原則として従来の大字名に「町」を付した名称となった。例外として「丁目」の区域は従来通りの名称、旧字体漢字を用いている大字は新字体の町名に変更、従来の福井市域にある町名と重複する大字には旧町名・地区名または方角を冠した町名となっている。なお、美山町役場(現・美山総合支所)所在地の同町朝谷島では、地名に「美山」の文字を残す地元合意が行なわれた結果、福井市美山町に変更となった。旧町村議会の議員は合併時に失職。市議会では従来からの議員任期と同じ2007年5月まで定数3増、編入した各地区を選挙区とし、2006年3月5日にそれぞれ1名を選出する増員選挙を実施(市全域において任期満了の迫る市長の選挙、及び合併前の市域において欠員のあった市議会議員の補欠選挙も同日実施)。次期選挙(2007年4月22日実施)で議員定数を合併前の36に戻し、市全域を一選挙区とした。郊外立地の商業施設が目立つが、1977年11月市街地北部に開業した施設、ショッピングタウンピアは大手スーパーマーケットジャスコと、70を超える地元専門店が同居する福井方式と呼ばれ、その後の全国各地の大型商業施設設立に影響を与えた。
なお同施設は近隣に同種の施設が誕生するなどして業績が悪化、2003年5月に閉鎖となっている。百貨店は駅前の西武福井店(旧だるまや西武)のみである。福井市には市職員だけで結成した和太鼓団体『不死鳥太鼓』が存在している。本格的に太鼓チーム化されたのは、地元の和太鼓奏者である高山正行を指導者に招いてからであり、以降、「福井フェニックスまつり」「100万人のためのマーチング」など活動の場が大いに広がった。2003年、市がごみ分別周知のため制作し福井ケーブルテレビで放送された啓発ビデオの主人公、リサイクル戦隊ワケルンジャーがローカルヒーローとして地域のみならず全国報道に採り上げられるなど大きな反響を呼んだ。福井市民の歌はダ・カーポの歌う「わたしのまちときめきのまち」。市政100周年を記念して1989年に制作された。毎週日曜にFM福井で放送される「福井市政ガイド」ではBGMとして流れる。ゴミ収集車もこの音楽を流しながら現れるので市民にとってはメロディーだけは馴染み深い。
また、17時の時報ミュージックサイレンとしての使用されている。千葉県松戸市の生活ゴミを委託で処分していた。現在も委託を受けているかどうかは不明。福井市の市外局番は0776となっており、市内及びあわら市、坂井市、吉田郡永平寺町との通話には市外局番不要、かつ市内通話料金適用。また美山地区の市外局番は福井市への編入時点では07797であったが、2007年4月1日に市内他地区などが使用してきた0776へ統合され、それまで市内通話料金であった大野市・勝山市(市外局番0779)との通話は隣接区域通話料金適用となった。現時点では市内局番の3桁化の予定はないが、NTTによれば、3桁化された場合は(077)6xx-ooooと、一桁繰り上がる形となる。市外局番077は滋賀県の大津市、草津市等の京都近郊で使用されているが、MAが異なるため、3桁化されても滋賀県の077エリアとの間での通話はこれまで通り077からダイヤルすることとなる。隣の丹生郡は基本的に0778だったが、後に福井市と合併する清水町と越廼村だけはなぜか福井市と同じ0776だった。
福井藩は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。 越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の松平(結城)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称する事がある。翌年の寛永元年(1624年)4月、越後高田藩で別家25万9千石を与えられていた忠直弟(秀康の次男)の松平忠昌が50万石で福井藩の主な家臣(幕府に選ばれた百余名を主とする)、藩領を継承する。忠直の嫡男松平光長には越後高田26万石が与えられ、高田藩を立藩した。「7月の忠昌入部ののち、居城周辺の街・北ノ荘は福居(後に福井)と名を改められる。またこのとき、越前国は複数の藩に分割されることになる。その後、福井藩は支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らし、貞享3年(1686年)第6代藩主綱昌は発狂を理由に強制隠居処分され、前藩主昌親が領地半減の上で再襲(松平吉品)した。
吉品が就封の際、領地宛行状が城地名の福井侍従となり、松平忠昌が大坂の役で使った片鎌槍の大名行列の際の使用を禁じられた。また、この時藩邸の格式も下がり、江戸城の詰間が将軍家の親族が詰める大廊下から、外様の国持大名と同じ大広間へ異動した。ただしこの間もこれ以降も歴代藩主は当代将軍の偏諱の一字を拝領する「特別な家」であり続けた。享保6年(1721年)には支藩松岡藩(福井県吉田郡永平寺町)の再併合により30万石に復し、文政2年(1819年)にさらに2万石を加増されるなど、徐々に家格は回復した。内政では領地の激減や複数回の天災に見舞われたことなどにより、藩財政を大いに逼迫させ、度重なる一揆に見舞われて困難を極めた。田安徳川家から養子に入った幕末の藩主慶永(春嶽)は、橋本左内らを登用し、また熊本藩から横井小楠を招聘して藩政改革をおこなった。安政の大獄により隠居を余儀なくされたが、謹慎解除後は公武合体派の重鎮として幕政に参与している。
福井藩領は明治4年(1871年)廃藩置県により福井県ついで足羽県となり、さらに敦賀県を経て石川県に併合されるがのち旧越前および若狭が福井県として分立した際にその中心部となった。福井地震は、1948年(昭和23年)6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震ともいう。震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃した都市直下型地震。規模はM7.1。