送局で勤務した女性アナウンサーはすべて東京へ異動するパターンが現在も続いている。

株式会社静岡第一テレビは静岡県を放送対象地域とする放送局である。略称はSDT、愛称はだいいちテレビ。現時点で静岡県内最後発の民放テレビ局にもかかわらず「第一」を社名に入れている理由は、JAなど第一次産業が開局に大きく関わっていたこと(現在でもJAの1社提供番組があったり、静岡〇ごとワイド!での賞品を提供しているなど、番組面でバックアップを行っている)と、静岡で一番のテレビ局を目指す意味からと言われている。コールサインはJOSX-DTV。日本テレビ系列のテレビ局である。地方ローカル局としてはニュース映像のハイビジョン化が比較的早く進んでいる(在静民放では一番早いペース)。また、地上デジタル放送のサイマル試験を本放送開始の5か月前から始めたり(正式なサービス放送は2か月前から)、試験放送中に独自編成の番組(HDトライアルの項を参照)を放送するなどデジタル化には積極的と言える。中継機材のハイビジョン対応も徐々に図られており、報道系においてはハイビジョン対応中継車への更新も完了した。

今後は制作・スポーツ系に対応する大型中継車への対応が待たれる。資本関係は読売新聞・日本テレビが主体だがテレビ東京と関係の深い日本経済新聞との資本関係もある。又、同局は日本テレビ系列でありながら、テレビ東京の番組も数多く放送しており、同県の民放では一番多くテレビ東京の番組を放送している。本社は静岡市駿河区中原。開局当初からのスローガンは「ふれあいだいいち」。キャッチコピーは「たのしいを見つけよう」(2011年8月1日から使用)。それ以前は「はじまるヨン(4)ch」で、2010年4月1日から2011年7月24日の地上デジタル放送完全移行まで使用していた。さらにそれ以前は「それ、やります。だいいちテレビ」(2008年12月26日から使用)。以前箱根駅伝の中継において、芦ノ湖のゴール地点での機材協力と技術オペレートを担当していたが、HD大型中継車を所有していないためテレテックのHD中継車を借りて、現在も機材協力と技術オペレートを担当している。「一本の木の一年」は開局から伝統的に使用されているフィルム作品。

ビバルディの「四季」をイメージさせる弦楽奏は、静岡大学教授作曲による完全オリジナル楽曲。アナログ放送終了に伴い、アナログ放送のコールサインが表示されていた1世代前の差し替え部分を再び差し替えた(差し替え部分のみハイビジョン放送で、フィルム部分は4:3アップコンバート)。2種類の映像の切り替わりはそれぞれ、オープニングは白バック、クロージングは紺バックで一度フェードアウトさせた後、ハイビジョン映像がフェードインする手法で処理されている。本社の映像は1世代前のクロージングで使われた映像と同じ。ただしテロップ、BGM、ナレーションは異なる(オープニングとクロージングでもBGM等に違いがある)。「一本の木の一年」を一枚にデザインした広告看板が静岡駅の新幹線ホームに掲示されている。(一本の木を縦に4分割し、春夏秋冬がそれぞれ描かれ、だいいちテレビアナウンサー全員が所々で登場するもの。)

2011年4月14日木曜日

同路線の踏切は

遮断機の遮断かんを視認性向上のために従来の黄色・黒の縞模様からより目に付きやすい赤・白のものに逐次交換している。新静岡駅付近等での試験的な使用を経て、2009年現在は主要箇所で遮断かんの交換が完了した(警報機の塗装変更は行われていない)静岡南北道路は、地域高規格道路に指定されている静岡県静岡市で建設中の自動車専用道路であり新東名高速道路から静清バイパス、国道1号、東名高速道路を経て、国道150号まで繋げる予定である。 また東名高速道路には当道路との交差地点にスマートインターチェンジを設ける構想があり、2017年度供用を目指している。 なお当道路には下大谷線という別名があり、これは都市計画上の道路名称である。静岡ヘリポートは、静岡県静岡市葵区諏訪8番地の10にある公共用ヘリポート。敷地面積は3.57ヘクタール。地震等の災害発生に備えて地上交通を補うことと併せて、高速交通時代に先駆け市民がヘリコプタ?を交通手段の一つとして選択できるよう設置された、静岡県で初めての公共用ヘリポ?トである。

静岡県消防防災航空隊、静岡市消防航空隊(2008年4月発隊・同年10月運航開始)といった公共機関をはじめとして、朝日航洋、静岡エアコミュータ、中日本航空、東邦航空、ファーストエアートランスポートおよびオールニッポンヘリコプターが拠点とする。民間航空会社の一部は、在静・在山梨のマスコミ各社とそれぞれ個別に定期契約を結んだ取材用ヘリコプターを運航しており、取材のためのフライトは離発着時間帯以外にも行われることがある。財団法人静岡市振興公社が管理を受託している。遊水地指定区域の為、ヘリポート自体を柱で持ち上げた「高床式」(標高10.5m)になっている。NHK静岡放送局は、静岡県静岡市葵区にある日本放送協会(NHK)の地方放送局である。テレビとラジオで県域放送を行っている。マスコットキャラクターとして「しずくん」を採用している。組織としては中部(東海北陸)となり、基本的に名古屋放送局の管轄下となっているが、独自番組や東京発の「管中」「ローカル」番組である『小さな旅』や『特報首都圏』などをネットすることもあり、比較的拠点局と距離を置き、東京管内との繋がりを強めている傾向がある。

ただし、関東甲信越の番組を静岡でネットする場合、東京からの直受けではなく、一旦名古屋を経由して受ける特殊なネット方法となっている。また、極稀に管内他局が名古屋からのニュース・天気予報を放送している中、静岡だけ県内ニュース・天気予報に差し替えることもある。報道取材用として、ハイビジョン対応の取材ヘリコプターを静岡ヘリポートに常駐させている。NHKにおいて、拠点局以外の地方局単独で取材ヘリコプターを保有する例としては、静岡の他に新潟局、鹿児島局、沖縄局の4局のみであり、地域的に特に重要視されていることがここからも伺える。静岡局はNHK発足当時には東京の管轄下に置かれていたが、逓信省の静岡県内における管轄が東京から名古屋へ移管されたことに伴い、NHKの管轄も1943年に東京から名古屋へ変更され、現在に至っている。しかしながら現在では、特に静岡局の直轄エリアである県東部や中部において東京や神奈川など南関東との結びつきが強い静岡県の地理・経済・文化的つながりを背景に、視聴者から名古屋発の中部圏の地域情報ではなく、東京発の首都圏の地域情報をより多く伝えてほしいという要望や意見がより多く求められているという。

こうした現状を踏まえ、静岡局では名古屋発の「管中(管内中継の略で、この場合は中部エリアのブロックネットを指す)」を少し抑え、その分東京発の「管中(この場合は関東甲信越エリアのブロックネットを指す)」および「ローカル」番組を一部ネットすることで、視聴者ニーズに少しでも応えようという編成上一定の配慮が垣間見える。しかし、2007年春編成において、夕方5時台の編成を再び名古屋発に戻すなど、一貫性を欠き視聴者を惑わせる不可解な編成をとることもある。そのため、現在でも東京発の情報を求める声が多い。これらを踏まえた上で、地域視聴者の意識としては「名古屋・東海」より「東京・首都圏」の方が様々な面において(もちろん距離的にも)身近であるという現実があり、もともと静岡が名古屋局の管轄に含まれていること自体が矛盾しているという声もごく一部だが存在しているという現実はおさえておくべきであろう。金とく『フジヤマTV』(月1回金曜 20:00-20:43、開始当初は「金とく」枠の中で月2?3回程度、静岡ローカル枠を設定していたが、予算など諸事情により、現在は頻度が月1回へと縮小されている。)

アナログテレビにおける放送開始・終了・基点時間の局名告知は静岡局と浜松支局のアナウンスがなされている。現在、NHKの支局でコールサインが付与されているのは浜松のみであり、このような事例は全国唯一である。なお、デジタルテレビには浜松支局にコールサインが付与されていない。現在の局舎(NHK静岡放送会館)は、静岡局としては3代目の建物となり、現在地へ移転した当時(1963年[昭和38年]3月1日)のまま現在に至っている。局舎内には3つのスタジオがあるが、テレビ用には第1(汎用であるが、実際には夕方のローカルニュース中心に運用)と第2(定時ニュース用)があり、ラジオ用には第3スタジオ(おもにラジオ第1やFMのローカル放送で使用するが、ローカルニュースはアナウンサーの都合上テレビ第2スタジオから放送されることも)がある。なお、テレビスタジオ用の副調整室は、ニュース用に整備された1か所で2つのスタジオを駆動している。局舎自体は内部の改装は幾度となく行われているが、建物自体は全国のNHK放送局の中でも比較的古く、築年数が50年近く経過している(2011年3月時点で築48年)。

これを踏まえ新局舎建設の話も出ていたが、数年来の不祥事に起因する一連の経費削減策の影響を受け、一旦白紙に戻った。しかしその後改めて移転計画が出されており、葵区紺屋町や同区七間町などへの移転が取り沙汰されたこともあったが、2010年12月に都市ガス供給会社の静岡ガスと、静岡市駿河区八幡一丁目の同社所有地への移転について協議を開始した旨が発表されたことから、移転予定地を正式に決定した上で計画が前進する模様である。局舎は老朽化しているが、放送機材は特にここ数年、他の地方局より先行して整備が図られている。これは東海地震などを念頭に、災害報道に特に力を入れるべき局との位置づけがなされているためであり、前述の取材用ヘリコプター常駐もその一環である。

2011年4月13日水曜日

反対運動は主に

「静岡空港・建設中止の会」(共産党系)と「空港はいらない静岡県民の会」(新左翼系や社民党、民主党の一部)の2グループにより行われている。反対派は推進派に比べ静岡県内の組織基盤に劣るため、劣勢を挽回するため田中康夫、鳩山由紀夫、菅直人、保坂展人、中村敦夫、川田龍平などの県外政治家の支援を受けたり県外国会議員に対し反対署名活動を行ったり、県外の各種反対運動の活動家からの支援を受けるなどしている。静岡県内選出国会議員12名のうち、反対派は民主党の渡辺周と細野豪志の2名。現在の静岡県議会議員74名のうち反対を表明しているのは共産党系無所属1名。近年、衆院選・参院選・県議選で反対派の有力議員が相次いで落選しており反対派の現・元議員で賛成に転じたり積極的に反対の姿勢を示さなくなった者もいる。県知事選挙については毎回反対派は立候補者を擁立するものの、いずれも落選している。地元市町長選挙についてはかつて反対派のリーダーが立候補したこともあったがいずれも落選しており、近年は反対派の立候補者擁立は見送られている。

2007年4月に行われた静岡県議会議員選挙において共産党の候補者と無所属候補者の一部が空港反対を選挙公約としたが、無投票当選の1名を除いていずれも落選しており民主党公認・推薦候補者で空港反対を公約とした者はいなかった。反対派は反対派の元々の地権者(本来地権者)の所有する空港予定地内の土地の一部を静岡県内のみならず県外や外国在住者を含んだ反対派数百名に譲渡し共有としたり、山林の立ち木の一本一本を別々の反対派活動家に譲渡するなどの行為を行い空港予定地の権利関係を複雑化し県の用地取得を妨害しようとした。静岡県が土地収用法に基づく手続きを行った結果、空港建設に必要な土地・立ち木に関するすべての権利について県の権利取得が認められたがトラスト共有地・立ち木トラストによる権利の細分化による事務の煩雑化のため、用地調査や補償金の支払事務手続に十数億円の経費を要することとなった。2007年2月6日未明に、静岡市在住の反対派活動家が静岡県庁別館前の路上で焼身自殺した。

付近には静岡市内の廃棄物不法投棄に関する静岡市の対応と静岡空港建設に抗議する内容のビラがあり、またビラと同じ内容が焼身自殺の直前にmixiに書き込まれていた。自殺後、反対派は追悼集会の開催、追悼VTR・DVDの発売などの活動を行っている。また週刊ダイヤモンドは静岡空港について、無駄な大型事業の典型例とした特集記事を数多く掲載している。岩波書店発行の月刊誌「世界」は、鎌田慧の執筆による静岡空港に批判的な記事を掲載している。静岡空港に近くにはプロペラ機であれば十分離着陸可能な1,500mの滑走路を持つ静浜基地が存在する。しかし、推進派は大型ジェット機が就航可能な2,500mの滑走路を持つ新空港の建設に計画段階から固執し、静浜基地の共用化については それほど検討される事が無かった。また、反対派最大派閥の1つである「空港はいらない静岡県民の会」は計画段階から静浜基地の共用化にも反対していた。静岡瓦斯株式会社は、静岡県中・東部を営業エリアとする、都市ガス中堅の一般ガス事業者である。

供給するガス種は天然ガス(都市ガス13A)で、大手の都市ガス会社と同じである。関連会社を通じ、静岡県西部や伊豆の一部、さらには山梨・長野・新潟の各一部地域でも事業展開を行っている。東証一部上場。通常、対外的にはほとんどの場合「静岡ガス」と表記される(略称は「静ガス」)。2010年4月1日から、現在のコーポレートスローガン「くらしを考え、明日をつくる。」とコーポレートロゴ「SHIZGAS」を導入した。2007年より、静岡ガスの一部の販売店を『エネリア』という名称に変更した。“エネルギー”と“エリア”を組み合わせた造語で、拠点を12店舗(本店のみのカウント)とし、静岡ガスのショールームもエネリアを名乗る。(静岡ガスエネリア・静岡ショールーム)また、それによって“ガスショップ”という位置づけは廃止となった。エネリアにならないサービスショップは別の業務に従事し、不要な数の従業員は他店へ再就職となったが、一部、廃業となったショップもあるとのこと。また、従来の販売店の法人名称は裏に隠れた形となり、2007年1月5日よりエネリアを名乗り始めた。

東京ガスのエネスタやエネフィットをモデルとする改革で、各店舗、看板及びロゴマークは統一される。エネリアのイメージキャラクターにはアニメキャラクターの『とっとこハム太郎』を起用。 今のところ、ハム太郎の声優のみCMでは起用されている。また、静岡ガスが2006年よりスタートした無料サービス点検の『ふれあい巡回』を受けた顧客にはハム太郎グッズを進呈している。静岡清水線は、静岡県静岡市葵区の新静岡駅と、同市清水区の新清水駅を結ぶ静岡鉄道の鉄道路線。全列車2両編成ワンマン運転となっている。平日はラッシュ時間帯5分間隔、土曜休日の終日と平日の昼間6-7分間隔の高頻度運転を行っており、昼間の普通列車は新静岡 - 新清水間を21分で結んでいる。その運行形態や路線の特性から、欧米ではLRTとして紹介されることもある。ワンマン運転は終日行われている。新静岡 - 新清水間の全線通し運転が基本であるが、平日朝に後述の急行と接続する新静岡 - 県総合運動場間の区間列車や、長沼駅の北側に隣接して車庫があるため朝夕ラッシュ時の前後に柚木始発新静岡行き、新静岡始発柚木行き、新清水始発長沼行き、長沼始発新清水行きの入出庫を兼ねた区間列車が数本設定されている。

2011年10月1日のダイヤ改正で、15年ぶりに急行運転が復活し、平日朝に新清水行きが運行されている。停車駅は、新静岡・県総合運動場・草薙・御門台・狐ヶ崎・桜橋・新清水。いずれも乗降客が多い駅という。その反面、利用客の少ない県立美術館前駅と入江岡駅は区間運転の普通列車が運行しない区間の駅であるにもかかわらず急行は通過となり、朝ラッシュ時は実質減便となった。なお、急行列車が先行する普通列車を追い抜くことはないが、県総合運動場で新静岡発県総合運動場行の区間列車から接続している。かつて設定されていた急行は、日中も運転され、運動場前駅(現・県総合運動場駅)で先発の普通列車を追い抜く運転も行われていたが、1985年からは各駅の乗車機会向上のため各駅に停車する普通が増発され、急行運転は平日の朝夕のみとなり、1996年4月1日に廃止され、2011年10月1日の改正で復活するまですべて普通列車のみで運行されていた。2011年10月1日のダイヤ改正で新設され、平日朝に新静岡行きが運行されている。

停車駅は新清水・桜橋・狐ケ崎・御門台・草薙・古庄・日吉町・新静岡。早朝の2本のみ、県総合運動場で普通列車を追い越す。新静岡 - 新清水間の全線で運行される列車のほか、新静岡 - 柚木間、新清水 - 長沼間でそれぞれ区間列車が運行されている。また、平日朝には新静岡 - 県総合運動場間の区間運転が行われ、急行・通勤急行が停車しない駅への乗り換えが配慮されている。現在は全駅に自動券売機、ICカードチャージ機、自動改札機(ICカード対応機種含む)が設置されている。

2011年4月12日火曜日

ILS(計器着陸装置)が設置されているが

後述の立ち木問題による暫定的な滑走路短縮に伴い、2009年8月27日の滑走路延長まではILSは使用されていなかったため、霧や雨などによる悪天候が原因で、欠航やダイバート(主に中部、羽田)が頻発し、2009年7月31日までの就航率は93.9%に留まった。ILSの運用開始後は、2010年3月6日まで、悪天候による欠航や到着地変更は起きなかった。開港後1年間での就航率は、98.5%と大幅に回復した。空港への離陸、着陸が10〜13時ころに集中しており、狭い駐機場と空港ターミナルが混雑する。定期便運航の遅延が発生するために、全日空は時刻の変更を余儀なくされた。このため、静岡県は駐機スポット増設工事を行うものとした。富士山静岡空港を応援するための個人会員組織である富士山静岡空港サポーターズクラブが、富士山静岡空港利用促進協議会により運営されている。 会員になるにはメールアドレスが必要で、会員登録をすることにより以下のような特典が受けられる。2009年9月12日より、静岡県の支援により県内主要駅からのアクセスバスの増便が図られた。

アクセスバスを運行するしずてつジャストラインと遠州鉄道に採算割れが生じた場合、一定の範囲内で県が補填する。富士山静岡空港利用促進協議会により、空港にカウンターを設けているレンタカー会社に、利用料金の割引費について最大3,000円まで支援が行われている。静岡県は空港運営会社に第三セクター方式による出資はせず、指定管理者制度等の枠組みを用いて空港の運営を民間会社に行わせる方針で、主に県内の民間企業12社の出資により設立された。牧之原市の西原茂樹市長は、富士山静岡空港株式会社への出資の意向を表明した。その後、富士山静岡空港株式会社側も経営に関与しないことを条件に牧之原市から出資を受け入れることを表明した。日本航空グループは2005年5月、静岡空港への乗り入れその他静岡空港の整備・利活用について協力することで静岡県と合意した。その後、2007年7月の全日空就航表明を受け就航路線便数について再検討した結果、同年10月31日になって静岡県と改めて覚書を交わすことで合意したとの発表を行った。

この中で静岡空港開港時から新規乗り入れを行うこと、予定路線および便数は静岡 - 札幌線1日1往復、静岡 - 福岡線1日3往復であることを明らかにした。当初、機材はマクドネル・ダグラスMD-90(クラスJ 18席・普通席132席)とエンブラエル170(普通席76席)を使用していた。静岡県は開港前の2008年度から運航に対する支援、補助のために6,000万円の予算を計上している。開港後も福岡便に対する搭乗率保証と、夜間駐機費用の一部を負担する。福岡便の搭乗率が70%を下回ると、その空席分を1席あたり15,800円、補助金として県が支払うことになる。川勝平太静岡県知事と日本航空の西松社長と会談で、川勝知事は搭乗率保証の廃止を正式に申し入れたが、西松社長は経営問題につながるとして、搭乗率保証の契約は破棄できないと表明した。日本航空は、福岡・札幌のすべての便を座席数の少ないエンブラエル170で運航することを決めた。なお、2010年3月31日をもって、静岡空港から運航の撤退をした。

なお、2010年4月1日から、福岡便、新千歳便ともに、フジドリームエアラインズの運航によるコードシェア便を飛ばしている。全日本空輸グループは、2007年7月に新千歳・那覇線へ各1便の就航を表明した。ANAの山元峯生社長は、2008年1月23日の記者会見で静岡 - 成田線の路線展開の可能性があると述べた。2008年4月22日、札幌、沖縄便の運航計画、ダイヤ、機材が公表された。沖縄、札幌を1往復するスケジュールでありボーイング737-500型機(126席)、またはボーイング737-700型機(120席)でエアーニッポンによる運航で就航している。日本航空に対する搭乗率保証などについて、全日空は不公平であると主張していた。静岡県は、沖縄便の着陸料を減免することとした。鈴与は2008年6月、静岡空港を拠点とする地域航空会社、フジドリームエアラインズ(FDA)を設立した。新千歳線と福岡線を各1日3便就航するとしていたが日航と全日空の同路線への就航表明を受け、競合する路線への就航を回避し仙台・成田・羽田・新潟・松山・小松・熊本・鹿児島など競合しない路線への就航を検討することとした。

2008年7月、小松、熊本、鹿児島へ2009年夏を目処にエンブラエル 170(76席)で就航させることを発表した。 2010年1月、同年4月1日から日本航空が撤退する札幌と福岡へ就航することを決定した。当初は、札幌1往復、福岡3往復とし、福岡線については、4往復化を図るものとしている。アシアナ航空は2007年8月8日、静岡県庁で静岡 - ソウル(仁川)線の1日1便の就航を正式に表明した。2008年6月27日、運航スケジュールを発表しエアバスA321-200(177席)にて定期便を運航することを公式発表した。なお、好調のため、2010年3月28日~10月30日の夏季ダイヤにおいて、毎週金曜日についてはボーイング767-300型(250席)での運航とした。中国南方航空は静岡県に対し、静岡 - 上海 - 北京と静岡 - 上海 - 広州の各路線への定期便運航を提案した。中国東方航空が上海便への就航申請をしたことから、静岡 - 大連 - 北京間の路線を検討していることが明らかとなった。フジドリームエアラインズ便利用客向けの静岡空港からJR掛川駅までを結ぶ無料アクセスバスを、静岡空港発着時間に合わせて1日6往復運行。

利用に当たっては予約は必要ないが、乗車時に搭乗券もしくは予約確認書の提示が必要。静岡空港直下を東海道新幹線が通過しているので新幹線新駅を空港に併設する構想があったが、これについてJR東海の須田寛相談役は「営業的には(新幹線新駅を)作った方がいいと思うが技術的に難しい」とコメントしている。また掛川駅と空港の位置が近接しすぎている為、これ以上新幹線の新駅を建設しても新幹線の運行ダイヤが確保しにくくなるなどの点でJR側は依然新幹線の静岡空港新駅の建設に対して消極的である。これらの事から静岡県議会は新駅の建設計画を凍結する形で推移している。2009年2月、静岡県議会で石川嘉延静岡県知事が空港の新幹線新駅に関して答弁するなど凍結したはずの新駅建設構想を蒸し返す動きを見せた。その後、静岡県知事となった川勝知事のもと、「静岡空港の魅力を高める有識者会議」が行われ、中長期的な課題として、新幹線新駅の実現が求められた。しずてつジャストライン「静岡エアポートライナー」富士山静岡空港静岡線のうち、静岡空港12:35発の便が清水港(日の出センター)にて、エスパルスドリームフェリー土肥港行きに接続。建設推進に関連する運動としては静岡県内の市町、市町議会、商工団体、業種団体等により「富士山静岡空港就航促進協議会」(旧・静岡空港建設促進協議会)が組織されている。

また、静岡県議会の知事与党会派(自由民主党、平成21、公明党)により県議会静岡空港利活用促進議員連盟が作られている。その他空港周辺地域の各種団体や周辺住民を主な構成員とする団体として「富士山静岡空港と地域開発をすすめる会」、「静岡空港一番機へ乗る会」、「静岡空港の早期開港をめざすはいばら女性の会」、「富士山静岡空港友の会」などがある。推進派の活動の中心は静岡県内の団体や賛成派住民である。

2011年4月11日月曜日

山梨県早川町新倉には

糸魚川静岡構造線の逆断層の露頭があり、2001年に「新倉の糸魚川-静岡構造線」として国の天然記念物に指定された。また、2007年には、糸魚川と早川の糸魚川静岡構造線が日本の地質百選に選定された(「糸魚川-静岡構造線(糸魚川)」と「糸魚川-静岡構造線(早川)」)。1918年に、東北帝国大学(現東北大学)の地質学者・古生物学者である矢部長克(1878年〜1969年)によって提唱された。しばしばフォッサマグナと混同されるが、糸魚川静岡構造線は「フォッサマグナの西辺」であって、「フォッサマグナ」ではない。フォッサマグナは、糸静線から東に大きく広がる地溝帯、すなわち「線」ではなく「面」である。糸魚川静岡構造線に沿って日本アルプスが造られており、飛騨山脈や赤石山脈の高山が沿線に連なり、天険を形成する。生態系は、糸静線を境にして大きく異なり、東半分を東北日本、西半分を西南日本という。糸静線沿線の主な山や高地には、白馬岳、乗鞍岳、上高地、赤石岳、身延山などが連なる。日本海側の東西境界線は新潟県と富山県の境に位置する親不知であり、内陸側の東西境界線は諏訪湖である。

ただし、太平洋側については、「糸魚川・静岡」の字義通りだと安倍川であるが、由比とする見方もある。これは、親不知に匹敵する大断層が由比に切り立っているためである。静岡県労働金庫は、静岡県静岡市葵区に本店を置く労働金庫。これまで、静岡県労金では従来の自前のシステムを採用していたが、2003年より稼動を開始した「新ユニティシステム(ろうきん新統合オンラインサービス)」に長らくの間は接続していなかったため、静岡県労金の顧客に対しては他地域のろうきん(新潟県ろうきんを除く)窓口・ATMによる取引に一部制限があった(詳細は労働金庫#窓口・ATMでの取引を参照)。システム移行後以降は他地域の労金の窓口・ATMでも取引ができるようになったが、システム移行以前に発行された通帳についてはATMを含め全て利用できなくなったため、口座を開設した静岡県ろうきんの本支店の窓口にて強制切替となる。2007年7月2日より、インターネットバンキング定期預金口座専用支店である、インターネット静岡支店が開業した。

駿府藩は、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)を中心に静岡県の駿河・遠江・愛知県の三河・山梨県の甲斐の地域に江戸時代初期に存在した藩である。駿河府中藩若しくは府中藩とも呼ばれる。尚、明治2年8月7日(1869年9月12日)に成立した藩は静岡藩と呼ぶ。慶応3年(1867年)の大政奉還により、江戸幕府は滅亡した。慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争で徳川氏は明治新政府に敗れ、第15代将軍・徳川慶喜は朝敵となる。しかし閏4月29日、新政府の中核の1人である三条実美は徳川氏の存続に尽力し、慶喜に代わって田安亀之助(徳川家達)を徳川氏の相続者とし、5月24日には駿河・遠江・陸奥等で70万石を与えたのである。こうして、静岡藩が立藩された。因みに、陸奥の領地は9月4日に三河に変更されている。明治2年(1869年)6月、府中(駿府)は、朝廷(維新政府・明治政府)や天皇に対し、「不忠」に通じるとして、静岡と改名し、藩名も静岡藩となった。直後の6月17日、家達は版籍奉還により静岡藩知事に任じられた。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で静岡藩は廃藩となった。家達時代の静岡藩の職制は、江戸幕府の役職をそのまま名前だけ変えて踏襲した物が大半だった。また、家達が幼少の為、準中老に大久保一翁、幹事役に勝海舟や山岡鉄舟らが任じられ、政務が行なわれている。因みに政府との交渉は、新政府寄りである勝海舟によって行なわれた。しかし、江戸時代の幕府天領・旗本領の総計約700万石と比べて十分の一の石高での立藩であり、新たな俸禄で生活可能な人数を超える旧幕臣や郎党が移住した為、その生活扶助の為に藩の財政は早くも悪化した。その為、旧幕臣の渋沢栄一が起用され財政再建が行われた。静岡茶は、静岡県で生産されているお茶(緑茶)であり、そのブランド名である。牧之原台地とその周辺地域がその最大の生産地であり、生産量は国内第一位である。また、東海道新幹線や東名高速道路などを利用して東京から名古屋、大阪などに移動する場合、静岡県内の茶産地を通過することになり、周囲を茶畑に囲まれた光景に出会うことになる。

首都圏に近い茶産地であることからも、関東地方に住む人にとっては静岡県といえばお茶、というイメージが強い。宇治茶と並び「日本2大茶」と称されることもある(「日本3大茶」として狭山茶を含める場合がある)。社団法人静岡県茶業会議所と社団法人日本茶業中央会により、以下の厳格な表示基準が規定されている。基準を満たさないものは静岡茶の表示を行うことができない。静岡茶 - 静岡県内産茶葉を100%使用したもの。静岡茶ブレンド - 最終加工地が静岡県で、静岡県内産茶葉を50%以上100%未満使用したもの(配合比率を表示すること)。他県産、海外産の茶葉も使用される。静岡空港は静岡県島田市と牧之原市に跨る地方管理空港である。富士山静岡空港という愛称がつけられているが、富士山は静岡県を代表する名所として名づけられた愛称であり、当空港から富士山への近さや利便性を示すわけではない。1987年、静岡県知事斉藤滋与史により島田市、旧榛原郡榛原町(牧之原市)への空港建設が決定された。

1996年の運輸大臣亀井善之による設置許可を得て、整備が開始された。2009年3月開港予定だったが、空港近隣にある伐採対象外の樹木が航空法の制限(制限表面)に抵触する問題があることが2008年9月に判明し翌10月、暫定的に滑走路を短くする工事を行うことが決まった。そのため延期されることが県より公式に発表され、2009年6月4日に開港。なお、2,500メートルへの延長工事は8月27日に完成した。総事業費は約1,900億円、そのうち空港本体の事業費は約490億円。空港整備特別会計からの国庫補助金は約245億円であり、約1,655億円が静岡県の支出となる。国が離島以外の地方空港新設を抑制する方針を打ち出していることから、マスコミなどから「最後の地方空港」と呼ばれている。静岡県はJAL福岡便について、搭乗率が70%未満の場合運航支援金を支払う覚書を締結した。JALの福岡便は、搭乗率が64.6%のまま、2010年3月末で運休となった。このため、2010年5月にJALは、覚書に基づいて静岡県に対して運航支援金1億5,300万円の請求を行った。

しかし、静岡県は、JALが一方的に静岡空港から撤退したにも拘らず支援金の請求をすることは信義に反するものとして、支援金の支払いを拒んだため、JALは、2010年11月10日に東京地方裁判所に、静岡県を被告として1億5,300万円の支援金の支払いを求める訴えを提起した。

2011年4月10日日曜日

葵区、国吉田地区を除く東海道線より北の地域と

旧清水市楠、鳥坂の各一部※楠は一部が瀬名川三丁目に、鳥坂も一部が東瀬名町および瀬名一丁目に編入されている)駿河区(長田、丸子、国吉田地区と旧静岡市東海道線より南の地域と旧清水市谷田、草薙の各一部※いずれも町域で谷田に編入されている)清水区(旧清水市の全域(楠、鳥坂、谷田、草薙の各一部を除く)、旧庵原郡蒲原町、由比町の全域)静岡市・清水市合併協議会において、合併後に東静岡駅周辺に新しく事務所を建設することが決定した。新市発足時にも、地方自治法第四条の1の規定に基づく市の事務所の位置は条例において、本則では新事務所建設予定地であった「静岡市長沼663番地の9」(制定時の地名、NTTドコモ静岡ビルの東隣)とし、附則として、完成するまでは暫定的に「静岡市追手町5番1号」(同、静岡庁舎の位置)と定めた。しかし静岡市長小嶋善吉は2008年12月、老朽化した草薙体育館を新事務所建設予定地に移転するよう静岡県知事石川嘉延に求め、新事務所の建設予定は白紙撤回された。

パブリックコメントや市議会(特別議決)を経て、2009年4月1日施行の市条例において、同附則を削除し、本則を「静岡市葵区追手町5番1号」(静岡庁舎の位置)と改めた。静岡市は、行政組織に局制を採用している(同クラス自治体の静岡県と浜松市は部制を採用している)。なお合併から政令指定都市移行までは部制を採用していた。現在の静岡市は、以前の静岡市(旧静岡市)と清水市(旧清水市)の新設合併(静清合併(せいせいがっぺい))により、2003年4月に発足した。市の名称については、合併の際の合併協議会の多数決により「静岡市」となった。したがって現静岡市は、制度上旧静岡市とは別個の自治体である。同様の例は数多くあり、県内では磐田市、掛川市、袋井市(いずれも2005年4月1日合併)や島田市(2005年5月5日合併)等があげられる。2005年4月1日には、さいたま市(2003年4月移行)に続いて全国で14番目の政令指定都市に移行した。2006年3月31日には蒲原町を編入し、これによって飛地が発生した。

これは、同じく庵原郡由比町では新静岡市との合併が議会で否決され、富士川町では合併相手として新静岡市を選ぶ割合が少数派だったためである。ただし、由比町では住民投票で合併賛成派が多数となった。2007年4月22日の由比町長選挙では合併推進の現職が当選、町議会議員選挙でも合併推進派が過半数となった。これに伴い、5月1日の由比町議会で、5月14日から合併推進室を設置することが可決された。これに基づき、「静岡市・由比町合併協議会」を再度設置して協議が進められ、2008年11月1日に合併することで双方が合意した。12月5日に合併調印式を開催。2008年11月1日には由比町を編入し、飛地を解消した。葵区郊外の安倍川上流の地区は、日本で緑茶栽培業が興った土地でもある。これ以降、安倍川上流の郊外部では緑茶栽培業が盛んになり、江戸時代には徳川将軍家に献上する御用茶の栽培が行われた。北原白秋作詞の『ちゃっきり節』は、地元鉄道会社(現静岡鉄道)のコマーシャルソングとして作られたが、今では茶どころ静岡の新民謡と言える。

また、ワサビ栽培業の発祥地も、奥安倍の有東木(うとうぎ)地区である。また、足久保地区は、日本で初めて緑茶が植えられた地である。静岡駅周辺は、大型店や商店街、公共施設や鉄道駅の間に有効的な回遊性・回廊性を持っており、効率的に集積した構造の商業地区となっている。2006年度の調査では富士市から御前崎市までの約160万人が基本的な商圏人口であると発表された(2006年度は西武百貨店静岡店が撤退し、静岡パルコが開店する前の空白期間である)。2007年3月に開店した静岡パルコに加え2007年10月に開店したSHIZUOKA109や、2011年10月出店の東急ハンズ、その他の商業施設再開発計画などにより、更に商圏が拡大する可能性がある。市街地が密集しており、人通りも多いことから今後さらに商業施設ができると考えられる。旧静岡市の郊外大型ショッピングセンターの市民一人あたり床面積は全国でも最少水準である。これは旧大規模小売店舗法時代に地元の商業関係者の反対活動によりなかなか出店ができなかった影響である。

大規模小売店舗立地法になってからは企業私有地の有効活用などで徐々に増えてきたが、もともと平野部の人口密度が高く、安価で大規模な開発用地が残されていないため店舗面積3万平米を越えるような大型ショッピングセンターは未だに建設されていない。 このような旧静岡型の商業体系は閉鎖的であるとかつては批判されていたが、時流が変わり結果的にそれが中心商店街の活性化維持に繋がった。 しかし一方で、旧静岡地区全体の商業販売高の減少率は郊外店舗が展開する近隣地域より大きく、今後に課題を残している。 なお、2008年に東静岡駅前に三菱地所が約26000平米の敷地に大型商業施設を建設する計画が浮上した。建築規模は未定だが、市内初の30000平米超の店舗面積になる可能性が高い。改正都市計画法により郊外開発が大幅に制限される一方で、東静岡駅周辺は改正都市計画法による出店規制を受けない商業地域、近隣商業地域に用途指定されているために高度利用が可能な大規模開発用地として注目が集まると予想される。

こういった開発が想定されるなかで中心市街地には如何に独自性を保ち、それら開発案件と共存していくか、など新たに浮上する課題もある。呉服町:静岡駅寄りのニ丁目は静岡県内最大の繁華街。空き店鋪がほとんどなく人通りも多い。一丁目には静岡銀行の本店があるものの、静岡伊勢丹と静岡銀行本店との間の区間は、静岡駅からもっとも離れており、人通りは比較的少ない。紺屋町(こうやまち):静岡駅開業と共に発達した街。直下に小規模な地下街があり、駅に直結している。静岡駅前地下街爆発事故以降、通りの再開発が進み、静岡パルコの開業とも相まって、一時少なくなっていた地上部分の人通りが最近は多くなっている。御幸町:静岡市において老舗と呼べる百貨店松坂屋、その裏手にある丸井が買い物客を吸引する大きな力となっている。特に90年代半ばの丸井静岡店の増床改築により、若年層の買い物客をさらに集めているほか、隣接する伝馬町に109が開業したことから、現在においては一番活気のある場所とも言える。

七間町:旧東海道沿いの映画館や飲食店の集積するかつては静岡市内で最も賑やかな通りであったが、娯楽としての映画の地位低下でやや賑わいが乏しくなっている。それでも石畳風の車道、大理石の歩道と整備されたけやき並木など、風格を保っている。静岡駅寄りの二丁目は飲食店の集積した静岡県内最大の歓楽街、銀座の発祥地である一丁目には衣料品店、雑貨店などが多い。糸魚川静岡構造線とは、親不知(糸魚川市)から諏訪湖を通って、安倍川(静岡市)に至る大断層線である。略称は糸静線(いとしずせん)。全長は140〜150kmで、北は長野県小谷村付近から南は山梨県櫛形市付近に達し、「北部」(神城断層、松本盆地東縁断層)、「中部」(牛伏寺断層、諏訪断層群、岡谷断層群、釜無山断層群)、「南部」(白州断層、下円井断層、市之瀬断層群)の3つの断層帯で構成される。

2011年4月9日土曜日

全国向けスポーツ紙は

東京都もしくは神奈川県で印刷して静岡県内に輸送している。紙面の一部を静岡県版として割いている物が多い。中日新聞系スポーツ紙は、中日スポーツ(伊豆地方の一部を除く静岡県全域)・東京中日スポーツ(大井川以東)が販売されている。東京スポーツは大井川以東で、中京スポーツは大井川以西でそれぞれ販売されている。 いずれの局も静岡県内のみを放送範囲とするいわゆる県域放送局である。いずれの局も全県で受信可能。SBSとテレビ静岡はアナログ放送に限り、大井川以東と大井川以西で別々の放送免許を持っているため、地域ごとにCMを差し替えるなど別編成の放送が可能である。また、NHKも、大井川以西の地理的・地域的事情を考慮して浜松放送局を開局させたが、浜松局の独自放送はほとんど行われず、機構改革の際に静岡放送局へ統合された。現在は、静岡放送局の支局として、報道取材拠点や資料センター、および中継局の役割を持っている。テレビ東京が2011年を目途に静岡県に系列新局開局、もしくはテレビ愛知の放送エリア拡大の構想を発表しており、今後の成り行きが注目される。

静岡県のテレビ放送の特徴として、大阪や名古屋より東京の方が近い事もあり、東京キー局同時ネット番組の放送が比較的多く、NHKもNHK名古屋放送局の管轄地域(東海北陸・又は中部)になっているにも関わらず管内他局が名古屋からの番組を放送している中、極稀に静岡だけ県内ローカルを放送したり、関東甲信越地方の番組やニュース素材をネットする事がある。デジタル放送では三島テレビ中継局や日本平の混信・隣接抑圧等の為ほぼ受信不可能。デジタル放送でCATV再送信しているのはNHK東京・テレビ神奈川・東京MXテレビ位しか無い。但し、伊豆半島東岸では神奈川県の小田原テレビ中継局でデジタル放送を受信可能かと思われる。だが、東部地区のケーブルテレビ局のビック東海、伊豆急ケーブルネットワーク、東豆有線、伊東テレビクラブ、東伊豆有線テレビ放送、小林テレビ設備では日本テレビ、TBSテレビ、テレビ朝日、テレビ東京、フジテレビの地上デジタル放送再送信を行なっている。

しかし、放送期間が2014年7月24までとなり、それ以降は東京キー局が視聴できなくなる。特に、静岡県に系列局のないテレビ東京については、一部のケーブルテレビ局で、放送期間終了後も再送信を続けるよう協議していくところがある。かつてはMegaNet系列の「愛知国際放送(RADIO-i・本社名古屋市)」も浜松市に中継局を置いていた(在名局で唯一静岡県の一部も公式放送区域としていた)。しかし同局は開局当初からCM収入が伸び悩んでいたため慢性的赤字を解消出来ず(単年度黒字化を一度も果たせず)経営破綻。2010年9月30日24時を以て(2000年4月1日の開局以来10年半にわたり続いた)放送を完全終了。(会社更生法や民事再生法適用を申請しての経営再建や他社への経営譲渡は行われず)日本の県域地上波民放としては史上初の「閉局(廃業・廃局)」に追い込まれた。放送免許は同年10月7日付で総務省東海総合通信局へと返上され、法人としての「愛知国際放送」は清算手続きを経て完全消滅した。

伝統的に旧制中学校を前身とする下田北高(2008年に下田南高と統合し下田高となる予定)、韮山高、沼津東高、富士高、清水東高、静岡高、静岡市立高、藤枝東高、榛原高、掛川西高、磐田南高、浜松北高、浜松西高の各公立高校が地域の進学校とされている。私立高校についても、浜松日体高、日大三島高、東海大翔洋高などの大学付属高や、静岡雙葉高、不二聖心女子学院高などの中高一貫女子校、中高一貫男子校である静岡聖光学院高といった特色のある高校が存在し、優秀な人材を輩出している。入学希望者に対し県内の高等教育機関が不足しているため、県内の高校生は県外に進学する者が比較的多い。県内に大手企業の本社が多いこともあって、Uターン、Iターン就職者が比較的多い。6年制課程または専門職大学院としては、医学部が浜松医科大学、薬学部が静岡県立大学、法科大学院が静岡大学にそれぞれ存在する。静岡市は、静岡県中部に位置する政令指定都市であり、同県の県庁所在地。

静岡県の東西のほぼ中央、東京都区部と名古屋市のほぼ中間の太平洋ベルト地帯上に位置し、範囲は駿河湾から赤石山脈(南アルプス)まで南北に広がる。2003年4月の旧静岡市と旧清水市との合併でいわき市を抜き、2005年2月に高山市が周辺9町村と合併するまで、日本一広い面積を持つ市であった。現在では、高山市、浜松市、日光市、北見市に次いで、全国で5番目に面積が広い市で、都道府県庁所在地の市としては日本最大である。南北に静岡県を貫いており、東海道ルートで長距離移動する際、本市を横切らずに東西に移動することは不可能である。これは同じ静岡県の政令指定都市である浜松市についても同様である。静岡県内では統計上浜松市に次いで総人口・面積共に2位であるが、人口集中地区、商圏の規模は県内最大である。静岡市は県中央部に広大な市域を擁し、その中心市街地は、駿府城・静岡駅周辺と、清水港・清水駅周辺の二極を中心に形成されている。

静岡地区は行政と商業の集積地、清水地区は港湾と工業の集積地と、それぞれ異なる地域性を有している。それぞれのほぼ中心に位置する静岡駅と清水駅との間は約11km離れており、完全二極型都市となっている。 また、静岡市街地と清水市街地の中間に位置する東静岡駅周辺に、文化施設などを主体とする新市街地を建設中であり、行政機関の移転も検討されている。ちなみに、国の中心市街地活性化基本計画が同一市域内の2地区(静岡地区、清水地区)に認定されたのは、北九州市に次いで全国2例目である。2005年4月1日の政令指定都市移行に伴い、3つの行政区が設置された。行政区の数は政令指定都市の中では相模原市と並んで最も少ない(次に少ないのは岡山市の4区である)。これは、従来の行政管轄や地域流動をそのまま移行させ、移行による混乱を最小限に抑えるためであること、コスト面、サービス面でバランスが良い1行政区あたり20万人前後という適正人口目安に沿うように設定しているからである。

2011年4月8日金曜日

中央から派遣された国司が

政務を司る政庁は、国府に置かれ、国衙と呼ばれた。まず、遠江国府は磐田市御殿二宮遺跡が、駿河国府が静岡市駿府城東南地区が候補地としてあがっているが、伊豆国府は三島市内に候補地を見出していない。その土地の国造や新興の有力者が就任した郡司の郡衙は郡家とも呼ばれた。官衙遺跡では、浜松市の伊場遺跡・城山遺跡・梶子遺跡・梶子北遺跡が発掘されている。これらの遺跡は敷智郡家および関連官衙(館・厨)や栗原馬家など地方官衙が複合する遺跡と考えられている。また、これらの遺跡は、出土する木簡から天武朝に溯る事が分かり、柱立建物が13~14棟、絵馬・墨書土器が検出されている。このほか、藤枝市御子ヶ谷遺跡(国指定遺跡)と秋合遺跡は駿河国志郡家遺跡と考えられ、袋井市坂尻遺跡(佐野郡家ヵ)、藤枝市郡(こおり)遺跡などの郡衙遺跡の存在が明らかになってきている。律令制で中央集権国家が形成されるに従って、現在の静岡県内に有った国造は、伊豆国、駿河国、遠江国という3つの令制国に合併・再編された。

律令制下には、遠江国には白輪官牧(しろわのかんまき)があり、その後荘園化し白羽荘と称した。故地は御前崎西方の砂丘地帯から北方の牧之原台地におよぶと推定される。駿河国には岡野(大野)・蘇弥奈の2官牧がある。前者は愛鷹山の東南麓、現沼津市の大岡・金岡・愛鷹を中心とする地域に存在し、後に大岡牧、あるいは大岡荘と呼ばれる荘園になった。後者の位置は明確でないが、現静岡市街地の西北、安倍川と藁科川とに囲まれた牧ヶ谷から美和の内牧に至る一帯の山地と思われる。伊豆国では、官牧の存在が明確ではないが、現伊豆市修善寺町に牧之郷という地名がある。後にこれらの地域に武士団が簇生した。伊豆国は畿内から遠いために、流刑地の一つとされていた。一方で、駿河国には藤原南家の末裔(まつえい)の多くが住み着き、土着したようである。遠江国の国分僧寺は磐田市中央町に、国分尼寺はその北にあったことが確かめられている。駿河国分僧寺は静岡市大谷の片山廃寺がその有力候補とされており、国分尼寺は不明である。

伊豆国分僧寺は三島市泉町に、国分尼寺は三島市南町にあった。江戸幕府が倒されて明治維新が起こると、1868年5月には、駿河国の天領・沼津藩・田中藩・小島藩・交代寄合の榊原家の久能陣屋、諸旗本領、遠江国の相良藩・横須賀藩・掛川藩・浜松藩・交代寄合の近藤家の気賀陣屋、諸旗本領が合併されて、静岡藩(70万石)が設置され、徳川将軍家の徳川慶喜が入った。同年6月、伊豆国(旧韮山代官領)の地域に韮山県が成立した。同年9月、旧堀江陣屋(5600石、申告1万6石。今の浜松市舘山寺地区)が堀江藩に昇格した。そして、1869年には、駿府は静岡に改名された。1871年8月29日の廃藩置県では、静岡藩は静岡県に置き換わり、堀江藩が堀江県に置き換わった。同年12月31日には、当時の静岡県は分割され、駿河国部分が静岡県となり、遠江国部分は浜松県となった。堀江県は浜松県に編入された。韮山県は、荻野山中県や小田原県と合併して、足柄県となった。

しかし、1876年4月18日には足柄県が分割され、相模国部分は神奈川県に編入され、伊豆国部分は静岡県に編入された。そして、同年8月21日になると、浜松県が廃止されて静岡県に編入された。1878年には、伊豆諸島が東京府(現在の東京都)に編入された。このように、伊豆国、駿河国、遠江国の3国が、1876年に行われた県の合併によって、現在の静岡県となった。静岡県は、「住んでよし、働いてよし、訪れてよし」の「富国有徳の日本の理想郷」を創るための施策に取り組んでいる。「富国有徳」は、前知事石川嘉延の県政キャッチコピー「富国有徳――しずおかの挑戦」にも現れるが、これは現知事川勝平太の著した『富国有徳論』(1995)の思想に賛同したもの。静岡県は、富士川と大井川を境として、東部、中部、西部の3地域に区分される。東部はさらに狭義の東部と伊豆に分けることもある。ただ富士川より西にあり中部であった旧富士川町が2008年11月の富士市に編入されたことで富士川による境は実質なくなってしまい、県庁による地域区分でも必ずしも川が境界線とは限らない場合がある。

静岡県内には以下の23市5郡12町がある。村は旧龍山村が浜松市と合併したことにより2005年6月30日をもって消滅した。「町」の読み方は、森町のみ「まち」で、それ以外は「ちょう」。旧駿河国のうち富士川以西と、旧遠江国のうち牧之原台地以東に相当する。市外局番は054または054Cであり、郵便番号は42から始まる。自動車のナンバープレートは「静岡」である。静岡県内を主な購読地域とする地方紙。静岡県内一円に取材拠点を置いており、静岡県内情報や茶業情報については最も詳しい。系列テレビ・ラジオ局を有し、県内に一大メディアグループを築いており県内各界への影響力も大きい。囲碁の碁聖戦主催紙の一つでもある。静岡市で印刷している。特定の系列販売店はないので、県内の大半の新聞販売店で購入が可能である。 全国紙は基本的に東京都もしくは神奈川県、愛知県の工場で印刷して静岡県に輸送している物が多い。いずれの新聞も、紙面のうち1~2面程度の広さを静岡県内記事(静岡県版)に割いている。

静岡県版は、静岡県東部版、静岡県中部版、遠州版の3つに分けられているが、支局の表示は3つとも同じである。読売新聞は、静岡県向けの朝・夕刊は神奈川県横浜市瀬谷区の横浜工場で印刷され、大井川以西の同夕刊及び浜松市向けの朝刊は愛知県清須市の清須工場で印刷されている。朝日新聞は、天竜川以西に限り、名古屋市の名古屋本社(北名古屋市の西春工場で印刷)で編集・発行となっている。毎日新聞は、静岡県向けの朝・夕刊は神奈川県海老名市の毎日新聞首都圏センター海老名工場で印刷されたものが販売されているが、大井川以西の夕刊は名古屋市中区の毎日新聞名古屋センターで印刷されたものが販売されている。日本経済新聞は、東京本社が編集し、紙面印刷を静岡新聞社に委託している。このため、静岡県内向けには静岡市から各販売所に配送されている。

2011年4月7日木曜日

静岡県は

太平洋に面する、日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。2011年現在、都道府県別人口は第10位である。また静岡市と浜松市の2つの政令指定都市、及び2つの特例市を有する。なお、静岡県より人口の多い都道府県は東京都を除き全て政令指定都市を有している。北部には富士山や赤石山脈といった3,000m級の山々がそびえ、ここからいくつか河川が流れている。東部は火山が多く、西部には台地が見られる。静岡県内には糸魚川静岡構造線が走っており、安倍川がその南端に当たる。したがって、地質構造は安倍川を境にして県の東西で全く異なっている。県の形は、金魚の形に似ているともいわれている。名目上の行政区分で、東日本、中部地方、広域関東圏などに区分されている。また、名古屋圏や関東地方からも独立した地域として、「静岡(県)地方」とされるケースや、静岡県のみで東海地方とされるケースも存在する。しかし、糸魚川静岡構造線を挟んで東側と西側に広い面積を占めているため、行政やその他諸々の区分では、これらとは違う区分に属することもある。とりわけ、関東地方と中部地方の両方に扱われることがある。

特に、熱海市や御殿場市は長野県軽井沢町や福島県いわき市などとともに関東地方の一部として扱われることが多い。静岡県は、歴史的・文化的経緯や人口・面積の比率・経済等を勘案して、東日本に分類される事が多い。しかし、日本の経済の重心が首都圏に偏っている事から、特に経済分野で相対的に弱い西日本を補完する為に、稀に西日本に分類される事もある。NTTの東西分割の際、静岡県がどちらに編入されるか問題になった事もあり、本来なら東日本に組み込むべきなのに、名古屋と同じNTT東海のエリアだった事や東西で利用者数や資産規模のバランスを均一化する為か、NTT西日本のエリアに編入された程でもある。静岡県(知事)は、中部圏知事会議と関東地方知事会の両方に所属している。中央省庁や民間企業の管轄も、中部地方(東海地方)とする機関と関東地方とする機関が混在している。この場合、中央省庁の出先機関の所在地が、関東は東京に置かれ、中部は名古屋に置かれている場合が多い。

静岡県全域を関東に入れる企業もあれば、(2) 静岡県全域を愛知県西部などと一緒で東海や中部に入れる企業もあり、(3) さらには静岡県全域で東海とする企業もある。(4) 特定の川で静岡県を分割する企業もあるなど、エリア区分は各社ごとに異なる。企業のエリア区分は、それぞれの監督官庁のエリア区分を反映している物が多いが、基本的に静岡県が地域分類される場合、大まかに分けて次の4分類のいずれかが見られる。次に多いのがこの分類である。また、大井川以西(旧浜松県)のみを「中部(東海)」として、大井川以東を「関東」とする例も最近では見受けられ、静岡市から新幹線で東京や横浜に通勤・通学する人間も意外と多い。日本ビクター、ダイア建設など、神奈川県全域と静岡県全域を一緒にするエリア区分も少数ながら存在する。この枠組みでは、横浜を業務拠点として、静岡県はその管轄下となるケースが多い。なお、コカ・コーラセントラルジャパンは、山梨県・神奈川県・静岡県の3県全域(旧称:富士コカ・コーラボトリング営業エリア)を富士地区統括としている。

1923〜1930年の間、全国高等学校野球選手権大会の地方大会として神静大会が行われていた。 静岡県労働金庫や日本金融新聞社のように、首都圏や名古屋圏とも別にして、静岡県を単独のエリアとするエリア区分も存在する。この場合、静岡県が「東海」と区分されることがある(例えば、東海工業地域《静岡県》と中京工業地帯《愛知県・三重県・なお、ユニーのように、静岡県全域と山梨県で「静岡ブロック」「山静(甲静)ブロック」とするエリア区分も存在する。静岡県を巡る道州制の区割り案について、地方制度調査会は、9道州案では中部州、11道州案や13道州案では東海州に含まれるとしている。また、国土交通省の広域地方計画では、静岡県は中部圏に含まれるとしている。ただ西部を除く地元住民の多くは道州制で関東入りを望んでおり、特に東部では国政への発言力増大のため、静岡県東部 政令指定都市構想が出される等動きが活発であり、今後の動向が注目される。旧石器時代には1960年~62年、静岡県西部の浜北市根堅(現浜松市浜北区根堅)において、約1万4000年前に生息の浜北人の人骨が発見された。

2002年9月、科学的な測定法で確認された。浜北人骨は20歳代の女性で身長143センチと考えられている。人骨の発見以来、県内での調査例が増加し、今では200カ所近くに達している。場所は、天竜川左岸の磐田原台地西端一帯、沼津市の背後の愛鷹山南麓、箱根山西麓の3カ所に密集している。縄文時代の遺跡総数は約2000カ所を超える。縄文草創期の遺跡は少ないが、伊豆の国市大仁町仲道A遺跡で土器が出土している。早期になると撚糸文(よりいともん)や押型文(おしがたもん)の土器が集落跡から出土している。その後(約7000~8000年前)愛鷹山南麓から箱根山西麓・伊豆半島にかけて集落が急増し、県中部にかけても広がっていく。縄文前期には、遺跡数が減少するが、前期末から中期・後期前半までになると、遺跡数も増加し、県内の縄文最盛期を迎える。東部では集落遺跡・住居の形と構造・土器・土偶・石棒・石斧などの様相が類似・発達した文化が伊豆半島から掛川市付近まで広がっている。

それに対して、西部の遠江平野では、近畿・瀬戸内地域の土器が流入し、伊那谷系の土器なども分布し、東部とは様相を異にしている。また、矢尻として多く使用された石鏃の原料の石材も県内西部の天竜川付近までは、畿内の二上山産出のサヌカイトや下呂石などが大量に使用されているのに対し、東部では八ヶ岳や神津島の黒曜石が主流である。遠隔地との交易・交流が盛んに行われていたことが分かる。縄文後期後半になると遺跡数が、東部では激減し、中・西部では緩減する。一方では儀式用の石器が普及し出す。1958年~60年、静岡県西部の三ヶ日町只木(現浜松市北区三ヶ日町只木)で、約7500~9500年前に生息の三ヶ日人の住んでいた遺跡が発見されている。また、約4000~6000年前のものとされる全国的に見ても大規模な集落跡である千居遺跡が静岡県東部の上条地区(現富士宮市)で確認されている。弥生時代には、静岡市駿河区登呂で、弥生時代の水田、住居跡などが発見されている。

2011年4月6日水曜日

レディオエイティ

岐阜本局の周波数である80.0MHzに由来。ちなみにこの周波数は加盟しているJFNのキー局であるTOKYO FMと同じ周波数である)。新聞のラジオ欄などにはFM岐阜とも書かれるが、産経新聞の東海・三重版と福井版では「Radio80」と表記されている。JFN系列。日本で開局した民放FM全53局、さらには日本の民放地上波放送局全192局の中で最も遅く開局した局で、全地上波民放192局中唯一21世紀になって開局した局でもある。なお、東海3県の県域以上の民放FM局はこの局が最後と思われる。以前から「純欠損」という経営危機の状態だったことから、通常は5年とされている放送局免許の有効期間が短くなっており、ほぼ毎年電波法の規定による再免許の申請をしなければならなくなっている。2011年についても4月28日付官報本編にて所管大臣片山善博名義で手続開始が公示された。関連して同年下旬より在名放送局とぎふチャン、同じJFN系列の県域局であるradio CUBE FM三重で試験放送を開始したradikoには唯一不参加。県域AM局として岐阜新聞系列の岐阜放送があり、1980年代後半まで郵政省が、県域AM局経営安定の観点から県域FM局の周波数割り当てを渋っていた。

新幹線駅のある羽島市と大垣市が本社候補地となり、選定が難航しなかなか定まらなかった。県南部の美濃地方では、平野部を中心にFM AICHIやZIP-FMが容易に入り、割り当て気運が低かった。中日新聞と岐阜新聞が仲が悪く、経営権などで長期にわたって両新聞社が争っていた。現在、定時ニュースは中日、岐阜の両新聞社から提供を行っており、2005年11月より両社のCMが流れるようになった(同様の例がエフエム石川においての北國新聞と北陸中日新聞との対立)。ちなみに中日新聞と岐阜新聞はテレビ愛知に揃って出資している。良好に聴取可能なエリアは岐阜県内全域と愛知県稲沢市・岩倉市・小牧市・春日井市以北、三重県桑名市多度町・いなべ市北勢町である。また本局は名古屋市内の一部で、中津川中継局はテレビの中継局同様に愛知県の西三河・知多半島地域ではごく稀に聴取できる場合がある。岐阜メモリアルセンターは、岐阜県岐阜市にあるスポーツ施設等を有する公園。

岐阜県県営の都市公園である。施設は岐阜県が所有し、岐阜県イベント・スポーツ振興事業団が運営管理を行っている。市街地北側、長良川右岸側に位置する運動公園。名称は「センター」だが、県が運営する都市公園のひとつである。現在メモリアルセンターがある岐阜市長良福光にはかつて1965年に開催された第20回岐阜国体に合わせ、岐阜県営グラウンドとして岐阜県営野球場などのスポーツ施設が整備され、また数百m離れたところには岐阜刑務所があった。しかしいずれも老朽化し、更に刑務所も市内の別の場所(岐阜市則松地区)へ移転したため、県はこれら施設を撤去した後、新たにスポーツ施設を建設して運動公園として整備する方針を決めた。敷地は一旦更地化された後、1988年に開催された「ぎふ中部未来博」のメイン会場として使用され、未来博終了後からメモリアルセンターの整備事業が本格的に始まり、1991年に長良川競技場など一部施設が竣工し開場。その後も整備が進められ、数年後に全施設が完成した。

敷地内にはぎふ中部未来博の記念塔である岡本太郎作の「未来を拓く塔」や、高橋尚子の金メダル獲得を讃えゴールシーンを模した「高橋尚子像」など競技施設以外の見所も多い。2041年10月25日に観測される金環日食の中心線がこの公園を通過する。岐阜大学医学部附属病院は、岐阜県岐阜市にある国立岐阜大学の附属大学病院。特定機能病院の承認を受けるほか、臨床研修病院、高度救命救急センター、災害拠点病院(基幹災害医療センター)に指定されている。かつて岐阜市司町に存在した時代、1988年(昭和63年)6月に廃線された、名古屋鉄道岐阜市内線(通称長良線)には、「大学病院前駅」が存在していた。岐阜市司町の旧大学病院は、3代目岐阜県庁舎(現、岐阜県岐阜総合庁舎)の西に隣接していた。2008年(平成20年)には、映画『ジェネラル・ルージュの凱旋』の撮影が行われた。岐阜大学には、全国でも数少ない大学附属の動物病院である、岐阜大学応用生物科学部附属動物病院(通称、岐阜大学動物病院)がある。こちらは岐阜大学応用生物科学部獣医学課程に附属する動物病院である。

2011年4月5日火曜日

現在の信長の庭あたりにかつて存在していた。

ライオンやフンボルトペンギンなど昭和30年代~40年代には珍しい動物が飼育されていた。ライオンのつがい「金ボタン」「銀ボタン」は、人間で100歳を超える長寿であり、剥製が岐阜市役所に展示されていた。2002年から開催の住民の有志でつくる実行委員会が主催、岐阜新聞・岐阜放送が協賛の電飾コンクール。一般部門と子供部門に分けてブース作品のコンクールを行っている。岐阜新聞は株式会社岐阜新聞社が発行する岐阜県の地方新聞。岐阜放送(GBS・ぎふチャン、1962年創立の完全子会社)とのメディアミックスで郷土・岐阜県に根ざした地域情報の発信を目指している。朝刊、夕刊を発行しており、発行部数(日本ABC協会調査)は約17万7000部(朝刊、2008年10月現在)。岐阜県でのシェアは30%未満にとどまっているが、これは地域エリアで重なる中日新聞(中日新聞社発行・本社名古屋市)が50%超と強いためである。 静岡新聞社が発行をする静岡新聞と同じく中日vs地元紙との競合地域である。

岐阜県で発行される新聞では中日や他の大手新聞よりも低価格である。1990年から日刊スポーツ名古屋版の発行・印刷を委託されている。(岐阜県内では朝日新聞に加え、岐阜新聞の販売店で宅配も受け付ける。以前GBS岐阜放送の番組欄に「ご購読お申し込みは岐阜新聞販売店にお問い合わせ下さい」と掲載されたことがあった。更に、岐阜新聞の折り込み広告と一緒に日刊スポーツの購読促進用簡易版が入っていたことがあった。)現在の日刊スポーツ名古屋版は、朝日新聞系の朝日プリンテック西春工場(愛知県北名古屋市)で印刷されている。読売新聞とは、同新聞主催でほぼ毎年長良川球場で行われる巨人のオープン戦を後援しているほか、文化事業で協力することもある。なお岐阜新聞系の岐阜放送は読売と親しいRFラジオ日本と親しい。2000年に朝日新聞社と包括的友好協力協定を結んだ。社説は共同通信が配信する物を題名だけ変えてそのまま使用。日本の県域新聞の多くはこの形をとっている。

株式会社岐阜放送は岐阜新聞社と同一敷地内にあったが、2007年11月11日に岐阜駅前の高層ビル「岐阜シティ・タワー43」の4階に移転した。岐阜新聞と岐阜放送の取材拠点などは同一。最終面のテレビ番組表では、岐阜県で読める新聞では唯一、フルサイズで掲載されている。1992年4月以降、テレビが「岐阜テレビ」、ラジオが「岐阜ラジオ」(岐阜エフエム放送(Radio80 FM岐阜)具体化に伴い後にAM岐阜ラジオに改称)の愛称であったが、2007年10月1日、本社社屋移転と2008年にラジオ開局45周年とテレビ開局40周年を迎えるのに伴いテレビ・ラジオとも「ぎふチャン」に統一した。中日新聞とは犬猿の仲で知られ、中日新聞の岐阜版ではテレビの扱いは地元の県域局ながらハーフサイズ、ラジオの番組でも岐阜版はハーフ、愛知版に至っては2010年9月30日までは極小サイズに追いやられていた。対して岐阜放送は、愛知県方面へのスピルオーバーを電波が名古屋市内の大半で受信困難なほどに制限したり、AM岐阜ラジオでは、中日ドラゴンズの試合結果を放送するときに、通常使われる「中日対巨人」等という言い方ではなく、「ドラゴンズ対巨人」等と言い換えるなどしている。

但し、Web上での文章では通常通り「中日」を使用している。中日成立前の名古屋新聞(小山家)・新愛知(大島家)と、岐阜新聞の前身である岐阜日日新聞との関係は、名古屋を中心に岐阜と近接した地域を主な地盤とした前者とは犬猿の仲だった一方、岐阜から離れた三河地域を主な地盤とした後者とは競合が薄かったためか比較的良好だったとされる。また、東京新聞(中日新聞東京本社)との関係が深いTOKYO MXからはヤクルト対中日戦をネット受けしている。岐阜放送が岐阜シティ・タワー43に移転した後、岐阜放送の旧社屋跡地には岐阜新聞の新印刷工場が新たに建設された。なお、愛知県にあるTXN系列のテレビ愛知に中日新聞社共々出資している他、Radio80 FM岐阜の定時のニュース番組を中日・岐阜両新聞社より記事提供を受けている。また人的交流として、岐阜放送の記者・アナウンサーが出向などで移籍することもある。その例として伊藤伸久(ひだ・高山総局長)、神保絵利子(記者)などである。

最終面に掲載されているテレビ番組面は、NHK岐阜放送局総合、NHK名古屋放送局教育、名古屋テレビ放送(メ~テレ NBN)、中部日本放送(CBC)、東海テレビ放送(THK)、岐阜放送(ぎふチャン GBS)、中京テレビ放送(CTV)をフルサイズで掲載。NHK BS1、NHK BSプレミアム、WOWOWプライムとテレビ愛知をハーフサイズで掲載している。三重テレビ放送については、岐阜日日新聞時代には休刊日に県内版に載せられるだけであったが、その後最終面に小サイズで紹介されるようになり、さらにラジオ・デジタル衛星放送面(中面)へと移動した(デジタル7chの表記は2006年になってから表記される)。テレビ朝日系(ANN)のメ~テレが一番左端に掲載されているのは、当初当社(当時は岐阜日日新聞)完全子会社のラジオ岐阜(岐阜放送の前身)のテレビ放送がテレビ朝日の前身・日本教育テレビ(NET)の系列局として開局する予定だったからという説を唱える者もいる(現在朝日系のメ~テレは当時、日本テレビ系メインのNET系とのクロスネットだった)。

また、名古屋放送が日本テレビ系メインだったことから、関東のチャンネル順に合わせたという説を唱える者もいる。いずれも根拠はない。8月の第1土曜日に行われる長良川全国花火大会を含め岐阜県内17会場の花火大会を主催している(一連の大会を「岐阜新聞花火シリーズ」と称している)。そのほか、3月初めに梅まつりモデル撮影会、3月下旬にぎふ長良川マラソン、4月初めにゴルフ岐阜オープンクラシック、10月下旬に水都おおがきハーフマラソンなど、数多くの催しに力を入れている。(地元のぎふチャンや隣の愛知県のNHK名古屋放送局などのニュースで流していることもある)いわゆる「岐阜新聞テスト」。中学3年を対象としたテストを年に4回実施する。入試レベル、またはそれ以上というハイレベルな内容で、入試にあたっての自分の実力を計る最大の選考基準となる。全国の中にある実力・学力テストの中でも屈指の難しさを誇ることでも有名である。平成19年度第1回よりネット会員限定閲覧システム「志望校 ナビゲーション システム」を開始。

すべての高校、学科・コースの志望者数や平均点がわかり、志望校を判断することができる。岐阜エフエム放送株式会社は、岐阜県を放送対象地域とするFMラジオ放送局である。

2011年4月4日月曜日

プロ野球・サッカー公式戦等開催時は

岐阜駅発 名鉄岐阜駅経由の臨時バス運行あり。自家用車用の駐車場は施設内及び周辺にわずかしかなく、大きなイベントやプロ野球の開催時は駐車は困難となる。このため県と主催者は岐阜市一日市場地内に臨時駐車場を設け、多客時にはシャトルバスによるパークアンドライドを行っている。東海北陸自動車道 岐阜各務原ICより車で約40分。岐阜アリーナは、岐阜県岐阜市にある県立の総合体育施設(体育館)、多目的ホールである。スポーツだけでなくコンサート、イベントなどにも使用されている。管理運営団体は、平成21年4月より指定管理者としてドルフィン株式会社が行っている。2011年4月より3年間の契約でスポーツ用品販売の「ヒマラヤ」が命名権を獲得し、「ヒマラヤアリーナ」の愛称が付けられることとなり、愛称は同年5月16日から使用が開始された。元々は、1965年(昭和40年)、岐阜県で開催された国民体育大会(岐阜国体)の施設として、岐阜県民体育館として開設された施設である。

長らく体育施設として使用されていたが、2000年(平成12年)、電動式可動ステージや音響照明施設を新設し、多目的ホールとしての機能を待たせる。この際、岐阜アリーナに改称する。岐阜県庁舎の東、約300mにある。岐阜県グリーンスタジアムは、岐阜県各務原市にある球技場。岐阜県及び各務原市が運営管理する。2000年(平成12年)7月8日完成。各務原市に岐阜県グリーンスタジアムが設置されたのには、各務原市がホッケーに関わりが深い事からである。各務原市にある岐阜県立岐阜女子商業高等学校。ホッケー部は国体やインターハイの優勝や上位の常連であり、東海女子大学(現東海学院大学)もホッケーが盛んである。岐阜マリンスポーツセンターは、三重県津市(旧安芸郡河芸町)にある岐阜県が運営する公共施設。内陸県である岐阜県が、県民が海と触れ合うことができる施設として、三重県に開設した施設である。マリンレクリエーションの普及を行うと共に海でのマナーや海難事故を防ぐための安全講習、また、マリンスポーツの競技力向上を図るための拠点施設である。

また、三重県の観光の宿泊施設でもある。本館は鉄筋コンクリート造2階建(1階延床面積1,177.41m²、2階延床面積741.43m²)。 1階には、ロビー、ラウンジ、ミーティングルーム、トレーニングルームの他、ヨット60艇が収納できる艇庫と船具庫がある。2階には、事務室、宿泊室(2人部屋2室、4人部屋2室、8人部屋6室)、食堂、浴室などがある。屋外には野積場(54艇)がある。 伊勢湾に面し、カヌー、サーフィン、ウィンドサーフィン、ヨット等のマリンスポーツ。砂浜を利用してのビーチバレー、砂遊び。干潟を利用した生物観察、干潟観察、野鳥観察ができる。岐阜県の施設であるが、岐阜県民以外の人も利用可能。三重県は企業研修、自治体研修、各種講習会、合宿などに使用している。指定管理者制度が導入されており、管理・運営は、株式会社マリーナ河芸が行っている。岐阜県の財政再建の影響もあり、2010年度中に休廃止が計画されている(2010年2月19日、岐阜県発表の行財政改革アクションプラン案による)。

岐阜県郷土工芸品とは、「岐阜県郷土工芸品指定要綱」に基づき、岐阜県が指定する工芸品である。48品目(2009年6月時点)が指定されている。国の伝統的工芸品に指定される要件を整えていない岐阜県内の工芸品を紹介するために指定した工芸品で、次の1から3までの要件に該当し、4又は5のいずれかの要件に該当するものを指定している。岐阜提灯は、岐阜県岐阜市特産の提灯。岐阜の伝統工芸の一つである。細骨に美濃和紙等の薄紙を張り、通常は長卵形の吊提灯である。薄紙には美しい模様が施されている。手作業が多く、技術として「張り」(細骨に薄紙を張る)、「擦り込み」(薄紙に模様を版画の要領で摺る)、「盛り上げ」(提灯の木地の部分に白胡粉で盛り上った模様を施す)がある。盆灯籠にも使うため盆提灯とも云う。岐阜提灯が作られ始めた時期には諸説あり、慶長年間(1596年~1615年)と慶安3年(1650年)の説がある。当初は尾張藩への献上品であった。宝暦年間(1751年~1763年):現在の形態の岐阜提灯が登場。

文政年間(1818年~1829年):彩色を施した提灯が登場。1995年(平成7年)4月5日:通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定される。2006年(平成18年)10月:地域団体商標に登録される。岐阜和傘は、岐阜県岐阜市特産の和傘。岐阜の伝統工芸の一つである。岐阜市加納地区が主な生産地で、傘を広げた干し場の光景が岐阜和傘の町を実感させている。1992年(平成4年)3月30日に岐阜県郷土工芸品に指定されている。日本各地の和傘で有名な産地の多くは、部品供給などで岐阜からの支援が無ければ継続が困難な状態である。岐阜公園は岐阜市の金華山山麓にある都市公園。管理は岐阜市。 園内・近隣の施設としては、岐阜城・金華山、金華山ロープウェー、岐阜市歴史博物館、加藤栄三・東一記念美術館、名和昆虫博物館、円空美術館がある。1992年に岐阜公園周辺地区が「都市景観100選」に、2006年には「日本の歴史公園100選」に選ばれている。公園の再整備に伴い、岐阜を天下取りの礎とした信長をイメージして作られた庭園。

長良川流域から調達した石を約1,000t使用した石庭。巨石を用いた通路や石垣、水路礎石などが保存整備されている。当時、御殿へと通じる道の両側に石を積んだ塀がめぐらされ、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれるところに信長の御殿があった。進取の気性に富み、「バサラ」と評された派手好みの信長の性格を現すかのように、御殿は当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた四層の華麗なものであった。信長居館跡の入り口。階段を登っていくと信長居館跡がある。織田信長が行った楽市楽座にちなんだ土産屋街。公園の中心からやや離れたところにあり、長良川までごくわずかの所に位置する庭園で、岐阜市と中国・杭州市との友好提携10周年を記念して造営された。中国情緒溢れるデザインの門や土塀、庭園などがある。板垣退助が自由党党首として全国遊説中の1882年4月6日、当時この場所にあった施設で暴漢に襲われたこと(岐阜事件)を史実として残すため有志が建設したもの。

ロープウェイ乗り場のすぐ下。現在のものは1955年に再建されたもので、当初のものとは右腕の状態など一部異なっている。

2011年4月3日日曜日

第2開架閲覧室

岐阜県に関する図書や雑誌、外国語図書、全国の新聞がある。世界分布図センター - 分布図、地図、衛星写真など約13万点がある。明治維新から太平洋戦争終結までの日本陸軍参謀本部陸地測量部作成の外邦図を公開している。ハイビジョンシアター - 150インチの大画面でハイビジョン放送を鑑賞することが出来る。研修室 - 読書、文化関係の研修会などに限り使用することが出来る。岐阜県博物館は、岐阜県関市にある県営の博物館である。岐阜県百年公園の園内にある。1971年(昭和46年)、岐阜県置県100周年記念事業として計画され、1976年(昭和51年)5月5日開業する。岐阜県博物館の入り口手前には、長さ約90m、傾斜約25度という急坂があり、高齢者や障害者には不便であった。そこで、2002年(平成14年)に無料のスロープカーを設置し、高齢者、障害者も安心して入館できるようになった。東海道本線・高山本線岐阜駅、又は名古屋鉄道名古屋本線・各務原線名鉄岐阜駅より、岐阜バス岐阜上之保線(せき東山行き、上之保川合行きなど)、千疋・大平台タウン線(大平台タウン行き)、八幡線(郡上八幡行き)などで「小屋名」バス停下車。

徒歩15分。岐阜県歴史資料館は、岐阜県岐阜市にある岐阜県の公文書館である。岐阜公園の南側、金華山ドライブウェイ夕陽丘入口手前に位置する。本館は不破郡垂井町岩手に現存する竹中氏陣屋門を模した戦国時代城郭風建築で、短冊状の狭間が特徴的な建物である。岐阜県の歴史や民俗、行政に関する資料を収集・保存ならびに研究し、定期的に所蔵史料紹介展を館内展示にて行うなどの企画展示も行っている。収蔵資料には、岐阜との関係が深い織田信長関連の文書など古文書等歴史資料約38万点をはじめする貴重な資料が数多くある。資料は簡単な手続き後、館内で自由に閲覧出来るが、館外貸し出しは行っていない。しかし、別途手続きを行えば資料の持参機材による撮影、図書の複写が可能である。(一部資料を除く)指定管理者制度により財団法人岐阜県教育文化財団が管理運営を行っている。岐阜県県政資料館は、岐阜県山県市にあった、明治以降の岐阜県政についての資料を保存ならびに展示する資料館である。

財団法人岐阜県教育文化財団が管理運営していた。岐阜県の行財政改革に伴い、2009年3月をもって廃止された。岐阜県関係の発行物や写真、メダルなどの資料のほとんどが蓄積されているため、各地で展示会が行われる場合はここから資料が貸し出されていた。常設展示のほか、定期的な企画展示も行われていた。エントランスホール - 電気時計や美濃和紙を編んで作ったステージ衣装が目を引くエントランス。エントランスを入ると、旧県庁舎(現岐阜総合庁舎)で1951年から使用していて現在でも時を刻んでいる電気時計や2003年に行われた花の都ぎふ祭り「花華コンサート」で加藤登紀子と原田真二が着用した美濃和紙を編んで作ったステージ衣装が展示されていた。県民ふれあい会館は、岐阜県岐阜市にある岐阜県の公共施設。県民のふれあいと交流の促進を図ること、および県民文化の発展に寄与することを目的とする。2011年(平成23年)4月より、岐阜県が行ったネーミングライツ・パートナーの公募により愛称「ふれあい福寿会館」を使用することになった。命名権者は財団法人田口福寿会。

岐阜県庁舎の西、約500mにある。正式名称は岐阜県県民ふれあい会館。収容人数708人の本格的な中規模音楽ホール。形状はシューボックス型でホール内のどこに居ても音響バランスが良く、全国トップクラスの音響特性を備えている。ルネッサンス調のデザインを施した内装は木材を多用している。正面には日本初のスペイン様式のパイプオルガン(オルガン建造家、辻宏氏が作製したスペイン様式のオルガンを組み入れたコンサートオルガン)を設置。未来会館は、岐阜県岐阜市にあった岐阜県が管理運営していた文化普及支援施設である。正式名称は岐阜県県民文化ホール未来会館。芸術文化全体における普及や活動を「長良川ホール」、「ハイビジョンホール」を中心に支援していた。また幼児のための遊びの広場「Chico Chika(チコチカ)」を備え遊びを通じた子供の体と心のバランスのとれた成長を考えたり、1階のカフェでは地元サッカークラブFC岐阜オフィシャルグッズを販売中など身近な文化活動にも力を入れていた。

館内では、ワイヤレスブロードバンドを導入し、来場者にインターネットを提供していた。指定管理者制度に則り、2006年4月より、ADOTOPS未来会館運営共同体が運営していた。金華山や岐阜の夜景をバック望みパーティー、講演会、披露宴までもが行えるホール。エントランスには杉山惚ニ作「星のヴィーナス'94」が飾られていた。戦国時代の岐阜県の偉人、古田織部の紹介、織部賞の紹介、織部賞受賞者の展示を行うコーナーが常設してあった。岐阜メモリアルセンターは、岐阜県岐阜市にあるスポーツ施設等を有する公園。岐阜県県営の都市公園である。施設は岐阜県が所有し、岐阜県イベント・スポーツ振興事業団が運営管理を行っている。市街地北側、長良川右岸側に位置する運動公園。名称は「センター」だが、県が運営する都市公園のひとつである。現在メモリアルセンターがある岐阜市長良福光にはかつて1965年に開催された第20回岐阜国体に合わせ、岐阜県営グラウンドとして岐阜県営野球場などのスポーツ施設が整備され、また数百m離れたところには岐阜刑務所があった。

しかしいずれも老朽化し、更に刑務所も市内の別の場所(岐阜市則松地区)へ移転したため、県はこれら施設を撤去した後、新たにスポーツ施設を建設して運動公園として整備する方針を決めた。敷地は一旦更地化された後、1988年に開催された「ぎふ中部未来博」のメイン会場として使用され、未来博終了後からメモリアルセンターの整備事業が本格的に始まり、1991年に長良川競技場など一部施設が竣工し開場。その後も整備が進められ、数年後に全施設が完成した。敷地内にはぎふ中部未来博の記念塔である岡本太郎作の「未来を拓く塔」や、高橋尚子の金メダル獲得を讃えゴールシーンを模した「高橋尚子像」など競技施設以外の見所も多い。2041年10月25日に観測される金環日食の中心線がこの公園を通過する。

2011年4月2日土曜日

昔のミス岐阜、ミス長良川にあたる

『ぎふ長良川メイツ』が、岐阜市のイメージアップと観光PRに務めている。JR岐阜駅の南側ほど近いところにある。15世紀、文安の時代に土岐の長臣斎藤帯刀左衛門利永により立てられた。10月には天満まつりがある。他の天満宮同様、菅原道真を祀る。 岐阜市中心部にある神社。金大神の鎮座は成務天皇の時代(西暦135年)と伝える。境内には古墳「賀夫良城」があり物部氏である物部臣賀夫良命がこの地に赴任し国府に定め、金大神を崇拝されたと伝えられている。現在、主祭神は、渟熨斗姫命。商売繁盛のご利益があるとして市民から信仰を集めている。近年、神社境内の整備も進み、正月・祭礼日には多くの人が訪れ、11月23日の新嘗祭には「こがねさんの秋まつり」を行い、市民に親しまれている。金公園と文化センターは隣接している。岐阜市中心部にある神社。夫婦和合、子供の神社として知られている。祭神の市隼雄命は五十瓊敷入彦命と渟熨斗姫命の子である。岐阜市東部に鎮座する神社。

火薬や花火を仕込んだ神輿を、裸男が火の粉を浴びつつ担ぐ豪壮な「手力の火祭」で有名。金華山の麓にある寺院。この寺院には大仏堂があり、そこにある大仏(岐阜大仏)は奈良・鎌倉と並び日本三大仏の一つと言われている。大仏は1832年(天保3年)に作られたもので、かご大仏としては日本一の大きさを誇る。岐阜市鏡島にある臨済宗の古刹で、738年に行基菩薩が開山した。通称名の「鏡島弘法」の方が一般に知られている。十一面千手観音像をはじめ文化財を多数所有している。岐阜市長良雄総にある高野山真言宗の寺で、寺伝によれば746年に聖武天皇の勅願により建立された。岐阜市内唯一の国宝「金銅獅子唐草紋鉢」をはじめ岐阜県・岐阜市指定の各種の文化財を所有している。岐阜市まちなか博士認定試験 - 岐阜市のご当地検定。日本の音風景100選:長良川の鵜飼。市外局番は058。郵便番号の上3桁は500・501・502。ナンバープレートは岐阜ナンバーで、岐阜市のほか、美濃地方で使われている。

第20回国民体育大会は、1965年(昭和40年)に岐阜県を中心として行われた。岐阜県で初めて行われた国体。夏季大会が9月19日~23日(会場:3市町村)に、秋季大会が10月25日~29日(会場:16市町村)に行われた。選手、役員など参加者数は夏季大会約4,000人、秋季大会約16,500人。秋季大会の開会式では7色の風船1万個と200発の花火が放たれた。なお岐阜県は内陸県であるため、ヨット競技は愛知県蒲郡市で行なわれた。前年に東京オリンピックが行われ、オリンピック選手が多く出場することもあり注目を集めた。炬火採火式は全国的に有名な東京大学東京天文台コロナ観測所のある乗鞍山頂(3,026m)で10月21日、県立斐太高校生高松典子さんの手によって集光鏡により太陽光線から採火され行われた。山頂は前日からの小雪も降り止み、白銀まばゆい雪上で紺碧の空より降り注ぐ太陽光線から採火された炬火は平湯峠まで運ばれ、当時の岐阜県知事である松野幸泰知事によって点火式が行われ、14市町村を経て開会式場である岐阜県総合運動場陸上競技場まで全行程198.3km、128区間を4日間にわたり1,536人により開会式会場までリレーされた。

最終炬火ランナーは当時岐阜高校の3年生だった古田肇(第51代 岐阜県知事)である。岐阜県では、県民170万人(昭和40年当時)で大会を盛り上げる為に「伸びゆく県民運動」として7つの県民運動が推進され行われていた。選手など全員の宿泊所の確保が出来ない地域では、一般家庭に泊まる民宿が行われた。宿泊費 は1泊3食付800円(選手・監督以外の参加者は1,200円)で、米代は別途104円必要だった。岐阜国体閉幕後の11月6日~7日に第1回全国身体障害者スポーツ大会が開催された。岐阜県美術館は、岐阜県が唯一運営している公立の美術館である。1982年(昭和57年)11月開館。岐阜県出身者やゆかりのある画家(大橋翠石、川合玉堂など)・芸術家の作品を多数収蔵する一方、オディロン・ルドンの作品「眼を閉じて」、「あずまやの下の二人の女」など他多数収蔵していることでも有名である。展示は常設展示と企画展示があり、企画展示については年に6回程度行われている。

館内にはハイビジョンシアターが設置してあり、美しい画像で色々な番組を観ることができる。ハイビジョンシアターは近年新設される美術館では定番になっているが、ここでは早くから導入し注目を集めた。庭内には幾多のモニュメントが展示してあり、庭内散策も面白い。また、ミュージアムショップでは書籍やポストカードなどの他に、地元作家の小品や雑貨の販売も行っており、特徴的な品揃えとなっている。レストランは2007年6月27日に改装が行われ、「桂翠館ミュージアム」がオープンした。展覧会にちなんだ特別メニューが用意されることもある。JR岐阜駅(JR岐阜駅バスターミナル6番のりば)、または名古屋鉄道名鉄岐阜駅(名鉄岐阜のりば1番のりば)から岐阜バス「加野団地線」市橋行きで「県美術館」下車徒歩約1分。西岐阜駅よりふれあいバス(岐阜県が運行するコミュニティバス 無料)で「県図書館・美術館」下車徒歩1分。西岐阜駅より西ぎふ・くるくるバス(岐阜市が運行するコミュニティバス 100円)で「県図書館・美術館」下車徒歩1分。

岐阜県現代陶芸美術館は、岐阜県多治見市にある岐阜県運営の公立美術館。セラミックパークMINOの中核施設として2002年10月12日開館した。近現代の陶芸を対象としており、19世紀末以降の国内外における個人作家の陶芸作品、実用陶磁器、産業陶磁器を収集・展示している。岐阜県図書館は、岐阜県岐阜市宇佐にある岐阜県立の図書館である。以前は、岐阜公園内にあった。県図書館にある本を県内市町村図書館(公民館図書室等も含む)を通じて借りることが可能である。また、県図書館で直接借りた本を遠隔地の県内市町村図書館で返却することも可能である。2003年には、インターネットで貸出しを申込み、提携したコンビニエンスストアの店頭で受取り・返却ができるサービスを始めたが、合計420円の手数料がかかるなどの理由から利用が伸びず、2006年3月末で廃止された。

2011年4月1日金曜日

産経新聞は

大阪本社発行の早版(6版)を輸送しており、締め切り時間(18時)の関係で紙面内容が近畿・中四国・北陸・九州地域とは1日遅れでの掲載となる場合がある。宅配は中日新聞販売店を通して委託販売となっている。なお、岐阜市内の一部コンビニエンスストアでは北近畿や三重県、中四国で発行される13版が販売されている。岐阜市は、岐阜県の中南部に位置する都市で、岐阜県の県庁所在地である。旧稲葉郡・山県郡・本巣郡・羽島郡。国から中核市に指定されている。戦国時代には金華山の麓の旧岐阜町が斎藤道三や織田信長の城下町として盛え、江戸時代には南部の旧加納町が中山道加納宿の宿場町、加納藩の城下町として盛えた。現在の岐阜市はこの2つの街が核となって出来上がっているものである。岐阜県の南部に位置し、濃尾平野の北端に当たる。北部には山林を有し、南部には市街地が広がっている。また市内を横切るように、北東から南西にかけて長良川が流れており、市の大部分は長良川と支流の扇状地と自然堤防地帯にあたる。

この長良川は日本三大清流の一つと言われ、中流域が1985年(昭和60年)に「名水百選」に、また1998年(平成10年)に「日本の水浴場55選」に、2001年(平成13年)に「日本の水浴場88選」に選定されている。一方、扇状地の長良川は典型的な天井川で、市の中心部より川の水面の方が常に高く、大雨の際には洪水の危険が伴う。織田信長が、美濃国を攻略した際に、稲葉山の城下の井ノ口を岐阜と改めたとするのが定説だが、異論も一部にある。また、中山道の宿場町でもあり岐阜市南部に位置する加納宿は、今でもその面影を残している。市町村合併に伴い人口は増えているが、実質の人口は減少傾向。合併には積極的で、岐阜市広域合併協議では羽島市、笠松町、岐南町、柳津町、北方町が参加し、50万の中核都市を目指したが、岐阜市椿洞での産廃不法投棄問題に端を発した市行政の怠慢、合併後の市議会議席の調整などに失敗。次々と離脱し、柳津町のみとの合併となった。衆議院の小選挙区では、旧岐阜市部分は岐阜1区。

旧柳津町部分は各務原市、羽島市、瑞穂市、本巣市、山県市、関市、美濃市、羽島郡、本巣郡とともに岐阜3区。規模の大きな繊維問屋街が街を支えて来たが、近年は安い輸入品の台頭や、名古屋や東京への流通の集中などで衰退し、再開発に迫られてきている。近年、中心市街地の空洞化が激しく、近鉄百貨店や新岐阜百貨店、岐阜パルコと中心市街地の大型商業施設が次々と閉店。大規模な駐車場を備えた郊外の乱立する大型商業施設に商業の中心が移っている。2006年(平成18年)には10年で中心市街地の人口が2割減少し、休日に柳ヶ瀬を訪れる人は6割減少したと報告されている。又、岐阜・名古屋間のアクセス時間の短縮(JRで最速20分、朝ラッシュ時25分)で、高級品などを名古屋で購入する傾向も生まれ始めた。中心商店街の柳ヶ瀬も、経営者の高齢化を迎えている。岐阜駅前に、岐阜シティ・タワー43を建設するなど、駅前立地での逆襲も、わずかながらある。柳ヶ瀬地区で唯一の百貨店。

高島屋の子会社である(株)岐阜高島屋が運営。2005年(平成17年)に大規模なリニューアル工事を実施した。リニューアル後の業績は好調で、約160億円にまで落ち込んだ年商を約200億円程度にまで回復させている(2006年)。岐阜市郊外や各務原市、本巣市、大垣市などに相次いで大型商業施設が建設され、わざわざ電車を使ったり駐車料金を払ってまで市街地で買い物をしない傾向が強まり、岐阜市の駅周辺および中心市街地の集客力が弱った。岐阜市が自動車優遇の道路政策を行ったのも、郊外は自動車にとって便利になる一方で、中心部はますます不便になる結果を招いた。岐阜市内は以前から地元消費傾向が強かったが、近年は、市街地の空洞化と高年齢化が進み消費力が減少。これが地場産業の低迷、市街地の経済沈下に拍車を掛けるという悪循環を生み出している。名古屋にもパルコや高島屋が出来て、テナント数の規模なども岐阜の店舗より多いため、名古屋から岐阜に来る客のパターンが次第に逆の岐阜から名古屋へ変わった。

岐阜市には、岐阜市交通事業部(岐阜市バス)が2005年(平成17年)に採算悪化のため解体、路線と使用していたバスの一部は岐阜乗合自動車に譲渡したため、市営バスなるものが存在しない。そのため、事実上この一社が岐阜市の公共交通機関を運営していることとなっている。岐阜市の中心市街地であり、オフィスや商業施設が立ち並ぶエリアとなっている。現在は空洞化が著しいが、下落を続けていた地価も下げ止まり、ゆるやかながら回復の兆しも見えている。近年、再開発事業が展開されている岐阜駅前は鉄道アクセスのしやすさなど利便性が見直されオフィスビルや高層マンションの建設が進められている。これは岐阜市郊外から、インフラが整備され利便性の高い岐阜市中心部への都心回帰をにらんだものともいえ、岐阜駅周辺の活気を回復させる試金石となっている。特に2007年(平成19年)3月からは付近の道路の自動車通行規制が解除され、これが地元にとって活性化に繋がるものと期待されている。

柳ヶ瀬でも再開発の動きが見られ、高齢化社会を迎える今後にあたり中心市街地の動きがこれからも注目される。金華山、岐阜城、長良川温泉などの観光資源を抱える風光明媚なエリアである。金華山の袂にある伊奈波神社から米屋町周辺では大正年間の旧家屋や洋館などが建ち並び、長良川鵜飼いの鵜飼い船乗り込み口周辺の玉井町筋(湊町、玉井町、元浜町)は米屋町同様に旧家屋が建ち並ぶ。岐阜の大動脈でもある国道21号線がエリアの東西を貫いており、各務原市との境界付近に東海北陸自動車道岐阜各務原インターチェンジが設置されている。ロードサイドには各種郊外型店舗が林立し、カラフルタウン岐阜など、郊外型の大型商業施設も立地している。岐阜県庁舎、岐阜県警察本部、福祉・農業会館など県関連の官公庁のほか、岐阜県美術館、岐阜県図書館、県民ふれあい会館などの文化施設もこのエリアに所在する。濃尾平野の北端で標高の低い山が点在し、山を切り開いた団地が数多く見られる。

長良川河畔の岐阜メモリアルセンターには長良川陸上競技場や長良川球場など各種スポーツ施設があり、スポーツのイベント会場として広く利用されている。このエリアには畜産センターや岐阜ファミリーパークなどの大型の公園、岐阜大学、岐阜運転者講習センター、岐阜刑務所など大型の公共施設が多い。マーサ21(ジャスコ岐阜店)など大型商業施設も立地している。また、東海環状自動車道岐阜インターチェンジの設置が予定されている。