2011年4月7日木曜日

静岡県は

太平洋に面する、日本の県の一つ。県庁所在地は静岡市。2011年現在、都道府県別人口は第10位である。また静岡市と浜松市の2つの政令指定都市、及び2つの特例市を有する。なお、静岡県より人口の多い都道府県は東京都を除き全て政令指定都市を有している。北部には富士山や赤石山脈といった3,000m級の山々がそびえ、ここからいくつか河川が流れている。東部は火山が多く、西部には台地が見られる。静岡県内には糸魚川静岡構造線が走っており、安倍川がその南端に当たる。したがって、地質構造は安倍川を境にして県の東西で全く異なっている。県の形は、金魚の形に似ているともいわれている。名目上の行政区分で、東日本、中部地方、広域関東圏などに区分されている。また、名古屋圏や関東地方からも独立した地域として、「静岡(県)地方」とされるケースや、静岡県のみで東海地方とされるケースも存在する。しかし、糸魚川静岡構造線を挟んで東側と西側に広い面積を占めているため、行政やその他諸々の区分では、これらとは違う区分に属することもある。とりわけ、関東地方と中部地方の両方に扱われることがある。

特に、熱海市や御殿場市は長野県軽井沢町や福島県いわき市などとともに関東地方の一部として扱われることが多い。静岡県は、歴史的・文化的経緯や人口・面積の比率・経済等を勘案して、東日本に分類される事が多い。しかし、日本の経済の重心が首都圏に偏っている事から、特に経済分野で相対的に弱い西日本を補完する為に、稀に西日本に分類される事もある。NTTの東西分割の際、静岡県がどちらに編入されるか問題になった事もあり、本来なら東日本に組み込むべきなのに、名古屋と同じNTT東海のエリアだった事や東西で利用者数や資産規模のバランスを均一化する為か、NTT西日本のエリアに編入された程でもある。静岡県(知事)は、中部圏知事会議と関東地方知事会の両方に所属している。中央省庁や民間企業の管轄も、中部地方(東海地方)とする機関と関東地方とする機関が混在している。この場合、中央省庁の出先機関の所在地が、関東は東京に置かれ、中部は名古屋に置かれている場合が多い。

静岡県全域を関東に入れる企業もあれば、(2) 静岡県全域を愛知県西部などと一緒で東海や中部に入れる企業もあり、(3) さらには静岡県全域で東海とする企業もある。(4) 特定の川で静岡県を分割する企業もあるなど、エリア区分は各社ごとに異なる。企業のエリア区分は、それぞれの監督官庁のエリア区分を反映している物が多いが、基本的に静岡県が地域分類される場合、大まかに分けて次の4分類のいずれかが見られる。次に多いのがこの分類である。また、大井川以西(旧浜松県)のみを「中部(東海)」として、大井川以東を「関東」とする例も最近では見受けられ、静岡市から新幹線で東京や横浜に通勤・通学する人間も意外と多い。日本ビクター、ダイア建設など、神奈川県全域と静岡県全域を一緒にするエリア区分も少数ながら存在する。この枠組みでは、横浜を業務拠点として、静岡県はその管轄下となるケースが多い。なお、コカ・コーラセントラルジャパンは、山梨県・神奈川県・静岡県の3県全域(旧称:富士コカ・コーラボトリング営業エリア)を富士地区統括としている。

1923〜1930年の間、全国高等学校野球選手権大会の地方大会として神静大会が行われていた。 静岡県労働金庫や日本金融新聞社のように、首都圏や名古屋圏とも別にして、静岡県を単独のエリアとするエリア区分も存在する。この場合、静岡県が「東海」と区分されることがある(例えば、東海工業地域《静岡県》と中京工業地帯《愛知県・三重県・なお、ユニーのように、静岡県全域と山梨県で「静岡ブロック」「山静(甲静)ブロック」とするエリア区分も存在する。静岡県を巡る道州制の区割り案について、地方制度調査会は、9道州案では中部州、11道州案や13道州案では東海州に含まれるとしている。また、国土交通省の広域地方計画では、静岡県は中部圏に含まれるとしている。ただ西部を除く地元住民の多くは道州制で関東入りを望んでおり、特に東部では国政への発言力増大のため、静岡県東部 政令指定都市構想が出される等動きが活発であり、今後の動向が注目される。旧石器時代には1960年~62年、静岡県西部の浜北市根堅(現浜松市浜北区根堅)において、約1万4000年前に生息の浜北人の人骨が発見された。

2002年9月、科学的な測定法で確認された。浜北人骨は20歳代の女性で身長143センチと考えられている。人骨の発見以来、県内での調査例が増加し、今では200カ所近くに達している。場所は、天竜川左岸の磐田原台地西端一帯、沼津市の背後の愛鷹山南麓、箱根山西麓の3カ所に密集している。縄文時代の遺跡総数は約2000カ所を超える。縄文草創期の遺跡は少ないが、伊豆の国市大仁町仲道A遺跡で土器が出土している。早期になると撚糸文(よりいともん)や押型文(おしがたもん)の土器が集落跡から出土している。その後(約7000~8000年前)愛鷹山南麓から箱根山西麓・伊豆半島にかけて集落が急増し、県中部にかけても広がっていく。縄文前期には、遺跡数が減少するが、前期末から中期・後期前半までになると、遺跡数も増加し、県内の縄文最盛期を迎える。東部では集落遺跡・住居の形と構造・土器・土偶・石棒・石斧などの様相が類似・発達した文化が伊豆半島から掛川市付近まで広がっている。

それに対して、西部の遠江平野では、近畿・瀬戸内地域の土器が流入し、伊那谷系の土器なども分布し、東部とは様相を異にしている。また、矢尻として多く使用された石鏃の原料の石材も県内西部の天竜川付近までは、畿内の二上山産出のサヌカイトや下呂石などが大量に使用されているのに対し、東部では八ヶ岳や神津島の黒曜石が主流である。遠隔地との交易・交流が盛んに行われていたことが分かる。縄文後期後半になると遺跡数が、東部では激減し、中・西部では緩減する。一方では儀式用の石器が普及し出す。1958年~60年、静岡県西部の三ヶ日町只木(現浜松市北区三ヶ日町只木)で、約7500~9500年前に生息の三ヶ日人の住んでいた遺跡が発見されている。また、約4000~6000年前のものとされる全国的に見ても大規模な集落跡である千居遺跡が静岡県東部の上条地区(現富士宮市)で確認されている。弥生時代には、静岡市駿河区登呂で、弥生時代の水田、住居跡などが発見されている。