福井県を主な放送対象地域とする民間放送ラジオ局である。通称はFM福井。JFN系列。とりわけ福井新聞・福井テレビとの関係が強い。開局当初は、福井テレビから社員が出向で派遣されていた。『FM福井ニュース』で福井新聞ニュースを配信する回数は11:55と17:55の1日2回。また、FM福井ホームページでは福井新聞ニュースのオンデマンド配信を実施している。『FM福井ニュース』では、福井新聞のほかに読売新聞・朝日新聞・中日新聞のニュースを配信している。また、土曜・日曜は『JFNニュース』のみを放送している。北陸地方で一番早く開局した民間のFMラジオ放送局であり、平日の自社制作番組の比率が高い。特に、金曜日においては、12時間近くも自社制作番組が連続して放送されている。2009年4月の番組改編で日中の自社制作番組が増えたが、『OH! HAPPY MORNING』(2009年4月から2011年3月までは非ネット)などのJFNC制作番組が打ち切りになったり、非ネットの番組(『デイリーフライヤー』など)があるなど独自編成色も強い。
石川県・滋賀県・京都府の一部でも受信可能。FM福井ではポッドキャスト配信の実施を早くから導入するだけでなく、様々なサイトを展開するなどのインターネットを積極的に活用している。2010年4月からはTwitterも始めている。CMにおいては、ACジャパンのCMが『FM福井ニュース』でスポンサーが付かない場合フィラーとして多く放送されている。また、様々なアーティストが「いい音楽に出会える場所、それがFM福井」とナレーションするCMも放送される(最近では西野カナ、AKB48の高橋みなみ、KAT-TUNの亀梨和也などのバージョンが放送されている)。日曜日に放送されている『福井市政ガイド』では、ダ・カーポが歌う「わたしのまち ときめきのまち」がBGMとして流れている。福井県立歴史博物館は、福井県福井市大宮にある博物館。1984年(昭和59年)に福井県立博物館として開館。当初は総合博物館として自然、歴史、民俗、産業に関する展示などを行なっていたが、自然分野に関する展示は2000年(平成12年)に開館した福井県立恐竜博物館に移管している。
2002年4月から休館して展示内容の全てを入れ替え、2003年(平成15年)3月12日に改めて開館した。『ふくいのモノとモノづくり』をテーマにした「歴史ゾーン」や「トピックゾーン」による展示のほか、博物館の収蔵庫をイメージした展示を行ない資料の整理や調査などの様子を見ることが出来る「オープン収蔵庫」や、映像資料などが見られる情報ライブラリーを備える。福井県立恐竜博物館は、福井県勝山市村岡町にある恐竜を主たるテーマとした自然史博物館である。展示内容の量・質共に極めて高く、日本における恐竜博物館の代表といっても過言ではない。かつて勝山市にある中生代の地層から恐竜の全身骨格が発掘されたことがきっかけとなり、この地に恐竜博物館を建設しようという気運が高まった。限られた予算の地方都市にあって、「恐竜」専門の博物館が必要なのかどうかと県議会では激論がかわされたすえ、当地に博物館がつくられることが決定された。2000年夏に長尾山総合公園内で開催された恐竜エキスポふくい2000のメイン会場として、同年7月に開館した。
敷地面積は約30,000m²で日本最大級。建築設計は黒川紀章。広大な無柱空間には、所狭しと恐竜骨格や化石・標本、ジオラマ、復元模型などが展示されており、恐竜をはじめとする古生物の世界を堪能することができる。人々を魅了する壮大な建築様式や、化石発掘調査の多大なる成果ゆえんに、世界でも数少ない恐竜博物館を代表してカナダにあるロイヤル・ティレル古生物学博物館、中国にある自貢恐竜博物館と並んで、世界三大恐竜博物館と称される。現在でも毎年化石の発掘作業とクリーニング作業が継続して行われている。また、恐竜出前授業など学校教育活動をしており、教育に対しても非常に熱心な博物館といえる。2000年11月23日にはカナダのロイヤル・ティレル古生物学博物館と、2004年3月12日には中華人民共和国の浙江自然博物館と、2010年3月17日にはアメリカ合衆国のカーネギー自然史博物館と姉妹館提携を結んだ。2007年4月26日、同県勝山市長尾山総合公園内の「どきどき恐竜発掘ランド」に運び込まれていた発掘体験用の岩石の中から恐竜の皮膚の痕の化石が発見された。
これは日本国内では初めてのことで、世界でも30例ほどしか知られてない。同年10月、同園の園長から県立恐竜博物館に、化石のようなものが見つかったと連絡があり、同博物館が調査していた。この化石は約1億2千万年前(白亜紀)の手取層群と呼ばれる地層から採取されたもので、幅約23cm、長さ約24cm、厚さ約7cmの細粒砂岩の表面の6割ほどに、細かな多角形や円形などが多数集まった模様がみられる。湿った地面に恐竜が触れた際についた痕が型となって固まり、化石となって残ったと考えられている。エドモントサウルスやパラサウロロフスなど、ハドロサウルス科の植物食恐竜の皮膚に類似しているが、特定はされていない。福井城は、福井県福井市に一部が現存する城である。形式は平城。本丸と二の丸の縄張りは徳川家康によるものとされる。江戸時代には福井藩主越前松平家の居城、城下町として栄える。織田信長配下の軍勢によって朝倉氏が滅亡した後、明智光秀が北ノ庄城に入城し戦後処理にあたったと記録されるが、当時この地に城が存在したかは判然としない。
存在したとしても、簡易な前線基地か砦程度の物であったと推定されている。後、柴田氏が天正3年(1575年)に築城した「柴田氏北ノ庄城」と、後、その跡地に結城氏によって慶長6年(1601年)に築城または改築を受けた「結城氏北ノ庄城(後に福井城に改名)」とがあるため、北ノ庄城は大きく2期に分けられている。現在見られる福井城の遺構は第2期のものである。柴田氏北ノ庄城と結城氏北ノ庄城との関係について、柴田氏のものを結城氏が改築したもの、柴田氏のものの跡に結城氏によってまったく別の城として築かれたものという解釈がある。現状では前者の調査がほとんど進んでいないため不明である。そのため前者と後者を区別しないこともある。1600年に家康の次男である結城秀康が68万石で北ノ庄に入封されると、翌1601年より天下普請による築城を開始する。1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され、名実共に御家門の居城にふさわしい城となるよう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の歳月をかけて完成する。
完成した城は2km四方に及んだ。5重の水堀が囲む本丸には4重5階の天守が建てられていたが1669年に焼失し、以後藩財政の悪化や幕府への配慮などから再建されることはなかった。幕府から再建の許可が下りなかったとの説あり。