2011年4月24日日曜日

北北西-南南東方向の左横ズレで

従来から把握されていた断層の活動ではなく、200m以上の厚い堆積層に埋もれて地表に現れていない活断層が活動した。当時、地表には断続的に福井県坂井郡芦原町北部から、金津町、坂井町、丸岡町、松岡町を通り福井市南東部付近まで続く総延長約25kmの地割れが生じ、のちに福井地震断層と命名された。後年の調査により福井平野東縁断層帯の西部の活動が関与している事が判明している。上下方向の移動量は、1000年で0.1-0.2m程度と推定されているが、活動間隔は不明である。発生当時戦後最多となる死者を出し、大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)などと並ぶ、日本の災害史上最悪クラスの震災となった。2011年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ戦後3番目の規模の震災である。死者のほとんどが、当時あわせて人口20万余りにすぎなかった福井市・坂井郡(現坂井市)に集中しており、その被害率(死者は人口の1%超)は甚大なものであった。

福井平野では、全壊率が60%を超えるなど被害は甚大だった。九頭竜川の堆積物により福井平野の地盤が弱いことと、福井市中心部では人口が密集しており、戦後復興期、建物はバラックが多く、不安定な構造だったためにかなりの建物が倒壊している。震源地直近の丸岡城(丸岡町)も倒壊した。大和百貨店福井店も1階が潰れて全壊する被害を受け、福井地震の象徴として有名になったが、一方で隣接していた福井銀行は全く被害を受けなかった。地中の基礎となる鉄骨の差が、両者の被害に対照的な違いを生んだとも言える。福井銀行は地下10mまで90cm間隔で500本の杭をびっしりと打ってあった。頭取が元技術者であり強固に建てさせていたという。発生時刻が16時過ぎで、夕食の支度をしている家庭が多かったため、福井市中心部では、24件の火災が発生した。地震のため、道路が通行不能となったり、水道が破損したことにより、消火に時間を要したため被害が拡大した。

農業地区でもほぼ全ての家屋が倒壊したものの、住民が屋外で農作業をしていたためか死者は少なかった。この地震による混乱に対処するため、福井市で戦後初の公安条例である「災害時公安維持に関する条例」が制定された。福井地震を契機に、気象庁は震度階級に「震度7(激震)」を新たに設定した。地震から50周年となる1998年6月26日、27日、28日の3日間にわたり、福井市で市主催の世界震災都市会議が開かれ、福井地震の教訓を元に各都市が防災について話し合った。建築基準法に地域別の設計震度を導入。1945年の福井大空襲、1948年の福井地震、九頭竜川堤防決壊と、短い期間に3度も福井市は壊滅的な被害を受けてその度に復興を遂げてきた。このことから、福井市は「不死鳥の町」を合言葉にしている。『福井青春物語』は、森川陽一郎監督による日本映画。2005年5月1日映画祭公開、同年10月22日ロードショー公開。2007年11月14日に著作権フリー宣言された。ご当地映画。

全キャスト、全スタッフ、全ロケ地が福井県内という福井尽くしの青春映画。登場人物の全員がコテコテの福井弁を話す為、共通語の字幕が付いている。福井を代表する食べ物のいくつかが登場するが、女子高生が水ようかんを食べながら町を歩いているシーンなど、明らかに大げさな表現もある。福井に住む津田寛治は映画監督を夢見て、友人の小野寺昭憲、穴田行央と共に、自主製作映画を撮っていた。 ある日、津田に転機が訪れる。同じ福井出身で有名俳優の山本ヒロシが津田の映画に出演してくれることが決まったのだ。友人は皆協力的で、は音楽を、服屋オーナーの辻本は衣装を提供すると言ってくれている。しかし津田は、なかなか脚本が書けない。やがて福井で本当にいい映画が撮れるのかという疑問を抱き始める。そんなとき、津田は祖父に怪しげな呪文をかけられ、タイムスリップする。──高校時代、人生の分岐点が訪れる。彼女だった和歌子は女優になるために上京したが、津田は悩んだ挙句、小野寺と穴田と共に福井に残って映画を続けることを決めていた。

タイムスリップによって人生の分岐点を目の当たりにした津田は、人生をやり直したいという願望から、和歌子と共に上京する道を選ぶ。 上京から数年が経ったが、津田の映画は成功していなかった。山本ヒロシを主演にした映画の企画書を持って山本の事務所を訪れたが、山本に会うことはできなかった。 その頃、福井に残っていた小野寺と穴田の映画に、山本が出演することが決まっていた。津田は福井に帰り、自分の企画を小野寺たちに提案するが、かつての親友たちとは確執が生まれていた。──ここで津田は目が覚めた。祖父に呪文をかけられた時に眠っていて、タイムスリップは夢の中の出来事だった。すぐに津田は脚本を書き始めた。 台詞を福井弁にして完成した脚本を見た山本ヒロシは驚いた。ある日の夜、福井駅前。津田の映画の撮影現場に、山本の姿があり、多くのエキストラが集まっていた。有名俳優の演技に熱狂する人々。歓声はいつまでも続いた。常備消防の広域化を目的に、福井市、足羽郡美山町及び丹生郡越廼村・清水町の1市2町1村で、一部事務組合の福井地区消防組合を設立。

福井市消防本部は組合消防本部に移行。南消防署を新設、従来の消防署を中消防署に改称。中消防署併設であった消防本部を同署隣接地に移転。東消防署を新設。臨海消防署を新設し、現在の4消防署体制となる。東消防署隣接地に福井市総合防災センター完成、消防本部を同所に移転。美山町・越廼村・清水町の福井市編入に伴い、福井地区消防組合を編入前日限りで解散し、福井市は直轄する消防組織として福井市消防局を設置。管轄区域は旧組合の区域と同一であり、市は内部組織及び資産をそのまま継承した。福井空港は、福井県坂井市春江町江留中に位置する地方管理空港である。定期便の発着はないが、自家用プロペラ機、グライダーなどの発着が行われている。年間着陸回数は5,000回程度。福井県警察のヘリコプター「くずりゅう」、県の防災ヘリ「Blue Arrow」の基地にもなっている。1964年に工事が開始され、1966年開港した。全日本空輸がフォッカー F27を投入(1972年4月1日からはYS-11)し、東京国際空港(羽田)線を1日1~2便就航させた。

しかし、1973年に近隣の小松空港がジェット化された影響で乗客数が減少。滑走路が短く機体を大型化できない福井空港の発着便は採算が悪化し、1974年12月1日からは名古屋乗継となり、1976年3月限りで定期航路が廃止された。これに対し、1985年、福井県が滑走路の延長を2,000 mに拡張する計画を決定。調査が行われるものの、地元住民からの強硬な反対運動に遭う。1986年の第5次空港整備5箇年計画に福井空港が組み入れられ、滑走路延長へ向けた動きもあったが、依然住民の反対は根強く、具体的な取り組みができないまま計画は事実上放置された。一方で小松空港へは空港連絡バスの整備が行われ、アクセス改善が進んだ。